■最初の質問で堂々と「何ヵ国語」と訳してしまっていたので、授業後に思い返すと少し恥ずかしいです。母国語ではなく母語であること、国家で言語をくくって何ヵ国語としないことなどは、いまから心にとどめておこうと思います。
■なんとなく、母国語や○ヵ国語といってしまっていましたが、実態として言語が国々に結びついているわけではないということにあらためて気づけました。
■言語と国家を結びつけてはいけないという話を聞いて、やっと自分がいままで無意識のうちにそれらを結びつけて考えていたことを自覚した。日本人はとくにそのような状況に陥りやすいと思う。
■何ヵ国語を話せるか?という質問はたしかにおかしいと実感した。英語ではlanguageといっているだけなのになぜ日本語では「ヵ国語」などという言い方をするのだろうか。以前から母国語と母語の違いがあいまいでちゃんと理解できていなかったが、母国語という表現の仕方が間違っていることを知って、とてもすっきりした。
■○ヵ国語という言葉が、意図しないうちに国家と結びついていたことに初めて気づいた。たしかに、ある言語が一つの国家を象徴しているとはかぎらないから、これから注意しようと思った。日本にいると、日本人は当たり前に日本語を話すと思い込みやすい。あくまでも言語は個人に属していて、住んでいる地域などと一致するとは限らないことを把握しておくべきだと思った。
■私は、母語も第一言語も日本語です。海外に住んでいればバイリンガルやマルチリンガルになれたのかな、と思うのと同時に、世界は同じ地域にさまざまな言語が飛び交って大変だとも思っていました。しかし、そんなこともいっていられないし、日本では日本語がほとんどの生活の中心になっていることから、私自身が「言語と国家を結びつけがちな日本人」の典型的な例であり、その感覚や価値観を世界に押しつけていたために、先述したような感想が出てきたのだと考えました。
■「母国語」の異常さについて深く知ることができた。そのように表記するときもあるが、ブラジルの人の母国語がポルトガル語、といったときの矛盾の例を見て、とてもしっくりきた。
■母語や第一言語、普遍語など、ことばにもいろいろな種類があって、いままでその意味をちゃんと理解せず、普通に「母国語」とかいっていたのが少し恥ずかしくなった。
いま英語や中国語を勉強しているが、言語自体を勉強したことがなかったので新鮮だった。これまで母語と母国語を表記ゆれのようなものだと考えていたが、本来はまったく違う、もしくは母語の身であるとわかった。また、日本語の起源は、似たような言語が存在しないためよくわかっていないという話を聞いたことがあり、今回の授業を機に、もっと調べてみたいと思った。
・・・> 日本語の起源って、いつの時代も多くの関心を集める、人気のテーマです。それにしては、言語学や人類学などのきちんとした作法で研究した成果がほとんどなく、大半はガセとか俗説とか非科学的な暴論のたぐいです。「調べてみたいと思った」のは結構ですが、率直にいって、日本の高校3年生がネットやAIで調べたくらいで出てくるのは学問的には通用しないガセやエセがほとんどです。そんなにさかのぼって何が楽しいのかねと私なんかは思うのだけど、まあそれは自由。でもフェイクに引っかかるなよというのと、本人が引っかかるのは自己責任だけどそれを周囲に言い散らして被害者を増殖するなよと、老婆心ながらいいたい。
■日本人の多くは日本語を話し、日本語を第一言語にしていると思います。私もそのひとりで、母国が日本だから母国語は日本語であるといままで思っていました。でも母国語なんてないということに、とても納得しました。日本という国家の中で日本人とかかわっているあいだは通用していた常識と思われるようなことでも、もっと大きな視点で見てみると全然常識でなく、ズレていると思われてもおかしくないこともあるんだなと思いました。言語の歴史についてもっと知りたくなりました。
■何ヵ国語、母国語といった言い方について何の意識もせずにそういっていた。しかし授業を終えてみると、そのような表現は間違いであると気づいた。一つの国の中でもいくつかの言語が話されていること、また言語は国ではなく個人に属していることをあらためて認識することができて、よかったと思う。日本にいる人の多くの母語は日本語であり、たしかに「異言語が身近にある」という環境に自分はいない、と新たに実感した。
■言語の分布と国家の領域がそもそも異なるにもかかわらず、ある国家がある言語を話すというように、無理やり型にはめるようなことがおこなわれ、「母国語」という言葉が取り違えて使われてしまうようになったということがわかった。このように国家と言語が一対一で対応するという認識は、日本人にとくに多いのだろうと考える。日本語という言語は世界でもほぼ日本という国家でしか話されておらず、日本語と日本だけを見れば、国家と言語が一対一対応になっているからである。
■○ヵ国語とか母国語というような表現を自然に受け入れてしまえるのは、日本が民族国家であり島国であるからなのだろうなと思いました。日本人の特徴として異言語に触れにくく、日本にいればほぼ日本語しかないという環境があって、それが国=言語のイメージになってしまうのだと思います。去年アメリカに行ったとき、初めての海外だったので、アメリカでは英語ばかりが話されているのだと思ったら、最初に入ったデニーズもハリウッド通りのショッピングモールでもスペイン語で話す人ばかりで、とても驚いたけど、今回の授業で、それがスタンダードなのだとわかりました。
・・・> 島国だから、って本当ですかね? フィリピンもインドネシアもスリランカも次回のテーマである英国も島国ですけど、言語でもめていませんでしたっけ? 後段、アメリカ合衆国にスペイン語を母語としている人が多く見積もって1割弱住んでいて、とくに西海岸やベースボールの世界などでは濃度が高いというのは事実です。でも、日本人が観光旅行で訪れて歩くようなスポットは、むしろ「外国人観光客」が多くて、その「国」の実情とはかけ離れている可能性があるから注意しましょう。東京に住んでいる私はめったに浅草に行かないし、浅草の仲見世やスカイツリーあたりを歩いて「日本では中国語やスペイン語がたくさん話されているんですね」(界隈に関しては事実)といわれても、「そこを見るのか、ちがくないか?」っていいたくなります(汗)。私が大好きな、第二次の地元パリは、世界最大の観光都市で、それっぽいところを集団で歩いている人はほぼ外国人です。フランス語より英語が通じます。「フランス人はフランス語にこだわるとか聞いたけど、パリでは英語が話されていた」っていうふうには、ならないんじゃない?
■日本に来てから何度も周りの人たちに「何ヵ国語を話せる?」と聞かれて、最初から疑問を抱えてきた。私の母語では、“How many languages”と質問する際には「何ヵ国」を使わず、「いくつ」というのである。この現象に至る原因は、おそらく日本はモノリンガル国家だからだと考えた。自分が住んでいる国では一つの言語しか使われていないから、そのような考え方に従って、質問のしくみをつくり、他人に質問しているんだろう。つまり言語使用は人の考え方とかかわりがあり、違う文化出身の人々の物事の考え方や価値観もことば(文法、語彙など)に反映することがあるのではないかと私は考えた。とてもおもしろいと思って、未来はこれについて研究したいと思っている!
・・・> 第二言語(もしくは第三言語)で授業を受講して、アウトプットして、授業者(古賀)の意図を大きく超えて思考して、その先で学問的に正確な認識にいたっているわけなので、ちょっと別格にすごいなSちゃん! おっしゃっていることはすべて正確で適切なことです。学問分野でいうと、自然言語学・社会言語学だけでなく、哲学や社会学もかなりかかわってきます。王道ですけど、ソシュールの言語学に取り組んでみることを勧めます。ソシュールは20世紀後半の現代思想にも多大な影響を与えました。これを学んでおくと、現代社会そのものを分析する有用な枠組を獲得できるのではないかと思います。
You are taking classes and outputting thoughts in the second (or third)
language, far beyond my intentions, finally arriving at an academically
accurate understanding. Such a great learner!! Everything you say is accurate
and appropriate. According to academic fields, it involves not only natural
linguistics and sociolinguistics, but also philosophy and sociology to a
great extent. It's a bit of a classic, but I would recommend trying Ferdinand
de Saussure's linguistics. Saussure had a huge influence on modern thought in
the second half of the 20th century. I think that by studying this, you will
be able to acquire a useful framework for analysing
modern society itself.


土焼きの食器のギョウザスープというニホン語が、あまりおいしそうに聞こえないのはもったいない
(実際にはとてもおいしくて感心しました)
親切心で外国語(日本語)の訳をつけてくれているのだろうけど、残念 われわれも似たようなことをしているんでしょうね!
■多言語国家と比較して単一言語の国家である日本(しかも英語やスペイン語のようなメジャーな言語と文法が大きく異なる日本語を母語としている)は、国際化が進んでいっているこの世の中ではとても不利だと感じた。
■人類の一番の成功は言語というものをつくったことだと思った。私たちの頭の中で思考するのも言語がなければできないと思った。言語を話すのは国や集団ではなく個人、という視点は新鮮だった。国や地域でまとめるのではなく、一人ひとりがどんな言語を話すのか、しっかり理解しないと、大きな誤解が生まれてしまうのだと思った。また言語は社会や政治にも大きくかかわり、呼び方によって相手に与える印象や意味合いが変わってしまうことがあると思った。
■言語に対する認識の難しさと興味深さを再認識した。日本では、公用語ではないかもしれないが日本語が主である。私はずっと日本で育ってきたため、多言語が絡み合っている国に生まれたらどのような言語過程を経たのか、とても気になる。第二言語を習得してもそれが子どもことばであったら社会では使えない。またその言語特有の表現(日本語だと「もったいない」など)があるなど、とても多様な視点で言語を捉えることができる。
■インドの話になったとき、いままで世界史で用語だけ出てきた「○○語系」という言葉の意味を知ることができた。また、同じ語系・語派でも通じないことのほうが普通だ、というのは、日本で生まれずっと日本で生活している私にとっては、とても興味深かった。授業を通して、日本の中でも言語的に閉鎖された地域で生活している私にとって、言語と国家を結びつけることにより起こる弊害について意識することになった。
■インドではヒンディー語を話す人が多いのに、最大都市であるムンバイでは母語がマラーティー語の人が多いというのがおもしろいと思いました。でも第二言語などを見ると英語を話せる人が多く、英語が最も広く通じると聞いて、たしかに日本人でも英語を話せる人が多いし、日本で英語を話しても広く通じているなと思いました。
■資料に登場したムンバイや上海には住んだことがあり、その生活をもとに考えることができた。ムンバイに住んでもマラーティー語やヒンディー語は習得しなかったし、上海に住んでも上海語は使わなかった。とくに上海では田舎から出稼ぎにきた人たちの多様な言語を聞くことができ、それぞれの特徴を覚えて判別することができるまで鍛えられた。私は2言語で育てられてきたので、いつの間にか両方の言語を話せるようになった。
■公用語はメジャー言語である必要はなく、マイナー言語にしてもよいのだと初めて知り、言語のおもしろさを感じました。(類例複数)
■今回の授業を通じて言語の捉え方、考え方が変わった。その地域の人が誰も話せない言語を公用語にしてもよいということを知って、意外に感じたが納得した。なぜなら、いままでにそんな例を聞いたことがないものの独特の公用語を設定する可能性があると以前から考えていたからだ。過去に無謀な公用語設定をしたことのある歴史的人物がいたら教えてほしいです。
・・・> 特定の人物というよりは「人たち」の話になりますが、1967-74年のギリシア軍事政権を挙げましょう。現代のギリシア語には、一般民衆の話しことばをベースにしたディモティキ(Δημοτική)と、擬古典語で書きことば中心のカサレヴサ(Καθαρεύουσα)があります。法律や行政はカサレヴサで書かれ、運用されるので、これをマスターしなければ企業や役所に職を得られないということになっていました。軍事政権はカサレヴサの徹底とディモティキの排除を進めたのですが、誰が文語なんかしゃべるかい、ということですよね。つまるところ日本語の書きことばが漢文オンリーだったようなものです。1974年にクーデタが発生して軍事政権が崩壊し、民主化が実現すると、ディモティキが公用語に採用されています。
■組織や集団が公式に公用語を決定したり、国家そのものが公定したりすることばがあると、その国家全体、集団の全体がその言語を話していると考えてしまいそうになります。しかし大前提として、言語は本質的に人(個人)に属しているため、その国家・集団で生活する人がすべて公用語や国語を用いるのではないということを再認識できました。
■第一言語は日常的に使う言語であり、母語と一致しない場合がある。第二言語は第一言語につづいて使用する言語を指す。これらを意外とわかっておらず、今回の授業を通して言語は重要なアイデンティティであり敏感な問題であると知ったので、気をつけなければならないことに気づいた。今回は言語から世界・社会を考えていくので、難しかった。世界史などで、この国は○○語、などと習って覚えたが、自分のまだまったく知らない言語があったり、同じ国にも異なる言語があったりするなど、この国の言語は○○語だと一概に決めつけられないとわかった。
■チェコ語とスロヴァキア語は同一言語だという話を聞き、かつて一つの国家であった歴史をもつ国家の人々が話す言語だな、と思い、少し歴史と似ていると考えました。
・・・> チェコ語とスロヴァキア語は、自然言語学的には同一言語とみなしてよいですが、社会言語学的あるいは国際関係論的には別の言語です。なにより当事者たちが別の言語だといっています。一度だけスロヴァキアを訪れたことがあって、そのときに出会った同世代くらいの女性が「私はチェコ人で、夫がスロヴァキア人。ほとんど同じ言語なんだけど私はチェコ語を話したいのよ」といっていたのを思い出します。なんらかの強いプライドやこだわりがあるのでしょう。さて、チェコとスロヴァキアがかつて一つの国家であったことをご存じのようですけれども、実は同一国家であった時期のほうがずっと短くて、かなり人為的にくっつけられたため、とくにスロヴァキアの側に不満やコンプレックスが強くありました。現在のチェコ共和国の領域の大半はベーメン(ボヘミア)と呼ばれ、そこにズデーデンも加わっています。第一次世界大戦まで、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)のうちのオーストリア王国に属していましたので、当時の公用語(法律語)はドイツ語です。対してスロヴァキアは、同じ帝国の中でもハンガリー王国に属し、公用語はハンガリー語でした。第一次大戦の敗北で帝国が解体され、言語集団ごとに民族国家が樹立されるのですが、そのとき「同じような言語を話すのだから、チェコとスロヴァキアは一つにしたほうがいいだろう。そうしないと国家の規模が小さくなりすぎるし」というので、初めてチェコスロヴァキアという枠組ができました(1918年)。歴史や宗派の異なるセルビアとクロアチアが、主な言語が同じだからというのでユーゴスラヴィアとしてまとめられたのと、同じタイミング、同じ趣旨のことです(クロアチアも、スロヴァキアと同じような不満やコンプレックスを抱えました)。社会主義政権が崩壊したあとの1993年に、チェコとスロヴァキアは平和裏に2国家へと分かれました(ビロード離婚と通称されます)。両国とくにスロヴァキアのマジョリティからすれば、ようやく「本来の国家のかたち」を得たことになり、「一つの国家」だった時期がイレギュラーでおかしかったのだ、という認識になります。レビュー主が「少し歴史と似ている」といっているのは、あながち外れていなくて、歴史がいま述べたような経過をたどりましたので、言語(社会言語的にみた場合の言語)そのものは変わらなくても、呼び方やくくり方が変わったということですね。
■低地ドイツ語と高地ドイツ語を別の言語だとするなら、名古屋弁・津軽弁・京都ことば・信州弁も言語として数えられるのですか? 琉球語・アイヌ語は別言語である気がするけど方言が一つの言語であるという考え方がしっくりこない。
・・・> 「方言が一つの言語であるという考え方」に対しては、明確に否定しておきました(スライド31枚目を見てください!)。低地ドイツ語と高地ドイツ語は、方言ではなく別の言語です。レビュー主自身が、まだ国家と言語を直結させるクセを抜け切れていないかもしれませんよ。ドイツ国内に2つの異なる言語があるという状況を信じられていないのでは?
■無言語の人はどうして存在するのですか。
・・・> 多くは先天的な障がいや病気によるものです。乳幼児期に親や人間集団とはぐれて「野生児」として育つと無言語になる、という想定もあり、実例らしきものも報告されていますが、どうも怪しい部分もあって私はあまり信用していません。

「外国人観光客」が好きそうな北欧小物のショップ(スウェーデン マルメ市内)
2行目のBienvenidaはスペイン語なのだが歓迎する相手が女性の場合の表現(男性だとBienvenido)
小物屋さんのジェンダー傾向ということなのだろうか?
■言語の本体は話しことばで、書きことばは後発で人為的だということに驚いた。たとえばアップルを「りんご」と表記するが、«ringo»と表したら不便ではあるが生活はできる。たしかにそうだ!と思った。
■言語の本体は話しことばであり、母語は人に属し、公用語は集団に属することを理解できた。ローマ帝国がラテン語を儀式用に公用語として定めたように(古賀注:×儀式用 ○法律用)、英語を公用語に定める/定めない背景について考えていこうと思う。また、クロアチア語とセルビア語のように言語としては実質的に同じでも人々がもつアイデンティティが関与して意識的に対立している例もあると学んだ。言語についての定義を学んだので、この次は「消滅の危機にある言語」について学びたい。
■地図帳の言語地図で可視化されているのは、あくまでメジャー言語であって、マイナー言語も実際には存在していること、言語は国家ではなく個人と結びついていることを頭に入れておきたい。○○語と△△語が似ているのは先祖(縦のつながり)が共通しているからであり横のつながりではないということに納得した。言語を勉強するうえで、文法や単語などその言語の使い方を学ぶだけでなく、「言語」そのものを学ぶのもおもしろいと思った。
■異言語が身近にあるという環境がその人の能力を形成する時代になりつつある、という話だった。異言語に自然に触れられるような環境に身を置くことで、言語能力だけでなく異文化を受け入れる柔軟な考え方なども身につき、「違い」が尊重される現代において優秀な人間が形成されると思った。一言語と多言語、どちらが生きやすいかなどは決められないが、多言語のほうが現代に沿った、応用の利く人になるのは間違いないと感じた。
・・・> 私も、「むしろ異文化を受け入れる柔軟な考え方」のほうが、より重要だと考えています。言語を異にしていても実はそれだけの違いであり、同じ人間であり別の人格である、という普通の感覚を身につけられるかどうかですよね。言語が通じないという経験は、みんなもっとしたほうがいいよな〜。
■インド人の友達がその友達としゃべる時に英語でしゃべっていてなんで英語をしゃべるのか気になって聞いた時に友達が「英語が通じるから」と言われた。それを聞いたときはどういうことと思っていたけど今日ちょうどインドの言語の話がでてきて納得した。
・・・> 晒(さら)してやろうという意図ではないので気を悪くしないでほしいのだけど、書きことばの技術を、もう少し向上させよう。レポートではないのでそこまで気張って書く必要はないが、文字を読んだときに、まず「何をいっているのかわからん」状態になります(よく読むと伝わる)。おそらくSNS的な書き方に慣れすぎてしまって、話しことばのノリがレビューのコメントにも混入してしまっているのでしょう。高校3年レベルの母語運用能力は、もうちょっと高めに設定してみましょうね!
■言語の本体は話しことばで、書きことばは人為的なものだとわかった。母語は生得的に得た言語で、母国語とは違うとわかった。第一言語は日常的に最優先で用いる言語だが、移住や結婚で母語と一致しないこともあるとわかった。大人語をしゃべる能力が大事で、そのためには学習・経験が必要だとわかった。
・・・> ひきつづき、晒してやろうという意図ではないので気を悪くしないでください(上とは別の方です)。授業で示されたフレーズをオウム返しにして「ということがわかった」というまとめは、意識して避けるようにしましょう。間違っていても理解できなくてもかまわないから、自分が考えたこと、疑問に思ったことを文字化するように努めましょう。オウム返しは、「いわれたことは聞いていますよ」ということを示すにすぎません。たいていは中身ではなく表面をなぞっているだけになります。「わかった」を連発するときにかぎって「わかって」いないですよね。これまでの回を含め「おとな語」を十分に身につけられていないようなので、学習・経験を積むことを強く勧めます。
■私は東京で、「標準語」の中で育ってきたが、小4〜6のとき福岡に住んだ。福岡では、周りの人はかなり訛っていた。そこで私はその訛りを習得して、中学校で東京に戻ってきた。しかし先生の使う「博多弁」を聞いても、私が使う「博多弁」とはまるで違った。ならば私は何を話していたのか・・・。今回の授業を通して考えた理由は、(1)幼いころに使っていた「博多弁」は、周りも幼いのであまり当てになっていないこと、(2)2年しかいなかったので、標準語と「博多弁」が言語接触したこと(方言を言語とするべきではないかもしれないが)、があるのではないか。こういったことから、実はまったく同じことばで話す人はいないのではないかと思えてきた。「だいたいの言語はクレオール」というのも納得がいく。
・・・> スケールがでっかいようなちっちゃいような話やな(笑)。私(古賀)は、中3〜高3の4年間住み、大学の4年間は目黒区にあった福岡県人寮に住んでいて寮生はみんな福岡県のことばを話していました。実家はいまも福岡市にあり、高校の同窓会にもちょくちょく足を運びます。しかし逆にいえば、その程度です。昭和の数年間で身につけた私の方言のほうがズレているのではないかな。それと、日本語といってもいろいろある、というのに似て、福岡県のことばといっても、いろいろあります。ご商売で用いる丁寧なことば、家族や友人どうしのラフなことば、体育会系のことば、ヤンキーのあんちゃんのことば、ギャル語(あるのかな?笑)・・・。そして、県人寮に住んでいて余計に実感したのは、地域による違いがかなり大きいことです。大きく分けると、福岡地方・北九州地方・筑後地方・筑豊地方で、イントネーションや語尾などがまったく異なります。江戸時代の藩が別々でしたしね。福岡地方の中でも、旧博多地区(東部=商人町)と旧福岡地区(西部=武家町)では別の方言じゃないかと思うことすらあります。私がかつて住んでいていまも実家があるのは旧福岡地区です。こちらは転勤族や九州各地からの移民?が多いため、イントネーションが標準語に近いのが特徴です。最後に、「周りの人はかなり訛っていた」「私はその訛りを習得した」というのは天動説。福岡では福岡のことばが標準です。東京から福岡の学校に移って、転入した当日に自己紹介した私に、クラスメイトのK君は「おまえ、なまっとうね」といってきやがりました。新鮮で強烈なインパクトのある言説でした。私が言語というものに関心をもった最初の出来事でもあります。
■ひらがなは日本独自のものだとおっしゃっていましたが、カタカナも日本独自のものなのでしょうか?
・・・> そうです。ひらがなは漢字の草書体をさらにくずしたもの、カタカナは漢字の部首などの一部を取り出したものです。阿のコザトヘンがア、伊のニンベンがイ、宇のウカンムリがウ、江の右側(つくり)がエ、於のカタヘンがオになっています(あとは調べてね)。平安時代の仏僧が、漢文のお経にメモ書きするときに用いたのがはじまりのようですね。

千葉工大のすぐ近くのバス停(千葉県習志野市)
和名のセイヨウトチノキでなくマロニエ、それも「まろにえ」とひらがな書きなのがしゃれたつもりなのだろう
(この付近の道路も「まろにえ通り」という名称をもっている)
ただ停留所名の英語表記がMarronierbashi Bridgeというのは意味不明! 誰にとっても意味がわからない
marronierはフランス語、bashiは日本語の連濁読み、bridgeは英語・・・ まろにえ橋橋なの?
■卒論で日本の英語教育を扱っています。ある本に「日本語という土台の上に第二言語がある」的なことが書かれていて、その意味がいまになって少し理解できた気がします。日本語(第一言語)でまず常識やビジネス・マナーなどをマスターしなければならないことがわかりました。
・・・> まったく同感です。その手のことをおっしゃるのは鳥飼玖美子先生?
■日本で第二言語を英語とする割合が高いのは、公教育で英語教育を取り入れていることが主な要因なのでしょうか。
・・・> そうだと思います。日本だけでなく、たいていの国で外国語教育のメインは英語です。
■異言語があまり混在していない日本は、生きやすいのではないかと最初は思ったが、ルクセンブルクは教育によって多言語になっていると知って、日本でも英語教育をやっているのに英語を話せる人は少ないから、やはり異言語を話す人が近くにいるのかいないのかの環境の違いなのかなと考えた。それだとしたら異言語が混在している国がうらやましいと思ってしまった。
■最初は「外国で生まれたかったな」「多言語の国で生まれたかった」という浅はかな思いでいたが、そうでもないかもしれない。幼いころに学んだことばは大きくなっても大して使えない、その言語を学んでともに成長しないと意味がないということ。そして、幼いころから多言語を学びすぎると、どの言語も極められず、完全に理解して使える言語がなくなってしまうのではないかということ。たくさんの色を混ぜすぎて、なんともいえない汚い色になってしまうように・・・。まずは何か一つの言語を極め(国語)、サブとして第二言語を学んでいくという日本の教育は、不満に思っていたが、案外合っているのかもしれない。
・・・> どの言語もうまく運用できないという点に関しては1つ上で触れています。レビュー主のコメントに勢いがあってすばらしいのだけど、まあちょっと落ち着いてみましょう(笑)。言語を「極める」ってどういうこと? 母語を極めている人なんているのだろうか。「完全に」といっていますが、完全ってあるのだろうか。母語一択のモノリンガルの人でも、すばらしい言葉づかいの人もあれば、ぐだぐだで何をいっているのかわからない人もあります。それとは別の話になりますけれど、私自身は、「まずは母語、次に第二言語(外国語)」という発想をあまり支持していません。第二言語習得の効能が母語にフィードバックされ、母語の運用能力が向上するという面があるからです。これは第7回で扱います。
■外国語を身につけるうえで、自身の母語や第一言語も用いたほうがよい(ラフなことばではなく、ちゃんとしたことばを)という話を聞いて、まずは母語をちゃんと身につけることも大切だと思った。
・・・> 母語なる言語そのものを身につけるというよりは、母語の高度な運用能力を身につけるほうがよい、ということです。詳しくは第7回で。
■母語をまだ確立していない状態の子どもには、しっかり母語を確立させてから第二言語を学ばせるか、多言語の環境で育てるか、教育学的?にはどちらがベターなのでしょうか?
・・・> これも第7回の内容を踏まえて、あらためて考えてみてください。教育ということで、あらかじめ2点をお示しします。(1)学校に就学する児童・生徒・学生に対してどのような趣旨や内容の言語教育をおこなうべきかというのは、国家や学校の方針によりますが、自分の子どもにどんな教育を受けさせるのかに関しては親の選択になります。判断の基準が適切だろうとそうでなかろうと、基本的には親に選択権があります。(2)教育というのは、教育する側(親・教師・学校・国家など)の意図したとおりにならないことが多い。「生徒たち」全体の傾向としてはそのようになるかもしれないが、個々の生徒に関しては、当人の資質・能力・適性・環境や興味・関心、意思や動機のあり方、将来展望や時代状況などにより、いくらでも効果や成果が変わってきます。同じ教育を同じ教室で受けたAさんとBさんとでまったく逆の結果になることもあります。仮に「こっちがベター」という理論があったとして、親がそれに沿って子どもの教育を選んだとしても、期待したように進むわけではありません。だから教育というのは厄介ですし、だからおもしろいのです。教えたことが、教育する側の意図を超えて生徒の中で化学変化を起こし、期待とは違った方向で開花することも多いです。
■言語教育について疑問に思っていることがある。なぜ、ある言語を別の言語で学ぶのか、という点だ。英語を日本語で学ぶのは、本当に身になるのか。外国ではこの学び方をしないと聞く。だから他言語の社会が成り立つことになるのでは?
・・・> 「英語を日本語で学ぶ」(learn English by / with
Japanese)という場合のような「○○語で」(○○語を介して)にあたる言語を、教授言語(teaching language)と呼びます。おっしゃるように、日本の英語教育のほとんどは、日本語を教授言語にしておこなっています。国語・社会・数学・理科・保健体育・・・ もみんなそうですね。言語教育における教授言語には、大別して3種類が想定されます。(1)学習者の大半が第一言語としている言語を教授言語とする。前述の日本の例はこれにあたります。(2)学習される言語そのものを教授言語にする。英語で英語を教える、という英会話スクールみたいなもの。(3)第一言語でもなく、学習される言語でもない別の言語を教授言語にする。そんなのある?と思うかもしれませんが、たとえば最近の大学生がよくやる短期語学研修では、「世界中から集まった学生に、英語を教授言語としてヒンディー語を教える」みたいなパターンが標準です。母語のいかんを問わず英語ならばうっすら共有できているだろうから、それを足場にして別の言語(ヒンディー語)を教える、ということですね。さてレビュー主は「外国はこの学び方(前述の(1))をしないと聞く」と判断しているようだけど、「外国」って大ざっぱすぎませんか? (1)〜(3)いろいろあって、状況や環境や目的や実施条件によって適宜、教授言語が選択されています。率直にいって、教室の中でだけ英語オンリーにしてもほとんど無意味です。日本人生徒の多くが英語を話せないのは、They speak
English just in the classroom.だからです。They have no chance to speak English (or other
languages) outside the school and inside the Society.だからなのではないでしょうか(Societyは意図して大文字にしました)。京都や浅草の観光客向けのショップに行ってごらん。店員さんたちは、ごつごつしているかもしれないけど、ちゃんとやり取りして会話を成り立たせています。「売ってなんぼ」。逆に、そういう動機がほとんどないのに、習っていれば話せるようになる、なんて幻想だし時間とお金の無駄遣いです。
■先生は、帰国生は「子ども語」しか使えないことが多いので、そこまでよいものではないというような内容を話されていましたが、私の意見では、単一言語の国家である日本では、まず他言語を学びはじめるということに対するハードルがとても高いので、そのハードルがすでにない帰国生はやはり有利なことに変わりはないと思った。私たちが日本語の敬語を学ぶことに対してもっているハードルの高さと同じくらいの高さで、他言語の敬語を学びはじめることができるというのは、非常に強いと思った。またビジネスに使うことばを勉強するには、やはりワーホリが適しているのかな、と思った。
・・・> 前半は私の意図したところとちょっと違うので説明します。申したのは、「少なからぬ人は、帰国生は外国語を話せていいよな、とシンプルに考えがちだけど、そうともいいきれないよ」ということ。帰国生一般の傾向をいっているのではなく、帰国生に対する他の人たちのありがちな評価を述べたのです。それとはまったく別の話ですが、現在のところ日本の学校で「帰国生」とされる方の多くが、雑ないいかたをご容赦いただくなら、高所得層の子ども、比較的「いい暮らしをしている」層です。欧州(フランス)の専門家である私にとって、子どもを連れて国境を越えて言語の異なる地域や国に移って働くという人は、高所得のエリートよりもむしろ低所得の一般労働者が多いという感覚なのですが、日本は移民労働力を法律で認めていないので(技能実習生は「抜け穴」)、まだそのような事態にはなっていません。したがって、子どものうちに他国に暮らして、戻ってきた人=帰国生のイメージは、そしておそらく実態は、国内の平均よりもかなり高い所得水準をもっておられます。教育学・社会学の常識として、親の所得水準と子の学力が相関する、という、非常におっかない事実があります。そんなこというなんてひどいじゃないですかといわれそうですが、第7回で少し触れます。レビュー主がいわれるように、帰国生は「ハードル」の低さにおいて優位です。それは単に外国に暮らしたからというより(だけではなく)家庭の文化水準が高いことに依拠する面が相当にあるのです。欧州の移民下層労働者の子どもは、よくて一言語話者、悪くすればセミリンガル(第7回で解説します)のリスクを負うことになります。最後に、これは確信をもっていうほどのことではなく印象レベルですが、ビジネスことばを学ぼうとするときにワーホリは勧めません。いくらかの実例を見て、そのように考えています。


空港では現地の言語+英語が必須なので英語のありがたさが実感できる!
(上)ギリシア アテネ国際空港 (下)ブルガリア ソフィア国際空港
■今後グローバル化が進んでいったとき、世界中の人たちが英語などの普遍語を使うようになれば、やっぱりローカルな言語や方言は失われてしまいますか?
・・・> グローバル化の進展でローカル言語や方言が徐々に消滅していくことは、おそらく間違いありません。ただレビュー主は、概念整理を十分にできていない部分があるようです。「世界中の人たちが英語を話すようになれば」というのと、「英語などの普遍語を」というのとでは、意味や次元や文脈がまったく別のものになります。普遍語というふうに解釈するのであれば、母語や第一言語はあって、それとは別に(後天的に)他の言語を話す人たちとのコミュニケーションのために普遍語を習得し使用する、ということになります。だとすれば英語以外の言語が「失われる」ことにはなりません。
■陸上競技のスタート時の“On your mark” や “Set”は、普遍語としての英語の一つなのかなと考えました。
・・・> 普遍語としての英語というよりは、陸上競技の公用語としての英語。柔道ならば日本語です。“ippon”とかね。
■ラテン語が、もともとただの地方の言語であったのがローマ帝国の法律を書くのに採用され、いまでも動物の名前などに残るような言語になったということに興味をもった。採用された理由は、簡単であることや立場の高い人が主張して周りの人が逆らわなかったなどが考えられる。
・・・> 簡単ではなかったと思いますけどね。書きことばというのは、話しことばからすれば数段難しいものではないでしょうか。ラテン語は、文法や正書法ががっちりしていてスキがなく、ゆえに習得するのに時間と根気が要るが、いったん身につければシステマティックに運用できるというよさがあったのです。
■アメリカの現地校でスペイン語を学んでいたときに、英語と似ている単語が多くて便利だなと思っていたが、それはラテン語から派生したスペイン語のほうが先にできていて、そのようないくつもの言語が混じって英語ができたのだと考えるようにするべきだと思った。
・・・> これはちょっとシンプルに整理しすぎているかもしれません。英語は印欧語族ゲルマン語派、スペイン語は印欧語族ロマンス諸語(いわゆるラテン語系)に属し、印欧語族という大きなくくりは同じですが、そのあとの分類が別になります。英語はドイツ語や北欧諸語と同系列、スペイン語はポルトガル語、カタルーニャ語、フランス語、イタリア語などと同系列。それなのに、スペイン語と英語とで「似ている単語」が多いというのは、言語の成り立ち(文法や音韻などの基本構造)ではなく中世〜近代の言語接触によるものです。たいていはラテン語からそのままスペイン語に受け継がれたか、フランス語を経由して入るというルートです。中世にはなくて近代に入ってからつくられた概念(たとえば以前に学んだ国家・国民=nationなど)は、フランス語を介していることが多いですね。概念や抽象をあらわす語はラテン語系統のものが多いので、それが英語にも別個に入り込んで、結果的に同じ語彙を共有することになっているわけです。一方、19世紀以降は英語の時代になりましたから、英国やアメリカでつくられた語・概念が、スペイン語にも日本語にもたくさん入り込みました。コンピュータ関係などは圧倒的に英語系の語彙が共有されています(ただし肝心のICT=Information
and Communication Technologyという表現は、informationとcommunicationがラテン語→フランス語→英語、technologyは古典ギリシア語→英語)。英語のあゆみについては第8回で取り上げます。
■クレオール語を公用語にしている国は存在するのか?
・・・> クレオール語の範囲をどこからどこまでとするのかにもよりますが、もちろん存在します。カリブ海のハイチ共和国では、フランス語とハイチ語が公用語で、ハイチ語はフランス語がベースとなった典型的な植民地型クレオール言語です。
■(1)言語の分布と国家の領域の不一致は、移民や国際結婚などのグローバル化という現在ならではの現象なのだということがわかった。(2)普遍語が東アジア、西欧などとだいたい決まっていたのは、広範な意味での公用語といえるのか、それとも歴史的に当時は自分たちの国の周辺が世界と捉えられていたから(西欧の国々がまだアフリカ大陸や新大陸を発見していなかったように)それぞれの世界観でいう世界の普遍語ということですか? (3)人口言語というのは人に属する代表例といえますか?
・・・> (1)〜(3)は別件なのですがセットでコメントします。総じて、今回の内容についての理解が十分でなく、加えてこれまで(当科目以前に)学んできたことに関しても整理できていないところがあります。謙虚な書き方をしてくれているので、思い込みや誤認を携えたまま放置することはないと思いますけれど、大学に進んだら日々新しいことをインプットするため整理が間に合わなくなるかもしれません。読書を重ねて、トレーニングしておきましょうね。(1)これは授業内容の誤認と、前提となる知識の不十分さによります。いうとおりだとすれば、グローバル化という「現在」の変化より前は、言語の分布と国家の領域が一致していたことになってしまいます。そんなことは過去にも未来にも断じてありません。「一致するはずだ」という思い込みが、まだ支配しているのかな? 言語というのは古代国家の形成よりずっと前からありますし、近代的な意味での「国家」ははるか後の話でしたよね。(2)文章がいまいちうまくなくて、いいたいことが十分に伝わってこないのですが、「世界とか普遍といっているがエリアが限られているじゃないか」ということでしょうかね。だとすれば、おっしゃるとおりで、日本ならば東アジア、フランスなら西欧あたりが「世界」であり「普遍」の範囲です。何百年後の時代から振り返れば「21世紀は地球を「世界」だといっていたのか、狭いな〜」と思われるかもしれません。(3)人口言語というのはありません。人工言語ならば存在します(エスペラントやコンピュータ言語が典型)。

(左)日本では日本語だけが話される、という思い込みももう昔日のものに? (埼玉県西川口の中華料理店)
(右)ご丁寧に写真つき、日本語つきで日本風メニューを紹介するもどれも日本の標準からズレていておもろい(香港の日本料理店)
トマトチャーハンなるものが存在しても許すが「和風」ってなんだよ(笑)
■言語を考えるうえで社会言語学は必要ですか? どのような点において必要ですか? 自然言語学だけで十分だと感じてしまいました。
■北欧など身近に多くの言語が存在し、いつの間にか話せるようになっていく地域にあこがれをもっていたけれど、そのぶん一つの言語を詳しく学ぶ機会が少なくなったり、混ざってしまったりして、言語に対する誇りのようなものが薄れてしまうのかなと思いました。また前回取り上げられたナショナル・アイデンティティの面から見たとき、言語が異なるというのは国の一員という意識をはぐくむには少し難しいのではないかと思いました。宗教や歴史は、隣国と強いかかわりがあり、その一国で完結させるのが難しいけれど、言語は他2つより差別化しやすく、仲間意識を生みやすいのではないかと思いました。多言語が存在する国では、どのようにして「自分は国の一員だ」という意識をもたせているのですか?
・・・> このあたりは次々回(グローバル世界と言語(2))で!
■今回の授業で「言語」というものの成り立ちや接触について考えてみて、不思議だな、としかいえないくらい難しいものだった。
■言語接触に関して、現在中国語で使われている「資本主義」等の政治・経済系の単語は、元来中国になかった概念であり、日本から輸入されたものであると聞いたことがあります。グローバル化が進むことで、概念や言葉も共有され、今後多くの言語接触があるのだろうなと考えます。
■言語が混じり、新たな言語が生まれることがあるが、いま話されている言語がそれに当てはまると知り、より視野を広げて物事を見ていくことが必要なのだなとわかりました。
■ある国で話されている複数の言語や宗教の割合を見ても、大半を占めるのは英語なんだというふうに思い込んではいけないということがわかった。その国の言語はこれなんだとひとくくりにしていたけれど、その裏では、中心とされていない言語や、自分が思い込んでいたものではない言語のほうが使用されることがあると知って、とてもおもしろかった。日本のように、他の文化や言語が身の回りに当たり前にない環境にいて、世界ではさまざまな言語が普通に話されているということをいままで認識していなかったので、いわれてみれば当たり前だと思うことでも「気づく」という経験をすることは非常に大切であると思った。さまざまな言語・文化が混じっているのは当たり前なのだという価値観を新たに得ることができた。
・・・> そうだとすれば、今回の授業目的は(レビュー主に関しては)100%達成です。「自分が知らなかったことがある、ということがわかった」というのが、実は最良の学びの成果。それによって、これ以降の学びの質が変わってくることがあるなら、150%です。根拠もあいまいなまま「大半を占めるのは英語なんだ」と思い込んで、テキトーなことをいうおとなたちにも、その姿勢をもってほしいですよね。