Les deux villes principaux en Irelande: Dublin et Belfast

 

PART7

 

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英国には北アイルランド関連のテロの脅威が存在しています。かつて北アイルランドにおいて英国からの分離等に向けて過激な闘争を行っていたアイルランド共和軍(IRA)は、2005年の武装闘争放棄宣言以降、組織的な犯罪活動及び準軍事的活動を停止しています。政治的にも、20075月以降、民主ユニオニスト党とシン・フェイン党が権限を分担する北アイルランド自治政府が継続しています。/一方、「IRA継続派」(CIRA)、「真のIRA」(RIRA)等の過激分派は、引き続きテロその他の犯罪行為に関与していますが、その攻撃対象は警察等の治安機関であり、活動地域は北アイルランドに限定されています。2012年にも、北アイルランドにおいて、治安機関やその職員を対象に爆弾事件や銃撃事件を敢行しました。同年12月には、ベルファスト市議会が市庁舎に毎日掲揚していた英国旗を特定の日に限定して掲揚するよう決定したことに端を発して、ロイヤリスト派市民による抗議デモが長引き、一部が暴徒化して、リパブリカン派市民や警備に当たる警察と衝突しました。警察は、この騒乱の背景にはロイヤリスト派過激派幹部が個人的に関与していると見ています。/こうした情勢を踏まえ、英国政府は、北アイルランドにおけるテロの脅威度を「深刻(SEVEREan attack is highly likely.5段階のテロ脅威度評価の上から2番目))」に位置付け、国民に警戒を呼びかけています。
(日本外務省「海外安全ホームページ」英国編、20130605日付 テロ・誘拐情勢)

この文章の前に、アル・カイーダなどイスラム原理主義の動向が述べられています。IRA(アイルランド共和軍)といっても、連合国内での優先順位はその次に下げられました。それでもたいていの日本人旅行者は事前にこの記述を読んだら尻込みしてしまうかもしれませんね。同じ記事で「英国」そのもの(基本的にはロンドンなどイングランドのことでしょうね)は上から2番目だったのが3番目に引き下げられたとあります。ということは、ロンドンも最近まで北アイルランド並みの警戒度だったことになる。ロンドンはテロのリスクがあるから行かないという話は、欧州旅行を志す向きからはまず出てきません。パリだろうとローマだろうと(もちろん東京だって)そのリスクは常に存在します。それくらいの話ではあるのですが、おそらく冷戦世代の認識はそこでストップしており、ポスト冷戦世代はそもそも(北)アイルランドに関心を寄せていないのかもしれない。

 
ベルファストの市街地をぐるぐる


ひとまずシティ・ホールを目標として歩いてきたので、この先の経路は考えておらず、よくやるようにテキトー歩きに切り替えます。これと思った道にどんどん入り込んでいくという方法ね。シティ・ホールから北に伸びる道路にはドネガル広場(Donegall Place)という名がついていて、どう見ても広場ではないのですが、類例は欧州でたびたび目撃してきたのでとくに違和感はありません。このあたりが商業的な意味での目抜きにあたるのでしょう。そのあと新宿とか大阪なんばの裏道みたいな歩行者専用道を何度か折れ曲がって、ハイ通り(High Street)というバス通りに出てきました。その道路に面していくつかの飲食店、それもチェーン店っぽいのとか軽食店みたいなのがありました。Brightsという看板を掲げた店は、レストランというよりデパート内の喫茶店みたいな雰囲気ですが、アルスター・フライUlster Fry)をall day出しますと書いてあります。かねて噂に聞いた北アイルランドの朝食ですが、歩いてきた道沿いにも「朝食を一日中」という表示があってちょっと笑えました。「朝食」を名物にしてしまうとそういう意味不明のことになるわけで、名古屋にも夜に「モーニング」を供する喫茶店がありますわな。

 
 「朝食」で昼食・・・


アルコール類がなく本当に純喫茶のようで、見ればファミリー客が多い。肉料理みたいなのもできるようだけど、初心を尊重して、アルスター・フライを注文しました。正午まで、つまり真に朝食タイムであれば₤4.25で、午後は₤5.25になるそうです。何でも“2008 Award Winning Ulster Fry”だそうで、「2008年度アルスター・フライ大会優勝作品」ということか? フランスやブリテンの朝食はよく知っているけど、フライってどんなものなのでしょうか? 熊谷のローカル・フードの「フライ」とはまさか関係ないだろうね? ――などというのは文章上のレトリックで、メニューに写真がちゃんと載っています。トーストみたいなやつ、ベーコン、ソーセージ、トマト、フライドエッグ、マッシュルームのソテー、正体不明の黒い物体(笑)。運ばれたフライを食べてみます。全体に塩辛いな〜。黒い物体はブラック・プティングでした。イングランドなどでも出ると聞いたことはあるけれど、私は初めて。ブタの血の入ったソーセージですよね。とはいっても焦げたようなにおいがあるだけで味つけも微妙、できそこないの甘くないクッキーみたいな舌ざわりだったぞ。トーストみたいなやつは後で表の看板で見るとsoda breadだそうだから、イースト菌ではなくソーダ(重曹)でふくらませたパンということか。味はねえ、韓国のチヂミそのものでしたよ。アルスター・フライの味覚や大会の選考基準はわかりませんので、そういうもんなんでしょうねというのが率直な感想ですが、話の種にはなったかなというくらいでした。はい。


スーベニア・ショップの品揃えはダブリンとほぼ同じ Tシャツには“Belfast Ireland”とあります(Northernではない)


さて、腹ごなしを兼ねて、すこし町外れのほうにも行ってみましょう。朝食みたいな昼食をとった店の前の道を西に進むと、何度か固有名詞が変わりますが、そのまま郊外のバイパスみたいな幅広の道路になります。にぎやかなところから300mも行かないうちに「町外れ」になりました。大型トラックなどもじゃんじゃん飛ばしています。西のほう、わりと手前に、まともな樹木がほとんどないような高地が見えるのがベルファストの景観なんですね。当たり前ですがダブリンとも全然違います。


 
カラフルなメッセージ壁画がウェスト・ベルファストの名物 Irish Political Toursは「政治的紛争の跡」をガイドつきで見学するものらしい


中心市街地から徒歩15分ほどでフォールス通り(Falls Road)に来ました。それこそ福岡の郊外を歩いているみたいな気分になります。駐車場つきのうどん屋さんとか、靴の流通センターがあるんじゃないかな。車はばんばん行き交うものの、歩行者はほとんどありません。お、これだ。高さ5mくらいのフェンスがずーっとつづく一角を発見しました。このあたりは分譲宅地のようで、同じような大きさと色・形の一戸建てが並んでいます。何やら住宅展示場のようでもあります。日本の都市郊外にもよく見かける景観なのだけど、やはりフェンスの存在が異様。知らない人が写真だけ見たら「この向こうには中学校があるんじゃないの?」なんて思うかもしれませんね。

このフェンスにつけられた名は、ピース・ラインPeace Line)。平和なラインです。ネーミング・センスのよさを褒めるべきか、その前提となった問題の構造を黙考するべきか。1960年代、長く政治的・経済的・社会的に優位に立っていたプロテスタントに対して、長く抑圧されてきたカトリックが本格的な異議申し立てをおこなうようになりました。アメリカの公民権運動に刺激されたものであったことは前述のとおりです。ただ、制度的な問題もあって選挙に勝って議会の主導権をにぎるという方法は、カトリックにとって現実的ではありませんでした。考えうるのは次の2つでしょう。デモ(示威行為)や対外・対内的な情報作戦など議会外での政治活動をおこなうか、もしくは暴力を伴う非合法的な手段をとるか。

 ピース・ラインは「普通の住宅地」の中にある


北アイルランドのカトリックといってもみんなが同じ方向を向いているわけではありません。デモに参加する者がいる一方で、武装闘争に走るラディカルな者たちもありました。もちろん静観する人たちもいました。いずれにしても、プロテスタント住民にとっては脅威となります。対外的な情報発信によって、北アイルランドにおけるプロテスタントの行為がまるで南アフリカ共和国のアパルトヘイトのようだというような認識が海外に広まりつつありました。「デモで迷惑な大声を上げ、私兵を募って暴力行為をしている連中(カトリック)が国際世論の同情を買うようなことがあってはならない。わが国の正義を貫かなければ」という、プロテスタント側の防衛機制にも似た排他精神もまた強まっていきます。先に述べたように、どちらが先にやったということではありません。カトリック、プロテスタントの双方が態度を硬化させ、私兵による暴力の応酬がはじまりました。IRA暫定派の「悪名」が世界中にとどろくようになったのは、彼らが北アイルランド領内にとどまらずブリテンにも進出してテロを仕掛けたからです。1979年にはインド総督なども務めた大物軍人でエリザベス2世の遠縁にあたるマウントバッテン卿を爆殺して、連合王国の人々を震撼させました。一方のプロテスタント側も、アルスター自由闘士団やアルスター義勇軍などが結成され、暴力行為をさかんに仕掛けました(『物語 アイルランドの歴史』、pp.253-255)。

プロテスタント系住民が多く住むウェスト・ベルファストにあって、フォールス通り周辺はカトリックが集住する地区でした。その時代に、暴力的事態の拡大を防ぐため築かれたのがピース・ラインでした。当事者感覚を欠いた一般論との批判は甘んじて受けますけれども、相互の不干渉というのは相互の不寛容と同義です。ベルファストであれどこであれ。

 

北アイルランドの自治当局はもちろんプロテスタントのユニオニストでしたが、責任ある立場ゆえ、あまりに一方的な弾圧を加えたり、率先して武力攻撃を仕掛けたりすることはできず、ときに南のアイルランド共和国政府と連絡して政治的な解決を図ろうと試みました。けれども、カトリックをいますぐ除去すべき危険要因だと深刻に考えるプロテスタント側にとって、そうした態度は生ぬるく感じられました。当然のことに、カトリック側にも受け入れられることはありません。そうしてもはや採るべき手立てを失った北アイルランドに対し、連合王国は自治(議会)の廃止を決め、直接統治への変更で臨むことになりました(1972年)。同じころ、パレスチナとイスラエルの問題もこじれにこじれて数度の戦争に発展しています。似た構図を見せていた北アイルランド問題は、民主主義の母国を自認する連合王国が抱えていた、実にとんでもない病巣になっていきました。私よりも上の世代で、北アイルランドと聞けば反射的にテロを思い出すというのは、ですから当然のことといえます。

フランスのド・ゴール大統領が退陣したあとの1973年、連合王国とアイルランド共和国の欧州共同体(EC)参加が決まりました。冷戦期における西側の経済同盟であったECは、やがて政治的・社会的な統合にも踏み出します。1985年には単一欧州議定書(Single European Act)を締結して、のちに欧州連合(EU)へと発展する足がかりを得ました。それぞれの「国」のアイデンティティや法制度を残しながら、統合し共存していく道を、欧州は選択しました(欧州楽観主義 Euro-optimismと揶揄されることもあります。しかし、欧州統合が数度にわたって悲惨な殺し合いをしたドイツとフランスをもう二度と戦わせないための枠組として構想されたという原点を軽視すべきではありません)。連合王国もアイルランド共和国も、そして北アイルランドも、その大きな文脈の中に位置づけなおされるようになってきました。1985年、サッチャー時代の連合王国政府はアイルランド共和国とのあいだに英愛合意(Anglo-Irish Agreement)を取り決めました。これのキモは、北アイルランド問題に関してアイルランド共和国政府の発言権を公式に認めた点です。北アイルランド領内のユニオニストからすれば「なぜ外国の政府がわが国の内政問題に口を出せるのか」となり、逆にナショナリストから見れば「もともと1922年にアイルランド島を分断したことが問題なのだから、全島の問題として、アイルランド共和国政府のかかわらないプロセスはありえない」となります。そのどうしようもない対立点は、ポスト冷戦、欧州統合に向けての時代の雰囲気やサッチャーの腕力のもとで、少しずつほどけてきました。

ユニオニストたちが最も懸念していたのは、アイルランド共和国がアルスターの6カウンティ(=北アイルランド)を「わが国固有の領土」であると主張していた点です。ナショナリズムに領土が絡むと、「半分にしよう」とか「共有しよう」といった手立てを取れないだけに、解決は困難になってしまいます。アイルランド共和国に6カウンティの領有権主張を取り下げさせたのは、それはもう時代の趨勢ということであったでしょう。冷戦が終わり、世界の一体化が進み、欧州統合が進展し、統一通貨ユーロの導入も目前に迫りました。そのころはパレスチナとイスラエルのオスロ合意も進展していました。そして、多年にわたる暴力の応酬に、人々がもう疲れきっていました。1997年、清新なイメージで登場した連合王国のトニー・ブレア首相は、出身母体の労働党をオープンな政党へと転換させ、化石のように硬直化していた公教育の抜本改革を成し遂げ、競争と包摂の組み合わせによる「第三の道」を模索しました。ダイアナ妃の離婚と国外での福祉活動を後押ししたのもブレア政権です(イラク戦争への参戦を強行するまでは私にとって希望の星でもありました)。1998410日、ブレアの連合王国政府とアイルランド共和国政府のあいだで聖金曜日合意Good Friday Agreement ベルファスト合意)が結ばれ、522日に北アイルランドとアイルランド共和国でその是非を問う住民投票が実施されて、それぞれ71%94%の賛成を得ました。

このベルファスト合意で、アイルランド共和国はアルスター6カウンティの領有権主張を放棄し、現状の国境を受け入れることになりました。しかし北アイルランド問題に関して、アイルランド共和国政府も当事者の1つであることが確認され、将来南北が統一されることがあるとすれば双方の住民の過半数が同意することが条件となるべきことが明記されました。北アイルランドには自治が復活し、新たな議会(Assembly of Northern Ireland)が設置されました。2005年、IRA暫定派(の主流派)は、武装解除とあらゆる軍事行動の停止を発表し、今日にいたっています。けさコノリー駅で見たポスターでは、ベルファストや北アイルランドの観光地としての価値が強調されていました。まだまだこれからでしょうけれど、私のような「外国人」がさほど身構えずに訪れることができるようになったことは喜ばしいことです。忌まわしき壁が、やがて純粋な観光スポット、歴史的遺物として語られる日が来ますように。

来た道を東に引き返し、1筋北側にあるショッピング・センターに入り込みました。キャッスル・コートCastle Court)というらしい。吹き抜け構造のモールっぽいSCは、最近では欧州のどこへ行っても見かけるようになりました。とくに何かほしいものがあるわけでもないので、ゆっくり一周する感じでぶらぶら。

 ウェスト・ベルファストにつづくキャッスル通り

 
キャッスル・コート


観光客っぽい人はほとんど見かけませんが、山も海も湖も近くにあるので、治安面での不安を払拭できれば観光都市として売り込めるように思います。市街地が現代化されすぎていて、ベルファストならではという部分がもう1つ感じられないのだけれど、よそ者がぜいたくをいうべきではないでしょうかね。けさまで滞在していたダブリンのほうは、町なかに歴史的な雰囲気をもつ建物が(半ば強引に)建っていたりするので、町の景観としておもしろかったですからねえ。

  
 
中心市街地のあれこれ  お持ち帰りは「イギリス英語」のtake awayでなくアメリカ式にto goなんですかね?


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時ころになって、非がかなり傾いてきました。歩き疲れたのもあって、どこかのカフェにでも入ろうかと思ったものの、夕食までの間合いがちょっと微妙なので、市内交通を試すのを兼ねてバスでいったん宿に戻ろうかな。シティ・ホールの周囲が長方形の広場の機能をもっていると書きましたが、市内バスのターミナルの役目も果たしているようです。「歩き方」によればクイーンズ大学方面へのバスもここから出るとあるので、行ってみたら、わかりやすい路線図が掲げてあったのですぐにわかりました。バス停の掲示を見ると、デイ・チケット(1日乗車券)が₤3.70とのこと。もう夕方だけど、これから宿に戻って、また都心に来て、帰るという1往復半(3 ways)でも元が取れそうです。5分ほど待ってやってきたダブルデッカーに乗り込み、女性運転士からチケットを購入しました。チケットといってもレシートのようなもので、JRの列車内で車掌が発券する特急券みたいなものです。バスのドアは1ヵ所だけで、乗るときに運賃を払うか、ICカードをタッチする方式。東京のバスのような自動式の運賃箱はありませんので、全員が乗り込むまでにけっこう時間がかかります。途中のバス停では、降りる人が全部出て行ってから乗る人が入ってくるので、これも時間がかかる。バスというのはそういうものだと認識されているのでしょう。私も別に急ぐ用事があるわけではありません。

 
ベルファスト・メトロ(市内バス)のチケットはレシート状(表/裏)

 
ダブルデッカーの上階に乗ると、かなり目線が高くなります


せっかくなので上階の最前部、「展望席」に座ってみました。一昨年暮れのベルリン以来だな。高所恐怖症だとかいうわりにはわざわざこの席に座ることが多いですね。例によって、スピードが上がると遠心力が働くような気がして落ち着きません。宿からシティ・ホールまでかなりの距離を歩いたつもりでいたけれど、何しろ一本道なので、バスに乗れば10分くらいで着いてしまいます。ちなみにこの市内バス網にはMetroの愛称がついています。メトロといっても地下鉄ではなく完全にバスのみ。運行しているのはトランスリンク(Translink)という事業体のようです。クイーンズ大学ではなくその次が近いのではないかと考え、停留所の名前を知らないので出口の近くで外を見ながら待機(笑)。マローン通り(Malone Road)というその停留所はホテルの目の前でした。

ウェリントン・パーク・ホテルの「いい部屋」で1時間ばかり昼寝。せっかくなので、ポットでお湯を沸かして紅茶でも飲むか。ダブリンの宿もそうでしたが、水が入る槽に金属の電熱棒がむき出しのまま入っていて直接的に温めるという、なかなか原始的な?構造。そのため1分くらいで沸騰してしまいます。この3日後に教育実習生の理科の模擬授業を指導するという仕事がさっそくあって、電流・電圧・抵抗の関係を整理するという単元。電気の流れづらさ(抵抗)こそがエネルギーであるという、慣れるまでは理解しにくい内容なのですが、このときの電熱ポットのことをすぐ思い出したおかげで、私自身はするする了解できました。中学生の学習内容なのだから当然か(汗)。

 マローン通り停留所付近


さて、再び中心市街地に出かけて、どこかで夕食をとることにしましょう。さきほど停留所でチェックした発車時刻に出てみても、なかなかバスは来ない。12分くらい遅れて、ようやくダブルデッカーが現れました。停留所で待っている人が10人くらいいるのですが、そんなものなのか、みなおとなしくしています。またまた「展望席」によじ登り、黄昏のベルファストを数分間ですが堪能しました(前面展望の様子はこちらをどうぞ)。

またしてもものの数分で中心部にやってきました。バスはグレート・ヴィクトリア通り(Great Victria Street)という南北の幹線道路を北上し、右折してシティ・ホールに向かいます。その右折の手前にEuropaというスケールの大きな名前の停留所があったので降りてみました。背の高いビルがいくつかあるビジネス&商業地区のようです。バス停の目の前にグレート・ノーザン・モール(Great Northern Mall)と表示されたエントランスがあります。これもショッピング・モールに違いないので入ってみよう。たしかにお店が並んでいますが、天井の低さといい店のちまちました感じといい、福岡の西鉄天神バスセンターのアプローチみたいだぞと思って進んだら、本当にバスセンターでした(笑)。ああそうだ、市内バス路線はシティ・ホールが中心になるが、長距離便などはヨーロッパ・バスセンター(Europa Buscentre)からだと「歩き方」に書いてあったのを思い出しました。アイルランドは、共和国も北も、鉄道よりバスのほうがユーティリティがあるようです。やっぱり九州と同じだ!

 
ヨーロッパ・バスセンター


そういえば、あす昼前にベルファスト・シティ空港に向かうのだけど、そのアクセスをまだ確認していませんでした。バスセンターの壁にある発車予定の電光表示を見たら、シティ空港行きがここから20分間隔くらいで出ているのがわかりました。市街地の南郊にあるホテルから北東にある空港に行くのはけっこう面倒で、タクシーに乗っちゃってもいいかななどと古賀流の基本に反するような発想になりかけていたので、ちょっと反省して(誰に咎められる話でもないが)、あすはバスでここまで来て空港バスに乗ることに決めました。

 

PART8へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。