古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine II: Réflexion et apprentissage mondiaux ou ‘global’ pour le futur proche

現代社会論IIグローバル思考と近未来の世界への学び


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S205教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

20259月の授業予定
9
12日 グローバル世界と宗教
9
19日 マジョリティ/マイノリティ考(2):他者と向き合う
9
26日 歴史の歴史性と今日性

 


次回は・・・
13-
グローバル世界と宗教

世界は科学でできている、というのと、世界は宗教でできている、というのとでは、どちらが真実味があるのかな? 数値化するような話でもないので正解はわかりませんが、私は宗教religion)こそが世界の主たる成分であるというほうに一票を投じたくなります。当科目の受講生はおそらく全員が文系(人文系もしくは社会科学系)に進むことを希望しているのだと思いますけれど、人文学・社会科学のどの分野であっても、宗教の視点や前提知識は不可欠です。宗教は大切だから信仰しなさい、という意味ではもちろんありません。知の対象として心得ておきなさい、ということです。というのは、「宗教なんて」「宗教なんか」という姿勢の是非は置いておくとしても、スルーしたいとか、まったくかかわりたくない(学問の対象としても)といった人がずいぶん多いように思うからです。政治・法・経済・文化・教育・・・ といろいろな分野があるが、なぜか宗教に関しては拒否反応が他よりも強いみたいですね。繰り返しになりますが、知の対象として宗教のことを学び、知るということは、文系の学生として必須のことであると考えてください。もとより東アジアでは儒教と道教、南アジアではヒンドゥー教やそのかみのバラモン教、中東を中心とするアジア全域ではイスラーム、欧米ではキリスト教、そして日本については神道と仏教が中心になりますから、学びの対象がどの地域であるかによっても焦点の当て方は変わってきそうですね。

神とか霊といったもの、そして信仰というあり方は、記録が残るよりもはるか大昔に発生した人類社会に特有のものです。俗なことわざに「イワシの頭も信心」というのがありますし、応援するチームのチャンスないしピンチには目を閉じ両手を結んで祈るということもあります。特定の宗教・宗派にかかわらず、祈るとか信じるといった行為はつきものです。日本を含む世界各地に広がり、いまも大きな影響力をもっているアニミズム(自然崇拝)は、教祖や教典があるわけではなく、体系だった教えがあるわけでもないけれど、それらだって宗教とみなしてよいはずです。実際には、近代に入って欧米からreligionなる概念が入ってきたときに、religionの知識をもとに解釈しようとしたため、宗教なるものの捉え方やスコープにブレやズレが生じています。「いまの若い日本人は宗教なんか信じないですよ」といっても、○○教を信仰しないだけのことであって、宗教っぽい営みは結構しているのですね。そんなふうに、少し(かなり)広めに構えておいて、宗教というテーマを考察することにしましょう。当科目のこれまでの学びでわかったように、宗教(信仰)は、自分は○○という共同体や集団の一員であるという意味でのアイデンティティを支える重要なファクターのひとつです。また一般には、宗教の違いによって対立や紛争が起きるのだと説明されることが多いですが、殺し合いにまで発展する際のきっかけは宗教というより経済であり、○○という宗派を共有するグループという属性ごとの境遇の違いが、恨みや妬みや優越感や差別意識をエスカレートさせるのだ、という仮説を共有しましたね。やはり、歴史も地理もそして公民も、社会的な何かを学ぼうとすれば宗教の知識は避けて通れないようです。

2025年の世界では、宗教(教え・信仰)そのものというより宗教勢力(しばしば世俗権力化する)の動向に注目が集まります。最大のものは合衆国のトランプ大統領周辺でしょう。関税をやたらにかけまくるトランプが、「関税というのは宗教、家族の次に好きな言葉だ」と発言したことがあります。いずれも19世紀の主成分だったもので、しかしトランプや支持者の中ではいまも息づいているのでしょう。トランプの極端なまでの反・反ユダヤ主義やパレスティナ(主にイスラームのスンニー派)への憎悪は、その宗教的な世界観の反映だろうとみられています。トランプ自身よりも支持者や支持層のほうが厄介で、反科学というべき創造科学(サイエンスの語を入れること自体がどうなのかと思うけど)やインテリジェント・デザイン論の信奉者、頑迷なファンダメンタリズムの信仰をもつ人たちは、決してマジョリティではないのですが、民主主義のもとではなぜか強い影響力をもちます。次に、新ローマ教皇レオ14世のスタンスがこれから明らかになってくるはずです。カトリック圏というよりも合衆国とのかかわりで注目されるのが2025年だなあという印象。そしてもう一つはチベット仏教ゲルク派の法王ダライ・ラマ14世が自身の「転生」に向けて出した声明のゆくえです。中華人民共和国との綱引きではあるのですが、同国と中華民國のあいだの問題に入り込む可能性もあり、そうなるとローマ教皇庁(ヴァチカン市国)の外交姿勢にも連動して・・・ と、いろいろなものが絡んでくるかもしれません。今後もいろいろなところ(それも重大なところ)に宗教の問題が関係してくるのは間違いないので、いまのうちに見識を深めておきたいですね。

 

REVIEW 7/11

王が中心の政治が悪いもので民主主義がよいのだという認識をするのではなく、誰が統治するのかに注目する必要があるのだと、今回の授業を通して気づいた。世界の君主制を学ぶと、サウジアラビア王国のように国家どうしの外交のカギになるのだということを知り、日本とは違う首長の役割(政治の実権を握る)がわかった。チベットのように君主の継承の仕方に宗教的な価値観がみられるのもおもしろい。国家ごとに君主の形はさまざまであることを学べたので、国家のシンボルということの意味を実感することになった。

ヨーロッパなどの君主制について学んだ。イギリスのような立憲君主制をとる国では、王は国家の象徴として残りつつ実際の政治には関与しないが、一方でアラビア半島の地域では王が国の最高権力者であり、宗教・政治・経済のすべての部門で影響力をもっていることを学んだ。この違いを学ぶ中で、王の必要性や世襲される権力の正統性について考えることになった。今回の授業を通して、君主制=独裁、民主主義=自由といった単純な対立構造にはとどまらないということをあらためて感じた。

君主制の国といわれてぱっと思い浮かぶのは連合王国とスペインくらいだが、実際には40ヵ国以上もあることを知った。欧州では女王がめずらしくないが、日本でも女性天皇が実現する日は来るのだろうか?

今回、さまざまな君主制の国について学び、同じ君主制でもその内側は大きく異なっているのだとわかりました。国王と聞くとイギリスを想像するのですが、イギリス国王が複数の国家の王を兼任していることを知り、そのような君主制もあるのだと思いました。そして君主制には戦争や支配が関係していることが多いこともわかりました。国家によって歴史や地理がかかわっていてとても興味をもったため、他の君主制の国家についても調べてみたいと思います。

40ヵ国くらい君主制国家があるというのはなんとなく知っていたけれど、国ごとにかなり違いがあって、特徴があることがわかった。いまでもオーストラリアやカナダが英連邦君主国であることは知らなかったので驚いた。また君主にいまでも形式的な儀礼では序列があることもわかった。サウジアラビアやスペインなどかなり有名な国家でも、君主が問題を抱えている(いた)とわかり、自分が知らないだけで、いろいろな事情があるなと思った。

さまざまな国の例から、国の数だけ形があるということを強く再認識した。とくにアンドラでマクロンが王になるという話が衝撃的だった。単にしくみを知るだけにとどめるのではなく、その形になるまでの経緯と、そのことが何を意味しているのかを知ることが国家を深く知ることにつながると思うので、興味をもって調べてみたいと思った。

 
欧州最大の名門家系といわれるのがハプスブルク家 神聖ローマ皇帝のほかオーストリア太守、ハンガリー王、ボヘミア王など国家内国家の
君主位を世襲した 「女帝」とされることの多いマリア・テレジアは皇帝には即位できず夫のフランツ1世にその地位をゆだね当人は
オーストリア女太守・ハンガリー女王だった (左)「会議は踊る」で知られるウィーンのシェーンブルン宮殿 (右)マリア・テレジア像

 

君主国がいまも40ヵ国以上あることに驚いた。君主国と聞いてぱっと出てくる国がなかったから、やばいなと思った。サウジアラビア王国の王の話を聞いてすごいと思ったし、一人ひとりがわりと長く在位しているから国民に信頼をもたれているのかなと思った。

世界にはさまざまな王がいて、国家によっては強大な権力をもつことがあるということを学ぶことができた。日本の場合も、天皇制が万一崩壊したら大混乱が起きそうだと思った。

君主国の中にも、結構な独裁政治をおこなっている君主もいれば、街に出る君主、ダンス・パーティーを開く君主など、各国にさまざまな色の君主がいて治めているのだなと思い、印象が強く残った。

席順やフランス料理が外交では重要だという話がありましたが、以前YouTubeで見たトランプ大統領夫妻・安倍総理夫妻が日本の料理店で食事した際に、料理が提供される順番が話題になったことを思い出した。細かくてめんどくさいことこそ、どれだけ敬意をもってやれるかが大切だと思った。
・・・> それはそうなのですが、授業でお話しした公式晩餐会(国賓・公賓を公式にもてなす外交儀礼)と、首脳どうしの私的な関係を深めるための会食では、かなり意味合いが異なります。後者にも、それはそれで細かな配慮やメンツの問題があることはいうまでもありません。

主権国家どうしは対等であるが君主のステータスには差がある、とのことだった。国家どうしが対等であるなら君主のステータスの違いは何に影響を与えるのか? (類例複数)
・・・> 20世紀後半以降は、君主のステータスの差は儀礼上も考慮されなくなりました。もちろん、君主その人が最もエラくて、次が君主の配偶者(王妃や王配)、そして王子・王女というランクはあります。仮に英国のウィリアム王子(次期国王)が来日されたとすると、天皇・皇后両陛下もお会いになるはずですが、オフィシャルにもてなす立場なのは「同格」(次期君主)である皇嗣殿下(秋篠宮文仁親王)になります。君主どうしで順序(序列ではない。たとえばあいさつの順や、冠婚葬祭での拝礼の順)をつける必要がある場合には、在位年数の長いほうがエラいというか、目上の扱いです。ただ君主をお呼びする際の敬称に関しては、陛下(His/Her Majesty)・殿下(His/Her Highness)という違いがあります。ルクセンブルクやモナコでは、国家元首(国のトップ)が殿下。ま、そういう国際慣習なのだとお考えください。


ローマのスペイン広場
米映画「ローマの休日」は、某国の王女アン(オードリー・ヘップバーン)が窮屈な外訪を嫌って勝手に町に出て
新聞記者(グレゴリー・ペック)といい感じになる、てなストーリー
2
人が階段に腰かけてジェラートを食べる場面はこのスペイン広場のことである

 

王政と民主政を比較するという点において、たしかに対称的ではない2つを教科書で比べさせるとなると、勘違いして理解してしまう生徒も少なくないだろうと思った。
教科書の資料は、先生の話を聞くとたしかに変だ(間違っている)と思った。教科書にも正確でないことが書いてあるから、その情報を鵜呑みにしないでしっかり自分で考えることが大事だと思った。

王様と聞くと、小さいころはキングやプリンスといった言葉に心が躍ったが、いまはわがままという印象がついてきます。なぜだろうと思っていましたが、大きくなると王様の裏が見えてきてしまうからでしょうか。今回はどんな「やばい」王様がいるのかをたくさん知ることができたので、さらに王への印象がよいものだけではなくなりました。ただノルウェー王の「私には400万人の護衛がいる」という発言は国民との信頼を感じて、かっこいいと思いました。父をクーデタで追い出して無理やり王になったり、妻が15人いたり、計画的に王家の人間を殺して即位したあとで独裁政治をおこなったり、「やばい」王様がたくさんわかりました。

民主制を推進する王と独裁を推進する王で呼称を変えたら王制のイメージはよくなるのではないかと考えたが、誰の基準で独裁者と判断するのかが問題になるので、不可能だという結論になった。

王制(政)だからといって王が必ずしも独裁者になるわけではないけれど、それ以上の存在が国内にいないから、地位・権力などの魅力にまどわされ、独裁政治のような状態になってしまうのだろうと思いました。また同じように大統領もそれ以上の存在がおらず、国民に選ばれているという自信から、自分中心の政治をする人が出てくるのだろうと思いました。反対に、首相は国会や各党とのかかわりが強いため、独裁のイメージをもたれにくいのかと考えました。
・・・> う〜ん、そう判断するにはサンプル数が足りていないんじゃないかな。大統領は国民の直接投票で選ばれると思っているかもしれませんが、そうでない国家も多い。アラブ首長国連邦(UAE)はアブダビ首長が常にUAE大統領を兼務するかたちですし(首相はドバイ首長)、ドイツやイタリアの大統領は議会で選ばれ、権限はほとんどありません(立憲君主制の王みたいなものです)。首相であっても権威主義的になる人物や国家もあります。シンガポールは首相がトップの国家ですが、もう「王朝」のようになっていますし(いまは「上皇」みたいな上級相もいる)、授業でも取り上げたカンボジアのフン・センとフン・マネットの親子はいずれも「首相」として世襲の王のような振る舞いをしています(王様は別にいらっしゃいます)。

君主制は王の象徴性を強める傾向にあるが、王個人の資質やカリスマ性などにその制度の権威も大きく左右されるのだと思った。タイでの事例などからも、国王の変わり目は国が不安定になりやすいと思った。

日本の天皇と違い、各国では国王が国のあり方を決めるうえで大きな役割を果たしているということがわかった。国王は民主化をおこなうのがいまのトレンドであり、国民の象徴といえる存在になっていると思えた。
・・・> え〜、そんなふうに受け止めました? いっていることがすべてズレているように思います。いままであまり考えたことのない対象だったのかな?

国王が独裁政治をおこなっている国家が扱われましたが、話を聞いていると、もともと私がもっていた独裁政治は危険だという考えがさらに強まってしまいました。独裁政治に対する理解がまだあいまいで解釈に誤りがあるのか、なぜ王政をつづける国があるのか、どのようなメリットがあるのかなど、疑問に思うことが多かったです。国王が政治をおこなうことと独裁政治が同じではないということはわかりました。
世界には君主制の国がたくさんありますが、同じ君主制という系統でもそれぞれのあり方が異なり、非常に興味深く感じた。王という立場、またそれと同等の立場の人がいることで、社会が混乱し、世襲の問題が起きることもありますが、ある強国が後ろ盾になっているとか、場所がよくて資源に恵まれ国民の満足度も高ければ、独裁でも安定した国があるということに驚いた。いちばん疑問に感じたのは、君主の世襲化のメリットが私にはあまり感じられないことである。ならば普通に国民からの投票で選出するのがいちばんよいのではないかと思ってしまった。ただ、それも結局のところ国民の価値観や文化によって変わるのだと思った。
・・・> 世襲のメリットはあまりないと思いますけれど、現に世襲であるのをやめる(非世襲化?)のはリスキーじゃないですか?

 
(左)パリ中心部にあるチュイルリ庭園 いまは広大な都市型公園なのだが18世紀までは王宮(チュイルリ宮)があり
王と政府がヴェルサイユに移ったあともパリでの足場として使われた 1789年の「ヴェルサイユ行進」で民衆により強引に
パリに連れてこられたルイ16世一家は、最期を迎える少し前までここで生活していたという
2024
年のパリ五輪で、空中に浮く?聖火台が設けられていたのがチュイルリ庭園の、この人工池である
(右)チュイルリ庭園の西に隣接するコンコルド広場に、ルイ16世とマリ・アントワネット刑死の地との説明板がある

 

モントリオールやバルセロナでの五輪開会宣言の話は、言語とその土地に住む人たちのアイデンティティが強く結びついているいい例だと思った。

アメリカが13 Statesだったころに王がいたことを知らなかった。
・・・> 13 Statesというのは、形態や法体系がそれぞれ異なりますがいずれも英国(連合王国)の植民地ですので、英国王が13ヵ国すべての君主を兼ねます。それは知っていませんでしたか? 独立戦争のころの国王はジョージ3世(英国王としての在位1760-1820年)で、13ヵ国にはかなりの数のロイヤリスト(王党派)の国民がおり、「われらは住んでいる地域こそ大西洋を隔てているが連合王国の臣民だ」というアイデンティティをもっていました。ずっとそうだったので、その体制をやめるという選択は乱暴に感じられたのでしょう。ただ、英仏の対立などを背景として北米植民地の税制や通商などを本国が恣意的におこなおうとする動きが強まり、自分たちの国家なのに自分たちの意向が反映されない(ロンドンの議会に議員を送り出していない=民主主義ではない)という不満が限界のラインを突破したとき、独立戦争にいたったということです。

アメリカは「自由の国」であることが広く知られているが、いまやトランプの暴挙によって次第に自由が失われているということに驚いた。自身の誕生日にパレードで軍を動員するのは、あまりに権力を乱用していると思う。

日本の幕府も君主として扱うことになるのですか。
・・・> 幕府は「政府」「政権」。君主に相当するのは将軍(征夷大将軍)です。

選挙でえらばれない権威は民主主義とは対極のように思えるが、逆に君主がいることで国家の連続性や国民の一体感が保たれるのだとわかった。

君主制を採用する国家が紹介されたが、さまざまな特徴があり、日本とは異なる体制が衝撃的で興味深かった。紹介された国々は一見安定しているようだが、揺らぐことになるのだろう。ただ、ブルネイのように国民も納得しているのであれば王制のままでよいのではないかと思う(内政干渉になりえるので強くはいえないが)。

君主制であっても民主制であったり、君主が意思を行使できず権限を与えられていないという場合も多い。権限を与えられていて政治的な意思を行使する君主もいる。そのような国家内では人格を無視する犯罪級の行動も、地位ゆえに許されてしまったりする。君主が複数いる場合や、一人が複数国の君主を兼ねる場合もある。必ずしも現地の人でなくてもよい。君主制国家は40ヵ国以上ありますが、絶対的な権力をもったり世襲したりする、特定人物が君主的なふるまいをする国を含めると何ヵ国くらいになりますか?
・・・> 細かいところまで数えていませんが、世襲まで込みとなると1桁ではないでしょうか。世襲といっても、民主的な選挙で選ばれたのだ!と言い張れば世襲ではなくなるので、数え方もブレてきますけどね。たとえばジョージ・ブッシュ大統領父子(合衆国)、朴正熙・朴槿恵父娘(韓国)、コラソン・アキノとベニグノ・アキノ3世母子(フィリピン)、スカルノとメガワティの父娘(インドネシア)、リー・クワン・ユーとリー・シェンロンの父子(シンガポール)などは、世襲とはいえないものの父母のネーム・バリューや実績の七光りが当然作用しています。日本の歴代首相に父子2代つづけての人はいまのところ福田赳夫・康夫父子だけですが、直系血族ということでいえば、安倍晋三(岸信介の孫)、麻生太郎(吉田茂の孫)、鳩山由紀夫(鳩山一郎の孫)と、平成後期に出現率が上がります。さしあたり小泉進次郎さんがどうなりますかね。

日本でしか生活していない私にとって、天皇陛下のように、同一家系の人が国家の首長として世襲するという形の君主制が当たり前で、その形のみが君主制であるという狭い視野しかもっていませんでした。しかし、一口に君主制といってもさまざまな形式が国・地域ごとにあって、とくに国家内国家にも君主がいることがあると知って、あらためて国家のあり方についても考えを深めることができました。エスワティニやネパールなど、過激なセクハラや独裁など、よくわからない君主ばかりであきれる気持ちでした。そんな汚らわしいような、自己中心的な人がトップの国が、ちゃんと機能しているのでしょうか。不思議です。


モナコ侯の宮殿

 

世襲していくうえで人々が信頼できるような人がつづくことが大事なんだと思った。国王にも独裁寄りの人もいれば民主寄りの人もいることがわかった。ブルネイはナウルの二の舞になってしまうのか気になった。

今回の授業を通して、君主制と民主制を対立する存在として捉えるのではないこと、もっと多様性のある現実的な君主制が現在も存続しているという点があることが印象的だった。君主制はメディアを監視するなど国民の信頼を揺るがすこともあるが、第二次大戦時のオランダやノルウェーのように危機的な状況のときに国民統合の象徴として君主の存在が励ましになったということもあり、一面的に捉えてはいけないなと思った。

現代の君主は、ただの象徴的な役割にとどまらず、サウジアラビアやエスワティニのように、立場を利用した政策をとる現状もあり、恐ろしく感じた。

国家の統治の仕方と君主のあり方はさまざまで、とくに驚いたのはカタールである。父をクーデタで追放して首長に即位するほどの事情とはどんなものだろうと思った。
カタールの首長はその父を追放して首長になったという代がつづいていたと聞いて、日本のように親を尊ぶ文化とは真逆の感じがしてびっくりした。中東やカンボジアなどの国は、日本と文化が違いすぎて(一夫多妻制とか)、中東に行く機会があればものすごくカルチャー・ショックを受けそう。
・・・> まあでも日本の皇室も側室制度がありましたからね。側室をもっていた最後は1912年に崩御した明治天皇。皇后(昭憲皇太后=一条美子)とのあいだに子はなく、側室の柳原愛子・権典侍(ごんのてんじ=女官の階級名)とのあいだに生まれた嘉仁親王が大正天皇として即位しました。欧州の君主国では、正妃(キリスト教の神によって祝福された配偶者)とのあいだの子以外には王位継承権がありません。その代わり、イトコでもハトコでも即位の可能性があるのですが、日本の皇室は生母の立場よりも血統の近さのほうを重視する傾向があります。

タイは、いまのラーマ10世が「国王に値しない」といわれているが、世襲で国王になったのであり、なりたくてなったわけではなく、それで非難されるならどうにか望む形にしてあげられないのかと疑問に思った。

実権を握る君主はあまりに権力が強く、独裁につながりやすいので、民主政治とのバランスが大事だと思った。

君主に対して、神聖で、ある意味では生活感がないようなイメージをもっていたが、実際には生々しいシンボル性もあって、新しい視点で考えることができた。君主だからといって善行をするわけではなかった。

今回の授業では、たびたび「そんな勝手なことをしてもいいの?!」というような王様がいることがわかったが、一方でノルウェーの王様のようなすばらしい王がいるのは興味深いと思った。

「油」の力が、おとなの社会を表していた・・・。
制度的に「おかしい」と思われる国家には、油田が潤沢なところが多く、石油が出ることの経済効果と貴重性の高さから、国内・国外あらゆるところにわがままが通ってしまうのかなと思った。
・・・> あれ気づいちゃいましたか? (松本かれんさん風)

欧州の君主国では女王がめずらしくないと聞いて、跡継ぎはどうしているのかと思った。男系の女王で子が跡を継ぐことができるのか、それとも血を意識しないのか。調べようと思う。
・・・> もともとサリカ法典というのがあり(調べてね)、時代が下るにつれて、各国がそれぞれの仕様変更をしてきましたので、継承順位は国家により異なります。オランダは女系がOKになったので3代つづけて女王(母→娘→その娘)でした。英国もいまは男女問わず第一子優先です(ただしカトリックに転向すると継承権を喪失するという独自のルールがある)。スペインやモナコ公(侯)国は男子優先。欧州ではリヒテンシュタイン公(侯)国だけが、いまも男系男子相続を堅守しています。

男児をもうけることができないと他国に国家を接収されるというのは、緊張感がありました。産めるかどうかで王妃の扱いに雲泥の差があって恐ろしいです。
モナコ公国は男子が生まれなければフランスに接収されることになっていたと聞いて、子どもを産む女性は重役だなと感じた。男子が生まれなかったときに、自分がその立場だったらどうなるのかと考えると怖い。
・・・> よそんちの話じゃなさそうなんですけど!

日本の皇室もインスタグラムのアカウントを開設しましたね!

君主制は世襲が確実でなく、勢力争いが頻発しますね。国の統治体制をめぐってはそれぞれの実例がとても興味深く、さらに多くの事例を調べてみたいと思った。

同じ君主制の国家でも、当たり前ではあるがいろいろな違いがあるということを学んだ。王も人間なのだから不完全な部分があるのは当然のことなのだが、いままではあまり意識したことがなかった。とくに自国のこととなると気づきにくいと私は思う。なぜなら私は、イギリス王室など他国の王族に対して「だめだな」と思うことはあっても、日本の皇族の方々に対してはあまり不満を抱くことがない。これは愛国心によって少し盲目的になっているためであると考えられる。愛国心が強いことはもちろん悪いことではないが、君主国として長く平和につづいていくためには、君主が自分と同じように「不完全な部分ももつ人間」であることに気づく必要があるのではないかと考えさせられた。

多くの国において、君主はいまやシンボルでしかないため、いまどき必要ないのでは?と以前に思ったことがあったが、「継承」や「伝統」の面では重要なのではないかと思った。授業を通して、君主制≠独裁 だとwかあり、また世襲ではない選挙でえらばれた独裁者も存在すると知った。エリザベス女王の例から、王もひとりの人間なのだと再確認した。君主制は、現在よしとされている主流の民主制と矛盾しているわけではなく、またカナダやオーストラリアではシンボリックな役割までも現地総督に代わらせている。これらのことから、「シンボルがいるという伝統」が重要なのでは、と考えた。アメリカのように王がなくとも国家は成立するが、存在するという事実が国家にとって重要なのだ(アメリカは新しい国家だが他は歴史が長いことが多い)。日本でも勲章は天皇が授与するからこそ最大の名誉になっている。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう半ばですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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