古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine II: Réflexion et apprentissage mondiaux ou ‘global’ pour le futur proche

現代社会論IIグローバル思考と近未来の世界への学び


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S205教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

20251011月の授業予定
10
3日 視点としてのフランス:問いなおされる共和国の原理
10
10日 視点としてのドイツ:十字架を負い、欧州を牽引する
10
17日 商品作物と垂直分業とグローバル・チェーン:新・南北問題と私たちの消費生活
11
7日 グローバル時代の欧州(1):欧州統合の原理と論理
11
21日 グローバル時代の欧州(2):新時代の挑戦と試練

 


次回は・・・
19-
グローバル時代の欧州(1):欧州統合の原理と論理

現代世界を学ぼうといいつつ、当科目のスコープが欧州Europe)に偏りすぎではないかという批判や不満はもっともです。担当者の専門分野や関心の対象が欧州であるということで、そのようになってしまっていて、申し訳ありません。ただ、地球上にいくつかある大地域の中からどれかを取り出して考察するという際に、欧州がかなり有力な候補になることは間違いありません。これまで欧州のエリア編として、英国、フランス、ドイツを見てきましたが、いずれも近代のある時期に世界全体のスタンダードや指標となるものをつくり出し、こんにちの世界各地域にそれを見ることができる、という点で共通しています。非欧州世界への進出・侵略と、それに対する反応や反動というのも、現在につながる大きな問題です。多民族共生や移民の問題などが典型でしょう。日本で生活する私たちにとっては、欧州に二重のモデル性(お手本や参照枠としての値打ち)を見ることができるのではないかと、私は考えています。一つはもちろん近代化に際して、欧州からさまざまなもの(有形・無形)を取り入れたことです。そしてもう一つは、「先進国」が行き着いた先の問題。ドイツ編で少し触れたように、発展途上(developing)であるうちは、どこかの国のなんらかのあり方を目標として進めばよいが、そこにいったん行き着いたあとにはもう国レベルのお手本は存在しません。量的な開発・発展(development)ももう果たしようがない。欧州も日本も、いわばdevelopedな地域として、こんどは量ではなく質の成熟をめざしていかなくてはならない。そう、お手本というより、多様な参照先を欧州の各国・各地域が示してくれるのです。いまはどうしても勢いのある中国・インドや、グローバル・サウス諸国に目を惹かれますけれど、欧州のモデル性という価値をもっと見出さなければならないと思うのですね。たまたま欧州の専門家でもありますので、研究・教育活動を通して私だからこそ提供できる視点を、お伝えできればと思っています。

あらためて世界全図を見るまでもなく、欧州はユーラシアの西のほうに、大陸全体から見ればかなり限定的な範囲に詰め込まれた大地域です(ユーラシア EurasiaというのはEurope + Asiaなのですが気づいていたでしょうか?)。中国全体とサイズ感としては同じくらい。そこに40以上の主権国家がひしめいています。さすがに先進地域だけあって、具体的な中身をイメージするのは難しくても、国名を聞いたことがないというところは、ほとんどないのではないでしょうか。そのうち27の主権国家は、欧州連合European Union / Union européenne / Europäische Union)のメンバー・ステートです。英語の略称EUは、しばしば日本のニュースにも登場するので、存在は広く認識されていることでしょう。ただその実際の機構や存在意義について社会科教育で取り上げることはほとんどありません。「普遍的な国際組織に加えて、共通の利益を持つ国同士が協力関係をより強くするための地域的な制度も設立されています。こうした動きを地域主義(リージョナリズム)といいます。/ヨーロッパでは、まず経済面での統合が行われ、1993(平成5)年に、政治的な分野での統合のためのヨーロッパ連合(EU)が発足しました。現在のEUは、経済、外交、安全保障、治安維持などのさまざまな分野で共通の政策をとっています」(『新編 新しい社会 公民』、東京書籍、2025年、pp.192-193)と、中学校の教科書には記されています。内容はほぼ正確ですが、肝心のことを伝えていないように思いますし、EUの重要性に比して「これっぽっちの文字数?」という印象を否めません。「統合」の意味がよくわかりませんし、「共通の政策」であれば、たとえば日本と中国・韓国など2ヵ国間でも、個別のイシューに対して、しばしばみられることです。東南アジア諸国連合(ASEAN)やアフリカ連合(AU)など、他のリージョナリズム機構との違いもはっきりしませんね。教科書が物足りないというのもありますが、実際の社会系の授業でEUを正面から取り上げる機会は、残念ながらほとんどないのではないかと思われます。優先順位が高くなく、ほかならぬ社会科の教員の関心の中心になさそうだからです。

EU加盟国のどこかに旅行・滞在した経験のある人は、当該国の国旗と並んで、必ずブルーの欧州旗(European Frag)が掲揚されているのを見たはずです。たとえば埼玉県に住む人が、自分は埼玉県民であり日本国の住民であるという二重の帰属意識をもつのと似て、主権国家(たとえばドイツ)の国民であると同時に欧州市民(European Citizen)でもあるという二重の意識をもつように設定されているのです。その点で、EUは「主権国家の組合」などではなく、それ自体が超国家的な機構(スーパー国家)であるともいえます。今回の授業で詳しく述べますけれど、EU法という「法律」があって、国家の法律と同じように立法され、執行されています。地球上でそんなことをしている地域は、EU以外にありません。それが理想であるとか、われわれのモデルになりえるといっているのではなく、欧州・EUとはそういうものだという事実を捉え、弱点や課題等を含めてきちんと認識するべきだという立場から、ある程度の時間をかけてEUの機構と概要を紹介しようというものです。なお先に引用した教科書に「ヨーロッパ連合」という表記がありますが私は不適切だと考えます。EUはスーパー国家ですので、EUとしての外交関係を各国とのあいだに結んでいて、東京には主権国家の大使館に相当する駐日欧州連合代表部が置かれています。EU自身が欧州連合と自称しているのだからそれを尊重するべきではないでしょうか。それとは別に、この地域に単なる地理的な範囲というのとは別の、価値的・理念的なものを私は見ているため、一貫して漢字表記の欧州を用いています(それをみなさんに強要するものではありません。「ヨーロッパ」と変換しても差し支えないものと思います)。



REVIEW 10/17

授業を通して、現代のグローバル経済は「自由貿易」の名のもとに、先進国が高付加価値の工程を、途上国が一次産品や低賃金労働などを請け負う「垂直分業」の構造を形成していることを理解した。この不均衡は、経済格差だけでなく環境破壊や不当労働をも生み出しているのだと学び、日ごろ国内外の通販などで商品を購入する際には、生産地等の表記を確認していこうと思った。

いまの世界のしくみ、構造によって、人や物が行き来し成り立っているというのは当たり前であるが、それでも先進国の人たちが必需品ではなく嗜好品として親しんでいるものが、ギリギリの状態で生活している人の多い地域でつくられているということに少しばかり違和感を覚えた。このしくみで実際に世の中が成り立っているのだとしても、これでは本当に「国ガチャ」である。つまり、どこの国に生まれるかでまったく生活水準が異なってしまう。あらためて「自由」と「平等」の両立の難しさを感じた。スタートラインそのものが異なる事実を、商業・経済の分野でどうカバーしていくべきなのか、そもそも根本からカバーすることは難しいのか、とても気になるところである。

プランテーションでつくられたコーヒーは労働環境がよくないことがあるというのは知っていたけれど、実際コーヒーを飲むときにそのようなことを思い出したことはないなと思った。自分のことだけ考えて、結局劣悪な労働環境は他人事のように考えてしまっていたと気づいた。ラナ・プラザ崩落の事件についてもまったく知らず、そのような環境下でつくられた服を購入していたかと思うと、私は本当に無知であったと感じた。劣悪な環境の工場で使われている原材料もまた劣悪な環境でつくられている場合が多く、だからこそ安価で手に入れられるのだとわかったので、いつも自分が着ている服、口にしている食品が、どこの国でどのようにつくられ、私のもとに来ているのかを調べたい。垂直分業にもよい部分はあるが、分業される過程、経緯について注目すると、よい部分だけではないと思った。

ファスト・ファッションの生産やさまざまな商品作物の栽培を例として、環境や人権、社会構造に課題を抱えているということを学ぶことができた。中学校の地理で、モノカルチャー経済がよくないものであるという趣旨を学んだが、具体的にモノカルチャーがどのような流れに陥るのか、それを避けようとしているのかを知ることができた。

ファスト・ファッションには便利さがある一方で、裏では多くの人が苛酷な環境で働いているという現実を考えると、自分の消費行動も決して無関係ではないと感じた。いままで当たり前のように利用していたグローバル企業のサービスや製品も、どこで、誰が、どのような環境でつくっているのかを意識していきたいと思った。フェアトレード以外に、消費者は「垂直分業の不平等」を改善するためにどのような行動がとれるのだろうか?

授業の中で最も印象に残ったのは私たちの消費と世界とのつながりである。スタバやユニクロ、H&Mなど有名なブランドを利用することが、世界規模で見たときの労働や生産の環境の一部となっていると考えると、普段の買い物の意義が大きく変わるように感じた。また、安さの裏には低賃金や劣悪な環境で働く人々がおり、無意識の消費を反省することになった。同時に、フェアトレードなどのよりよい選択肢が世界を変えるのだと学んだ。

ラナ・プラザの崩壊事故のように、一見私たちには関係がないようでも実は関係があるのだと知って、消費者としての意識が足りなかったと自覚した。またファスト・チェーンについて、世界的にどこでも利用することができて便利だが、各国の固有性が失われる要因になるかもしれないと思った。

 
ベルギー ブリュッセル
最近は日本国内を含めどの都市に行っても中心部に似たようなチェーンばかりが並び、地域の個性が失われて
「ちょろい」感じになってきた でも「ちょろい」ヴィジターはむしろそれで安心するのかもしれない
チェーン店は不振になるとすぐ撤退してそのぶん雇用と地域の活力が失われるのだが、それに気づいているのだろうか?
三浦展はこうした情勢に「ファスト風土」化と、実に的確な表現を充てている

 

初めに出てきたアラル海やアム川の話が、垂直分業、モノカルチャー、プランテーションの問題提起へとつながっていく構成に惹きつけられました。「俺らは先進国!」や、「国家vs国家」というのがよろしくないというのは、過去の授業で学んだことと合わせて、社会やアイデンティティの問題であると認識できました。フードやファッションなどのFASTは、速い、いつもの感覚、気軽にといった意味合いから派生して、テキトーで扱いが雑などというイメージも浮かんでしまいます。こうしたイメージや「先進国」が知ろうとしない事実は、ときに大きな被害を出してしまうという事例を知り、間違いであると考えました。国家どうしではない、個人の知ろうとする意識の問題であるとわからされました。

ティムール朝の話や、エジプト・ナイル川の話、河川の侵食のことなど、地理や世界史でも学んでいたので、とても理解しやすかった。
・・・> 学者や研究者など、その道の専門家になるわけでもない高校生の君たちが、なぜ社会科を学んでいるのか、少しわかったでしょうか?

ファストフード店やファスト・ファッションのことを無国籍企業と呼ぶのは、多国籍企業と呼ぶよりも、ニュアンスがすんなりと理解できた。

海外のテニス選手がユニクロを着ていて、それをうれしく思ったりしたけど、それは日本人としての視点だから「多国籍企業」だと感じただけで、その選手からすれば機能性やデザインがよいだけであり、日本の企業とは思っていないだろうから「無国籍企業」だと捉えられるのだと思って、視点による違いを感じました。
海外にあるMUJIの数は、国内にある無印良品の店舗数よりも多いと聞いたことがあるが、その話を聞いたときとか、タイや韓国でスシローやまねきねこを発見したときに、日本の企業が海外にも認められていてすごいなと思っていたが、日本以外の地域で発祥した企業に日々当たり前にお世話になっていることを踏まえると、当然なのかなと思った。そもそも日本で買っても、綿などの素材は海外から来ているという事実も、まったく頭になかった。
・・・> 1回のスライドをあらためて見てね。

綿花栽培によるアラル海の縮小は既知であったが、やはり他人事として考えているふしがあったのだと自覚させられたうえ、最後のスライドのフレーズは、いわば「刺さった」。現在の環境に、自らもあぐらをかいていたのかもしれない。

今回の授業で「現代の奴隷制」という言葉を思い出した。もともと綿花プランテーションは奴隷が使われていたが、奴隷制が許されなくなった現代でも、「低賃金労働者」と名を変えて、似たようなことがおこなわれているのではないだろうか。

富岡製糸場に行ったことがあり、当時の技術にとても価値があったことを実感したし、とくに女性などの労働問題が苛酷だったことについても考えさせられたのだが、それが世界のさまざまな地域で起こっていたり、もっと大規模で起こっていたりするということを考えると、深刻だなと思った。

日本も台湾でかつてプランテーションをおこなっていたことを知り、欧州とアフリカに限られたスケールの問題ではなかったことがわかった。

スタバのコーヒー1杯のうち、原産地の農家の取り分は0.3円みたいなことを聞いたことがあり、格差のある分業はなかなか立場をくつがえしづらいため、どのように現状を変えるのかが難しいと思いました。

パリの路上カフェは、無国籍なチェーン店とは異なり、「パリの」という一種のブランド感覚がついているため人気なのだろうと思った。また、テーマとは直接関係ないが、スターバックスを、自分を飾る道具として使う人に嫌悪感を覚える(使い方は人それぞれだが)。洋楽ではなく洋楽が好きな自分、ラブブではなくラブブをもっている自分が好き。こういう現象はなんというのだろう。ファスト・ファッションは、私もいつもお世話になっているが、ファッションだけでなく音楽や小説も、中身のないファスト○○が増えている。
・・・> 近ごろは「ファスト教養」というのが流行していて、私は目の敵にしています。あんなの教養ではない。


ソウル 明洞(ミョンドン) 地元勢よりもむしろ日本・中国からの旅行者を当て込んだ店舗が多く
中国人が韓国に来てメイド・イン・チャイナの安物を買っていく、としばしば皮肉られる

 

「分業」について。世界中で、自分の得意なことを分けて受け持つというのはすばらしい発見で、世の中を効率的にしたことは間違いないが、分業は格差を生んだ、ということにも目を配らないといけない。社長と秘書、卸売業者と生産者では、それぞれ所得が異なり、効率的にはなったが階級も生んだ。それは南北問題やフェアトレードなどを考えるきっかけになると思う。
・・・> それはまったくそのとおりなのだけれど、グローバル化以前に、「社会」「資本主義」というのがそもそもそういう性質をもっている、という本質に気づいているだろうか。マルクスがかなり以前に指摘していたことなのですけどね。

垂直分業はミクロな視点で見ると、私たちの日常にも起こっているなと感じた。

植民地時代のはっきりした主従関係が、表面だけで見たら平等には見えなくもない分業であるけれど、垂直分業、権威主義が生まれ、より複雑になり見えにくくなったことで、人々が気づかないあいだに自分たちの首を絞めかねない状況になっているのだと思いました。また、いわゆる商品作物を育てていた発展途上国が変化してきたことで、私たちが利用していた、商品作物だから成り立っていた産業が崩れる可能性もあることを理解していかなければならないと感じました。

コーヒー豆の生産は、途上国におけるプランテーションや垂直分業によるものであるということから、垂直分業の不平等性と必要性について深く考えました。主従あるいは優劣の関係が永続的なものになるということは、国家間の格差が著しく、不平等であるという印象を受けます。一方で、垂直分業がなくなったら、コーヒー豆を生産する場がなくなるため、これまでとはまったく異なる生産方法を見出す必要が出てきます。垂直分業における国家間ないし企業間の問題について詳しく調べてみたいと思いました。

今回の授業を通して、現代社会に「適合している国」と「不適合な国」が存在しているのだと感じられた。イギリスは産業革命で成功しているが、一次産品しかできない国々は、適合できている国々に都合よく扱われているだけなのではないかと思った。

宗主国と植民地、ある国家と旧植民地、企業のあいだなどにおいて、垂直分業がおこなわれている。垂直分業では、主従や優劣が永続、再生産される。世界中の需要、大企業の利潤追求、発展途上国の権威主義など、問題の原因は複雑で、解決が難しそうだと感じた。権威主義の政権がモノカルチャー化しないなどの政策で改善していってほしいと思いました。それが進めば解決すると思いますか?
・・・> 権威主義そのものは、ひとむかし前の体制といえます。昨今はネオ権威主義(そんな言葉はまだありませんが)というべき傾向が出てきていて、それはポピュリズムと結びつきますので、大衆迎合的な政策を打ち出し、以前よりも力強く推進することはできそうです。ただ、そうした政権やそれを支持する大衆が、今回取り上げたような問題を真っ向から解決しようとするというのは、考えにくいですね。

貿易において、水平分業のパターンはあるのか?
・・・> パターンというか、水平分業が占める部分のほうが大きいです。生産や生活に必要な物資や商品は地理的に偏在していて、それを貿易によって調整するというのが基本的な考え方なので、そうなりますね。トランプ大統領みたいに、なんでもかんでもアメリカ国内で生産させろと強引に引っ張っていくと「水平」ではなくなるかもしれませんが、日米関係などは基本的に水平分業だと考えられます。

スライド内で、アゼルバイジャンが「中央アジア」のくくりに入っていたのですが、個人的には西アジアだと思っています。実際、アゼルバイジャンは中央アジアと西アジアのどちらに区分されるのですか。
・・・> 大地域のくくりというのは便宜的なもので、国際機関や当事国が「ここに属している」と決めているわけではありません。日本外務省は、旧ソ連構成国は一括して「欧州」のくくりで扱っています(おそらく外務省の担当部局の関係)。ただ、アジアと欧州の地理的境界について最も一般的なのは、ウラル山脈〜カスピ海〜カフカス(コーカサス)山脈の線です。これはソ連時代から、そのように解釈されていて、つまりは旧ソ連の中に、アジアと欧州を区切る線があったことになります。その流れで、旧ソ連の領域のうちカフカス山脈より南側の地域、現在の主権国家でいえばジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンの3ヵ国は「アジア」に属することになります。一方で、さらにその南側にあるイラン、イラク、トルコなどとは一線を画するという認識が一般的です。宗教と歴史が「西アジア」とのあいだの明確な違いと捉えられているためでしょう。そこで質問へのお答えですが、「西アジアではない」という可能性が非常に高いです。キリスト教徒が多いから欧州(東欧)なのかというと、あいだに黒海がはさまっていて、どうもそれも違うかもしれない。どこかに入れなければならないとなると、やはり旧ソ連つながりで、カザフスタンやトルクメニスタンと同じ「中央アジア」というのが、おそらく最も適切な捉え方ではないかと考えられています。なおアゼルバイジャンのメジャー言語であるアゼリ語は、トルコ語とかなり近似していて、互いに通じるそうです(と、黒田龍之助さんの本で読みました)。


東京 銀座

 

リカルドの比較生産費説は「正しそうに見えるだけだ」という古賀先生の話がおもしろかった。元のレベルがイギリスと同じではないから、と考えるとかなり納得できる。
昨年の政治経済で、リカードの国際分業の話や計算などを学んだが、それは当時のイギリスに経済力があったからいえたのだ、ということが興味深かった。関税は必要なものだと思った。
比較生産費説について、いままでとくに何も思うところはなかったのですが、今回の話を聞いて、先進国側に都合のよい論理となっていることに驚きました。不公平でありながら辻褄はちゃんと合っているので、「数字は嘘をつかないが噓つきは数字を使う」とは、よくいったものだなと思いました。
経済で学んだことは、古賀先生の話を聞くとたしかにまったく平等なこととはいえないと思ったので、多角的に物事を捉え、すべてを呑み込みすぎずに疑いをもつことが大切であるということを実感した。

第一次→第三次産業で、数が大きいほうが、付加価値が高くなるということを初めて知った。
第一次産業は儲かりにくいということだったから、いまの日本では農業が衰退しているのだなと思った。すべての産業を支えているのは第一次産業であるため、その待遇改善などは必須だと思った。
・・・> 第一次産業(農林水産業)・第二次産業(鉱工業)・第三次産業(サービス業)という有名な区分は、20世紀半ばに、英国の経済学者コーリン・クラークが定義・分類したものです。クラークは同時に、社会が成熟するのに伴って、その国家や地域の産業の主軸が、第一次→第二次→第三次産業へと推移することを、データをもとに立証しました。クラークは謙虚な人物で、自身の発見にほぼ間違いないのに、17世紀イングランドの学者ウィリアム・ペティの「予想」が先にあったのだとして、このしくみの発見者をペティであると紹介しました。政経の教科書に載っているペティ&クラークの法則です。第一次→第三次と次数が上がるというのは、付加価値が高くなることを意味し、ゆえに主軸が移動するわけですね。ということは、第一次産業は宿命的に「儲からない」ことになります。といって、第一次産業がなければ物事ははじまらないし、成り立ちません。現代にあっては、政策的な調整を図って(要は税を財源とした価格調整や総枠買取のようなことをおこなって)、人為的に農産物価格を高値にもっていくことが試みられています。次回の主題である欧州連合の共通政策で、最も成功していて、かつキモになるのは農業政策です。長い目で見ると、農業政策は食料政策ですから、社会全体の「安全保障」に直接かかわる政策にもなるのですね。日本では、農業人口が全就労者の1割を切るほどになっており、いよいよ深刻な次元に入ってきました。企業的な農業の実現とか、AIの活用とか、いろいろあるのですが、どうも政治家たちが農業や農村にあまり関心をもっていないようなのです。1980年代までの自民党は明らかに農村型政党で、都市部で吸い上げた税金をいかに農村に再分配するのかと(ときに過剰なまでに)考えていましたけれど、議員も2世・3世となると当人は東京生まれで、農業の苦しさを実感としてわかっていないのかもしれないですね。

第一次産業の労働者の減少という問題をよく耳にするが、第一次→第三次と数が大きくなるほど付加価値が高くなると聞いて、第三次産業は原料をどう使うのかだけでなく、どう売るのかという部分も含めて、販売・サービスの多様性がその構造を生んでいるのだと思った。


ゴディバ本店(ブリュッセル グラン・プラス)

 

コーヒーなどの商品作物が、世界でどのようにつくられ、どの国がどんな役割を担っているのかを学んだ。垂直分業やグローバル・チェーンの考え方を通して、身近な商品が実は発展途上国の人々の労働によって支えられていることを知った。普段なにげなく買っているお菓子や飲み物の裏に、新しい南北問題がある、というのが印象に残った。これからはフェアトレード商品を積極的に買いたいと思った。

コーヒー農家で働かされている子どもたちやバングラデシュの過酷な労働環境で働かされている人たちは、消費者に対して、どのように思っているのか気になる。フェアトレードのチョコなど、高いけど、ガーナの人たちのためにもそちらを買ってみようと思う。

私も普段コーヒーを飲むが、いわれてみればそのコーヒー豆が、どこでどのような人たちによってつくられているのかをほとんど思い浮かべることはなかった。いつもは、ある程度余裕ある層の人々の嗜好品として、安価な賃金で働いている人たちがいるのに、不景気になると需要が少なくなってしまう品物であるということを、あらためて認識することができた。
私はコーヒーが飲めないのですが、先生がおっしゃっていたように、コーヒーや紅茶は嗜好品であり、必需品ではないと思っていて、しかし多くの人々がコーヒーを片手に生活しているため売り上げや経済状況は安定しているのかと思っていました。しかし嗜好品であるからこそ景況に左右されると知り、驚きました。
・・・> コーヒー、カカオ、茶、綿花などの主力商品作物に共通するもう一つの特性は、収穫してから実際に消費されるまでの時間を長くとることができるという点にあります。つまり倉庫のようなところに長期間、保存することが容易です。このため、相場が下がりそうなときには売り惜しみ、相場が上昇したところで放出することで価格(つまり業者の収益)を均し、経営を安定させることがねらわれやすいのです。なお、相場にかかわらず「消費をやめられない、やめにくい」というある種の中毒性がはたらいて需要が一定になるものとして、酒やタバコが挙げられます。酒やタバコを日々飲む人たちは、多少の価格変動にかかわらず「絶対に買う」ので、価格変動と需要の関係があまり連動しません。その点が、同じ嗜好品でもお茶やコーヒーなどとの違いでしょう。酒やタバコのようなケースは、経済学では価格弾力性の小ささと表現されます。公民のどこかで学んだと思うので、おさらいしておいてください。

コーヒー・タイムやティー・タイムの普及の話を聞いて、チョコレートの原材料であるカカオの話にも通じると感じた。ほんらい薬として使用されていたはずのカカオ豆の生産者が栄養失調で病気になってしまうとは、なんて皮肉な話だと思った。
・・・> チョコレート(フランス語でショコラ)というのは、手軽な欧州みやげとしては最も説得力があり喜ばれるので(あと箱がコンパクトだとスーツケースに収納しやすい)、私も含めて「欧州のもの」だという感覚がどうしてもあります。私は、ワインなどのアテに小さなチョコレートを食べることはあるのですが、ばくばく食べるほどではなく、またココア(ホット・チョコレート フランス語ではchocolat chaud)も苦手。でもフランスを訪れる観光客は、本場の濃厚なココアを飲んでみたいと思うことも多いでしょうね。ココアは普通のカフェではあまり出さないので、サロン・ド・テ(salon de thé ティー・ハウスのこと)でどうぞ。ベルギーにアントウェルペンという商業都市があります。日本では「フランダースの犬」の舞台として知られるところで、英語読みだとアントワープ。ここに生産国からのカカオが集まり、相場が決まります。チョコといえばベルギーというイメージは、あながち間違っていません。とはいえ、そこはグローバル時代ですので、ゴディバ含め多くのチェーンが、欧州外のグローバル資本に買収されています。

小学生のときパリを訪れました。路上に張り出したカフェを利用したが、お子さまだったのでコーヒーは飲めませんでした。ただその雰囲気はいまでも記憶にあるほどよかった。古賀先生の嫌いなスターバックスに、私は週23回行くゴールド会員なので、海外のスターバックスがどんなものなのか気になります。

 
ドイツ フランクフルト中心部

 

ファスト・ファッションについて、子供服のような身体の成長の関係で長期間着られないようなものはコンスタントに買い替えたりリユースしたりするというのに賛成であるが、ある程度成長しきったおとなは、ファスト・ファッションを取り扱う企業から服を買っても、長期間それを着つづけたっていいと思う。実際私は、父のおさがりのユニクロのTシャツを何年間も部屋着として使っているが、なんの不便もない。
・・・> 私がお父さんだったら、そんな娘がいとおしくてたまらなくなるでしょうね(笑)。ま、一人ひとりの嗜好や指向や思考はそれでいいのですが、社会や経済というのは、「人々よ、こうあるべきだ、私のようにするべきだ」といったところでどうなるものでもありません。人々の消費行動や生産・流通の構造に問題があるのであれば、気合や心がけではなく、実効的な施策や、ときに政策を考えるというのが、社会科学の基本的な構えです。ファスト・ファッションは、文字どおりファストに、どんどん消費して取り替えてもらうことを前提にしたビジネス・モデルですので、レビュー主のような(すばらしい)心がけの人が多数派になると、商売が成立しなくなるのです。

ラナ・プラザの事故では、ファスト・ファッションの低価格を実現するために、多くの女性労働者が犠牲になっていることを知った。なんとなくそういうのがあるというのはわかっていたが、具体的な内容を知ったのは初めてだった。私が気軽に買っている服の裏側には命の危機があるのだと考えると、いろいろ複雑。

バングラデシュの労働法規のゆるさが、生産上の優位として利用されていたということが残念だが、それで国の経済を成り立たせていた面もあることで、なかなか解決しないのだと感じた。ファスト・ファッションのこの闇に関して耳にすることはあっても、現場のリアルな姿を目にすることがないので、若者も実感を得づらいのだと思った。

発展途上国の安価な労働力に頼ったファスト産業は、グローバル社会において大きな問題であり、この問題を解決するためには、どの商品がどの場所でつくられたのかを明確に表示することも必要であると思った。
・・・> それでいいのかね、とも思う。最終生産物というよりも、「川上」のほうが問題で、そこはどうやっても表示されないのではないでしょうか?

苛酷な労働状況をひどいというふうには思うが、実際にその人たちが生産したもので生活しており、お互いに依存している関係であると思った。公共の授業でも似たようなことを学んだが、この悪循環をどのように断ち切るのか、これから人々が目を向けて考えていかなければならないと感じた。

バングラデシュやミャンマーの賃金が上がったあと、次のファスト・ファッション生産国はいったいどこになるのだろうと思った。

生産者を支援するための「フェアトレード」というしくみもありますが、中間業者である協同組合や発注元である大企業は儲かっている中で、農家にはなかなか還元されていない、という話を聞いたことがあります。市場原理の作用の中だと、是正はされにくいものなのかと感じました。
・・・> フェアトレードの欠陥はそのとおりです。また、カフェのチェーンが毎月1回フェアトレードの日を設定したところで、残り29日はアンフェアな商品をひたすら売っていることに変わりはなく、量的にみてもそれで生産者の状態が改善されることはなかろうと思います。ただ、これが「かなりの大問題」であることは間違いなく、今回みたように地球規模の、認識しにくいものでもあるため、「大変な問題がここにあるよ」という啓蒙の意味はおおいにあるのではないでしょうか。綿花もそうなのだけど、構造が問題なのだから消費をやめようとなると、肝心の農家が最も困る、という事情もあるので、そこも考えたいですね。それと、「フェアトレードなどというのは偽善で虚妄だ」という言説を、もっともらしいデータを添えて振り回す「運動つぶし」の動きがあることも看過できません。「温暖化はフェイクだ」と言い切るトランプみたいな人が力をもつと、そうしたさもしい人間の言説が影響力をもってしまいかねません。人は自分に甘いですからね。

ファスト・ファッションのブランドについては、新疆ウイグル人強制労働騒動など、さまざまな問題を聞いたことがある。たしかに劣悪な労働環境は改善すべきだが、彼らのおかげで私たちは安価に洋服を手に入れることができているので、少し複雑な気持ちになる。

バングラデシュの工場での低賃金、苛酷な労働環境の問題から、消費行動の裏にある人権問題について、深く考えさせられた。

ブルキナファソでは、稼いだ外貨を投資に回したとあったが、他の国でもそうではないのか? 外貨は、何に使われることが多いのか?
・・・> まず勘違いを正しておくと、輸入によって得た外貨を適切に投資してバランスのよい国家運営に成功したのは、ブルキナファソではなく、アフリカ南部のボツワナ共和国です。ボツワナは世界的なダイヤモンド鉱山で知られ、したがって旧宗主国の英国の企業(デビアスなど)や南アフリカ共和国の強い影響下にあり、下手をすればダイヤモンドの輸出一本に頼る資源モノカルチュア国家にとどまるリスクを抱えていました。主権国家後の初代大統領カーマと、次のマシーレのときに、教育(とくに大学)・医療・インフラへの投資を進め、同時に、露骨な人種差別政策(アパルトヘイト)を続行する南アフリカと一線を画して、「うちの国のほうが安全で、信用できますよ」と訴え、世界各地からの投資を呼び込むことに成功しました。もちろんダイヤあってのことですが、その売り上げをその場で費消するのではなく、じっくりふくらませるという中長期的な見通しを立てて運用したことが、成功につながったといえます。私が子どものころに読んだ地理の本では、最貧国の一つとして紹介されていたボツワナは、いまやアフリカきっての優等生で、日本政府の対外援助の基準を上回る(つまり「豊か」なので援助するに及ばない)国家にまで成長しています。一方、たいていの国家は資源の売り上げを短期的に費消してしまいがちです。政情が不安定だと、人気取りのためにばらまいてしまうのでしょうね。あるいは、豊富な天然ガスで知られる赤道ギニア共和国のように、大統領(オビアン・ンゲマ)は世界屈指の大富豪だが国民は貧しいままというようなところもあります。なお「レンティア国家」についても調べてみてください。

 
パリのカフェ

 

第一次産業をうまく活用して経済を発展させることは、途上国が先進国をめざすために重要である。しかし、それは同時に、しわ寄せを受ける側から寄せる側になって、受ける側の成長を止めることにもつながると考えた。少ない賃金で大量生産させることが横行するような国家が、より長持ちしてしまう。では、いますぐ14世紀ころに戻るのだろうか? この状況に慣れてしまった私たちにそれは不可能である。全人類が豊かに暮らす手段は、あるのだろうか。

今回の話題は現代社会論Iでも取り上げられていたが、前回この話を聞いたときは、BRICSや東南アジアがさらに発展を遂げたとき日本を含むいまの先進国はどうなるのだろうかと考えた。しかし今回、それらの問題だけでなく、環境へのダメージの問題もあるということを知って、他国との関係以前に、そもそも地球の資源を削りながら自分たちは生きているのだということを明確に意識し、いよいよい危機感をもたなければならないと思った(人権問題などを軽視しているわけではありません)。

今回の授業では、生産過程の川上で何が起こっているのかを考えさせられました。私はコーヒーが大好きで、朝よく飲むのですが、そのコーヒーがどこで生産されたのか、または誰が生産したのか、何も知らずに飲んでいます。バングラデシュの雑居ビル倒壊の例のように、もしかしたらコーヒーにも命を奪われる人がいるのかもしれないと考えると、単においしく飲んでいたコーヒーも、楽しむだけではいけないと感じました。最近では韓国コスメが流行していて私もよく買います。圧倒的に安いコストとセンスのよさ、つまりコスパのよさがあるのですが、そのコスパのよさはどのように実現しているのか気になりました。韓国から世界へとどうやって店舗を増やしたのか、よいデザイナーを雇ったのかなど気になります。

第一次産業や商品の生産などは、社会が発展するほど、生活に密接にかかわったものになり、そのような産業を蔑ろにしてはいけないと思いました。そう思っていながらも、私もファスト・ファッションや嗜好品のお世話になっていて、自分でも思考と行動が伴っていないなと思いました。普段、何も考えずに利用していますが、身近すぎるため、今回は問題について当事者としての意識を強くもつことができました。今後の世界のためにも、改善する必要があると思いますが、ここまで業界が大きくなると、利益にかかわるため、改善を行動に移すにはハードルがどんどん高くなっているのでは、と考えました。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう半ばですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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