Les deux villes principaux en Irelande: Dublin et Belfast

 

PART5

 

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ギネス・ストアハウスから西へ、来たときとは逆の方向に歩いていきます。工場地帯を抜け出すと小さな教会などもある住宅街、さらにルアス(トラム)の軌道が敷かれている緩やかな坂道を下ると、15分ほどでヒューストン駅Heuston Station)の前に出ました。おもちゃ箱みたいなかたちの駅舎があって、その前にルアスの電停とバス停があり、少なからぬ人が歩いています。この駅は日本でいえばJRにあたるアイルランド鉄道(Iarnród Éireann 社名に関してはアイルランド語が正規の表記)の拠点駅で、その本社もあります。島の南西部に向かう長距離列車はここが起点になります。ダブリンにはこのほか、宿に近いコノリー駅と右岸側のピアース駅(Peares Station)があり、ターミナル機能はヒューストンとコノリーが分け合っている由。

  ヒューストン駅前


今回ヒューストンから出る列車には用事がないのだけれど、一般人よりも鉄分の濃い人なのでのぞいていこう。エントランスから(というより電停・バス停から)1つの段差もなくコンコース、そしてホームへと進めるのは立派ですね。線路が4線ある行き止まり式のホームで、昨年までの東横線渋谷駅みたいなレイアウトとスケールだと思えばよい。欧州の鉄道駅は、無改札か、自分で刻印する改札機はあっても仕切りがないところが多いのですが、ここは日本と同じように自動改札機によって完全に仕切られています。この時間は列車の発着がないのかコンコースもホームも落ち着いていました。改札機の手前にはパン屋さん、ジューススタンド、キヨスクなどがあるものの駅そのものが小規模。その中にスーパーマックス(Supermac’s)という名前のハンバーガーショップがありました。チェーン店みたいだけどこんな名前つけていいの?(いま調べたらアイルランド共和国と北アイルランドにのみ展開するチェーンだそうです) 欧州に来てマクドナルドを使うのはどうも腰が引けるけれど、スーパーというのはおもしろいので試してみましょうか。チーズバーガー・ミールという€6.70のセットを注文。ミール(meal)という呼称は初めて目にしました。要するにポテトと飲み物のついた「セット」をこのへんではそう呼ぶらしいです(フランスではムニュ menu)。味は、何となくロッテリアっぽいけど(笑)、肉の部分が固くて焦げた感じなのとポテトがぶっといのがアイルランドらしいというか西欧らしい。駅のホームの隅には無料の清潔なお手洗いがあったので借りておきました。

 


ヒューストン駅前からルアスに乗車。さきほど往復券を買ってあるのでその効力を使います。といっても、電停にして3つ目のフォー・コーツで下車しました。リフィ川の左岸に建つ印象的な外観の建物は、ギネスの展望台からもよく見えました。フォー・コーツFour Courts)というのはその名が示すように「4つの裁判所」が入る、アイルランド共和国の司法の殿堂とのことです(いまも4裁判所が並存するのですが由来となった当時の機関とは異なります)。1922年の英愛条約締結に際して、連合王国の王を戴くアイルランド自由国の設立に反発した人たちは、ここを拠点として内戦を戦いました。連合王国の外相ウィンストン・チャーチルは、信頼関係を結んだアイルランド自由国の首相マイケル・コリンズへの支援を決め、自由国のカラーに塗りなおした戦闘機を送ります。政府軍は「昨日の敵」(相当長いあいだの敵だったはず!)のよこした戦闘機によってフォー・コーツを爆撃するという荒っぽい行為に踏み切りました(Pocket History of Ireland, p.56)。現在の建物は1932年に再建されたものです。

 
 フォー・コーツとリフィ川


リフィ川を渡って右岸側に移り、少し坂を登ると、クライスト・チャーチ大聖堂Christ Church Cathedral)があります。実はここ、位置的には昨日訪れたダブリン城の目の前にあり、その姿はすでに見ておりました。きょうは拝観料(€6)を納めて内部を見てみましょう。この時間に見学している人はせいぜい数人で、しーんという効果音が聞こえてきそうです。各言語のパンフが置かれていて、日本語のものもあったので、例によって英語版と対比しながら読んでみました。「ダブリンの中世都市中心部に位置するクライストチャーチ大聖堂は、この街で一番素晴らしい建物の一つです。北欧系デーン人によって建立され、アングロノルマン人によって再建され、現在の建物は1870年代の大修復によってビクトリア朝のゴシック様式の特徴と12世紀、13世紀の資材とが意外性のある調和をかもしだしています」(日本語版)。あれだね、medieval city of Dublinというのは中世都市中心部というよりは、中世のダブリン市の中心というニュアンスでしょう。非常に直訳的ですけれど、事の経緯がわかるでしょうか。建物は中世後期にたびたび上書きするように構築されてきたものなのだけど、のちに地滑りなどで崩落し、土台などを生かして19世紀に本格的な再建がおこなわれたという次第のようです。

 
  クライスト・チャーチ大聖堂


内陣を見ると、なるほどカトリックの大聖堂だなとよくわかるデザインとレイアウトです。しかし、この寺院がカトリックなのかというと、そうではありません。デーン人の王も、アングロ-ノルマン人も、ここに教会を営んだときには当然カトリックのものとして設立しました。しかし、イングランドのヘンリー8世が宗教改革をおこない、アイルランド王およびアイルランド国教会の首長になったことで、この教会も国教会への改宗を余儀なくされました。大聖堂(カテドラル)というのは司教座(これはカトリックでの漢字表記。国教会を含むプロテスタントでは教座)が置かれる寺院ですが、ややこしいことに、ここはカトリックとアイルランド国教会双方の司(主)教座が置かれていることになっています。とはいっても、天台宗と浄土宗が相乗りして運営する長野の善光寺のようなことではなくて、実態としてはヘンリー8世以来ずっと国教会の教会であるのに、ヴァチカンも「いまは暫定的に別の場所にあるが、クライスト・チャーチが本来のダブリン司教座だ」という立場をなお主張しているというわけです。ヘンリー8世が宗教改革をおこない、エリザベス1世がトリニティ・カレッジを創立して国教会優遇を露骨に示し、クロムウェルがカトリックというだけで抑圧する挙に出て、たしかにアイルランドの支配層は国教会へと改宗しましたが、大半の民衆はカトリックの信仰を維持しました。抑圧されつらい境遇になればこそ信仰が大事になるということなのかもしれません。中世由来のこの教会は、そんな社会の中でどのような役割を果たしたのか、なかなか想像をめぐらせることが難しい。ヴィクトリア朝で立派に再建され、「意外性のある調和をかもしだし」たというのも、時代を考えれば微妙なところですよね。

クリプト(地下聖堂)に下りると、暗い中に教会の歴史に関する解説や、さまざまなお宝があってなかなか興味深い。チャールズ1世とチャールズ2世の像は、かつて別の建物に掲げられていたものを移設したそうです。スチュアート朝の父子の王ですが2人のあいだにピューリタン革命がはさまります。「さらし台」と日本語で表現されているのは英語でstocksとあります。宗教裁判でクロになった人は、それに縛りつけられ、果物や野菜などを投げつけられる屈辱的な罰を受けたということです。そして、何といっても「ネコとネズミ」がここではいちばん有名。ネコがネズミを追いかけていたところ両者ともパイプオルガンの中に閉じ込められ、そこでミイラ化したものらしい。アメリカのアニメを地で行くような話ながら、結末と、そして何より実物が不気味。

 チャールズ1世、同2世の像

 
(左)中世の基礎が残る  (右)ネコとネズミ


教会の地下には、絵はがきなどを売る売店があるのはいいとしても、なぜかカフェがありました。こんな薄暗くて何かが出そうなところでお茶する気分になるもんかね。地上に戻って、今度は「ストロングボウの墓」(Strongbow’s Tomb)と呼ばれる墓、ならぬ棺を見学。実際にはこれが彼の墓ではないことは明らかだそうです。ストロングボウ(強弓)というのはリチャード・ド・クレア(Richard de Clare 113076年)のニックネーム。彼はウェールズにいたノルマン人で、群雄割拠の最後の時期にあったアイルランドに呼び込まれ、強大な軍事力をもってこの島最大の実力者になりえたのですが、この遠征を許可したイングランドのヘンリー2世に警戒され、最終的にはヘンリー2世の宗主権を認めるというかたちで収まりました。このときはまだ形式的な宗主権でしたが、これがイングランドの最初の介入になりました。このためストロングボウというのはアイルランド人には忘れられない固有名詞になっているらしいのです。パンフによると、「ダブリンの商談はストロングボーの墓石の前で行われる慣習だった」ため、本当の墓が去ったあとで代わりの(現存する)墓をしつらえた、と。意味不明だけどおもしろい。霊力みたいなものの関係かな?


「ストロングボウの墓」


次の見どころはやはりキリスト教関係で、クライスト・チャーチから5分くらい南に歩いたところにある聖パトリック大聖堂St.Patrick’s Cathedral)です。1つの都市というか国レベルの範囲に複数のカテドラルが存在するというのは非常識な感じがします。宗派が異なるというわけでもなく、双方ともカトリックから国教会に改宗した経緯をもちます。こちらもたいへん古い歴史をもっています。もともとは5世紀ころからキリスト教ではない宗教が営まれていた場所であり、ノルマン人が12世紀末に来着してカトリックの教会を建てたということです(“Saint Patricks’s Cathedral Dublin: The National Cathedral and Collegiate Church of Saint Patrick, Dublin” 同教会のパンフレット)。クライスト・チャーチとの競合問題は中世から近代まで政治性をはらみながら深刻でありつづけたようですが、教会組織のことなどに詳しくないので今回は立ち入りません。これほど近いところに、古くて立派な「大聖堂」が2つあるという事実がなかなかないことだと考えておきましょう。

  聖パトリック大聖堂


こちらの拝観料は€5.50でした。チケットデスクにはスマートな男性の係がいて、お国はどちらですかと訊ねてきます。日本からですというと、「コンニチハ、アリガトウ。それはようこそ。残念ながら日本語のパンフレットをご用意していないので、英語版でよろしいですか」と丁寧にいわれました。ライバル組織?のほうには日本語があるので、気になっているのかどうか。もとよりそれを期待しているわけではないので、「英語版と、フランス語のがあればそれもいただきたいのですが」と答えたら、今度は実にきれいなフランス語で「フランス語のパンフレットはそちらの左手にございますのでお取りください」と返ってきました。

 
 


建物自体のサイズはこの聖パトリックのほうが大きく、基本的な部分は13世紀前半の創建だそうですからだいたいパリのノートルダムと同じ時期ですね。側廊の部分などはあとから整備したように見えます。時計回りに見てまわるのが順路のようなのでそれに従うと、ボランティアのガイドさんらしき人が10人くらいのグループを案内しているのが2組ほどありました。英語を聞き取れないという以上に文脈がよくわからないので、それらしいところだけ聞き耳を立てておきます。何しろ長い歴史を有するだけに、中世から現代までさまざまな事物があって、話が混線してきます。アイルランド史の基本的なところを理解し、主要な登場人物を心得ていないと難しいかもしれません。碑文の中には19世紀のChina WarBirmah Warの戦没者を追悼するものもありました(ビルマの綴りはBurmaとするのが一般的ですが碑文ではそうなっていました)。前者は184042年のいわゆるアヘン戦争、後者は185255年の第二次英緬戦争のことです。いずれも私たちアジアの側からすると、大英帝国による侵略と伝統文化の破壊を象徴するような出来事なのだけど、その時期のアイルランドは連合王国の一部ですから当然「あっち側」だったということか。

たまたま2週間くらい前に根本敬『物語 ビルマの歴史』(中公新書、2014年)を非常に興味深く読んだところでした。「大東亜」戦争中に占領していた日本軍が去ったあと、宗主国である連合王国が復帰してくるわけですが、隣国インドのこともあり、しばらく間を置いてから英連邦内の国家として自立させる方針でした。しかし日本軍とときに協力し、ときに邪険にされながら独立への歩みをはじめていた人たちによってはそのプランは受け入れられない。独立派の首領アウンサン将軍(アウンサンスーチーの父で、独立を目前にして暗殺された)らの尽力で、ビルマは早期の独立を成し遂げます。これはアイルランド共和国が英連邦を離脱するのとほぼ同時のことでした。同書で紹介されたエピソードで印象深かったのは、当時のビルマ総督ドーマン-スミス(Reginald Dorman-Smith)がビルマとビルマ人への愛着と共感を示している書簡でした。「私はビルマ人が好きです。彼らは愛敬のある素朴な人々で、私の出身地、南アイルランドの人々に似ています。彼らはアイルランド人のようにロマンティックで、過去の王たちの栄光や軍の威力など、小さい時から自分の国の歴史上の栄光を聞かされながら育ちます。・・・ビルマ人の英国に対する忠誠心には問題があります。しかし、私は彼らが我々に忠誠心を抱く必然性があるのだろうかと、いつも自問しないではいられません。我々が彼らを征服し、彼らの国王を追放し、彼らの国旗を引きずりおろしてユニオン・ジャック(英国旗)を掲揚したのは真実なのです。・・・彼らは事実上、一度たりとも我々の支配を受け入れたことはないのです。そしてそれはアイルランドが英国の支配を拒絶してきたことと同じなのです」(前掲書、pp.234-125)。ドーマン-スミス総督は、連合王国の軍人外交官としてビルマに赴任した人物ですが、支配する側がこのようなスタンスで思考できるのはなかなかないことです。おそらくは、自分でも解決しえないアイデンティティの混乱と葛藤しながらの仕事だったことでしょう。

 
ジョナサン・スウィフトの墓所


聖パトリックの関係者として最も有名、というか日本人に知られているのは、首席司祭を務めたことがあるジョナサン・スウィフトJonathan Swift 16671745年)でしょう。『ガリバー旅行記』の著者です。彼はダブリン出身ですが、ロンドン(グレートブリテン連合王国の中枢)での栄達をかなり後まで望んでいたようで、それが果たされない中で故郷に戻りました。社会的な不成功はしばしば文学的な成功にもつながるので、後世のわれわれとしては結構なことだったかもしれません。ガリバーには独特のアイロニーがありますよね。恋人(諸説あり)のエスター・ジョンソンとともに、この教会に眠っています。

2つの大聖堂を立てつづけに見学して、大いに感心しました。ダブリンは欧州きっての「古都」でもあるんだな〜。何となく偏見込みで「欧州の田舎、辺境」のようなイメージを抱いていたのだけれど、歴史的・文化的な蓄積は相当なものですし、あるいは端っこゆえにクラシカルな雰囲気をとどめているのかもしれません。聖パトリックを去る際には、さきほどのスマートな係の人が「アリガトウ、サヨウナラ、オ・ルヴォワール」と日仏両語であいさつしてくれました。ありがとう、メルシー。

 ルアス・グリーンラインの起点 セント・スティーヴンス・グリーン電停

 


大聖堂の南縁を回り込むように進むと、10分くらいでセント・スティーヴンス・グリーンの南側に出ます。まる2日間かけて、市街地をぐるりと一周してきた感じになりますね。ここから先は知っているところなので、脳内ナヴィゲーションを作動させなくても歩けます。前日は北辺のあたりをなぞるだけだったので、今回は真ん中あたりを歩いてみました。ひきつづき好天に恵まれ、気温も134度くらいはありそうで冬の公園歩きには最良。ロンドンのハイド・パークみたいにばかでかくないのですが、都心の市街地に隣接して緑の空間があるのはやはりいいですね。

 
(左)グラフトン通り  (右)マークス&スペンサー


ショッピング街は大好物なので、きょうもグラフトン通りをべたべた歩きます。夕方が近づいてきているためか昨日よりも多くの人が出ています。例によってウィンドウを冷やかしながら歩いていたら、カドに面したビルの0階にセルフカフェが見えたので、カフェラテ(€3)を頼んで一休み。席について1口飲んでから、ここがマークス&スペンサー(イングランド発祥のPBデパート)の一隅であることに気づきました。お客の多くはM&Sの袋をもっていました。半数くらいのお客はスマホとにらめっこしながら指先をするする。小さな兄妹を連れたイケメンのお父さんがやってきて、子どもたちにドリンクを飲ませながら優しく語りかけます。窓に面したカウンターには70歳くらいのじいさんが2人座って、何やら楽しそうにトークしています。どういう連れなのかと思っていたら、お待たせ〜という感じで奥さんたちと思われる2人が現れました。旦那のひとりが「おおこんなに買ったか」という調子で紙袋を掲げてみせました。

M&Sの本体にはあまり興味がないので、さあ行こうかなとカフェを出て振り返ったら、FOOD HALLと書かれた地下売場の入口が見えました。入ってみると、デパ地下というよりは上等な大型スーパーのようなフロア。客層もわりあい上品に見えます。そこでふと思いつきました。そのまま食べられるような惣菜とワインをここで買っていって、ゲストハウスの部屋で夕食兼パブタイムにしよう。土曜の夜にパリに着いてからずっと外食つづきなので、気分を変えてみるのもいいですね。揚げ物のたぐいは1人分には多いのでやめて、ワインに合いそうなチキン入りのサラダ(€3.69)がいいかな。パン屋さんのコーナーにあったフランスパンの小さなやつも1つ買いましょう(€0.75 レシートにはpetit painとフランス語で表記してあった)。ワインのコーナーに回ると、PB屋さんゆえか「当社が独自にセレクトしました」みたいなフランスやイタリアのワインが並んでいて、全体にカジュアルな相場です。「今月のおすすめ」みたいな台の上に、東京ではあまり見ないけどパリではよく買うガスコーニュのワイン(€7.50)がありました。これがいいんじゃないかなと手に取って見ていたら、60歳くらいに見えるマダムが「それはいいワインよ。私はワインのスペシャリストだからよくわかるの。おすすめするわ」(なぜか日本語吹き替え風?)とか何とか話しかけてきます。ワインのスペシャリストって何なのかよくわからんけど(笑)、自家飲みの赤ワインを選ぶのにさほどのプレッシャーがあるわけではなく、当方の感性もだいたい同じだったからお見立てに従いました(笑笑)。


コノリー駅手前の鉄道ガード 普通この線路の右か左に駅があると思うじゃん!


いったん宿に戻ると17時くらい。まだ明るいので、あすの朝、列車で出発するアイルランド鉄道のコノリー駅Connolly Station)までの道を確認しがてら、駅で予約したチケットを発券してもらうことにしました。地図上では300mくらいのものなので徒歩10分もかからないと思います。もうすっかり心得たタルボット大通りを、いままで歩いたことのない方向(東)に進むと、たしかに鉄道駅の近くといった感じの商店とか飲食店が増えました。ただ、JRのターミナル駅というよりは京急とか京成のセンスだね。と思って鉄道のガードをくぐりました。あれ、駅ビルはどこだろう。線路に沿って進めばいいかと思って、大きな道を左に進みましたが、なかなか駅へのルートが見つからないまま、駅前感がなくなっていきます。おや、裏に回り込むのかな。すぐそこだからというので部屋に地図を置いて手ぶらで出かけてきてしまいました。どうも私としたことが変なところに入り込んでしまったらしい。キャリーバッグを引いていきなり駅に向かわず下見してよかった(汗)。

 どこを歩いているんだ?(駅の裏手)


先のほうで再び鉄道のガードをくぐったものの、駅らしきものは見当たりません。線路から離れなければ本格的に失踪することはなさそうなので、そのまま進みました。あとで確認すると、要するにコノリー駅の敷地の外側を時計回りに歩いていたわけで、500m以上はロスしていたような気がします。学校などもある分譲地のような住宅街でした。やがてルアスの軌道が敷かれた道路に出ました。ルアスが途中で分岐してコノリー駅に乗りつけることは知っていたので、線路に沿って歩けば間違いないでしょう。予定外のお散歩になって、それはそれでおもしろかったのでよしとしなければね。ようやくたどり着いたコノリー駅は、何のことはない、最初にガードをくぐったところの突き当りのビルでした。ほんの少し右(南)に進んでいればすぐにわかったはずなのに、妙な錯覚をしてしまった原因は、あとで地図を見てわかりました。最初のガードを通る線路はコノリー駅の本体部分には入らずに手前を横切っていて、その変なレイアウトに幻惑されたのでした(グーグルマップか何かで見てくださいな 汗汗)。

 
 ダブリン・コノリー駅


ネットの自動送信で送られてきた予約確認メールをプリントアウトしたものを持参していますので、窓口にそれを示して「切符をコレクトしたいのですが」と申し出ると、すぐ横に数台ならんでいる券売機を指して、マシーンに予約番号を打ち込むようにと指示されました。欧州の券売機って勝手な流儀のものが多くてキライなんだけどな(とくにフランス)。でも、やってみたら非常にあっけなく名刺大のチケットが出てきました。切符を入手したことだし、もう道順もわかったし(笑)、寝坊さえしなければ無事にダブリンを出発できることが確実になりました。

京急の駅前っぽい商店街(タルボット通り)に食品スーパーがあったので、燃料を買い足しておこうかな。さっき買ったサラダとパンだけでは寂しいので、クノールのカップスープの棚をのぞいてみたら、お湯を注ぐだけのボロネーズ(€1.99 いわゆるミートソースのパスタ)がありました。シャワーや暖房の操作がいちいち手動式というダサい部屋ながら、お湯を沸かす電気ポットは備えつけられています。インスタント・コーヒーやティーバッグのお茶は飲み放題ということらしいけれど、まずそうなので敬遠していたのです。それと、さっきワインのフルボトルを買ったので500mlの水を用意しておかないと。中身ではなく容器(ペットボトル)が要るのです。飲み残しを持ち歩くのにね! ギネスのレギュラー缶(€1.99)も購入して、これで万全です。

そんなわけで、ダブリン3泊目の夜は、むやみに広い部屋の暗いデスクで、ひとり飲み会。読書できる明るさがないのと、テレビが変な位置についていてしかも映りがよくないので、タブレットにてYouTube観賞というきわめて日常的な作業をしながら、ギネスの泡を丁寧につくりました。すぐ寝て、夜中の0時くらいに目覚めて、そこからワインをさらに飲んだため、事前の備えにもかかわらずフルボトルが空いてしまいました。

 

PART6へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。