古賀毅の講義サポート 2020-2021

De Société contemporaine I: Éducation civique que nous recherchons ver.3.0

人文社会科学特論(現代社会論 I
:探究するシヴィックス3.0 

早稲田大学本庄高等学院 3 (文系必修選択科目)
金曜 12限(9:10-11:00)  教室棟95号館  S205教室   

 

 

 

 

 

 

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202010月の授業予定
10
2 社会参加への回路(4):消費社会を考える
10
9 高等教育の今日的変容(1):ユニヴァーサル化する大学
10
16 高等教育の今日的変容(2):高等教育を考える
10
30 「異質な他者」との出会いと共生


■■次回は・・・
15-
社会参加への回路(4):消費社会を考える

消費社会société de consommation)という今回のテーマは、そういう単語くらいは耳にしていたでしょうが、おそらく正面から考えたことがほとんどないものだろうと予想します。このテーマは(広義の)現代思想という学問・思想が1970年代以降に対象化したもので、かなり新しいものであるという理由が一つ。そして高等学校でいえばどの教科・科目で扱えばよいのかいまいちわからないというのが別の理由です。従来の歴史・地理・公民という区分ではなかなか処理できないものだからですね。少なくとも先進国では、いま生きている人のほとんどすべてが消費社会から逃れられないところにいます。ゆりかごから墓場まで、おはようからおやすみまで、私たちは消費のくびきに捉えられて(囚えられて)、どうにもそれを振り切ることができません。いや、むしろ喜んでそこにとどまっているともいえます。「なんでもできるとしたら何をしたい?」と問えば、かなりの確率で消費的な答えが返ってくるのではないでしょうか。アウフヘーベンしたいとかイドラを抜け出したいとか定言命法の世界に生きたいとか、そんな高邁で哲学的なことはいわないでしょ?(笑)

今回、16年前に発表した拙稿「現代の消費文化を学ぶ」をお渡ししました。高校3年生こそこのテーマを学ぶべきだと、過剰にリキを入れて説明していますが、基本的な考え方はいまも変わっていません。消費という万人の行為を軸に据えることで、これまで各教科・科目で学んだことや、各自で考え、経験してきたことを太いラインでつなぐことができると考えています。「選挙に行こう」などという言説が陳腐に思えるほど、これぞ社会参加への回路であり、社会へのリアルなまなざしを得る道でもあります。

スターターのみなさんの問題提起がどの方向になるのか楽しみですが、受講生各自で少し時間をとって思案し、問題の所在についての考えを煮詰めてみてください。たとえば

消費社会化する前はどうだったのか
消費社会化を促した動因は何か
国・地域による相違はあるか
世代ごとの違いはあるか
なぜ消費社会を問題にするのか(何かまずいことがあるのか)  など

2004年に拙稿を発表したときと現在とで問題意識は変わっていませんが、その間にいくつかの大きな出来事を経験しています。東日本大震災に際して起こった福島第一原発の事故(2011年)は、「計画停電」「原発再稼働」などとあいまって、エネルギーと消費の問題をあらためて突きつけました。前著では「携帯電話」を取り上げていますが、震災と前後してスマートフォンが爆発的に普及し、消費形態はオンラインへと一気にシフトしました。そして2020年、思いもせぬ感染症の地球的流行で、消費が冷え込み、経済対策が急務となりました。私たちが「必要なこと」ではない部分の財・サービスをせっせと消費して経済を回してきたことが、はからずも明らかになりました。結論なんて出さなくてもいいし、出るはずもないけれども、いまこそこのテーマを議論しましょう。好きなだけ。

 

REVIEW (9/25

物を買うときに、必要なのか必要でないのかを考えることは、自分の生活を支えるためには重要なことであると思っていたが、それによっていつかは自分の雇用・生活が失われてしまうかもしれない。私たちの普段の当たり前、たとえばスマートフォンやカラーテレビ、クーラーなどがいま突然なくなったら、現代の若者はほぼ100%生きていけないのではないかと思った。そのような状況を理解せずにぼんやりと生活している私たちは、危機的なのではないか。CMなどに支配され「必要だ」と思わされて買ってしまうというのは、資本主義に身をまかせすぎだと思う。そういう自分たちと物を売る側、どちらも幸せを感じているのなら、それを変える必要はないのだろうか。

本当に必要かどうかをよく考えてから買いなさい、と教えられた一人だが、道徳的な正しさと経済的な正しさはまったく違うものであることを痛感した。また、むやみにお金を払ったりぜいたく品を売ったりして、初めて経済がよく回るということがわかり、経済活動とともに生きていながら道徳的視点のほうが勝っている気もした。便利という言葉の本当の意味は「快」であり、「ないと不快」という状況をつくり出されているのは、すべて企業の戦略だということに少し恐怖を感じた。とくにスマートフォンに関してはみな中毒者にされてしまったのかもしれない。
必需品の需要が満たされている現代においては、いかに消費者に「ほしい」と思わせるかが重要となる。しかし道徳では「よく考えて買いなさい」といわれ、高校の授業でも、通常は露骨に消費(とくに嗜好品)の重要さを伝えるような場面はないように思われるが、経済はそれで回っている。消費を求められなくても企業が「ほしい」「ないと不便(本当は不快なだけ)」と思わせることによって、消費者の消費を最大限に促す方法をとっているからだと思った。

自分では、お店に行って商品を自分で選んでいるつもりだったけれど、消費社会の中では、企業に顧客としてターゲット化され、「買わされている」のだなと思った。私たち消費者は人形のように操られており、本当の意味での「それは必要か?」という思考をできる人というのはもはやいないのではないか。

消費社会と1学期の産業構造の話題は密接なかかわりがあると思った。産業の高次化に伴って生産されるのは、食糧(料)からサービスへと変化した。現代社会においてそのサービスを「必要」なものだと思う人は多いが、実際は「快」であるものにすぎないのかもしれない。またコンテンツ産業の話があったが、それはゼロから無限大にビジネスをふくらませることができる分野であるため、経済・マーケティングの理論を考えると、理にかなった産業である。「必要だと思う」ものをつくり出すことは、消費社会を生きることである。

高度経済成長のビフォー・アフターの違いを痛いほど感じた。とくに私たちの便利・不便が本当は快・不快なのではないかという点に納得した。小林製薬のCMで「あったらいいな」というのがあるが、高度成長を経たいま、「あったらいいな」以外の製品が発売されることはほとんどないのではないか。「三種の神器」から「3C」へとさまざまな商品が発展していくが、以前の「最低限のもの」を忘れていくことは少し悲しい。私もいまどきの女子高生なので無責任なことはいえないが、三種の神器が存在していたことをきちんと頭に入れて、いまの「快」な製品を使っていきたいと思った。
・・・> いまどきのJKがもう少しおとなになって、会社勤めとか人の親になったようなとき、つまり「食わせてもらう」から自力で生きていく立場に変わるときに、「あったらいいな」ではない、生活や生産に必要な商品というのがこの消費社会においても思いのほかたくさんあって、機能しており、流通・消費されている(消費している)ということに気づくことでしょう。おみやげの教材にあるような「若者文化」というのは、自力で食っていない立場のものでもあり、そこがいいところであり、厄介なところなのだということがわかるでしょうか?

いま当たり前に享受しているものは数十年前にはなかったもので、数十年後にはオワコン化している可能性がある、という考え方をこれまでしたことがありませんでした。この考え方は日々の生活の根本なので、しっかり意識して消費社会を生きていきたいです。

便利なものの登場は、それまで便利とされていたものを不便にしてしまいました。また快なものの登場はそれまで快であったものを不快にしていきました。スマホの登場はガラケーを快から不快に変えてしまった。つまりいま私たちが便利とか快だと思って使用しているものの多くは、数巡年後には不便とか不快なものになっていきます。それを決めるのはテレビのCMです。私たちが物に対して抱く感情(快・不快)はCMが植えつけたものであるということに気づきました。私も普段購入するものは、テレビで芸能人がおすすめしていたものばかりです。CMによって消費社会が成り立っていることを再認識しなければなりません。
・・・> もうテレビCMが主流という時代ではないと思う。CMcommercial message)というものの形態そのものが、テレビ時代からインターネット時代になると変化しますので、「これが広告だ」と気づかずにいる可能性があるのではないかな。たぶんかなりネットおやりになるだろうし。

カラーテレビが主流になり、スーパー戦隊ものがはじまったり、力士のまわしがカラフルになったりしたと聞いて、くだらないことしか変わっていないと思ったが、まさにそのとおりだったことに衝撃を受けた。3Cが出て以来ずっと消費社会がつづいていると知り、ニーズがつくられて売れるという連鎖が50年くらいつづいていることに気づいた。

今回の授業は、疑問や考えが多岐にわたりすぎて、考えがまとまらなかった。消費者が求めた3Cか、企業が3Cを生み出したのか、表裏一体だとしてもそれがすべての縮図になるであろう。オタクがCDの特典を求め、ゲーマーがデータ上の利益を求めてお金を払う。それらももとをたどれば不快ですらない。欲求に従う、不快だから求めるという考え方以外にも、人間のニーズは広がっている。

アメリカやヨーロッパでは、日本より早く経済成長し、消費社会化が進行したのだと思うが、日本よりも宗教色が強いそのような国々で消費社会化がどのように進んだのかを不思議に思った。イギリスでは産業革命が急速に進んでいた時代に、人々がそのスピードに追いつくのに必死で感覚がマヒしていったのかと思った。日本はいま決して景気がよいわけではないのに、消費社会の中にあるため、経済を回すことに必死で、GoToトラベルなど消費の促進を重要視しているのだと思う。景気が悪い中でも形勢逆転をねらってオリンピックを誘致したという面もあるはずなのに、その消費への刺激の手段を失ってしまい、コロナで停まった経済を取り戻すことで手一杯になっている状況は、あらためて危険だと思った。
・・・> 授業ではほぼ通過してしまいましたが、キリスト教(聖書)だけでなく東アジアの儒教も本来は「必要なもの(多分に食糧でしょうね)」の生産にかかわらないことを強く戒める道徳観をもっていました。士農工商でいえばやっぱり農業が最も尊くて、社会の根幹であり基礎であるという認識が共有されていたわけです。農業が主力だった時期って、さほど遠い昔ではないですよね(前回は昭和期の自民党の強さをそこにみていました)。自分で生産するのではなく、生産されたものを動かすだけのコマース(commerce)は一段も二段も低くみられました。はるか紀元前のことになりますが、周の時代に入り、滅ぼされた殷王朝の末裔は宋という小国を与えられます(一族を根絶やしにするとタタリが怖いので、先祖の霊をまつる小国をあてがった)。生産性の低い土地ばかりだったためコマースにいそしむ人がどうしても多くなりました。あわれな「亡国の民」のイメージとコマースの卑賎さが結びついて、彼らは侮蔑・差別のまなざしを向けられてしまいました。殷の国号はでしたので、この文字がコマースを表意することになり、やがて固有名詞性を失ってコマースそのものを意味する漢字となって、今日にいたります。欧州では、キリスト教社会から差別されはじき出されたユダヤ人たちがコマースにかかわります。ペティ&クラークの法則にあるように、第三次産業というのは付加価値が高いわけですから、差別されたといっても金もうけの度合いはすごい。そこでますます侮蔑され、あるいはねたまれていくことになるわけですね。16世紀に宗教改革を起こしたカルヴァンは、一生懸命にはたらいて蓄財することは不道徳どころか神様に本来祝福されることだ、という趣旨のことをいいます。商業=不道徳ではない、ということをキリスト教として公認するというのは驚きの大逆転で、このためカルヴァン派の信仰は1618世紀に商業資本主義と結びついて発展し、英国やドイツ、北米などの経済的発展を支えることになったとされます。マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で提唱しました。消費社会化は20世紀後半のことなのでヴェーバーの枠組とはまたちょっとずれるのですが、あなたが宗教と経済とのかかわりに着目したのはすばらしいことですよ。深めてください。
(この内容の一部は、本編開講前の公民カフェで少しお話ししました)


経済成長の著しい国・地域では急速な消費文化化と格差の拡大が進む (インド ムンバイ)
昔ながらの露店が当たり前に営業し、その横をTシャツ、ジーンズの若い女性がスマホ片手に当たり前に通り過ぎる

 

スマホは便利なもので、なければ不便であると思っていた。実際、大事な連絡がクラスのLINEグループに送られてくることがあったり、インスタをやっていないと話題についていけなかったりするような世の中になっており、スマホがないと不便だと思ってしまう。しかしそのような世の中は、スマホが本来快・不快を左右するものであるにもかかわらず、便利・不便を左右するものだと人々に錯覚させているだけであり、消費社会によってつくり出された姿だとわかった。

便利をつくるのではなく不便をつくり出している、というのはたしかにそのとおりだと思いました。私が小学生のころはどの家庭にも固定電話があったけれど、一人ひとりが携帯をもつようになり、いまでは固定電話のないところも多くなって、連絡網も配られなくなっていると聞き驚きました。いまどき小学生も携帯をもっていて、固定電話を使わなくても自分たちで連絡をとって遊びに行ったりできるので、必要ないのかなと、弟を見ていて思いました。
・・・> 固定電話はともかく「連絡網」はとっくにオワコンですよね。場所を共有しなければ情報を一斉送信できないという時代が、わりと最近まであったということです。私が小学生のころは、まだ電話のない家庭というのもけっこうあり、連絡網には特別の配慮がなされていました(貧富の差がけっこうあったわけです)。昨今の連絡網の廃止には、個人情報の問題と、コミュニケーション・ツールだけでなく生活様式が多様化したことに伴うシステムの移行ということが作用しています。

携帯電話やスマートフォンは、なくても不便ではない。とはいってもスマホがあったら便利なのは間違いないと思う。しかしスマホがなかった時代から「多くの人がもつのが当たり前」「もっていることを前提とした社会」がもうできあがってしまっているのだと思う。だからみんながスマホを所持するようになり、同時に「不便」、ないと生活できないという状況をつくり出す。しかしこのような状況は、企業側、マーケティングする側としては大勝利であるということに気づいた。

先生もスマホをもってみたら、便利、というか生活がよい意味で変わることも多いと私は思います。
先生はスマホを携帯しないで不快ではないんですか。緊急の連絡とか休み時間とかどうしているのか気になりました。
・・・> 今回の授業のあとでこのコメントを(けっこう真顔で)記してくるというのは、自分の生活や人生、あるいは学びというののあり方を少し見直したほうがいいかもよ。

私はAndroid(エクスペリア)を使っていますが、周りの9割以上はiPhoneを使っています。近くにいる人に簡単に動画や写真を送信できるエアドロップという機能はiPhoneにしかなく、周りはそれをやたらに使うので、私は仲のよい友達にわざわざLINEで再送信してもらう必要があり、困ることが多々あります。「快」を生み出すための一種であるiPhoneが、いつのまにかないと不便な存在になっている例なのかなと思いました。
・・・> 動画や写真が来ないということの何が「不便」なんだか私にはさっぱり(笑)。

高校生ごときにスマホが必要なのかという問いかけがありました。私はスマホを使いこなしている自信がないので、連絡をとるとか写真を撮影するというくらいのスペックで十分なのかなと思いました。また小学生のようにゲームや遊び関係の連絡しかしないような子どもに、何万円もするスマホを買い与える必要があるのか、なぜ買い与えるようになってしまったのか、疑問に思いました。
携帯のない時代に戻りたいとよく思うのだが、実際にはそれがなければ私の日常は楽しくないと思った。娯楽がすべて小さな機械で済まされてしまっている私や、この世代の人は、携帯のない日常を想像することができないのも現実だ。

現代社会が消費社会である以上、消費者は消費しなければならないが、ただ受身で消費するというのは、どこか引っかかるところがある。

たしかに便利・不便ではなく快・不快だなと最初は納得していたが、考えはじめたらやっぱり「便利」なのではないかと思ってしまう。三種の神器や醤油のペットボトル化が「便利」であるというなら、スマホも便利に含まれるのではないかと思う(どちらかといえば三種の神器や醤油が快に近いと考えるほうがよいかもしれない)。ただこうやって便利・不便と快・不快を明確に区別できないこと自体が、マーケティングの思惑にはまって、彼らの掌で踊らされているのだなと思った。
・・・> 醤油は快ではなくて日本では必需品だろ、娯楽的に醤油味を消費する人はいないでしょ、と思っているのですが、食生活そのものがかなり変わってきたのかな? といいつつ、数年前に高血圧症を発症してから塩分制限をかけられてしまい、それまでは結構つくっていた煮物や佃煮風のものをぱったりやめてしまい、一時期は減塩醤油を含めて台所から消えて(消して)いました。いまもたいていは味ぽんで代用しますし、そもそもの味つけをかなり抑制するようになりました。洋食メインならば醤油は要らないかもね。

ペットボトルの2Lサイズが登場したのには車社会になったという背景があったことに驚いた。500mLがいちばんオーソドックスであり求められているサイズだと思うので、それより小さなサイズは必要なのかといつでも思う。値段でみてもなんとなく損しているような気がする。また自動販売機が道路に設置されているが、本当に必要なのか。学校にあるのは部活動をしている生徒にとってとてもありがたいが、道路上のものは必要ないのではないか。自販機はコンビニやスーパーよりも値段が高い。近くにコンビニやスーパーが存在するこの社会で、自販機で買わずに少し歩いてコンビニへ行く人が多いのではないか。地方に自販機があるのはまだ理解できるが、東京の公道上には不要だと思う。存在しなくても不便でもなく、不快でもない。そのようなものは他にもあるのではないか。
・・・> 飲料の自動販売機というのは、地主にとってはけっこう悪くない副業なんですよね。まあ、以前に比べるとかなり減ったのは確かです。駅構内など鉄道関係では、依然として自動販売機のニーズが大。あなたが思っているほど「少し歩いてコンビニに行く人」は主流とはいいきれません。韓国なんかだと日本と同じくらいに自販機が設置されていますけれど、欧米はほとんどないですね。コスト面もありますが、現金の入った無人の箱を町なかに放置しておくことのリスクというのがあまりに大きいのです(箱ごと持ち去る連中がいるわけです)。

 
(左)ソウル  (右)マカオ

 

外国に行っても町なかにあるのは、スタバ、マック、ナイキ、Forever21など同じ店ばかりです。店内にいるのが日本人でないなど雰囲気の違いはありますが、売られている商品は同じなので、少し残念に思うことがあります。でもだいたいの人はアメリカで買ったナイキの靴だといって、日本で同じものを買うよりも価値を見いだしています(私も)。
・・・> 私がみなさんにお見せしている外国の写真の多くは、パリの量販店で購入したキヤノンのコンデジで撮影したものです。とくに価値は見いだしていません(笑)。Forever21は本体が破産しちゃいましたね。

CM1本出すだけで多額の必要がかかるが、かつてはテレビが主役だったため、かなり影響力があり、アート引越センターが借金してでもCMを出したというのは賢いと思いました。現在はテレビを見る人が減ってきているため、CMが人々に与える影響力はそこまでないのかなあと思いました。

新しく産業を開拓していくためには、人々が思いつかないような需要をつくり出すしかないというのは、消費社会の構図であると思った。何年も前の古い曲がいきなりTikTokで使われたことで大ヒットして、無名の人がMステに出られるということなども、少し違う話かもしれないが、関係しているのでは。
・・・> その例はたまたまだと思いますが、そういう構図はあります。

消費者であるわれわれが快・不快で消費判断しているつもりはなく、便利・不便という判断で消費していると思っている。企業はこれをねらい、なければ不便だと思われるものを生産し、市場を拡大する。その商品に本当に便利・不便という意味があるのかは別として、そのような状態をつくることが消費社会における企業のあり方だと思う。「オタクは社会を回す」というように、シリーズ化や広告の活用、女性の社会進出に合わせて醤油の売り方を変えるなど、社会の状況やターゲットを見据えることは、消費社会で企業と消費者がウィンウィンになり経済を回すうえで必要なのだろう。

フジテレビが台頭したのが大消費社会になってからだということに驚いた。毎朝めざましテレビを見ていますが、バラエティ要素を含んでいると感じます。そういう歴史があったというのも関係しているのでは?
・・・> 「楽しくなければテレビじゃない」で1980年代に一躍民放トップに躍り出たフジテレビは、夕方のニュース番組をワイドショー的に変え、つづいて朝の番組をニュースというより「ライトな情報番組」として再構成しました。あなたの想像したとおりです。少し遅れてテレビ朝日が夜のニュース番組のコンセプトを大きく変更し、それも全チャンネルのニュース番組の仕様に大きな影響を与えました。1980年代のそうした変化は、総じてニュースをニュース単体で置くのではなく、「見せる」ための何かでコーティングしていくことになり、ときに過剰演出や、やらせのリスク、下請け制作会社のブラック構造などにもつながっていくことになりました。個人的な話ですが、私は、父が長くTBS系列の放送局に勤めていてそれに食わせてもらったにもかかわらず、いま6チャンネルは野球中継以外は見ませんし、48もほとんど見ることはありません。157だけです(それもほとんど見なくなった)。かなり長いことフジテレビ系のアイドルを推していたため、おそらく総額200万円くらいはフジに課金したはずだけど、地上波ではなかったな〜。

広告関係の仕事に興味をもっていたので、先生が微妙な反応だったのが気になって、詳しく話を聞きたいと思った。しかし若い世代でテレビ離れが進む中、広告の仕事は減っていくのではと考える。将来テレビがなくなるということがあるのか。テレビがなくなるとたくさんの職業が失われるため、想像するだけで怖い。

マーケティングに興味があるのですが、将来企業に勤めて商品開発や戦略を考えるような場合、「消費者のニーズ」を掘り起こすことが、消費社会においては重要というか前提になってくるのだと思います。私は飲食店でアルバイトをするようになってから、企業(生産)側の立場でモノを見られるようになりました。あるデザイナーとのコラボ商品をおまけでつけたり、食品そのものを「期間限定」というキャッチコピーをつけて価値を高めたり、ファッション雑誌が服の流行をつくり出していたりするなど、本当に必要とされていないぜいたく品を「買わせる」には、そのような企業の戦略をどんどん開発していくべきだと思います。いまよりさらに「快」であるモノを生み出していかなければ、社会そのものが止まってしまうと思います。

 
(左)ニューヨーク 五番街  (右)広東省深圳

 

コロナ休みで、現代社会が消費社会であるということを強く実感した。前期高度成長期までは、本当に必要であったり、初めて手に入れるものであったりしたが、いまではそれぞれが必要に駆られて購入するのではなく、買うように促されることで消費するというものだ。いままで道徳的に教えられてきたことと、経済的に考えることの考え方の差をあらためて知ることができた。これから消費を促す立場になるのであれば、生産と消費の非対称を理解して、必要なものをつくるのではなく必要と思わせることができるものをつくるべきだ。また、それがなくては不便だと思わせるところまでもっていくことができれば、生み出す側の成功になると思う。文化も政治も基盤には経済があることを理解して、生産と消費についてこれからも考えていきたい。

外食やスマホの利用、ゲームなど、私たちはお金を払って娯楽を楽しむことが日常になってしまっているが、コロナの外出自粛で、外食、映画、テーマパークなどの業界が機能しない状態がつづいていた。今回学んだような大消費社会の中でこのような状況になってしまったことで、経済どのくらいの打撃があったのかと考えると恐ろしい。しかし一方で、ゲームが大量に売れたというニュースも聞く。外出自粛がどの程度経済に影響を与えたのかが気になった。

コロナの状況下で、生活を維持できる人とそうでない人とに二分されたことを受け、経済がいかにぜいたく品で回っているかということを実感した。ぜいたく品は「便利」を象徴するものではなく「快適」なものであるといえるが、私たちは「便利」なものだと思い込んでしまっている。この思考回路はまさにマーケティングの策略によって誘導された結果だといえるだろう。消費社会で勝者になるには、いまはないニーズをつくり出す発想力をもつことではないか。しかし全世界が消費社会化してぜいたく品ばかり生産するようになったら、いったい誰が必需品の生産を担うのか。これが消費社会の最終的な問題点であると思った。

消費社会においては、消費者の欲望を満たすための生産がおこなわれ、本当に必要ではないものが世の中にあふれてしまったため、現在の廃棄問題につながっていると考えられる。食料の回で取り上げられた、ヨーロッパ諸国がアフリカなどで大規模な商品作物の栽培をおこなっていた話と同様に、消費社会化している国々が賃金の安い国で娯楽向けの電気製品などをつくっているのも同じ状況である。食料と同様に、世界の貧富の拡大につながることも考えられる。消費社会の拡大は、国を発展させる可能性がある一方で、世界的にみると前述のような問題が起こるということも理解する必要がある。

携帯は当然、便利なものだと思っていたが、たしかに考えてみると、なくても過ごすことができるし、むしろ行動を制限させられているような気がしてきた。いまはまだコンテンツ産業を発達させることができるけれど、その先の社会ではどうやって経済を回していくのか

本当は要らないものを買わされることで経済は回っていて、それによって私たちは豊かで快適な生活を送ることができているけれど、一方で持続可能な社会の実現のために「余計な資源は使わないようにしよう!」「無駄は省こう!」というようなこともうたわれている。それらは相反する話のようにも思えるが、はたして両立できるものなのだろうか?

道徳によるところが大きい環境問題がいつまでも解決しないのは、その問題自体が大きいからというだけでなく、消費生活とまったく矛盾するものだからだと思った。その中でも「エコ」を売りにした製品が売り出されるのは、「エコ」が「消費」による事故承認欲求の充足に飽きた現代人の新しい欲求の満たし方(自己満足)であり、「ニーズ」と呼ばれるものなのかもしれないと思った。

消費社会は短いあいだに変化を遂げていくものだと思った。その一瞬一瞬の状況の中で必要とされているニーズに合わせて物やサービスを生み出す必要がある。いままであったものと同じでは無意味である。そのため新しいアイデアをどんどん生み出すことができる、発想力豊かな人材が、いまの社会では一番に求められていると思った。観察力の優れた人材も必要であるはずだ。消費社会では、どこにでもいるような普通の人によくウケる商品が必要となるのだから、日常生活の中の繊細な変化などに気づけることが、まずは新しいニーズを見いだす第一歩であると思う。日々変化する世の中で、そこに埋没することなく、周りの変化に敏感になって、そこから何かを考えるということが、これからの消費社会を生きていく手段になるのではないか。
・・・> プレワークと1学期の授業で取り上げましたが、高等教育の回でまた扱いましょう。このような社会変化、産業構造の推移や消費社会化の進行は、明らかに「高学歴をもっているだけの人」をイタい、使えない存在にしていくことになります。しかしご指摘のような高度の「人材」がそうめったにいるわけでもなく、本質的に「よい暮らし」のできる層が限定されてくるということなのでしょう(現にそうですけど)。

 


開講にあたって

当科目は公民科に属します。高等学校の公民科は、現在のところA現代社会、B倫理、C政治・経済の3科目から成っており、Aのみ、またはBCの履修と単位修得が高校卒業の要件になります。これは各学校で定めるのではなく国の法令なので厳守しなければなりません。本庄高等学院がBCを採っていることは経験上おわかりのとおりです。ところが20183月に学習指導要領が改訂され、2022年度入学生からは「公共」という新設科目が全員必修となり、倫理と政治・経済は科目名こそ変わらないものの選択扱いとなり、しかも探究科目という位置づけに変更されます。現在の理科で、物理基礎、化学基礎など「基礎」のつく科目がゲートウェイとなり、物理、化学といった科目が本格的に内容を深めるという構成になっているのに似ていますが、探究というからには課題について関心を深め、思考を自ら掘り下げていくような能動的な態度が求められることになります。小中高の全体を通して、受身で他律的な学びへの反省から、主体的、対話的で深い学びが求められるわけですが、その最後の段階にあたる高校23年生では探究科目をたくさん設定して、知識を得ることはもちろんですが、学び方を学び、視野を広げ、学校を卒業してからの長い人生でさらに学んでいくための構えを身につけることに重きが置かれるようになります。

前述のような国の方針は、グローバル化する世界情勢やそこにおける日本の産業とのかかわりが非常に強いものですが、生徒たちはもちろん少なからぬ教員にとっても「上から一方的にいわれた話」であり、長年のしくみや習慣を変えることへの反発や拒絶反応があちこちでみられます。ことに、学習というのは試験で点数を取る(そして上級の学校に合格する)ためのものだと信じて疑わない人にとっては、いまさら能動的に学べといわれても困るのでしょう。しかし、世界情勢や政府の方針の是非は置いておいて、学びは能動的なほうがよいに決まっているし、探究はするほうがよいに決まっています。そのよさを知れば、受身で他律的な学びに戻りたいとは思わなくなることでしょう。さらにいいますと、社会科というのはもともと知識の詰め込みでも暗記でもなく、まさに探究するために設定された教科でした。国家やおとなにとって重要なことがらを詰め込み、暗記させ、むしろ思考させないようにしてしまった戦前への反省から、1947年に学びの大転換を期して新設されたのです。それがいつしか社会科こそ知識偏重、詰め込み暗記の元凶だとみなされるようになってしまいました。社会科・公民科を長年指導してきたひとりとして、その現状が残念で仕方ありません。ですから私は常にアクティヴ・シンキングを生徒に求めてきました。知識は詰め込むものではなく使うものです(暗記するくらいならフォルダかクラウドに入れておきましょう。あるいはAIに任せましょう)。当科目では、現代社会を覆う大きなテーマ――人権保障、軍事・安全保障、交通・都市計画、社会保障、食料問題、エネルギー政策などなど――を提示し、公民あるいはその他の教科・科目の知見をどこにどう当てはめて思考することができるのか、を実際にやってみようと思います。正解はあるようでなく、ないようであります。探究型で学ぶとどうなるかというのをみなさんに経験していただきます。探究型と一口にいってもさまざまな形態やプロセスがあります。教育技術みたいなものに凝りすぎても仕方ありませんので、そこは気楽に構えて、しかし

ものごとの上っ面をなぞり、もっともらしくまとめる
政府や経済界や教師が喜びそうなことをいう
「みんなで考えましょう」「バランスをとりましょう」といった紋切り型に走る

ことを厳しく戒めていきたいと思います。「考えて、話し合った結果わからなくなった」くらいのほうがよいと思います。専門家のおとながあれこれ考えて正解がわからないのだから、そちらのほうが普通なのです。探究型のひとつの特徴であるオープン・エンドを、前向きに援用していくことにしましょう。


 

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