古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine II: Réflexion et apprentissage mondiaux ou ‘global’ pour le futur proche

現代社会論IIグローバル思考と近未来の世界への学び


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S205教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

20251112月の授業予定
11
7日 グローバル時代の欧州(1):欧州統合の原理と論理
11
21日 グローバル時代の欧州(2):新時代の挑戦と試練
12
5日 グローバルな思考、そして近未来の世界への学び

 

 

本年度の授業は終了しました。
みなさんのご活躍をお祈りいたします。



REVIEW 12/5

現代社会論の授業を1年間受けて、世界が広く複雑な構造をしていて、あらゆる観点・視点から考えることができるということを学ぶことができました。日常生活で得られる世界や社会の情報がいかに偏っていて少ないものなのかが、授業で学び、実際に生活する中で感じられました。自分の考えを固めてしまわないよう、授業で興味をもったことをさらに学んでいきたいと思います。

1年間授業を受けて、多少なりとも世界への認識や解像度が深まった。あらためてグローバル化の社会でどのように立ち振る舞うかを考えさせられ、世界との距離がどんどん縮まる中でAIの勢いもあり、複雑な世の中になっているけど、この1年で手に入れた視野や考え方を使って、生き抜いていきたいです。

国際社会を捉えるには、やはり英語の文法のように、国家や言語、宗教、歴史といった「社会の文法」を構造的に理解することが不可欠であることがわかった。個別の知識ではなく「学問」という専門的なスコープを身につけ、自分の言葉で語る力と、構造的な思考力を鍛えることが必要だと思った。

今回は授業のまとめとして、グローバルな思考というテーマで考えた。これまでの授業ではグローバル(化)について主に考えたものの、そのたびにグローバル化のもつ壮大な魅力を理解するためのハードルの高さを実感していったように思える。これからも絶え間なく変動しつづける世界情勢を見つめ、分析していくべきであると、授業を通してあらためて考えることができた。

この国家(民族・宗教)はそもそもこうだからと、単数形的に捉えるのは危ないと聞いて、ある国が親日でないからとその国のものや人をなんでも嫌がっている人がいると聞いたことがあるが、その国の人みんながそうであるわけでもないし、時代によっても変わるだろうから、たしかに単数形で捉えるのはよくないなと思った。

グローバル化をボーダーレス化で説明したところが腑に落ちた。現代に起きている貧困や垂直分業、環境問題などを、国家と国際社会で対応するしか方法がないことは、国際関係論の授業でも実感した。またグローバル・サウスの発展によって起こる対立についても学んだ。「規制する主体がない」ことは非常にあいまいで危険なことだと感じた。また公教育の話を通して、冷戦期の産物(正負両方)が現在になっても社会構造や国際関係に影響を及ぼしていることも学ぶことができた。


フィンランド上空

 

ボーダーレス化が進み、モノ、人、情報、お金が国境を越えて移動しやすくなり、国際テロや詐欺などがあったときの対応が難しくなった。また主権国家どうしは対等であるはずが、事実上の上下関係ができていて、逆らえない状況があると考えられるが、その状況に対処し改善を促すための十分な力をもったところがほぼないということは、グローバル化が進む現在の課題のひとつであると考えた。

人やもの、お金、情報、技術、文化などのグローバル化(≒ボーダーレス化)はインターネットや服、文具、食事などどんどん私たちにとって身近なものになってきていると実感した。コンピュータ・ウィルスもボーダーレス化の影響なのでしょうか。
・・・> 文具のグローバル化って考えたことなかったけど、どんなのでしょう。ぜひ教えてね。ウィルスはコンピュータが普及してからずっとあるので、それ自体がボーダーレス化の影響ではありませんが、インターネット(ワールド・ワイド・ウェブ)が世界をつないでいますので、ボーダーを容易に越えて世界中に散らばってしまうことになりますね。

経済の国境は消えつつあるが、、国家や教育の枠は依然として強固だ。AIの発達で言語の壁が薄れる中で、問われるのは単なる言語力だけでなく、自らの言葉で語る思考力と深い異文化理解だと感じた。ナショナルな視点に囚われず、学問というレンズを通して世界を複眼的に捉える姿勢こそが必要なのだと思う。

多くの国における「読み書き(literature)」に相当する日本での教科の名称が、標準語が規定された段階で「国語」になったことも、いっそうナショナルな枠組が際立っている事例であると感じた。ただ量的に物事を覚えることにとどまるのではなく、そこから公教育の枠組を越えた事象を考えるきっかけが存在することで、グローバルなあらゆる事象を解釈する視点、「文法」をつけることができるようになると思った。
・・・> と、いうことであるならば、「読み書き」に英語のliteratureを添えないほうが説得的かもしれない。「多くの国」というのも、時間・空間の範囲があいまいのように思います。教科の下位概念というのは、現在の日本にはなくて(小・中学校の話。高等学校は教科の下位に科目がある)、読解・文字・作文・書写・文法・文学(散文・詩歌)といった内容は国語という教科内部の概念にとどまります。英国ではEnglish、フランスではfrançais、ドイツではDeutschというのが「国語」に相当する小学校の教科名です。現在の教科名を比較するのであれば、○○語という一般的な傾向に対して日本ではnational languageというある意味で中立的な呼称を付しているという特徴を見出すことができます。ただレビュー主がおっしゃっているのは、日本の公教育に「国語」が導入された時期(日本の明治時代)の話で、たしかにその当時は各国とも教科区分がまだ安定していませんでした。フランスはそのころからfrançaisでしたが、lecture(読み)やécrire(書き)といった区分?も教科名のように扱われていました。日本で国語という呼称が採用されたのは、上田萬年(かずとし 国語学者で、作家圓地文子の父)による「国語」の確立が大きな後押しになっているのですけれども、本居宣長らの「国学」が間接的に影響を与えているようにも思います。

日本は、北海道・本州・四国・九州などが陸続きではないけれど、日本であるという事実でナショナリティが形成されるのが興味深いと思った。
・・・> 「日本であるという事実」が、いつ、どのようにつくられたのかという部分に本質があります。英国(連合王国)を取り上げた1学期の授業動画がまだ残っているので、時間のあるときにまた観てみてください。同じ島国で、どこまで似ていてどこが違うのかという視点を得られればいいですし、英国を対象として捉え考察した方法そのものを日本にもってきて適用し、分析するということもできるといいですね。

たしかに経済や情報、文化などは国境を飛び越えているのに対し、公教育はずっと国内に収まっていることに気づいた。これは、教育内容には言語や歴史、価値観、文化などが含まれており、国ごとに大きく異なることから、公教育はその国家に閉じているのだなと考える機会になった。

国語や日本史といったナショナルな学びと、世界語や世界史といったグローバルな学びは、教育する側も学ぶ側も負担が大きい。かといってどちらかを優先して学ぶなんてできないので、難しいところだなと思った。

公教育はナショナルなものを学ばせているが、グローバル化する現代において、グローバルについて教えるのはやはり難しいのだなと感じた。現在日本の教育では世界史を学ぶが、量も限られており表面的で、本質的な学びではないように感じてしまっているが、質の学びへの導入的なものとして捉えれば、今後の自身の本質的な学びにつながるきっかけになるかもしれない。そう考えると小・中・高の教育としては、ある意味では適切なのかなと思った。

ナショナルなものの相対化というのがどのような意味なのか、初めはわからずに授業を受けていました。もう理解できたとはいいがたいですが、ナショナルな教育は、言語や歴史においてある意味限定的なのではないかと考えます。そこから、教育のグローバル化が推進される世の中につながっているのだと思いますが、量の学びから質の学びへの転換が必要であるということに深く共感します。先生の授業では、量の学びとともに自ら考察するための「文法」を学ぶことができました。このような学びを日常生活に取り入れていくのはハードルが高いですが、今回はまず『Number』を手に取って読んでみようと思います。

AIが量とツールの部分を代替するからこそ、人間は学問という深いスコープと思考・省察を通じた知が血となり肉となるような質の学びに向き合うべきであり、この授業がそのきっかけを与えようとしていることに、教育者としての強い意志を感じた。

グローバルな現代社会を考察するうえで、○○学の視点から考える、という重要性を知った。2学期に入ってから現代社会論Iの授業とリンクしている点が多く、経済的な視点で無意識に見ようとしていたのかなと気づいた。先生が今回、紹介していた『エビと日本人II』を読んでみたい。自分たちが無意識に消費しているものがどう生産されているのかというのを知りたいと思った。私は、エビがあまり好きではないのでショックを受けても堪えられると思う。

松井秀喜が巨人の4番で、その時代の日本ではその上がなく一番であったのに日本を出て世界に目を向け、上をめざしつづけたのはとてもすごくて、私もどこまでも挑戦する精神を大事にしたいと思った。

グローバル社会に生きていくうえでは、量の学びをおこなったうえで、見方や考え方を広げる文法を探究していく必要があると思った。日本だけに囚われた内向的な勉強ではなく、世界と向き合う外向的な勉強に変えていきたいと思った。

気候変動や国際問題、AIの発展など地球規模の課題が自分たちの生活に影響していることがわかった。AIが普及し便利になる一方で、新しい能力や考え方が求められるとわかった。大学では個別の知識も学ぶが学問を学ぶとわかった。
・・・> 断片(かけら)を切り取って「わかった」とまとめるのはやめましょうね、と1学期には何度か呼びかけていて、2学期はだいぶよくなっていたなと思ったのに、最後に逆戻りしてしまったかな。自分で「わかっ」ているのだろうと思いますけど、「わかった」といっている3点はいずれも今回の本筋ではなく、なんならどこか他のところでよくいわれていることです。大学でも個別の知識に振り回されないように気をつけよう。「わからなかった」ところを明らかにするほうが、よほど学問は上達します。

 
(左)セルビア上空  (右)スウェーデン(写真上)・デンマーク(下)上空

 

大学は「学問」というめがねを学びに行くのだということを忘れないようにしたいと思った。この「ものの考え方」を学ぶということは身の回りのすべてに通じると思っていて、英語(言語)においても重要なのは、その構造や、なぜその考え方や単語が生まれたのかというおおもとの部分だと思う。この授業で学んだように、具体例を見なければはじまらないし、その先には抽象が求められるという、帰納と演繹の考え方をフル活用して、ひとつの学問にもとづいためがねを(できれば複数)獲得していきたい。

高校の勉強では広く浅くやることも、大学では一つの単元をさらに深掘りして突き詰めるため、「広く深く」になるのだと思った。
量的な学び(基礎知識)があったほうが、AIを使うにしても引き出しが増えるので、やはり一定の暗記は必要だと思います。でも、たとえば年号暗記など教科書全文を丸暗記するのは、あまり効率がよくないなと思います。基礎を知ったうえで「広く浅い」話をしてもらったり、幅広い本を読んでみたりしたら、考え方や引き出しが増えると思いました。新聞は求めていない情報を教えてくれるけど、ネットやAIは聞いたことしか教えてくれない。だからこそ広い分野に少しずつ手を出しておくことで、何か一つ詳しく学んだときにつながりが見えるのかな、と授業を聞いていて思いました。
・・・> 次元の違う2種類の話があると思うんですよね。自分のメインとなる学び、いわゆる「専門」に関しては深く、とにかく深く学ぶ。一方で、専門はこれだから他のことは知らんというのではなく、広い分野に少しずつ手を出しておく。高校生までと大学生の違いはそのへんにあります。専門の深みがないまま広く浅くだと、「ちょろく」なるリスクがかなり高くなります。専門を深めることで、他の分野についても「自分はそこまで深められないけど、きっと自分の専門と同じように深みがあってすごいんだろうな」という感覚をもつことができるわけですね。

量の学び、質の学びの議論は興味深かった。量の学びを否定すると不愉快になる人は、いままでそのようなことをしてきて人格否定されている気になる、というのは、試験のための勉強をずっとしてきた私も納得してしまうものであった。今後は自分が学びたいことを身につけるための勉強をしたいと思った。

質の学びは本質的で大切であると考える。しかし同時に、基礎知識を習得し量的にこなすことも同じくらい大切である。どちらも同時にできれば最適だが、その塩梅が難しい。
・・・> たいてい両方ともできていないんじゃないの?というのが私の問題提起。

量の学び、質の学びの話に非常に共感した。私はせっかく勉強するなら短期記憶ではなく長期記憶でおこない、これからの人生でも役立たせたいと思っているので、基本的には勉強する際は「暗記」ではなく「理解」することを目標としている。丸暗記よりも理解するほうが大変かもしれないが、応用も利くし、優れていると私は考える。しかし試験勉強に関しては暗記のほうが楽に点を取ることができる。教員の中には記述を丸暗記させ、言葉を言い換えたりすると点をくれない人もいる。そんな現状に対して非常に不満に思っているため、しばしば友人とこの意見を共有することもあるのだが、友人たちはたいてい「暗記はきっと社会に出た後も役に立つ」と反論してきて、私は毎度共感できずにいる。私はこの学校に「学びに来ている」からである。これは私の持論であるが、学習の本質は「理解すること」と、「学んだ知識をしっかりと自分のものにすること」にあると思う。これは暗記とは対極にあるものである。そのため、これからも質の学びを大切にしていきたいと思う。

私は基本的に暗記する科目があまり得意ではなく、どちらかといえば「理解する」学習を好みます。一方で、試験の記述問題で「理解」して書いた私の文章よりも、授業で扱った模範解答を丸暗記して書いた人のほうが、点数が高かったということがあります。もちろん私の理解が正しくなかった可能性もありますが、間違えて解釈するくらいならばそのまま覚えてしまったほうがよいのではないか、とそのときの私は感じました。理解が大切な事柄を暗記で処理できてしまう形式のテストには反対です。英語は、単語も文法も、どうしても「そういうものだ」と開き直らなければならない瞬間が出てくるのが、学習するうえで大切なことと矛盾していて、とてもモヤモヤします。まずは「つながり」を意識して、その中でも最低限の暗記も必要だと思います。それも、覚えるためにつなげるのではなく、つなげたうえで覚えるという形がベストだと思いました。
・・・> 前段はまったくそのとおりで、おっしゃることを強く支持します。そのうえで申しますと、中身のない丸暗記の解答に点数で負けたとして、何が問題なのですか? 暗記病の誘惑を克服できたら、その次は点取り病の誘惑に立ち向かいましょう。定期試験の点数なんて何かの瞬間風速でしかありません。学んだ手ごたえとか実感に優るものはないと思います(とかいって、私がこの科目の点数を低くつけてしまったらごめんなさい 汗)。後段、英語の話はちょっと次元が違います。母語以外の言語は、文法と基本語彙、頻出表現を丸暗記しなければ使い物になりません。結構な労力と時間がかかります。前段で述べたことと何が違うのかというと、外国語の学習は試験の成績の問題ではなく、自身が話す言語が通用するかどうかという点にこそ成否があります。たしかに高校生とか大学生の前半くらいまでは「英語の試験」なるものがあって、そこでのスコアが大事なのかもしれないけれど、それだってその先で「使える」かどうかの足場の話ですよね。1学期にみたように、英語はその成り立ちに由来して、欧州の他の言語に比べて不規則性がありすぎます。文法だけでなく発音も。だから融通無碍で拡張性があっていいのだともいえるし、だからだらしなくて非論理的なのだともいえます。私はやっぱり英語を話せるようになるべきだとは思うのだけれど、そんなグダグダ言語を強要されるのは嫌だというのであれば、ドイツ語でもフランス語でもスペイン語でも中国語でも、別の言語を学んでみればよいのだと思う。

ちょうど昨日、小学4年生の妹と「学び」について話す機会がありました。彼女がいうには「私は理系だから理系の大学に行きたい。もう文系教科は嫌だ」ということでした。私は、文系教科もおもしろいよ、もっと学んでみないとわからないよと伝えたのですが、実際に何が「おもしろい」のか、何が「わかるようになる」のかを伝えることができませんでした。彼女はあまり他者と話すのが得意でない性格だと自分で考えているようです。妹は内向きの性格を変えたいそうです。でもどうやったら変えられるのか、変えたら何が楽しいのか、何を得られるのかを、今回の松井秀喜さんの例を踏まえて自分でも考えてみたいです。また文系の「おもしろい」点を消化し、「わかるようになる」ことが将来何につながるのか、授業を聞いてメモを取った内容だけでは考えきることができなかったので、家に持ち帰りたいと思います。妹と話したいと思いました。いまの時点で、私が文系でおもしろいと思うのは、学びを総合的な形として知識どうしをつなぎ合わせることで、新たに上記のような疑問につながるという点にあるのだと思います。うまく妹に伝えられるような人になりたいです。
・・・> 4で理系・文系の意味をわかっているだけでスゴくないか? とても妹思いの、優しいお姉ちゃんなのだろうと感心しますけれど、おそらく現時点で妹さんに伝えられることには限界があり、もっと先のほうで話さないと意味をなさないかもしれません。人には発達段階というのがあり、おおまかにいって小学校高学年〜中学校12年あたりで、思考や認知の構造や、行動様式や、価値観などが大きく変わります。その付近で各教科の内容が急に抽象的になり、難しくなったのを覚えていますよね。小4あたりの理科や社会を好きなのかどうかで、理系・文系というのは決められません。いま述べた境目を抜けたころに、興味の対象や得意不得意が完全に入れ替わるということがザラにあります(これに興味があれば教育学を学びましょう 笑)。お姉ちゃんにもそういう時期があったんだよ^^。それとは別の話ですけど、理系に進んだらまずいのかな。いま日本国では、政財界を挙げて、文系はやんなくていいから理系に進みなさいという圧力?をかけるようになっています。なんでも理系人材が圧倒的に不足しているのだそうで、とくに女性で理系に進む人が少なすぎるのが問題だと指摘されています。早いうちから理系にめざめてそちらをめざすという女子児童・生徒は、今後ますます重宝されると思いますよ。姉妹で専門が違うくらいのほうが、さきざき有意義な対話ができて楽しくなるかもしれない。

グローバル化の時代にあたり質の学びをするのと同時に、「学問」の知識をつけることが大事だとわかった。韓国のホームステイ先のお父さんに、大学は決まっているけど専門は決まっていないと伝えたらちょっと怒られた。どの視点をもって知識をつけるのかが決まっていないことや、周りの人たちも同じような状況にあるということに慣れていたのだと気づいた。

どうすれば、複数の学問で得た学びを結びつけて、メタ的な視点で考えることができるようになりますか? 少なくとも、どれくらいの学問を突き詰めればそれができるようになりますか? 普段どのような分野のどれくらいの量の本を読んでいますか? 読書する内容を覚えていられないのですが、書いて残しておいたほうがいいですか?
・・・> 最終回だからかいろいろな質問をぶっ込んできましたね(笑)。明確に答えられるのは私自身のことである3つ目の質問だけかな。普段は、お仕事で必要な専門書と、私にとっては知的娯楽ともいえる新書レベルの本を、週510冊くらい読んでいます。このところ体調によるムラが大きい。分野は、そのへんの人よりは絶対に幅広いと思いますが、それでも偏りはかなりあります。さあ、それ以外の質問にどう答えようか。そういってしまうと身も蓋もないですが、メタ的な視点で考えられるようになるかどうかは、人によるし時によるし場面によります。ちょろっと学んだくらいでは無理だと思いますので、大学の専門の学びにかなり力を入れて取り組んで、卒論を書くころにどうにかそうなればいいですね。読書する内容を「覚える」というのは、どういうことだろうか? もちろん論文やレポートを書いたり、報告書を作成したりしなければならないという明確なタスクがあれば、ノートを取りながら本を読むのは当然ですけれど、日ごろの読書でそんなことをしていてはおもしろくないと思う。ディテールは当然忘れ去るし、主題だって覚えていないことはよくあります(その本が肌に合わないとか、内容がスカだったとか)。

日本の生徒・学生の勉強時間が少ないというのは、自主性がないのか、課されたものが少ないのか気になった。私は好きなアイドルのせい(おかげ)で、勉強ができません。正直英語はツールだと思ってきたので、その思考により、第二外国語も話者の多い中国語にしようと考えたことがあります。でも結局、話せるようになるには自分が本当に学びたいと思うことがいちばん大切だと思いました。一方で、ツールと思って学んできた英語も、実際に活用できる機会があるたびに、学んでよかったと思えます。
・・・> 自主性もない(足りない)し課されたものも少なくなったと思います。ただ、昭和のガリ勉時代がよかったのかというとそうでもなくて、あれはやっぱり途上国型(キャッチアップ型)の学びでしたね。好きなアイドルのせい(おかげ)で勉強できないのは、いいな〜。♪それがほんの少しでもわたしのせいならいいな〜(NEW KAWAII

 
(左)ドイツ上空  (右)ギリシア上空

 

グローバル化が進んでいる現在、世界の情勢とそれを知る術である英語を学ぶべきであるということは、1年を通して納得できた。そのうえで私は世界史が好きなので、グローバルなことについて学ぶ際の「めがね」として、歴史学への造詣を深めようと考えた。

歴史教育について、たしかに歴史総合や世界史探究の授業でさまざまな地域どうしのつながりを意識するようにいわれ、それに苦戦した記憶がよみがえった。エクセルに貼りつければよいと先生はおっしゃっていたが、同時に今後はAIをはじめとするコンピュータの扱いに気をつけていきたい。

歴史総合が必修になった過程に右派が絡んでいたというのは意外だった。逆であるものだと思っていたからである。
・・・> おおざっぱにいうと、右派が日本史の必修化を強く推し、左派が巻き返しを図って推し戻した結果、両方の近代史を混ぜ込んだ歴史総合になった、ということです。左右の共同作品(笑)、ま、左右いずれも納得しがたい結果なのかもしれませんね。私が思うのは、右派・保守派の一部が日本史の必修にこだわるのはよくわかるのだけど、「従来どおりの日本史」を高校生全員に押しつけたら、日本史嫌いの生徒が増えるだけで、彼らがいうような愛国心や母国への誇り、自国に対する共通認識をはぐくむといった成果はむしろ遠ざかるよ、ということです。そうだと思わない?

アスリートに学ぶ外国語学習という話があったが、たしかにそうだと思った。言語を専攻している人ではなく、それぞれの現場で使っている人にノウハウを聞くというのは、実用性だけでなく物事の取り組み方に対する姿勢を学ぶことができると思った。

以前の私は、どうせAIが翻訳してくれるんだから自分が英語を学ばなくてもいい、という考えだったが、英語で海外の人と会話することの楽しさに気づくことができたので、今後も英語学習に取り組み、自分で会話できる力を身につけたいと考えるようになった。

AI翻訳があるから外国語を勉強しなくていいや、という日本人は増えそうだけど、それだと自分の言葉で深く語れる人にはなれない。翻訳機を使えば意味は通じるけど相手の心に響く話ができるかどうか、別の話だと思う。中身のある人間になるためには学ぶことが大切だと思う。
たしかにAIに、自分の代わりに外国語を話してもらうというのは楽だし、タイパもよいかもしれないが、自分の口から直接発することばでコミュニケーションを取ること自体に、私は意味を感じる。だからこそこれからも外国語の勉強を怠らず、AIを介さずに外国の人と交流したい。

AIによる翻訳は相当高度なものになってきていると思っていたが、話者のバックグラウンドやクセによって話者が伝えたい本来の意味が反映されないという点で、とくに会話ではAIが人間には勝てないと思った。

英語をわざわざ学ぶことの必要性が減ってきているということだが、たしかにアメリカなどでは学校で第二言語を選択できるのに、日本では必ず英語と決まっているのは、学びの自由を減らしているかもしれない。しかしナショナルな教育のためには偏りのない学びが大切であるし、英語が世界の基盤になりすぎているから、それを変えることは難しいし必要ないと思った。
・・・> アメリカ合衆国の公用語は英語なので、第二言語に英語がないのは当然で、日本だけでなくたいていの非英語圏の国では、英語が第二言語(第一外国語)として実質的に必修化されています。当面それは動かないので、もう学んでいただくしかありません。ひところ東欧の旧社会主義圏を歩き回っていて、冷戦終結時に20歳だった私よりも上の年代の人たちがほとんど英語を話せない(社会主義国の大半ではロシア語が必修だった)ことに、かなりとまどいました。イエス・ノーとかワン・ツー・スリーというレベルの英語ができないという人が、サービス業にも結構いたのです。私は「基盤」ではなく、共有スキルだと思っていますけれど、とにかくしばらくのあいだは英語の優位性が崩れることはありませんので、AIに代行させるのが嫌ならば自分で身につけるしかないでしょうね。

先生がChatGPTに大学教授だと認識されているというのを聞いて、それは本当なの!? ChatGPTにそういう識別機能ってあったの? と思った。よく考えてみると記事から情報を集めてくる以上、認知は普通にできるのだと考えた。
・・・> 小中高の先生と違って、大学の教員は氏名と専門分野と研究業績をウェブ上に公開することが必須なので(それに加えてこのサイトみたいに独自に公開する部分もある)、ネット空間を走り回って情報を採取・整理するAIにとってはワケもないことだと思います。2年くらい前は、私はプラズマ工学か何かの専門家と思われていたようですが、対話を重ねるあいだに、こちらも自身の境遇や属性を具体的に伝える機会が多くなりましたので、最近では当方のパーソナリティやクセもずいぶんわかってきています。

日本では世界より早く英語学習が頭打ちになるのではないかという情報を見て、将来さらに日本人の英語力が低下することに不安を覚えた。
・・・> 不安になるというのはそうなのかもしれないけど、「日本人」というカタマリに口がついていて言語を話すわけでもないので、自分の英語力がそれなりにあって話せればいいのではないかな。周囲が話せず自分は話せるという状況は愉快じゃない? (そういうことでもないのか)

日本は勉強時間が短いと聞いて、自分は中学校でたくさん勉強して高校受験したつもりだったけど韓国とかの超学歴社会の国に行ったらもっと勉強しなきゃいけないんだなと思い、そういう国の人たちはもっとがんばっているから、自分もがんばらなきゃと思えた。自分は外国で将来働いてみたいとも思っていたから、AIがあれば英語を学ばなくてもいいやと思ったことがなかった。外国で働きたいと思っていなくても、旅行に行くときなどに他の言語をしゃべれなかったら格好悪いから、自分は英語を学ぶと思う。
・・・> 勉強時間と聞いて「受験勉強」のことだと思ってしまうところがちょっと甘い。そうじゃないんだよなああ。試験がなかったら学ばないですか?(分野は問わないけど) そうなのだとしたら、これから厳しくなると心得て、本気で学びたくなる分野を見つけるようにしましょう。英語は当然として。そして、その前に、もう高校生活も終わりかけなので、「自分」なんていう変な一人称を書くのは卒業しましょう。レポートにそれを書いたら私は点数を下げますし、面接でいったら面接官は「むむ」と思うはずです(そいつが昭和の体育会系とかでなければ)。


欧州最高峰モンブラン付近

 

この1年間、現代社会論IIを受講して見て、やはり私は国際社会に興味があるのだということにあらためて気づきました。国家間の壁がどんどん低くなり、自由に行き来できる時代になったからこそ、大学に入学した後は国際情勢と英語を主に学びたい。とくに中国の情勢と言語に重点を置きたい。この授業を通して、中国と日本を交互に行き来できるような職に就きたいという夢にいっそう近づくことができました。元来のナショナルな内容に加えて、グローバルな内容も入ってくるとなると頭がパンクしてしまうので、自分の興味がある分野をしぼって学びたいと思う。とりあえず早く英検1級とりたいなあ。先生は言語を学ぶことが得意なのだと思いますが、コツがあれば教えてください。
・・・> 英検もだけどこのごろはTOEICのスコアをやたらと求められますよね。いいんだか悪いんだか。私は、言語(外国語)学習の劣等生なんではないかと思うくらいに不得意で、コツなるものがあるのなら逆に教えてほしいくらいです。たぶん万人向けのコツはない。学問にも外国語学習にも王道というのはないのです。「話してなんぼ」であるのは確かなので、1学期にいったように、上達するまで使わないなどというアホな発想をせず、下手でも半端でもかまわないからばんばん話すべきなのでしょう。(それで通じてしまうので深めるのをやめる、という悪弊があるにはあります)

大学生になってから、ひとりで海外に行きたいのですが、おすすめの場所はありますか? 安価で、ある程度安全であればうれしいです。
・・・> おすすめの旅行先というご質問には毎度おなじみの回答になります。自分の行きたいところ、興味をもったところや、興味のある項目に関係するところ(名所、建物、スポーツ、アート、料理などなんでも)に行くべきです。ただし海外(とくに日本語ゼロの環境)での行動に不慣れであるあいだは、日本からの直行便が飛んでいるところを選ぶとよいでしょう、というのも毎度の答え。直行便ならば、あちらの空港までは国内と同じような環境で落ち着いて過ごせますからね。ただ、安価で安全という縛りがつくとなると、もう韓国か台湾くらいしかなくなるかもしれない。香港やマカオも、欧州などに比べれば安全度は高いと思いますが、最近の香港はもろもろ費用がかかるんですよね。(安価で安全な海外はお台場、というネタは許してもらえないですよね 汗)

私はもとから海外を避けるような人間ではなかったが、積極的であるわけでもなかった。1年間を通じて、グローバル的な視点ってやっぱりカッコいいなと思った。いろいろな国に行ってみたいし、そこでの学びも大切にしたい。

世界情勢について、いままではニュースで少し見る程度だった。これからは、世界がどのように動き日本とどのようなかかわりをしていくのかを意識すると、知見や考え方が豊かになるのかなと思うようになった。

よいこと・悪いことは主観であり作用は一緒であるということを痛感した。物事の見方に対して重要な知見を得られた。先生の授業を通して、学問はつながっていること、さまざまな側面においても共通部分があり、それを見通せるようにする技術が学びを深めることを実感した。歴史総合の話は、自分自身が2年前に心の中で思ってたことだったので、聞いてすっきりするのと同時に、2年前とは違ったアプローチで学びたいと思った。現代社会論IIを通して、授業を受ける前とはまったく違った物事の捉え方や学びについて学習しました。大学に入る前にこのような授業を受けることができてよかったです。

1年間の授業を通してとくに印象的だったのは、国家を単数で捉えることの危険性でした。視野を世界に広げ、現代社会を見つめなおしたときに、内部のグラデーションや国家内にいる人々を一つのまとまりとして認識してしまうことの危険がとても強いと感じました。さまざまな民族や言語などがただその地域に集まっているだけなのに、そこにいる人々を私たちの勝手な価値観で決めつけてしまうことは、きわめて失礼に当たるのだと痛感しました。物事のよいところ・悪いところは、その物事にかかわる私たちの主観でしかないという先生の考え方に深く共感し、何ごとも「悪いものだから押しのける」のではなくいったん性質を見てから判断すべきだと、いままでの考え方が改まりました。知が血となり肉となる。ただの暗記ではなく、より本質的な学びを大学でさらにつづけていきたいと考えています。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう半ばですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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