Les deux villes principaux en Irelande: Dublin et Belfast

 

PART3

 

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ダブリン城の1階(日本式でいう2階)を見学しています。ポートレート・ギャラリー(Portrait Gallery)という展示室にやってきました。かつては賓客などをもてなすダイニングだったところに、歴代アイルランド総督(Viceroy 直訳的には「副王」)の肖像画が掛けられています。パンフの解説によれば、彼らの多くは上流階級の出身で連合王国の政府によってその任期が定められました。政体という観点から整理しますと、ヘンリー8世がアイルランド王に即位した1541年から連合王国に編入された1801年までがアイルランド王国Kingdom of Ireland)だったということになります。15411603年はイングランド王がアイルランド王を兼ね、16031707年はスコットランド王がイングランド王とアイルランド王を兼ねました。1707年にイングランドとスコットランドが同君連合の関係を解消して政府を一本化し、グレートブリテン連合王国を形成すると、その連合王国の王がアイルランド王を兼ねます。ただ、この間の164960年に、政体上の例外がありました。

 ポートレート・ギャラリーの歴代総督像


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世紀前半の欧州は、キリスト教の新旧両派が争った三十年戦争(161848年)や極端な天候不順もあり全般に大混乱の時期でした。イングランド・スコットランドを統治することになったスチュアート朝は、そもそも両国内部に宗教的多様性から来る混乱を抱えていました。新たに支配階級の宗派となったイングランド国教会、いまだ根強い信仰がつづくカトリック、そして商工業者のあいだに急速に広がったカルヴァン派。スコットランドではこのカルヴァン派(長老派 Presbyterians)が優勢になりつつあり、イングランドでは長老派以外のカルヴァン諸派も台頭してきました。このへんは宗教というよりも政治・経済・外交・軍事的な要素が複雑に絡み合っているので詳述を避けます。1642年にいたってウェストミンスターの議会と国王が武力衝突にいたり、以後7年間におよぶ内戦に発展しました(ブリテンでthe Civil Warと大文字で書いた場合にはこの折の戦争を指します)。前世紀いらいイングランドの強引な干渉に不満を募らせつつあったアイルランドの有力者たちは、この機に自治権の拡大やカトリック信仰の承認をめざして蜂起しました。しかし、ブリテンはすでに商業資本主義の時代に入っています。アイルランドにもつ土地を担保に資金を調達していたイングランド・スコットランドのブルジョワたちは、内戦中にもかかわらずアイルランドへの軍事介入を繰り返し、意地でも土地の権利を渡さぬという姿勢をみせます。アイルランド側は国王チャールズ1世に訴えての権利回復を図りましたが、彼らにとっては不幸なことに、国王派は敗れ、チャールズ1世は処刑されてしまいます。

当地の歴史とは直接かかわりのない個人的なことを申せば、大学4年生のとき高校世界史で教育実習をおこなったのですが、研究授業のテーマが「ピューリタン革命」でした。当時はずいぶんと単純なピラミッドを描いて対立構造を示したような気がします。この時代の主役であるオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は、ですからその人自身がどうこうというのではなくて、私個人にとって非常に印象深い名前になっています。彼は王政を廃止してコモンウェルス(Commonwearth)という政体を樹立し、自らは護国卿(Lord Protector)の地位に就きました。オリヴァーとその子であるリチャードの2代にわたって、イングランド・スコットランド・アイルランドの護国卿を兼ねる体制であったわけです。

 護国卿オリヴァー・クロムウェル(20083月 ロンドン、ウェストミンスター宮殿)


クロムウェルによるアイルランド制圧は、たしか当時の高校世界史の教科書にも書いてあったと思います。が、革命の展開ほどドラマティックではないし、前後の文脈となかなか結びつけにくいこともあって、私は教えなかったんじゃないかな。アイルランド護国卿クロムウェルはこの島に断固とした姿勢で臨み、カトリックの権利を奪い、とくにシャノン川から東の地域では原則的にカトリックの土地所有を認めないことになりました。反抗したカトリック教徒は容赦なく弾圧され、ときに殺されました。前世紀いらい領主主体でのイングランドへの抵抗を繰り返していたのは、アイルランドで最も伝統的な生活様式が残っていた北部のアルスターUlster)でした。クロムウェルの政府は、このアルスターの土地を徹底的に収奪し、ブリテンからの入植者に安く分譲することで、彼らの反抗の根を断つ方針を採ります(入植活動 Planting はクロムウェルのオリジナルではなく、17世紀前半から継続されていました)。スコットランドの長老派を中心に、プロテスタントの入植者がアルスターに続々とやってきて、この地域の新たな支配階層となりました。のちに産業革命が起こると、農業国を脱け出せない中南部に対して(イングランドの農作物の競争相手にならないよう政策的に抑圧されたせいでもあります)、造船など工業化に成功したアルスターは経済発展を見せるのでした。何だか、中東のどこかで聞いたような話でもあります。

クロムウェルの時代から250年を経た20世紀初頭、すでに「アイルランドは○○である」と一元的にいうことは困難になっていました。ですから、1916年のイースター蜂起が仮に成功して島全体が独立を勝ち取っていたとしても、入植者の子孫であるプロテスタントたちは思いを1つにすることはできなかったことでしょう。連合王国であれば多数派なのに、アイルランド国になれば少数派に転落し、意趣返しでいじめられるかもしれません。ユーゴスラヴィア連邦を構成していたセルビア以外の国のセルビア人も、このたびのウクライナのロシア系住民もそのような立場です。「昔、お前の先祖が悪いことをしたじゃないか」といわれても知ったことではありませんよね。まして、当時3分の2がプロテスタント、3分の1がカトリックという何とも微妙な濃度であったアルスターの難しさといったらありません。


セント・パトリック・ホール  アイルランド共和国大統領の就任式はここでおこなわれる


イースター蜂起の折にはわりと冷静に推移を見守っていたアイルランドのマジョリティは、指導者たちがろくな裁判もなく処刑されていくさまを見てナショナリズムをたぎらせ、第一次大戦終結後に連合王国政府がアイルランドの諸権利を踏みにじるような態度に出たことで沸騰し、独立戦争(191921年)にいたりました。けさ見たリフィ河畔の旧税関が連合王国支配の象徴として破壊されたのはこのときのことです。こうして192112月に英愛条約Anglo-Irish Treaty)が調印され、翌1922116日にこのダブリン城において統治権委譲(the handover of power)の儀式がおこなわれました。アイルランド側はアーサー・グリフィスとマイケル・コリンズ、連合王国側はロイド・ジョージとウィンストン・チャーチル。20世紀史の主役級の人たちがここに会合していたのですね。

このとき成立したのはアイルランド自由国Saorstát Éireann / Irish Free State)です。主権国家として完全に独立したわけではなく、自治権はあるが連合王国の王を共同君主にいただく立場でした(当時のカナダなどと同じ扱い)。完全独立をめざしてきたナショナリストたちは、これは売国的な妥協でありかえって真の独立を遠ざけるものだと非難しました。英愛条約は議会で批准されたものの、この扱いをめぐってナショナリスト同士の内戦(192223年)に突入し、ダブリン市街地はまたもや戦場と化します。何より問題とされたのは、自治権付与といいながら、アルスターを構成する9カウンティのうち6つまでが「住民の意思」というので連合王国に残留し、自由国は残り26カウンティでの出発となったことでした。ナショナリズムと「領土」が結びついたときの厄介さを、ここ数年は私たちもよくよく実感するところとなっていますね。この内戦では、自由国政府が連合王国から武器などの支援を受けて圧勝するという、何ともいいようのない結果となります。その後、アメリカの台頭と反比例するように大英帝国の凋落が顕著となるなど情勢が変化し、1938年にアイルランドの26カウンティは連合王国の君主をいただく体制をやめて共和政を宣言しました。現在のアイルランド共和国はこのとき創始されます。第二次大戦後には英連邦をも離脱しました。アルスター問題を解決できないまま・・・

 
ダブリン城0階のセルフ式カフェでコーヒー飲んで一休み


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時を過ぎて、お城を見学する人が急に増えました。このところ欧州全域で見かける中国人の団体客がここにも。いまのところ日本人らしき人とは出会っていないけれど、それなりにはいるのかな。日本語のガイドブックでアイルランドを独立した本として扱っているのは「地球の歩き方」だけではないかと思います。いまのところ妖精には出会えませんけれど、見どころはいろいろとあるので、ツアーでも組んだらいいと思いますけどね。何より英語が通じる(というか英語が主要言語)というのが気楽ではないですか。まあ、「フランス人はプライドが高いから英語を知っていても絶対に話してくれないんですよね」などと訳知りふうにいう日本人がいまだに多いのには閉口しますが、そういう当人がフランス語ならぬ英語を話せるのかといえば別の話で、じゃあ英語圏なら大丈夫だろうから行ってみなよとなったら、どうするのかな?

私自身は、率直にいってそれほど語学力があるわけでもないので、もろもろ通じているのかどうかは自信がありません。ただ、母語じゃないんだから通じなくてもいいやと開き直る度胸だけはばっちりあるし、海外旅行には多少の不便などを上回る愉しさがあると思っています。国内で尻込みする多くの人が思っているほど、語学力は問題ではありません。たぶん。でも、ベネルクスやドイツ語圏やイベリア半島やフランスあたりで英語を話すのと比べると、ブリテンやアイルランドでは多少つらいところがあります。相手にとって英語が母語ないし第一言語でしょうから、当方とのあいだに圧倒的な非対称が生まれてしまいますのでね。

 
(左)グラッタン橋  (右)トラムが行き交う


再びシティ・ホール前からリフィ河畔に出ました。グラッタン橋(Grattan Bridge)で左岸側に渡ります。この橋は1875年に竣工したと記されていました。グラッタン橋からつづく付近は地方都市の商店街みたいな雰囲気でしたが、右折してメアリー通りMary Street)に入ったあたりからはダブリン最大の繁華街に入ります。メアリー通りは東西の道で、歩行者専用道になっています。

  メアリー通り


この通りに面しては、大型ショッピングセンターや複数のデパートが立ち並んでいます。夕方の時間にさしかかっているためもあってか、多数の老若男女が繰り出して、賑わっている。ファストフードやファストファッション、ケータイショップなど、そこだけを写真で見てもどの都市なのか判別できない昨今の傾向は、ここにもあります。マクドナルド以上にスターバックスが多くなっているのも同じですね。デパートにも興味あるけれど、けさグラフトン通りのほうで高価な買い物をしてしまったので、変な誘惑に駆られないよう回避しておこう(笑)。今日はバスもトラムも使わず徒歩だけでダブリンの市街地を時計回りに移動していますけれど、それほど無理はないですし、主要な地区はだいたい見られていると思います。何だか「いい距離感」だな〜。

 
(左)バケツ・ドラマー(なかなかいい音がします 笑)  (右)賑わうメアリー通り(PBデパートのマーク&スペンサー付近)

 スーベニア・ショップ


この町にはスーベニア・ショップがたくさんあります。どの地区にも品揃えのよさそうな店があるのがおもしろい。世界的な観光都市パリは、イカニモ系のスーベニア・ショップがあんがい少なくて、地区的にもノートルダム、ルーヴル、エッフェル塔、シャンゼリゼ、モンマルトルといった一大観光スポット周辺に集中しています。ダブリンはまんべんなくありますね。暮れに訪れたバルセロナがまったく同じでした。で、バルセロナの店頭にディスプレイされた主力商品はFCバルセロナのユニフォームでしたが、ここダブリンではアイルランド代表のユニフォームやグッズが目立ちます。きっと「愛心」の向かう先の違いでしょうかね。カタルーニャのバルセロナにとって「スペイン代表」はどのようなものなのかよくわかりませんけれど、ダブリンは名実ともに「アイルランド」の中心だから。それと、代表ユニフォームと申しましたが、サッカーだけでなくラグビーのそれもずいぶんと飾られています。フットボールや欧州スポーツに詳しい方ならよくご存じのように、サッカーのアイルランド代表というのはアイルランド共和国の代表なのですが、ラグビーのほうはアイルランド全島の代表です。ラグビーの世界で「北半球最強決定戦」としばしば報じられる6ヵ国対抗選手権the Six Nations Championship)は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、イタリアが参加します。日本人の常識的な感覚だと3ヵ国半くらいになるのだけれど、ともかくそうなっています。アイルランド代表のサッカーはさほど強くないですがラグビーのほうはトップレベルなので、盛り上がり方はハンパないと聞いております。なお帰国後の話になりますが、今シーズンの6ヵ国選手権ではアイルランド代表が優勝しました。
PART1の写真のキャプションで「6本の国旗の意味は?」とクイズを出しましたが、6ヵ国選手権の出場国でした パブで試合を流すのでしょう

おもしろそうなので、1軒のスーベニア・ショップをのぞいてみました。キーホルダーとか置物とかTシャツとか、まあお土産の種類というのは決まっていますね。東京に初めて来た外国人観光客が日の丸の扇子とか安っぽい人形を好んで購入するのを見ると、以前は何だかな〜と思ったのですが、最近は「お互いさまですな」と思うようになってきました。

 
オコンネル通りと中央郵便局


メアリー通りはいつの間にかヘンリー通り(Henry Street)と名前が変わっていました。この間の300mくらいがど真ん中の繁華街ということになります。裏道とか横道ものぞいてみたけれど、けっこう繁盛しています。その先で南北の幹線道路であるオコンネル通りに出ました。けさ右岸からちらっと見通したところです。連合王国に編入された時期のアイルランドで活動した政治家ダニエル・オコンネルDaniel O'Connell 17751847年)の名を冠しています。ここがメイン・ストリートであると聞いて、事前に地図を眺めたときには、バルセロナのランブラス通りをイメージしていました。でもこちらは道幅が広く、整然としていて実際の印象はまったく違いました。よくは知りませんが現代的な都市整備をおこなった結果ではないですかね。この大通りに面して中央郵便局General Post Office)があります。正面に円柱を配した立派な建物ですが、ここは1916年のイースター蜂起に際して蜂起側の本部となり、暫定政府設立宣言が出されたところでした。この周辺には映画館やゲーセンみたいな娯楽施設もあるようです。

 
(左)繁華街のつづき、アール通り北  (右)「すべての商品が€2かそれ以下」と称する2ユーロショップ

 
タルボット通り  トルコ、パキスタン、アラブ、インド、バングラデシュ、アルバニア、ボスニア、マレーシア、フィリピン・・・の食材屋さん(雑!)
ハラル肉の表示があるのでイスラムくくりということでしょうね


さきほどから同じ東西の道路をまっすぐ歩いているつもりなのに、頻繁に呼称が変わります。南北のオコンネル通りを越えたところから、今度はアール通り北(Earl Street North)になりました。横浜市営地下鉄みたいな変なネーミングで、南がどこにあるのかは存じません。同じ通りのつづきで、やはり両側に商店が並んでにぎやかなのだけど、すこしテーストが違います。雑貨屋さんとかパン屋さんなど生活がらみの「商店街」ですねこちらは。タイ風のやきそばなんかを売るエスニック的な軽食スタンドとか、東京でいったら「町の洋食屋さん」みたいな構えの食堂などもあります。ここまでが歩行者専用道で、2ブロック東に進むと「車道」になりました。そこから先がタルボット通りTalbot Street)とまたまた名前が変わります。前夜、食料と飲み物の買出しにやってきたところです。大半のお店が閉まっていて暗かったため、何だか陰気な道だなあと思ったものの、日昼に来てみるとむしろちゃんとした「表通り」ですね。狭い道なのにダブルデッカーを含む路線バスがしきりにやってくるのだけど、観察していて事情がわかりました。オコンネル通り・オコンネル橋周辺がダブリン市の中心であるため、路線バスの多くの系統がここを起点にしており、操車場とか回転場がないのでこの道路などを使ってループさせているようです。昨夜と同じスーパーで、別の種類のワインを買っていったん宿に戻り、1時間ばかり昼寝。

日が落ちかけた18時前ころ再出動します。この周辺の構造はよくわかったから地図は要らないや。今度はタルボット通りよりもリフィ川に寄った下アビー通り(Abby Street Lower)を歩いてみます。トラムが走っていて、路線バスも往来しています。さきほど歩いてきた名前が頻繁に変わる道が、歩行者のための商業的道路だったのに対して、こちらはまさに道路交通のための道路。バスに乗って郊外の自宅に帰ろうというような人たちが、それぞれの停留所で待っています。停留所の小さな表示板にもアイルランド語と英語のバイリンガルで情報を掲出してあるし、バスの行先方向幕も数秒おきに両言語が替わるようになっている。「アイルランド語を話す人なんてあまりいないのだし、いたとしても英語がわかるのだから、そんな面倒なことをするのは合理的でないよね」なんて安直に考える人は、同じように安直なアタマでわかったような愛国言説を弄する不勉強な人なんだろうね(笑)。

 
 夜のオコンネル通り周辺 書店を見つけてしばし立ち読み!


日が暮れてますます賑わいを見せているオコンネル通りを越えると、角に大きな書店がありました。おお本屋さん、大好物! このところドイツ語圏に行くことが多く、けっこう気に入っているのですが、難点は私がドイツ語をまったく解しないことです。簡単な単語のニュアンスくらいならわかるようになりましたけれど、「文」になると基礎的な知識すらありません。もとよりアイルランド語を突きつけられたらどうしようもないですが、英語ならばまあ読めますのでね。CDやお菓子や飲み物も並んでいる売り場をぐるりと一回りし、雑誌を冷やかし、小説はタイトルだけ見渡して、「アイルランドの歴史」の一角にやってきました。一角とはいってもけっこうなスペースを確保してあり、通史、古代、中世、近代、現代とそれぞれの棚を設けるほど充実しています。しばし立ち読みして、100ページ弱ほどの小さな本を€7.99で購入。さきほどから何度か典拠にしたPocket History of Irelandです。まさに入門者のためのアウトライン的な通史で、そのあと読んで大いに勉強になりました。日本の高校世界史では、アイルランド史は断片扱いもいいところです。ヴァイキングの侵入というところで地図だけ見せられ、クロムウェルが侵略したことがさらっと記述され、オコンネルが奮闘したことがちょこっと報告され、いつの間にか自由国になっているという感じで、全体像がわかりませんし、「イギリス史」との関係も見えにくいですね。もちろん、ちゃんと載せろ、教えろというつもりはありません。限られた時間で「世界」史を扱うのだから、英仏独あたりを軸にするしかないのです。でも、「教職の先生」っぽいことを少し申しますと、指導する教員の側が教科書の「外側」に関する見通しをもってさえいれば、授業が立体化されますし、生徒が自分で関心を深めようという意欲につながります。実際に教えるところだけ仕込んでいるような先生は、歴史にかぎらず失格ですわな。

高校2年生で世界史を履修することになり、真新しい教科書(山川の『詳説』でした)を受け取ったその夜、あまりの楽しさに時間を忘れて完読してしまったのが、外国の歴史に関する私の出発点でしたが、担当してくださったK先生の授業も本当にすばらしかった。それまで「日本史の先生になろう」と思っていた私が、いつの間にか「世界史の先生に」とプチ転向?してしまいましたもん(大学に入学してまた日本史に戻り、その後なぜだかフランス・西欧の専門家になり、高校では公民を教えるという複雑怪奇な運命をたどりました 笑)。卒業して20年くらい経ってから同窓会でK先生とお話ししたら、実はご専門はアイルランド史だったそうです。「そんなマニアックなもん誰もやらんわな」と、にやり笑われましたが、「古賀ならやるか」とかぶせてきました。う〜ん、否定できん。

 
 


買った本の最初のページを開くと、「最初の住人」は新石器時代の約8000年前にブリテン島から渡ってきたとあります。人種・民族系統については触れられていません。何となく、アイルランド=ケルトという先入観で考えてしまいますけれど、ケルト人(Celts)が中欧からやってくるのは前6世紀ころとかなり後になってからのようです。やがて、イングランド南部を支配したローマ帝国の「周縁」ということになりますので、アイルランドのケルトに関する文字記録も現れるようになりました。いま「アイルランド語」と呼んでいる言語や、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語、フランスのブルターニュ語などもケルト語系ですね。マップで見れば一目瞭然のように、民族移動の結果それらの人たち(や言語)が西の隅のほうに追いやられていったと考えられます。

だからというわけでは絶対にないのだけど、タルボット通りの、ワインを買ったスーパーのはす向かいあたりにあるThe Celt(店名は単数形)というパブが気になって入ってみました。隣がブラッスリーで、あとでよく見たら同じ経営のようです。19時前ですがすでに20人くらいの客がいて、ビールのグラスを手に談笑するグループあり、渋くひとり飲みする人あり。カウンターのスツールに座り、飲み物をオーダー。本場ではあるけれどスタウト(黒ビール)ばかりになると飽きるので、ペールエールはありますかといったら琥珀色のキレイなビールが供されました。エールですから炭酸はきつくなく、フルーティーな味と香りで、これは美味しい。ここで仕込んで転戦しようかと考えていたのですが、この際なので昼夜連続パブめしをいっちゃえ! パブといえばもうこれというのでフィッシュ・アンド・チップスを頼むと、ややあってから巨大な魚のフライ(写真でわかるように、チップスは隠れています!)が運ばれました。でかっ。うーん、想像どおりの味がするなあ。工大ランチBをはるかに上回るオイリーな食べ物で、連日食べていたら間違いなくどこかがイカレるでしょうね。衣のつけ方なんかはまずまず上手でした。戦いの末に完食したら、「デザートかコーヒーをおもちしましょうか」とおねえさんから声がかかりました。周囲はほとんど飲むだけの客ながら、女子会なのかテーブルに着席してワインを飲みながら「食事」しているグループもあったりして、ディナーの場として利用しても悪くないらしい。パブでデザートも何なので、エールを1/2パイントだけ追加して、それから30分ばかり滞在しました。1パイントでも2パイントでも飲めるけれど、ビールと揚げ物は胃袋のスペースをかなり使うので、入りきれましぇん。フィッシュ・アンド・チップス€12.95、ペールエール1パイントが€5.40、ハーフが€3.30でした。部屋でワイン飲んで早寝。前述のように照明が不完全のため読書できないのです(涙)。

 

PART4へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。