Visite aux « Quartiers chinnois réels »: Hong Kong, Shenzhen et Macao

PART8

 


PART7にもどる

 

午後の部は十月初五日街Rua de Cinco de Outubro)からはじめます。河邊新街から2度道路名が変わった西岸の幹線道路、巴素打爾古街(Rua do Visconde Paço de Arcos)の東をほぼ並行して走る商店街です。日付を道路名にするのはいかにも欧州的で、この105日というのは1910年に起きたポルトガルの革命(ブラガンサ王家を追放し共和政を樹立した)に由来します。マカオの町なかを歩いていると、ほとんどすべての表記に添えられているポルトガル語が目に入るものの、実際にポルトガル系の住民とかポルトガル語の話者を見かけることもなく、予備知識がなければ十数年前まで植民地だったことに気づくことはないはずです。さきほどの下環街と違って、おばちゃんよりはおっちゃんの姿が多く、生活向けと業務用の両方のお店があります。「地球の歩き方」によれば、かつてのメインゲートであった内港(Porto Interior)と市街中心部をむすぶ道で、中国系の商人が集まった地区だと。その途中に康公廟という道観(道教の寺院)がありました。道観にはあまりなじみがなかったのですが、このところの横浜通いでその外観には親しみを感じるようになっています。康公というのは漢代の武将、李烈のことだといいますが、不勉強ゆえこの人物についての知識はありません。道教ってわりに融通無碍なところがあり、古今東西のさまざまな人物を神格化して祀ります。その点では日本の神道にも似ているのかな?

 
 
十月初五日街と康公廟


海沿いをまっすぐに往く巴素打爾古街に対して、陸側を並行する十月初五日街は弓型のカーブを描きます。500mくらい進んだところで再び幹線道路に合流しました。飲食店とか雑貨店、乾物屋さんなどがあります。フジカラーのDPEショップというのも何だかなつかしい。拙宅の近くにもないことはないですが、もはや証明写真屋さんに重心が移動していて、カメラとフィルムとフレームをちょこちょこディスプレイした往時のDPEショップは見かけなくなりました。ていうか、若い世代はDPEという概念を直接的には知らないよね(現像:development、焼き付け:printing、引き伸ばし:enlargement)。私自身はわりに最近までアナログのカメラを使っていて、もちろんDPE屋さんにベタを焼いてもらっていたのだけど、最後のほうはもっぱらデジタルデータ化をお願いしていました。このごろの若い人はちょっとした撮影だとスマホを使うので、アナログどころかコンデジもよくわからんという場合があるようです。授業で、IT化の進展で仕事の質が変わり事によっては雇用が消失するという話を取り上げる際には、例としてCDショップやDPEショップも入れていたのだけど、CD屋さんはともかくDPE屋さんのほうは「何それ」てなことになるだろうから、外そうかな。今度マカオに来るときには、「以前の日本はこうだったんだよ」というサンプルとしてそういう場所を重点的に撮影して資料化してもいいなと思いますが、マカオのほうが急速に変わるという可能性もあります。それはそれでおもしろい。

このままどこまで北に進むかなと思っていたのですが、すぐのところに仏具屋さんが並ぶ一隅があり、興味を惹かれて入り込んでみると、路地の奥に階段が見えました。今度は仏教寺院らしい。階段を登ってみると、その途中の踊り場みたいなところにいくつか祠があって、それぞれお線香が焚かれ、熱心な人がお線香をもってぐるぐると祠をめぐって祈りをささげていました。おや、如来堂と称する、仏像を安置した建物はたしかにあるが(如来というのは仏さまの最終形態ね)、その横には関帝殿なる道観も見えます。どうやらこのあたり全体が土地廟と呼ばれる、文字どおり土地の守り神ということのようです。神仏混交ならぬ道仏混交で、中国ではさほどめずらしいことではないと思われます。関帝殿は横浜の関帝廟と同じで、「三国志演義」のヒーローである関羽を祀ったもの。伝説的な英雄なので庶民の信仰を広く集めているわけですが、関羽がことさら称揚されたのは王朝の正統性が揺らいだ北宋・南宋とか、満州族を支配階層とした清朝のころですので、弱体な主君を立てて忠義に励めとか、兄弟同胞仲よく精勤せよといった時代ごとの倫理観が反映されているのだろうと考えられます。


 
急な階段を登っていくと、(左)如来堂と(右)関帝殿があった


土地廟の高台から西側を見晴らす ここでも中国領の異質さが目を引きます


階段の上のお寺なので行き止まりかと思ったら、その先がルイス・デ・カモンイス公園(白鴿巢賈梅士花園 Jardim Luís de Camões)になっているようなのでそのまま進むことにしました。振り返ると、例によって手前のマカオと向こう側の中国・珠海市のコントラストがやばい。歩きつづけてきて、午前中よりもマカオへの親しみが増しているため、このコントラストならばマカオをひいきしたくなっています。カモンイスというのは16世紀に活躍したポルトガルの国民的詩人で、首都リスボンでもこの名を冠した広場を歩きましたし、ユーラシア大陸最西端のロカ岬では、「ここに地果て海はじまる」という詩の一節が碑に刻まれているのを見てきました。大航海時代とか世界の発見という、完全に欧州側の視点に立った歴史観を見せられて、アジア人としてはちょっと複雑な気分にもなったものです。カモンイスや彼の同時代人にとってみれば、大西洋は大冒険への一歩だったのでしょうけれど、長い目で見ればそれって以後数世紀にわたるアジア侵略の先兵だったわけですからね。旧ポルトガル領マカオの真ん中にある緑豊かな公園にカモンイスの名前がつけられているのは、ですから妙な気分ではあります。私が入った土地廟の側は裏口で、そこから陸側に下り勾配があり、一面が公園になっています。公園と訳しましたがjardimすなわち英語のガーデンですので、本来的には植物庭園を意味します。たしかにこの公園は欧州式。いちばん高いところ、つまり裏口から入るとすぐのところに、カモンイスの胸像が置かれていました。「偉大的人道主義詩人 葡萄牙大同精神的象徴 賈梅士/A Luís de Camões grande poeta da humanidade e símbolo do universalismo Português(原文はすべて大文字)」と刻まれたプレートがあり、これには19991218日の日付が入っていました。胸像が新しいのではなく、このプレートがあとから設置されたのだと思いましたがどうなのでしょう。中国への主権移譲は同20日なのでその直前ということになり、新しい主人(中華人民共和国)よ、どうか人道主義や大同精神にのっとって頼むよ、という願いが込められているというのは勘ぐりすぎ? 余計なことを申せば、16世紀ころの欧州のhumanismと呼ばれる潮流を人道主義と表現するのは現代的な誤解のもとなので、人文主義もしくはフランス語読みでユマニスムとすべきだというのが教育思想史を専門にしている(のか?)私の立場です。はい。

 
ルイス・デ・カモンイス公園


傾斜に面しているため視覚的には広がりが感じられませんが、思った以上に広い公園で、ここでは老若男女が憩っています。ベンチに座ってびくともしない高齢者、ゆっくり体を動かす太極拳グループ、はしゃぎまわる子どもたちとそのママさんたち。ああ日常の光景やね。温暖な場所ですので、暮れの1229日だということを忘れてしまいそうになります。ちなみにこのカモンイス広場周辺は、他の何ヵ所かとともに世界文化遺産・マカオ歴史地区(澳門歴史城區 Centro histórico de Macau)の一部を成しています。ユネスコってフランス的な傾向をもつ集団なので、非欧州世界にある欧州っぽさを妙に好むところがあります。われわれの側が卑屈な植民地根性に堕しないよう気をつけておかなければね。などと、右翼みたいな言動。

裏から入りましたので最後に公園のメイン・エントランスから退出することになりました。目の前が連勝街(Rua de Coelho do Amaral)という威勢のいい名の道で、片側1車線のバス通りのようだけど、のたくっていてすれ違うのがやっと。大田・品川・目黒区あたりの住宅街でこんなところをくねくね走る東急バスってあるよね。またぞろ東西南北の感覚がなくなっており、たぶんこっちかなというので、公園を背に連勝街を左方向に進みます。あとで地図を見ると東向きに動き出したことになります。すぐにV字に分かれるところがあったため、右の新勝街(Rua de Tomás Vieira)を選択し、勾配を登りました。アパート街の中をゆく静かな道で、それこそ生まれ育った大田区の坂の町を思い出します。

 マックが規格的な絵ゆえ、逆にマカオっぽさが際立つかな


坂道を登りきったところに、例の大型ホテル(兼カジノ)の送迎バスとか観光バスが何台か停まっていて、顔立ちと身なりから香港ではなく中国人かなと思える団体さんが何組か待機しています。おや観光スポットかなと思って進むと、大三巴牌坊はこちらという標識が。ということは、旧聖ポール大聖堂の裏手に出てきたわけですか。昨夜、セドナ広場からノープランで歩いてここにたどり着いており、「この旧教会はぜひ昼の明るい時間にもう一度訪れておきたい」などとPART6で書いていますね。今度もノープラン。この町はそういう歩き方が楽しいみたいだということがわかったので、全面的にそうしています。夜の旧教会もかなりの人出だったけど、さすが昼間はもっとすごいですね。裏側からあらためて見てみると、こんなに薄っぺらいファサードだけを維持保存するのはけっこう大変なことだと思います。もちろんここも世界遺産の一部なので、マカオ政府は何が何でも次世代にこれを受け渡さなければならないという国際公約を負うことになります。

アジア的な濃密さの中に悠然と立つキリスト教会の痕跡。しかしそれは薄っぺらな1枚の壁でしかない。――それがマカオのランドマークなのだとすれば、歴史に取り残されて、いわば忘れられた植民地と化していたマカオの立場を象徴するものだといってよいでしょうか。回りまわってその「取り残され」感そのものが観光資源になっているわけですが。

 
 旧聖ポール天主堂はマカオのランドマーク


昨夜も歩いた「仲見世」的な大三巴街を通り抜け、伯多祿局長街(Rua de Pedro Nolasco da Silva)に出ました。旧名の白馬行のほうが知られています。渋谷か池袋のようなヤング・カジュアル店が建ち並ぶ一角で、お店の看板にも横文字(ポルトガル語ではなく英語)が目立ちます。歩いている人の平均年齢もぐんと若くなりました。身なりでみると、若い世代の垢抜け具合と中高年の昭和スタイル?の落差がかなり急ですが、それは香港も同じでしたし、おそらく日本でも平均値をとればそんなものでしょう。最近の中国本土の若い男性がやっている不思議な刈り上げ頭はあまりみられません。欧州などに行っても、あれがメインランド・チャイナの指標みたいなもので、民族ごとに好みの差があるのはわかりますが、私にはわからん。渋谷的なゾーンは白馬行の東端で終わり、そこで水抗尾街(Rua do Campo)に合流します。ここはバスも走る幹線道路で、大小の店舗が軒をつらねるにぎやかな通り。なぜか横断歩道でなく歩道橋が数ヵ所にあるので、反対側に渡ってみました。荷蘭園二馬路、東望洋街といった道を行ったり来たりして店先を冷やかしてみます。相手が商店街なので、ウィンドウ・ショッピングというカタカナがどうにも似合いません。この付近には各種の飲食店がたくさんあるようです。ノープランの中のプランだと晩ごはんはホテルから遠くないところがよいので、今回は立ち寄れませんが、どの地区にどんなお店があるのかというだいたいの感覚は押さえておいたほうがよいでしょう。何となくですが、マカオにはまた来るような気がします。

 
水抗尾街から荷蘭園二馬路へ


水抗尾街を引き返すと、今朝かすめた南灣大馬路に出ました。ここから南側の一帯はカジノを中心とした娯楽ゾーンでしたね。16時を回るころで、そろそろ暗くなりかけています。マカオ滞在は明日の午前までですが、少しだけ余力を残しておかないと膝が笑い出してしまいそうなので、町歩きはここまでにしようかな。とはいっても、宿までは700mくらいあって、そのぶんは歩かなければなりませんし、晩ごはんでうろうろするのも計算に入れておきましょう。

朝は開店前だった新八百伴New Yaohan)に行ってみました。売り場が8階まである本格的なデパートで、年末大売り出しでもあるのか、かなりお客が入っています。とくに当てもないままいくつかのフロアをのぞきました。6階の家電フロアに行ってみると、女性店員さんがささっと寄ってきて案内を申し出てくれますが、もとよりノーサンキュー。私の顔立ちならば地元民と思われても不思議ではありません。品ぞろえはほとんど日本の店と同じ、というか大半の電化製品は日本製なので、価格も質もだいたい相場が読めてしまいますね。つづいて7階の食料品フロアへ。これが地下ではなく上のほうにあるのは流儀の違い。私、お土産を買うのにスーヴェニア・ショップのお菓子というのはどうも気乗りせず、デパートやショッピングセンターのほうを好むのですが、困ったことにお菓子や調味料などのめぼしい品はことごとく日本製。品質保証という意味なのか、日本製専用の棚まで用意されています。うーん、お土産にすべきものが見当たらないなあ。

 
新八百伴 クリスマス・パンダがあまりかわいくないんだけど・・・


この新八百伴は地元資本のデパートですが、八百をヤオと読むのはどう考えても日本式の熟字訓です。1990年代の記憶がある世代ならばご存じのように、ヤオハンという日本の流通グループが上海や香港などに大々的に出店し、アメリカなどを含む世界展開に着手したのですが、バブル崩壊後に傾き、粉飾決算なども明らかになって、1997年ついに破綻しました。マカオの店舗も閉鎖されたものの、地元資本が引き取り、定着していたヤオハンの称号も継承したのだそうです。ヤオハンは熱海の八百屋から発展して東海地方を代表する百貨店チェーンとなり、1980年代に派手な世界戦略を打ち出しました。創業者のひとり和田カツは「おしん」の主なモデルとなった人物です。公式には特定のモデルはいないことになっているのですが、もう明らかにそうでしょというレベルです。高橋悦史演じる息子社長が強引な出店をつづけるのに創業者のおしん(小林綾子→田中裕子→乙羽信子)が異を唱え、お前は何もわかっちゃいないという思いを抱きつつ自身の人生(=昭和の庶民史)を回想するという筋立てだったのですが、震災・戦争・復興・高度成長という日本社会のあゆみを丁寧に描いただけでなく、放映から数年後に到来するバブルを予見する(息子社長に象徴される、肝心のところがわかっちゃいないために自滅する運命を描く)全体のトーンは秀逸でした。ときに60%もの視聴率をとったのに、みんな学習しなかったんですね。新のついた現在のヤオハンが繁栄しているのであれば何よりです。

勝手知った新馬路を歩いて、いったん宿に戻りました。昨夜チャーハンを食べた店の一帯に土産物屋がかなりあるので、のぞいてみることにします。欧州ならショコラ屋さんでしょうけれど、東アジアなものだから日本の観光地のお土産屋さんと同じような造り&内容で、初めから包装紙に包まれた箱が平積みになっているアレね。私自身がアンコものを苦手としていることもあるので、饅頭ではなくパイとかクッキーみたいな感じのやつがいいな。ただ、お土産の紙袋を提げて飛行機に乗るような真似はしたくないので、キャリーバッグに詰めても大丈夫なように、箱自体が頑丈なものがほしい。そういう要望を聞いてくれそうにもないおばさま店員が寄ってきて、これは何です、これはいかがですかと間断なく話しかけてきます。こちらの英語や日本語を理解している感じは1ミリもないのに中国語ないし広東語で説明をつづけるのはある意味立派ですが、こういう店員の態度って苦手だなあ。いまはどうか知りませんが、かつてJR博多駅の新幹線下の土産物コーナーで、明太子売り場のおばさま店員は全員がひどかった。おそらくそういう店員教育をしていたのでしょうけど、でかい声で自分のいいたいことを一方的にしゃべりつづけ、こちらの質問にはまともに答えない。明太子を買おうと思ったから立ち寄っているのに、そんなことをされたら買う気が失せるという当然の消費者心理がわからんのかね、と思ったものでした。マカオでそれを思い出すとは(苦笑)。まあいいやと安いお菓子を2箱求めると、「もっとほかには」と別の棚に誘導しようとするので、ノーサンキューと強めにいってレジに。その裏手にあった地味なお菓子屋さんでは、おねえさんがクレープの要領で巻き菓子をつくる作業がおもしろく、しばらく見ていたら、おやじさんともども親切に説明してくれ、とてもすばらしい間合いでした。それで心証を回復したので、予定はなかったのに(ハードな器の)お菓子を複数所望。日本の観光業界も、インバウンド景気に頼ろうとするならスマートな「おもてなし」を仕込んでおいたほうがいいよね。

 
 


部屋に荷物を置いて、18時半ころまた外に出ました。もう真っ暗です。前夜と同じように、宿ちかくの中華街?で食事することにしよう。これかなと思ったところでは店先の店員が歓迎しないような表情をしているので回避(気のせいかもしれないし、横浜のニューカマー系店員もおおむね不愛想だけど食事する上で気分は大事)、どこかいい店ないかなとしばらく歩きます。すると、午後の部をスタートした十月初五日街に面して、日本なら洋食店か喫茶店のような小ぎれいな外観の店があり、葡式料理の文字。おおポルトガル料理かと近づいてメニューを見てみると、表意文字と英語が示すところの大半はよくある中華料理です。昼間のカレー屋さんもそうだけど、外国由来の料理を出そうとしても中華に寄せてしまうのでしょうね。きょう1日歩いてみて、旧宗主国ポルトガルの存在の薄さを実感したところなので、そんなふうにチャイナ化するのもうなずけます。おもしろそうなので入ろう。ホテルを併設している、というよりホテルのレストランを一般にも開放する店のようで、何かのバンケットがあるのか、きちんとした身なりのホテルマンがレストラン区画にも盛んに出入りします。30代くらいの女性がこの区画を担当していて、彼女もまた非常にスマートな物腰。そのへんはさすがホテルです。内装はとてもきれいで、洋食店のようだと申しましたがフレンチレストランのほうが適切かもしれません。壁にはワインボトルが飾られています。さて料理は何でもいいけれども、2016年の中華納めを兼ねてもう1回焼きそば行っとくかな。肉絲炒麺38 MOP。英語ではStir Fry Noodle with Shreddedだそうです。もう1品はポルトガルっぽいものをというので馬介休炒雑菜(Sauteed Cod fish & Mixed Vegetable55 MOPを頼みました。飲み物はもう迷うことなく大青島22 MOPを。ちなみに「日本啤酒」の英語表示はAsahi、「喜力」はHeinekenでどちらも29 MOPだそうです。横浜通いのせいで、最近では青島ビールが外で飲む味の標準になりつつあります。香港・深圳・マカオで大びんばかり飲んできて余計にそうなっていますね。

初めに馬介休なんちゃらが運ばれました。予想どおり中華風の炒め物で、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、フクロダケ、ヤングコーンが入っています。唯一ポルトガルらしいのはタラの干物=バカリャウ(馬介休 bacalhau)に薄い衣をつけて揚げたものがたくさん入っていること。リスボンではこれをもどして温めたシンプルな料理にオリーブオイルをかけて食べました。素人でもつくれる野菜炒めというのは火加減が命で、中華街でもひどいレベルのものに出会うことがあるけれど、これは非常によくできています。キャベツのぱりぱり感がありつつも味がなじんでいる。塩・ニンニク風味で、青島ビールにめっちゃ合います。白いごはんでもいけそうですね。つづいて焼きそばが登場しました。2日前の香港と同じタイトルの料理ながら手法はまるで違います。細麺を具材と一緒に炒めたこのスタイルを横浜ならば香港焼きそばと呼ぶはずです。細切り肉、ニラ、ニンジン、タマネギが入っており塩味。具材は控えめで基本的には麺を味わう料理ですね。「西洋料理店」らしくテーブルにセットされていたフォークが持ち去られてしまったので、隣席のを拝借し、ナイフとフォークでパスタのように食べています。2月に訪れたドイツの駅構内の焼きそば屋さんでは、ドイツ人のおじさんたちが普通にお箸で食べていたんだけどな! ともあれ店の品位やサービス、味のわりにコスパがよくて満足です。せっかくなので食後のコーヒー(即磨咖啡 Fresh Brew Coffee, 25 MOP)を頼んだらこれもばりうま。コーヒーフレッシュ(乳化させた植物油)ではなく温めた牛乳が添えられていました。食後のコーヒーはサービス価格なのか、込み込み128 MOPの会計だったのでほんの心ばかり2パタカをチップに。


12
30日(金)は8時ころ朝食。前日はマカロニだったので、最終日は出前一丁にしよう(^^)。スパムとフライド・エッグ入り。そして甘いバターをはさんだトーストとコーヒー。初日の香港で食べたインスタント麺は大鍋でつくっているのか独特のスープでしたが、このホテルのはいわゆる醤油味インスタント麺のスープそのもので、コショウを振って食べると日曜の手抜きランチみたいな気分になってきます。日本のやつはゴマとゴマ油が入っていますが、こちらはゴマの形跡なし。ただゆで方が上手でけっこう美味しい。白を基調とした内装の上品なレストランで出前一丁というのもシャレたもんです。日本でもしばらく食べておらず、たちまち気になったので年明けすぐに探したのですが近所の店にはなくて、アマゾンで発注という愚かなことになりました(その後とあるスーパーで見かけてまとめ買いしました)。カップよりも袋めんが好きなので、家での定番ということにしよう。さすが安藤百福の遺産で、麺もスープも他社のやつより美味しいじゃん。たまに朝食として食べるようになったことは内緒ね。

 日本で売られている出前一丁


この日の帰国便は1425分発なので、正午くらいに空港に着けばよいとして、町歩きのための持ち時間は2時間くらいかなと計算。レセプションの男性に空港までの所要時間を訊ねたら20分くらいだということだったので、1130分にタクシーを呼んでもらうようお願いしておきました。レセプション前に掲出してあるホテルおすすめの散策コースのうち、これまで通っていない道を選んでみます。すぐ裏手の坂道を登るところからはじめると、たちまち例のくすんだ町なかに突入。慣れてくるとこのマカオ感がたまらなくなってきます。朝のうちなので開店しているのは茶餐廳くらいですが、暮れの30日に勤務なのか、ぱりっとしたスーツ姿の人を何人も見かけました。三巴仔街(Rua de San José)から風順堂上街(Rua da Prata)へと進みます。風順堂というのは昨日訪れた聖ローレンソ教会のことで、道なりに進むときれいな教会の裏に出ました。あらためて地図を見て、位置関係を確認。昨日来のルートをおさらいしながら、マカオ中心部の地理をもう一度整理しようとしているわけです。今回は穏やかな気候がつづいて何よりでした。

 
 


昨日は教会から昭和チックな商店街、下環街のほうに向かったわけなので、その逆方向に進めばいいのかなと考えて、官印局街(Rua da Inprensa Nacional お、意訳的な道路名はめずらしいね!)をたどりました。このあたりもアップダウンのある幅の狭い道です。そのまま歩くと、マカオの座標ゼロのセナド広場の前に出ました。なるほどね、セナドと聖ローレンソ教会を別々に考えていたけれど、この一帯が古くからのマカオの政治的中心で、支配階層であるポルトガル人が小高い部分に拠っていたということがわかります。一昨日はセナド広場の裏手から大巴三街に入って「仲見世」を歩いたのですが、今回は別のルートをというので、關前街Rua dos Ervanarios)を歩いてみました。マカオ最古の商業地だそうで、いわれてみればそんな気もしますが、とにかく町というか国全体が古びているので何が歴史で何が現在なのかがそもそもわからん。近世のはじめにポルトガル人が拠点を築き、いろいろな人たちが寄ってきて住まい、思い思いに足場をつくってきたものと思われます。魯迅の言ではないが、もともと道はそこになく、人が歩けば道になる。そうした本来の街区構造のまま、さしたる近代化も都市計画もなく、幸いにして空襲も災害もなかったため、現代の常識からすれば方角がわかりにくく自動車の走りにくい町になっているということでしょう。ほんと、香港とはまた別の意味で都市のリアルが体感できるなと。

 
 


そのあと西岸の大通りが罅些喇提督大馬路(Avenida do Almirante Lacerda)と名を変えるあたりまで歩いて、そのあたりの商店街の様子などを観察。もう少し時間があれば、マカオ半島の北端に進み、中国本土との唯一の通関ポイントである關門(Portas do Cerco)まで行って国境の様子を観察したいところですが、半島北部およびタイパ、コロアネを含めて宿題にしましょう。歩くうちに、見たいところがどんどん増えてきました。授業では欧州の写真を学生に見せて(見せびらかして)、興味をもってもらうのはいいのだけど、距離も予算もなかなか大変なので気軽に勧めるわけにもいきません。でもマカオならばいいんじゃないかな。海外デビュー前の学生が何より恐れる言語の問題も、表意文字さえ読めれば観光くらいできそうなので。何より、われわれと近くて遠く、遠くて近い生活様式を体感するのはいい経験になるはずです。

北に向かって歩きすぎたため、帰路は路線バスを利用することにしました。どこまでも歩けて行けてしまう町だし、路線系統がよくわからないこともあって乗る機会がなかったので、最後に1回だけ利用してみることにしましょう。媽閣行きに乗れば西岸の幹線道路をまっすぐ進むことがわかっているので、その系統を待って乗車。立ち客もある盛況ぶりです。マカオ半島の路線バスは13.2 MOPの均一運賃で先払い。財布を開くと、もうパタカのコインが払底しているし、あったとしてもアボス(1/10パタカ)のコインなんてこの3日間で見ていません。小数点のある値札ってあったのかなあ。いずれにしても実勢レートで50円もしない激安運賃なので問題はありません。残っていた香港ドルに登場してもらうことにして3.5 HK$を取り出し、念のため運転士にこれでいいかと確認して、運賃箱に投入しました。ちなみにマカオパタカを香港領内で使うことはできませんのであしからず。

 下環街の屋内市場


せっかくバスに乗ったので、あのノスタルジックな商店街をもう一度見たくて、ホテル前を通り過ぎ、下環街に直行しました。前日は途中で折れてしまったので、あらためて商店街を最後まで歩きとおし、結構な規模の屋内市場なども見学しました。欧州各都市でこの種の屋内市場を見ることがあります。ここも活気がありますね。1230日ですので、いまごろ上野のアメ横は歩けないくらいのにぎわいになっていることでしょう。ここマカオの下環街には特段の歳末感というのはなく(春節=旧正月ベースなのでしょうか)、日常の光景が見えるというところなのですが、町歩き派の私にはそれこそがベストな絵にほかなりません。

一通りの見学を終えて11時前にホテルに戻りチェックアウト。香港につづきこちらも快適でいいホテルでした。予約してあるタクシーを待つつもりでいたら、レセプションまわりを仕切っている中堅のホテルマンが、表に停まっている車に乗ってくださいと誘導します。「このお客さまは予約の車が・・・」とレセプションの若い男性がいいかけたのに、広東語で何ごとかいって納得させ、当方を連れ出しました。ホテル側の問題なのでよしとしましょう。浅黒い顔立ちの運転手は漢族というより東南アジア系なのかなという雰囲気で、英語は話せないらしく、かなり強い訛りで「エアポート」と行先を確認しました。空港は南のタイパにあるのに、車は先ほど歩いた西岸の道路をどんどん北上するので、これは距離稼ぎかなと思ったら、3本の長大橋梁のうち空港に直結する澳門友誼大橋(Ponte de Amizade)の渡り口は外港フェリーターミナルより北側にあるのでした。失礼しました。そういえば香港からの噴射飛航はターミナルに入港する手前でこの橋の下をくぐっています。全長4.7kmと、マカオ半島自体よりも長いのはびっくり。空港までの所要時間は約20分、タクシー料金は103 MOPでした。

 
 
マカオ空港 上海・大連・天津など中華人民共和国の都市だけでなく、中華民国の高雄に向かう便も設定されている


当初の心づもりより早く1130分ころ空港ターミナルに着きました。チェックインは2時間前からとのことなので、1時間ほど非制限エリアで過ごさなければなりません。このエリアの飲食店は、中華料理とマクドナルドが1つずつだったので迷わず前者に入り、これはありませんと2回いわれたあとで、生滾牛肉粥(Congee with Beef 42 MOP)なる品を発注。最終的にお粥の中で火が通るように設定された薄切り肉が数枚、細切りのレタスに青ネギが入っています。お米の形はほとんどなく、ざらざら程度の食感が残る程度まで煮込まれており、いい味ですね。中華粥はダシが命なのだ(と山岡士郎がいっていました)。残念ながら大青島はなく、喜力啤酒(罐装)つまり缶入りのハイネケン(26 MOP)をいただきました。

お早めにチェックインしてくださいといいそうなところ、この空港はジャスト2時間前を過ぎなければまったく受けつけてくれないようです。香港上環のフェリーターミナルと同様に、制限エリアが狭いため多くの人間を一度に入れたくないのでしょうけれど、そんなに込むかね。それにしてもずいぶん新しい空港だなと思ったら、帰国後に調べたところこの澳門国際機場Aeroporto Internacional de Macau)は返還直前の1995年に開港したそうで、本当に新しいものだったようです。旧宗主国の置き土産という意味では香港の新空港と同じだけど、マカオにはそれ以前に空港がなく香港からのフェリー移動に頼っていたので、まったくの新規開業だったとのこと。ただでさえ狭い土地ですし、マカオ半島の長径は4km弱、タイパ、コロアネは両方合わせても6kmくらいのもので、3,200mはほしいといわれるジェット機用の滑走路を捻出するのはまったく不可能。どうしたのかというと、タイパからコロアネにかけての沖合に細長い滑走路だけの島を埋め立ててつくり、ターミナルはタイパの海岸に設けて、その間を海上の誘導路で結ぶという、かなりめずらしい仕様の空港にしたのでした。チェックイン後に制限エリアに通ると、ガラス張りの明るいスペースに免税ショップなどが並んでおり、大きな窓からは「海上空港」の様子がよく見て取れます。


マカオ航空のエアバス機で、東京・羽田(ではなく、ひとまず福岡)に帰ろう


新空港の開設に合わせて、新しい航空会社も設立されました。フラッグ・キャリアとしてのマカオ航空(澳門航空 Air Macau)です。今回いつものようにANAのサイトを開いて、東京→香港、マカオ→東京のオープン・ジョー(インとアウトの都市をずらした変形往復チケット)をオーダーしてみたら、マカオからの帰便は福岡乗り継ぎということになっていました。成田までの直行便もあるはずですが、ANAとのコードシェアになっているのが福岡便なので、福岡→羽田はANA国内線を利用しなさいということなのでしょう。これで込み込み105,030円。せっかくなので福岡発を13日にずらし、久しぶりに福岡の実家で年越しということにしました。盆暮れ正月の国内線は一切の割引がなく、シンプルに福岡を往復するだけでも7万円を超えてしまうので、香港とマカオに行けて、さらに三が日中の移動を込みで10万円というのはかなりエコノミーのように思います。欧州と日本をむすぶ便だと、それぞれどの都市どうしであっても全体の所要時間に大差はないのですが、日本の領空のせいぜい2倍くらいの範囲内ですから東京と福岡の違いは大きく、マカオ→福岡は2時間45分しかかかりませんでした。アジア近っ。またぜひとも焼きそば食べに出かけましょう。

港澳中リアル中華街めぐり おわり


西欧あちらこちら


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