古賀毅の講義サポート 2020-2021

De Société contemporaine II: Perspectives à l’ère de la mondialisation- 2020

人文社会科学特論(現代社会論 II
:グローバル時代のパースペクティヴ2020 

早稲田大学本庄高等学院 3 (文系必修選択科目)
金曜 34限(11:20-13:10)  教室棟95号館 S205教室   

 

 

 

 

 

 

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202012月〜20211月の授業予定
12
4 視点としてのドイツ:十字架を負い、欧州を牽引する
12
11 グローバル時代の公教育:拡大・深化・成熟への苦闘
1
15 スポーツからみた現代社会:高齢化・グローバル化・消費社会化の中で

3学期の課題は16日(水)いっぱいが提出期限です。忘れずに作成・提出してください。


■■次回は・・・
25- スポーツからみた現代社会:高齢化・グローバル化・消費社会化の中で

ここ30年くらいのあいだに、日本ではスポーツsports)についての見方や考え方がずいぶん変化してきたように思います。あるべき方向に進んでいるのかどうかは置いておいて、おなじみのこの概念、カテゴリを、いつものようにグローバル化する現代社会に位置づけなおして、捉えてみることにしましょう。20世紀半ば以降の日本のスポーツをいろいろな意味で拘束してきたのが、「スポーツ」と「体育」の混同、企業・学校スポーツという縛り、そして商業主義であったと私は考えています。かつて私はある大学の「スポーツ科学部」と、別の大学の「体育学部」で長く教えていましたが、スポーツ/体育というのは、思いのほか混同されて用いられています。学校の体育館はたしかに体育(physical education)の館だろうけれども、市民体育館は「スポーツ館」なのではないかとか、国民体育大会はスポーツ大会なのではないかとか、体育会系というのはいったい何のことなんだとか、いろいろ。忘れもしないこの選択科目、現代社会論の最初の年(2006年度)にスポーツというテーマを設けたところ、「事前調査でスポーツの定義を調べてみたら<遊び>と書いてあった。僕が一生懸命に打ち込んでいるものを<遊び>呼ばわりするとは、書いた人を許せません」という趣旨の激しいコメントが寄せられました(当時は男子校)。でも、sportというのは、もとはフランス語のdesport(デスポール=息抜き)ですから、まぎれもなく<遊び>なのです。真剣かどうかでいえば、真剣な遊びです。もっといえば、イングランドやフランスの、金持ちの家に生まれたお兄ちゃんたち(男子限定)が、俺たち金持ちだから体がなまらないようにしなきゃね!と、嫌みのように取り組んでいたのが近代スポーツの源流です。まずは、そのあたりの系譜を掘り起こしてみることにしましょう。何が「スポーツ」で、何がそうでないのか、案外わかっていないのではないでしょうか。フィッシングがスポーツなら漁業関係者がしていることはスポーツ? シューティング(射撃)がスポーツなら職業軍人がしているのはスポーツ?

来たる2021年、はたして東京オリンピックは開催されるのかどうか。第1回の近代五輪は、1896年のアテネ大会でした。五輪だからギリシアという安直でロマンティックな話では決してない、ということを、当クラスのみなさんはすでにおわかりですね。近代五輪運動を主導したのはフランス人のピエール・ド・クーベルタンです。クーベルタンの直接のはたらきかけを受けて、明治時代の日本で五輪運動を起こしたのが、柔道の創始者でもある嘉納治五郎。その経緯は2019年の大河ドラマ「いだてん」でも詳細に描かれました。嘉納治五郎はアジア(日本)で五輪を開催することが真にスポーツのためなのだと主張しますが、クーベルタンは「アジアで開催なんてできるはずがない」とあきれ顔を見せます。五輪は、というかスポーツはあくまで西欧の文化であり、やはり高級な<遊び>でした。時を経てようやく東京開催にこぎつけたものの、その1940年大会は、日本自体が惹き起こした国際情勢の悪化によって中止に追い込まれました(嘉納は1938年にIOC総会からの帰国中に急死)。ようやく実現した1964年の東京大会のあと、五輪はその性格を大きく変えていくことになります。スポーツは政治や経済と無縁どころか、いつだって政治・経済そのものなのです。

スポーツが好きだという人は多いと思いますが、自身がプレイするという立場でなのか、観客としてなのか、その両方か、分かれるところでしょう。本来は「観るスポーツ」というのはオプションであったはずですし、五輪も基本的にはプレイヤーたちのものでした。ただ、近代日本ではスポーツという概念が導入されたのとほぼ同時に「観るスポーツ」が主流になっていきます。そして、西欧とはまったく異なる意味で「教育」の一環に組み込まれます(だから「体育」との混同に気づかなくなる)。ときにガラパゴス化し、ブラック化していることに気づかぬまま、21世紀を迎えた感もあります。

当科目の最終回、ゼネラル編の特別企画としてスポーツを取り上げるのは、グローバル化する現代社会を、ある意味で最もよく可視化するテーマだと考えるからです。たとえばサッカーと野球を比べた場合に、後者のほうにナショナルな、越えがたいボーダーのような枠を見ることは容易ですよね。経済がボーダーレス化するのに主権国家の枠組は不動のままであるという現代をかなり活写しています。いや、欧州統合でみたように、それがもはや動揺して、相対化されつつあるからこそ、ナショナルなものにこだわるのかもしれません。国代表の対抗戦(W杯)よりもクラブチームの戦い(欧州CL)のほうが盛り上がり、経済効果も高いというサッカーのケースは、グローバル資本主義そのものともいえます(弱肉強食のところも相似形)。さて、2006年の受講生の「許せません」というコメントですが、自分が熱中しているものが本当にディスられたとしても、感情を丸出しにして論理や思考をなげうってしまうような人を育てるくらいならば、スポーツや部活動はマイナスでしかありません。残念ながら、「真剣にやれ」という日本的なバイアスのせいで、不寛容や非論理性といった現象(症状)がプレイヤーの中に少なからずみられます。でも、いまのみなさんであれば、そんな自分自身のアイデンティティも斜め上から見ることができるのではないでしょうか。

 

REVIEW (12/11
*文意を変えない範囲で表現・用字法を改めることがあります

教育は思惑を超えて機能するというお話を聞き、教育の力の大きさを再認識するとともに、それゆえ教育は実践してみないとわからないことが多いのではないかと思いました。

古賀先生の専門である公教育についての話を聞けてよかったです。公教育は私たちにとってとても身近なものであり、だからこそ詳しく知っているべきだと思います。現代文の授業で、近代国民国家の成立時に、国民の同一化のために言語を統一して学校で国語教育をおこなうようになった、ということを学びました。公教育の役割には、理想的な国民の形成のための教育というものがあり、それは国家にとってきわめて重要なことであると思いました。

オンライン授業だったときから、教育によって形成されるナショナル・アイデンティティについて興味がありました。初等・中等教育において、教師が規範に沿った正解に無理やり生徒を導くようにするのは、私も実感していました。しかしそのように正解に導こうとするのは、それが教育する側にとって楽だからだと思いました。1つの問いに対して決まった答えがあると、学ぶ側もそういうものだと受け入れてしまいがちで、正解というのがあるのかどうかわからない道徳でも1つの答えが用意されているのだと考えました。また国が一つにまとまるためにはナショナル・アイデンティティが必要であり、それは単数形であるほうが一種類の国民を形成するのに役立つのではないかと考えました。そんな公教育でグローバル化がおこなわれても、本来のグローバル教育ではなく、単に知識を増やしているだけだと思います。

教育は、自分も当たり前のように受けていたものだったため新鮮だった。教育上のシステムを改善していく試みなどがいくらおこなわれても、実際に現場で働く教育者たちがその意図や方法を把握して実践していかなければならないのが、複雑なところだと思った。

国家が国民を育成するという公教育は、マニュアル化されているため、答えが決まりきっているものが多い。そのため答えのない問いが多くなるグローバル化には不向きな教育であることがわかりました。私は、グローバル時代の教育において必要なことは、自ら学ぶことだと思いました。古賀先生の授業ではそれぞれが事前学習をしてきた前提で授業がおこなわれています。そのため、先に自分で調べたことに対する自分自身の見解をもって授業に臨むことができます。先生ひとりの見解だけでなく、他の人の見解も知ることができるため、正しい答えのない問いでは、それぞれの答えを導くことができます。既定の答えがある場合も、自分で調べたことにより、より深い理解が得られると思います。そのため、自ら学ぶことを重視する教育が、グローバル化では大事であると思いました。
・・・> 高等学校段階の学びは、どの教科でも本当はそうです。英語や古文・漢文は事前の下読みと単語調べ、できれば品詞分解、数学は演習問題を解くこと込みの予習、現代文は数度のなぞり読み。それくらいしなければとても食いつけないくらいハイレベルの内容を扱っています。最近は、日本の生徒・学生は本当に自宅学習の時間が短すぎるというので世界からあきれられていますが(本当です)、附属高校の生徒は、受験勉強を免除されているぶん余計にそのリスクを負っているという自覚がもう少しほしいですね。いま同年齢の高3たちがどれくらい数学や英語の勉強をしているか少しは思い知るべきでしょう(その学び方が適切だとは思わないが、やらない人がいうべき話ではない)。学院のキャッチフレーズも想起すること!

公教育が1つの規範に導いてしまっているという課題があると知って、いままで先生の示した答えを正しいと無意識に受け取っていたと思いました。しかし公教育には必ず評価がつきまとい、先生によっては、先生の思う答えに近いほど高い評価を与えることが多いと思います。そう思うと、公教育は評価を与えずにやったほうがのびのびとできるのではないかと考えました。
・・・> それはできない相談! びっくりするかもしれませんが、教育における評価(evaluation / assessment)というのは、第一義的には生徒ではなく教師や学校のためにおこなわれるものです。学校というのは組織的・計画的に教育をおこなう機関であり、だとすればその活動が適切におこなわれたかどうかを折々に、いろいろなかたちで検証する必要があります。その作業を通して次サイクルの教育をよりよいものにしていくわけです。「このクラスは平均点が低い!」とかいって怒り出す先生がいますが、その場合には「先生あんたの教え方が悪いからでしょ」といってあげましょう。試験・評価の真意はそこにあるのです。(今回みんないい点数をとってくれて本当にありがとう^^

子どもには学びたいという意思が明確にあるわけではないのに、おとながおとなの責任で教育を受けさせることからも、公教育が国民のアイデンティティ形成に使われているということがよくわかった。とくに小学校の道徳教育の話はとても印象的だった。質問者と同様に、私も小学校の道徳教育には疑問を感じていた。道徳で学ぶことは本来、本などで半強制的に教えられるものではなく、自ら実践的な場で、生活の中で学ぶべきではないか、と考えたことがある。道徳に答えはない、といわれつつも、教員ももっていきたい方向に向けて誘導されている、という表現に非常に納得した。何かを学ぶというのは、本来学びたいと思う人が学びたいと思う内容を学ぶべきであるのに、現代のわれわれはなぜか「学ばされている」という感覚、「学ばなければならない」と本能的に感じてしまっている。これは、学びを受ける姿勢としてもったいないのではないかと考える。物事と前向きに向き合うと見え方も変わってくるので、教育とは何か、教育の意義とは何か、「学ぶ」ということについてもっと子どもに教えていかなければいけないのではないだろうか。


いまの高3が小・中学生のころまでは「道徳の時間」と呼んで、教科ではないという扱いだったが、小学校は2018年度
中学校は2019年度から「特別の教科 道徳」という位置づけに変わり、「教科書」が初めてつくられた
『中学道徳2 きみがいちばんひかるとき』、光村図書、2019

 

冒頭で質問に答えていたところがとても印象に残っている。すぐに怒鳴る教員も、1つの答えを半ば強要してくる道徳の時間も、どれも経験したことがあるが、それがダメである理由をいまいちわかっていなかった。先生の話を聞いて、なぜそれがダメなのかを理解することができたと思う。

学校や先生、公教育を「これはタメにならない」「よろしくない」と思うことがよくあったが、公教育を受けたからこそそれを批判的に捉えることもできる、というのはたしかにそうだと思ったし、反面教師となる場合もあると思った。私が通っていた小・中学校では、先生の顔色をうかがいながらすべてをおこなわないと「反抗的な、ダメな生徒」と思われてしまうため、学問も何もほとんどなかったのではないかと思う。学校は社会のリズムから切り離されているとはいえ、このように「学校」という小さな社会に生徒を押し込めるようなかたちのままではいけないと思った。

教師の多くは単数形の教育をすることを目標として、1つの正解を与えようとすることがわかった。このやり方はグローバル化が進めば進むほど望ましくないものだと思った。なぜなら、世界はとにかく多様であるため、国内以上に正解がないうえに、ある一つの意見に固執することは、将来グローバル化が進む社会で生きていくうえで危険だと考えるからである。

今年度初めのオンライン授業で「国家とは何か」について自分の意見をまとめたとき、考えれば考えるほど堂々巡りになり、一つの正解にたどり着けずに不安を感じ、そのうえオンライン授業でクラスのムードを感じられなかったこともあってその不安がさらに大きくなっていたことを憶えている。今回の授業を通して、その感じ方は完全に公教育に絡めとられた一般人のものであることに気づいた。常に一つの正解を求め、それが得られない場合に不安になってしまうことは、これまでの教育において問いと正解をセットとして捉えつづけたために、もうパブロフの犬のような無意識の反応になっているからだと考える。自分で考えることなく無批判に正解を求めることは学びではないと思うが、それを教える側が国家側で、そのほうが都合がよいのであれば、公教育の現状を変えていかなければならない、と主張することもまた、一つの正解らしきものに向かってしまうことにつながるかもしれない。
・・・> 最後の話は、大小の次元をごっちゃにしているので、たぶん違います。でも、近いことはいえます。「現状を変えていかなければならない」とか「みんなで考えていくべきです」といった感じのまとめを発言したり文字にしたりする人って、けっこういますよね。それは「優等生病」の一種です。そういうまとめが(その場の空気として/教師の願いとして)求められているのだと思って、ただ一つの正解っぽい表現をしているからです。そういうまとめをする人にかぎって、どう変えるという提案をすることもないし、みんなで考えてよね(アタシは考えないけどさ)と思っているのではないかね。


3年前の学院生

 

まじめな先生ほど正しい1つの答えを教えようとする、というのは自分の経験からもそうだと思った。とくに小学校では、指摘のとおり子どもが好きで情熱をもっている先生が、国家権力が求める正解を教えようとする傾向が強くなるのではないかと思う。なぜならその先生も同じような教育を経て先生になりたいと考えたはずだからである。
・・・> 小学校の先生が引きずられる「正解」というのは、直接には国家権力とはパラレルなのですが、実はそうなのだ、というところがキモ。さて後段は、教育という営為を考える際に非常に重要なポイントになります。教員も、他のたいていの人も、自分が児童・生徒として受けてきた教育に強く影響されますので、よくも悪くも「それが教育なのだ」と信じて動かなくなります。本当は受け取り方だって多様であるはずだし、自分の児童・生徒時代っていつの話だよということでもあるはずなのに、スチューデント目線をいつだって基準にするため、教育の像がゆがむのですね。教育とは未来を拓く営みであるはずなのに、過去の、それもかなりパーソナルで主観的なものに制約されてしまいます。もしみなさんの中で教職課程に登録して、私の授業を履修する人があったら、最初の時間にその点を押し込みます。「君の経験は忘れなさい。それは(これから教師として向き合う)教育ではない」と断言します。食ってかかる学生もいますがねじ伏せます。社会の変化に対して教育がなかなか動かない原因もそこにあります。社会のコンセンサスがそちらにあるせいですね。それくらい、学校教育というのは「自分にとって大事なもの、自分を構成してくれたもの」というふうに認識されているということなのでしょう。これは政治や経済と違う難しさでもあります。

中学生のときに漠然と「公立中の先生になりたい」と思ったのは、よい先生に恵まれたからかなと、怒鳴る先生の話を聞いて思った。グローバル化する世界でこれからも生きていかなければならないと考えると、「わが国と世界の○○」の教育はどんどん規模が大きくなるはずなので、何十年後に教育を受ける子どもたちは私たちなんかよりも大変な思いをするのだろう。その気持ちを汲み取りながら教育をしてあげたいなと思った。私はちゃらんぽらんな先生に向いているのかもしれない。
・・・> 向いていると思いますよ。あと少し、何かの度胸を乗っければ、いい先生になれると思う。

中学生のとき成績は上位に位置していました。それはいま思えば、本来あるべき教育を受けてこなかったからだと思いました。中学校の先生は、とにかく「暗記」を促し、私はそのレールに乗って暗記に励んだため、よい成績をとることができました。しかし本庄高等学院ではそのようにはいかず、成績はあまりよくないです。むしろ悪いです。それには、私の努力不足の部分と、暗記教育、機械的な教育が身についてしまっているからだと、今回の授業を通して学ぶことができました。知識を身につけることは学校に行かなくてもスマホで十分で、私が中学校で受けてきた教育は、型にはまり、社会では役に立たないものだと気づくことができました。公教育が機械的なものでなく、社会に役立つものとして機能すべきだと思いますが、その道のりは長いように思います。
・・・> 社会全体の道のりは長いだろうけど、レビュー主ちゃんは確実に進化したよ。点数なんてどうでもいいことではあるけれど、3桁乗せましたもん!

公教育は敵だというような認識をしてしまっていた。どうも一般認識の逆を向いていることを見つけると、それがよいと認識してしまう癖がある。逆張りをしたいわけではないのだが、どうにもそういう傾向があるように思えて仕方ない。一方向の視点で物事を見た気にならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。せっかく授業を通して学べている気がするのに、それが薄っぺらい自己満足で終わってしまうのは残念だ。
・・・> 日常的なことは別にして、教育とか宗教とか政治とか経済といった社会制度、社会秩序に立ち向かって反○○みたいな立場にあろうとするなら、そこには思想が欠かせない。思想を身につけるには、いったんその思想の内部に入り込まないとダメですよね。レビュー主くんは何かの規範や秩序の中に入り込んで染まったり一体化したりすることを怖がっていないか? そこで自分の浅さを見抜かれることを無意識に恐れていないか? ハタチを過ぎたら、思想という足場をもたない反抗などイタいだけのものになってしまいます。

いろいろな作業、職業が機械によって省略されていく中で、教育の分野は機械に奪われることがないと聞いたことがある。教師は生徒や教室の雰囲気のようなものを感じ取りながらその状況に対応して授業をしているっぽいので、それはそのとおりだと思う。教師はブラックだからならないほうがいいという話を教師自身からもよく聞くが、機械化が進むと機械に関係ない教師という職業の価値が高まっていくと考えられる。いまは教師になるのはそれほど難しくないので(たぶん?)、いまのうちに教師になれば世間的にみる大成功は手に入れられるのではないか。
・・・> 教師の地位が高まっていくのであれば私は歓迎ですが、「世間的にみる大成功」なんかのために教師になるのだけは勘弁してくれよな(君にではなく、世の人たちに)。そもそもそんな成功(名声とか高賃金)は得られないと思うし、その動機で就くべき職では絶対に、絶対にありません。


鳥取の子どもたち

 

寺子屋が小学校の前身だと思っていたのですが、寺子屋はその地域による教育であり、小学校は国家によってつくられたものであるので、小さい子どもを教えるという点では同じだけど実際のねらいなどはまったく違うものなのだと思いました。
・・・> そうです。江戸時代の日本は、寺子屋という、前近代のものとしては非常に充実した教育システムをもっていたのですけれども、それは近代公教育に連続しませんでした。藩学や郷学といった数々の名門学校もいったんリセットされました。江戸時代の充実した教育があったからこそ、近代公教育の導入後にそれをうまく取り込めたというのは間違いないのですが(知的水準の高さや向学心により)、それでも前近代のしくみを全部リセットして新規のものを載せるというのはなかなかできる判断ではありません。それを、自分たちは公教育なんて受けたこともない武士たちがやったのだから、すごいな明治維新って。

いじめや不登校など、学校というしくみにうまくなじめない子どもの問題が明るみになっている現在、たとえばホームスクーリングなど、日本でもさらに多種多様な教育方法が認められていくべきだと考えました。
・・・> 賛成です。公教育で、教育を受ける権利は均しく保障しなければならない。ただそのやり方や経路は多様であってよいはずですね。

子どもたちは学ぼうと思って学んでいるわけではない、ということが、いままでの義務教育課程で感じていたもやもや感だったのかと思った。おとなや政府は、教科書の内容の改訂などにこだわるが、とくに小学校の生徒たちは気にしていないし、学ぼうという気持ちが強くない人が多いように感じる。生徒のやる気を引き出そうとせずに体系的なことばかりにこだわって教育をおこなうことは、意味がないのではないか。今回の授業で、学ぼうとする意識が薄い生徒に対する義務教育のあり方について考えさせられた。
・・・> う〜ん、これはちょっとブレているかな。学ぼうと思って学ぶわけではないのは児童期childhood)の子ども(だいたい10歳くらいまで)です。「生徒」という用語を使っておられますが、日本の作法では、小学生は「児童」、中学生・高校生は「生徒」です。呼び方が異なるだけでなく、その性質もずいぶん違うのです。小学生は学ぼうという動機は不明確だが、学ぼうという気持ちは非常にあります。「そんなことやって何の意味があるんですか」「僕に関係ありますか」なんていう、自己を客観視する視点をもっていないから、むしろ素直に学びます。問題は、そうした斜め視点を得てしまい(それはアイデンティティ形成のために不可欠のプロセス)、それなのに学習内容が一気に高度化する青年期adolescence)、教育段階でいうところの中等教育なのです。「教科の専門家」である中等教育の教師は、おっしゃるように「生徒のやる気を引き出そうとせずに体系的なことばかり」を教えようとしがちです。ただ、意味がないわけではありません。教育=陶冶ですからね。問題は、教師がそのことをどこまで心得ているかということです。「自分(教師)が知っていることを、同じように知ってもらうことが大事なのだ」と信じている人は、本当に困る。大学ですら、いまはそれでは通用しませんからね。

高等教育と初等教育ではルーツがまったく違うということに驚きました。いまの自分の感覚だと、両者は混じっていて一つの流れのような認識でした。高等教育は「やりたい人だけがやる」という点で、本来の性質は変わっていないはずですし、普及が進んだとはいえ「やって当たり前」のことと捉えるのは、ぜいたくで傲慢な話なのかなと思いました。

教育の分野で大きな変革が起こると、それは時間の経過とともに人々にとって「当たり前」になる。公教育が各国に導入されたのがつい数百年前であったと再確認したいま、学校の存在というのが少し不思議に感じられる。公教育が導入された時代は、国家の中で人々の思想や知識量、経験があまりにバラバラだった点に目をつけて、コンドルセのような先駆者が国民の統制(まとまりづくり)の発想から公教育を発案したのではないか。文学史において、新たな作風が登場すると従来の作風を重視する派閥が生まれるように、教育でも似たような流れが生じてもおかしくないのではないか。(自筆につづく)

 

正解を求めるのではなく、ある事物を見たときの視点、考え方、受け方を学ぶことにこそ意味がある。知識を教えるとは、思考能力を上達させ、そして人格を養うための過程である。

学院に入ってから国・数・英のテストには苦しめられていますが、明らかに自分の考え方や向き合い方の成長につながっていて、テキストを読み解くためだけの授業ではないということを実感します。

公教育の陶冶性ということを考えたときに、公教育は国家がねらいとした事柄を時に飛び越えていくのだから、「答え」を教える必要はないのではないかと考えました。むしろ正解を教えられて満足してしまい、本当は別の着地点へ行けるはずなのにそのチャンスを失ってしまう可能性もあると思いました。ですが、何が答えなのかわからないことに向き合うのは非常に難しいので、少しは明確な答えがあってほしいとも思います。

国家(あるいは学校、教師)にとって理想的な生徒を育てるのではなく、グローバル化する社会で生きていくことができる国民を育てるべきであると強く思った。

公教育が、Googleやインターネットにできない、学習者を閉じた範囲や趣味の次元から引き抜いて考え方を育成するという陶冶性をもつというまとめが、非常に染みました。また道徳教育のあるべき姿は何なのかという先生の考えを聞いて、「グローバル社会で生きていく子どもたちを育てます」と安易に宣伝文句を垂れ流す学校が真にその意味を探究しているのかといいたくなりました。もちろんそこには最適解はあっても正解はないと思います。

教育についてほとんど考察したことがなかったため、授業についていくのが難しかったですが、現代の教育における問題点は主に「道徳という授業のあり方」「学校教育の必要性」「国家がグローバルなことを教えることの大変さ」だと考察しました。教育とは人々を「陶冶」することであり、公教育には陶冶の作用がなければならないものだと思います。そして、それがGoogleYouTubeにはない教育の魅力、強みだと考えました。

教育について学んでみて、私が無意識のうちに、教員が求めている単数の解答を推測しながら授業を受けていたことに気づかされた。これまで公教育に関して不満をもつことが少なくなかった。しかしその公教育を受けている身から一歩離れて客観的にみると、公教育を通してまったく有益に思えないような知識を得ることによって自らが「陶冶」されていくことを理解し、たまにサボってきたことを後悔した。公教育のよさについて理解したうえで、公教育が置いていかれかけているグローバルな社会に「陶冶」された自分が対応していく必要があると強く思った。

公教育の陶冶性の話がありましたが、この陶冶性はIT化やグローバル化に適用できないのですか?
・・・> なになに? 陶冶性というのは教育の性質で、IT化やグローバル化は社会変化の方向。適用する対象は「人間(たち)」だけだと思いますが・・・。

学校教育におけるcollectivityというのは、オンライン期間を通じて、いかにそれが重要なものであるのかを実感しました。Zoomやオンデマンド授業は、本当に周りの反応が見えないので、「自分だけが理解できていないのでは」といった不安がありました。だから通常登校になって集団で授業を受け、周りの雰囲気を目で見て感じ取れることの安心感を覚えたし、周りの生徒と共感したり、議論したりすることに「学校の楽しさ」があると思いました(見て感じ取れちゃうことを怖いと思う人もいるのかも)。

消費しているだけで社会に影響を与え、社会参加しているにもかかわらず、社会科の授業では政治や法など難しいことを学ぶので、社会に貢献しているような感覚をもちづらいと思いました。経済はグローバルなものだと初めて気づきました。
・・・> 経済も難しいです(笑)。政治や法のことも含めて、中高生の足許との接続というか、地続き感をもう少しもたせたいですね(とかいいながら、はるか地球の果てのことばかり教える先生)。


パリの中学生たち

 

公教育が発案され定着していなかったら、いまでもナショナル・アイデンティティという概念が生まれていなかったかもしれないと考えると、公教育の影響力の大きさを実感した。グローバル化が進んでいるいま、公教育によって自国民としてのアイデンティティをはぐくむとともに外国に目を向けさせるというのは困難なのではないかと思った。EUの教育の例(他国の制度も併せて紹介する)は、多面的な思考力を身につけさせるという点でとても効果的だと思った。

公教育はネイションと深く結びついており、経済・歴史・ネイションなどの形成に関与しているということを知った。ナショナルを軸とする公教育は今後グローバル化が進んでどうなるかと考えたときに、ボーダーレスになりにくいとはいわれたが、やがて世界が軸になると考えた。けれども、それでも「世界を学ぶ」というときでも各国のナショナルを軸としているため、結局公教育はなくならないのではないかと思った。

グローバル化する世界の中では、「国家が世界について教える」ことになるのですが、先生がおっしゃったように、かなり無理があるように思いました。中学校の先生を思い出しても、失礼ながら十分に教えてもらえるとは思えないですし、国家によって「世界」の捉え方にかなり大きな、下手をすれば180度くらいの違いが出てしまいそうです。

「グローバル世界だから」ということで、学校では国家内の事象だけでなく世界の歴史や現状も学ぶが、たしかによく考えてみれば、国家の教育が国家の枠をはみ出したことを教えるのはおかしなことだ。しかしEUは別として国家より大きな枠組はないのだから、それぞれの国家でそれぞれのグローバル世界についての教育がおこなわれているのだと思った。また、日本の教育が経済などと比べてボーダーレス化を進められないのは、教育をボーダーレス化することの緊急性・必要性が認識されていないからだと思う。その点、インドなどの発展途上国のほうが、「外で学ばなければ生きていけない」という緊急性・必要性があるため、今後も教育のボーダーレス化が進むのではないだろうか。

公教育は本来、国家のことを考える教育であるにもかかわらず、グローバル化が進む現在では国外のことを早い段階から知る必要がある。そのためには教員が教えられるほど世界の知識を蓄えることが求められる。教える側に知識がなければ教えられる側も知識を得ることができない。教育というのは受ける側の意識の変化によって質が変わるのではないかと思う。学ぶ意欲がなければ教育を受けていてもすべて納得することしかできず、批判することができない。そのために、日ごろから社会の知識を習得することが大切であると思った。

グローバルな人材の育成を国家がめざすのであれば、教員もグローバルに集める必要があると考えました。そうなると、グローバルな教育をおこなうことがいかに難しいことかわかる気がします。
・・・> 私もそう思うんですよね。複数の国家どうしで提携し、3年とか5年とかの期間を区切って、先生をトレードしちゃえばいいと思います。日本人の発想だとどうしても外国人=英語の先生ということになるのだけれど、そうではなくて、数学や理科や社会や保健体育や芸術の先生を交換すべきでしょう。先生の日本語能力なんて最初はゼロでもかまわない。知るかぎりの英語とか身ぶり手ぶりとかポケトークとかでどうにか教えようとするだろうし、生徒もどうにか学び取ろうと食らいつくだろう。そうやってやり取りされたものこそ真の学びではないのかね。すべての先生を外国人にするわけではもちろんなくて、「助っ人選手」でいいじゃないですか。日本から外国に派遣された先生も、現地で同じことを経験して、数段優れた教育者として戻ってきて、日本の教育にいっそう寄与してくれると思います。留学生もそうなのですが、実際に身近で接したことのある人の出身国や言語・文化には、他とは違う親しみをもつものです。世界は遠くのどこかにあるのではなく、すぐそこにあるのだと身をもって学ぶ機会であり、それこそグローバル時代の教育だと思う。

 
(左)香港の子どもたち (右)マカオの子どもたち

 

「わが国と世界の歴史」という話がありましたが、世界史の授業では世界の隅々の歴史まで学べていないと感じています。実際に学んでいるのかは置いておいて、教えられることすらされていない気がします。実際この現代社会論IIで新たに学んだことが多かったです。そして、これはキャパシティの問題が関係しているのではないかと思いました。
・・・> いくらなんでも世界の隅々の歴史まで教えて(学んで)いたら時間と脳細胞がいくらあっても足りないのでは? 現代社会論IIで新たに学んでくれたというのはうれしいですね。さて、当科目では国家や地域の成り立ち、その特徴を際立たせるために、近現代史の部分を強調して切り取りました。香港・アイルランド・パレスティナ・バルカン半島という4地域だけですが、そこに共通のリズムや構造を見て取ることができましたか? 4地域にすべて共通というのではなく、微妙に重なり、微妙に違うが、なんか似ているなというような。あと3地域くらい自分で本を読んで勉強すると、いっそうその感覚は強くなります。そのレベルになったら、「世界の隅々」までこちらで用意して提供しなくても、学習者が自分で自在に学ぶことができますし、今後の変化にも対応することができます。ナショナルな学びからグローバルな学びへと「拡張」する際には、そうした質的な「深化」がセットでなければならない、というのが私の主張です。

教育のあり方は時代の流れとともに変化している。かつては統一されたナショナル・アイデンティティを形成するために、決まった型に当てはめ、1つの答えに導くという教育をおこなっていた。しかしグローバル化が進んだ現代では、1つの型でなく多様な見方を養う教育がめざされる。しかし決まった型に当てはめる教育からまだ抜けきれていない感が否めない。EUASEANの教育では、国ごとの意識でなくグローバルな意識を意識させる教育をおこなっていて、うまく回れば大変強い力になる。日本ではそのような教育はまだまだできていないと思う。それは教員側に大きな問題があると思う。従来の「統一国家」を意識させるやり方に固執している。国を挙げての教育改革が必要だと考える。世界を意識させることで、逆に「日本国民」という統一意識が生まれることも考えられる。

グローバル化に伴って「わが国と世界」を学ばなければならないが、古賀先生のような人でなければ本質的に教えることが難しい。そうすると、グローバルを掲げておきながら空振りの教育、ということが増えてしまうだけだと思う。単数の正解を求める教育がダメだと知っていても、正解がないものや、1つにくくることのできないものを教えるのは本当に難しいのだと思う。私自身、「結局正解は何なんだ」と最短で答えにたどり着きたくなってしまうことがある。そういった生徒の思いに応えるためにも結局「正解」を用意するのが、最も平和的で楽な道になってしまうのかなと思った。「わが国」以外の事象を学ぶようになり、いろいろな場所に、それぞれ異なる「正解」が存在し、それを知るというのは頭がかき乱されるような感覚だが、それらを受容して整理し、世界(多様性)の中に自分を位置づけられるようになりたい。

グローバル化が進む中で、それに対応できるような教育がおこなわれるべきだというのはよくある意見だと思いますが、実際にそれをおこなうのは困難だということがわかりました。現状の内容だけでいっぱいいっぱいなので、たしかに考えてみればわかることです。しかし言語などの直接役に立つようなものも、これからは必要になってくるように思います。そこはこれまで以上にがんばるしかないのか、本当に難しい問題です。
・・・> 「がんばる」の主語は国? 学校? 生徒?? 言語は自習こそ本体ですからね。いくらいい授業でも、自分でトレーニングする時間がなければまったく身につきません。体育の授業ではなく部活動や自主練が必要なのです。

学校教育において、国語や国史、国家道徳などといった国内全域で共通する内容を教えることにより国民(nation)の共通基盤、帰属意識を生む。また本来の帰属意識の向かう先である家族や村・共同体などの意識が薄まっていく可能性があると言及されていた。多国籍の生徒が通う学校では自国への帰属意識が薄まることにつながるのではないかと思った。たとえばインターナショナルな学校で自国について批判されつづければ、また英語でおこなわれる授業ならば、自国への帰属意識が薄まるのではないだろうか。あるいは米英への帰属意識?が芽生えてしまうのではないだろうか。
・・・> インターナショナル・スクールは公教育ではないのです。あれは各種学校。それと、フランス語やドイツ語、中国語だったらそれらの国への帰属意識というかシンパシーも発生するでしょうが、英語というのは本当にグローバルになり無国籍化された言語でもあるので(スタバ的な)、米英ということにはなりますまい。

複数の答えがある学びに私は賛成ですが、それによって国家の中ですら対立が起きかねないのではないかと思いました。
・・・> 国家内の対立を起こさないというのは、マイノリティはマジョリティに黙って従うということだぞ、たとえば。


日本のどこかから横浜にやってきた中学生たち

 

これから大学で学ぶにあたって、直接興味のないことが実は自分のキャパシティを広げているということを知ったので、せっかくの4年間を有意義に使えるように、もっと自分の興味の範囲外のことにも意識的に取り組もうと思いました。

いままで15年程度も公教育を受けてきたが、その意味や価値を深く考えたことがなかったため、新鮮な内容で興味深かった。科学の発達やグローバル化などにより、人々が公教育を通して学ぶべきことが大きく拡大した現代において、より学歴を重視するようになっている社会は危険であると思った。
・・・> いまの日本が学歴を重視する社会なのかどうかは見解が分かれますが、従前とはずいぶん変質してきています。何にせよ「学歴社会だから」と思い込まないほうがうまくいくと思う。で、そうはいっても学歴重視みたいな部分は依然としてありますよね。それがガラパゴスというやつです。そういう罠にはまらないようにしましょう。

この先の教育はどんな方向に向かうのでしょうか。教育の陶冶性を最大限引き出した質の高い学びを多くの人ができるようになれば、こんなにすばらしいことはないなと思いました。
・・・> なんでこんな素敵なことをいえちゃうんだろうな。泣きそうになっちゃいました(涙)。

たしかに国家が基になった公教育は、グローバルとは相性がよくないと思う。でも教育は陶冶であるから、このような状況には、なるべくしてなったのだとも思う。グローバル化した時代だからこそいま一度「学び」の本質を捉えなおす必要があると思った。今回の授業を通してあらためて「学ぶ」ということについて考えることができました。

 



開講にあたって

当科目は公民科に属します。公民や地理歴史、いわゆる社会科は知識を暗記するものだと信じている人が多いのではないかと思いますが、断じて、絶対にそうではありません。その証拠に、当科目では何ひとつ暗記を求めません。自分の意思や主体性のないところで暗記しても、試験が終わればすぐ剥がれ落ちてしまうだけですし、そうした苦行?を通じて社会科を嫌いになってしまうのが残念でならないのです。嫌いになるのは勝手だと思うかもしれませんが、社会を知らずに社会で生きていくというのは「むやみやたら」「でたらめ」と同じ意味ですから、相当に危険なことだと心得てください。そう、社会科の「社会」はみなさんが一生付き合っていくこの「社会」にほかなりません。同時に、これまで身につけてきた(暗記してきた?)はずの知識をあれこれ活用することも試みましょう。一般入試で大学にやってくる学生の中には、「僕は日本史選択だったので外国のことをいわれても困ります」「私は地理なので歴史はさっぱり」といったエクスキューズを連発する人がけっこういます。附属高校の出身者はそうした制約(でもないのですが)から本来フリーでいられるはずですので、私としては、公民科に属する政治・経済、倫理、地理歴史科に属する世界史、日本史、地理、それから国語、数学、理科、保健体育、家庭、芸術、外国語(英語)といった教科、もちろん小学校以来の学びの成果をどんどん引っ張り出して思考していただきたいと考えています。教科の学びは思考し、生活し、自身の将来を展望するためにあります。決して目の前の試験や入試のために存在するのではありません。そうした知的経験をすると、いい意味でのクセになります。そこをねらってみたいと思います。

本年度はグローバル時代のパースペクティヴ2020という副題のもとで学びを進めます。現代社会=グローバル化の進む社会 と捉えるならば、グローバル化(globalization)というスケールの大きな、しかし捉えどころのない対象と格闘しなければなりません。なんらかの辞書的な定義をもってきたところで実感をもって受け取るのは難しいのではないでしょうか。そこで、1学期は主に地域研究に取り組んで、地域ごとの個性や独自性、しかしそれらに通じる共通性や相似性などをすくい取っていくことにします(いや、すくい取るのはみなさん自身です)。2学期は、地球規模の動向と各国・各地域のつながりについて考察する予定です。全体として、(1)グローバル化とはどういうことか、(2)グローバル化の進む時代における見方・考え方・学び方とはどのようなものか、という問いに対して自分なりの答えを出していく、その際に授業内容を事例として噛ませる、という、なかなか高度な(しかし文系ならばぜひ身につけておきたい)思考を促していきます。  *オンライン化に伴い、方針や順序を多少変更しました。


 

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