PART 2 永遠の都ローマ その2

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大聖堂のドームが見えてきた!
壁のラインから向こうがヴァチカンの「領土」、手前はイタリア領

 
 

 




アウグストゥス帝のご利益ないし我田引水で存在する831日(土)、午前中のターゲットはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂Basilica di San Pietro)です。ここはとてつもない大物ですし、夏休み最後の土曜で好天ということもあってものすごい人出が予想されますから、早めを期して9時過ぎにはやってきました。地下鉄A線のオッタヴィアーノ(Ottaviano)で降りて徒歩5分くらい。このルートだと「側面」からの入域になりますが、まあいいでしょう。すでに結構な人の流れになっています。路面電車の折り返し場の先で大聖堂のドームが見えてきました。総合病院か大学のような白亜の建物群があり、そこから先のエリアがヴァチカン市国Status Civitatis Vaticanae)です、


面積0.44km2、世界最小の主権国家として知られるヴァチカンですが、歴史的にみれば教皇領こそがイタリア中部の本体だったはずで、あとから来た近代国家イタリア王国が勝手に(というのがヴァチカン側の主張)接収してしまい、のちに妥協してサン・ピエトロ大聖堂の敷地だけが主権国家として保全されたという経緯があります。本来は主権国家とか国境といった近代的な概念とは相容れないはずですが、そこがぎりぎりの妥協点だったのでしょう。しかしカトリックは「教団」としては世界最大で、地球全体に12億人以上の信徒がいますから、最小というのはあくまで面積の話。こんなに影響力のある国家もなかなかありませんよね。国境らしきものが見えないまま、いつの間にかヴァチカンに入国していたことになりますけれど、国際法的な国家には違いないので、「行ったことのある国」の数には入れておきましょう。37ヵ国目。

ローマ・カトリックの宗教的トップにしてヴァチカン市国の元首である地位を、ヴァチカンの公用語であるラテン語でPāpaといいます。私は各種授業やこの西欧あちらこちらでは、日本のカトリックの用法に準じてローマ教皇と表記してきました。日本の政府や多くのメディアは、教とか皇の字への潜在的な抵抗があるのか、ずっとローマ法王と呼んできて、駐日大使館もローマ法王庁大使館の表記のままでした。ただこの旅行のあと201911月にフランシスコ教皇が来日されたのを機に、政府・メディアとも一斉に「教皇」に切り替えています。これで世界史の教科書ともつながってよかったのではないかと思います。フランシスコ教皇は、前任のベネディクト16世が哲学者然とした方であるのに対し、見るからにアクティヴで、発信力というのを意識して活動しておられるようです。


 
 

 

 


サン・ピエトロは聖ペトロ(Petro)のイタリア語読み。ペテロと書く本も多いですが、ここでも日本のカトリックの表記に従っておきます。ペトロはイエス・キリストの最初の弟子とされる人物で、迫害され最期の迫ったイエスのことを「知りません」といってしまい激しく悔いる場面が印象的。史実かどうかは定かでないものの、イエスの復活後にローマにおもむいて布教し、ネロ帝の迫害を受けて殉教したとされます。使徒ペトロ殉教の地がこのあたりとされ、4世紀に最初の教会が設立されました。西ローマ帝国が滅亡し、いくつもの民族がイタリア中部にやってきますが統一権力を確立することはついになく、ビザンツ皇帝(=東ローマ皇帝。正教の実質トップでもある)から相対的に自立した宗教的権威が西欧で必要とされたこともあって、ローマ教会はその特別の地位を築いていくことになりました。その後、教皇権の浮き沈みがあって、なぜか世界史の入試問題では好まれるテーマなのですが(解釈の難しいところを出題するなよな)、イタリア・ルネサンスが爛熟をみせていた16世紀初頭に、教皇ユリウス2世が命じて新たな教会の建設がはじまりました。最初の設計者はブラマンテ(Bramante)。これはいい加減なものだったらしく、さまざまなアーチストやそのパトロンたちの駆け引きなどもあって建設が停滞したあと、かのミケランジェロ(Michelangelo)のもとでドームの設計などを根本的に見直し、ようやく進展をみました。1623年に落成。ミケランジェロってあまりに業績・作品が多いので、この大聖堂が最初に思い浮かぶこともあまりないのですが(オリジナルとはいえないし)、実際の社会的影響力を考えればこれこそが彼の最晩年の主要作品であったといってよいでしょう。


巨大なドームを正方形の堅固な柱で支える構造は
ミケランジェロの発案によるもの


欧州各地で見どころといえばだいたいキリスト教の教会ですので、私もこれまで数えきれないほどの聖堂やバシリカを参観してきました。個人的な心の拠りどころにもなっていたパリのノートルダム大聖堂(12世紀建造)が今春、失火と思われる火災で大きなダメージを負ってしまい、とてつもないショックを受けたばかりでもあります。この数日前に、痛々しいノートルダムの姿を対岸から見て、あらためて愕然としました。私はカトリックではないのですが、信者であれば悲しみはさらに痛切だったことでしょう。――カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂は、こうやって実際に見てみると、個々の信仰とか人生とは異次元の世界のような気がします。絢爛豪華で派手やかすぎる。規模が違いすぎる。1506年に建設が命じられ1623年に落成したわけですよね。こんなものを造ろうとするから、16世紀のキリスト教はあんなふうになり、こんなふうになってしまったのではないかと思ったのですが、この堂内で思案するのははばかられたので先送りしました。


 
 

 
 


今回は9時ころに来て入場の列に並んだので、さほどの時間はかからずに入ることができましたが、表を見るとかなり列が伸びています。やっぱりね。さてこのあとは大聖堂の象徴ともいえるドーム、クーポラCupola)に登ってみることにしましょう。これは何をおいてもぜひ、というものらしいです。いったん建物の外に出て裏手に回り、そこで拝観料(展望料?)のチケットを購入。すべて徒歩だと€6、途中までエレベータ利用だと€8です。見栄を張らずにエレベータにしておいてよかった。先にいいますと、エレベータを降りてからの登りがかなりハードなので、前半で体力を消耗するのはもったいないです!

エレベータを降りたところはドーム部分のすぐ下の踊り場でした。そこからは完全に自分の足で進むことになります。ぱっと見た感じではたいした高さでも距離でもなさそうなのにな。もともと保守・作業用の通路だったに違いなく、観光用のアトラクションとしては不向きでも仕方ないのでしょう。狭い通路、傾斜、階段、ドームに沿って斜めになっている回廊などヴァリエーションがすごく、しかもなかなか終わりません(汗)。8月末日ですからそもそも気温が高く、まぢで汗。子どもはこういうの楽しいだろうけど、スケールがおとな仕様なので完歩できるかどうかはわかりませんね。上りと下りはルートが分離されていて(シンメトリーになっている)すれ違うことはないのですが、ときどき「お先にどうぞ」といわれて、子ども連れや中高年のご夫婦などを追い抜きました。私も満50歳をすぎたところで、これくらいはどうにかなるが、しかし翌日のダメージは容易に予想できます(笑)。エレベータを降りた地点から15分ほどで、ようやくクーポラのてっぺん、展望台にたどり着きました。最後の最後で、半径70cmくらいのすさまじいらせん階段を登るようになっていて、膝が笑いはじめる寸前でしたよ。


展望台への最後のアプローチはこんなに急ならせん階段
安全ロープを握りながら1フロアぶんくらい登る


 

 




やっとたどり着いた展望台は、なるほどすばらしい眺望! 高さにして100m弱だそうですが、ヴァチカン自体が少し盛り上がった部分にあるのと、他に高い建物がないこともあって、ここだけが天空に突き刺さるような感じになっています。展望台はかなり狭くて、歩けるところの幅が1mもないくらいなのですが、360度まるまる動けるのでありがたい。とくに、一般人は立ち入ることのできない大聖堂や美術館以外のヴァチカン市国の領域を上から見られるのは興味深いですね。

先ほど入場の列に並んだのは、大聖堂の両側から円弧状に伸びた回廊部分でした。これもベルルーニの作。広場中央のオベリスクは、例によってエジプトから運ばせたものです(これはルネサンス期ではなく1世紀のローマ皇帝カリグラの仕業)。テヴェレ川周辺の深い緑色がいいアクセントになっています。ロンドンやパリと比べても、ローマの景観は緑の割合が多くていいですね。

 ヴァチカン政庁


展望台に10分くらいいました。いい眺めを満喫しているのはもちろんですが、足の疲れを休めるのと、心地よい微風を得て汗が引くのを待っているわけです。下りももちろん同じように各種の関門?を抜けていかなければなりませんが、全体の構造がわかっていますので「まだあるの?」というのはもうありません。エレベータ乗り場のある踊り場に戻ってくると、そこにお手洗い。ありがたく使わせていただきますが、建物の外に水道水が出ていて、みんな並んで水浴びをしていました。ありがたい設定なので私も顔全体に浴びておきます。タオルはあるが、この陽気なら瞬間で乾くことでしょう。同じ平面にスーヴェニア・ショップを兼ねたカフェもあって、ペットボトルのお水を購入しました。これもありがたい。


 
スイス衛兵

 


 
(上)ぎりぎりイタリア領内から撮影した大聖堂とサン・ピエトロ広場
(下)ヴァチカン市国/イタリア共和国の国境


下りのコースは大聖堂の堂内に降りてきておしまい。あらためてサン・ピエトロ大聖堂のスケールに驚かされます。ここに来たら隣のヴァチカン美術館こそ本命でしょというのが観光客の常識でしょうが、それこそいつ入場できるかもわからないほどの混雑で、見学カットにしましょう。古賀は芸術に弱くたいていのミュージアムをスルーしているという指摘はたぶん正解(汗)。

大聖堂の外に出てきたら、スイス衛兵Pontificia Cohors Helvetica / Päpstliche Schweizergarde)の交替式がおこなわれていました。かつての教皇領も現在のヴァチカン市国もひとつの「国家」ですので、当然軍事力をもっています。といっても国民国家ではないので徴兵するわけにもいかず、16世紀に常備軍を設けた際に、当時最強の兵士として重宝されていたスイス各州の傭兵を買い入れて編制したのがはじまりです。現在では、スイス国籍をもつ1930歳のカトリック信者の男子が採用されており、日常的にはドイツ語を話すのだそうです。16世紀の宗教戦争の時期には、スイスの各州(実際にはそれぞれが独立した「国家」で、総合防衛のために結んだ同盟confederationが今日の連邦になった)は新旧両派に分かれて抗争しました。オーストリアやドイツ・バイエルン州がほぼカトリック一色なのに対し、スイスは複雑で、そのあたりを重ねて考えるといろいろとわかってきます。現在のスイス衛兵はもちろん儀礼的な意味合いが強いのですが、カラフルな兵服をまとって立つ姿は絵になります。


「ヴァチカンからの手紙」は世界的に人気がある


それにしてもここは不思議な国家で、三要素のうちの「国民」が想定されていない(聖職者・教会関係者がヴァチカンで任務にあたる期間中だけパスポートが交付される)だけでなく、行政と宗務の境目もはっきりしません。公用語はラテン語ですが、そんな言語(古代ローマの言語で、初期近代にいたるまで法律や文書に用いる「書きことば」としての普遍語だった)を日常的に話すわけでもなくて、教皇や枢機卿たちはイタリア語で話しているそうです。通貨はユーロ。そう決めたわけではなく、ユーロ圏の中にあるので自動的にそうなっているということでしょう。域内自由通行を定めるEUの大原則、シェンゲン協定には参加していないが、出入国管理がなくイタリアと実質的に地続きのため、シェンゲン圏といっても過言ではない状況にあります。広場の周囲を見ると、イタリア側の警察車両が何台か出て警戒にあたっていますが、それらはヴァチカンのエリアには入らず、外側から見守っています。「イタリアではない」というのは確かなのでしょう。「社会の先生」としてはネタが増えて愉快ではあります。



 
コンチリアツィオーネ通り(「和解の道」)

 

 
在ヴァチカン中華民国大使館 風向きの関係で国旗は反転している
なお「教廷」とあるのはthe Holy See(教皇聖座)のことで、
正確にはヴァチカンという国家ではなく宗教組織に駐箚する在外公館という設定になる
日本の「在バチカン大使館」はこの裏手のほう、やはりイタリア領内にある

 


形ばかりの国境を越えて2時間ぶりくらいにイタリア領内に。サン・ピエトロ大聖堂の表参道というべき道がテヴェレ河畔に向けてまっすぐ伸びています。両側の歩道がしっかりというよりわざとらしいほどに整えられ、これは近代の造形だなとすぐにわかります。あとで調べると、1920年代にムッソリーニ(Benito Mussolini)が造らせた道路のようで、コンチリアツィオーネ通りVia della Conciliazione)という名。意味は「和解の道」です。1861年に成立したイタリア王国は、統一の実を上げるとともに国家としての正統性を古代文明に求める意味もあって1870年に教皇領を占領、接収してローマを首都にしました。ここは2000年にわたってカトリックの聖なる土地だと主張する教皇ピウス9世は大聖堂にこもって抵抗、後継者を含めてイタリア政府との対立がつづきました。国民のほとんどがカトリックであるイタリア政府もどうにかしたかったのですが、第一次大戦後にムッソリーニが政権を獲得してようやく事態が動き、1929年のラテラノ条約により、ヴァチカンの国家的独立というかたちで妥協が成立したわけです。ムッソリーニはこの件で大いに名声を獲得しました。「和解の道」といえば聞こえはいいけれど、こうして見ると、大聖堂を正面から突き刺すような感じもあって、軍門に下したという面は多分にあったのでしょうね。

その和解ロードをしばらく進むと、ある建物に見慣れた国旗。ああこれは、青天白日満地紅旗ではないですか。台湾などを実効支配する国家、中華民国(Republic of China)の駐ヴァチカン大使館のようです。この旗は横浜中華街ではおなじみですし、3週間前に訪れたニューヨークのチャイナ・タウンにも掲げられていました。日米とも台湾人のコミュニティというわけではなく、共産革命が起こる前に大陸を支配していた中華民国の流れということです。中華民国も中華人民共和国も、中国は1つであり、大陸(または台湾)を相手方が不当に占拠しているという立場ですので、他方を国家承認する国家とは国交をもちません。いまや中華人民共和国と商売しないという選択肢はなかなかなくて、日本を含む世界の大半の国が中華民国を承認せず、この旗の国は、実在するのに(三要素をすべて備えているのに)存在しないことにされているという状況にあります。中華民国を国家承認する数少ない国家のひとつがヴァチカン市国。小さな1国とはいえその外交的影響力は尋常でないほど大きく、中華民国にとっての「支え」となっているはずです。非常におもしろいことに、この大使館があるのはイタリア領内。イタリアは中華民国を承認しませんので、この図式を理解するには20世紀の世界史をまるごと学ぶ必要があるかも?

 

PART3へつづく

 

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