古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études sur la société contemporaine II: «le monde en mutation / pour la perspective et la réflexion globales

現代社会論II
変動する世界/グローバルな視座と思考のために


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S203教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

202667月の授業予定
6
5日 視点としての連合王国:流動化する旧・最強国家
6
12日 視点としての東アジア:国家と亜国家のあいだ
6
19日 マジョリティ/マイノリティ考(1):民族問題の構図
6
26日 グローバル時代のエアライン
7
10日 21世紀の君主制:シンボル・統治・外交

 


次回は・・・
11-
グローバル時代のエアライン

20年くらい前に出た本の中で、私は、近代国家というのは鉄道と郵便のサイズなのではないかという説を述べました。私の専門である学校教育(公教育)も、そのサイズに即して生まれ、設計されています。それでいうと、現代の世界は航空airlines / airways)とインターネットのサイズで思考・行動しているわけです、それなのに国家のサイズは鉄道時代のまま、という点にもろもろの矛盾があるのではないか、というのがひとまずの仮説。そのことの当否はともかく、航空ということを外して現代の世界は語ることができません。私が生まれたころは、東京から北海道や九州に行くのでも鉄道を利用するのが一般的でした。それが、1980年代以降になると大半の日本人が、航空での移動が普通だと考えるようになります。日本人の海外旅行が一般的になるのも、そのころのことです。成田国際空港の開港が1978年ですので、やはりそうした時期にあたりますね。ただ、一般化し大衆化したとはいっても、人によって、立場や職業によって、その利用頻度にはかなりの幅があります。首都圏に生まれ育ち、祖父母の家が遠くにあるわけでもなく、旅行や遠征の用事もなくて一度も飛行機に乗ったことがないという高校3年生もまったくめずらしくありません。「マイル修行」のような謎の趣味がある人は別枠として、たいていは遠くに出かける用事があるから空港に行き、航空便に搭乗するのですよね。もとより島国である日本では、「外国」に行こうとすればほとんどの場合は航空を利用することになります。アメリカ合衆国や中華人民共和国のような特大サイズの領域をもつ国家はもちろん、フランスやドイツくらいのサイズでも、普通に「国内線」が利用されます。そのうちわかってくることと思いますが、航空の世界というのは、ドメスティック(国内)とインターナショナルの境界があいまいで、どこに行ってもだいたい同じようなしくみや雰囲気です。今回のテーマは、グローバル時代だから航空を考えようということもあるのですが、航空のことを考えることがとグローバルを見通すための有力な補助線になる、ということでもあります。

子どものころ、あんなに大きな金属の塊がどうやって空中を飛べるのかと不思議に思った経験はないでしょうか。実際には、そんな疑問を浮かべるまでもなく、全地球上で1万機を超える数の航空機が常時、飛行しています。陸路の移動に比べると制約が少ない部分もあるため、たとえば東京からパリをめざす直行便は、北米の北側の北極海上空を通過します。地上に降りたらまともに立っていられないような酷寒の地域ではあっても、上空を飛行するぶんには、ワインか何か飲みながら快適に過ごすことができるというのはすごいですね(国際線はいまのところ飲み放題なので 笑)。欧州直行便の話をしましたが、ドバイやドーハなど中東の空港で乗り継いで向かう経路も人気があります。しかし2026年、アメリカとイランが交戦状態になり、ホルムズ海峡封鎖といったことが起こって、中東乗り継ぎが一時全面的にできなくなる事態も起こりました。航空は、その存在や設定がグローバルであるだけに、国際情勢にかなり直接的な影響を受けます。もちろん主たる燃料は石油ですので、原油価格の動向にも注目せざるをえません。

もしかすると、航空産業への進路を考えている人もあるかもしれません。航空は、理系・文系のほとんどの分野がかかわっている総合産業です。機内食を思い浮かべてもらうとわかるように、機械や電子といったものだけでなく食品や栄養といった分野とか、サービスやマネジメントといった分野もかかわってきます。現代社会、グローバル世界を見通す糸口として、非常に有用であるように思われます。修学旅行が初フライトになるという人も含めて、利用の前後や途中で、独特の業界用語に注目して、英語の表現ごと心得るようにしましょう(航空の世界は第二次大戦後にアメリカ・英国・カナダが中心となってルールづくりを進めたため、英語が共通言語です)。世界のどこに行っても、英語に関するかぎりはほぼ同じ感じで利用することができます。そのうえで、キャリア(carrier 航空会社)やアライアンス(Alliance 航空連合)あるいは国ごとの特色のようなものも発見できると、「世界」との距離が近づいていくのではないでしょうか。



REVIEW 6/19

民族問題やマジョリティ・マイノリティの関係について、単純に人口の多さだけで決まるものではなく、どの範囲を分母として考えるかによって立場が変化することを学んだ。カナダでは国全体で見ると英語話者が多数派である一方、ケベック州に限定するとフランス語話者が多数派となる、ということが印象的だった。リベリアではアメリコ・ライベリアンという少数派が支配層となり、その後の民族対立や内戦につながったことから、政治・経済的な力関係も大きく影響することがわかった。さらにロヒンギャ問題やカフカス地方の紛争の事例から、民族問題は宗教や民族の違いだけで説明できるものではなく、その国の歴史や国家間の対立などが複雑に絡み合っているのだと学んだ。私はこれまで、海外の民族紛争について、宗教や民族の違いが原因であると漠然と考えていたが、実際には単純な善悪や一つの原因だけでは説明できないことを知った。表面的な情報で出来事を判断せず、多角的に考える姿勢をもちたいとあらためて思った授業だった。

どこを範囲としてマイノリティとマジョリティを判断するのかは難しい問題であると認識しました。また他国で起こっている出来事を宗教や歴史的因縁のせいばかりにすることの危険性について、はっとさせられました。歴史的に説明されたことがすべての原因であると鵜呑みにしてしまうことは避け、慎重に情報を集め、多角的な視点から判断すべきだと思いました。世の中の多くのことが多数決で決められているため、潜在的に少数派がよくないものだと感じられてしまい、マイノリティ・マジョリティ問題が起こってしまうのかなと思いました。

マジョリティ、マイノリティは分母によって変化するという、当たり前なのにいままで気づくことのできなかった考え方が、とくに印象に残った。私は、多数派・少数派は固定的なものだと思い込んでいたが、視点によっては容易に立場が逆転すると知り、では多数派に合わせるという考えはやはり危ないのではないかと考えた。また、なんとなく世界で起こる争いごとというのは宗教の違いによるものだと思っていたが、実際には経済をめぐる争いが多いと知り、考えが変わった。

現代に起きている問題を歴史で捉えようとするとショートしてしまうことがあるという話には、はっとさせられました。小学生いらい私は歴史を学べば現代のこともわかるようになるはずだというモチベーションで学んできていて、中東情勢も宗教問題なのだと捉えていました。これは修正していくべきだと感じました。

マジョリティ・マイノリティという関係が固定的なものではなく、分母の設定しだいで容易に逆転しうるという点が最も重要な点であると理解した。カナダのケベック州やウクライナ東部のロシア語話者が多い地域のように、どの単位で集団を区切るかによって、同じ人々が多数派にも少数派にもなる。民族問題を宗教や歴史で説明することは、一見わかりやすいが、対立の根源には多くの場合、経済的な差がある。宗教・民族は対立を可視化するアイコンのようなものにすぎないことが多い。また北アイルランドの事例では、分母を人為的に操作することで、マジョリティ・マイノリティを変え、長きにわたる暴力の連鎖を生んだ。

 
スロヴァキアの首都ブラチスラヴァ 第一次大戦後にチェコスロヴァキアを結成したが元来チェコとは別の国家・民族だった
言語は類似していてスロヴァキア語とチェコ語は8割以上が互換するらしいが、それだけにスロヴァキア側のマイノリティ感が強く
冷戦終結後の1993年にチェコと「協議離婚」が成立した 町なかで出会った中年女性は「私はチェコ人でチェコ語話者だが
旦那がスロヴァキア人なのでここに住んでいる」と、分離後は逆にマイノリティになったチェコ人の複雑な思いを語ってくれた

 

紛争について、歴史的な因縁や宗教の違いが原因なんだとばかり思ってしまっていた。マジョリティかマイノリティかは、どのような視点で見るか、どこまでを分母に取るかによって変わってしまう。無意識に凝り固まってしまった考え方をなんとかほぐして、身の回りの環境を見つめなおしたい。
今回の授業では、さまざまな事例を通して、マジョリティとマイノリティについて考えるということを学んだ。地球全体で見るのと国ごとに見るのとで何が多数派になるのかが変化するだけでなく、一つの国の中でも、どこで線を引くのかによって立場が変化し、それが紛争など大きな問題につながるということが印象に残った。
マジョリティとマイノリティの区別は固定されたものではなく、分母をどの範囲で区切るのかによって入れ替わるものだという新しい視点をもつことができた。国家や地域、あるいは地球規模といった分母の取り方によって、マジョリティとマイノリティの立場は逆転することがあると理解することができた。

いままで、イェルサレムをめぐる問題やウクライナ戦争にしても、まず歴史から見ようとしていました。きっかけをすべて歴史に求めすぎてしまうという風潮に納得しました。

民族や宗教ではなく経済格差によって対立が起きると学んだが、そもそもどうしてその格差が生まれてしまうのか疑問に思った。
・・・> 経済格差が生まれるしくみは社会科学の基本なので、読書して、しっかり押さえておいてください。ただ、ちょっと捉えきれていない感じが見えます。経済格差という場合、普通は人と人との(個人間の)格差を指します。今回取り上げたのは、属性(集団)ごとの経済的な優劣の問題。私は「格差」という表現を使っていません。ひとまず、別の話だと考えてください。

昨今のイラン情勢からパレスチナの民族問題などについても、民族どうしの戦いがなぜ起きるのかという問いに対して、宗教が最も影響しているように考えていました。テレビなどでもパレスチナ問題=宗教問題(あとイギリス)であるように放送されますし、小・中学校の先生方もそのように教えていたからです。しかし今回の授業での、お互いに食えていれば問題なし、という視点には驚きました。対立の根源は経済であるという視点は、私には新しいものであり、今後の思考の引き出しが増えました。日本の教育を受けてきた中で、ロシアのクリミア戦争は「悪 !!」「絶対ダメ」といったように教わりましたが、コソヴォに関してはノータッチでした。なぜこのような教育(世の中のメディアも)が平然とおこなわれているのでしょうか。偏向教育じゃないでしょうか。
・・・> う〜ん、今回だけでなく何回かのレビュー主のコメントを見ていると、知識や認識の出どころが(質のあまりよくない)SNSなんじゃないかと思うふしがあります。違っていたらすみません。マス・メディア不信や学校教育(というより「先生」)への不信の方向とか、そこで用いられる表現・語彙によって、そのように見えるんですよね。たった一つの事例をもって「このような教育が平然とおこなわれている」というのは強引すぎます。他の学校や先生との比較がないからです。レビュー主が聞き落としたり、理解できていなかったりした可能性もあります。ロシアのクリミア半島併合は日本でもよく知られますが、コソヴォ問題については当時からさほど注目が高かったわけではないので、意地悪で教えなかったのではなく、優先度が低いと思ったか、そもそもご存じでなかったのではないですか。「偏向教育」という表現は、それ自体が偏向的だという知識をもっていたら、こんなところで使わないと思う。右派の一部が左派(おそらく「左派と決めつけた対象」)に対して、自分たちの価値観や基準に照らして偏っていると、一方的に断定する際に用いる表現です。SNSよりはるか以前から用いられていました。ご自身がその種の右派であるという自覚があるならばいいですけど、SNSを見ているうちに、そんな気になっていったのであれば、他の症状を呼び込む前に、考えをリセットされたほうがいいかもしれません。ロシアやコソヴォに関する視座の置き方を見るかぎり、右派の論理をわかってなぞっているわけでもなさそうなので、そうであるなら社会問題や国際問題をSNSで見るのは意識してやめる、というのでどうでしょうか。なお、2014年のクリミア問題(「住民投票」によるウクライナからの「独立」と、その後のロシアへの編入)を「クリミア戦争」といってしまっているのは、うっかりならばよいですが、十分にわかっていなかったのであれば修正しておいてください。これは価値観の問題ではなく知識の問題。クリミア戦争は1853-56にロシア帝国と英・仏・オスマン帝国とのあいだで起こった歴史的な戦争の呼称です。ナイチンゲールの活躍で日本でも非常によく知られる戦争。基礎知識を押さえておかないといろいろまずいので、そこは確認しておきましょう。

マイノリティやマジョリティの実情は、地図帳や教科書ではわからないことが多くあるのだと知りました。また植民地支配において、2つの民族のうち片方だけを優遇して双方が手を組まないように手を回す作戦は、他の国でも同じやり方をしていた例を聞いたことがあり、結局どの国も似たような手段を取るということを実感しました。
・・・> これの元祖は古代ローマ帝国です。近代の英国が取り入れて「再生」させてしまいました。日本も、多民族が入り混じる台湾を植民地にしたときに、特定の民族集団を優遇して現地の結束を阻もうとしたふしがあります。

歴史を学ぶならば一つの国の歴史だけではいけない、比較しなくてはいけないと知っていたはずだが、今回の授業でいわれるまで、個々の事例をまとめようとしていた。話題の比較力・連結力がまだ私には足りていなかった。また単純化という話が胸に響いた。最近、私の思考が「では、何を比較して何という結果が出ればよいか」とすべての項目について分類する傾向にあったため、一つの単語、一つの項目では決められない多様なことを認め、違いはわかったうえで、無数のそれらにどう接するかを考えなければならないと自戒した。

ニュースなどではわかりやすいように単純化して伝えているが世界は単純ではないので、単純化のクセをつけると見方の精度も落ちてしまうことがわかった。またニュースで報じられるほど大きな事案になるまで注目しないが、それまでの過程があったりするので、もう少し前後の出来事にも注目して見ることが大切だなと感じました。

 
クロアチアの首都ザグレブの中心部 クロアチアはもともとハプスブルク帝国の国家内国家だったが第一次大戦後にセルビアなどとともに
ユーゴスラヴィア王国を結成 しかし王国内ではマイノリティのままだった 同じマイノリティなら「欧州最高の名門」の属国であるほうがよく
同言語・同系民族のセルビアにマジョリティづらをされるのは気に食わないという民族感情は、ナチス・ドイツに煽られることになり
それが原因で第二次大戦後は再びユーゴスラヴィア連邦内でマイノリティに甘んじることを余儀なくされた

 

カナダやウクライナの問題や世界の紛争の事例を知り、マジョリティとマイノリティというのが固定的なものではなく、流動的であることがわかった。どの範囲を基準にして区切るのかによって、どれがマジョリティになるのかが容易に変わるのだと思った。

分母をどの範囲で区切るかによってマジョリティは容易に変わってしまうため、外国人が日本に来たときに「日本なんだから日本語を話せ」とマジョリティの言語を強制せずに、広く大きな視点で分母を考え、自分も合わせていくという姿勢を見せなければならないと感じました。

言語でみたときに、英語は母語話者数だと世界3位だが第二言語以降として話す人を含めると1位になるということを思い出しました。母語話者を分母としたときと第二言語としても話す人を分母としたときとでは、マイノリティ/マジョリティが違いますね。そう考えると、言語を基準としたときに絶対メジャーは生まれなさそうです。日本だけを見ていてもまったく視野が広がりませんね。
・・・> 「地球を分母にする」というのは思考の補助線のための、ある種のネタですが、それを自分の「基準」にしてしまっていない? 多くの国家で、言語的な絶対メジャーがあると考えるのがむしろ普通ではないか。

今回マイノリティ・マジョリティについてさまざまな事例に触れ、やはり数の差は大きく民族に影響していると感じる一方で、マイノリティ・マジョリティは民族ができたころからあるのではなく社会的環境によって、ときに人為的につくられているということに問題が残るのだと考えました。少数・多数や善・悪ははじめから決められているわけではなく、あるとすればそれは第三者による当時の社会情勢を踏まえた評価にすぎないのではないか、また悪とするならば人為的に対立を惹き起こした当時の人々であると考えました。

マジョリティとマイノリティを判断するときには、ラインをどこに引くかが大切で、国全体ではマジョリティの言語であってもある地域では別の言語がマジョリティであるということがあるからである。日本はほとんどすべての人が日本語を話しているので気づかないが、国の中で複数の言語が話されている国では、地域ごとにマジョリティ、マイノリティが違うということがあるので、実際にその国のことをよく理解するには、行ってみて、自分で体験するということが大切だなと気づいた。しかし地域差があるということを利用して国境の引き方などをいじると、意図的にマジョリティをつくることができると思った。

今回の授業ではルワンダ虐殺がとても印象に残った。もともとこの事件については知っていたが、こんなにも多くの人々がこの事件で命を失ったことにあらためて驚き、残念に思った。民族の対立だけではなく、植民地時代の政策や差別、憎しみを煽ったことなどさまざまな要因が重なって悲劇が起こったことを知った。また国際社会や国連がこのような民族問題を解決しきれないことを受け、平和を守ることの難しさを感じた。

アメリカで白人が5割を切りそうだという事例に驚いた。アメリカはもともと多くの人種や文化が共存する国であると認識していたが、WASPが政治的分野でも大きな影響力をもっていることの印象が強いせいか、いまだに白人社会という印象が強い。また人種問題に置いて黒人が注目されることもあり、多民族というよりは、白人・黒人という大枠のくくりで思考がはたらいてしまう。マジョリティ・マイノリティ問題はとても難しく、かみ砕こうとすればほんの少しの部分的要素について勉強する必要があり、時間と労力がかかるが、考えつづけなければならないと思う。

いくらマイノリティの人々を見るといっても、国家内国家の国家内国家をつくることは、立場が複雑化してしまったり、プーチンによるクリミア切り取りのように他国の介入を許してしまったりするため、そこが難しい点だと思いました。周囲の国々や国際社会が勝手に、特定の国のマジョリティを決めつけてしまうことで、紛争が生まれることが多いような気がしたため、あくまで中立的な立場を取り、マジョリティとマイノリティどちらの人々も互いに利益を得られる方法を提案するのが必要だと思いました。
・・・> 国家内国家内国家はさすがにレアケースですが、その構造ゆえに他国の介入を招くという問題はたしかにあります。実は国家内国家という2層であっても同じ。「国内」で多数決を取るとマイノリティは勝てるはずがないので、他国の支援を得てどうにかしようとし、支援を求められた側もそれをテコにその国や地域への影響力を強めようとします。さらに、ギリシアがキプロスに対してやったように、介入する側のナショナリズム強化という都合で事が動いてしまうケースもあります。第一次世界大戦勃発(1914年)のきっかけになったサラエヴォ事件は、セルビア人がオーストリアの皇太子を暗殺するという事件でした。サラエヴォを首都とするボスニア・ヘルツェゴヴィナは、長くオスマン帝国の領土でしたが、オスマンがバルカン戦争に敗れて欧州から撤退したあと、ある種の真空地帯のようになってしまいます。かねて同地をねらっていたハプスブルク帝国(複合多民族帝国で、コアとなる国家内国家はオーストリア帝国)がボスニアを実質的に併合。ボスニアは、セルビア人(正教)、クロアチア人(カトリック)、ボシュニク人(イスラーム)が拮抗する地域で、セルビア人たちはセルビア王国への併合を望んでいました。しかしハプスブルクという巨大国家が分母になると、セルビア人は絶対マイナーに転落してしまいます。そのことへの怒りや恨みが表れてしまったのがサラエヴォ事件でした。ロシア帝国は同じ正教国であるセルビアに肩入れしていたため、ハプスブルクとのあいだがこじれ、あのような大戦争につながってしまったのでした。

ギリシャとトルコの住民交換、民族純化の事例にはとても驚きました。キプロス島の件を含め、ギリシャはかなり失態をしてしまっていると思いました。国家内国家でさえ驚いていたのに、国家内国家内国家のコソヴォがあったことを知り、国際社会を考えるうえではインチキ的な事例を受容することが大切だと思いました。
・・・> インチキとまではいえないかもしれません。国家内国家内国家といえるかどうかは別にして、主権国家の2階層下に民族自治体を置くケースは、他にもあります。とくにロシアにはいくつかあり、それはみなさんがもっている地図帳でも容易に読み取ることができます。もし他国がその2階層下を焚きつけて主権国家化を支援したりしたら、ロシアは黙っていないことでしょう。

地図帳では見えない国家内国境があることに驚いた。民族による違いだけでなくて、法律・制度にも違いはあるのか。互いの民族が住む国を選ぶことはできるのか。「住民交換」と聞くと、とても現実的ではなく難しそうに思えるが、どのようにおこなわれたのか。
・・・> 一般的な話と、第一次大戦後のギリシア・トルコ間の住民交換の話が混じっていますので、一応別の話としておきます。(1)国家内国境というのは、おそらく紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナのことだろうと思います。これは当然、法律・制度が異なる2つの国家内国家(スルプスカ共和国/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦)があるということ。他方の国に移住することはできますが、代々住んでいる地域を出ていくというのは(難民化した場合をのぞけば)なかなか難しいのではないか。(2)ギリシア・トルコ間の住民交換は、かなりのボリュームを割かないと背景やプロセスや結果を説明することができません。ぜひご自身で文献などを読んで確認してください。両国だけでなく当時の「国際社会」や、できたばかりの国際連盟が強くかかわっています。また、オスマン帝国という普遍帝国が解体され、「トルコ語を話すイスラーム」を絶対メジャーとするトルコ共和国という近代国家を樹立したことで、国内のクルド人への抑圧という今日的な問題が発生(派生)した点も押さえておきましょう。

キプロスの事例は非常に複雑だった。マイノリティもマジョリティも歴史の中で大きく変容していた。マイノリティ問題が薄まって、一見平和になった島にも、残された土地の問題などがあることがわかった。

選択公共の授業で、差別のロジックについて学びました。その中で、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスにもとづき、「逆差別を受けているのではないか」とマジョリティが感じるパターンを扱っていたのですが、キプロスのマカリオス3世がトルコ系に気配りし、それに対してギリシア系が反発したというのは、まさしくそれだと思いました。
・・・> まさしくそれです。最近だと「日本人ファースト」なんて典型的なやつですよね。最初に聞いたとき、外国人選手に一塁を守らせるのはやめよう、ということだと思ってしまいました。というのはネタです。


ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ

 

当事者から見た民族問題に関して、素朴な疑問として、差別のない世界をつくることは不可能なのだろうかと思った一方で、差別する側に立つうまみを知ってしまってるから、差別をなくすことは難しいのだろうなと思った。もし差別がいまより減っても、残された集団に差別が集中してしまう可能性はないのだろうか。差別される人の総数が減っても、一人ひとりが受ける苦しさは逆に大きくなるということがあるのではないか。

自分の国のことになるとヒートアップするけど、他の国のことはどうでもいいと感じる人が多いのは、私含めその傾向はすごくあると思った。また国どうしの争いに関して思考がショートする人が多いのは非常に問題だと思った。私の周りを見ても、中国が嫌いだという人は多いが、なぜ嫌いなのかと聞いても理由はとくにないということがかなり多い。そうならないためにも、もっと近代史を勉強するべきだと思った。メディアでももっとこの現状を問題視してほしいと思う。

いろいろな地域を例にマジョリティやマイノリティの考え方を学んだ。単純に人数だけで決まるのではなく、地域や立場によって変わることがわかった。
・・・> 「地域や立場によって変わる」のではないよ。

今回の授業で印象に残ったのは、マジョリティとマイノリティの関係は、単純に人数だけで決まるものではないということである。キプロスや北アイルランドの事例では、同じ地域に暮らしていても民族や宗教の違いによって対立が生まれ、少数派が不利な立場に置かれることがあるとわかった。とくに興味深かったのは、国境の引き方や国家の枠組が変わるだけで、ある集団が多数派にも少数派にもなりえるという点である。これまで私は、マイノリティは生まれつき固定された立場であるように考えていたが、実際には、政治的な判断や歴史によって変化することを学んだ。

北アイルランドは、北欧の近くにあり、住民の幸福度も高くて平和な国であるという印象を抱いていたが、「テロの本場」と呼ばれていたことなど、とても驚いた。

国境の線引きの際に、自らの立場がマジョリティになるかどうかといったことを考えていることに驚いた。初めての視点だったので、これから世界地図を見る際には、そのような視点も加味していきたいと思った。

マジョリティ・マイノリティの考え方をもとに連合王国の境界を定めた事例を見て、マジョリティ・マイノリティは世界の区分、境界を決める一つの指標になっているのかなと感じた。日本でもアイルランド問題のような事例が起こったことはありますか?
・・・> ある(と思う)けど書きません。前半の文章を見ると、事例から汲み取っていることがかなりズレていて、今回のテーマやアイルランド問題のポイントを理解しきれていないと思います。その段階で日本の事例(と思われること)を示せば、余計にショートし、他の人にも誤解が及ぶ可能性があるからです。

民主主義は多数決が基本であり、そのため多数派が優先され少数派が抑圧されるという構造的な問題があるのだと思いました。境界線を引くことで分離でき、紛争を押さえて平和をもたらすことができるが、共に住むという理想をあきらめることでもあるという考えがあることに納得しました。
・・・> 北アイルランド(ベルファスト)の事例は、法的(抽象的)な意味での境界線ではなく物理的な「仕切り壁」を造ってしまったということなので、そこは丁寧に分けて考えるほうがよいかもしれません。

マジョリティに合わせて自分が均質化していってしまうのは、自分のマイノリティ性を否定し、悪いといってしまうのと同じことになるので、固定観念に囚われず、周りに流されすぎないことも必要だと思いました。
・・・> 自分が主語の場合は均質化ではなく「同化」「同質化」。言葉って難しいですね。

今回の話を聞いて、ユグノー戦争におけるアンリ4世のカトリック改宗が想起された。なぜなら、それもマイノリティとマジョリティの問題で起こったものと考えられるからである。アンリ4世はもともとプロテスタント側の立場をとっていたが、カトリックがマジョリティだったがために、戦争終結のため自身が改宗した。やはり今も昔も変わらずマジョリティ・マイノリティの問題はあり、これからもなくならないのだと感じた。
・・・> よい着目だと思いますが、いま問題にしているようなマジョリティ/マイノリティとはかなり構造が異なるのではないか。ユグノー戦争にかぎらず1617世紀の欧州の宗教戦争は、(1)領内の住民ではなく領主階級の信仰にかかわる問題であり、(2)その領主階級も純粋な信仰だけでなく政治的・経済的・外交的な打算によって宗派を替えることがしばしばあり、(3)もう少しマクロな視点から見れば、主権国家(世俗権力)が宗教勢力に対して政治的・法的な優位性を獲得していく(立場を逆転していく)プロセスであった、ということになります。アンリ4世は、ご指摘のようにもともとカルヴァン派プロテスタントでしたが、それもほんまかいなと私は考えていて、つまりはヴァロア家(当時のフランス王家)やそれを支える勢力との対抗上、そしてローマ教皇に支持されたフランス南部の諸勢力との対抗上、プロテスタントに属していたのではないかと思われるのです。そうであれば再改宗のハードルは低い。フランス王は西フランクの時代から、ローマ教皇の特別の祝福(聖別)を受けて王位に就くというならわしがあり、それを権威の裏づけとしていました(ジャンヌ・ダルクの事績を思い出してください)。プロテスタントのままだと、ナヴァラ王ではありつづけられるが、フランス王にはなれない。カトリック改宗の最大の動機はそこにありました。アンリ4世はいまもフランスで人気の高い人物で、「女たらし」「エロおやじ」呼ばわりされることがありますが、それも親しみの表れでしょう。日本でいえばほぼ同時代の徳川家康の人生や事績に重なる部分が多く、大河ドラマにしたらおもしろそうです。「次回は第20話、ナントの勅令 お楽しみに」。


馬上のアンリ4世像 パリ ポン・ヌフ

 

マイノリティとマジョリティについて、私は、可能なかぎり「多数派に従え」と思ってしまう。人権侵害といったことが許されないものだとは思うが、そちらのほうが「効率的」だからだ。自分は多数派なのか少数派なのか。いま、ここ日本では前者に属するが、外国に住んでいたときは後者だった。マイノリティはマイノリティらしくしろ、という考えを、もう少し吟味したい。

日本ではモノリンガルの人がほとんどで日本語がマジョリティであるから、なじみがないところではあるが、マジョリティをつくることで平和を保つことが出来ていると理解した。しかし、これはマイノリティの人が我慢して成り立っていると思うのでマイノリティの人にも配慮がされればいいなと思う。世界で取り決めた決まりを守らなければ何でもありになってしまうのでロシアのクリミア半島の問題が発生するのは必然だったのかなと感じた。アメリカは社会主義を抑えるためにギリシャに蓋をすることはとても合理的だなと思ったし、コソヴォに肩入れしてロシアを介入させないようにするのはアメリカの意図が明確で徹底されていると思った。
・・・> 原文ママです。ところどころ語が足りないので、文章の意味を読み取りにくいところがあります。「マジョリティをつくることで平和を保つ」というのは、どの地域のこと? 後半の、アメリカが「ギリシアに蓋をした」というのは聞き違いで、ギリシアでもって社会主義圏に蓋をしたのです。ギリシア(の国土)が「蓋」。地図帳を見て位置関係を確認しましょう。アメリカがコソヴォに肩入れしたのは事実ですが、そのせいでロシア(のプーチン)が怒った、という部分をわかっていないのでは?

どの分野においてもマイノリティは大きな力で抑え込まれがちですが、生まれを選ぶことはできないので、強さで優劣を決めてしまうのはよくないと思いました。

地理の教科書を見ると、アメリカは人種のサラダボウルで、少数民族ともうまく共生しているというような記述があるが、少数民族を保護するような施策というのはかえってその民族を、マイノリティ(=多数派に合わせてもらう側)だと決めつけるような感じがあるのではないか。このような民族対立は、ただ第三者の視点から見るのではなく、その背景や、解決できていない理由や論点をきちんと捉える必要があるし、自分は関係ないと内心で思いがちだが日本にもかつて、そして現在も根づいている問題であることも自覚しなければならない。また北アイルランドの問題からはっきりとわかるように、地域によってマジョリティ・マイノリティの差があるのは当然だし、広い国家であればなおさらそれが目に見えてわかるはずである。分母を大きくしていけば、大きなコミュニティもマイノリティになりうる。その切り取り方を考えたうえで議論することが必要だと考える。

民族問題というのはとくに難しく、第三者から見たときには他人事だと思い、関係ないと考えてしまうのは仕方ないことだと思います。正直私もあまり民族問題について興味がありません。しかし日本には関係ないと思い込んでいるから、そういう関心があまりないのだと思います。しかし日本にも民族問題はあります。そこから目を背けて日本は無関係だと考えるのはよくないと思いました。

いままで私は保守的な考えをもっていて、過激ではないが、多少は移民に対して偏見があって、規制が必要だと思っていた。また左寄りの人のいうことは的を射ていないと思っていた。だが今回の授業を聞いて、少し意見が変わってきた。一つの考えに囚われている人は、複雑に絡み合っている事情を理解していないし、自分のそのうちの一人であるとわかった。とくに、悪いのはその人だけなのにその人の民族を否定したり、主語をすり替えたりするのは、頭の悪いことだと思った。だから大事なのは、左・右などではなく、思想をもち正しい知識をつけ、話し合うこと、そして国民が団結することが大切だと思った。右と左で争っていては何の解決にもならない。だからこそ現代社会について学ぶことが必要だとわかりました。

マイノリティ・マジョリティの対立は、より大きなものに所属することでしか解決しえないとありましたが、その大きな団体はいつまで存続可能なのかわからず、根本的な解決を世界全体で探していくような意識が必要なのではないかと考えました。
・・・> しかし現実の社会運営は国家単位でおこなわれています。各国内に閉じて民主主義を発動する場合(いまはそうですよね)、国内マジョリティが自分たちの既得権や優位性を薄めるような提案に乗るとは思えず、それが世界的に起こっているわけだから、「世界全体で探していく」というのは(いまのあり方だと)夢想に近いのでは。

 
地中海に浮かぶ島国の景観  (左)マルタ共和国 セント・ジュリアン  (右)キプロス共和国 ラルナカ

 

日本が島国だという特徴を、他国にあるような民族問題とは日本は無縁であるからと目を背ける理由として使っているという視点が興味深かった。いままで歴史の授業などで、他国にあって日本には怒らなかった問題の理由を「島国だから」と説明されたことがあったが、都合よく使いすぎているのだと思った。

マイノリティとして知られるアイヌ民族は、決して全員が北海道に住んでいるわけではないと、当たり前だけど気づかされた。

日本は島国だから、という考え方について、身に覚えがあり、はっとした。もっと日本で起きている問題にも目を向けようと思い、外国との比較をしたいと思った。

私はいままで「日本は島国だから特別」とか「日本は特殊」といった考えをもっていたが、その考えについて改めさせられた。日本は海で囲まれており外国とのかかわりがあまり多くない国だと思っていたが、イギリスなども同じ島国であり、島国であるということだけでは社会や文化の特徴を説明できないと感じた。また、いままで北朝鮮の拉致問題について、なぜ世界の国々は助けてくれないのか気になっていたが、自分たちが他国の問題を助けるのかと考えたら、助けないのではないかということに納得した。もっと世界の問題について考えを向けていこうと思った。

日本は島国だから、という思考停止の危うさが指摘されたのが印象深い。均質な内部という思い込みは、社会に存在するマイノリティへの無関心を正当化しうる。今回の学びは、他国の事例ではなく自分たちの社会の思考に直接跳ね返ってくるものだと感じた。
日本は島国だからこうした問題も少ない、と単純にいうことはできないという話が印象に残った。自分では気づいていないだけで、日本の中にもさまざまな背景をもつ人々が存在している。海外の事例を学ぶことは、遠い国の問題を知るだけでなく、自分たちの社会を見なおすきっかけにもなると感じた。

 


開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう後半ですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。その程度の知識やコミュニケーションは、もうAIがやってくれます。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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