古賀毅の講義サポート 2024-2025

Études sur la société contemporaine II: Perspectives à l’ère de la mondialisation 2024

現代社会論IIグローバル時代のパースペクティヴ2024


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S207教室

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現代社会論I:探究するシヴィックス5.0

 

20241112月の授業予定
11
8日 理系世界のナショナルとグローバル
11
15日 グローバル時代の欧州(1):欧州統合の原理と論理
11
22日 グローバル時代の欧州(2):光と影の交錯
12
6日 グローバル時代のパースペクティヴと学び

 


本年度の授業は終了しました。みなさんのご活躍を心よりお祈りいたします。


最終課題を出題しています。期日までに取り組んでください。

 

REVIEW 12/6

この授業を受けるようになってから、周囲が発言した「○○人だから」といったような決めつけの言葉や、ニュース解説者に疑問をもつようになり、少し「文法」が身についたのかなと思う。先生がおっしゃっていた、いろいろなタイプの学習者がいるという話から、私は基本的に広く浅くの学習になっているということに気づいた。自分の足場となる学問を見つける必要があると思った。

この1年で、たしかにものを考えるうえでの足場みたいなものを得ることができた実感があります。またそれと同時に、いろいろなことを知らないんだなと、知らないことの解像度がぐっと上がりました。いままでの生活習慣とかであっている友達とかは変わっていないけど、なんかグローバル化とかボーダーレス化みたいなものをかなり身近に感じるようになりました。

「文法」の獲得ですが、現代社会論の授業内容が定着していない状態では手も足も出ないです。ですが、授業スライドを何度も見返して理解して、そのうえで課題に取り組むと、課題をした後には明らかに理解が深まっているし、先生のおっしゃっていることがわかるようになります。わからないことをわからないなりに理解できるように(正しく解釈できるように)そのテーマに詳しい本をかじって読んだり父に聞いたりしましたが、そのように思考する経緯が大切なのだと感じています。

グローバル時代のパースペクティヴについてのレポートを書いたとき、グローバル化すなわちボーダーレス化として話を展開したのですが、そこから踏み込んで起こる事態、その細かい影響についてもう少し追ったらよかったかなと、いまさらながら思いました。グローバル化と聞くととてもおおざっぱでスケールの大きな話のように思えますが、農業や工業、教育など細かく見ることによって、考えやすくなると感じました。1年間、グローバル時代のさまざまなことを学んできて、最初は世界の細かいことに対してあまり興味がなかったし、なんとなく学んでいましたが、一般的に聞くグローバル論とは少し違う視点での毎回の授業が、後半になるにつれておもしろいと感じるようになりました。これまで深く考えたことがなかったぶんレポートやレビューは難しかったですが、高校の授業の中でもトップレベルの学びを得られた気がします。

 
 
(上左)オランダ 北海  (上右)ポルトガル 大西洋  (下左)インド アラビア海  (下右)フランス 地中海

 

グローバル化について何も知らなかったし、難しいから避けたい問題だったけど、いまを生きていくためには必要な知識で、狭い世界に閉じこもっていちゃだめだなと実感できた。まだ難しいけど、ニュースとか見て鵜呑みにしないくらいの思考力のある人間になりたいと思った。

今回の授業では、「そのまま日本の学びに閉じていていいのか」ということを問われていると感じた。少し前まではそれでよかったのかもしれないけれど、いまやグローバル化が進み、あらゆる物事において外国なしでは語れなくなっている。世界を学び、新たな視座を得ることで、自分の好きなことしか語れない人ではなくて多面的に(うさんくさいけれど)語ることのできる人になりたいと思った。何か一つは「めがね」をもっておいたほうがいい、というのは、その分野に閉じこもるということではなくて、土台をもったうえで考えるということだと考えた。

ボーダーレス=壁がなくなった?社会において、いまの自分を客観視してみると、自分が好きなことをして、学びをおろそかにして、好きな科目や学問すら発見できずにのうのうと過ごしていると(まさに自分)、現在のグローバルな社会で周りに置いて行かれるのだと思い危機感をおぼえた。グローバルを学ぶことは自分の今後にとって必須だから、普段の生活や何気ないことにも深いかかわりがあるグローバルを積極的に学びたい。

日本の教育では現在、単純化・パターン化の能力を求められているように感じます。グローバル化は、より複雑な情勢の発生を伴い、それを可視化する能力も求められると思いますが、一つのことをさまざまな観点から展開する能力のほうが、より求められると私も考えます。私が今後大切にしていきたい考え方は、マジョリティ・マイノリティ考の回で学んだことです。地球規模で考えるとどの事柄もマイノリティですが、これから進んでいく社会には、少なくとも以上の考えが存在すると思います。マイノリティであっても社会に与える好影響があると思うので、今後の学習でそれについて探究し、尊重していきたいです。

結局、公教育は公教育でやらないといけない、というのがおもしろい。公教育は、この科目を学ぶ中では、ただただアイデンティティ形成のためのツールという認識であったが、貧富関係なくある程度は同じレベルで同じことを学べるという、いわばセーフティ・ネット的な役割をしていて、もっとそこで教える範囲を広げるべきだなと、先生と同じことを考えたが、日本では教員不足の状況もあいまって難しいかもしれない。しかし、ここでこそAIの出番ではないのだろうか。その能力はこういう場面で活かすのがとてもマッチしているだろうと思った。

授業を通して、グローバル化が進んでいる中でも教育や生活がいまだナショナルな枠組にあることに気づかされた。歴史の授業の、日本史と世界史のカリキュラムはわかりやすい例だと思った。世界史を学んだからといって国際的な視野の拡大に直結するわけではないと思うから、公教育のグローバル化を進めるには、ナショナルな内容とグローバルな内容とのバランスを取る必要があり、難しい問題だと思う。
・・・> 世界史を学んでも国際的になれない、というのはおっしゃるとおりです。やや専門的というか教育業界内部の話になりますが、1989(平成元)年に出された学習指導要領は「国際化カリキュラム」という二つ名で呼ばれることからもわかるように、また昭和の経済成長の最後の年だったことからもわかるように、日本も国際社会に居場所を得てこれからどんどん成長していくぞという、ある意味で攻めのカリキュラムでした。このとき高等学校の世界史(世界史AまたはB)が必修になりました。そのころ高校入学率は飽和に近づいていて、誰もが学ぶということになっていたのですが、その日本中の高校生が世界史を必ず学ぶというのは、やはり大きな意味をもっていたわけです。しかし実際には、効果を発揮しないどころか、世界史嫌い、歴史嫌いを大量に生み出し、平成中期以降はむしろ視野がドメスティックに閉じてしまう若者が増えました(ぐいぐい外に出ていく若者も増えたので、二極化したということです)。詳しく述べる紙幅はないのだけれど、私が考えるに、世界史を必修にしたという判断はよかったと思う。しかし、一部のエリートが将来の大学での学びを見据えて学んでいた時期と、グローバル世界に向けて全員が学ぶようになった後では、学び方(教え方)を大きくモデル・チェンジする必要があったのに、それを怠ったのだと考えています。怠った結果が、1つ下で述べているような、細かい人名や地名や年号を押し込んで、先生の頭の中ではつながっているのだろうけど、その「つなぎ」を生徒まかせにして教えてくれないというタイプの指導でしょう。科目の設定はそれとして、学び方(教え方)のチェンジをよほど意識しないと、実効性はなく、むしろ後退するという実証例になってしまいました。

去年、日本史と世界史をどちらも学習していて、テスト勉強で頭がパンクすることが多く、どちらも中途半端になってしまった。国内外どちらのことも学ぶ必要があると思うけれど、きちんと生徒が身につけられるようなカリキュラムを組むのは難しいと思った。
・・・> たとえばスポーツや囲碁・将棋などで(ひとまず「観る」ほう)、個別のルールを知って蓄えたとしても、じゃあ試合や対局を見てわかるのかといえば、たぶんわかりませんよね。高校生の歴史の学びを見ていると、どうもそんな感じなんじゃないかなと思うことがあります。歴史をまるごと捉えて、考えられるだけのものになっているのかどうか。中世と近世では人々の思考や価値観がこんなふうに違うよねとか、遠く離れた地域でも同時代の社会構造には似たものがあるなとか、そういうセンス、いかがですかみなさん? 試験前に必死にノートを整理して暗記して65点だったという人からすると、いつも90点とっている人はどれだけ記憶力あるんだよと思うのかもしれない。でも、そうではないんですよね。常時90点の人は、高校生の段階でもう「歴史をまるごと捉えて、考えられる」センスを獲得しているのです。そういう人にとって、多少の暗記なんてなんらの修行でもありません。これはどの教科でも同じです。そう考えてくると、細かい人名や地名や年号を並べて覚えさせたり、正誤問題や選択肢問題なんかで些末なところを引っかけたりする歴史の教え方は、もうやめたほうがいいと思う。歴史嫌いが増えるだけで、むしろ有害かもしれません。私は、内容を覚えてくれなんて一言もいいませんし、そうではないよといっているつもりなのだけど、でも「やっぱり知識量がないと困るから覚えよう」みたいに量的な学習に走らせてしまっているのなら反省しなければなと。

私たちの学年から歴史総合になりましたが、政府の方針としては日本史をやりつつ世界史もやらせたい意図だとは思うのですが、授業では世界史しかやりませんでした。日本史はもちろん大事ですが、高校まで世界史に触れる機会がないので、私個人としては政府の世界史派の方にがんばってほしいなと思いました。2学期の課題のとき、歴史に触れることで現在の関連国の情勢が理解できました。世界に視野を広げるために、まずは1つの国の1つの事象を切り出して学び、パズルみたいにつなげていけば広がるのかな、なんて考えていました。
・・・> きわめて遺憾なことに、日本の政治家で、日本史より世界史だという人がかなり減っています。政治家も官僚もロクに学んでいない人が教育政策を決めたりするので、本当に困ったことです。日本史を学べば愛国者になるとでも思っているんですかね。2つ上で、平成の初めに世界史が必修化されたことを指摘しました。この決定の背景にあったのは臨時教育審議会(198487年)であり、その原動力になったのは、一つは経団連などの「経済界」、そしてもう一つは中曽根康弘首相(198287年在職)の存在です。中曽根さんは自民党の中でもかなり右の人で、もとより反共産主義の愛国者でしたけれど、その彼が強く世界史学習を推したというのは、やはり卓見だったと思います。スケールの大きな政治家だったな。いまのなんちゃって愛国主義者やエセ右派議員たちは中曽根さんの爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいです(2019年に101歳で亡くなりました)。

定期テストの勉強はプリントの内容を暗記するだけという科目が多く、テストが終わると内容を忘れてしまう。覚えた知識を使って歴史や社会問題を考えることが深い学びにつながり、知識が定着すると思った。世界史を学ぶときには、語句を覚えるのではなく、ある国で起こった事件が世界にどのような影響を及ぼしたのかという視点で見ると、学びが深まるのではないかと思った。
・・・> うーん物足りないなああ。この2つ上で述べたように、スポーツの試合や将棋の対局を観戦するみたいに、歴史を俯瞰的に見て、「うんうんなるほど」「なぜそんなふうになる?」と考えるところまで行ってほしい。「語句を覚えるのではなく、ある国で起こった事件が世界にどのような影響を及ぼしたのかという視点」すら得られていないのだとすると、学びのレベルがかなり低いように思います。高校の世界史系の授業がそんなに低次元とも思えないので、学習の質と量の両方に課題があるのかもしれませんよ。

教育は国家にもとづいておこなわれ、それぞれの国が独自に決定している。ということは、他国と教育制度を統一できず、国ごとに異なる学力、知識量が維持されてしまうのではないか。よって同じ年齢でも教育の差が大きく広がっている可能性があるといえる。
・・・> 制度や内容が異なるというだけでなく、経済水準や社会状況が異なりますので、教育の質・量の差があるのは当然です。ナショナルな教育の限界はもちろん認識しなければならないが、世界共通の教育なんてあるのでしょうか? 仮に教育の制度や内容を統一したとすれば、そこには地球規模でのヒエラルキーができて、取り返しのつかないことになるだけです。気づいているかどうか微妙だけど、教育制度を統一することになったとして、日本の制度に他が合わせてくれるということは絶対になく、われわれの社会や教育のほうが世界標準に大きくシフト・チェンジすることを余儀なくされます。そんなことできるのか? 意味あるのか?ということ。

民間業者やネットで教育を受けるデメリットは、貧富の差によるものにとどまらないと考えた。とくにネットでは、自分の趣味に合ったものがレコメンドされる機能があり、それによってたとえば社会科でも自身の思想に沿った内容のものに学習教材が偏る可能性もある。いくら教育動画とはいえ、その中に制作者側の思想のようなものが入らないわけではない、現在の公教育でも少なからずそれらが含まれているとは思うが、ネットではその偏りが肥大化すると考える。情報の取捨選択がままならない中高生くらいのうちからそのような環境の中で学習してしまったら、かえって視野を狭めてしまうのではないかと考えた。

 
 
(上左)クロアチア ザグレブ  (上右)ドイツ フランクフルト  (下左)スウェーデン ストックホルム  (下右)チェコ プラハ

 

グローバル化≒ボーダーレス化という考え方にとても納得した。グローバル時代には国境を越えた動きが主要になるが、その越えやすさが、インターネットの発達や冷戦終結、自由貿易の進展などによって加速しているのだなと思った。また消費生活に慣れすぎてしまっているからか、自分が大量消費しているものの裏側を想像することすらなくなっていたが、自分が娯楽だと感じている裏には、生産してくれている側の苦しい生活があることを、問題として認識しておかなければならないと思った。

垂直分業と水平分業の話題で、金持ちが豊かな生活をするよりも一般人がそこそこの暮らしをするほうが、垂直分業が固定化される、という話が興味深かったです。日本では格差が広がりつつあるというようなことを耳にしますが、そうはいってもほとんどの国民が電子機器を十分に使うことができているということを考えると、やはりそこそこの生活をできているんだなと感じるし、そのような国は今後ますます増えると思います。だからこれから垂直分業が後退することはないのだと考えました。
・・・> 「ほとんどの国民が・・・そこそこの生活」というのは、本当かしら? 本庄高等学院とか、もっといえば早稲田大学の中で多少背伸びしたくらいでは見えない真のやばさが、もうとっくに日本社会には表れています。グローバルな視野を心得て、「日本は無事でよかった」という思考にならないように、そこは留意しておきましょう。

ファストフード店や衣服のチェーン店は気軽に入りやすいが、「私たちの消費生活に入り込んだグローバルな経済構造」を忘れずに、さまざまな国の人の環境と協力のおかげで、日々の生活で助けられているということがたくさんあるということをあらためて実感した。

グローバル化≒ボーダーレス化ということで国家どうしの壁は低くなっている。しかし国際社会がそうしたボーダーレスに対応できない例として、垂直分業が挙げられていた。先進国が発展途上国などに、食糧ではないコーヒーやカカオなどをつくらせ、それを加工して利益を得る。このことから考えられるのは、グローバル社会で分業していく中で、比較生産費説などの考えはよくないものであるということだ。国家どうしで平等に生産するのは難しいことだと思った。

モノカルチュア経済について、従来は商品をつくらせていた地域の一般人が嗜むようになったことで生産しなければいけない数が莫大なものになってしまったということがあったが、もし私たちがそれらを消費する行動を控えても、授業で指摘されたように環境問題が悪化するなどの理由で、発展すること自体を規制され、商品作物をつくらなければ生活できないという負のループになっていることがわかった。先進国と発展途上国という関係は、しばらく継続することになるのだろうか。
発展途上国には工業原料を生産させて最後は先進国がおいしいところをもっていくという構造は、いつまでつづくのでしょうか。
・・・> いつまでもつづくのではないでしょうか。ただしアクターは変動します。すでに「おいしいところ」をもっていっているのは先進国ではなくなりかけています。南南問題というワードすらすでに古びてきて、南・南南問題みたいになりかけています。

コンビニエンスストアは好きだけど、働きたくはない、という人が多いという話がありました。そういう人が多いからこそ外国人の店員さんが多くなっているにもかかわらず、そういう人に限って外国人を嫌ったりする傾向にあると思います。「上」の立場でもなんでもないのにわがままをいうわれわれは、恥ずべき存在であると思いました。

世界のボーダーが低くなったというコンテクストでは、18歳の人からすると長いスパンで語られています(冷戦終結、インターネットの発展は私たちが生まれる前のこと)。では、短いスパンで見た際、何が低いボーダー世界に寄与しているのですか。
・・・> 30年を「長い」といってしまうと現代社会は考察できなくなります(まじで)。自分が直接経験していてもいなくても、5080年くらいは視野に入れて考えるようにしてください。たまたま日本の平成元年(バブルの最高潮)にあたる1989年に、冷戦が終結し、1990年代に入ってすぐインターネットの時代が到来しましたので、1990年代という区切りは、相対的な指標というよりは絶対的な基準としていったん捉えるほうが、物事がよく見えてくると思います。いまの18歳ということにして考えるとしても、10歳以下のころには社会的な関心はほとんどないでしょうから、この10年内外ということになるでしょうか。私は2つあると思う。(1)SNSの普及。スマートフォンの普及とも連動します。日本では2011年ころからスマホが普及し、SNS人口が急増しました。世界的に見てもだいたい同じか、日本が遅いくらいです。2011年の「アラブの春」(最近のシリア独裁政権崩壊であらためて想起されました)は、フェイスブックなどが社会的な影響力を強めるきっかけになりました。またウォール街を占拠せよ!という反グローバリズム的な動きも、SNSに依拠します。反グローバルといいながら、その動きは世界で同時多発的で、双方向に刺激を与えました。2010年代半ば以降は、属性ヘイトやポピュリズムの極端化などにつながりました。いろいろな意味で、この10年はSNSなしに説明するのが難しい時期になりました。(2)グローバル・サウスの本格稼働。ちょっと前まで、中国とインドだけが突出して経済成長しているような印象をもっている人が多かったのですが、あっという間にアクターが増えて、BRICSなどという呼称すら古くなり、いまや世界経済の中心部分、メイン・エンジンになりかかっています。これも2010年代以降の動き。エアラインのところでも少し出てきましたね。当科目の最初に扱ったように、国境とか主権国家の領域というのは、あくまで西欧本位のものであって、非欧米圏ではもともと民族や宗教や言語が線引きできないほど混在していました。ボーダーレスというのが本来的なあり方なのです。サウスの強さは、そこにも由来するといえるのではないでしょうか。いろいろあるのが当たり前という環境で育てば、ボーダーの向こうに行かなきゃ、なんて身構えないでしょうからね。

 
スイス・アルプス

 

松井秀喜さんがMLBに転出した話は、普通に聞いたら「そうなんだ」としか思わないけど、日本の優秀な人材が海外に流出していることだという視点を得ると、危機感をもった。物事をそのままじゃなくて、それが大きく見たときには何につながっているのかを考えながら生きていきたいと思った。

野球の大リーグの話題は、日本の優秀な研究者が国外に出ていってノーベル賞を受賞したりするのと同じで、選択肢の一つとして日本以外の国を選んだだけというわけではなく、日本にいつづけると能力や意欲を制限されてしまうからという理由があるのが、なんだか虚しいことだと思いました。海外で学んだほうが自分の視野を広げられる、多様性を理解できるという利点をよく耳にするし、経済的に余裕があるのであれば、「自分から世界を広げようとする意思がある」という点で有意義な行動だと思いますが、日本にずっといるとダメ(=価値観の偏った人間になる)という理由だとしたら、やっぱりそれってどうなんだろう、金銭面や家庭環境によっては視野を広げるための学びをする権利すら得られない人もいるのではないか、とも思います。場所がどこであろうと結局はその人の学ぶ姿勢しだいだと理解はしたけれど、日本を出ることで日本のシステムを俯瞰で見られて、この疑問の答えがわかるのであれば、私もいつか国外に出てみたいなと思います。
・・・> すばらしく、するどい分析だと思います。実は2つの論点が混じり込んでいるので、整理しましょう。一流のスポーツ選手や学者の海外進出(流出)は、そのレベルの人であれば活動のフィールドがそもそも広いし、以前よりも広がっているという、わりとシンプルな理解で済みます。問題は後のほう。家庭環境とくに親の所得水準によって、大切なことを得られるかどうかが変わってくる、という点です。こちらは社会学(教育社会学)でずっと中心的に取り組まれているテーマ。日本は、19802000年くらいのあいだは総中流とかいわれた、平均点が高いが、飛び抜けて豊かな層も貧しい層もほとんどないという感じだったのが、その後は(つまりみなさんが生まれたあたりから)階層格差が広がり、かなり極端なことになってきています。おっしゃるように、親の階層によって受けられる教育の水準も、得られる視野や関心の幅も変わってきます。「結局はその人の学ぶ姿勢しだい」というのは、私はいっていないつもりですが、そうではありません。個人の努力や気合(の不足)の問題に帰責してしまう風潮こそ、イカれた社会の病気であり、新自由主義の悪影響であり、金持ち側の見当違いの暴論だと私は考えます。そこを捉えるのが学問のできる人間のするべきことです。率直にいって、本庄高等学院での学びには、そうしたことに気づける機会があまりありません。意味はおわかりですかね?

日本の公教育だけを学んでいると、日本独自の手法で固定観念が悪い意味でインプットされてしまうときがあるのかなと思った。最近、高校や大学から留学するのではなく、中学校あるいは幼稚園や小学校のときからインターナショナルスクールに入れる親が増えているが、日本的な教育を子どもに受けさせず、もっとグローバルで多角的な視点をもつとか、将来のために英語を使えるようになってほしいからなのだろうか。私は、日本の教育を完全に切り離そうとするのも逆効果ではないかと思ったりもするが、実際のところどうなのか気になった。
・・・> 教育の話は、一人ひとりの生徒のことになると、やってみなければわからないし、やってみて何かがわかったところで別の方法に再挑戦するということがほぼできないので、難しいですね。以下はあくまで一般論ですが、教育の専門家としては、そこいらの一般論よりは相当に専門的でまともなことをお伝えできるつもりです。ご指摘のように、大都市部に限っては、インターナショナルスクールや民族学校など、日本の公教育の外側にある教育を日本国内で受けるという選択肢が以前よりは増えました。留学やオンラインのことなどまで視野に入れれば、さらに拡大していることでしょう。これは日本に限った話ではなく、世界的な動向です。もちろん富裕層に限ります。そこにはまた別の問題があります1つ上で述べました)。そういう親の願いとしては、おっしゃるようにグローバル人材にとか、英語話者にといった動機が大きいでしょうし、もっと漠然とした「日本にはなさそうな何か」を期待しているかもしれません。親自身に外国経験や国際的な触れ合いの経験があると、自分の子どもにもそうあって(そうなって)ほしいという願望が生まれるのは自然で、可能性があるならそうしたいと思いますよね。
レビュー主さんの疑問の一つは、早期からそうしてよいのか、ということだと思います。教育を専門的に学ぶと(たとえば大学で教職課程にエントリーすると)すぐに出てきて、生徒目線では気づかなかったことなのでびっくりすることがあります。それは発達development)のこと。教育分野でいう発達というのは、生まれてから亡くなるまでの時間軸に沿った心身の変化の総体をいいます(主さんは現代社会論Iも受講されているのでそちらで以前に取り上げたことがありますね)。一般のイメージと違うのは、体力の低下や知力の衰えといったマイナスの変化も「発達」だということ。停滞や横ばいも発達です。人間はずっと発達しているわけです。そして、その発達の過程には、ある特徴をもった時期的なまとまりというのがあります。乳児期、幼児期、児童期、青年期、成人期・・・ というのがそうです(倫理の教科書に書いてあります)。たとえば英語のような、母語以外の第二言語を習得するとして、幼児期や児童期のそれと、青年期のそれとでは大きく意味が異なります。1学期の言語編で少し扱ったように、子どものころに外国語に触れれば、発音や言い回しなどはすぐに身につけられるかもしれないが、複雑なことは処理できないままになるかもしれません。母語モノリンガルの人が、母語でいっているのに(そして発音自体は聞き取れているのに)意味がさっぱりわからない、という事態が起こるのと、ほとんど同じ話です。つまり、発達段階でいう青年期(adolescence)にさしかかるころに、抽象とか概念といったものを処理できる能力が搭載されるのであり、「グローバルで多角的な視点をもつ」有用な人材になるには、母語か第二言語かその両方で、高度かつ抽象的・概念的なものの処理を果たせる能力が不可欠になります。発音やスラングばかりいっちょ前で内容は遊びのことばかり、という英語づかいなんて、ビジネスでは役に立ちませんし、パーソナリティ的にもイタいですよね。早期に外国系の学校に入れるとそうなる、というわけではありません。外国系の学校に入れても日本の公教育に普通に進ませても、そうなる人はそうなります。私が見るところ、外国系の学校の教育を受けた日本人に、グローバルな視野をもった人が多くなるというのは、教育内容のこともあるが、そもそも出身階層の文化(要は親のあり方)に連動しているのではないかと。法制度の範囲内であれば、どんな教育をどんなふうに受けても自由なので、それはいいのですが、経済的なゆとりがあまりなく、自身で「どれが有用な教育なのか」を判断できない大多数の人に向けて、再分配的に稼働しているのが公教育というものなので、私はあくまでそちらにこだわりたいし、公教育の質を向上させることをライフワークにしているというわけです。

英語話者が増えるかAI依存が拡大するかというChatGPTの回答を読んで、それぞれの選択肢を選んだ層のあいだに経済的格差が生じるという意見に、納得しました。英語を習得するために努力できる人とできない人、そもそも能力的に得意な人、まったくできない人など、いろいろな人がいます。できない人も「グローバル化する世界に適応するため」無理やり英語を教えられてきましたが、AIの進歩により英語を習得しなくても生きていけるよう、社会が変化してきた。それに頼って英語習得をあきらめる人と、さらに努力する人のあいだには、これから大きな差が開いていくのではないかと考えました。
・・・> そして、そのことは英語以外にもいえます。高校生の学びの姿勢を見ていると、インターネットやAIに頼りきりで、各教科の学びも入力オンリーの受身という人が、どうだろう半数かそれ以上はいるでしょうか。ネットのない時代であれば自身で話題や知識そのものを探してこなければならなかったところが省力化され、いまやストーリーまでつくってくれるので、浅くてよいのであれば、もう主体的に思考する必要がありません。学んだ手ごたえというのを生活や社会の中で一度も実感しない(唯一の手ごたえは試験でよい成績を取るということ)という人にとっては、浅くて何がいけないんですか、ストーリーきれいにまとまっているじゃないですかと、本気で思っていることでしょう(点数も取れるしね)。うわっ、学びの意味ってこういうことなんだと、なんらかの手ごたえを得る経験があれば、ネットやAIにはとうてい満足できず、みずから探究しようとします。そこに、もうすでに格差が生じています。グローバル化する世界では、それが世界レベルで起こっていて、ものすごいレベルの差になっています。それが生活水準にまで影響して、人はようやく気づくのでしょう。いや気づかないかな。

歴史の教育問題を取り上げていたが、英語という「世界語」の中心の教育は深酷な問題だ。文法・単語はたしかに大切だが、英語とは本来コミュニケーション・ツールなのだ。これを忘れていて、いつまでも目標という越えられない壁のようにしている。早稲田大学附属という高校の「英語コミュニケーション」でも、生徒は英語を使わない。研修で、さまざまな国から同年代の人が集まったところに行ったことがあるが、アルゼンチン、トルコ、ウクライナなどの10歳が英語でぺらぺら会話していた。彼らには、テストならば日本人たちわれわれはボロ勝ちだが英語の本質ではボロ負けである。やはり「本質」を得たものには、勝てるものはない。
・・・> シンコクは深刻と書くのが正しいのですが、あえてその字を用いたのかもしれず、よりシンコクさが伝わるので深酷のままにしました! 日本人の英語(外国語)嫌いの「酷さ」は、残念を通り越すレベルです。ひとつ私の意見をいうならば、英語(外国語)とは「ツール」ではないと思う。少なくとも、学びの対象としての言語を「ツール」(道具)として捉えてしまうと、AIでいいじゃんという話になってしまうのではないかな。

AISNSも、将来どんどん規模・影響力が大きくなると思う。私はChatGPTを利用したことがない。決して自分の文章に自身があるからではなく、生成AIを使いこなす自信がないからである。AIの技術の進歩は認識したうえで、いつ、どのように使えばよいのかがよくわからない。SNSは使わざるをえないので使うのだが、スマホに私の使用データを見られているせいか、政治のニュースも勝手に流れてくる(このまえなどプロ野球ニュースに立憲民主党の広告が来て寒気がした)。そんなときに思いついてはじめたのが、自民信者や、山本太郎や彼の信者にどう反論するか考える遊びである。ずっとそういう動画を見ていると、だんだん彼らが合っている気もしてくるからこそ、彼らの気持ちは理解しているつもりである。学問といいグローバル化といい、相手方を理解したからこそ固まる自分の考えがあると思う。そのためにAIや海外のことを学ぼうと思った。
・・・> 彼らの「気持ち」の理解、という発想がニホンジンテキ、のような気もします。社会科学で問うべきは心情ではなく論理や構造のほうでは?

オーストラリアがGAFAの影響を食い止めようとしているのか、未成年にSNSの規制をかける予定とのことですが、ねらいどおりにいくと思いますか。
・・・> GAFAうんぬんというよりは、発達に対するデジタルの悪影響ということだと思います。ある程度の効果はあるように思いますし、同様の動きを見せる国もあるのではないでしょうか。

 
 
(上左)ブルガリア ソフィア  (上右)イタリア トリノ  (下左)ポーランド グダンスク  (下右)ベルギー トゥルネー

 

いま世界でグローバル化が進んでいるがAIの発達によって英語を学ぶ人が減るのではないかという考えは、そのような見方があるのかと思った。グローバル化によって世界中の人と人とが交流していく中で、英語は大事で、まだまだ英語を学ぶ人は増えていくと考えた。
・・・> どことなくまだ肝心のところにたどり着けていない感じもする。グローバル化を「世界中の人と人が交流」するという認識(それがトップに来る)だとすると、最終回の主題を外していますし、おそらく初回からかみ合っていなかったのかなと。当科目とかみ合わないのは別にかまいませんが、これなら深められる!という分野を見つけよう。

普段はスポーツを見ないのにオリンピックのときだけ日本を応援する理由がわからないといっていましたが、スポーツ選手が自分の国(とくに貧困の国)に寄付することがよくあります。寄附された側はその人の活躍によって生活できているので、応援する理由になると考えました。その風潮に影響されて、日本などでも自国の代表を応援するのだと考えました。
・・・> うーん、たぶん違うでしょうね。貧困の国はともかく日本人が日本代表を応援する理由の説明にはなりえません(寄付の話なんて知らない人が大半)。最終回の話でオリンピックのその話にだけ注目したというのも、ちょっと残念なところです。1つ上の方と同じアドバイスを送ります。

日本の中高生・大学生は、学習量・学習時間が圧倒的に少ない、という話がありましたが、意識の問題が大きいと思いました。一例にすぎませんが、修学旅行で訪れた台湾の生徒たちは「自分が台湾を率いていくのだ」という高い意識のもと熱心に学んでいました。もちろん個人差はありますが、日本の学生はそのような強い意識をあまりもっていないことが問題だと思いました。
・・・> レビュー主さんも同時履修している現代社会論Iの最終回で、戦後日本における高等教育(大学)のあり方の変化を扱いました(スライドを配信しているのでぜひごらんください)。日本社会がまだ貧しくて、どう見ても改革・改善すべきことが山ほどあった時期には、世の中全体に政治や社会に対する意識がありましたし、頭でっかちな大学生こそそういう問題意識があってしばしば先鋭化しました。日米安保条約改正にかかわって1960年を中心として騒擾化した「安保闘争」、ノンポリの学生を含めて全国で盛り上がった196870年の全共闘運動をピークに、学生運動は後退し、折からの消費文化の浸透(と、その背景にある「豊かさ」)にまみれて、大学生は誰よりも現状保守的で社会批判の構えを失った層になってしまいます。思うに、自民党政権や経済界の側にも、そうなってほしいという願いがあったのではないかな。豊かで、まあまあ安定していた時代にはそれでよかったのでしょうし、私などもそういう非常に「愉しい」時期に大学生活を送った世代なのだけれど、情勢が変わっても学生の構えはあまり変わらなかったかな。あるとしても、自身の生活を確保するための、いってはなんだけどスケールの小さなものになりがちです。学習量・学習時間の少なさは、政治・社会意識の問題とは違う次元でも生じています。1つ下で解説します。

日本人は勉強量が少ないとおっしゃっていましたが、アジアは厳しい受験のある国が多く量をこなしていると思ったのですが、それでも少ないということなのでしょうか。よくアメリカなどで、日本よりはるかに簡単な数学を解いていたり、有名な国の場所もわからなかったりするというのを見聞きしますが、もっと他のことを勉強しているということでしょうか。このような人がいる中でもGAFAのように世界に影響を与えるような企業が生まれるのがずっと不思議でした。
・・・> 問題点をクリアにする、よいご質問だと思います。当科目の問題意識そのものにも直結しますので、最終回にあたって、あらためて整理しておきましょう。(1)日本の生徒・学生の学習量(時間)の圧倒的な少なさは、各種の統計から明らかです。「アジアは厳しい受験の国が多く量をこなしている」のは、おおむねそのとおりです。日本(人)は、アジアの一員でありながら、そのアジアの相場にはるか及ばない、ということです。(2)国どうしの比較をしてみるときに、私たちはバイアスとか、印象の強い部分だけを取り出して、本来比べるべきでない対象どうしを比較してしまうことがあります。いま問題にしているのは「日本の生徒・学生の学習量(時間)」ですから、他の国で学ばれている内容やそのレベルを比較の対象にするべきではありません。日米比較だとして、合衆国の生徒・学生の学習時間を取り出して比較し、こんどは学力などの質のほうも比較してみて、相関性(の有無)を見る、というのが妥当な考察の仕方でしょう。(3)アメリカに関しては、州ごとに教育方針が異なり、学校や教員の裁量が非常に大きく、人種や階層ごとの問題がありますので、「アメリカの教育やその水準はこうだ」と、ひとくくりで表すのが容易ではありません。イメージとしては、また野球の話になってしまいますが、代表チームとして戦ったら日本代表と互角でしょうが、個別の選手の実力で見ればはるかに優れた選手がMLBにたくさんいますよね。GAFAもそのように捉えてみてください。(4)GAFAはそもそも「アメリカ」なのか、アメリカの教育の結果なのかという点も、問わなくてはなりません。ユニクロや大谷翔平が「日本」なのか、というのと似た構図です。(5)いまはインターネット環境も進んでいますし、それなりに海外旅行もしやすくなっていますので、大学生のあいだにぜひ海外の同世代の人たちとコミュニケートしてみてください。質・量とも、ちょっとびっくりするくらいに差をつけられていることを実感できるはずです。ネットはそういう目的で使うべきものです。娯楽におぼれたら、それだけ学習量が減るのは当然で、日本人の学習時間が極端に減っていった経過は、インターネットの普及とほぼ時期的に重なります。

知識を血肉にするべきだという話がありましたが、ではなぜ、それを教育でやらないのでしょうか。小・中学校では知識を得るだけで、活かしているとは思いません。高3の選択科目によって初めて、学校主体で知識が活かされたと思います。小・中でも知識を得て、それを活かすというサイクルにするべきだと、素人目には思うのですが。
・・・> 学校教育の内容や方法を公示している学習指導要領では、20世紀末の段階で、知識を形式的に得るだけでなくそれをもとに思考したり創造したりする教育に切り替えよう、となっています。国の公式見解と学校教育のおおかたの実態が一致しないとすれば(一致しないんですけどね)、(1)公式見解に問題(矛盾や欠陥)がある、(2)実践主体(学校や教員)の能力的な問題、(3)教育を受け取る側(児童・生徒や、実際にはその親たち)のニーズと公式見解が乖離しすぎている、(4)歴史的な惰性 ・・・のどれか、あるいは組み合わせでしょう。ICT教育に焦点化して書いたものですが、教育全般に敷衍して妥当するはずの内容は、古賀「「学校教育とICT」の動向」、古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022年、pp.8-9にありますのでぜひどうぞ。

 
 
(上左)韓国 釜山  (上右)台湾 基隆  (下左)香港  (下右)北キプロス・トルコ共和国 北レフコシャ

 

コミュニケーション能力の高い人というのは、知り合いの中で話を盛り上げられる人ではなく、見知らぬ人とのあいだでも自分の学びや経験を活かしてコミュニケーションを取れる人だと考える。私も、テレビはもうほとんど観なくなってYouTubeばかり観ている。自分の興味のある動画しかおすすめに出てこないため、情報に偏りは生じるが、その情報を簡単に鵜呑みにしないことがいちばん大切だと考える。自分に向いているものに集中して突き進んでいくのはよいとは思うが、そのぶん自分自身をコントロールする能力をはぐくむことが、自身の成長のうえで最重要であるとも考える。
・・・> なんだか最終回にして思いがけず力強い言葉を聞けて、うれしいです。成長なさったのか、もともとすごいのに私が気づけなかったのか(たぶん両方)。YouTubeはほどほどにして(自戒!)本を読みましょうね。

現代社会を学ぶうえで、1つの学問の分野だけでなく複数の分野を学び、多方面からの視点が大切だということがわかった。1つの分野すら深く学べていないので、あらゆる方面から論じられるこの授業で、ときどきわからない部分があった。それぞれの学問を結びつけて、現代社会を見るようにしたいと思った。

じっくり時間をかけて学ぶというのは、私は苦手なことでまったくできていないと感じた。トランプ政権になって、アメリカ第一主義のアメリカをめざしていくと感じていて、日本や世界は自国の力で自分たちを守っていくことがより必要であると考える。台湾の国旗を見ると国民党のマークが入っていることから、中華民国としての台湾がより強いことがわかる。また台湾として独立することが難しいだろうと感じた。このように、些細なニュースやちょっとした点に関心をもつことが重要であると感じた。
・・・> 苦手なんだろうなというのはわかりますが、だいぶ前向きに考えられるようになってきて、とてもいいことです。間違いを恐れずに、もっと前のめりになってほしい。まだまだインプットの精度が高くないので、シンプルな情報であっても適切に受け止めることができていないケースがしばしばあります。たくさん読書して精度を上げるしかありません。また国語力も、もう二段か三段くらいは上げましょう。いまのレベルだと、いいたいことを伝えられず誤解を生じるリスクがあります。「感じる」連発とか、(武士の情けでここでは省いてあげたけど)「自分」なんていう変な一人称は、さんざんいってきたのでもう卒業しないとね。そして、トランプや台湾の話は「些細」でも「ちょっとした点」でもなく、とてつもなく大きな話です。自分の日常や趣味に閉じた世界から、意識的に自分を引きずり出すようなつもりで。

冷戦に関する学習の必要性ということにとても関心を抱きました。この戦いは、現在の日本の政治体制や国家原理にも非常に大きく影響していると思います。また歴史や公民でもなかなか深掘りできていませんでした。
冷戦を知らなければ現在の日本の政治についても理解できないということから、歴史を学ぶことの重要性があらためてわかった。この授業で学んだように、物事をひらたく理解するのではなく自分のものとして立体的に構築していきたい。

文系学部に進むにあたって、まだ時間があるので予習したいです。読むべき本があったら教えてください。
・・・> そんなの山ほどあるよ〜(笑)。分野にもよるのでなんともいえませんが、中公新書、岩波新書、ちくま新書、講談社現代新書のラインアップでおもしろそうなものを20冊くらい選んで買ってみてください。初めのうちは20冊くらい手許に引き取らないと「あたり」に出会える確率が低いです。打率を上げるには、それなりの練習(量)が必要。新書には上記以外のシリーズもたくさんあり、読み物としてはそれぞれおもしろいのですが、学問としての水準が維持されるのは上記くらいです。最終回のテーマに関しては、村井吉敬『エビと日本人II』(岩波新書)、苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)などは、もう古典的になっていますけれど、おもしろくて切ない。現代社会論Iの最終回レビューにも、読書の仕方に関するコメントを書いていますのでご参照ください。


パリ リュクサンブール公園

 

きょうは誕生日です。成人しました! 古賀先生1年間ありがとうございました!
・・・> 授業当日は、ちょっとおとなっぽい、素敵な服装をしていらしたので、いいことでもあるのかなと思っていました。素敵なおとなとしての歩みになりますように。

現代社会論は文系教科の集合成であり、何重もの知識をベースにしていて、逆に現代社会論の学びは多くの文系科目を活かすきっかけになる。冷戦、政党、さまざまな情勢。自国を見るだけでは届かない視点、内情分析は、ネットを見るだけでは手に入れられない理解のために必要なので、授業を受けて、何度も念押しされたように感じました。1年間の中で最も刺激が強かったのは現代社会論IIです。

いまの高校生活では、勉強や課題に追われていて自分では大変だと感じていたが、いわれてみれば、自分の知識量や一般教養、ニュースを見て自分で解釈する力などは足りていないなと思いました。ただ今年度のこの授業と上田先生の国際関係論入門のおかげで、少し社会のことを、単純暗記ではなく現実のこととして考えられるようになったと自分では思います。古賀先生の授業は毎回ハッとさせられることが多く、いちばん印象に残っているのは初回で、自分の経験をもとに書く卒論の浅さ(もったいなさ?)の話でした。私は、以前住んでいた国について書いているので、初めはショックでしたが、1年考えてみてたしかにそうだな、大学ではまったく知らないことを中心に積極的に学ぼうと思うことができました。

多角的な視点で物事を見る、ということはとても簡単だが、実際にそれをおこなうのには、まずさまざまな視座を得ることからはじめなければならず、とにかく膨大でつかみにくいというのは、この1年間で痛感したことである。一方で、この授業ではその足がかりとなるものの考え方を多く得られたので、それらを意識しながら大学で学問を修めて、あらためてグローバル社会を問いなおせば、いまより深い知見が得られると思う。今後も、普段から世界中の政治や文化に興味をもって、その情報を集めていくつもりである。

この授業が終わってしまうのが寂しすぎます。現代社会論は他科目の内容とつながっている感覚がとても強く、学んだことを活かして思考できる、とても興味深いものでした。この授業を通じて、ニュースや他科目を学ぶうえでの考え方や視点が広がったと実感しています。大学で専門性の高い学問の分野に飛び込む前の高校生のうちに、学問どうしのつながりを体験できたのは、とても有意義なことでした。授業は終わってしまいますが、授業スライドはすべて保存して大切にもっておこうと思います。

8ヵ月間ありがとうございました !! グローバル時代に置いていかれる感覚をおぼえるということが本当に多かったですが、先生の授業のおかげで、高校生のうちにこれから世界がどういう人材を必要としているのか、自分に何が足りていないのかを明確にすることができてよかったです。授業にFRUITS ZIPPERの話をちょくちょくはさんでくださるのを実はひそかな楽しみにしていました !!
・・・> いやことしは睡眠以外の時間の3分の1くらいは頭の中が彼女たちでしたからね(汗)。そんな先生もニューかわいいと思ってください(笑)。

この現代社会論IIを選択したときの私(2年生)は、グローバル時代のパースペクティヴってなんだろう、よくわからないけど、もっと国際社会について詳しくなりたい!と思っていたが、授業を実際に受けてみると、知識を入れて「詳しくなる」というよりも、歴史的にこういうことがあって今はこんなことが起きている、で、これからどうしていけばよいのか?という「展望」と、それについて自分はどう考えるべきか、どう享受していけばよいのかと、深く考えさせられる授業だった。授業を受けて「詳しくなった」というほどこの世界は簡単なものではないが、もっと社会に目を向けて、それについて多角的に考えられるようになりたいと思う。そしてまずは、いやそんなことより(?)、まず世界に出てみたい。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう半ばですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればなという思いでいます。とくに、これまでの社会系(公民・地理歴史)の授業では、どうしても日本のことが中心であることが多かったと思いますので、当科目ではあえて焦点や対象を日本の外側に設定して、「世界」「国際社会」を展望するための見方を共有していくことをめざします。「展望するための見方」を端的に表現しようとしたのが、副題にあるパースペクティヴです。実はこれまでに「グローバル時代のパースペクティヴ」の副題を2度、使ったことがあります。最初は2016年、2度目は2020年です。偶然ではなく、意識的に合衆国大統領選挙の年に当てています(夏季五輪開催年、うるう年であることは承知していますよね)。2016年には、英国のEU離脱投票がおこなわれ、その開票速報をこの授業内で、みんなで見つめました。トランプがよもやの大統領当選を果たしたのもその年です。2020年はコロナ禍で、1学期の途中までオンライン授業を余儀なくされ、ただでさえ社会・世界がイレギュラーな状況になる中で、合衆国ではまたしても政権交代が起こっています。「パースペクティヴ」を掲げる年には、世界で何かが起きるのかもしれません。2024年は、どうでしょうか。

話題の大半が、なじみの薄い外国ないし世界のことになります。これまでの知識や考え方では思考が及ばないだろうと思います。少しずつでよいので、「見方」(「知識」ではない)を心得て、それを介して世界を見渡すようにしてみましょう。新聞やニュースで、これまであまり注目しなかった分野にも目を向けることを習慣化し、意識的に視野を広げるようにしましょう。18歳の視野はやっぱり限られています。いま広げてみると、それは間違いなく自身の成長につながり、将来の可能性を広げることにもつながります。本物のグローバル思考に向けて、歩みをはじめましょう!

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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