古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études sur la société contemporaine II: «le monde en mutation / pour la perspective et la réflexion globales

現代社会論II
変動する世界/グローバルな視座と思考のために


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜34限(11:20-13:10) 教室棟95号館 S203教室

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現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究

 

2026910月の授業予定
9
18日 マジョリティ/マイノリティ考(2):他者と向き合う
9
25日 歴史の歴史性と今日性
10
2日 視点としてのフランス:問いなおされる共和国の原理
10
16日 視点としてのドイツ:十字架を負い、欧州を牽引する

 


次回は・・・
15-
歴史の歴史性と今日性

4回でナショナル・アイデンティティについて取り上げた際に、私が考える三要素として、言語・宗教・歴史を挙げました。普通は「民族」だと思うのだけど、そこに「歴史」を含めたのはなぜ?という問題意識が残っているのであれば、今回ぜひ回収しましょう。1学期に言語、今学期に入って宗教をテーマとする回を設けました。具体的な言語(英語、フランス語、中国語・・・というような)でも、具体的な宗教(仏教、キリスト教、イスラームの教義そのもの)を学ぶのではなく、「言語というもの」「宗教というもの」というふうに、一つ外側から捉えてみたつもりです。そしていよいよ今回が「歴史というもの」の回です。母語を含む言語とかかわりのない日はないはずですし、宗教も思いのほか身近にあるのですが、歴史となると、「学校で学ぶもの」という印象が強く、人によってはかなり距離があるのではないでしょうか。今回はその意味で、三要素の中では最も難易度の高いテーマでもあります。事前に、次のような問いを立てて、考えてみてほしい。なぜ歴史を学ぶのか。歴史が好きな人は、わざわざこの問いを立てません。おもしろいから、学んで有意義だから、というふうになると思います。しかし歴史が不得意な人、嫌いな人であれば、半ば逆ギレ気味に「なんでそんな昔のことをイチイチやんなきゃいけないんだよ」と思ったり口にしたりしたことがあるのではないか。この問いは、「なぜ私(自分)は」ではなく、「なぜ人は歴史を学ぶのか」というふうに一般化して、あらためてその答えを考えてみてください。その次に、もっと抽象的でさらに難解な問い――しかし、よりシンプルな問い――が来ます。なぜ歴史があるのか。学校で教えるとか学ぶとかではなく、歴史history)なるものがなにゆえに想定されるのか、という問いにほかなりません。そういえば、いつから人は歴史を歴史として認識し、語り、伝え、学ぶようになったのだろうか。時代ごと、地域ごとの違いはあるのだろうか。

当然のことではあるが、過去のすべてを記録し、再現することはできません。無数にある要素の中から、これと思うものを抽出して、歴史として再構成します。そんなことをしたら自分たちにとって都合のよい部分だけを歴史にしてしまうんじゃない?という懸念をお持ちでしょうか? まったくそのとおりです。過去の何をどれくらい抽出し、どういうふうに評価するのかは、かなり恣意的です。不都合な部分を切り捨てたり、証拠を廃棄したりすることもめずらしくありません。また、歴史の教科書に載っている人名や事件名などの単語を暗記するのが歴史の勉強ではない、といわれることがありますが、同時に、単語ではなく流れを覚えなさい、という人(歴史の先生を含む)は結構多いかもしれない。受験生であれば余計にそういう学び方をすることでしょう。でも、考えてみてください。歴史は流れてなんかいません。無数にある過去の要素の中に、後の世の人が自分なりの問題意識に沿って流れを見て取っている(流れているように解釈している)ということです。だから同じ時代に関して、複数の流れが見えます。人によって、立場によって、属する国家や民族によって、流れの見え方がまるで違うことにだってなりえます。伊藤博文は、日本にとっては近代化に功のある初代首相、韓国・北朝鮮にとっては植民地化の元凶となったとんでもないやつ、というふうになりがちです。伊藤は伊藤なんですけどね。地動説の提唱者コペルニクスは、ドイツから見ればドイツ人で(ドイツ語とラテン語のバイリンガルだった)、ポーランドから見ればポーランド人。コペルはコペルなんですけどね。

ところでつい最近、中公新書の『継体天皇』という本がかなり売れて、あちこちで紹介されています。著者の河内春人さんは大学時代の部活の後輩(彼は明治大学出身なのですが、インカレ的なつながりがあった)で、当時から歴史の研究に熱心で、そちらの道に進むと聞いて互いの健闘を誓ったのが30年くらい前(笑)。ご存じでしょうか、「日本書紀」においても継体天皇は前の天皇(武烈天皇)との系譜的なつながりがなく、数世代さかのぼらないとつながらない設定になっています。オフィシャルな歴史ですらそうなのだから、実際にどうだったのかは非常に微妙。いまの歴史学でいわれているのは、万世一系の天皇家などなくて、5世紀までは複数の家が「大王」を出していたということです。それでも506年ないし507年に北陸方面からやってきた継体天皇が即位してからは、現在の天皇にまで確実に血筋がつながっています(第12回の授業で「明らかになっているだけでも1500年を超える」としたのはこれを基点としている)。「日本書紀」が編まれたのは8世紀初めで、要はその時代の天皇や為政者にとって必要な歴史が描かれています。継体天皇のようなイレギュラーな人物を「日本書紀」がどのように描いたのか、ということが非常に興味深い。ついでのことに、近代の天皇制にも大きな影響を与えた水戸藩の「大日本史」には、「三大曲筆」と呼ばれる操作が含まれていることが有名です。現代の私たちが「これが日本の歴史だ」と信じているものの中に、奈良時代や江戸時代の歴史家たちの意図や操作が含まれ、それ以前とは異なる「流れ」がつくられていたことになります。歴史の歴史性と今日性という謎めいたタイトルの意味を、少し感じられるでしょうか?



REVIEW 9/18

今回は、現代社会におけるマジョリティとマイノリティの関係性が、西欧中心主義や分割統治などの歴史的背景や、グローバル化の中でどのようにかたちづくられてきたのかを学んだ。とくに印象的だったのはマジョリティ側がもっている偏見への指摘である。人種差別の原因の一つがそれらの偏見であることに気づいた。またSNSなどの短文文化によって複雑な事柄が単純化され、排外主義や偏見が助長されやすくなっている現状についても、深く考えさせられた。

近年の世界では多様性を尊重する動きが大きくなっています。その中で、マイノリティの意見をどれだけ受け入れるかでさまざまな問題が発生しているように感じます。今回の授業では、このテーマに関する事例をたくさん知ることができました。

求人となったときに、第二言語も自由に扱えない日本人よりも、日本語は少し劣っているが英語や中国語を流暢に話す外国人のほうが優秀な人材であるし、国籍よりも個人として見られるので、もっと勉強をがんばらないとと思った。

異文化の交流は大昔からの常であり、それに対応しようとするさまざまな立場があるということを知った。それぞれ大切にしたい文化があることを知ったうえで、自分の立場をそのつど認識しなければならない。

移民などのテーマはとくに日本の国力にも関係するので話題になるが、その受け入れ方についてはよく考えたい。「日本」というナショナリズムを基に都合のいい人だけ受け入れるというのは、受け入れられる側の人に失礼だ。私自身、7歳までエジプトで過ごし、マイノリティとして過ごしたが、嫌な思い出は少ない。日本では授業で紹介されていた「郷に従え」という風潮が強い気もする。そんな狭い視点ではなく、ワイドな目線で人とかかわりたい。

地理の授業でもエスニック・タウンについて学習したので興味深かったです。歴史的背景によって形成された地区とは別に、グローバル化、経済成長に伴う旧植民地関係以外のエスニック集住の例を知ることができて学びになりました。高田馬場にミャンマー系の人が多いことに驚きました。
先週、地理の授業の課題でエスニック・タウンについて考える機会があった。身近な土地にもマイノリティのコミュニティがあり、マジョリティとぶつかって議論を生む場合もあって、他人事ではない。文化の違い、慣習の違いはどうしてもあることだが、無責任なままマイノリティが合わせるようにと強要したり、ネット上で議論したりすることは的外れだと思う。たしかにマジョリティ側にもアイデンティティがあるが、それから外れたら徹底的に批判するという意識が根づいてしまっているのが一番の問題である。スポーツの例にもみられたとおり、自他に線引きをするというのは単純ではないが、一方で線引きしなければならないこともある。私はマジョリティ側にいようとしてしまうため、マイノリティの立場になってみることでその線引きや議論に対して、新たな視点をもって、自分の思考に風を通したいと思った。

カナダにホームステイしていた際、フィリピン出身の人がとても多いエリアだった。移民が多いとしてもなぜ固定のエリアに集まるのか疑問に思っていましたが、異民族に物件を貸したがらず、特定のところに集中しがちなのだということがわかり、納得しました。差別的な意識はなくとも外国人が何かの事件を日本で起こしたときには、まとめて「怖い」という気持ちになってしまうのは、自分の中にもあることだと思いました。とくに日本はカナダやアメリカに比べて多様なバックグラウンドをもつ人が多くはないので、寛容さの部分で違いがあるのではないかと思います。

西川口や池袋などの新チャイナ・タウンにいる中国人の多くは東北部出身だと推測しているが、なぜそのように出身地方が固まっているのか疑問に思った。ガチ中華の店員さんはほとんどが東北部の方言の中国語を話しているように見える。そもそも日本に働きにくる中国人には東北部出身の人が多いのか? それは満州などの歴史的な背景が関係しているのだろうか?
・・・> 華僑の人たちは、定住先が日本であれ他国であれ、郷党意識をもち出身地の縁故やつながりを足場に移住するということが普通でした。中国は広くて習俗や文化、それに言語も多様であり、公教育やメディアが発達する前は「中国語」も単数ではなかったですからね。最近のガチ中華などにみられる中国人ニューカマーに東北出身者が多いのは確かです。「満洲国」時代からそうだったというわけではなく、かつては福建や広東、客家の人が多かったのだけど(一人っ子政策の前は、家業を継ぐことのできない弟たちが多かった)、1990年代以降に中国の経済成長と日本の経済停滞があって、中国の中心部からわざわざ日本などの外に働きに出る動機が薄れ、意欲や野心があって外に出る人たちは停滞する日本ではなく元気な欧米やアジアをめざすようになって、結果的に、「外に出る」タイミングが遅くなった東北の人たちが日本にたくさんやってくるようになったというわけです。

エスニック・タウンについての話がおもしろかった。同じ文化や言語をもつ人々が一つの地域に集まることは、私たちの側から見ると閉塞的なコミュニティに見えるが、授業スライドには、同胞がいる地域は安心感をもたらすという視点があった。私が海外で生活していたとき、日本食が売られているスーパーや日本人がイベントなどを開催する組織に安心感を抱くことがあった。そのため、日本で外国人が同じ国籍どうしで集まっているのを見て、日本社会に溶け込もうとしていないと捉えるのは、自分が海外でしていたことを棚に上げていると思った。海外での生活を振り返ってみると、私は相手を個人として見るより、この人は中国系だから、この人はインド系だからと、文化の背景を最初から説明の材料にしていたこともあった。多様な民族環境にいること自体が必ずしも他者を偏見なく見ることにはつながらないのだと気づかされた。


縄文から弥生への推移においては大陸からの大規模な人口移動があったはずなのに
武力を伴う大規模な争いの痕跡が日本列島のどこにもみられない
この前頁にはコメをつくる弥生人と狩猟系の縄文人が楽しそうに語らう場面が描かれている
石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』48巻、中公文庫、1999年、pp.180-181

 

今回の内容は、課題図書だった『ポピュリズムとは何か』との関連性が強く、本を読んだときにわかりにくかった内容を理解することができました。ポピュリズム政党が、日本の場合は与党の右傾化を促したことによって、高市氏の自民党が大勝しました。ヨーロッパではイスラム移民反対のポピュリズム政党(AfDなど)が支持を得た結果、左翼政党からもイスラムの男女不平等によりイスラム系移民反対の意見が出てくるようになっている。おそらく、そのような意見をもてば支持を得られるからだろう。ポピュリズムが与える影響力はあらためて強力だと思った。

排外主義政党の存在によって与党が右に寄ってしまうという現象について、とてもよく理解できた。私自身の思想は右ではないと思ってはいるが、SNSを見ると外国人は日本から出ていくべきというコメントをする人が多い。実際にどれほどの日本人がそう考えているのかと思った。
グローバル化の反作用→ポピュリズム政党の成長→既存の保守政権が引きずられる という構図が、近年の日本の構図と重ねられ、興味深かったです。岸田政権あたりから高市政権にかけてのポピュリズムとの関係がわかって、とてもためになりました。

たしかに日本人が罪を犯したならば、誰々がとか、あいつがというが、外国人だと○○人が、外国人がというふうに主語がでかくなっているなと思いました。最近ではマイノリティが増えるのを恐れて、共生ではなく排除というのをよく見かけます。なぜ外国人の手が必要なのに排除しようとしているのか、不思議で仕方ありません。このマジョリティの動きによって、政党も影響されてしまい、どんどん悪化していると思います。とくに、一部の悪い行動をしている外国人を晒して「外国人は悪だ」と拡散していることです。そんなことをつづけていたら日本全体で経済が停滞してしまうと思います。排除せず、その文化を理解し交流をつづけるほうが、ネットをいじっているよりも豊かになれると考えます。

寿司を食べに行って、「日本はすごい!」などと褒められることはよくあるが、それは日本がすごいのではなくそこの寿司屋がすごいだけだというのを聞いて、とてもそのとおりだと思った。

移民やその子どもたちに対する差別の話がとても印象的だった。とくにいまは在日コリアンに対する差別は聞いたことがなかったし、K-Pop文化などもあるからこそコリアン差別が存在するということがとても不思議だと思った。
韓国人への偏見が少なくなっているというのは、日常生活の中で非常に感じる。むしろK-Popアイドルや美容大国というイメージから、あこがれている傾向すらあるように思う。
・・・> 韓国との文化交流や日常的な行き来が普通になったのは、21世紀に入ったあたりのことです。日本で「冬のソナタ」が大ブームになったのが2003年以降のこと。いまの高校生はその子どもの世代なので、コリアン差別があること自体を知らずにびっくりする、というのも無理からぬことです。差別感情が薄まるというのは何にせよいいことで、人間の進歩や学習というものに希望をもつことができるなとも思います。

近隣諸民族に対する差別・侮蔑的な視線について考えたとき、先生がいっていたように、近年では韓国に対する差別や嫌悪の目が少なくなったように感じます。私が小さかったときは、野球WBCでの韓国選手が国旗をマウンドに立てるなど、スポーツの面においても韓国へのヘイトが高かったと思います。現在はK-Popや韓国コスメの広がり、韓国旅行の増加からもわかるように、韓国に対して好印象を抱く人が増えたのではないでしょうか。
・・・> ちょっとだけ舌足らずで混線しています。マウンドに国旗というのは、「韓国へのヘイト」ではなくそのきっかけとなった韓国選手の行為。それをテレビで見た日本人の一部に韓国へのヘイトが起こったのですが、その前にイチロー選手の言動に対して韓国人の一部の猛反発があって、まあ感情の応酬みたいなものが起きてしまいました。2009年のWBCは、なぜか日本×韓国ばかり5回くらい見せられて、国際大会なのかなんなのかもわからなくなりかけていましたが、決勝戦で日本が勝って(しかもイチローの決勝打)優勝したため、こっち側では「まあいいや」という感じに収まったことでした。

 
(左)パリのアフリカ人地区シャトー・ドー  (右)ニューヨーク マンハッタンのチャイナ・タウン

 

実際に深く調べないままXやインスタグラムで目に入ってきた情報を無意識に信じ、先入観をもってしまったりすることが怖いと思った。実際に、アフリカ・ホームタウン計画に関する投稿はたくさん目にして、少し不安にも感じてしまっていた。誤認を防いでどのように情報と向き合っていくのか考える必要がある。

AIが意思をもつようになったらAIどうしが戦争をはじめるかもという先生の話に興味を抱きました。先日までの沖縄県知事選挙で、両陣営の多種多様な意見を目撃し、中には不快に感じるものがありましたが、SNSの短文文化ゆえの単純化された意見に惑わされないように、情報入手が容易なSNSだけに依存するのではなく、新聞や本にも目を通していかなければと思いました。

XやインスタグラムなどのSNSの怖さとして、自分の興味・関心のある偏った投稿ばかりが流れてくることで、その意見がすべてだというふうに捉えてしまうのだと、1学期の学習で感じた。今回の授業ではそれに加えて、そもそも日本語で書かれていることしか見ていないことや、インパクトのある短文に流されてしまうなどのSNSの怖さも学び、このことをわかったうえで使うべきだとあらためて実感した。

今回最も考えさせられたのは、排外的言説がどのようにつくられ、拡散されていくのかということである。事実に反する情報が拡散され、排外的になる。それが単なる感情論ではなくデマや誇張、曲解が土台となり、実績のように積み上がっていくという点が危険だと思った。さらにSNSによる単純化がこれらのことを起こしやすくしている。日本では、マイノリティ的なものを排除しようとするSNSの投稿は、経済的な面など人生に余裕がないことから自分事として考えることができなくなり、発信されているものもあるのではないかと思った。自身がマイノリティの側に立って物事を捉えなおすべきだと考えた。

XなどのSNSを見ていると、その立場になってもいないまったく無関係な立場で浅はかな議論をしているし、自分がどのような立場で議論すべきなのか、その前にその話題に触れるべきなのかどうかを考えるきっかけになるなと感じている。どんな文化をもつ人にも寛容でありたいと考える。そのために、相手の文化や宗教的な背景についてしっかり勉強する姿勢をもつことが大事であると感じた。

少し前にYouTubeショートで見た、土着民族のみが国民であると主張する議員と、移民2世の少年との会話を思い出した。切り取り方によってコメント欄の支持が真逆であった。切り抜き方次第で「どちらが正当か」の感情が簡単に操作されるということを実感し、SNSだけでなく常に当事者意識と想像力をもって生きたいと思った。

短文文化について考えたとき、有名人や芸能人が後先を見ず「言葉足らず」のツイートをして炎上してしまうような場面をよく見ます。また自分たちの親の世代が、長い文章でSNSのやり取りをしているのを見ると、伝えたいことを短文でまとめるのはおとなでも難しことであり、今現在は青二才である自分たちは、伝えたい情報をピックアップしてまとめる能力を磨く必要があると思いました。私たちが気をつけるべきなのは、SNSによる排外主義の助長であり、考え方の根底に「多様性」と「異質な他者」を認める広い心をもつべきで、発信の一つ一つに責任をもつべきだと考えました。自分はマジョリティだからといって、その単一の考え方に縛られ、マイノリティへの差別やマジョリティ側の暴走に陥ってしまうのは、独裁と同じなので、マイノリティの発言力が高い世の中をつくるべきだと思いました。

 
(左)パリのヴェトナム料理店のメニュー  (右)パリの中華料理店のメニュー(あまり中華には見えないが・・・)

 

授業を通して、たしかにわれわれの中でも「寛容」をはき違えている部分があると思った。たとえば海外には女性議員の枠を全体の25%確保しようというクォータ制がある。この制度はたしかに議論の中に新たな視点を組み入れることができるようになるが、本来選ばれていたはずの男性が当選できなくなってしまう。同様に、日本では「女性活躍推進法」により女性の管理職の率を30%にしようという試みがなされているが、これも一部の男性の昇進機会を損なわせてしまう可能性がある。このような事態を受け、私はマイノリティを「受け入れる」という態度にとどめたいなと思いました。
・・・> どのような意見をもってもかまいませんけれど、話が3つくらい混じり込んで、「寛容」の話にもマイノリティの話にもなっていないと思う。クォータ制の趣旨(なぜあえてそうするのか)も十分に理解できていないようですし、「本来選ばれていた/昇進できていた男性」というところがそもそもピンぼけではないでしょうかね。ジェンダーの話題と、今回のテーマであるマジョリティ/マイノリティの話はまったく別件。女性専用車両の例にひきずられましたか?

女性専用車の話がありましたが、私の中学校の男性教員がおっしゃっていたのが「満員電車で隣に女子高校生などが来ると、何かの場面で手が当たってしまい痴漢を疑われそうで怖いから、男性専用車両もつくってほしい」。このような意見も踏まえて、男性専用車両はどう思いますか?
・・・> なぜ私がそんなしょうもない「意見」を踏まえなければならないの(笑)。いや、授業のスライドで示したとおりです。そういう、しょうもない(的を射ていない、そもそも趣旨わかっていない)、こじらせた意見があることを例示して、マジョリティのこじらせを明らかにしようとしたものです。

鈴木彩艶が活躍しているため日本国内でも応援する人が増えてきてうれしいが、数年前あまり活躍できていなかったときにプレー以外の批判が向けられていたのを覚えている。そうした手のひら返しを見ていると、本当にフットボールのファンなのかどうか疑いたくなる。新宿の飲食店でバイトしていて、外国人のお客さんがよく来るが、いらっしゃいませ、ありがとうございました、など海外にも知られている言葉を使ったときに、笑ってくれて相手も返してくれ、冷たい日本人客を接客板ときよりもあたたかい気持ちになる。インターネットでヘイトを向けている人は、実際に日本に来ている外国の人たちと接してみてほしいと思う。

4のときアメリカに旅行し、中3でハワイに行ったのですが、エレベータに乗ると毎回「中国人?」と聞かれました。彼らの目には、アジア系の人はみな中国人に見えるのかもしれません。自分たちはアメリカでどう見られているんだろうなあ。
・・・> それはそれですけどポイントずれていません?

外国人労働者を雇うのはいいことだと思うが、その外国人労働者を、歴史的背景だけを理由に差別的な目で見るのはよくないと感じた。本当に支えてくれていて、在来の人たちがやりたくない仕事をしてくれているのは外国人労働者なので、感謝したいと思った。スポーツはグローバル化をいろいろ教示してくれるということなので、これからスポーツと関連づけながらグローバル化について考えていきたいと思った。

あらためて自分の視点が凝り固まっていると感じる。あるいは変に受容しすぎの気もする。外国の方が日本を見たときどのように見えるかということは考えるが、自分が外国を褒めるかといわれると、あまりない。発言する人は一部であり、それに踊らされていることがくだらないなと赤面する。視点のベクトルが見えていなかった。しかし新しい視点を見つけても、受容して、学んだ気になっている自分も怖い。変に正当化するだけの知恵は皮肉ながらもっているので、余計に視点を得ても自分の軸をもってそれを捌かなくてはいけない。軸のつくり方も偏りそうで、不安ではあるが学びつづけたい。

今回とくに興味深いと思ったのは、ヌートバーの例。たしかに彼がまったく活躍していなかったらSNSで差別のようなひどいことをたくさんいわれたのだろうなと思いました。現実ではあまり見ないけど、SNSではマジョリティの人々が、自分たちがマイノリティの人よりも立場が上だと思っていそうなコメントが多数あり、自分はそうはなりたくないなと思いました。

外国の人が日本に入ってくることに激しく抵抗する人がネットで多く見られますが、現実ではそれほど多く見られないと感じています。これは、高校生でそういう思想をもっている人が少ないのか、ネットでしかそういう発言をしない人が多いのか、どちらなのでしょうか。
・・・> どちらもあると思います。身の回りにそうした環境がないので、意思を表明していないだけという可能性もあります。学力の大小と差別・排外傾向の関係は、あるともないともいえないのですが、私の感触ではあまり関係ないと思う。当クラスの場合、4月からずっと私とともにグローバルなテーマを学んできているので、(表向きかもしれないけれど)私のいっていることに強く反発して排外傾向を見せる、ということもない感じですが、過去に受講してくれた複数の外国(近隣国)出身の生徒は、出身国へのヘイトや、ひどいときには「ぶっ殺せばいいんだ」といってウケを取るようなこともあって苦痛と怒りを感じたと証言しています。本校でとはいいたくないが、今後きっとどこかで、そういう人たちに出会ってしまうことでしょうね。ネットやSNSは、その特性を考えればわかるように、わざわざそういうことを発言(投稿)するというのは、プラマイどちらかに極端な意見をもっている人が多くて、大半の人は黙っている(そのようなテーマを投稿しない)のではないでしょうか。でも、見るには見ている。そういうSNSのアシンメトリーみたいなものも知っておく必要があるのでしょう。

私は、多様性を認め、受け入れていきたいと思っているが、その考えは自分にとって好都合なときに限定したものなのではないかと、授業を通して考えた。また、日本にいる外国人に対して、なぜ日本の礼儀・作法ができないのかと違和感をもつことがあったが、自分が外国に行ってその土地の礼儀・作法がわからないという経験をしてこなくて、その土地の作法は当然知っているべきだという固定観念をもっているからなのではないかと考えた。そのような意味でも、さまざまなところに行ってたくさんの経験をすることは大切だと考えた。

多様性を受け入れたいと心から願っていても、もしかしたら自分が十分な生活を送れているからこその考えなのかも、というのは、以前に私も抱いたことのある疑問だった。逆の立場だったら生きることに必死で、受け入れてもらおうとかそんなものはどうでもよいかもしれない。同じように、自国の文化から少しでもずれていることがあると批判に走る人たちは、自分が他国に行ったときにそのように扱われたらどう思うのかを考えないのだろうか。

 
シンガポールの中心部に近いチャイナタウン(牛
行ってみるとたしかに中華街なのだが、そもそもシンガポールという都市国家全体が華僑マジョリティなので
一般的なエスニック地区とはやっぱり何かが違う感じがある

 

マイノリティである移民の扱いについて、その複雑さから目をそらすようにして移民が悪だと唱えている人々に対し、その人たちが移民を「食わせてやっている」など優越的・高圧的な態度を取っていることへの違和感があったが、自分たちがその人たちに生活を支えてもらっていることなどから、その実態に気づくことができた。日本人またはホスト社会による移民への排外主義や差別意識などは、「知らない」ということの恐怖によるものだが、グローバル化して世界の人々と簡単につながることのできる現代に、その問題は解決されないのだろうか。SNSのメリットを生かすことはできていないのか、疑問に思った。マイノリティになっていない人間が批判を加えることは、蚊帳の外にいる人たちが何かに対して文句を言うことと同じようにおかしいということに気づかない危険があると思った。

今回の授業を通して、マジョリティとマイノリティの関係は絶対的ではなく、枠組や環境の取り方しだいで簡単に入れ替わってしまうということを知った。日本国内でマジョリティ側に立っていたとしても、地球規模で見てみると簡単にマイノリティになる可能性がある。とくに印象的だったのはマジョリティが無意識にもってしまっている都合のいい寛容さに対する指摘である。受け入れ側が同調圧力として相手に突きつけてしまう点や、自国の好みに順応するときだけ異常に歓迎するところは、真の共生とはいえないと思った。最近ではSNSなどのせいで多様な人々や複雑な事象を単純化しレッテル貼りして排除を煽る排外主義が台頭しやすくなっていることがわかtった。表面的な情報に流されず、水から外の世界に出てマイノリティ側も経験するという姿勢が大切だと感じた。

日本人が犯罪をしたときには「その人」が悪い人だと認識するが、外国人の場合にはその国全体の人々の悪いと判断することがある。それはとても失礼なことだと感じた。余談だが、The Yellow Monkeyの曲に「日本人はいませんでした」という歌詞があり、もともと日本人も非欧米人で偏った見方を受けてきたほうだとあらためて知り、バンド名と曲の内容からとても皮肉だと感じた。
・・・> イエモンのJAM1996年)ですね。古い曲なのによくご存じ。彼らがトップ勢に駆け上がるきっかけになったナンバーです。「外国で飛行機が墜ちました/ニュースキャスターは嬉しそうに/乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした」という後半のリフレイン。私の記憶では、この曲がヒットしたころには「日本人はいませんでした」という言い方は消えかけていたと思いますが、昭和期は本当にそれが普通でした。イエモンは私より少しだけ上の世代なので、その違和感は共有していたと思います。私のほうでも余談を申しますが、自分の本にこんなことを書いています。「教科学習の過程で新たな知見を得たとき「え? それとそこがそんなふうにつながっているの? すごい!」というような感覚になったことはないだろうか。世界は、社会は、自然界は総合的なものであるから、当然どこかでつながっている。教科の学びが細分化され専門化されると見えにくくなるだけのことである。この「すごい!」という場面を筆者は知のスパークと名づけている。スパークが頻繁に起きる生徒もあれば、まったく経験できない生徒もいる。いったんスパークが起きれば学びの意味に気づき主体的に向き合う姿勢にもつながる」(古賀「総合的な学習(探究)の時間」、古賀編著『教育原理 第二版』、学文社、2026年、所収、p.112)。実は私、総合的な学習の時間が提唱された1996年ころから中・高における適用を研究してきた古参の総合プロパーなのだけど、当初からこの「知のスパーク」を強調してきました。そう、そのキーワードの元ネタになったのがイエモンのSPARK1996年)。ま、曲自体は下ネタなのであまり明言できなかったんですけどね(笑)。

いまの日本はとても移民が多く、年々増えていると思う。さらに政治が加わって移民政策をがんばっているが、それでも多くの移民がいると思う。都心に行くほどアジア料理店の多くは外国人経営で、それだけでなくコンビニ店員のほとんどが外国人だ。ついこのあいだ牛丼チェーンに行ったとき、日本なのになぜか日本語が通じないという経験があった。しかし移民が多いことはさほど問題ではないとも思う。
・・・> 「移民政策をがんばっている」というときの向き(方向)が、どちらの意味なのかが、レビューからは読み取りにくい。ウェルカムなのか、ちょっと待てということなのか。現政権の閣僚で「外国人問題担当相」などと省略形で書かれることのある大臣(小野田紀美氏)の職掌名は、正しくは「外国人との秩序ある共生社会推進担当」で、ネガティブな意味での「外国人対策」ではないよという雰囲気出しています。ただ、こういうポストを置いたのは高市政権が初めてなので、そもそもの動機は「対策」(さらにいえば「対策」していることを外国人に不信感をもつ層にアピールすること)のほうなのでしょう。ところで、日本の法律や制度ではいまも「移民」は原則的に認めていません。移民がいないはずなのに、レビュー主のように「年々増えていると思う」と思っている人が多い、というか現にそうなっているのです。定住外国人の受け入れにはいくつかの文脈と動機がありますが、「移民なんていない」というごまかしをつづけていても、矛盾や誤解が拡大するだけなのではないでしょうかね。

技能実習生の問題に関して、一部のSNS等では、「なんの技術も学んでいない」「抜け穴だ」といわれているが、実際に嬬恋をドライブしてみると、キャベツを収穫しているのはおそらく技能実習生と思われるような人ばかりであり、実際に農家の方が、実習生の人たちのおかげで農業をつづけることができていると話しているのを聞いたりするので、その重要性がわかって、SNSの批判に違和感があった。郷に入ってはという言葉は、「郷」にいる人が入ってくる人に対していうことではなく、入っていく側が心がける言葉であるということに納得しました。

タイに住んでいたとき日本人学校で回りも日本人だったため、正直自分がマイノリティだという感覚があまりなかった。しかしその後にインターナショナルスクールに通い、タイであるうえにインターだったため、日本人は数えるほどしかおらず、自分がそれまでどれだけ井の中の蛙の状態だったのかを思い知った。日本にいると、少し行動がずれている外国人を見て、日本なのに、と少なからず思ったことがあるが、郷に入っては郷に従えということを相手に求めるのは一方的であると感じた。また日本を好意的に話してくれる外国人にはうれしく感じるのに、少しでも批判されると受け入れたくなくなるというのも、自分の都合のよいときにだけ他の人を歓迎しているようで、考えさせられた。

郷に入っては郷に従えということわざに関して、あくまで郷に入る側の姿勢であることを忘れないようにしようと思いました。(類例複数)

今回の授業では、SNS上の少ない文章量で書かれている意見に流されず、歴史的な背景や複雑な事実関係に対して「文字を尽くして」向き合う姿勢をもつことの重要性、また日本国内ではマジョリティであっても環境によっては誰もが容易にマイノリティになるかもしれないという想像力をもつことの重要性について考えることができた。他者との出会いを避けることはできないため、属性で決めつけない感覚の必要性を再確認した。

 


開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

選択第7群の現代社会論IIでは、設定いらいずっと「グローバル」なものを副題に掲げてきました。グローバル化(英語でglobalization=地球化、フランス語でmondialisation=世界化)という用語や概念は、1990年代あたりに一般化したものであり、2000(ゼロ)年代にはそれがすべてかのように猛威をふるい、2010年代には逆風にさらされ、グローバルに関する言説は総じて批判的なものになりました。2020年代ももう後半ですし、高校3年生のみなさんが実社会で活躍するのはさらに先の2030年代でしょうから、そのころグローバルという表現自体がもう陳腐化している可能性は、なくはないと思われます。ただ、いったんグローバル化してしまった以上、もとの世界に戻ることはありません。私たちは知らず知らずグローバルの恩恵を受けています(もちろん、ダメージも食らっています)。グローバル時代だから外国語を話せるようになりましょう、といった単純すぎる(アホみたいな)発想が陳腐化するのは間違いない。その程度の知識やコミュニケーションは、もうAIがやってくれます。では、これからの時代に社会で活躍する人として、いかなる思考、どのような構えを心得るべきなのか。その答えを出すには、週2時間、1年弱の授業ではとても足りませんが、そのヒントや土台くらいは提供できればと考えています。

みなさんが小・中・高で学んできたことの中には、たとえば算数・数学の公式や定理や問題の解法、あるいは国語や英語の文法など、数値や単語を入れ替えることで広く使えるような知識と、個別の用語や概念を自分の中に取り込み自分で説明できるようにしておくという、知識それ自体の、両方が含まれていました。社会系教科といわれる地理歴史や公民は、どうしても後者のイメージが強いようです。社会科=暗記 という認識が、ほかならぬ「社会」の側でも広く共有されているようです。でも、社会なる対象が不動のものであればそれでいいかもしれませんが、実際には絶えず動いており、形を変えています。私(古賀)は社会系教科を教えるようになってもう30年以上になりますが、初期のころと現在とでは知識それ自体がまるで変ってしまっている、ということも多いです。ということは、暗記してなんとかなるような部分はさほどでもなく、むしろ公式や定理や文法に近い部分こそ、いまのうちに取り込んでおくべきなのかもしれません。いま世界は、ちょっと想定を超えるスピードとベクトルで変化しています。合衆国のトランプやロシアのプーチンの振る舞いが注目されており、みなさんもそこに目を奪われているかもしれませんけれど、より本質的には、18世紀ころから世界を覆ってきて標準(standard)とみなされていた西欧的な考え方や価値観が、非欧米世界の経済成長につれて相対化され、動揺しているというところが重要です。トランプやプーチン、そして彼らを支える勢力には、そうした動揺の反動として動いているという側面がかなりあるのですね。当科目では、いま私たちがいる日本という国家や社会については大半を対象外としています。学ぶのは日本の外、いうところの海外とか外国という部分です。公民はどうしても日本にかかわる部分をかなりの割合で扱い、余白みたいなところで世界を学ぶという構成になりがちですが、この現代社会論IIは、3年生選択科目というコンディションを生かして、あえて日本の外に照準を当てます。おそらくそうした視野で学び、思考する経験は初めてなのではないでしょうか。1年間の学習を終えたときに、「世界の見方」の一部くらいは獲得できて、成長を実感できるのであればいいなと考えています。

*地理の授業で使用した地図帳を毎回、持参してください。別種類のものを買い足してもよいと思います(違った視点を得られるかもしれない)。

 

 

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