古賀毅の講義サポート 2024-2025

Études sur la société contemporaine I: Instruction civique pour la recherche

現代社会論I探究するシヴィックス5.0


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル時代のパースペクティヴ2024

 

202410月の授業予定
10
4日 性と性差と女と男 Side-B
10
11日 産みの倫理 Side-A
10
18日 産みの倫理 Side-B

 


次回は・・・
17
18- 産みの倫理

前回、ジェンダーというテーマで、とくに女性の進路やステータスにかかわるところを考察しました。生物学的にいう「女」は子どもを産む性であり、その人生においては妊娠・出産・育児があるので(複数回のことも多い)、職業生活との関係で男性にはない問いを突きつけられる、というような話題もありました。さて、子どもを産む性はたしかに女性なのだけれども、妊娠や出産の機会は均等に訪れるのでしょうか。そんなはずはない、ということは、誰もがわかっています。前回話題になった平等とか公平・公正といったことも、人間の知恵でどうにかする話であって、誰がいつどのように子を得られるかというのは、人間の知恵ではなく自然の摂理。いわば神様案件です(このワードを私は多用します)。産む性だからといって、女性だけの問題ではありません。ご存じのように得られる子どもはカップル共同のものです。男性側に身体的な問題があって子を得られないという可能性もあります(不妊の約半数がそうです)。人間のややこしいところ、もしくは人間らしいところとして、このパートナーとは子を得られないから別の相手に、というわけには(なかなか)いきません。目の前の、この人とのあいだに子を得たい、家族をなしたいという願いが、多くのカップルにはあります。ただ、そのように願ってもうまくいかないケースは思いのほか多くあります。文学作品や歴史的事実の中でも、そうしたことを主題にした場面はしばしばあらわれますね。

結婚したからといって子どもを得られるわけではない、そうならない場合もありうる、ということは誰もがわかっています。でも、それが自分たちの身に起きるという想定は、あまりないかもしれません。事前にそのようには考えたくないですものね。実際には20代でも89%くらいの確率で不妊が生じています。とくに女性側の年齢が上がるにつれて、妊孕率(妊娠できる確率)は右下がりに下がっていきます。少し前までであれば、残念だけどもうあきらめるという事態になりました(これを悲劇とか悲運と呼ぶのかどうかは、ケースや人によるので、あまりそのようにはいいたくありません)。神様案件だもの。仕方ありません。でも現在は医療技術が高度に発達して、不妊だったカップルが子を得られる可能性が、以前よりは高くなっています。どのくらい高いのかは授業本編に譲りますが、ともかく、そういう可能性があるのならばと、テクノロジーの力を借りるという発想になるのは自然なことではないでしょうか。高校3年生のみなさんが、周囲や知人にそういう事態があるということに気づいたり知らされたりすることはあまりないでしょうが、「思いのほかある」話です。いわゆる不妊治療Infertility treatment)が開始されます。治療とはいいますけれど、多くの疾病やけがの治療とは異なり、そのままでも親の身体や健康に差しさわりがあるわけではありません。子どもを得るための操作であり介入が不妊治療です。想像したくないことではあるが、今回は少し踏み込んでみることにしましょう。むしろタイミングとしては冷静にこの話題を共有できる、最後の機会になるかもしれません。

そもそも人間の生命がどこから来て、どこへ行くのかというのは神様案件の中核です。科学がいくら発達しても解けない、その問いがあるからこそ、神様や宗教ができたのだといってもよいほどです。親の目線で「子どもをつくる」なんていいますが、望んだ時期に子を得られたとしても、その子の身体的形質や容姿、のちには性格やパーソナリティや能力などを親が仕込むことも、ねらって設計することもできません。やっぱり神様の導きにゆだねるほかないようです。ただ、現代のテクノロジーは、多少であれば介入ができるようになっています。多少というところがミソです。根本的な部分は依然として神様の手の中にあります。新たな生命の誕生という部分に、人為的な介入はどのくらい許されるのか? いわゆる現代倫理・応用倫理の中でも、常に議論の対象となるのが生命倫理bioethics)です。生命の終わりにかかわる問題(脳死、臓器移植、尊厳死、ターミナル・ケアなど)もありますが、今回は生命のはじまりに焦点化しましょう。ジェンダーの話題で、自分自身がまもなくリアルな社会を歩んでいくのだという感覚を得られた人もあるでしょう。産みの倫理は、すぐその先にあるテーマです。いまの段階で、クラスの誰もが直面する可能性があるが、実際に直面する人は少数。このギャップが、「倫理」というアプローチにおけるひとつのカギになることでしょう。

 

REVIEW 10/4

スターターとスピーカーの方が全員女性で、意見に少し偏りが出るかなと思ったけど、おのおの異なる意見をもっていておもしろかった。平等と公平の話は、今回のテーマだけでなく他の問題でもポイントになってくると思う。長年つちかってきた男女差や偏見は簡単になくなるものではないけれど社会は長い時間をかけて変化していくというフレーズが、本当にそうだなと思って、この先で考えがより広がっていくことを願いたいです。もちろん私たちの世代も重要だと思います。親の思想が子に影響を与えるというのも真理なので、自分自身の考えにも注意して発言したいです。

スターターとして議論をはじめる役をさせていただきました。男性目線で、女性進出前後の社会を考えるというのは、女性として正直難しかったし、「男性の感じる困窮さ」という報告があったように男性が肩身の狭い思いをすることに対して、当たり前のことだと感じながら資料をつくっていました。縄文時代までさかのぼる必要はなかったけれど、男女の性差が埋まっていないことが討論の中の男・女の発言で染み出ているようで、価値観の差を狭めるのには時間がかかりそうだなと思いました。女性も進出できる環境が生まれて、だいぶ暮らしやすくなっているので、性差の意識の平等化も時間の問題だと思いました

スターターが「男性の視点で見た性差について的確な発表をしていてすごいと思った。自分が当事者ではない問題について他人の視点で物事を捉えられるようになりたいと思わされた。(類例複数)

スターター、スピーカーともに「平等」の話が多いと感じました。性別が2つ以上あるのは事実なのだから違いがあるのは当然で、ということを考慮すれば、「公平」ももっと重視されるべきだと考えました。稚拙な表現になりますが、月経の有無のみで物事を考えると、「男女平等」なんてふざけたことをいうな!と怒りが止まらないです(男と女の違いだけでなく、個人差もあるので、ジェンダーの面だけの問題ではないと、経験からこう考えます)。

 

男性のほうが力が強くて女性を守ってあげる、という構図があったから性差ができたというのは、大きな学びでした。私は子どもを産みたくないし、伝統的な女性像にははまりたくないなと思っていたのですが、女性に家事・育児を求める声が多い印象を受けて、悲しかった。私の意見では、公平を優先するべきだと思うのですが、まず女性のほうが働きづらそうな環境になっていて、嫌だなと思いました。
・・・> 本庄高等学院の生徒の思考や価値観は、世間一般の相場からするとかなりリベラルで、問答無用の男性優位みたいなのはあまりありません(私が着任したころはまだ男子校で、この手の議論をすると「男のほうが優れているのだから分業して当然だ」という主張が多数派でした)。世間はさらにハードだと思いますよ!

女性と男性で、土木などをのぞけば仕事をする中でのパフォーマンスに性差は関係ないため、両性の不平等が生まれている要因は、男女が生まれもった身体的なもの(主に妊娠)が大きく、そのように変えようのない事実ゆえの不平等を是正しているさまざまな法律は、まだ発展途上ながらも、男女間の差をなくしていく手段としてすごく有効だと思いました。既存の価値観に反感をもつ人も多くいるけれど、すべてにおいて男性が優位という価値観を変えて、女性・男性関係なく個々人の得意・不得意が活かせるような社会の形成が理想であるので、寛容な社会が生まれるべきだと思いました。

今回の討論を経て、男女の公平について考えた。私としては性差があることは悪いことだとまったく考えていない。時代には合わないかもしれないが、私自身は女らしさ、男らしさという言葉が好きで、女であるかぎりかわいく、おしとやかで、か弱い部分をもちあわせていたい。また男にもスポーツや仕事の活発さ、たくましさを求めたい。ただ女性の人権が侵害されることが絶対にあってはならないのは当然である。このような私の意見も尊重されるべきであるし、逆に男性との平等、あるいは女性優位であることを望む女性たちの意見も尊重されるべきである。このことから、なんでもかんでもかたくなに男女平等を意識するのではなく、そうした男女のあり方のさまざまな形に寛容になれるような社会をつくることが「公正」であると考える。

性差については、「すべての人が自由に選択できる社会」が本来の意味での平等な社会だと思う。マイノリティ・マジョリティの意見を定義する必要はないと思う。家庭内での家事分担、海外赴任などは家庭内の話し合いで決定すべきだ。社会の雇用上の制度を整えればよいと思う。ただ企業にとっては、せっかく育てた人材・戦力である女性が結婚や出産で退職すると、あらためて人材を育成しなければならなくなって迷惑になるわけだから、そのリスクを避けるために女性の雇用を避けようとするのは仕方ないのではないかと思う。
・・・> 「自由に選択できる」という主張は今回も複数の方が示しておられます。ただ、自由という語というか概念の幅は広くて、とくに自由主義(リベラリズム)となったときには、しばしば正反対の意味になることもあります。このレビュー主さんのいう「自由」な選択というのは、どちらかといえば新自由主義的な発想。状況を放置したまま自由にさせれば、女性は家事に従事し、妻は夫の姓に改め、企業は男性ばかりを採用し、家庭内で「自由」に話し合えば夫の意向に添うことになる、というのがありがちな結果となります。それは真の自由ではないのか、というのがもう一つのリベラルな立場。どちらがよいというつもりはありません(あるけど 笑)。いまの認識で「自由の結果なんだから」と結論を出してしまうと、反対側の自由にやっつけられますから、ちゃんと勉強して自分の主張を理論武装しましょう。

女性が生きやすくなる=男性が生きにくくなる という視点は私にはなくて、おもしろかったです。この視点から考えると、女性が、男女平等を武器にして自由にやりすぎているように見える部分もあると感じました。女性が不利な立場にあるというのは事実だし、それをなくそうとするのは自然な行動ですが、それが逆に男性の立場を不利にしていたら、話は変わってくると思います。

スターターの方の話で、女性に要職を奪われて肩身が狭いという実態があるのでは、というのがあった。実際にそういう人がいるのかどうかはさておき、そこには、男性のほうが優秀なはずなのにという根幹の考えがあるのではないかと思う。でも第三次産業がメインである現代では、ひとりの人として見ていくべきだ。こういった価値観は教育によってある程度は是正できるのではないかと思った。この学校は共学なので、成績の低い男子もいれば高い女子もいる。そういった環境に身を置けば、男性のほうが優秀という価値観は生まれないと思う。高校からではなく中学校からそういった性差についての学習をすれば、先入観の是正により、効果が上がるのではないかと思った。
・・・> A面の授業で指摘したように、高校・大学まではさほどにジェンダー格差はないし、学業成績で優位に立つ女子生徒がいてもいいんじゃない、という感じなのに、その先が別世界(いまのところ、の話です)。学校教育が仕込んできた価値観が、実は貧弱でふにゃふにゃ、実社会のヤバめの強靭さの前にはあっさり跳ね返されるものだったということなのでしょう(いまのところ、の話です)。

今回の話を聞いて、男女についてどうあるべきか、さらにわからなくなってきた。一人ひとり、男女のあり方について思っていることはもちろん違うと思うし、正解もないと思う。男女どちらも一人の人として生きるなら、どうしても平等性を求めてしまうのかなと思った。
・・・> 正解はないですが、「正解もないと思う」とここでいってしまうと、面倒だからこの議論から退場します、私は傍観します、という表明になります。それがだめだというわけではありません。それもありなのが社会です。ただ、正解はありませんが不正解は絶対にあります。「正解はないと思う」といいがちな人ほど、知らず知らず不正解を口にすることがあるので、そこは注意しましょうね。

男女平等社会をめざす風潮が、日本をはじめ世界中で起こっている。ただ、このゴールは完全に男女の差をなくすことではない、と考えた。公平という言葉においても同じである。平等はすべての人間が同じような待遇を受けることである。たとえば女性と男性の管理職の比率差をなくすことである。公平は、累進課税といった方法である。今回はジェンダーがテーマなので累進課税は置いておくが、どちらも結果として男女の差がなくなった場合、男女における差を考える必要がある社会がなくなる可能性がある。よって、男女の身体の差を考慮しないなどの社会が形成されると思う。そのため、男女平等や公正な社会をめざすことは大事であるが、男女の性差がなくなる社会をめざすべきではないと考える。
・・・> 後半、なんでそうなるのか私にはよくわからん。「そんなことはいっていない」仮定の話に引きずり込んで、元の保守的な解釈に結論づけるというのは、ヤフコメなんかではよく見かけますが、高校生の学習ではあまりやらないほうがいいのではないかな?

 
旅先ではしばしば婚礼の場面に出会うことがある その後おだやかに生活なさっているのだろうか?
(左)東京 明治神宮  (右)ルーマニア ブカレスト

 

私は結婚して家庭をもったのなら、いさぎよく仕事を辞めて家事に専念するつもりだったが、よく考えたらこの思想は母親由来のもので、自分が見てきた両親の像は、父のみが働き母はずっとおうちにいた、というのと、好きな人を見つけて一緒になったのなら相手の気持ちを尊重したくなる!その結果こうなった!という母の雰囲気が基になっているように思った。今回これは少数派であることがわかり驚いた。男性は、結婚相手(ここでは女性)に働いてほしいのか、どの程度働いてほしいのか気になった。男性が育休をとって家にいられると、いくら本人が自分のことは自分でやるからいいよといってくれたとしても、私はちょっとでもその人のために動いてあげたいと思うからこそ、ごはんの準備も含め、気にかけてしまうだろう。そうなるくらいなら、いやらしいが、働いてお金を稼いでくれるとうれしいなあと思ってしまう。
・・・> 当欄を最後までスクロールしてね!

家事を平等に分担したいという人が44%で、半分を超えないことに驚きました。それだけ男性は仕事、女性は家事という考えが定着していると思います。

家事に関しては、女性はできるにこしたことはないと思いました。いまの時代、花嫁修業というのは古いイメージがあるし、女性の社会進出に伴って家事をする時間がまずない女性の方もたくさんいると思います。女性目線で男性像について考えたいと思いますが、結婚するときの条件として、何か尊敬できるところをもっている男性がいいという意見です。たとえば仕事ができる、年収が高いなどいろいろあると思います。極端な話でいうと、デヴィ夫人の「大好きな年収200万円の男性と、好きではない年収1億円の男性のどちらと結婚するか」というテーマもこのことに触れていると思います。それは逆も同じで、男性も女性に対していいところを探したい、そしてそれが好きという気持ちにつながると考えますが、いまの時代はそこに家事ができるというのが含まれていると私は感じました。仕事から帰ってきてあたたかいごはんがあればうれしいという考えが、世間で出てくる時点で、まだまだその現状を修正するのは難しいと思いました。男性も女性も共働きなら家事も分担すべきですが、男性のみ働いている場合は平等より公平を意識して、女性の家事分担を男性より多くするというのが自身の現状の意見です。
・・・> 仕事から帰ってきてあたたかいごはんがあればうれしい、と女性も思っていますけどね。「男性のみ働いている場合」(=専業主婦パターン)を想定するのは別にいいけれど、レビュー主がそちらを標準とみなし、そしてやがては自分もそういう人(専業主婦)と結婚して稼いでくる、みたいなモードに入っていないかどうか。

私が考える自分の幸せな将来像は、専業主婦になって家事・育児をこなし、パートナーを支えるというものです。これを母に話すと、「いまの時代、専業主婦なんてなっちゃだめ」と否定されました。とても悲しかったです。母は専業主婦で3人の子どもを育てています。その姿が私の目には幸せに映っています。身近に人生の成功例があり、私もそれをめざしていきたいと思っていたのに、自分の30年後を生きていく子どもには、自身をよくない例としていることがとても詳しく思われました。「女性だって当たり前に働いていこう」「専業主婦になりたいなんて甘えだ、情けない」など、私の将来の夢は、少し前までは女性であれば当然めざす幸せな未来であったはずなのに、急に怠惰でよくない未来のようにされています。せめて50年くらい前の時代を生きられたらと残念で仕方ないです。女性の全員が社会進出したいわけではないし、男性の全員がイクメンなどになりたいわけではないはずなので、それらをめざしていない人が悪いという風潮が来ないことを願っています。性別問わず、経済をまわしたい人、家庭をまわしたい人は、それを望む人だけの運動になればいいと思いました。家庭に就くことでママ友や井戸端会議などで地域の方々との関係を確かなものにして、それは子どもや自分自身を守る防犯につながると私は考えます。核家族になったことで育児を手伝える人が少なくなった代わりに、近所の人と協力してワンオペになることを避ける、という未来もよいと思います。
・・・> 当欄を最後までスクロールしてね。


西服というのは西洋式のスーツ(2つ揃え)のことだが、女子校・男子校の学校名がずらりと
並んでいることからわかるように、高校の制服(「学生服」)を販売する専門店である
台湾の学校文化は、元宗主国である日本の(ひとむかし前の?)影響を強く受けているのだ(台北市内)

 

身の回りの知らないところで、意外と性差別的な価値観が反映されている場面があるというのが印象的でした。

人がいちばん初めに受ける性差、男女の固定観念の押しつけが名前なのではないかと思いました。女の子っぽい名前、男の子っぽい名前があり(この考え自体もよくない?)、実際に私の名前には「(略)な女の子になってほしい」という意味が込められていて、私はこの名前が好きですが、想いを込めた名前、親はそうなってほしいと願ったらそうなるように仕向ける子育てをするのだと思います。発表にもあったように、「女の子は足を開いて座っちゃだめだよ」などといわれてきました。性差と男女の振る舞いの違い、マナーなどとかかわってくると思います。性差はよくないとすると、それに準じた振る舞いについても考えなければならないのかと思いました。
・・・> 私の印象の話になりますが、名づけてくださった方の想いのとおりに育っておられると思いますよ。で、親に成り代わって申します。女の子は足を開いて座っちゃだめです。ついでのことに、男の子も足を開いて座っちゃだめです。みっともないし、通路ふさぎでしばしばじゃまになります。

今回の議論を経て、私たちの会話の中にもさまざまなバイアスが生じていることを実感した。「24時間戦えますか」の前提が、スーツを着て働くサラリーマンであるということ。農家やレストラン経営など、男女がともに働く場はあるにはありますよね? 管理職とかになると産休・育休のブランクや女性のキャリアについて議論されますが、雇用形態の前提がサラリーマンに絞られていること自体に、ジェンダー・バイアス以前の職業バイアスがあると思いました。大多数がサラリーマンなど第三次産業で働く世の中なので、議論の対象がそこに向くのは当然かと思えます。そこに意義はあるといえるし、現に女性が働くことへの課題は山積しているので、各企業や家庭でも暮らしやすい形態(仕事と家庭のバランスの取れた生活)が進めばよいと願っていますが、そこに話題が集中していくことで、第一次・第二次産業への注目度が低くなっていくことは確かで、切り捨てられていく課題もあるのだろうなと考えました。
「昔」という言葉の定義が甘いと思った。かつての家族形態をいまの社会の議論にもってきて批判するのはおかしい。今回の議論をするうえでは、性差という言葉の定義や意味合いについてもはっきりさせておくべきだと思った。今回はちょっとみんな憶測でしゃべりすぎていたと思う。
なぜ性差が生まれたのかという話題に興味が湧きました。縄文時代にまでさかのぼって、肉体的な性差が必然的に生じ、それが価値観に転じ、助長されていったのではないかと思いました。実際に歴史の教科書でも、男性の役割は狩猟、などといったことが記載されていました。男女の役割分担を前提として蓄積されてきた結果が、現在の性差につながったのではないかと思いました。
・・・> 私も、現状認識はともかく「前の時代はこうだった」という捉え方が甘く、浅いと思います。この手のテーマを18歳の経験や印象で語るとどうしても浅くなるので、もう少し学問を仕込んできてほしいんですけどね(学院ではかなりハードな社会系の学びをしているはずでしょ?)。歴史学はもちろんですが、文化人類学や家族社会学などの蓄積が膨大にありますので、きちんと学んで、考察を深めておきましょう。どの方面に進むにしても、有益な学びになります。縄文時代までさかのぼるのは、ナンセンスではないが、あまりハイセンスではありません。注目すべきは江戸時代と明治時代。身分・職業が固定されていた江戸時代にあっては、ジェンダー(なんてありませんでしたが)の視点は、武家や商家と、町人・農民とでは別建てで考えるべきところです。前近代の主力産業は第一次産業ですから、ご指摘のように、「女性は家事」なんてありえません。育児だって、両親と祖父母、そして農村共同体の人たちが全体としておこなう仕事でした。19世紀に入るころ、農村の上下層分離という動きが強まり(第4回スライドの11枚目を参照)、特権化した豪農層(のちの寄生地主)の家では、武家のような女性や女子の家内囲い込みが起こります。明治期になると、武家の慣習に豪農層のそれが合流して、なぜかマジョリティである一般庶民にも同期されます(民法の制定、道徳教育の推進など)。「女は家で家事・育児」が常識化するのはそのあとのことで、トータル100年あるかないかという程度。徳川ナントカさんみたいな権力者の動向にばかり注目して歴史を学ぶと、そのへんが見えてこなくて、現在や未来の思考につながりにくいんですよね。

 
ドイツ ハンブルクのレーパーバーン(Reeperbahn) 性風俗店などが並ぶ「夜の街」だが、港湾都市ではとくにこの手が発達した
「ようこそ」なんてずいぶんポップな看板が掲げられ観光化しているようでもあるが、このウェルカムボードの一筋奥には
女性と子どもは立ち入り禁止と明記された「飾り窓」通り(公娼街=公認された売春宿の並ぶ一角)があり、相当にハードだ
日本でも例外的な世界とはいいがたい性風俗産業は、相当にジェンダー非対称な構造を前提に成り立っている
2024830日 表を歩いただけですよ 笑)

 

今回の話し合いでの一番の収穫は、平等と公平について少しですが理解できたことです。いままで違いを認識したことがなくてモヤモヤしたままでしたが、霧が晴れてきたように思いました。どんなことでも、それが起こっている状況とそこに居合わせる人の価値観によって、どちらを重視するのかを決めることができるのだと思いました。

前回のディスカッションでクラス分けの話になった際、学業と、他者に触れることのどちらに重きを置くかという話があったように、今回は公正と平等という、さらに抽象的なものの比較がキーワードになっていました。性差がある以上、平等の実現は難しく、多くのことについては公正を重視すべきかなと感じました。そこにいたるまでにどれだけ妥協できるかということになるだろうと考えました。

男性と女性が共同でやっていくには公平が大事であると思う。現代社会では、離婚した場合、専業主婦だった女性も半分の財産を受け継ぐことができる。この時点で社会は平等であると思う。働きたい女性がいるのは全然ありだと思うし、その場合は男性と女性で話し合い、公平に家事や育児を分担すればよいと思う。女性には専業主婦になりたいという人もいるし、女性の雇用数が少ないからといって男女平等が実現されていないというのはおかしい。スポーツでも共同でできるスポーツもあるが、フィジカル・コンタクトのあるスポーツは難しい。これは平等ではなく安全性を踏まえた公平である。
・・・> ま、これでかまわないですけど、「典型的な「わかっていない男の見解」」とみなされるリスクはあります。わかっているかな?

ある発言に噛みつくようなかたちになってしまうのですが、相手方ががまんすることが、いまに至るまでがまんしてきたのだから当たり前、と思っている段階で、男女気にせず人というくくりで平等をめざすことは不可能だなという感想をもちました。また0100かで平等や公平について考えることは、性差という個人による変数が混在、介在しているうちは、あまりにも答えを出す環境として成り立っていないのではないかと考えました。そして、平等という形でないと、違う方向から不平が生まれ、それも解消してくれという一種のループに陥ってしまうのではないかとも考えました。

平等・公平な社会を実現するには、ある事象における目的を共有できなければいけないと感じました。たとえば男性専用車両が必要だと主張する側は平等を求めていて、不必要だという人たちはどちらの性も痴漢などの性被害に公平に遭わないようにすることを求めていて、生産性を求めるならば明らかに不必要だと思うが、公平に少数意見を取り入れすぎて議論が飛んでしまうと感じました。

社会全体においていままでの固定観念を変えることは、以前に比べれば改善されているが、まだまだ課題がたくさんあると思った。その平等、公平をスポーツの面まで及ぼすのはもっと難しいと思った。実際オリンピックで、性自認が女性という男性が女子ボクシングに出場して批判されていたから、スポーツでは難しいと思った。
・・・> 五輪ボクシングの話は前提の事実認識が間違っています。「性自認が女性という男性」ではありません。前々回の当欄で丁寧に説明したのだけれど、読んでいなかったのでしょうかね(だとすればここに書いても読んでくれない?)。当該選手が「男性」であるというのは、スポーツの事例をテコにSOGIの考え方や性の多様性を主張する側を引きずり下ろしたい人たちが、あえて誤った情報を拡散したものか、それに気づかずにリポストしつづけている人の認識です。そっち側に行ってはいかん。

体格の差について、実際の生活で思うことがあります。女性は男性に襲われたらほとんどの場合勝てないと思います。だからその状況をつくらないために、男性と密室に行くのを避ける、一人暮らしでは近くのコンビニでアイスを買わない、男性の衣類を干す、宅配の発注者名を変えるなどの自衛をしています。そういった日常生活での性差も気になりました。

スポーツをしていても、女性には盗撮がつきもので、競技に集中できない。本当に憤慨!! それで女子だけが盗撮されにくいユニフォームに変えなきゃいけないのはおかしい。でも社会の変化には時間がかかるから、将来なくなるのを信じて、いまは耐えるときなのかなと思った。

いままで学校生活でいちばん性差を感じたのは男女でドッジボールをしたときです。人に向かってボールを投げつけるドッジボールは、私としては暴力的で苦手なのですが、それを男女同じ土俵でしたときには本当に嫌悪感がありました。女子チームどうしでさえ投げる力が強い女の子が物静かな女の子にボールを当てたときに感じる微妙な空気があります。男女混合で男子が女子にボールを当てたとなると、「うわ、あいつやったな」というようなマイナスの雰囲気が感じられ、だからといって相当に軽い力で当てたとしても、それはそれでしらけて、互いに気まずい感じになりました。ただ普通にドッジボールをしているだけで、(かよわい)女の子になんてことを!!と思われてしまうような男の子がとても不憫で、何も楽しくないこの競技がさらに嫌いになりました。かわいそう、と思われてしまう空間をなるべく生まないためにも、スポーツとくにコンタクト系では、体格にかかわらず男性と女性で分けることは必要だと考えました。

スポーツの平等について、区分も考えていかなければならないと思いました。男・女だけだと、LGBTQ+の人たちの扱いが問題になるし、パリ五輪のボクシングのときのように、女に生まれているけれどテストステロンの分泌量に差があるという場合もあるから、新しい枠をつくらなければならないと考えます。ただ先天的・後天的など線引きが難しい部分もあると思いました。