古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études sur la société contemporaine II: «le monde en mutation / pour la perspective et la réflexion globales

現代社会論II
変動する世界/グローバルな視座と思考のために


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S203教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

202645月の授業予定
4
24日 国家の多様なかたち
5
1日 ナショナル・アイデンティティへの視座
5
8日 現代世界と言語(1):言語の考え方
5
15日 現代世界と言語(2):言語とアイデンティティ
5
29日 現代世界と言語(3):社会変動の中の言語

 


次回は・・・
5-
現代世界と言語(1):言語の考え方

ここから言語編に入ります。高等学校の学びにおいて言語language)について考察する機会は思いのほか少ない。英語の授業が結構ありますよというかもしれませんし、国語だって言語ですよねといわれればそうなのですけれど、ここでいうのは日本語・韓国語・中国語・タイ語・英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・・・ といった個別の○○語ではなく、「言語というもの」のことです。ちなみに英語のlanguageにはone language. two languagesというふうに数えることのできる可算名詞と、不可算名詞の用法があります。○○語という場合は可算名詞なので、I speak three languages; Japanese, English and French. というように複数形にすることができます。今回の主題である「言語というもの」は不可算名詞です。ただ、抽象的な議論をしていても進まないので、世界の各地域の言語状況を見ながら、言語というものについてあれこれと考察することにします。

日本は島国で、国内では日本語だけ(one language)が話されている、とシンプルに考えている人がいるかもしれません。いや、そのように聞くと「そうではないかもしれない」と気づくのでしょうが、無意識のうちに、自分の言語が国内どこでも通じ、他の言語が入り込んではいないとどこかで単純化しているのではないでしょうか。地続きの国境が普通である大陸では、言語の境目がどのようになっているのか気になりますね。境界線付近は複数の言語が混じり合っているのか、グラデーションのようになっていくのか、それとも境界線でスパッと分かれるのか。冷静に考えればわかるように、話されている言語の境界線などというのは大ざっぱな区切りでしかなく、実際には線で表現することなどできません。私の住んでいる新宿区は住民の2割近くが外国出身者で、おそらく母語(mother language)が日本語ではない方たちです。明確な外国人地区があるわけではなく、たとえばアパートの2階には別の言語を話す人が住み、そのお隣には日本語話者が住み・・・ というふうに上下左右で入り組んでいるのが普通だと思われます。2言語併存のブリュッセル(ベルギーの首都)でも、オランダ語話者とフランス語話者の居住区が分けられているわけではありません。町を歩いていると両方の言語が普通に聞かれます(場所がら、英語を話している人も多く見かけます)。多くの日本人は、国ごとに言語が分かれているというふうに考えがちなのですが、たとえば母語の異なる人どうしが結婚して子どもが生まれ、どちらの出身地でもない別の国に住むということもめずらしくないので、言語の分布というのはいうほど簡単ではないのです。

グローバル世界を考える際の「文法」を学ぼうというのが当科目の主旨でした。ただ言語というテーマでそういってしまうと、本物の文法(たとえば英文法)を学ぶのか、ということになってしまって混乱しますね。「言語の考え方」というふうにしておきましょう。○○語であれば数えることができるといいましたが、ある言語と別の言語を「2つ」と数える根拠は何か(たとえば方言とはどこが異なるのか)。社会科でよく出てくる公用語とは何か。また、公用語が2つあるという場合に、そこに住む人は2言語を話すことができるということなのか。ある言語と別の言語は近い関係にある(たとえばフランス語とスペイン語)というとき、その近さは何によって説明できるのか。インターネットの発達で、さまざまな言語に直接?触れる機会や可能性が増えました。近隣の言語でなくてもアプローチできるようになっています。言語を探して歩くというのは、グローバル世界を知るために有用な道筋ではないでしょうか。また、そうした思考や経験を通して、いままで主観的・感覚的に捉えていた「自分たちの言語」やその状況についてももっと立体的に見えてくるかもしれません。



REVIEW 5/1

アイデンティティという言葉は、いままでなんとなく使ってきたけれど、「自身を属性や所属集団に重ね合わせ、自分はその一員であると疑いなく思える感覚」と捉えると、納得がいくなと感じた。ナショナル・アイデンティティは、直接の知り合いでない人とも同胞になり、これらのもとになっている愛国心というのは公教育などで意図的につくられているというのが興味深かった。早稲田と似通った部分があると思った。ナショナル・アイデンティティは国民を一つにまとめる一方で、集団間の対立を激化させる可能性もあるんだなと考えた。

オランダ語とフランス語が話されているベルギーが、オランダとフランスに分かれて統治されるのではなく、国家として成立する要素として、言語・宗教・歴史の要素が不可欠であると知った。196ヵ国すべて成立している理由は、この三要素と深くかかわりがあると思った。国は広すぎて文化や言語も多少は異なっているのに、そこに属しているというだけで愛国心をもっている人が多い。言語に関して、話者が多いからと効率性を求めるのではなく、その国のアイデンティティを表して他の地域に呑み込まれないようにしていることに驚いた。

ナショナル・アイデンティティが必ず自然発生的なものなのではなく、言語・宗教・歴史によって形成されるものであることを、多くの事例を通して示され、とても意義を感じた。とくにベルギーの事例は、言語的に分断されていても宗教や歴史によって国家としての一体性が保たれていることを示していて、アイデンティティや多様性を理解するうえで役立つと感じた。また、愛国心は自然なものではないという指摘は、私たちが無自覚に受け入れている価値観をくつがえすものだった。ナショナル・アイデンティティは、人々のつながりを強めるとともに、対立を生み出す側面もあると学んだ。これからのグローバル化の進展によって、ナショナル・アイデンティティは弱体化するのか、それとも強化されるのか気になった。

授業を通して、ナショナル・アイデンティティは自然に生まれるものではなく、恐育やメディアによってつくられる面があるという点が印象に残った。私はこれまで国への愛着は当たり前に生まれるものだと思っていたが、国旗や国歌、歴史などを通して、明治時代あたりから意識的にかたちづくられてきたと知り、新しい視点だと感じた。またベルギーやイタリアの例から、言語や宗教が同じでも、必ず一体感が生まれるというわけではなく、アイデンティティは単純な要素だけでは説明できない複雑なものであると思った。そして「われわれ」という意識が、実際には経験していない過去の出来事によって強まるというのは、不思議さと危うさを感じた。ナショナル・アイデンティティは、人々をまとめる一方で、対立を生む可能性もあるため、その成り立ちを意識して考えることが大切だと思った。

日本にいるとナショナル・アイデンティティでいちばん重要な要素は言語であると考えがちだが、ベルギーやイラクの事例は、言語が絶対的な要素ではないことを示している。さらにナショナル・アイデンティティは近代国家による生存戦略としてつくられた、国家を維持・強化するための作為的なものであると捉えることができた。

ベルギーの北部とオランダは、言語は同じだが宗教が違うのがおもしろいと思った。言語・宗教・歴史の中で、アイデンティティの形成に最もかかわるのは歴史だと思った。
・・・> 言語や宗教という部分がはたらくことも、結構多いですよ。ネーデルラント(「低い土地」の意味で、現在のベルギーとオランダを含んだ)は、16世紀後半までハプスブルク帝国領でした。しかし1568年にネーデルラントの諸侯が結束して、独立戦争を挑みます。このころハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれていましたが、ネーデルラントの宗主権をもつのはスペイン系でした。しかし長期にわたる戦争の中で、スペインと同じカトリックの信仰をもつ南部10州は、プロテスタントを信仰する北部7州と意見が分かれ、スペイン領に残留することを望んだため、ネーデルラントは分割されました。1648年のウェストファリア条約で北部7州の主権国家としての地位(スペインからの完全独立)が承認され、ネーデルラント連邦共和国(のち王国)を名乗りますが、南部10州はその後もずっとハプスブルク領として残留、ナポレオン戦争後にネーデルラント王国に無理やり併合されたのでカトリックの人たちのストレスが増大し、1830年に独立戦争を起こしてベルギー王国の誕生となりました。こうした経緯を見てくると、ベルギーのナショナル・アイデンティティとして重要なのは、宗教(カトリック)に加えて、400年以上もオランダとは別の国家としての歴史を歩んできたという点もありそうですね。

ナショナル・アイデンティティの三要素は言語・宗教・歴史とありましたが、「実際には、場合による」ことがよくわかりました。今回の授業だけだと、その三要素に合うやつを見つけるほうが難しいです。
・・・> 正確にいいますと、言語・宗教・歴史の配分はその国民による、ということです。だいたいのナショナル・アイデンティティには3つの要素がそれなりに含まれています。


ベルギー連邦議会議事堂(ブリュッセル)

 

前回の授業で、国家内国家に住む人々のアイデンティティについて疑問を感じたが、今回の授業を通して、私自身にも向けられるものだと気がついた。また私たちのアイデンティティは公教育やメディアによって人工的につくられているとあったが、たしかに普段は日本人であることをあまり意識しないが、オリンピックやワールドカップなどの場面では、急に自分が日本人であることを強く意識することがある。メディアの力によって、周囲の状況で変わってくる側面ももっているのではないかと思った。

今回の授業にとても納得しました。とくに自分がなぜ日本を愛しているのかというところです。この愛国心は自然に生まれてきたものだと考えていました。しかしそれは教育によって育てられたものだと痛感しました。国のことを知ることで愛着が湧いてくる。だから社会科で地形や気候を学び、国のイメージをつかめるようにさせるねらいがあったのだとわかりました。

今回の授業では、ナショナル・アイデンティティが人々をまとめる力となる一方で、自分たちと他者を分け、対立や偏見などを生み出す原因にもなるという点が印象に残った。とくに民族対立や国家間の争いの背景に、そうした意識が関係しているという説明から、普段なにげなくもっている国家の帰属意識にも危うさがあると感じた。一方、国旗や国歌、歴史や英雄などを通して意図的にアイデンティティがつくられてきたものであれば、それは社会を安定させるうえで必要なものではないか。むしろアイデンティティを弱めることがよいことなのか、そのバランスはどのように考えるべきなのだろうかと思った。

私たちのアイデンティティに深く関与しているナショナリズムは、ときに異常なほど強い力を発揮する。たとえば戦争において国民が動員される場合、国民にあるのは、自分個人として参加するという意識より、国の一員として国に貢献するという国家主軸の視点だろう。人間の精神力の範囲ではとうてい考えられない悲惨な行為をも可能にするナショナリズムの根源が、とても身近な言語や宗教、歴史にあるということが、なんだか不思議に思えてくる。
・・・> そうですね。でも、そうやって日常生活とか「自分たちのあり方」と世界規模での事態や戦争などを地続きのものとして捉える視線が、文系の学問を志すのであればぜひほしいところです。それと、他国との戦争というのは思いつきやすいのだけれども、実は自国の内部におけるマイノリティ(あるいは別の属性)の差別や抑圧に対しても、異常なほど強い力を発揮しうるのだということも、この機会にぜひ考えておいてください。

私が国に属しているのだというアイデンティティは自然にできるものだと考えていたが、都道府県ですら明治時代につくられた、比較的新しい区分であり、県民意識はあとから形成されたものだと知り、国民意識が人工的なものであるという考えに変わった。また集団に属しているのは私自身なのに、私のアイデンティティの中にその集団が含まれるというのは、とても疑問で、興味深かった。

最近よくインターネット上などで愛国心という言葉を耳にしますが、自然な愛国心は不可能であるという話には共感しました。しっかり考えて、どのような愛国心をもつのか、もたないのか判断していくべきだと思いました。
・・・> 「判断していくべき」なのは誰でしょうか。レビュー主自身であれば、少なくとも自分自身の愛国心は理屈ではなく感情に根ざすものですから「しっかり考えて判断」するのは変ですし、世の中の人たちがそうあるべきだというのだとすると、それはいっても無駄というか無理。世の中の人たちに「こうあるべきですよ」という呼びかけや指示は誰にもできません。

今回の授業はヨーロッパ中心だったので楽しかったです。イタリアの話のときに出たサルデーニャには行ったことがあったので身近に感じました。

国をはじめとしたナショナリズムの存在についてあらためて考えた。どうして世界全体で、ここまで国と自分を結びつけ、他のものを敵対視するように至ったのだろうか。言語・宗教・歴史の3つだけでなくいろいろな要素があって、断言できなくて当然だった。自分のアイデンティティは何か、何を重視しているのかを考えてみたい。
・・・> 自分のアイデンティティは何かというのは大事な問題ですので考えてください。ただ、今回の主題であるナショナル・アイデンティティというのはnationalすなわち国家単位のものですので、そこに限定するならば、日本人としての強いアイデンティティが、あるかないか、ということになります。なお前回の当欄でも指摘しましたが、そこは「国」ではなく「国家」。今回のテーマに即するならば、なおさら国家でなければ話がつながりません。


ヨシップ・イェラチッチ総督の騎馬像(クロアチア ザグレブ)
クロアチアは長くハプスブルク帝国の一部で、主権国家化は1991年とかなり遅い
市の中心にシンボルとして置かれる像の人物も、ハプスブルク皇帝のクロアチア人臣下という微妙な立場だ

 

ナショナル・アイデンティティがどのように形成されるのかを学び、これまで当たり前に思っていた「国への愛着」や「帰属意識」が、必ずしも自然に生まれるものではないという点が、とくに印象に残った。人工的なものなのに、自然生成だと思われているのはなぜですか。
・・・> 人工的につくったといっても、特定の誰かがやったというわけではなく、数世代にわたって、それこそ国家ぐるみで取り組んでいることですので、国民の側はいつのまにかそうなったように思ってしまうのではないでしょうか。それ以上に大きいのが時間の経過だと思います。ナショナル・アイデンティティが大半の国民に備わったあとで生まれ育った世代は、エラい人たちから仕込まれることはもうないですけど、家族や友達や先生やそのへんの人たちがすでにナショナル・アイデンティティや愛国心をもっている前提で育ちますので、もう生まれながらにどんどん身につけていくのでしょう。

今回の授業で私が感じたのは、ナショナル・アイデンティティに対する違和感を言語化しているところだった。さらに、国家への帰属意識というのはスケールが大きすぎるという指摘が大切だと思った。自分が所属しているという感覚のあるグループはある程度小さいが、日本中の人々を知っているとか、東京のすべての地域に行ったことがあるわけではない。それでも日本や東京に対して「自分たち」という感覚が成立している。このギャップを考えると、ナショナル・アイデンティティはかなり抽象的で、ある意味で想像上の共同体に近いものなのではないかと思った。
・・・> お、想像上の共同体と表現されていますが、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」(the Imagined Community)という考え方をご存じなのでしょうかね。アンダーソンが主に研究対象としたのは東南アジアですが、本のタイトルにもなっている「想像の共同体」というのは国民国家(この下のほうで解説しています)を表しています。フィクションだ、という趣旨ですね。出版や新聞などのメディアが想像の共同体の形成を可能にしたというのがアンダーソンの見立てで、私もそこに着想を得ました。

ある集団の一員であるというアイデンティティは、気づいたら感じていて、他の集団と対抗したときに強く感じさせるというのが不思議な働きだと思いました。また国家規模のナショナル・アイデンティティは自然発生的には生まれないというのが興味深かったです。アイデンティティは言語化するのが難しいと感じていたのですが、「集団の一員」という意識は国家やメディアの意図的な文化や話の共有で生まれたというのが、驚きと同時に納得でした。そのように発生したものが対立を生み出し、歴史に大きな影響を与えることになるため、アイデンティティの強固さを感じました。

なるほどナショナル・アイデンティティはつくったものだったか。いろんな国がナショナル・アイデンティティを育もうとしている。たしかに、あったほうが何かとやりやすいし便利。だから、ちぐはぐでデコボコ。NOTアイデンティティの基準である「○○でない」は、どうしても○○の変化に影響を受けてしまいそう。今回見た中で最も不安定なアイデンティティ基準だった。

私はアメリカで生まれたのですが、だからといってアメリカに対するナショナル・アイデンティティをもっていません(当たり前か)。ナショナル・アイデンティティは、「人為的に」「自然につくられたように」生成されていたものだとわかりました。要は、お前は○○人だというふうにいろいろなところで刷り込まれていたんですね。

私は帰国生で、日本に長く住んでいないからか、親や友人たちよりもナショナル・アイデンティティや愛国心が弱いように思えました。そういった感情や意識がなかったので、今回学べてよかったです。

この授業を受ける前まで、私はどちらかというと日本人というナショナル・アイデンティティを強く感じ、一種の誇りともしていました。2年ほど前まではそれがあまり強くなかったのですが、1年前にニュージーランドに留学した際に、What’s your nationality ?と何度も聞かれたことで、日本人というナショナル・アイデンティティが強く芽生えました。

ナショナル・アイデンティティが公教育とメディアによってつくられたというのはおもしろいと思った。昔から○○、△△、□□(実際には具体的な国名が入ります。古賀注)は悪い国という認識だった。何が悪いのかも説明できないのに、悪いと思い込むのはよくないと思った。

私の、日本に対する愛が最も大きくなるのは野球やサッカーなどで日本代表が他国の代表と戦っているときだ。私の祖父母や高齢者に愛国心が強い人が多いと感じるのは、戦争という、日本と他国の戦いを通じて、愛国心が強くなったからだと感じた。私が出身県に対して誇りや愛をもったのは、高校生になって埼玉県に住むようになってからだ。日本人としてのアイデンティティの確立には、海外に行って住むことが大事だと考えた。
・・・> いまの高齢者のかなり多くは戦後生まれか、せいぜい戦中生まれで戦争の直接の記憶がない方です。時代感覚がちょっとズレていませんか? これは個人的な見解なので支持しなくても結構ですが、「日本人としてのアイデンティティの確立」って、そんなに大事? もう結構できているんじゃないですか? これ以上に何か作為的に高めたら、どこかとのトラブルになるのでは? 「ナショナル・アイデンティティは大きい(強い)ほどよい」と信じていて、みんなもそうなのだと思っているのだとしたら、(最終的にそういう結論になってもかまわないけど)感情ではなく知的な学びを研ぎ澄ませてほしい。

愛国心はあるほうだと思っていて、気づいたらもっていた。それがなぜかよくわかっていなかったが、授業を通して不思議なものだなと感じた。地理で、もともと長野県にあった村が岐阜県になった話題を学んだが、いまでも長野県を応援してしまうと村人がいっていたので、親しんでいるかどうかもアイデンティティ形成に重要なのかなと考えた。

ナショナル・アイデンティティの要素として私が最も大切だと感じたのは歴史でした。宗教はあまり身近でなく、言語もあまり触れられることがないけど、歴史はよく話されることなので、すごく大事だと思いました。
・・・> それは違うんじゃないかな。「私が最も大切だと感じた」といっていますが、そういう問題でもないような気がします。レビュー主という一個人にとって宗教や言語の話題が身近にないからといって、それが一般化されることはありますまい。そもそも世界規模の話をしているのに、個人の感覚をそこに持ち込んでもうまくいかないことが多いですよ。授業内容はかなりハイレベルで、なかなか理解が及ばないところも多かろうと思いますが、誤りを恐れずにこうやって少しずつ修正しながら、チャレンジしていきましょうね。

 
(左)ウェールズ カーディフ・ミレニアム・スタジアム 主にウェールズの「国技」ラグビーの試合場として使用される
(右)アイルランド ダブリン市内の掲示 注意書きがアイルランド語と英語の2段で示されている

 

NOTアイデンティティという概念がおもしろいと思った。私はずっとアイデンティティ=「○○である」だと捉えていたため、そういう視点もあるのだと気づいて、新鮮だった。この授業を受けていると、自分がいかに一つの視点に囚われているか気づかされることが多い。

NOTアイデンティティという考え方に感銘を受けた。以前、自分とはだれなのかについて友人と話したことがあり、そのときに「少なくとも○○ではない」と考えよう、という結論になった。アイデンティティは何かと比較して生まれるのだと仮定すると、○○である、というのは結論であり、そこから比較するのはおかしなことだ。少なくとも○○ではないという比較があってこそ、アイデンティティができあがるのではないか(アイデンティティが必要か否かは別にして)。では、それを成すために何が必要かというと、知識だと思う。歴史も宗教も言語も地理も、私には知らないことが多すぎる。いままではあいまいに捉えて、日本人だというナショナリティをもっていたが、あらためて日本と世界を知ったうえで自分のアイデンティティを考える必要があると思った。私は歴史が好きだが、日本と世界とを分けていた。これからは各国史など、日本の身に限られない視点をもっていきたい。
・・・> 補足すると、○○ではない、という図式があればなんでもNOTアイデンティティになるわけではありません。たとえばフランス人が「自分たちはドイツではない」と当たり前のことを思ったり、ドイツに対抗意識をもったりしたとしても、それは「敵やライバルの存在が育てるアイデンティティ」であり、私の三要素でいえば歴史によって仕上がったものです。私がNOTアイデンティティといっているのは、ある国家や民族の一部が、なんらかの事情で独立したとか、独立したがっているというような場合のことです。授業ではロシアに対するウクライナ、イングランドに対するアイルランドを示しました。別の例を挙げれば、中国に対する香港人のアイデンティティ、トルコやイランやイラクに対するクルド人のアイデンティティ、中東各地(イラン以外)におけるシーア派のアイデンティティなど。

ナショナル・アイデンティティの三要素が紹介されたが、私はそこに「経験」も入るのではないかと思った。なぜなら自国と他国を比較して育まれるアイデンティティもあると考えるからです。また、ナショナル・アイデンティティは、公教育とメディアによって醸成され、それが発達したのは近代だったという話がありましたが、それより前にナショナル・アイデンティティはなかったのでしょうか。かつて日本は、いくつもの国に分かれていましたが、戦争などを通して自国愛が強くなる、ということはないのでしょうか。
・・・> レビュー主が経験といっているのは、私の考えでは言語・宗教・歴史のどれか(あるいは複数)に含まれます。比較するのはそれらの項目ですからね。後段、いま私たちが議論している意味でのナショナル・アイデンティティは、近代以前にはありません。「国家の三要素」のほうに含まれる国民(nation)が不在だからです。国家はあるけれど国民がいない状態が、近代以前の世界です。欧州でもアジアでも日本でも、王や権力者や有力者、それに知識人や広域商人などは、「うちの国は」という意識と愛国心、他国へのライバル意識や敵意などをもっていたはずですが、人口の大半を占める一般民衆は、そもそも自分たちの居住地を離れることがめったにありませんし、国の外にまで視野が及びません。日々の生活も苦しかったと思われます。「俺たち○○人だ、△△人はむかつくからやっつけようぜ!」なんていう意識が生まれるはずがありません。歴史をたどるとわかるのは、百年戦争終結(15世紀)あたりから、まず入れ物としての国家が頑丈な外枠(国境)をもって現れ、互いに争うようになります。ウェストファリア条約はその延長線上にあります。そののち欧州各国どうしの戦争が繰り返されて、その国家内の純化が進みますが、本格的なnationの形成は、産業革命と市民革命の中で生み出されました。とくにフランス革命とナポレオン戦争が重要な契機となっています。そのようにして形成された近代国家を国民国家Nation-State)といいます。これは近代に固有の概念で、national identityはその重要な要素となりました。くに(国家)があれば国民がいるのが当然だ、という感覚がすでに国民国家以降の考え方に沿ったものになっています。(私の大学院時代の研究テーマがまさにそのあたりでした。本当は国民国家も重要な概念なので当科目で扱うべきなのでしょうが、話がややこしくなりすぎるのでカットしています)

NOTアイデンティティという考え方がとても興味深い。この発想は、対立関係の中でこそアイデンティティが強まるという現象をうまく説明していると思った。同時に、差別につながりやすいものだとも感じた。ナショナル・アイデンティティが強まると、いったいどのような社会問題が生まれるのか。ナショナル・アイデンティティにはもちろん悪い影響もあるが、大きければ大きいほど国の団結力も上がるはずなので、私は大切だと思った。

 
ご存じパルテノン神殿(ギリシア アテネ) ホテルの朝食会場の窓からさりげなく見えていたのがよかった・・・
古代のポリスと現在のギリシア共和国に直接のつながりはないが、オスマン帝国から独立したギリシアにとって
世界に誇る古代文明の栄光というのはこれ以上ない誇りとして共有された

 

日本には落下傘君主の概念がないから、他国から来た人が多になるということに驚いた。日本の天皇と違って、血筋はそこまで大事ではないのかどうかが気になった。

歴史に関する質問です。カタルーニャ地方の話で、1700年前後にカスティーリャ王国が併合、圧迫したとありましたが、カスティーリャ王国は1400年代末ころのレコンキスタ完了のときに、アラゴン王国とスペイン王国になっています。当時カスティーリャ王国はどのように存在していたのですか。
・・・> いま「スペイン」と呼んでいる地域の中世後期からの歴史はかなり複雑で、同君連合(君主は同一だが国家・政府は別)や国家内国家もありますので、骨だけを示します。カスティーリャはレオンを併合して強大化し、イスラーム勢力を追い出して、15世紀後半には王権の強化が図られました。対して同時期のカタルーニャは、これ自体が一人の君主をいただく「国家同盟」でした。農村部を統治するアラゴン王国と、地中海岸の交易都市にあるバルセロナ伯領が連合したものです。世界史の教科書では、1492年にカスティーリャのイザベルとアラゴンのフェルナンドが結婚して「スペイン」になったとかなり簡略に記述されることが多いのですけれど、フェルナンドはアラゴン王兼バルセロナ伯であり、いわば3つの君主国が2人の王をともにいただく新たな国家連合が誕生したわけです。スペイン(スペイン語ではエスパーニャ)王国と称してはいたものの、内政面に関しては旧来のカスティーリャ、アラゴン、バルセロナがそのまま残存しました。17世紀末、スペインをわがものにしようとしたフランスのルイ14世は、自身の孫フィリップを、後継者のいなかったスペイン王アブスブルゴ(ハプスブルク)家の跡継ぎに送り込もうと画策、これに対してフランスの強大化を阻止したいイングランドやオーストリア(神聖ローマ皇帝で、ハプスブルクの本家)が異を唱え、スペイン継承戦争が勃発します。独自の交易網をもっていて自治の精神に富んでいたアラゴンとバルセロナは、ルイ14世の影響力によって自治がつぶされるのを恐れ、カスティーリャに反旗を翻しました。これをイングランドやオーストリアが支援して、激しい戦争になっていきます。しかし、イングランド・オーストリア・アラゴン・バルセロナの側が推していたハプスブルク本家のカールが神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、こんどは「大ハプスブルク帝国が復活しちゃうぞ」となり、連合王国(この間にイングランドとスコットランドが合体)が一気に冷めて、手を引いてしまいました。見殺しにされたアラゴンとバルセロナは、フェリペ5世のカスティーリャに徹底的に攻撃され、余力を失って降伏します。この1713-14年を最後に、アラゴンとバルセロナの自治は奪われ、スペインの権力はカスティーリャに一元化されました。そんなわけで、カスティーリャ王国は中世からずっと継続し、拡大して、こんにちにいたっています。連合王国におけるイングランド、ネーデルラントにおけるホラントなどと似て、いわばスペインの本体部分なのですね。私たちがスペイン語と呼んでいる言語は、したがって本当はカスティーリャ語です。なにげに「カステラ」の語源だったりします。

カトリック圏とプロテスタント圏で料理のおいしさが違うというのが印象に残り、なぜそのようなことが起こるのか疑問に思いました。
・・・> これはネタですからあまり真に受けないように。ま、でも、欧州でしばしば耳にするポピュラーなネタではあります。

トランプがグリーンランドをアメリカ合衆国に併合したいというのはおかしな話だと思った。今回の授業で扱われたナショナル・アイデンティティはないし、それはただの侵略であるように思える。別の大国に取られるよりはましだと思うが、いまの形のままグリーンランドがつづくのが最善だと思う。

ナショナル・アイデンティティの中には、独裁者によってつくられるものがあり、それは弱いとありましたが、一人のカリスマ性によってtくられたアイデンティティは結局その人がいないと効力を失い、世代を経ることで支持者の認識も変化するので「自発的みたいなアイデンティティ」という要素の他にも、こうした弱さがあるのかなと思いました。

ナショナル・アイデンティティにうさんくささや違和感を覚える理由は、自然発生的なものでないから、という説明にはとても納得がいった。先生は「聴けよ!トランプ」ということで、自然発生ぽくない建国神話はあまりうまくいかないとおっしゃっていたが(そのとおりだと思った)、自然発生ふうの建国神話は、もうつくりにくい時代になっているのではないかと思った。

グローバル化が進むこの世界では、ナショナル・アイデンティティは強まると思いますか? それとも弱まると思いますか? 私は逆に強まると思います。
・・・> よい質問だと思いますが、大事な要素が抜けています。誰の(どの国民・民族の)ナショナル・アイデンティティが強まる/弱まるという点です。本当は、アイデンティティは個人に属しますので、強まる人もあれば、弱まる人もあって、どちらの割合が高くなるのかというのが正確なところです。グローバル化の進展は、ナショナル・アイデンティティにしがみつく人を一時的に増やします。いまの欧米や日本はそういう傾向にあります。ただ世代が変われば弱まることが予想されます。ナショナルなものが自分(たち)のマイナス要素になっていく面が増えていきそうですからね。


北京と香港を結ぶ高速鉄道の香港側のターミナル 西九龍駅
香港特別行政区の旗(左)と中華人民共和国国旗の五星紅旗が並んで掲揚されている

 

国歌の話題で、フランスや中国の国歌には「敵」があることから、人々を結びつける力として強力なのは「共通の敵」なのではないかと思いました。

国歌には国民に愛国心をもたせるという目的もあったのだと気づきました。とくにフランスの国歌は大戦時のドイツに対してのものだとすぐにわかりました。そこで、日本の国歌にはどのような意見があるのか気になりました。
・・・> おっと、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は、たしかにドイツを敵視したような内容になっていますが、第一次・第二次世界大戦期のものではありません。フランス革命のときで、実際に敵視しているのはオーストリア帝国。

国旗の由来に歴史的要素が多く含まれていることに驚いた。とくにイタリアとフランスの国旗が似ていて、イタリア国民は国旗に独自性がないことに反感をもつ人はいないのかなと考えた。
・・・> 緑・白・赤の三色旗は、ピーマン・ピザ・トマトソースなのでイタリアっぽくていいじゃないですか(ウソ)。

イギリスやフランスの国歌を初めて聴いた。とてもよい経験になった。日本の国歌とはメロディやテンポがまったく違っていて、個人的にはフランスの国歌がかっこよかった。日本の国歌がいつ、誰によってどのようにしてできたのか気になったので調べてみようと思った。

生まれてから今までずっと日本に住んでいたので、日本人はだいたいの人が日本語を話せるのは当たり前という世界でした。しかし今回の授業で、ナショナル・アイデンティティは言語以外でも、宗教・歴史などでも形成されるということを知れてよかったです。またナショナル・アイデンティティを形成させるために、音楽を使ったり、かるたにしたりという工夫をしていて、私の生活にも活かしたりできるなと思いました。
・・・> 活かすって、何をどこに? 今回のテーマはかなり難しい(大学2年レベルかな)ので、おそらくさっぱり理解できなかったというところでしょう。それは無理もないことですが、大学2年になったころには追いつけるように、新聞や本を読んで思考力を強化しような。

ナショナル・アイデンティティを自分の母国日本に当てはめて考えたとき、第二次世界大戦や原爆といった悲劇的なストーリー(歴史)によって、日本国民としての一体感や連帯感が生まれていると思いました。そういった戦争の悲劇的な記録が語り継がれていることで、人々の記憶に定着し、「日本を大切にしよう」という思いや誇りができているのではないかと思いました。
・・・> それは正しいと思う。ただ実際の物事の半面では正しい、ということでしょうかね。2点指摘します。(1)原爆はともかく第二次世界大戦を悲劇的な記憶として語り継ぐのは、戦後すぐからこんにちまでつづいていますが、日本側の侵略や暴力的な事案についてはあまり語り継がれません。日本軍の侵略を受けた国・地域では、逆にそれが「悲劇的なストーリー」として語り継がれ、反日アイデンティティの中核をなしているということに、気づいているでしょうか。(2)九段下の昭和館などを見学すると、戦争で悲惨な思いをした→日本を大切にしよう という流れはそのとおりだと思えるのですけれど、最近の右派勢力の中には、戦争の被害経験よりも「日本は侵略ではなく尊い貢献をしたのだ」「戦没者は日本の尊い戦争に生命をささげたのだ」といった戦時中に回帰するような考えを隠そうとしない人たちが増えています。あなたがどの考えを支持してもよいけれども、社会観察はきちんとおこなって(SNSは使わないほうがいいですよ)、いまの日本でどのような勢力がどんな考え方をしているのか、新聞レベルの知識はもっておいたほうがよいと思います。

「やられた側」のルサンチマンによる国民の一体感という例を知り、日本にもそのような例があるのか知りたくなりました。日本におけるナショナル・アイデンティティは、日本語(言語)+宗教+天皇家(歴史)から成り立っていると考えました。
・・・> 天皇家は、いまでもそうなのかなああ?

日本人のアイデンティティは、先生の考える言語・宗教・歴史のうちどれに当てはまりますか? 私は言語だと考えます。日本語はかなり特殊な言語だと思いますが、そのぶん日本国民であることを、日本語は強調していると考えます。
・・・> まず、私が提案している三要素というのは、そのうちどれか一つがそれぞれの国民に当てはまるというものではありません。たいてい三つとも含まれるが、国や地域によって割合が異なってくるということです。日本人のアイデンティティにも三つすべてがかかわっています。さて、「日本語はかなり特殊な言語」というのは虚構(フィクション)であり、妄想のたぐいです。どこでその知識というか考えを得ましたか? どれくらいの他の言語との比較をおこないましたか? メディアや学校を介して、誰かが「特殊だ」といっているのを繰り返し聞かされて、なんとなくそう思い込んでいるだけではないですか? 日本人のアイデンティティの要素として、日本語という言語が大きくかかわっていることは間違いありません。でも、顔かたちが欧米や中東の人が、日本人並みにぺらぺら日本語を話しても、その人を「自分たちの仲間、同胞」と思えるでしょうか。日本語で会話していて顔も日本人ぽかったので、日本人だと信じていた友人が実は別の民族だったと知った瞬間に、「仲間、同胞」の外に押しやったり、しないでしょうか? あちこち突っ込みどころがあるのだけど、レビュー主がいってくれているようなところは、日本人全般に共通する傾向であることは間違いありません。つまり日本人のナショナル・アイデンティティとして最も有効な説明は、「日本以外の場所で通用しないような「日本人観」をなぜか強く共有して、盲信している」ということなのではないかと思います。(半分冗談なのでショックを受けないでくださいな)

アイデンティティとは何か、ということを考えると、これまで学んできた国家というものが一人ひとりの国民を成り立たせる重要な枠組になるということがよくわかる。その国民感情の根底にあるのは、言語・宗教・歴史またはシンボルなどであるが、前回学んだように国家内国家や植民地、併合された都市などでは、はたしてみな通ずるアイデンティティの要素をもっているのだろうか。また言語や宗教という、現在の自分に由来のあるもので意識が生まれるのは容易にわかるが、過去に(同じ?)アイデンティティをもっていた人々から意識が生まれるというのは、どのような理由なのだろうか。歴史上の集落や藩、戦争などを通して、共同体の意識が生まれたからだろうか。愛するためにはそれを知らなければならないということから、前述したようなシンボルを皆にわかりやすく示すことや、学校の授業で言語や歴史を学ぶことでのアイデンティティ形成の意味を考えることができる。アイデンティティの一つとしてではなく、個人から見た客観的な国について考えてみたい。
・・・> 国家内国家や植民地、未承認国家を取り上げる際に、私が「主権国家ではないが国家だ」というスタンスで説明するのは、まさにそれらにコミュニティ(あるいは国家)としてのアイデンティティが強く共有されることがあるからです。台湾はたしかに中国史の一部に含まれるが、中華人民共和国の領土になったことは一度もありません。カタルーニャでは、スペイン語ではなくカタルーニャ語(別の言語)を第一公用語として、自分たちはカタルーニャだというアイデンティティをもつ人がマジョリティです(ただ国際商業都市であるバルセロナになると、そうではない人の割合が少し増えます)。エストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国は、それぞれ言語も宗派も異なるのですが、1940年にソ連の無法な要求に屈して強制的に併合され、半世紀ものあいだ耐え忍んできた(そして三国の結束で主権を回復した)という共通の歴史認識をもちますので、ロシア帝国や旧ソ連の一部ということではなく、「バルト三国」としてのアイデンティティを、各国それぞれのアイデンティティとともにもっているといわれます。本当に「場合による」ので、こうだと安易に決めつけたくなる誘惑に駆られたら、イコちゃんの顔を思い出してください。


バッキンガム宮殿(ロンドン) 日本でいう「皇居」に相当する、国王チャールズ3世のお住まいになる宮殿

 

 

REVIEW 4/24

私はいままで、国家には、これが当てはまれば国家として認められるというような明確な定義が存在するものだと思っていましたが、今回の授業を受けて、いろいろなあり方があり、単純なしくみで理解することはできなくて、難しいけれど多様でおもしろいと思いました。また国家の中の国家に属している人々のアイデンティティはどのようになっているのか疑問に思いました。

公共の授業では、国家とは主権・領域・国民という定義や要件を満たしているものと習ったので、ずっとその認識でいたけれど、今回の授業を聞いて、国家は教科書的な定義では捉えきれないなと実感しました。国家が国家であるためにという要件の「国際社会のコンセンサス」というのがとくに印象に残りました。定義に合わないから間違いというわけではなく、現実をそのまま眺める姿勢が重要であり、それはややこしいというより多様であるということなんだなと思いました。

国家の中に国家がある、世界に認められない国家がある、といった世界の現状を知って、世界は自分が思っているよりも複雑で、いままで学んできた世界に関することはほんの一部だったんだなと感じた。
今回の授業で、国家というものは、自分が思っていたよりもあいまいで、さまざまな形があるのだと知った。とくにスイスのように一国の中に強い権限をもつ地域があるところや未承認の国家があることから、何をもって国家とするのかは難しいと感じた。またカモノハシ理論がおもしろく、興味深かった。世界のしくみも単純なルールに当てはめることができないという考えに納得した。西サハラのモロッコ支配は国際法違反ではあるものの住民票の作成が困難であることや、重要な資源が何もないのでとがめられていないというのもおもしろかった。世界の情勢の難しいところは、一つを許可してしまうとすべてに影響してしまうところだと思った。

国家というのは他国と関わるときには、認められているかどうか、主権をもっているのかということが重視されるが、実際に国家はどのような要素があれば国家といえるのかがあいまいで、一言に国家ということの難しさを感じました。国家として認められていない場所でも、主権国家と同様に人々が暮らしているところもたくさんあり、基準に当てはまらないものもそう思うしかないというカモノハシ理論にとても納得しました。主権国家は領域の大小にかかわらず対等という建前でも、実際には国連の常任理事国の承認が重視されていることや、かつての列強が他の地域に影響を及ぼした痕跡が多くあり、国交や自分の国を守るということも考慮しながらやっていく難しさを感じました。アメリカや中国などの顔色をうかがいながら方針を定めるというのは、仕方ないと思うと同時に、それでいいのかという疑問も感じました。
今回の授業では、国家という存在を定義することの難しさが印象的だった。カモノハシ理論では、既存の枠組に無理やり当てはめるのではなく、現実の多様性をそのまま受け止めることが大切だと感じた。国家は主権・領域・国民の三要素で成り立つと思っていたが、スイスのカントンやUAEなどの事例を見ると三要素では十分に説明できないのだと知った。また西サハラや中国などの事例から、歴史や政治によって国家としての扱われ方が左右されることも印象に残った。国家の定義は、単に定義づけられているのではなく、国際関係や権力構造と密接に結びついていることが理解できた。

固定的な定義では捉えきれない国家の多様性について学んだ。とくにカモノハシの例を用いた「例外をそのまま受け入れる姿勢」は、グローバル社会を理解するうえで重要だと感じた。またスイスのカントンのように、国家の内部に主権的要素をもつ単位に存在する例や、アラブ首長国連邦やタンザニアなど複数の国家的要素の集合体としての国家も印象的だった。全体として、国家という概念は非常に流動的で、相対的なものであり、単純な三要素だけでは説明できないということを実感した。

 
ルクセンブルク大公国の首都ルクセンブルクの市内
一人あたりGDP10年以上も世界トップを独走する豊かな国 いまは紛れもない主権国家だが
かつては神聖ローマ帝国の国家内国家で、19世紀からしばらくはオランダと同君連合(王は同じだが政府・国家機構が別)を組んだ
かつてのルクセンブルクは女性が大公位を継承することが認められなかったため、オランダに女王が誕生したときに国家を分離
小さな主権国家として歩んでいく決意をしたのである(現在の憲法では女子継承が認められている)

 

理系科目の公式などについては「なぜそうなるのか」を理解することが重要だとずっと教わってきたので、グローバルな世界を学ぶときは「ありのまま」受け止めるカモノハシ理論の姿勢が有効だと知り、少しとまどいました。またスイスやアラブ首長国連邦など、これまでは一つの国家として単純に捉えていたが、それは一つの観点に囚われた見方に過ぎなかったことに気づいた。
・・・> 国家のあり方に関しても「なぜそうなるのか」を理解することがきわめて重要です(今回はその作業をしたつもりです)。ただ、「三要素」みたいなもっともらしい定義を覚えて、それに合うかどうかの一面だけで処理する人があまりに多いので、「合わなくても国家であるかもしれないよ」といっているわけ。

主権国家というのは外部からの見方で、国家は内部の人の見方なのかと考えた。よって私たちは、内部の人が見る「国家」を受容するか、しないかは自由なのではないか。なぜなら私たちと実際に向き合っているのは主権国家のほうだからだ。

何をもって国家とみなすのかと聞かれて、昨年の公共で習った国家の三要素が答えだと考えていた。だがそれを教えているのは日本くらいだと聞いて意外だった。他の国ではどのようにそれを教えているのか気になった。
いままで地理や歴史で多くの国・地域を学びましたが、国家が何なのか?ということを考えていませんでした。国家の三要素をいまだに重視して教育しているのが日本くらいというのも驚きました。日本の教育の問題点だと感じました。国家が何なのかというのは、そこまで重要なものではないと考えました。日本は台湾を国家として承認してはいないが、実際にはいろいろな面で日本と親しい仲である。この状況において国家とは何かということを学校教育などで定義し、生徒に教える(覚えさせる)必要はないとあらためて考えました。

世界には未知数の疑問があるのだと感じました。とくにスイスについて。スイスには国家内国家が存在し、そのうえでスイス連邦が主権国家であるという点です。スイスには公用語がいくつかあるとほとんどの義務教育で教えられるけど、別に公用語がたくさんあるわけではないというのを今回初めて知って、なんか義務教育の敗北を深く感じました。とても悲しいです。
・・・> なぜレビュー主がそれを悲しむのかよくわかりませんが(公教育を「わがこと」として背負っているのは、教育学者兼教育者の古賀のほうです 笑)、学校教育の早い段階で学んだことを少しずつバージョン・アップさせていって、それとともに自分の思考力やその幅を広げていくというのが、理想的な学び方です。最初に教わった内容を更新することなくそのまま温存するのが正しいのだとすれば、それこそ教育ならぬ自己の敗北で、成長しないことを宣言するようなことになりませんか? 義務教育でも高校教育でも、少なくともその時点で認識されている学問水準に照らして「ウソ」は教えていないはずです。ウソとか虚偽を教えているのではなく、ややこしい部分を捨象したり、目立つところを焦点化したりするだけのこと。スイス連邦にはカントンが内包され連邦のほうが主権国家であること、各カントンに公用語があるということ、を論理的に同時に満たす表現は「スイス(連邦)には公用語がいくつかある」ということになり、別段間違っていないでしょ?

前回につづいて国家とは何かという視点をもつと、主権や法、外交や軍事など国のアイデンティティをつくり出すさまざまな要素からアプローチすることができる。中でも国際社会での立ち位置を考えると、国家を集合させた連邦国家というかたちで機能している国があるとわかる。その内部にはそれぞれの憲法や政府があり、自治のための制度がきちんと存在し、自律しているのだと考えられる。同じく国際社会の点から考えると、植民地であったとか、統治されていたといった点から主権のありかが問われたり、前述した連邦国家内の国が国家内国家として扱われていたりすることがあり、私たちが学ぶ国家の三要素はすべてに適用されるわけではなく、国々によって承認する・しないと意見が分かれることもある、とわかる。地理的要素と外交の要素も複雑に絡み合うからこそ、三要素のみで簡単に分別できるものではないと思った。

国家を承認するのかしないのかということに、外交関係の私情をはさんでいるのがよくないと思った。たとえば日本がアメリカの顔色をうかがっているのも、少し情けなく思える。だからこそ明確な基準を設けて、その国に住んでいる人の思いを汲み取ってほしいと思った。
・・・> 私情ではなくてリアルな国際認識だと思いますよ。レビュー主の捉え方のほうが情緒的になっていない? さて、日本とかアメリカは国家ですので、「顔」「顔色」はありませんし「顔色をうかがう」機能も人間にしかありません。国家を擬人化していることに気づいていますか? いろいろ間違えるもとですよ。それと、明確な基準なるものを誰がどうやってつくるのか、それを本当にすべての国家が受け入れられるのか。大多数が受け入れれば成立すると思うかもしれないが、いまでも少数派である未承認国家などは捨象してもかまわないということになってしまい、そうなると「その国に住んでいる人の思いを汲み取」るのとは逆の方向になります。

国家の成り立つ要素と国家、どちらが先なのだろうか。国の見方を世界で統一することはできないのだろうか。
・・・> 国家が先に決まっています。統一することはできません。前回と今回の内容を学んだあとに、この疑問が浮かんだということは、内容をまだ十分に汲み取れていないということだと思います。復習しましょう。

家族や学校や地域など私たちの属する組織はすべて自然発生であって、後から名前がついただけ。そう考えるとあらゆる定義に当てはまらないものがあるのは当然なこと。適度に身を任せ、絶え間なく変わる世界を見ていたい。歴史を学ぶうえで「でもこの時代の国は現代の国とは違うんでしょ?」と毎度思っていたが、当然だった! 何も怪しいことなんてなかったです。すっきりしました。
・・・> 学校は自然発生ではなくない? (少なくとも近代の学校は)

今回の授業を通じて、国際社会を扱ううえで定義することをあきらめ、認識するということが大切だとわかりました。
・・・> 定義すること自体は大事で、学問としても実際の社会運営としても重要。ただ自分たちでつくった定義に縛られ(囚われ)るあまり、実態のほうがおかしい、そんなはずはない、と思い込まないようにしましょう、ということです。哺乳類は卵生でなく胎生、という定義(の一部)は相当に有効です。カモノハシとハリモグラが例外であるだけ。国家もそんな感じですので、少数の例外だからといって軽視しないで、ということですね。

カモノハシ理論によって、「現実はそのまま受け入れよう」という姿勢が強調されているが、これをそのまま適用すると、領土問題や未承認国家の扱いを「仕方ない」で終わらせてしまう危険もあると思った。また国家の定義において、三要素が絶対的でないとなると、判断や主観などが政治にかかわってしまい、それは本当によいのか、と感じた。
・・・> 2文ありますが、1文目はカモノハシ理論に対するレビュー主の受け止め方が誤っている、というかズレて解釈してしまったことによる、判断の誤り。2文目はそのとおりなのだけど、それこそ、それを日本の高校生が「本当によいのか、と感じた」ところで世界がどうなるわけでもなく、そもそも「よい」というのはどこかの誰か(たち)の判断や主観のカタマリでしかないという、当たり前のことを見逃すことになります。私は、今回の授業を含めて、「現実はそのまま受け入れよう」といったことはありません。国家のあり方や位置づけに対する見方はいうほど定式化されていないので、理解のためにも(まさに主観的な判断を避けるためにも)、まずはありのままを受け止めて、理解しなさいと申したのです。その先でどう行動するかは各自の判断。領土問題を解決したければ、いいとか悪いとか正しいとかおかしいとかいう以前に、「現にどうなっているのか」を知ることが重要だと思いませんか?

いままで国の定義など考えたこともなかったが、今回の授業で主権国家や国家内国家についていろいろな話を聞けて、とてもおもしろかった。マレーシアやスイスなどの身近な国も国家内国家の集まりだというのは知らなかった。未承認国家の中華民國を国と認めて、中華人民共和国も国と認めて貿易などをおこなっている国もあるのですか?
「その国、本当に国でしょうか?」という国?が思ったよりたくさんあることはわかりました。日本の教育によって、私たちがその一部の国?が国として認めないことになっているのもわかりました。でも、どういう理由で認めないのでしょう。台湾みたいに認めると明らかに不都合がある場合はわかりますが、小さい理由なら認めてもいいんじゃね?と思います。そもそも認めてもらう必要もない国もありそうですね。俺らは国際社会とか知らねえよ、的な。
・・・> このテーマを扱う際の大前提がわかっていないかもしれない。「認める」という表現は不適切で、ここはあくまで「国家承認する」です。「認めてもいいんじゃね?」「俺ら」といった日常のスラングに落とし込むと、余計に文脈が荒れます。「くにをみとめる」という、制約や要件のない一般的な話と、「こっかをしょうにんする」という法的な言葉遣いでは、指示内容や含意がかなり違ってくるのです。私は慎重に表現したつもりですが、なぜ(勝手に)読み替えてしまいましたか? なお前の方の質問ですが、中華人民共和国と中華民國を同時に承認することはできません。中華民國を承認すると、中華人民共和国から外交関係の切断が通告されます。


モナコ公国 世界で2番目に面積の小さな主権国家
2005
年までは、公爵に跡継ぎの男子が生まれなければフランス共和国が併合するという条約を
フランスと結んでいた このため「主権国家としての自律性」に疑問が残り、日本政府も
公式の外交関係を結んでいなかった 現在は完全なる主権国家になり日本との外交関係も確立されている

 

国家の三要素はあくまで近代の主権国家体制を維持するために便宜的な定義であり、現実的には国家の形態はもっと流動的である。スイスやマレーシアのような国家内国家を内包する主権国家も、台湾のように実態と形式が乖離した国家も、「国家の定義」という枠組がいかに限定的なものであるのかを物語っていると思った。

一つの主権国家でも、国家内国家があって相互の往来にはパスポートが必要であったり、それぞれに君主がいたりする地域が結構あって驚きました。タンザニア連合共和国もその一例で、パスポート・コントロールがあることは理解したのですが、ザンジバルがタンガニーカと対等合併した理由は何ですか? 一国で十分に経済力があるので対等合併しなくても主権国家として維持できたと思うのですが・・・。
・・・> 独立当時の経済力ではザンジバルが上回っていましたが、政治の安定では強いリーダーシップを発揮したニエレレ大統領の率いるタンガニーカが優勢でした。1963年にザンジバルでクーデタが起こり、社会主義勢力が国王(スルタン)を追放して政権を奪取しましたが、土地政策などで国内が大混乱に陥り、最終的にニエレレに救済を求めることになったのです。形式的には対等合併ですが、秩序維持に失敗したザンジバルがみずから編入を申し出たかたちになりました。ときは冷戦の最中ですので、この地域の不安定化を恐れた英国などの介入もあったようです。

地理総合の課題で、西アフリカの国々を覚えるというのがあったのですが、そのとき西サハラを見つけて、そこがどういう立場なのか気になっていました。そのときすぐに調べてみなかったことを後悔しています。

そもそも地図上で西サハラが黒文字で表現されていることを知らなくて、そのうえで、もしかしたらトランプが隠し持っている土地なのかな〜なんて思っていたけど、モロッコが統治していて国連が放っておいているというのがおもしろかったです西サハラを8割ほどもっているのと全土もっているのとで、どのくらい領海とかが変わるんですか? それによってはもう少し国連が関心をもつべきなのかななんて思いました。
・・・> スライドを見ていただくとわかりますが、サハラ・アラブ民主共和国がどうにか押さえている2割というのはすべて内陸側(アルジェリアとの国境付近)ですので海岸はありません。無価値とはいわないまでも沙漠ばかりですので、モロッコの押さえている8割が「西サハラのほとんどすべて」ということになります。

西サハラは、とくにメリットがないから各国が手を出していないというのは、グリーンランドも同じような扱いなのかなと思った。また他に地球で未開拓の土地はあるのか気になった。未承認国家にソ連に近い国々が多いのは、第一次世界大戦前後のいざこざも要因の一つになるのかなと思った。
・・・> グリーンランドが同じようだというのは、なぜそう思いました? グリーンランドが「未開拓で値打ちの低い地域」だと思い込んでいませんか? そう思い込んでいる人が多かったのだけど、トランプがらみの最近のニュースを見れば、映像込みでいろいろわかったはずなのに(デンマークに思いのほか強い統治権があることも)、ニュース見ていないのかな? 現在の未承認国家はたしかに旧ソ連関係が多いのですが、第一次世界大戦(1914-18年)のときはまだロシア帝国で、ソ連は誕生前。

イチゴのつぶつぶのように、実は国家の本体は一部であったというところが複数あったことにも驚いたのだが、それ以前にそのような国家があることを知らなかった。そして、有名な国(スイス)にそのようなことがあったのでさらに驚きました。
これまで自分の中の「スイス」は、スイス自体で一つの国家というイメージだったが、カントンという国家の本体があることを知り、地図帳では読み取れない事実を理解できたと思います。世界には、もとは内包国家であったものがたすうあるため、海外旅行するときに、その国がどういう歴史をもち、内包国家だったのかどうかなどを調べておきたいと思いました。

世界でいちばん小さな国家は?と聞かれたらとくに考えずにヴァチカン市国と答えていたが、今回なぜそうなのかを理解した。ヴァチカン市国は宗教団体であり、主権国家はその上に載っている衣みたいなものだ。国際社会に参入するために主権国家としたのだなあ。主権国家になれば実質上は対等だから。

在ヴァチカン中華民國大使館がイタリア領内にあるという事実は受け止めることができましたが、大使館を建てるときに、誰(どこの国家)が土地を手に入れたのか、またイタリアはそれを認めたのか、気になりました。
イタリアに大使館を置かせてもらうために、ヴァチカン市国はイタリアに何か譲歩したのか気になった。
・・・> 譲歩したのはイタリア側のようにも思いますけどね。ヴァチカンを主権国家化する際に、教皇庁とイタリア政府とのあいだで協定が結ばれて、極小の主権国家であるヴァチカンが成り立っていくようにイタリア側も協力することが決められています。たとえば教皇庁の職員の大半はイタリア領内に居住していて、そこから毎日、国境を越えて通勤しています。そういう人たちの地位や居住権、領内通過権が保障されます。ヴァチカン市国には空港がありませんので、教皇庁の関係者がイタリア以外の国に行く際には必ずイタリア領内を通過しなくてはなりません。その際にヴァチカンのパスポートがあればイタリア領内を通過することが認められます(なお教皇を含めたヴァチカンの国民はすべて母国との二重国籍であり、教皇庁での任務が終わるとヴァチカンのパスポートは返上しなければなりません)。いまはインターネット放送に変わりましたが、以前は全世界のカトリック信徒に向けたヴァチカン放送(ラジオ)がイタリア領内のアンテナから出力されていました。教皇庁と外交関係のある国家の在外公館(大使館・領事館)をイタリア領内に置くという条件も協定の中に含まれています。その時点で「中国」を自称する勢力が2つに分裂するという予想はなく、「在教皇庁(ヴァチカン)大使館はすべてイタリア領内」という規定が、中華民國にも適用されているだけだと思われます。

「ローマ教皇との外交」が具体的にどのようなことをしているのか、疑問に思いました。
・・・> 一般の(よくあるタイプの)国家との外交、だったら疑問に思いませんか? 意外と外交の中身ってよくわかっていないのでは? 国家としての日本が外交関係を結んでいる相手は、「ローマ教皇」ではなく「ローマ教皇庁」です。生身の教皇(レオ14世)と日本国が握手するというはずはないよね。

日本のカントリー・ドメインは.jpでフランスは.frなどは知っていましたが、.nuがエロ用なのは初めて知りました。
・・・> そのネタがおもしろかったのか、若干ショートしています。インターネットの.nuはニウエのカントリー・ドメイン。それ(の一部)をフランス語圏ではエロ用に使っているという話です。日本のエロサイトは海外サーバを利用するところが多いのですが、それでも.jpをエロに使っているところはあります。論理が混線していますよ。


サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン)

 

数多くの未承認国家が存在していることに驚いた。国連安保理常任理事国が承認しないと国家として成り立たないというところに、国家間の序列が顕著に表れていると思った。

未承認国家があるのは知っていましたが、どのような国があるのかは知りませんでした。正直、まったく知らない国ばかりでした。中華民國は世界最大の未承認国家であるとありましたが、未承認国家なのに発展しているんだと思いました。

安保理常任理事国の権力が強すぎるのはよくないと思いました。なぜならその5ヵ国のずれかにとって都合の悪い国はずっと承認されないからです。また現存の未承認国家11ヵ国は意外と少ないと感じました。国家であると主張している地域がもっと多いと思っていました。

未承認国家であることのデメリットとして、国際社会に認められていないため大国と外交できないという面があると考えたが、他にどんなデメリットがありますか? またメリットはありますか?
・・・> 住民(国民)一人ひとりのレベルでいえば、「自国」のパスポートが普遍的に適用されないことが大きいでしょうね。通貨が常に外貨に対して弱いのも難点。

どうしてキプロスで24時間以内に帰ってこないと逮捕されてしまうのですか。
・・・> キプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国の暫定合意により、「国境」に数ヵ所のクロス・ポイントを設けて、パスポートがあれば行き来できること、ただし24時間以内に同一のクロス・ポイントを通過して元いたところに戻ることがルール化されました。これに違反すると逮捕される可能性があるということです。両キプロスでは1974年の紛争当時、宗教を目印にして、北に住んでいたキリスト教徒が南に、南に住んでいたイスラーム教徒が北に逃れるという現象が起こりました。それ以前にもっていた財産・土地などは放り出して、身一つに近い状態で同一属性地域に逃げた人が多く、行き来を完全に自由にすると数十年前に放棄した(していないのでしょうが)財産を差し押さえる動きが相次いで収拾がつかなくなる、というのが最も懸念されることなのです。

質問としては、未承認国家に住む人々の権利はどの程度保障されているのか気になった。他国と比べるとどうなっているのかも気になった。
・・・> 質問があったら疑問文で書いてくださいねといいましたが、質問があるといいつつ「気になった」で終わっている(汗)。このクセはみなさんに共通してあるようですが、学問探究の阻害要因になりえますので、「気になった」という表現を意識的に排除するようにしましょう。さて、人々の権利の保障というのが何の、どの次元のことなのかによって話は違ってきます。日本を含めて、ふつう「権利(人権)を保障する」という主体は国家ですから、未承認国家であれ、そこに国家があるのであれば保障しているのではないでしょうか。世界中が主権国家として承認している国家でも、統治の実効性が弱かったり、政府の信用が薄かったりすると保障されないことが増えます。一時期のソマリアなどは、日本を含む国際社会が主権国家の存在を承認しているにもかかわらず、実態として広域統治をおこなう主体(政府)がなく、戦国時代のような状況がつづいていました。人々の権利が保障されるということは、当然ほとんどないわけです。ソマリア沖といえばある時期まで海賊の巣窟で、日本の船もずいぶん危険な目に遭いました。海賊や山賊を取り締まる強制力(国家権力)がなかったせいです。

スイスのカントンのように強い自治権をもつ地域と未承認国家の違いは?
・・・> スライドの35枚目を見てください。最初の●に答えがあります。


キプロス レフコシア(ニコシア)のクロス・ポイントには約50mのバッファー・ゾーンが設定され国連が管理
この写真はキプロス共和国側のパスポート・チェックを終えて北キプロス側に向かっている途中のバッファー・ソーン
北キプロスの国旗(右)となぜかトルコの国旗が並んでおり、だいたいあの先が北キプロスの実効統治エリアだ

 

国が発行している地図に国家の意図があるというのはわかっていたが、ではGoogle Mapなどの多国籍企業の地図はどこの国境を使用しているのだろうかと興味をもった。
・・・> 国が発行する地図は地理院地図くらいじゃない? 地図帳も、あちこちで売られている地図も、民間の業者がつくっているものです。基本的に日本国内で制作・発行される地図は、日本政府の立場を尊重して、主権国家や国境の位置などは政府の公式見解を採ります。地理の授業で使った帝国書院の地図帳は、教科用図書(いわゆる「教科書」)ですので、文部科学省の検定があります。そのため日本政府の公式見解をそのまま載せないものは合格しません。したがって実態は地図帳の内容とズレる場合がしばしばありますGoogle Mapは比較的実態に即した国境の記述を採用しますが、よく見ていると、どの国で見るのかによって異なる国境情報が載っていることがわかります。

先生は、中華人民共和国が軍事力などを使って台湾島を実効支配するということが今後起きると思いますか。また日本人は自国を日本と呼びますが、台湾の人たちは自国を台湾、中華民國どちらで呼ぶのですか。
・・・> 昨年暮れにも台湾各地を訪れて、おいしいものを食べて、なぜかなつかしい感じのする町の景観を満喫しました。多くの人々が平和裏に日々を過ごしています。台湾有事など起こってよいはずはありません。でも、トランプやプーチンがやりたい放題の昨今では、何が起きても(残念ながら)不思議ではないという情勢にはなっています。後段、台湾の人たちの自国の呼び方は、台湾もしくは中華民國です。絶対に中華民國といわない人も一定の割合でいます。なぜだかわかるでしょうか?

地図帳で国境が破線で表記されている箇所として、カシミール地方やマクマホン・ラインを知っていたのですが、スーダンとエジプトのあいだにも破線があるのをきょう初めて発見し、背景を調べてみようと思った。ハラーイブ・トライアングルとビル・タウィールの存在がわかった。まだ軽く調べただけで、背景を詳しく理解していないので今後につなげたい。
・・・> 地図帳おもしろいでしょ? ハラーイブ・トライアングルは、英国統治時代の直線国境が人々の生活や文化とズレを生じた典型ですが、資源などが見つからなかったので、長く両国が共同管理してきました。2000年ころにエジプトが軍事占領して、いまは単独で実効統治しています。日本を含む国際社会の一般的な立場は、「どっちでもいいけど仲よくしてよね。紅海の安全な航行を害することがないようにしてよね」というくらいですが、それってエジプトによる占領という現実を容認するものでもあります。スーダンは長くアル・バシール大統領による反人権的な独裁がつづいており、国際社会の大半は彼を問題視していました。そのためエジプトに抑えていてもらいたいというのが本音であったようです。バシールは「21世紀最初の独裁者」などといわれましたが、2019年にクーデタで失脚しました。

中華民國の件は印象的だ。いままで日本が承認しないのは中国のにらみがあるからというだけだと思っていたが、実際には承認すると双方に失礼であるからだと思った。
・・・> 失礼だから、ではありません。中華人民共和国・中華民国の双方とも、「中国は一つ」であるとして、そのただ一つの中国の統治主体が自分たちだとして争っています。一方を支持(承認)すれば他方を支持(承認)できなくなるのは当然のことです。1972年に日本政府が中華人民共和国を「正統な中国政府とみなす」と公式見解を変えたときに、台湾の中華民國には承認の取り消しと外交関係の断絶を通告しました。

台湾は、なんとなく親日だというイメージがありますが、中華民國の承認を取り消したり、その前には日本の植民地だった過去もあったりするのになぜだろうと思いました。また現地で日本はどのような評価を受けているのか気になりました。
・・・> 台湾の人たちは全体的に親日的です。近いですからね。もちろん反日的な人も、どっちでもない人もいます。なぜそうなのかは、歴史を学んだうえでよく考えてください。重要なことです。また、台湾は「すぐそこ」なので、現地に行って実際に体験してみることを勧めます。

 
台湾南部の港湾都市 高雄にある旧高雄港駅 日本統治時代に砂糖や樟脳の移出拠点として繁栄した都市で、この駅は
そうした産物の積み出しのために日本側が建設したものだ もとの地名は打狗(ターカウ)で、日本人が京都の紅葉の名所を
当て字して高雄(たかお)と呼び、さらに戦後はそれを中国語読みして高雄(カオシュン)となっている
旧高雄港駅には最近完成した環状LRTの哈瑪星(ハマセン)駅が併設され、歴史と現在が共存する文化的な空間になっている
哈瑪星というのも日本統治時代の「浜線(はません)」に中国語風の漢字表記をあてがったものである




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう後半ですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。その程度の知識やコミュニケーションは、もうAIがやってくれます。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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