ホテル0階のレセプション付近には観光地図が掲出されていて、おすすめの散策路がいくつか矢印で示されていました。ここに来たときには最も海側の大通り、火船頭街を歩いてきたのですが、おすすめモデルコースだとホテルすぐそばの小径を進むように指示されています。ひとまずめざそうと考えているマカオの目抜き、亞美打利庇盧大馬路(新馬路)と火船頭街とは十六浦の手前付近で約60度の鋭角三叉路をなしています。ホテルから新馬路に逆V字で進むのは遠回りなので、おすすめコースならばショートカットできそう。その道、蓬萊新街はどう見ても裏路地ふうですが、小さな食料品店とか不動産屋があったりして、昔の東京みたいです。その先で清平巷という道路に入りました。ここは商店街で、比較的大きな飲食店やお土産屋さんなども見えます。これも昔の日本の、そうだなあ、地方の観光地で夜に外出したような感覚を思い出します。香港と違って建物が低層なので余計にそんな感じがするのかもしれません。先ほどはマカオの町を高いところから眺めて、おんぼろ屋根のバラックまがいみたいな感想を抱きましたが、私が生まれ育った昭和の東京も同じ角度で眺めたらそのように見えたのかもしれませんね。
蓬萊新街〜清平巷 日本産のナマコはキロ8800 MOP(約13万円) これって高いの安いの?
香港でたくさん見かけたものよりさらに渋い乾物屋さんのショーウィンドウには、日本産のフカヒレや干しナマコが陳列されています。よく知られているように、広東料理で珍重されるそれらの乾物で最高級とされるのは日本からの輸入品。日本史の本を読むと、元禄期を過ぎると長崎貿易が入超(日本の輸入超過)に陥って銀の流出が深刻になったので、新井白石らの政権が対策を練り、ナマコ(いりこ)、干しアワビ、フカヒレの乾物3種を俵に詰めて「俵物」を仕立て、銀の代わりにこれで決済したという話が出てきます。出島に来るオランダ人が干した海産物をありがたがるはずはなく、オランダ商人や中国商人たちは長崎で俵物を載せてマカオに運び、そこで現金化しました。清朝が安定期に入り、食文化がかなり豊かになってきたこともあって、そのルートでの高級食材が大いに売れたわけです。魚翅(フカヒレ)の料理は満漢全席(清朝の支配階層をなす満洲族と、漢族の料理のえりすぐりという趣旨)の主要メニューにもなっていますよね。
そのころのマカオが清朝の実効支配の下になかったことは確かですが、ではポルトガルの植民地だったのかというと怪しい。国家主権(けっこう難しいのですが、国境で区切られた国土=領域の内部ではその国の法だけが排他的に適用されるというふうにひとまず考えておきます)という概念自体がちょうどその時期の発明でしたし、1648年のウェストファリア条約以降は欧州大陸でその原理が機能しましたが、非欧州世界に適用されたわけではありません。中華王朝を中心としたいわゆる冊封体制がそうであるように、国家間にも序列や上下関係がありましたし、琉球国王のように、その地位が誰によって安堵されたものなのかわからないようなケースもありました(琉球国王・尚氏は1609年以降、徳川将軍の臣である薩摩藩主島津家に従属する立場で、薩摩藩による監視を受けましたが、その地位は中国の皇帝によって冊封された琉球国中山王(ちゅうざんおう)であり外形的には清朝の属国だった)。ヴァスコ・ダ・ガマの航海によってアジアへの進出を開始したポルトガル人は16世紀前半に華南に到来し、マカオに交易拠点を開きました。この時点では地代を払って居住権と交易権を得るという「店子」の立場で、フランシスコ・ザビエルもその時代にここから日本布教へ出かけています。しかし清朝の中央政府が海禁政策を採り、海への関心をさほどもたなかったこともあって、ポルトガル人のマカオでの優位が惰性的に確立されます。アヘン戦争の結果、1842年に香港が英領になると、マカオのポルトガル人も1845年に清朝の役人を追放してマカオ半島の自立を宣言しました。そのころには、ポルトガル本国はとっくに没落して植民地支配への野心もほとんどもたなかったのですが、現地のポルトガル人が率先してそのような行動をとったといわれます。このときタイパとコロアネの2島を占領しました。国家ないし植民地として自立するには後背地が必要だったのです。1887年、ポルトガル政府が公式に植民地化を宣言しました。
歩道の露店で売られていた雑誌 習近平(この国の「国家元首」のはず)のやばめな特集ばかりですが、言論の自由はありそうですね
ポルトガルの植民地は世界各地にありましたが、アフリカのモザンビークやアンゴラをのぞけば広域支配といえるところはなく、このマカオやマラッカ、インドのゴアなど、交易拠点だったところを近代的な植民地へとなし崩し的に切り替えたところが大半でした。しかし19世紀になると、船舶が大型化しているのにマカオ港の整備が進まず、隣接する香港にオイシイところを全部もっていかれることになります。何より、世界のヘゲモニーを握って繁栄する最強国家の英国と、過去の栄光を頼るばかりの欧州の小国ポルトガルの差が、両植民地のどうにもならない落差となって表れてしまいました。第二次世界大戦でポルトガルは数少ない中立国だったため、香港を攻撃して占領した日本軍もここには手を出しませんでした。広東省などから戦火を逃れて多くの華人がマカオに流入します。戦後、中国が共産化すると、やはりそれを嫌った人たちがマカオ(や香港)にやってきました。現在、ポルトガル系ないし欧米系の住民というのは数パーセントしかいません。
植民地マカオが第二次大戦後も生き残ったのは冷戦のゆえだったといってもよいでしょう。宗主国ポルトガルは反共を掲げたサラザール独裁体制だったこともあり、一貫して中華民国を支持し、中華人民共和国の正統性を否認しました。アメリカを中心とする西側(日本を含む)にとって、香港とマカオ、および中華民国が実効支配する金門島・馬祖島は、中国大陸に打ち込まれた西側のくさびみたいな意味をもっていたのです。中国本土が文化大革命のさなかにあった1966年、親中国系の住民のデモにマカオの警察が発砲して死傷者を出したことを機に、中国は人民解放軍の侵攻をちらつかせてマカオを恫喝し、謝罪を引き出しました。この事件を境にマカオの中華人民共和国への傾斜が強まり、ポルトガル本国が中華民国を支持しているのに植民地はそれと断交して中華人民共和国を支持するというねじれすら現出させました(ポルトガルと中華人民共和国の国交樹立は1979年)。そうなってくると、もともと分不相応だった海外領土の維持は重荷でしかなくなります。サラザールの死後に民主化したポルトガル政府は、マカオの主権返還を何度か中国側にもちかけたようですが、中国側から待ってくれといわれています。香港をどうするかでもめているので、(本音でいえばどうでもいい)マカオをいま返還されると大事な香港問題がこじれるから、しばらく預かっていてくれということだったようです。1984年に中英が香港返還で合意したのを受け、ようやくマカオの扱いについての交渉が開始され、1987年にまとまりました。マカオの「返還」は1999年12月で、香港の例に倣って一国両制の特別行政区となり、資本主義経済と一応の自治、制度や法律などの別枠扱いが温存されることになったのです。
マカオの座標ゼロ、セナド広場 ここだけ妙に欧風です
新馬路はメインストリートとはいえ対面通行で狭いのですが、交通量が非常に多く、とくにこの時間(18時過ぎ)は通勤時間帯のようでお客を満載したバスがかなりの頻度で行き交っていました。マカオにトラムなど軌道系の交通機関はなく、すべてバスに依存しています。香港と同様に、なぜか宝飾店や高級時計店が多いな、でも店の規模がかなり小さいなあと思います。観察しながら進むと、まもなくセナド広場(Largo do Senado 議事亭前地)。ここがまさにマカオの中心です。セナドというのは議会を表す語で、ローマ時代の元老院(senatus)に由来します。フランスの上院はいまもセナ(Sénat)という呼称。ここのセナドは、16世紀いらいポルトガル人たちの自治の拠点だったもので、忠実なる議会(Leal Senado)と呼ばれていたものに由来します。その建物は、返還以降は首都の自治体に相当する民政總署(Instituto para os Assuntos Cívicos e
Municipais)に引き継がれ、広場の向かい側に建っています。クリスマスと年越しのイルミネーションがまあ派手やかなこと。目抜きの商店も含めて「昔の東京」ふうだったのに、この広場周辺はウソくさいまでに欧風で、どこかの展示場とかテーマパークに紛れ込んだような気がするほど。若者がやけに多く、観光客も多い。ここから2ブロック、聖ドミニコ教会(Igreja de San Domingos 玫瑰聖母堂)までは、ブランド店や欧風の飲食店が並ぶゾーンです。逆にいうと、そこだけが欧風で、前後左右はまったくのアジア。これまでマカオの様子を写真などで見る機会があるにはありましたが、このセナド広場を写したものも多く、ああやっぱりポルトガル領だったから欧風なのかと安易に思っていました。これで欧風都市といえるくらいなら自由が丘だってむしろヨーロピアンだわね。
聖ドミニコ教会
その裏手は狭い道ばかりですが、人の流れがあるので、適当に歩いてみます。マカオ中心部の道路は、新馬路などをのぞけば直線がほとんどないので、私の脳内の空間センサーが機能しません。東西南北のどちらに進んでいるのか、角を曲がるたびにわからなくなる恐れがあるので、センサーを切ってマニュアルで進みましょう。とくにあてはないので人の流れに従って歩けばよく、わからなくなったら立ち止まって地図を開けばよいわけです。どのみち数キロ四方の小さな都市国家ですから、迷ったところでたかが知れている。狭い商店街には、洋品店と昭和の表現で呼びたくなるような衣料品店とか、おばちゃんがやっている化粧品店、渋すぎる八百屋さんなど、またまたなつかしい光景が点在しています。セブンイレブンがあったので、また夜の燃料を仕入れておきました。ここで初めてマカオパタカ紙幣を使用。バイトのおねえさんに何ちゃらキャンペーンのスタンプは要りますかと聞かれますが、笑顔でノーサンキュー。
夜のマカオ中心街 大三巴街は仲見世のような雰囲気?
そのうち大三巴街(Rua de San Paulo)に出ました。ずいぶんとにぎやかな商店街、というか浅草の仲見世みたいに、観光客めあての土産物屋さんや軽食店などが軒を連ねています。この手の土産物店って個々の違いを出せるわけでもないし、よく共倒れせずにやっていられるなと毎度感心します。にぎわいは好きですが土産物には関心なし。浅草だけでなく、京都の清水寺周辺とか奈良の東大寺参道、太宰府天満宮の参道なんかがコテコテのゾーンですし、パリのノートルダム寺院裏やモンマルトル界隈にも、世界一流の観光地に来てこれを買う人がいるんかいと突っ込みたくなるようなスーヴェニア・ショップが軒を連ねています。買う人がたくさんいるから成立しているわけよね(まあ横浜中華街なんかも広い意味でそのたぐいではある)。どことなく「参道」の雰囲気を連想しながら歩いていくと、写真で見たことのある建物――というか1枚の壁――が見えてきた! 旧聖ポール天主堂(Ruínas de San Paulo 大三巴牌坊)です。幅広の階段を刻んだ小高い丘の上に、五角形の堂々とした教会が建っています。マカオのランドマークとしてしばしば紹介される建物、ではなくて1枚の壁。19世紀に火災で建物本体が失われ、ファサードだけが残されて、かえって情趣を惹いています。ライトアップされてきれいですね。この教会は17世紀初めに造られましたが、その建設にあたって日本人の関与が伝えられています。成立まもない江戸幕府はキリスト教禁止へと舵を切り、キリシタン(宣教師や一般の信者)の国外追放に踏み切りました。このとき一部のキリシタンがマカオに亡命、職人などもそこに交じっていたため教会の細かい彫刻などを担当したといわれているそうです。
先にヴァスコ・ダ・ガマの名前を出しました。少し前までは、ダ・ガマの「インド航路開拓」がとてつもなく大きな出来事であるように捉えられ、歴史の授業でもそのように教えられていました。しかし、ムスリム商人による環インド洋商業圏、華僑や琉球の商人が活躍した東・南シナ海の商業圏があり、両者をつなぐ東南アジアの大きな商業圏もあって、中世にはすでに大きなネットワークをなしていたところへ、遅れてポルトガル人が参入し、既存のネットワークに便乗したのだと説明されるようになってきています。それにしても、それまでユーラシアの他方の端にいてまったく無縁だった人々がはるか東アジアまでやってきて歴史に確かな痕跡を残したことは間違いありません。マカオそのものが近世にはいると衰退し、近代の発展からも取り残されたような面が否めないものの、ゆえに16〜17世紀ころの痕跡をたしかに残していることには強く興味を惹かれます。
旧聖ポール天主堂 立派な建物・・・と思ったらファサード(正面の壁)だけが遺されている
この旧教会はぜひ昼の明るい時間にもう一度訪れておきたい。いまはここに来ようと思って来たわけではなく、流れに任せてたどり着いただけでした。センサーを切っているのでそのようなことになります。でも、このあたりの様子がかなりわかったので、明日の散策の参考になることでしょう。来たときとは多少道順を変えながらセナド広場に戻りました。先ほど歩いてきた清平巷付近にはいくつもの飲食店が並んでいて、さながらマカオの中華街といった感じでしたので(一応トートロジーにはならないと思う)、よさげな店があれば入ってみることにしよう。さすがマカオは広東省のつづきだけあって、海鮮系を売りにしている広東料理店が目立ちます。やはりというか、全体に古めかしい構えの店が多く、横浜でも小規模な老舗の感じに近い。客引きが出ている店もあるけれど、その兄さんがあえて当方から目をそらすようなことがあり、これは歓迎しないということだから回避ですね。食事処選びの当たり外れを恐れないタイプなので、これと思ったところに入ればいいなと思って、食材のいけすが外から見える演出の一軒をのぞき、1人ですと告げると、どうぞこちらへとテーブルに案内してくれました。李康記海鮮飯店(Lei Hong Kei Restaurant)というお店です。19時を回ったところですがかなり先客があります。わいわいとにぎやか。家族の食事とおぼしき人たち、職場の同僚ふう、そして大学生仲間の飲み会みたいなグループもいます。内装はこれも昭和の町なかの食堂のようで、行書体で書かれた(中華圏なので当然ですが)縦書きの舌代が壁じゅうに掲げられているのもノスタルジック。私そんなに古い人間じゃないと思っていたんだけどな。
バインダー式のメニューには写真つきで多様な料理が掲載されています。もともと中華料理は複数で机を囲んでモヤイ式に食べる前提なので、1人だと食べられる料理の種類が限られてしまうのですが、それは仕方ありません。今宵はぜひチャーハンを食べてみたい。横浜はじめ日本の中華料理店で五目炒飯と呼んでいるスタンダードな料理を、本場では揚州炒飯といい、この表現は欧州の中華料理店でもおなじみです(フランス語ではriz cantonais=広州風ライスと呼ぶ。このズレは何なの?)。ぜひそれを。そしてもう1品、蒜茸炒芥蘭という青菜系とおぼしき炒め物をとりました。あ、もちろん青島ビールね。
まず青菜の炒め物がやってきます。芥蘭というのは不勉強で知りませんでしたが、あとで調べたところではカイランという広東地方の野菜だそうです。茎の太さと触感はアスパラガス、葉っぱの部分は小松菜みたいな味で、菜の花みたいなつぼみがついているのでアブラナ科であることはすぐにわかりました。茎が枝分かれしているのは日本の野菜にあまりない感じです。細かく刻んだニンニク(蒜茸)と塩味で炒めてあって、ビールにめっちゃ合う! 青島ビール(大青島啤酒)は香港と同じ640mLですが、ラベルにBIERE BEER
CERVEZAと3言語(フランス語、英語、ポルトガル語)で書いてあるのが独特。そうそう、ポルトガル語とかスペイン語の系統ではセルヴェッサというんだった。仮にこの店でポルトガル語を話しても通じないと思いますけどね。つづいてチャーハン。こんもり、ゆうに2人前くらいはあります。やはり長粒米を使っており、チャーシュー、エビ、レタス、青ネギ、卵と具はいたってノーマル。が、スプーンで口に運んで思わずうなります。何だこれ、最強に美味いぞ!!! これまで数えきれないほどチャーハン食べたし、自分でつくるのも得意なほうですが、3本の指には間違いなく入るほど美味しい。火加減と、食感と、味つけが絶妙すぎます。あ〜幸せ。
この店のサービス係の男性は福田康夫さんみたいな顔立ちで、前夜の香港同様にサービスの仕方が雑。でも愛想はかなりよく、英語はあまり話さないようですが、こちらの英語に中国語で答えてきて、何となく話が通じています。リアル中華街めぐりといいつつ、いつもの横浜と同じように安っぽいものばかり食べてきましたが、ここは少しだけ値が張ります。蒜茸炒芥蘭48 MOP、揚州炒飯60 MOP、大青島25 MOP、花生(アテのピーナツ)10 MOP、ジャスミン茶が4 MOP。いまレシートを見てみると茶とは別に芥(1 MOP)というのが書いてあるけどこれ何でしょうか? お茶は自動的に出てきましたが、それとは別にサービス料(服務費)10%が加算されているようで、込み込み163
MOP。香港やマカオは基本ノーチップでよいとされていて、私もとくに何かあるのでなければ不要かなと思いますが、サービス料を強制的?にとられるのであればそれがチップ相当なのでまったく問題ありません。ま、しかし全部で2000円台前半ですから設定と質・量を考えれば、私の感覚では安い。あくまで一人旅派ですが、夜にちゃんとした中華料理を食べるときだけは仲間がいたほうがいいというのは確かでしょう。
ホテルの朝食メニューは例の不思議な組み合わせだった・・・ (A・B・Cから各1種を選択)
12月29日(木)は8時ころ1階(日本式でいえば2階)のレストランに降りてきて朝食。別建て75 HK$の朝食をネット予約の段階で頼んであります。ベストウェスタンだし、建物や部屋の造りは欧州や日本と何ら変わらないしで、たぶんビュッフェ式の朝食で、中華粥+油条なんかが選べるのがローカルな感じ、というのを想像していましたが(以前に泊まった中国のホテルはそうだったので)、ここはテーブルサービスで、こちらからお選びくださいと写真入りのメニューを示されました。何ということか、これは3日前に香港の茶餐廳で食べた朝ごはんと同じパターンではないですか! メイン?は餐蛋面(Noodles Soup with Lancheon Meat and Fried Egg)、餐蛋通粉(Macaroni Soup with Lancheon Meat and
Fried Egg)、西多士(French Toast)から1つ、サイド?は奶油多士(Butter Toast)、花生醤多士(Peanut
Butter Toast)、菠蘿油(Buttered
Pineapple Bun 香港式のパンで、メロンパンに似ている)、澳門三寶拼盤(Macau Cookies Platter)から1つ、ドリンクは港式奶茶(Hong
Kong Milk Tea 冷/熱)、爆脆阿華田(Ova
Crunch ミロのような麦芽飲料で香港・マカオでは定番らしい)、珈琲(冷/熱)、紅茶(冷/熱)のうちから1つを選択します。とことんローカル・ルールでいいじゃないですか。隣席の欧米人2人がアメリカン・ブレークファストみたいなプレートをとっているのを尻目に、こちらは港式ないし澳式に徹することにして、A マカロニ、B バタートースト、C ホットコーヒーという組み合わせをチョイスしました。ラーメンの丼に白濁したスープがたっぷり入り、メニューに表示されたとおりにマカロニ、スパム、そして両面焼きの目玉焼きが入っています。洋風なのか中華風なのか、目玉焼きをスープに入れるというのも初めてだし、とにかくめずらしいというだけで美味しくはない(笑)。トーストはかりっと焼けていて美味しいのですが、なぜかはさんであるのが甘いバター。香港やマカオの人は朝っぱらから甘いものを食べるのが好きなんでしょうかね。この朝食会場は表から直接入店できる一般のレストランを兼ねています。窓から見える目の前の公園では、中高年の男女が太極拳をやっているのが見えて、何ともチャイナな光景ね。
ホテル周辺はやっぱり灰色の世界 奥に見える高級カジノ十六浦の建物が浮いている・・・
今回の旅程で唯一国境通過のない1日です。大まかな計画としては、午前にマカオ半島の南側を回り、午後は北側にというふうに考えています。昨夜少しだけ歩いてわかったように、とにかく道がぐねぐねのたくっていて方向感覚をつかみにくい町ですので、そこはその場の気分ということにしましょう。まずは前夜と同じようなルートで新馬路に出ました。10時を回り、各種商店が開店した時間帯です。前述したように、小規模の宝飾店や時計屋さんが多く、ウィンドウをのぞいてみるとけっこう高値のものが並べられていて、こんなにお店があって買う人いるのかねと思います。中でも周大福(Chow Tai Fook)という宝飾店は1ブロックに1軒あるんじゃないかというほどの頻度で目にします。香港の彌敦道や中環界隈でもずいぶん見かけました。あとで調べると香港の巨大企業集団らしい。この新馬路に宝飾店などが多数出ているのは、カジノの関係だと推察されます。カジノで遊ぶ層との親和性が高い業種ということね。かつては質屋さんも多かったそうです。
民政總署とその向かいにあるセドナ広場
セドナ広場から2ブロックほど進むと町の景観がかなり変わります。そこまでは低層の店が並ぶ「商店街」ふうでしたが、南灣大馬路(Avenida da Praia Grande)との交差点を過ぎたところあたりから、がっしりしたビルの並ぶ商業地区になり、銀行などが目立ちます。宝飾店も立派に見えます。東京の下町方面で、商店街を抜けてJR駅に近づいたときの感じに似ています。宿泊しているところが西岸にあるので、いま半島の真ん中を横断して東岸に向かっているところです。東岸側はカジノ地区で、ド派手な建物がいくつも建っているのがこのあたりからも見えます。
朝の新馬路 時計の値札は上段がマカオパタカ、下段が香港ドル
新馬路をそのまま歩いていたはずなのに道路名が殷皇子大馬路(Avenida do Infante Dom Henrique)に変わっていました。あたりはカジノと銀行と宝飾店ばかりで、いよいよお金遣ってくださいという雰囲気がばんばん伝わってきます。ポルトガル語の綴りでお気づきかどうか、殷皇子というのは世界史の教科書に必ず登場するポルトガルの「航海王子」エンリケのことです。ポルトガルがイスラーム勢力を南に逐ってレコンキスタを達成したあと、15世紀前半にアフリカ西岸への探検を開始するのですが、その際にパトロンとなった王子で、欧州サイドでいう「大航海時代」「世界の発見」の幕を開けた人物ということになっています。ポルトガルないし欧州の視点で見れば、なるほどエンリケがきっかけをつくったアフリカ遠征の延長上にダ・ガマのインド航路「発見」があり、それが16世紀のマカオ到達につながった・・・ ということになりますか。
その大通りに面したカジノには新葡京(Grand Lisboa)とか葡京娯楽場(Casino Lisboa)といった名がつけられています。ポルトガルの漢字表記は中国語でも日本語でも葡萄牙で、英・仏・独のように葡の1字で国を表します。首都リスボンを葡京と表現しているわけね(リスボン自体の中国語は里斯本)。約4年前にリスボンに滞在しましたが、こんなド派手な娯楽場とは無縁の、渋くて穏やかな町だったですけどね! このあたりのカジノを経営するのはスタンレー・ホー(Stanley Ho 何鴻燊)という世界的に有名な大金持ちです。香港出身で、第二次大戦中に香港が日本軍に占領されたのを機にマカオに移り、戦後はここでカジノの独占経営権を手にして財を成しました。近代化に取り残された感のあるマカオからすれば、まあ恩人といえるのかもしれません。周囲を中国に囲まれた極小の領土では、とくに冷戦期には産業を育成するのもままならなかったわけで、広い河口をはさんで向かい合う香港の人々を引きずり込んでお金を落としてもらうというのが、まあ考えられる手ではあったのでしょう。まあ、などと留保があるのは、カジノというのを産業の核に据えることに対する違和感が私の中にもあるからです。日本でも最近それらしい法律ができましたので、近い将来カジノ地区が生まれるかも。もっとも、マカオやラスベガスやモナコなどカジノで繁栄しているところは、いわゆるギャンブルだけでなく家族で滞在して楽しめるようなインフラがかなり整っていますので、カジノ・アレルギーの人が想像するのとはちょっと違うかもしれません。なおスタンレー・ホーの独占権は1999年のマカオ「返還」で消滅し、アメリカ資本なども参入することになりました。製紙会社のオーナー社長がはまり込んで大変な背任をやらかしたのはそちらの新しいほうだそうです。
南灣湖に面した地区は「娯楽の殿堂」 バスターミナルもここに設けられている
カジノの前にはバスターミナル。その先には南灣湖(Lago
Nam Van)という、直径500mほどの人口湖、というか池があります。「返還」後の再開発プロジェクトとして、この周辺をツーリスティックに大改造しようという計画が進められているようです。マカオ・タワー(東京タワーよりちょっぴり高い338m)もその一環で、2001年に完成しました。見るからに工事中の埋立地というような土地がかなりあり、これからまた変わっていくのでしょう。きっかけはカジノだったかもしれないが、近代化に取り残された怪我の功名で古きよき景観もたくさん残されていることから、マカオという都市全体がグローバル・ツーリズムの対象として注目されつつあります。この国は観光業でやっていくのだという覚悟を見る思いがします。そんな話を聞いていたからこそ私までがふらふらやってきたわけでもありますしね。なお、申すまでもないかもしれませんが、マカオにいちばんやってきて、いちばんお金を落としてくれるのは中国人です。集団で行動する中国本土の観光客の姿は、欧州や日本でも見慣れているのと同じで、背格好や言語がほぼ同じでもぱっと見でわかってしまいます。
PART7につづく
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