古賀毅の講義サポート 2025-2026
Études sur la
société contemporaine II: Réflexion et apprentissage mondiaux ou ‘global’
pour le futur proche 現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び
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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究
2025年9月の授業予定
9月12日 グローバル世界と宗教
9月19日 マジョリティ/マイノリティ考(2):他者と向き合う
9月26日 歴史の歴史性と今日性
世界は科学でできている、というのと、世界は宗教でできている、というのとでは、どちらが真実味があるのかな? 数値化するような話でもないので正解はわかりませんが、私は宗教(religion)こそが世界の主たる成分であるというほうに一票を投じたくなります。当科目の受講生はおそらく全員が文系(人文系もしくは社会科学系)に進むことを希望しているのだと思いますけれど、人文学・社会科学のどの分野であっても、宗教の視点や前提知識は不可欠です。宗教は大切だから信仰しなさい、という意味ではもちろんありません。知の対象として心得ておきなさい、ということです。というのは、「宗教なんて」「宗教なんか」という姿勢の是非は置いておくとしても、スルーしたいとか、まったくかかわりたくない(学問の対象としても)といった人がずいぶん多いように思うからです。政治・法・経済・文化・教育・・・ といろいろな分野があるが、なぜか宗教に関しては拒否反応が他よりも強いみたいですね。繰り返しになりますが、知の対象として宗教のことを学び、知るということは、文系の学生として必須のことであると考えてください。もとより東アジアでは儒教と道教、南アジアではヒンドゥー教やそのかみのバラモン教、中東を中心とするアジア全域ではイスラーム、欧米ではキリスト教、そして日本については神道と仏教が中心になりますから、学びの対象がどの地域であるかによっても焦点の当て方は変わってきそうですね。 神とか霊といったもの、そして信仰というあり方は、記録が残るよりもはるか大昔に発生した人類社会に特有のものです。俗なことわざに「イワシの頭も信心」というのがありますし、応援するチームのチャンスないしピンチには目を閉じ両手を結んで祈るということもあります。特定の宗教・宗派にかかわらず、祈るとか信じるといった行為はつきものです。日本を含む世界各地に広がり、いまも大きな影響力をもっているアニミズム(自然崇拝)は、教祖や教典があるわけではなく、体系だった教えがあるわけでもないけれど、それらだって宗教とみなしてよいはずです。実際には、近代に入って欧米からreligionなる概念が入ってきたときに、religionの知識をもとに解釈しようとしたため、宗教なるものの捉え方やスコープにブレやズレが生じています。「いまの若い日本人は宗教なんか信じないですよ」といっても、○○教を信仰しないだけのことであって、宗教っぽい営みは結構しているのですね。そんなふうに、少し(かなり)広めに構えておいて、宗教というテーマを考察することにしましょう。当科目のこれまでの学びでわかったように、宗教(信仰)は、自分は○○という共同体や集団の一員であるという意味でのアイデンティティを支える重要なファクターのひとつです。また一般には、宗教の違いによって対立や紛争が起きるのだと説明されることが多いですが、殺し合いにまで発展する際のきっかけは宗教というより経済であり、○○という宗派を共有するグループという属性ごとの境遇の違いが、恨みや妬みや優越感や差別意識をエスカレートさせるのだ、という仮説を共有しましたね。やはり、歴史も地理もそして公民も、社会的な何かを学ぼうとすれば宗教の知識は避けて通れないようです。 2025年の世界では、宗教(教え・信仰)そのものというより宗教勢力(しばしば世俗権力化する)の動向に注目が集まります。最大のものは合衆国のトランプ大統領周辺でしょう。関税をやたらにかけまくるトランプが、「関税というのは宗教、家族の次に好きな言葉だ」と発言したことがあります。いずれも19世紀の主成分だったもので、しかしトランプや支持者の中ではいまも息づいているのでしょう。トランプの極端なまでの反・反ユダヤ主義やパレスティナ(主にイスラームのスンニー派)への憎悪は、その宗教的な世界観の反映だろうとみられています。トランプ自身よりも支持者や支持層のほうが厄介で、反科学というべき創造科学(サイエンスの語を入れること自体がどうなのかと思うけど)やインテリジェント・デザイン論の信奉者、頑迷なファンダメンタリズムの信仰をもつ人たちは、決してマジョリティではないのですが、民主主義のもとではなぜか強い影響力をもちます。次に、新ローマ教皇レオ14世のスタンスがこれから明らかになってくるはずです。カトリック圏というよりも合衆国とのかかわりで注目されるのが2025年だなあという印象。そしてもう一つはチベット仏教ゲルク派の法王ダライ・ラマ14世が自身の「転生」に向けて出した声明のゆくえです。中華人民共和国との綱引きではあるのですが、同国と中華民國のあいだの問題に入り込む可能性もあり、そうなるとローマ教皇庁(ヴァチカン市国)の外交姿勢にも連動して・・・ と、いろいろなものが絡んでくるかもしれません。今後もいろいろなところ(それも重大なところ)に宗教の問題が関係してくるのは間違いないので、いまのうちに見識を深めておきたいですね。 REVIEW (7/11) ■王が中心の政治が悪いもので民主主義がよいのだという認識をするのではなく、誰が統治するのかに注目する必要があるのだと、今回の授業を通して気づいた。世界の君主制を学ぶと、サウジアラビア王国のように国家どうしの外交のカギになるのだということを知り、日本とは違う首長の役割(政治の実権を握る)がわかった。チベットのように君主の継承の仕方に宗教的な価値観がみられるのもおもしろい。国家ごとに君主の形はさまざまであることを学べたので、国家のシンボルということの意味を実感することになった。 ■ヨーロッパなどの君主制について学んだ。イギリスのような立憲君主制をとる国では、王は国家の象徴として残りつつ実際の政治には関与しないが、一方でアラビア半島の地域では王が国の最高権力者であり、宗教・政治・経済のすべての部門で影響力をもっていることを学んだ。この違いを学ぶ中で、王の必要性や世襲される権力の正統性について考えることになった。今回の授業を通して、君主制=独裁、民主主義=自由といった単純な対立構造にはとどまらないということをあらためて感じた。 ■君主制の国といわれてぱっと思い浮かぶのは連合王国とスペインくらいだが、実際には40ヵ国以上もあることを知った。欧州では女王がめずらしくないが、日本でも女性天皇が実現する日は来るのだろうか? ■今回、さまざまな君主制の国について学び、同じ君主制でもその内側は大きく異なっているのだとわかりました。国王と聞くとイギリスを想像するのですが、イギリス国王が複数の国家の王を兼任していることを知り、そのような君主制もあるのだと思いました。そして君主制には戦争や支配が関係していることが多いこともわかりました。国家によって歴史や地理がかかわっていてとても興味をもったため、他の君主制の国家についても調べてみたいと思います。 ■40ヵ国くらい君主制国家があるというのはなんとなく知っていたけれど、国ごとにかなり違いがあって、特徴があることがわかった。いまでもオーストラリアやカナダが英連邦君主国であることは知らなかったので驚いた。また君主にいまでも形式的な儀礼では序列があることもわかった。サウジアラビアやスペインなどかなり有名な国家でも、君主が問題を抱えている(いた)とわかり、自分が知らないだけで、いろいろな事情があるなと思った。 ■さまざまな国の例から、国の数だけ形があるということを強く再認識した。とくにアンドラでマクロンが王になるという話が衝撃的だった。単にしくみを知るだけにとどめるのではなく、その形になるまでの経緯と、そのことが何を意味しているのかを知ることが国家を深く知ることにつながると思うので、興味をもって調べてみたいと思った。
■君主国がいまも40ヵ国以上あることに驚いた。君主国と聞いてぱっと出てくる国がなかったから、やばいなと思った。サウジアラビア王国の王の話を聞いてすごいと思ったし、一人ひとりがわりと長く在位しているから国民に信頼をもたれているのかなと思った。 ■世界にはさまざまな王がいて、国家によっては強大な権力をもつことがあるということを学ぶことができた。日本の場合も、天皇制が万一崩壊したら大混乱が起きそうだと思った。 ■君主国の中にも、結構な独裁政治をおこなっている君主もいれば、街に出る君主、ダンス・パーティーを開く君主など、各国にさまざまな色の君主がいて治めているのだなと思い、印象が強く残った。 ■席順やフランス料理が外交では重要だという話がありましたが、以前YouTubeで見たトランプ大統領夫妻・安倍総理夫妻が日本の料理店で食事した際に、料理が提供される順番が話題になったことを思い出した。細かくてめんどくさいことこそ、どれだけ敬意をもってやれるかが大切だと思った。 ■主権国家どうしは対等であるが君主のステータスには差がある、とのことだった。国家どうしが対等であるなら君主のステータスの違いは何に影響を与えるのか?
(類例複数)
■王政と民主政を比較するという点において、たしかに対称的ではない2つを教科書で比べさせるとなると、勘違いして理解してしまう生徒も少なくないだろうと思った。 ■王様と聞くと、小さいころはキングやプリンスといった言葉に心が躍ったが、いまはわがままという印象がついてきます。なぜだろうと思っていましたが、大きくなると王様の裏が見えてきてしまうからでしょうか。今回はどんな「やばい」王様がいるのかをたくさん知ることができたので、さらに王への印象がよいものだけではなくなりました。ただノルウェー王の「私には400万人の護衛がいる」という発言は国民との信頼を感じて、かっこいいと思いました。父をクーデタで追い出して無理やり王になったり、妻が15人いたり、計画的に王家の人間を殺して即位したあとで独裁政治をおこなったり、「やばい」王様がたくさんわかりました。 ■民主制を推進する王と独裁を推進する王で呼称を変えたら王制のイメージはよくなるのではないかと考えたが、誰の基準で独裁者と判断するのかが問題になるので、不可能だという結論になった。 ■王制(政)だからといって王が必ずしも独裁者になるわけではないけれど、それ以上の存在が国内にいないから、地位・権力などの魅力にまどわされ、独裁政治のような状態になってしまうのだろうと思いました。また同じように大統領もそれ以上の存在がおらず、国民に選ばれているという自信から、自分中心の政治をする人が出てくるのだろうと思いました。反対に、首相は国会や各党とのかかわりが強いため、独裁のイメージをもたれにくいのかと考えました。 ■君主制は王の象徴性を強める傾向にあるが、王個人の資質やカリスマ性などにその制度の権威も大きく左右されるのだと思った。タイでの事例などからも、国王の変わり目は国が不安定になりやすいと思った。 ■日本の天皇と違い、各国では国王が国のあり方を決めるうえで大きな役割を果たしているということがわかった。国王は民主化をおこなうのがいまのトレンドであり、国民の象徴といえる存在になっていると思えた。 ■国王が独裁政治をおこなっている国家が扱われましたが、話を聞いていると、もともと私がもっていた独裁政治は危険だという考えがさらに強まってしまいました。独裁政治に対する理解がまだあいまいで解釈に誤りがあるのか、なぜ王政をつづける国があるのか、どのようなメリットがあるのかなど、疑問に思うことが多かったです。国王が政治をおこなうことと独裁政治が同じではないということはわかりました。
■モントリオールやバルセロナでの五輪開会宣言の話は、言語とその土地に住む人たちのアイデンティティが強く結びついているいい例だと思った。 ■アメリカが13 Statesだったころに王がいたことを知らなかった。 ■アメリカは「自由の国」であることが広く知られているが、いまやトランプの暴挙によって次第に自由が失われているということに驚いた。自身の誕生日にパレードで軍を動員するのは、あまりに権力を乱用していると思う。 ■日本の幕府も君主として扱うことになるのですか。 ■選挙でえらばれない権威は民主主義とは対極のように思えるが、逆に君主がいることで国家の連続性や国民の一体感が保たれるのだとわかった。 ■君主制を採用する国家が紹介されたが、さまざまな特徴があり、日本とは異なる体制が衝撃的で興味深かった。紹介された国々は一見安定しているようだが、揺らぐことになるのだろう。ただ、ブルネイのように国民も納得しているのであれば王制のままでよいのではないかと思う(内政干渉になりえるので強くはいえないが)。 ■君主制であっても民主制であったり、君主が意思を行使できず権限を与えられていないという場合も多い。権限を与えられていて政治的な意思を行使する君主もいる。そのような国家内では人格を無視する犯罪級の行動も、地位ゆえに許されてしまったりする。君主が複数いる場合や、一人が複数国の君主を兼ねる場合もある。必ずしも現地の人でなくてもよい。君主制国家は40ヵ国以上ありますが、絶対的な権力をもったり世襲したりする、特定人物が君主的なふるまいをする国を含めると何ヵ国くらいになりますか? ■日本でしか生活していない私にとって、天皇陛下のように、同一家系の人が国家の首長として世襲するという形の君主制が当たり前で、その形のみが君主制であるという狭い視野しかもっていませんでした。しかし、一口に君主制といってもさまざまな形式が国・地域ごとにあって、とくに国家内国家にも君主がいることがあると知って、あらためて国家のあり方についても考えを深めることができました。エスワティニやネパールなど、過激なセクハラや独裁など、よくわからない君主ばかりであきれる気持ちでした。そんな汚らわしいような、自己中心的な人がトップの国が、ちゃんと機能しているのでしょうか。不思議です。
■世襲していくうえで人々が信頼できるような人がつづくことが大事なんだと思った。国王にも独裁寄りの人もいれば民主寄りの人もいることがわかった。ブルネイはナウルの二の舞になってしまうのか気になった。 ■今回の授業を通して、君主制と民主制を対立する存在として捉えるのではないこと、もっと多様性のある現実的な君主制が現在も存続しているという点があることが印象的だった。君主制はメディアを監視するなど国民の信頼を揺るがすこともあるが、第二次大戦時のオランダやノルウェーのように危機的な状況のときに国民統合の象徴として君主の存在が励ましになったということもあり、一面的に捉えてはいけないなと思った。 ■現代の君主は、ただの象徴的な役割にとどまらず、サウジアラビアやエスワティニのように、立場を利用した政策をとる現状もあり、恐ろしく感じた。 ■国家の統治の仕方と君主のあり方はさまざまで、とくに驚いたのはカタールである。父をクーデタで追放して首長に即位するほどの事情とはどんなものだろうと思った。 ■タイは、いまのラーマ10世が「国王に値しない」といわれているが、世襲で国王になったのであり、なりたくてなったわけではなく、それで非難されるならどうにか望む形にしてあげられないのかと疑問に思った。 ■実権を握る君主はあまりに権力が強く、独裁につながりやすいので、民主政治とのバランスが大事だと思った。 ■君主に対して、神聖で、ある意味では生活感がないようなイメージをもっていたが、実際には生々しいシンボル性もあって、新しい視点で考えることができた。君主だからといって善行をするわけではなかった。 ■今回の授業では、たびたび「そんな勝手なことをしてもいいの?!」というような王様がいることがわかったが、一方でノルウェーの王様のようなすばらしい王がいるのは興味深いと思った。 ■「油」の力が、おとなの社会を表していた・・・。 ■欧州の君主国では女王がめずらしくないと聞いて、跡継ぎはどうしているのかと思った。男系の女王で子が跡を継ぐことができるのか、それとも血を意識しないのか。調べようと思う。 ■男児をもうけることができないと他国に国家を接収されるというのは、緊張感がありました。産めるかどうかで王妃の扱いに雲泥の差があって恐ろしいです。 ■日本の皇室もインスタグラムのアカウントを開設しましたね! ■君主制は世襲が確実でなく、勢力争いが頻発しますね。国の統治体制をめぐってはそれぞれの実例がとても興味深く、さらに多くの事例を調べてみたいと思った。 ■同じ君主制の国家でも、当たり前ではあるがいろいろな違いがあるということを学んだ。王も人間なのだから不完全な部分があるのは当然のことなのだが、いままではあまり意識したことがなかった。とくに自国のこととなると気づきにくいと私は思う。なぜなら私は、イギリス王室など他国の王族に対して「だめだな」と思うことはあっても、日本の皇族の方々に対してはあまり不満を抱くことがない。これは愛国心によって少し盲目的になっているためであると考えられる。愛国心が強いことはもちろん悪いことではないが、君主国として長く平和につづいていくためには、君主が自分と同じように「不完全な部分ももつ人間」であることに気づく必要があるのではないかと考えさせられた。 ■多くの国において、君主はいまやシンボルでしかないため、いまどき必要ないのでは?と以前に思ったことがあったが、「継承」や「伝統」の面では重要なのではないかと思った。授業を通して、君主制≠独裁 だとwかあり、また世襲ではない選挙でえらばれた独裁者も存在すると知った。エリザベス女王の例から、王もひとりの人間なのだと再確認した。君主制は、現在よしとされている主流の民主制と矛盾しているわけではなく、またカナダやオーストラリアではシンボリックな役割までも現地総督に代わらせている。これらのことから、「シンボルがいるという伝統」が重要なのでは、と考えた。アメリカのように王がなくとも国家は成立するが、存在するという事実が国家にとって重要なのだ(アメリカは新しい国家だが他は歴史が長いことが多い)。日本でも勲章は天皇が授与するからこそ最大の名誉になっている。
現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。 選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう半ばですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。 みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。 *地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。 |