■宗教が信仰心だけでなく、世俗、政治、アイデンティティなどと密接に結びつき、国のあり方や法律に影響を与えたこと、そして与えつづけていることを実感した。宗教への知識の乏しさや偏見が因果関係の不明なショートを生む。このことが国家単位でも起こる可能性があることに危機感を覚えた。一部の人々が過激な行為をすることで、そのグループすべての人が悪であるとされ、これまでの不満や焦りを何かの契機にぶつけるようになる怖さを感じた。人々の内面に深く関与する宗教・信仰は、人間(個人)の思想を確立する。それを外側から冷静に偏見をもたずに学ぶことが重要であると考える。
■お寺で柏手を打ってしまうという話に、自分もその区別がついていなかったのでハッとさせられました。日本の宗教観も複雑なようですが、とくに印象に残ったのは、現代の宗教問題はアイデンティティ対立であり格差の問題である、という視点です。宗教は単なる信仰の話ではなく、それを超えて世界中でさまざまな問題の引き金となっている要素であるということを感じました。これからは自身の信仰の有無に関係なく、知識として宗教についてさらに学びたいと思った。
■今回の授業で宗教について学び、宗教について学ぶことは現代社会で生活するうえで、知識として必要なことだと思いました。西洋近現代史を受講しているのですが、世界のことを学ぶには宗教を切り離すことができず、社会と宗教は密接であるのだと感じました。大学がつくられたのも当初は聖職者のためであり、現代に大学があって学ぶことができるのも宗教と深くかかわっていると思います。正しい知識をもつことは大切で、その知識を用いて多角的に考えていきたいです。
■今回の授業を受ける前、自分は特定の宗教を信仰していないからと宗教について考える姿勢が不足していたが、授業後に考え方が大きく変わった。カトリックとプロテスタントの分裂について学び、宗教が単なる信仰うんぬんの問題ではなく、プロテスタントの価値観が近代資本主義の発展に影響を与えるなど国家制度や人々の生き方自体をかたちづくってきたという事実に驚いた。他の選択授業で、フランスのライシテについて論点と立場を定めて議論した経験があり、あらためてフランス革命以来の思想の歴史や移民問題などの背景を含めて考えることの大切さを感じた。私は、中学校の社会科の授業で「宗教の話題は人前で話してはいけない」と、かかわってはいけないようなイメージをもってしまっていたが、まずは宗教・文化・歴史についての知識をつけて、初めてそのような配慮ができるのかもしれないと考えた。
■日本の仏教と神道の違いもあまりわかっていなかった。宗教について意識していなかったため、国際社会を考えるうえで、1学期に学んだ言語と並ぶ、大きな要素であるということがわかった。とくにキリスト教については、選択科目の西洋中世史で学んでいて、カトリックと正教会の話はつかむことができた。なんのためにキリスト教について学ぶのかと考えていたが、キリスト教を通して欧州の歴史を学び、宗教と社会とのかかわりを理解し、まともな宗教観を身につけることが重要なのだと思った。フランスが徹底した政教分離をしていたり、ドイツでは宗教教育が存在したりと、世界各国にさまざまな宗教のあり方がある。多様な宗教のあり方があることも理解し、偏った主張に呑まれないことが重要なのではないかと考えた。
・・・> とくに社会科学系統(政経・法・社学など)に進学する希望のある人は、キリスト教史の知識が前提になりますので(先生たちは知っていて当然という前提で授業する 笑)、まあ知っておきなさい。
■私は少しだけ宗教に興味があり、別の科目のレポート課題のテーマとしても何度か選んでいた。そのため三大宗教+αの歴史についてはある程度は知っているつもりであった。しかし、最も身近な、たとえば近所にある寺社がどの宗派に属しているのかを知らなかった。いままでは、自分のものになっていない、薄っぺらい知識を大事にしてきたが、これからはもっと身近な情報についていろいろ調べ、自分のものにしていきたいと思った。
■キリスト教やイスラーム教の話を聞き、詳細なことや複雑なことはほぼ知らないなと感じていた。しかし、日本の主な宗教である仏教や神道についても、私は合掌と柏手の区別がついていなかったなど、無知なことが多いとあらためて自覚した。フランスの政教分離は世界でも稀有な徹底ぶりであると知り、一見厳しすぎるのでは、と思うかもしれないが、きちんと分けてメリハリをつけたほうが、トラブルが少なそうである。
・・・> 小学校でクリスマス会とかしませんでした? フランス式だと、あれもダメということになります。「いただきます」の合掌を先生が促すのもアウト。
■キリスト教の派閥によって価値観や歴史が異なり、それが派閥を理解するうえで重要であることを実感し、ただ知識として主要なことだけを覚えても学びとはいえないのだということを実感した。宗教は、アイデンティティや格差、社会変化に対する葛藤が絡んでいるため、信仰しないからといって無関係だとはいえないのだと思った。知識の浅さが偏見や差別を生むということを学び、いわれたことをそのまま鵜呑みにしないで、客観的に物事を捉えようとする意識が必要だと思った。
・・・> ×派閥 ○宗派。こんなのも、間違えたらヤバいというレベルの常識なので、もう間違えないようにしましょう。

中国のメイン宗教ともいうべきものが道教(Taoism) 道教の寺院を道観(どうかん)と呼ぶ
(左)横浜中華街の関帝廟 関帝というのは三国志の英雄・関羽のこと (右)香港の天后古廟 航海の守り神である媽祖を祀る(横浜中華街にも媽祖廟がある)
日本人は道教が宗教であると考えないことが多いが、風水や厄除けなど日本の慣習に取り込まれた道教の文化もかなりある
いわゆる七福神のうち福禄寿と寿老人は道教から取り込まれた神
■宗教問題を単なる信仰の問題ではなく、近代化に伴う変化への葛藤として捉えるような視点は、応用していきたいと思う。今夏ニューヨークの9.11メモリアル・パークへ行ってきたところだった。貿易センターの跡地にある水の底が見えないのは、永遠の思いを表しているからだと、現地の人がいっていた。
■この世は複雑で、そんな世界の変容への葛藤として宗教問題を見るという視点は、今後常に考えながら過ごそうと思った。
■宗教は長いあいだ世界を説明するものであり、自然科学が誕生し発達してもなおその機能をもっていて、心の安寧を与えつづけている。宗教どうしの対立は複数国の国民どうしの対立のみならず個人の対立としても表出していたことがわかった。
■宗教やその作法について何も知らず、恥ずかしいと感じた。自分や周りの人たちのためにも正しい知識を学びたいと思った。フランスの政教分離やドイツの宗教教育など、国によって宗教の扱い方は異なり、文化やナショナル・アイデンティティに影響していくというのは興味深い。世の中の真理など、現実では説明できないことを宗教では説明できるという点に納得した。
■同じ宗教においても正教のように国家で違うものや、宗教の中にも過激派とそうでない人たちがいるということを知りました。ニュースなどでも○○教の人たちが●●しました、というトピックをよく見るため、その宗教はよい、ダメなどとひとくくりにして考えないようにしようと思います。
■宗教は単なる信仰心だけでなく、社会の変化とかかわることで人々の不安や生きづらさに寄り添い、ときに大きな社会的・政治的影響力をもつものなのだと思った。それは人々にとって心の拠りどころであると同時に、人々・社会・世界を動かす原動力にもなりえると思った。
■正教の八端十字架は、普通の十字架に比べて札木や足を支える横木があることから、物語性や意味をより込めた形になっているのだと考えた。
■ロシアに行ったとき多くのロシア正教会を訪れた。そこでは、多くの聖人画が飾られており、信者の方々が口づけをされていた。また出産後の赤子に対する洗礼のようなものをおこなっている家族も見た。そこで考えたのは、日本では結婚や葬式においてはキリスト教や仏教が絡むが、出産においては何の宗教も絡んでいないということだ。
・・・> いやいや、まだ若いので、これまでの自身の経験の中で触れたことがなかったからではないですか。特定の信仰をもっていいない人の場合、七五三や成人式のような通過儀礼や結婚式で宗教を絡ませないかぎり、あとは生まれるときか亡くなったあとなので、自分では自覚のしようがないですしね。日本では妊娠が安定期に入ったころ(5ヵ月目)に、岩田帯とか戌帯(いぬおび)と呼ばれる帯を妊婦が着け、それを親族の人たちと祝うという儀式があります。犬は出産が安産っぽく見えるので、それにあやかって戌の日が指定されます。農村部ではいまも普通におこなわれますし、都市部でも簡略化されたかたちでなさっている家庭がかなり多いです。たいていは妊婦側の親が帯を用意して、神社(東京だったら水天宮がやっぱり一番人気)にみんなでお参りして安産を祈るというコース。当然、生まれたあとには赤ちゃんを連れてお礼参りをします。生後100日ではお食い初めといって、定まった形式の食事を用意し、それを赤ちゃんに食べさせて(食べさせるふりをして)、この子が一生食べていけるようにと、成長を祈願します。これらは習俗であって宗教ではないと思う人もあるかもしれませんし、別にそれでもかまいませんけれど、神道(神社)がたいていセットになり、神様に祈りつつ赤ちゃんとその家族の繫栄を願うという、まことに信仰そのもののようなものだと考えるのがよいのではないでしょうか。
■神父さんは何の言語で信者に説教していたのですか?
・・・> 信者の母語かそれに近い言語。フランスなら(当時の)フランス語。

プロテスタント ルター派の教会の例
(左)クリストゥス教会(ドイツ ハノーファー) (右)フレデリクス教会(デンマーク コペンハーゲン)
■カトリックの聖職者が神父で、プロテスタントの教職者が牧師であり、カトリックとプロテスタントの違いだから絶対に間違えてはいけないものだとわかった。「わかった」という言い方を私もよく使っているが、それは本当にわかってはいないと聞き、たしかにそうかもしれないと思った。授業で知ったほんの一部分からしっかり自分で調べて深入りしないとわかったとはいえないと感じた。私も神社で手を合わせて拝んでしまっていたので、イラストのおかしいところに気づくことができず、本来は柏手とお辞儀だけだというのが衝撃だった。二礼二拍手一礼は昔から受け継がれているのではなく、逆に最近になって浸透してきたというのも驚きだった。
■お寺では合掌する、神社では柏手を打つということを知らなかった。いつも家族や前の人を見て倣っていたから、次回は少なくとも、神社だからこうするんだと考えるようにしたい。アメリカにいたときに、Merry ChristmasではなくHappy Holidayといったりカードに書いたりしていた。それは、クリスマスではなくハヌカなどを祝う人がいて、失礼になってしまう可能性があるからだ。日本では宗教のことなど気にせずにこのようなイベントを祝う人が多いと思うから、国として祝うのが当たり前だと考えるのはやめるべきだと思う。
・・・> Googleなどのグローバル企業はかなり以前からHappy Holidaysといっています(複数形を確信的に用いる)。商売ですからね。日本にいるクリスチャンの方はクリスマスを大切に過ごされると思うのだけど、クリスマスだ、わーいと盛り上がる人はキリスト教にも他の宗教にも関心があったりなかったりするので、1週間後には初詣で神社やお寺に行っても、とくになんとも思わないことでしょう。クリスマスでもホリデーでも気にしないのではないかな(そもそも「クリスマス」とカナ書きした時点で、そこに「キリスト」が含まれていることに気づきにくい)。最後の「国として祝う」というのが、ちょっとわかりにくいです。「このようなイベント」は、どれを指すのでしょうか? 日本国憲法20条では、国家・政府が特定の宗教を祝ったりしてはならないことになっていて、実際にそこは抑制しています。もしかすると「(日本)国民がクリスマスなどを祝う」という意味なのかもしれないけれど、個人として強制されずにするぶんには、祝おうが祝うまいが、宗教だという意識がなく商業イベントだと思って騒ごうが自由なので、「べき」といっても仕方ないのではないかな。
■日本に住んでいるのに、寺、神社それぞれにお参りの仕方があることを知らなかったし、いままでどこでも同じお参りの仕方をしていたことが恥ずかしくなった。
■祖父母は二礼二拍一礼でやっていたので、それに倣って私もそれを習慣にしていた。神社や寺に行くと、参拝の仕方は人それぞれなのを思い出した。
■新年に初詣に行くと、二礼二拍手一礼を、お願い?お祈り?のようなことを、手を合わせたままでしています。家族もその場にいる人すべてが手を合わせます。これは合掌になるのか。巫女さんや職員の方に何もいわれないけど、正しい知識から見ると、よくないことである気がしました。二礼二拍手一礼のように、近年の伝統がつづいているだけなのかもしれません。ただ、海外の宗教の話も踏まえると、現代の解釈が正しい or 間違っているだけの問題ではないとわかります。それぞれが生まれた地の宗教をよく知らないがゆえに、自他の宗教を軽視し、それが大きな争いを生む可能性を高めるのだと思います。今回の2コマ目の内容は、ただ振り返るだけでなく、過去のニュースも調べながら深めようと思います。正直わからないことだらけだったため、自分のため、周りのために少しでも理解したいです。
■神社めぐりが趣味なのですが、どの神社に行っても参拝するときには合掌してしまっていたことに気づき、日本人として恥ずかしくなりました。二礼二拍一礼に関しても、物心ついたころからお参りする際にはこの形式でするのだと何百年も前から決まっていたと、勝手に思い込んでしまっていました。絵馬を書いたりたくさんお参りしたりして現世利益を求めているこの考え方は日本人の特色であると知り、神社や神仏習合など、日本人でありながら無関心どころか無知であったなと痛感しました。フランスとドイツでは宗教教育における考え方が正反対であるなど、いままでひとくくりにして捉えていたキリスト教も、より細かく見ると、宗派や信仰の仕方にとって、分けて捉えるべきなのだと思いました。まずは日本の宗教から「宗教」についての知を蓄えていきたいです。
■合掌と柏手の話がありました。痛いところを衝かれてしまいました。妹が合掌し目をつぶっている絵を描こうとしていましたが、その絵のために参考にしている妹の七五三のときの写真では、彼女は神社で合掌しています。写真を撮る専門家のほうも間違えていたので、わかっていないのに美しさのためだけに写真を撮るのはどうかと思うし、それを知らずに「かわいい」で終わらせていた私たち家族はひどいと思います。妹の七五三が少し台無しになってしまいました。絵を描くときには舞台を寺にしようと思います。
・・・> まず神社(神道)での合掌について。本来の神道式では、てのひらを合わせた(合掌した)ままキープするということはありません。ただ、現状は大多数の人が、柏手を打ってそのまま合掌し祈るというのがむしろ標準になっているため、神社の側もそれを批判することはなくて、容認しているのではないでしょうか。論者によれば、神仏習合時代(江戸時代まで)は柏手もなく合掌のみという庶民が多かったともいいます。次に二礼二拍一礼ですが、誤解のないようにいうと、ありもしない作法を最近になってでっちあげたというわけではなく、神道の作法としては以前からあったが、神職(神主さん)が神と向き合う際や各種の儀式の際などにそうするとか、「うちの宗教は仏教ではなく神道です(家族が亡くなったら神式で葬儀をします)」という家庭の方がきちんとした作法でお参りするという場合にほぼ限定されていました。大多数の一般人は、柏手(二拍)→合掌 だったのです。私の記憶だと、ネットとかSNSの影響ではなくもう少し前だったと思いますけれど、テレビや雑誌の記事で「実はこうするのが正しいんだよ(みんな知らないみたいだけど)」というような指摘が増えて、一挙に二礼二拍一礼をする人だらけになりました。仏教と同様に神道にもいろいろな宗派や組織があって、拝礼の仕方は思いのほか多様で、二礼二拍一礼を批判する人たちもかなりあります。また二礼二拍一礼にしても、それが確立されたのは明治期で、いまのようなかたちに整備されたのは第二次大戦後ともいわれます。特定の宗派を信仰する人がするのであればちゃんとしたほうがよいだろうけれど、神社はどこでも普通にお参りしますというくらいの一般人がかしこまってするほどのことではないというのが私の考えです(別に支持しなくてもかまいません)。神社によっては、「形式にはあまりこだわらず、心を静めて祈ってくださればいいんですよ」といってくれることもあります。なお、仏教寺院で二礼二拍一礼をするのは最大級の痛恨事で絶対に誤りですので、それだけはしないでね。

水天宮(福岡県久留米市) 平家一門とともに海に沈んだ幼帝・安徳天皇と、祖母の二位尼(平清盛の妻)、母の建礼門院(清盛の娘)を祀る
安産祈願で知られる東京・人形町の水天宮は、久留米藩江戸藩邸の中にあったものが近代になって独立したものである
この神社の神官だった真木和泉(右の像)は尊王攘夷思想の活動家として非常に有名で「維新に着火した人物」と評されることもある
■仏教は合掌、神道は柏手をしてお参りするとわかった。仏教と神道はもともと違うものだったが神仏習合によって近いものとされたとわかった。
・・・> 本当にわかっているのかな? ネタにしてあげているあいだに、そのクセを見直しなさい。指摘されて「自分がそうかもしれない」と思ってくれないと、成長が止まってしまう。
■お参りするときには、お願いよりも日ごろの感謝をしたほうがよい、とどこかで聞いたのですが、本当なのでしょうか。
・・・> それは私(学校教育)の答えるべき問いではないので、お寺か神社か、そういうことに詳しいとかこだわりのある人に聞いてください。
■多くの日本に住む人々は、正月にお寺や神社に初詣に行くが、お参りそのものは宗教施設における祈りや宗教的行為というよりも、日本における年中行事の一つとして捉え、娯楽として消費している人が多いと思う。私もそのように捉えてしまっていたのですが、かなり安直な捉え方になってしまっていたと気づいた。クリスマスを例に見ても、日本人の多くはキリスト教徒ではないのにもかかわらず、その日は特別な日とされ、多くのイベントや興行がおこなわれている。また「クリスマスにケンタッキーを食べる」という文化も、かつての日本にはなかったものの、日本KFCの広告展開によって広まったものであり、そのことが示すように人々の思想や文化の中にはこうした企業の広告やメディアの発達によってつくられたものも数多くあるのだと考えた。政治と宗教については国や地域によってその結びつきの強さに自然差が出るのは致し方ないことと感じつつ、人類の社会で他者と交流しながら生きていく以上、知っておくべきだと思った。
・・・> スライドのキャプションに示しているように、初詣は20世紀の「新しい伝統」です。本来は氏神さま(地域共同体の中にある神社)や檀那寺(自分の家が檀家となっているお寺)に出向いて、年末年始のごあいさつをするというくらいの地味な行事です。交通機関がない時代に遠方に出かけていく理由も手段もないですからね。いわゆる私鉄と、広告媒体としての新聞・雑誌が登場して、「お正月は○○電車に乗ってあの有名な神社に初詣に行こう!」という宣伝がなされ、ブームになったのでした。また、ご利益を求めて遠方までお参りに行くというニーズがいったんできると、こんどはそれをめあてに新たな路線を建設するということが起こりました。いわゆる「大手私鉄」は、関東には東武・西武・京成・京急・東急・小田急・京王・相鉄・東京メトロの9社があるのですが、このうち東武(日光東照宮・輪王寺)、京成(成田山新勝寺)、京急(川崎大師、穴守稲荷)、小田急(大山寺)、京王(大國魂神社、のちには高尾山)は寺社参詣を目的(の一つ)として設立・建設されたものです。関西だと近鉄にその色がかなり強く、当初は生駒山の宝山寺をめざして、当時としては考えがたい規模のトンネル工事をおこなって大阪と奈良を直結しました(当時の大阪電気軌道はこれで資金がショートし、宝山寺にお賽銭を借用してしのいだため、いまも律儀にケーブルカーの運行をつづけています)。昭和期に入ると日本の神社のトップに位置づけられる伊勢神宮への参詣客を輸送することに注力し、大阪と名古屋から伊勢をめざす路線を確立し、旧国鉄を圧倒しました。いまもお伊勢参りといえばJRではなく近鉄で、天皇陛下も首相も伊勢参拝の折には近鉄特急を利用します。伊勢神宮への参詣ニーズというのは、とくにナショナリズムとか日本的な宗教への固執といったことでもなく、「ご利益があればな」とか、レビュー主のいう「年中行事」だったはずなのですが、それがいつしかファシズムや軍国主義に絡め取られていきました。戦時下にあっては、娯楽やレジャーは不謹慎とされたのに、寺社参詣とくに天皇制とかかわりの深い寺社への参詣は奨励されたので、その意味合いがよくわかります。私も寺社参詣が好きで、DDかというくらいに無節操にあちこちお参りしますが、それでも「信仰とかじゃなくて慣習だし、イベントだよ」と割り切れないのは、そうした歴史を知るからですね。
■いろいろな寺社がスライドで紹介されている中に、地元の池上本門寺があってうれしかったが、その反面、その歴史について何も知らないことを恥ずかしく思った。お会式のイメージしかなかった。
・・・> 私の弟が本門寺のすぐそばに住んでいるんですよね(笑)。私もわりに近くで生まれ育ったので、子どものころからなじみがあります。あの界隈では、お会式は一大イベントで、とくに「音」のにぎやかさが印象的なのではないでしょうか。本門寺の境内から「裏口」にあたるほうに抜けて、地下鉄の西馬込駅のほうに向かって山を下ったあたりで、宗祖日蓮が亡くなったといわれます。その日蓮が足を洗ったという伝説があるのが、池上線で十数分、五反田方面に進んだところにある洗足池。お花見の名所としても知られます。私が生まれたのはその付近だそうです(記憶にはない
笑)。
■授業の最初のほうにノートルダム大聖堂の映像が出てきました。この言葉を聞くと私はヴィクトル・ユゴーのNotre-Dame de Parisを思い浮かべてしまいます。この作品が好きなので名前が出てくるとつい思い出します。Notre-Dameが「我らの」「貴婦人」(=聖母マリア)であるということを知らずに読んでいました。単純に大聖堂の名前を借りているのだと考えていましたが、大聖堂にも意味がありました。これを知ると、大聖堂=聖母マリアということから、Notre-Dame de Parisに出てくる主人公カジモドがエスメラルダを連れて敵から逃げ、大聖堂に駆け込むシーンは、聖母マリアのもとへ、守ってもらうために逃げ込んだのだと捉えられると思います。このように、宗教について(外側から)学ぶことで、余計に本を読むのを楽しめ、理解が深まると感じました。
・・・> ユゴーの名作(1831年)ですね。ちょっとだけ語学的なアドバイスをしますと、複数の単語をセットにして寺院の名称や道路名など固有名詞にする場合にはハイフンでつなぐのがフランス語の流儀なので、普通の文の中だとnotre dame(私たちの貴婦人)でよいが大聖堂がついて固有名詞化するとCathédrale Notre-Dame de Parisとなります。フランス各地やベルギーなどにあるノートルダムもすべて同じ。同作の舞台は百年戦争後のパリで、町の規模はいまの10分の1もないくらいであり、ノートルダムのあるシテ島とその周辺のちょこっとした範囲がパリでした。中世史を詳しく学ぶと、背景やモチーフがよりわかってきます。まず大聖堂というのは、授業でも紹介したように大司教座のある寺院ですので、パリを中心とする地方ではカトリックの最上位にあり、とてつもない権威と権限を有しました。当時はようやく王権が伸びてきたころであり、依然として教会のほうが優位にあったといってよいほどです。同作の主人公たちは、階級が固定されて移動範囲も著しく制限されていた封建社会がぼちぼち崩れてきたころ、相当な下層階級に属しつつわりに自由な行動ができるようになっていた都市(パリ)に入り込んできた人物たちです。カジモドは捨て子、つまりは既存の社会に生まれたときから居場所がなく、教会に救済されその労働力として酷使される立場でした(日本の江戸時代も、親のわからない子どもなどは仏教寺院に拾われてそこの労働力になることが多かった)。エスメラルダは名前がフランス語っぽくないことでも察せられるように外来系の少女。いうところのロマです。いまでもロマに対する差別や侮蔑はなくならないほどなので、中世末期においてはかなり苛酷だったことでしょう。今回の授業ではスライド1枚で終わってしまった「欧州における宗教優越の時代」は、カトリックの権威・権力が世俗のそれ(王権や封建領主の権威・権力)を圧倒しており、カトリックが社会の規範や秩序を成立させるという面が強かった。だから下層民の存在や差別構造そのものを教会がつくる、という側面がかなりありました。Notre-Dame de
Parisの教会側の登場人物の描写にそれが投影されています。他方で、教会の支配する領域は世俗の領主や商人なども侵犯できない「神聖な場」ですので、下層民やいまでいうホームレス、ロマのような流浪の民、芸能民、障害者などにとっての安全な居場所にもなっていました。ですから当時のノートルダム大聖堂は、社会構造や時代相そのものを強く反映した場になっていたのであり、ユゴーはそこを数名の登場人物に仮託して描いたのだと考えられますね。

クリスマス・イブのカイザー・ヴィルヘルム教会(ドイツ ベルリン)
■政治と宗教の関係は、昔に比べてより分離されているものだと考えていた。科学によって宗教の神秘性が薄れてきているのだと考えていたからである。しかし今回の授業を受けて、私の想定よりも宗教がわれわれの社会に根づいていることを学んだ。
■学校教育で「宗教」を扱う際には、教師側は非常に注意深く授業の準備をする必要があると思う。豚肉の話からイスラーム教の話をはじめたところで、すでに子どもたちに偏見を植えつけることにつながってしまう。また「豚肉を食べない」などといった宗教の特徴や事実のみを伝えてしまうのは、なぜそのような特徴をもつのかということや、その宗教の誕生や歴史という、最も学ぶべき内容を極端な偏見を利用して、見て見ぬふりをしているようにも思えてしまう。その教室にイスラームを信仰する生徒がいたかもしれないのに。宗教は、対立を生む一つの要素といえる。だからこそ宗教がつくり上げる社会や構造を、歴史という時間軸を交えて学び、外側から「宗教」を考えなおしてみたい。
・・・> 社会科教員の育成に長く携わっている経験から申しますと、少なからぬ日本人はよくも悪くも宗教への関心が薄いため、下手に取り上げて問題になることを恐れ、歴史や地理も含めてあっさり名前を出すくらいで終わらせてしまっています。左と右の違いもわからずに公民(政治)を教える教員が増えたのと同根で、無関心という名の無知の状況にあって、しかもそれを恥じていないのではないかな。イスラームに関しては、やっぱり縁遠い対象であったため、神道・仏教・キリスト教に比べても知識や見識に乏しく、変な言い方ですけど「扱い方」すら考えたことがないという人が最近まで多かったみたいですね。フランスでは、教員になる際の研修というのはほとんどないのですが、ライシテだけは徹底されます。やってはいけないこと、やるべきこと、生徒の行動や言動がライシテに抵触した場合の介入の仕方。それは、自身に特定の信仰があろうとなかろうと、さまざまな宗教・宗派に対するかなり深い知識をもっていないとできないことですからね。
■今回は、宗教とそれに伴う近代・現代の趨勢について見ていった。卒業論文で、第二次世界大戦下の日本のキリスト教徒について研究しているため、グローバル化という点は違うが、最初はいつもより親近感を覚えた。ただ中身はグローバル化が主であった(とくに後半)のため、私の卒業論文とは違う様相で、興味深かった。SNSの発信力など、いわば誰もがカルト宗教を開いて入信してしまう可能性はあるだろう。
■宗教・信教の自由を人権として学んだが、公的な領域に持ち込んではいけない国もあると知り、「ある人の自由が他の自由を侵害する可能性」まで考えられていることが興味深い。
■フランスの政教分離については学習したことがあったが、日本や他の国の政教分離についてとくに気にしたことがなかったことに気づいた。日本でも仏教や神道が政治に強い影響力をもっていたことを再認識させられた。現代の豊かな生活を堕落であると批判しているのはイスラーム教だという印象があったが、キリスト教にもそう考える人がいるということが意外に感じられた。仏教にもそういった思想はありますか?
・・・> あります。授業でも指摘したように、江戸時代に入って多くの仏教宗派は体制化し、世俗権威化しました。そのため社会が混乱し、その後の近代化の動きの中で激しい変動を経験するようになると、庶民は真に救いとなる教えを求めるようになります。既存の仏教の中からも、このままでは仏教としての使命を果たせないと考えて、教義や布教方法を先鋭化させるものがいくつか出てきました。興味深いことに、日本仏教のほとんどすべての主要宗派(天台宗・真言宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗など)から新宗教が派生しています。現在も活動中で、政治的な影響力を保持しているところも少なくないので固有名詞は挙げません。これはキリスト教の根本主義などとも共通する難しさなのですけれど、近代化をやめない現状がおかしい、堕落だ、同調してはいかんと批判しても、人間は豊かさや快楽を求めるものなので、信者を引き留めようとすればカリスマ的な教祖や指導者、かなり戦闘的な教義や規範が必要になってきます。その作用が強いほど、外側にいる人たちからは「変わった宗教」「ちょっと異常」とみられることになり、ときにはその視線を「自分たちが試されているのだ」と内部の結束と規律への従属につなげることになって、問題をこじらせることが少なくありません。
■先生は、お葬式のあとのお清めの塩が嫌いだといっていたが、私は反対だ。お清めの塩は決して自分たちの亡くなった人から身を守るためにやっているのではないと私は思う。式場や火葬場にいる他の成仏できなかった霊がついてくる可能性があるから、お清めしているのだと思う。
・・・> 「これは私の意見なので賛成でも反対でもいいですけど」と私自身が申したのですよね。ですから自分の意見を述べることはもちろん結構ですし、今後も恐れずにやってほしいのだけど、これに関してはレビュー主の誤りであり、この事象に関する知識に決定的に欠けています。もうそろそろ大学生になる時期なので、社会習慣や事象に対して、経験から感覚的に得られたもので解釈するのではなく、ちゃんとした学習にもとづいて考察するように習慣づけましょう。倫理の教科書が手許にあれば、日本思想の章で、ケガレ(穢れ)について読んでみてください。「成仏」「霊」といった言葉を混在させているあたり、日本の宗教についての知識がかなり不足していることがうかがえます。ケガレの思想や、それを落とす行為(みそぎ、はらい)は、本来的には仏教ではなく日本古来の思想であり、神道の考え方に近いものです。お清めというのはケガレを落とす行為です。なぜ私が、ケガレを清めるという行為を批判するのかまで、ここで述べることはしません。残念ながらいまのレビュー主にこの話をしても適切に伝わらず、まずい部分だけ誤って伝わる危険があるからです。(これまでのレビューやレポートからそのように判断しました。でも興味があれば直接話しますのでいってください)
■日本の寺社の話を聞いたとき、靖国神社の英霊となる基準について問題があったのを思い出しました(戦犯の合祀や、原爆で亡くなった人を合祀していないことなど)。このことだけみると、問題になるくらいなら政治と宗教は分離したほうがよいと思っていたのだけれど、フランスやドイツ、トルコやアメリカなどの状況を聞いて、分離するだけが選択肢なのではなく、まずは宗教の歴史や現状を正しく理解する必要があるのではないかと、考えを改めなければいけないなと思いました。また宗教という大きなくくりで人を見るのではなく、個人を見つつ、その人のアイデンティティの一つとして宗教を理解していきたいなと思いました。
・・・> 本題の中心部分ではないのであっさり通過してしまいましたが、国家神道のところで触れているように、明治維新から敗戦までの神道は、政治というか国家体制の中に取り込まれていて、政治そのものの存在だったといえます。第二次大戦後になって、日本国憲法20条との関係で、分離するかしないかという問題が繰り返し議論されていますけれども、当時の文脈でいうならばむしろ一体のものとして考察すべき対象なのではないでしょうか。武士=生まれながらの兵士(soldier)という身分がなくなり、庶民が徴兵されて戦闘に動員されるようになると、殺し合いなんてしたくないし戦争で殺されるのはとても怖いので、「国家のために戦って亡くなった人は国家がそれに報いる」という形を可視化することが絶対に必要でした。ことし戦後80年になりましたので、戦争で亡くなった方の配偶者はもうずいぶん少なくなりましたが、そのお子さんの世代はまだたくさんいらっしゃいます。遺族にとっても靖国神社は「父の存在(≒自身の存在の根拠)」と触れ合える場として、多くの場合には望まれています。靖国神社はあくまで宗教施設なので、強くお勧めはしませんが、こだわりがないのであれば訪れていて、そのときにはぜひ遊就館にも足を運んでください。そこで熱心に祈っておられる方の心情というのがすっとわかってくるかもしれません。なお私自身は、靖国神社が宗教法人であり、宗教施設である以上、国家や政治とは完全に分離するべきであると考えており、戦争で亡くなった方の国家的な慰霊はそれとは別におこなうべきだと考えています。首相や閣僚の公式参拝には反対の立場です。
■日本では、神道や仏教があいまいに混じり合い、形式的な合格祈願などが強調され、本来の宗教的意味が薄れているという指摘が印象的だった。また海外の宗教間の対立やアイデンティティの問題と比べると、日本人の宗教観はわりに穏やかで、無知につながっていると思った。フランスのライシテとドイツの宗教教育の違いは、政治の制度や憲法のあり方に直結している。政治・経済で学んだ政教分離や基本的人権の具体的ケースとして捉えることができた。
・・・> 前半の、日本(人)の宗教観についてのまとめが簡潔すぎて、ややショートしかけています。神仏習合がはじまったのは古代の後半(奈良・平安時代)、統一権力に屈して信者に教義を説いていく宗教性を薄れさせ世俗権力化したのは江戸時代。現世利益はおそらく古代からつづく日本の特徴ですが、宗教性を失ったことで現世利益ばかりが突出することになったわけです。合格祈願なるものは近代の学校教育とセットなのでさらにあとの時代。そして、海外が正しくて日本がちょろいということではなく、日本(人)の宗教観はこれこれの特色をもっている、という相対的な話です。仏教や神道や種々の信仰は古くからあったけれど、それらを「宗教」という概念でくくったのも近代。開国後に欧米からreligionなる用語と概念が入ってきて、ああなるほど、これらは宗教というふうに総称できるのだなと初めて気づいたのでした。でも一神教ベースで構築された欧米の宗教観をそのまま尺度にすると、神道も仏教もなかなか分析しにくい(とくに神道)。特定の宗派や神様ではなくても、「うまくいきますように」と目を閉じて祈るとか、願をかけて好きなものをがまんするみたいな行為は普通におこなわれています。教祖がいて教義が文字化されていて体系的な教えがあって教典があって組織がある・・・ といった欧米式の定義をそのまま持ち込むと、いろいろ間違えますね。
■宗教観の対立による事件は日本ではそれほど耳にしないけど、国籍のコミュニティと宗教のコミュニティが複雑に絡み合っている外国ではそういう問題が多発している現状を理解し、自分は無宗教であるけれど海外へ行ったときに外国人とのトラブルやその助長をしてしまうことがないように、宗教に対する知識・理解を深めていきたいです。
・・・> 心がけはよいのだけれど、「外国では」「海外へ行ったとき」「外国人とのトラブル」という想定なのが甘く、浅くないかい? 肝心の部分を読み取れていないかもしれない。
■外国(とくにヨーロッパ)に行くとき、宗教のことを何も知らずに旅行するのは危険でもあり、失礼にもあたることだ。また、住んでいる日本のことも知らなければいけないと思った。いま宗教に関する社会問題が注目を浴びているが、なぜ自分が信じたもの以外を信じている人々に対して不寛容になってしまうのか。
・・・> それは宗教にかぎらず政治・イデオロギーなども同じような構図だと思います。宗教の場合は、本格的に信仰するほど自身の内面に確信や信念が備わるので、同じように他の宗教を信仰している人やその態度を許容しがたくなります。寛容(tolerance)というのは現代人にとって必須かつ重要な徳なのだけれど、もともとはキリスト教世界において異教徒とどのように向き合うのかという際のテーマでした。無宗教・無信仰の人、あるいは宗教への関心が薄い人だと、このあたりがピンと来ずに、「宗教が違うからって何を争っているんだ」と突き放してしまうこともありますが、自身が「本物の信仰」をしていると考える人ほど、「それ以外の本物の信仰」があるというのは受け入れがたいのではないでしょうか。それでも向き合うのが寛容。ここから先は私の考えですけれど、「私は特定の宗教を信じないし、これといった知識もないので、どの宗教だからというので差別はしないです」という言説はたぶん無自覚ゆえの誤りだと思う。なんらかの当事者になったとき(たとえば家族や友人や勤務先が宗教的な問題にかかわったとき)に、むしろ不寛容になるのではないかしら。
■先生はK-Pop系や坂道系のアイドルは好きではないのですか?
・・・> 異教徒には不寛容なのです。

(左)南欧風の赤瓦の家に混じってモスク(イスラーム寺院)の尖塔がある景観(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ)
(右)ブルガリア ソフィアのモスク ブルガリアは19世紀までオスマン帝国による欧州支配の足場になっていた
■カルトやセクトを宗教と混同することは危険で、まともな宗教の知識が必要であると教わったが、カルトと宗教は何が異なりますか? なんとなく自由を奪ったり、洗脳、搾取する団体はカルトだ、という認識はあるが、古くからある信仰だけが宗教なのか?と思った。長い歴史の中で、国家の政権を握ったり土地をもったり、国家と適切な距離を取る政教分離を図ったりといった、「ちゃんとした」段階を踏んでいればまともな宗教なのか、それだけではないと思うので判別が難しいと感じた(暴力的な行動をする信者をもつ宗教も宗教だし・・・)。正直、理解しかねる宗教もあるが、一つの学問として折り合いをつけ、このような考え方もあるのだなと思えるようにしたい。信仰している分には人に迷惑をかけないし自由であるので、たしかに宗教にマイナスイメージはなく、宗教から派生する差別、倫理的対立が問題であるのだと、考えを改めたい。歴史やアイデンティティ、社会問題といった、授業で扱ったものと宗教は密接不可分であるが、同時に美術や小説、習慣、音楽も宗教の影響を受けているので、趣味のほうでも宗教を学ぶべきだと思った。
・・・> レビューは受講直後に書いていただいているので、スライドの文字表現などをそのまま反映できないことがあります。あらためて見てみてください。タイトルに掲げたのは「カルトやセクトを見て、宗教一般と混同するのはいろいろ危ない」という文字列です。「宗教一般と混同」ですね。国語的な、言葉尻の問題でいえば、カルトと宗教を混同することはあっても、カルトと宗教を区別することはできません。なぜならカルトは宗教の一部だからです。「変な人間と人間一般を混同しないように」と聞いたら、○○さんという変な人間がいたとしてもそれが人間すべてに当てはまると思いなさんな、という趣旨ですよね。それと同じ。まともな宗教ということに関しても、私はかなり慎重な表現を選んでいて、同じスライドにはこうあります。
●まともな宗教の知識(「まともな宗教」の知識 & まともな「宗教の知識」)がないとかえって危険なのではないか。
レビュー主も懸念するように、まともかどうかの線引きは不確実であるので、そこを相対化するつもりでかぎかっこをつけています。カルトの定義というのはいくつかありますが、共通して、反社会性、搾取性、教祖や指導者への服従などが挙げられます。「まともな宗教」なんて決められないというのであれば、「カルトやセクトではない宗教」というくらいに、ラフに考えておくと、あとあと整理しやすくなりますよ。
■最も印象に残ったのは、宗教でしか説明できないことがたくさんあるという部分だ。先生がおっしゃっていたのは、「生きていること」や「本来こんなはずではない」ということを説明するときに宗教が出てくる?ということだった。また、最後の部分で、説明できないこと、完全にわからないことがあるのは当然のことなのですべてを完全に説明しきる宗教は存在しないともいっていた。その2つが混乱してしまった。
・・・> スライドを復習してくださいね。最後に示したのは、「絶対にこうなる」「原因はコレ」といったわかりやすさ、いわれた側の痛快な心地よさを示す教え(訓え)が出たらそれはエセ宗教だろう、というものです。宗教でしか説明できないことは、宗教ならばすばっと明快に説明できるということを意味しません(それはわかりますよね)。短期的に、誰にでも即座にわかるような明快さで「あなたが不幸なのはこれが原因!」なんていってきたらエセ宗教です。宗教でしか説明できないことって、とてつもなくややこしく、難解なテーマが多い。だから宗教は、それを一般人に説明するために長い時間をかけていろいろな教義を磨いてきました。そこをショートするのはたいていヤバいやつです。(既成宗教の多くはその初期に「奇蹟」を伴っていますが、それはそれで歴史の話)
■自分の身の回り(自分を含む)では、宗教よりも科学が勝っている(科学が真理みたいな感じ)と思っているが、ニュートンから自然科学が生まれたということや、他の国の事情やイスラームの話を聞いて、形が違うだけでどちらもこの世を理解するための手段であり、同質のものであるのだと感じた。また後半の話を受けて、カテゴライズという行為はその本質を見極めずにおこなわれるととても危険なものになると感じた。誰かの悪意あるカテゴライズに踊らされないように、いろいろなカテゴリーについて学び、その実態を捉えられるようにしたい。
■宗教のことについて、いままであまり深く考えずに生活していたが、身近なところにも宗教の複雑さが潜んでいるのだとわかり、軽々しく宗教のことに触れることがないようにしようと思った。私が今回の授業で興味をもったのは、科学と宗教についてである。科学に支えられた現代の社会においても宗教が存在しつづけるのは、人間に何かにすがりたいと思わせる社会の不安定さが存在しつづけるからなのだと思った。やはり科学からの視点だけで宗教を考えようとするのはよくないと思った。
■信仰している・していないにかかわらず宗教についての知識を知らない、無関心ではなく無知であるというのは怖いことだと気づいた。無知であることにより、その宗教を信仰する人への侮辱、いじめ、差別につながると思った。また半端な知識は無知である人よりも偏見をもちやすいのではないかとも思った。特定の宗教のことを「○○だからあの宗教の信者はおかしい」というように考えることにつながるからである。仮に宗教の考え方として人権侵害を認めていたり、人の生命を雑に扱ったりしていたとしても、信者や信者の多い地域をすべてまとめて「おかしい」とするのもダメだと考えた。宗教がかかわっている問題、事件、戦争について知ろうとしていなかったので、自ら情報を取り入れなければいけないということに気づかされる授業だった。