古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche

現代社会論I近未来の社会を(に)生きる構想と探究


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び

 

20259月の授業予定
<第3部 現代社会と文化・教育>
9
12日・19日 消費の魅力と魔力
9
26日・103日 令和のカルチュア考

 


次回は・・・
13
14- 消費の魅力と魔力

現代人は消費consommation)に囲い込まれています。消費のヌマにはまり込んでいます。国語的には、生産(production)と対になる概念なのですけれど、生産されるものがあるから消費する、というのではなさそうなところが、社会科学の難しい点です。まず共有しておかなければならないのは、社会学や経済学でいうところの消費は、「お金で購入する」という意味です。190円払っておにぎりを1個買って、それを食べずに捨てたとしても、購入した時点で消費だと考えてください。四六時中、衣食住、生老病死・・・ つまり生活や人生(life)そのものが消費にあふれています。けさ起床してから何も購入していない? そんなことはないはずです。電気や水道を使っていますよね。それらも消費のうちです。学校に行って教育を受けるのも、サービス(service 無形の商品のこと)を購入した結果です。だとすれば生活が消費にあふれているのは当たり前じゃないかと思うかもしれません。しかし人類の長い歴史の中で、そんな状態になったのはこの数十年のこと。人間生活のデフォルトでは、どうやらないらしいのです。

1学期の授業を思い出してみましょう。最初に食料・飲食の価格上昇の話題を取り上げました。人間も動物であり生命体ですから、何かを食べなければ死んでしまいます。現代人はおそらく、そこいらへんにいる動植物を捕まえて食べるということはなく、自分が食べるぶんの野菜や家禽は自分でつくるという人も圧倒的に少数派でしょう。お金を出して食べ物を買うのが普通です。だから価格上昇は痛いのです。ただ、飲食というときに大きく分けて2種類のものがあることに気づくでしょうか。まず、いま述べた生命維持のための飲食。もうひとつは、楽しみとしての飲食です。生命をつなぐだけならば、高価なもの、ことさらにおいしいものを探求する必要はないかもしれないのに、わざわざ高いお金を払って飲み食いするのはなぜか。最近だと、「きょうは自分へのごほうびで豪華なディナー」みたいな写真をインスタグラムで発信する人がやたらに多いですね。あそこで見せびらかしているのは生命維持活動ではなさそうです。いってみれば、高価なブランドのバッグを見せつけているのと趣旨や主張は変わらないのではないかな。第3回の授業では、経済成長を経て「便利」になったという高校生の主張が、ゲームだのカラオケだのといった遊びの方面に偏っていて、中に洗濯機を挙げてくる例外的な生徒がいた、という話をマクラにしました。30年も前のことだけれど、いまも高校3年生のありようはさほど変わっていないと思います。衣食住の話題だと頭の動きが鈍いのに、インターネット系の話題になったら活性化した!という人も実は多いことでしょう。そうした傾向を、「必要なこと・もの」「不必要なこと・もの」に分類することに意味はありません。意味がないだけでなく、現代社会の構造に対する理解をみずから閉ざしてしまうことになります。必要、なくてはならない(不可欠)、便利・・・ といった表現の示す対象や範囲に目を向けて、私たちがいったいお金を出して何を購入しているのかを考えてみることにします。

消費の何がいけないのですか? だって仕方ないじゃないですか! 的な反応も、ちょっと待って。いけないとか、いけなくないといった倫理や心がけの問題にしてしまうのも早計で、またまた社会科学的な視線をみずからさえぎる所業。べき・べきではない という思考は、先の先のほうにとっておいて、社会のありようをそのままスケッチする。ただし、平面ではなく立体を捉えるようにする、というふうに考えましょう。このやり方だけが真っ当で正当なものだというわけではなく、社会科学的なアプローチには何通りもありますが、いずれにしても主観や身近な経験をいったん突き放し、対象として捉えなおすという作業が要ります。これが思いのほか大変です。誰にだって主観があり自身の生活がありますからね。Side-Bのディスカッションを通して、問題意識や論点を共有します。結論部分の共有ではありませんよ。さて冒頭で消費という語を出したとき、一般的なconsumptionではなくconsommationという、辞書に載っていなさそうな語を示しました。これはフランス語の消費です。今回テーマにしているような意味での消費を本格的な考察対象にしたのが、フランスのボードリヤールであり、彼の主著『消費社会の神話と構造』(原著1970年)の表題にあるSociété de consommation(消費社会)という語が世界に知られるようになった端緒だったためです。生まれたときから消費にまみれている高校生のみなさんが、そのありようをどれくらい対象化して考察・議論できるのか、ちょっと楽しみではあります。

 

REVIEW 9/12

いままで現代社会の発展について考える場合に、便利になったという言葉で片づけてしまうことが多かったですが、今回の授業で、便利といっているものはただ快適なものである、というように、便利/不便、快適/不快の境界が混ざってしまっているということを知り、便利という言葉の使い方をよく考えていきたいと思いました。また消費はいたるところでおこなわれているということをあらためて知り、消費社会についてもっと考えていきたいと思いました。

普段なにげなくおこなっている自分の行動が、いかに現代社会のシステムに組み込まれているのかを再認識することができた。また、ゆりかごから墓場まで消費の日々、というフレーズが印象的だった。生まれてから死ぬまで私たちの生活が消費活動に囲まれており、スマホなど快適なものに対する人間の適応力は恐るべきものだなと感じた。

いままでの社会科の授業では、三種の神器が登場したあと3Cが、というように、さらに「便利」なものが登場したのだと学び、そのまま受け取っていました。しかし今回、そもそものベクトルが異なるのだという新たな視点を得ました。私はこれまでにも「便利」と「快適」の言葉の違いを感じることはありました。家に食べるものがないわけではないのに「食べるものがない〜」といったり、2つおなじものがあってもよりよいモノを使用したりします。無自覚に「快適」を求めている簡単な例かなと思いました。「快適」を求めすぎていることに気づかない私たちが日常に対して不満を漏らし、それを企業が大げさに「便利」だとアピールして成り立つ3C的現代社会であると感じました。

これまで私は、消費とは何かを使ってなくすこと、つまり商品を使用し終えることだと考えていましたが、購入した時点で消費とみなされるということを学び、普段から(はっきりと購入していなくても)常に何かを消費していることに気づき、それは自分の中での大きな発見になりました。また便利と快適を混同してしまうのが消費社会の特徴だというのにも、すごく実感がありました。このまえ病院に行ったときにスマホをもっていなかかったのですが、何もすることがなく手持ち無沙汰でした。スマホをさわること自体が時間つぶしになってしまっていて、それ以外の過ごし方を忘れてしまっていたことが、今回の授業内容と結びつき、強い危機感を覚えました。

いかに消費という行為が私たちの生活に浸透しているのかというところに、まず驚いた。また、いまではもう当たり前になっているけれど、水やお茶をペットボトルでわざわざ購入することがなかったというのは信じられない。いま私も含めて多くの人がスマホ依存になっているけど、それも消費社会の影響であるとは思わなかった。スマホがなかったら本を読んだのかもしれない。でもスマホがあるいま、それがない状態には戻れない。しかもスマホの新作に食いつくような人もいる。消費者として経済にてのひらで転がされているような気がしました。私たちの生活から不快を生み出さなければ経済が回らなくなってしまったのが少し悲しいです。恩恵を受けているのはわかっているけれど、またそんな消費社会においてはお金がすべてになってしまっていることに違和感を覚えました。

今回の授業では、便利/不便、快/不快というワードが何回か出てきて、そこが印象に残った。たしかに私は大正・昭和とかそれ以前の時代を知らないので、モノクロの世界、また機械がない時代(3Cがない)がまったくわかりません。でもテレビがモノクロだと便利じゃないとか、スマホがなければ学校生活も便利じゃなくなる、とか思っていたが、よく考えたらそれにただ依存しているだけで、なかった時代のことなんか知らないし、おかしな話だと思いました。自分の生活を便利というよりも、快適に過ごすために使っているのにすぎないとわかりました。
・・・> ことしは昭和100年にあたるのだそうで(1926年が昭和元年)、昭和が大正とセットにされて「おおむかし」の扱いになるのが昭和のおぢさんとしては寂しい(笑)。ちょっとだけ考えてほしいのは、テレビや印刷がモノクロであるというのは、当時の世の中がモノクロだったということを意味しません。大正・昭和はもちろん、奈良・平安も縄文・弥生も世の中そのものはオールカラーです。なんなら時代劇などで描かれるため江戸時代以前はカラーのイメージがあるかもしれないが、なまじ写真が残されているために明治・大正・昭和の途中くらいまでは、社会や世界そのものがモノクロだったように印象づけられていないだろうか。関東大震災も東京大空襲もカラーの世界の中で起こりました。いま、白黒写真をAI技術でカラー化することが容易になっているので、カラー再現してみると、それぞれの時代に対する印象や考え方が変わってくるかもしれません。

授業を受けて、便利/不便と快/不快が混同されているという話を聞いたとき、初めは少し疑いをもちました。しかし夏休みに、羽釜でお米を炊いたときより炊飯器のほうが力仕事が少なくて楽だなと感じたのを思い出し、たしかに便利だったけど快とは何かが違うのだろうかと思って、すごく混乱しました。また現代社会において、消費生活は、生活を快適・便利にするが、環境や人体などさまざまな点でデメリットが生じ、そのデメリットをなくすとかよりよくするための消費が起きて・・・ と錬らしていて、同じようなところをぐるぐる回っているような感じがしました。

現代日本の消費社会で、いま私たちが消費しているいろいろなもの(ペットボトル、3C系のものなど)は、なくてはならないものであり、便利(生活を豊かにしさまざまな肉体的負担を軽減する存在として)なこの社会にいま私は甘んじているのだと感じた。とくに3Cは生まれたときからあって、あって当たり前の存在になっている。3Cが現在なかったらどうか。先生が、カラーテレビのニーズについて言及していたけれど、自動車やクーラーが普及していなかったら正直生活できないような気がしていた。ただ自動車は他の交通機関で代替できるし、クーラーは扇風機やうちわや扇子などで代替が利く。しかし、やはり3Cにはどうしても代替できないニーズがある。自動車なら過疎地における自家用車の重要性、クーラーなら風量やその空間を冷やすための時間の速さなど。これがないと生活できないというより、手放したくないだけなんだなと、今回の授業で実感した。また紙おむつやペットボトルなど、もともと生活必需品をより使いやすくするための技術(共働き夫婦への考慮など)を3C的な娯楽に活かすということを先生が述べていたが、そのように娯楽的なものが普及することで新たな生活への不満が生まれ、その不満を解決するために新たな技術が生まれるという繰り返しで、ひとつのサイクルになっているのだと考えた。これが、本当に必要なものの外側で消費が経済を回すということなのかと、疑問をもった。

自分が日ごろおこなっている消費行動に、本当に無意識である部分があることを再認識しました。自分の勉強不足ですが、消費とは商品をお金で購入することであり、その商品を買ったあとでどうしようと関係なくただ購入することである、ということに驚きました。高度経済成長よりもずっとあとに生まれている私たちは、すでに消費社会が常態化しているのに、その常態化しているということに気づかず、満足することなく「よりよいおかずを食べたい」といった欲が生まれていることこそ、現代社会人の自覚すべき点だと考えました。三種の神器→3Cと進むと、元に戻れない何かを得させてしまう、と先生はいっていたと思うのですが、今後さらに「発展」していくと、元に戻る必要はあるのでしょうか。ないと思っているわけではなく、どのようにお考えなのかを知りたいです。私の予想だと、今後も止まらずに発展していけば、不便さをつくり出す必要性が高まると思います。それもそれで考えることが難しいです。私はまだアイデアを思いつくことができません。
・・・> どのようにお考えなのかはいまいわないほうがよいと思いますが(ディスカッションやその後の思考を期待)、原子レベルでいえば地球上の物質量は基本的に不変であること、地球上の人口は増えつづけていること、豊かな生活を送っているとされる人口がこの30年間で23倍に増えて地理的な範囲も拡大していること、資源・エネルギーは偏在していること、などを考えたらどうなりますか? 地理の教科書や地図帳を見て考えましょう。


ニューヨーク ブロードウェイ付近

 

便利/不便と快/不快を混同する、という内容が印象的だった。失って初めてわかるというけれど、家事とかを実際におこなって初めて物の便利さがわかるのだと気づいた。

便利/不便と快/不快の価値判断が混線してしまっていることに気がついた。便利なものが多い時代になってきている、とよく聞くが、便利ではなく快適で豊かになっているだけなのだ。そう考えると私たちが日常から使っているもののほとんどは3C的なもので、なくてもよいものだらけである。私の母がスマホがない時代に友達と待ち合わせするときのことを語っていても、それは過去の話じゃんと思ってしまっていた。だがこれは、実際必要のないものを楽だからという理由だけで守りたいのだろう。別の例でいうと、私は眠気を覚ますために毎朝コーヒーやエナジードリンクでカフェインを摂らなければならないと思うが、これも本来は不要である。こうやって一度快適だと思ってしまったものを、使わなく(欲しなく)なるというのは無理だし、恐ろしい。きっとこれからも生活を豊かにするものが多くなっていくが、要らないとわかっていながら買ってしまう気がする。沼だと知っていてハマるのは悔しい。

きょう朝起きてから学校に来るまでの間に、何も消費していないように思っていても、実は何かしらを消費しているという事実があることに気づきました。(類例複数)
最近は節約しているから、ここ1週間は何も消費していないぞと思っていたら、スマホやPCの充電、インターネット通信の利用、電車やスクールバス、授業を受けるのでさえも「消費」なのだとあらためて学び、常に消費している人生だと感じた。

私は寮生活なのですが、部屋にテレビがありません。実家暮らしのときは毎日欠かさずテレビを見ていたため、不便だなと最初は思っていましたが、意外と大丈夫で、デジタル・デトックスしている友達から「意外とスマホなくても大丈夫」という声も聞いて、なくては困ると思っていたのに、なくても生きていけるということが生活の中にも見えてきます。人間のQOLを高めるためにつくられたものは、実は不快感を覚えるきっかけになっているという考えが、自分の中でとても腑に落ちて、同時にそのきっかけが経済成長につながっているという、ある意味の矛盾も感じました。

こうなったらいいな、というような、人々が考えているようなことを実現しようとしてきたことから、考えもしなかったような視点から生活を変えていく動きが、いまでは経済としてはなくてはならないものになっていることに気づかずに快を選択しつづけているということに、少し怖さを感じた。人に欲させるような商品がさらに発展すれば、欲が抑えきれないような社会になってしまうのではないかと感じた。

便利/不便と快/不快の意味(使い方)を間違っていたなあと思った。最近は、同じ飲料水でも付加価値=快で他社と競争していて(たとえばおまけつき、おもちゃつき、見た目、添加物など)、本来は不要なものがメインになっている様子を感じる。
・・・> そこは付加価値という言葉(表現)でないほうがいいな。経済(学)でいう付加価値というのは、商品の生産によって新たに産み出された価値の部分を指し、日常的なスラングでの用法とはかなり異なります。本来の付加価値という概念も、この消費の文脈ではきわめて重要なので(一般に「便利」よりも「快」の商品のほうが高付加価値=儲かる)、何か別の表現を。ところで、おまけをつけるとか、見た目のデザインで勝負するとか、そういった部分での競争は、経済学では非価格競争という概念になります。教科書や用語集に載っているのでお調べくださいな。

1月に祖父からもらったお年玉で買ったのはワイヤレスイヤホン、スニーカーなどだが、これらのものは3C的な、快を求める物である。いまの私が「買いたい」という欲求に駆られるものは「本当に必要なもの」ではなく「快」を求めるものであるのだと気づいた。一見すると無駄遣いのようだが、結果的に経済を回すことにつながるとわかった。道徳的には「無駄遣い」はよくないことだが経済的には必要なことだというのが、教育の中でも意見が異なり、興味深いと思った。

私はとくに3C社会の毒に呑まれてしまっていると感じた。高いシャーペン、一つでよいはずのスポーツ用シューズの大量購入など。今回の内容は、自分の中でモヤモヤしていた部分が晴れてすっきりした。将来、開発に興味があり、普段からアンテナを張ったほうがよいというアドバイスを受けていたが、具体的な方法がわからなかった。今後のアンテナの張り方がわかってとても楽しかった。

スマホは3Cの産物であるという考えにとても興味をもった。快/不快と便利/不便の概念がとてもおもしろいと思った。この2つを判別して自分で考えることが大事であると思った。
・・・> 3Cの「産物」ではないと思います。また「判別して自分で考えることが大事」だとは思うけれど、それが自身のモラルの問題なのか、社会のあり方なのか、はっきり見えていないのではないかな(モラルでも社会のあり方の問題でもない、というのが授業で指摘したことです)。身近な話題だけどどんなテーマなのかつかめなかったですよね。ものすごく難しくて深いのは確かです。


香港 深水ホ(ホは土へんに歩)

 

便利/不便と快/不快、食料と食糧など、言葉を分けて考える方法が新鮮だった。「本当に必要なものばかり買う」ことが大切だと無意識に思い込んでいた。「便利」が蔓延した現代における経済成長には、必須ではない娯楽の消費が重要なのだ。

考える前に買え、という話は人生で初めて聞いたので印象的だった。自分が何かをする、買うといった消費についてあまり考えたことがなかったが、現在と過去のつながりに大きく影響しているのだとわかった。必要なものだけ買う、というのは○○ロスをなくすという意味で社会のためになるし、とにかく多く買うというのは経済的には社会によいことをもたらすため、消費には善と悪の側面があるのだと思った。
便利さだけを追求して必要なものだけで生きていくのは豊かであるとはいえず、そこに3C的な快適さが加わると豊かになるのだと思った。ある程度多くの人に便利さが普及してきたら、快適さを求めるようになることは必然で、それが経済成長をもたらすので、消費社会であるというのはよいことだと考えた。しかし人々が快適さばかりを求めて便利さをおろそかにしてしまうのはよくないと思う。第三次産業に人が偏り、第一次・第二次産業が人手不足になっているこの現状は深刻に捉えるべきだ。
・・・> 明快な分析だと思います。「よい」「よくない」という表現を避けるように工夫すると、どうなりますか? 社会科学系では、善悪とかよい/悪いという(実は基準がよくわからない)価値判断の表現を避けて、より適切な語彙で示すことができるようになると、論点や主張がよりはっきりしてきます。

完成品の購入はその間の手間も消費材料であることから、私たちは生活においてさまざまな行動を省き、さらなる時間を手に入れ、そこに豊かさを求めたことで3C的な消費が普及したのではないかと考えた。本来不要なものの消費が拡大するほど豊かさを増大させ、自己満足という思考にもとづいた「趣味」が現代では重要視されていると考える(ブランド物を買う、推し活など)。自己満足だけではなく現代ではSNSによる過度な承認欲求(本来不要な豊かさにどれだけの金額や熱量をかけているか)が本来必要ではないはみ出した部分=あれば快という思考を促しているのではないか。

携帯電話の進化の歴史を見たときに、スマホになるまでは新しい機械が登場するたびに画期的な機能が備わって便利さが上がっていると感じていましたが、スマホ以降は、もう新しい機械は登場しそうにないなと思っていました。今回の授業を踏まえて、電話やメッセージのやりとりにおいてはもう便利にする余地はなくて、追加機能を充実させて楽しさを向上させることしかできないのだと考えました。毎年のように機能を進化させてリリースされるiPhoneも、本当に必要不可欠な機能は古い型にも備わっていますが、周りの人が新しいiPhoneをもっていて自分より快適に、楽しく過ごしている、という不快を生み出すことで購買意欲を生んでいるのかなと考えました。

現代社会になくてはならない情報・メディアも、「なくては生きていけない」というのは比喩でしかなかったのだと感じました。消費社会だからこんなに情報・メディアが発達したのかどうかはわからないけれど、価値観が変わったのだということは感じました。

YouTube Premiumといった、広告をなくすことのできるサブスクは、まさに経済・産業において不便さをつくり出すことが本質であるというのを体現しているのだと痛感しました。また最近は暑さのため、小さな扇風機を持ち歩いている人をよく見かけます。消費行動によって地球温暖化が進み、暑さという不快が生まれて、冷感グッズの消費につながるのだとすると、自然と産業の関連性について学びを深めるのもおもしろそうだと思いました。

便利を生み出すのではなく不便をつくり出すというのが消費の本質である、という意見に関して、広告にも同様のかたちが使われているように思った。最初に「不便」とされる事象を出してから、それを解決し、「便利」にするアイテムを公告する。そして多くの場合それらに出演する人々や色彩は、不便のときには不満そうな顔、じめじめとした色づかいで、便利になると笑顔や明るい色づかいになり、快/不快を演出していると考えられる。カラーテレビの普及はそのような演出を助長して、広告の効果を増やし、「不便」を不快のモチーフとともに伝えることで便利=快という認識をつくっているのではないか。
・・・> するどい。テレビがカラーになったことの最大の効果はそれです。誰か気づくかなと思っていたら気づいてくれましたね! 1学期に歯みがきなどのCMの話を伏線として仕込んでおいたのです。最近のアフィリエイト広告、とくに美容系は、使用前のどぎつい写真が本当に不愉快きわまるもので、どうにかならんかねええ。(アフィリエイトの多くは広告主企業とは直接かかわりのない業者、とくに外国の孫請けなどがほぼ勝手につくっているんですよね)

三種の神器は不便を便利にし、3Cは快を生むといった先生の意見に疑問をもった。白黒テレビがなければ見なければよいし、洗濯機ができる前は迷いなく手洗いであったし、冷蔵庫がないのなら冷やそうとも思わなかったと思う。つまり3Cも三種の神器も時代が異なるだけで性質は同じだと考えた。いま若者にとってスマホが不便→便利の製品であると思っているのは先生のおっしゃるとおり、スマホが不便をつくり出したのだが、同じように、三種の神器も、それによって生まれた不便を見ているだけなのではないか。
・・・> お、するどい指摘ですね。私は授業でも述べたように、三種の神器と3Cには決定的な違いがあると考えているのですが、もっといろいろ考えてほしいので根拠などはここに示さないことにします。登壇者の報告や議論がどのあたりにいくのか予想できませんが、ぜひSide-Bでこのことをご発言ください!


某イベントの告知 ライブ好きな人はわかるでしょうが、ドリンクなるものはたいてい普通のペットボトルで
なぜ必要なのかと思うのですが、これを有料で提供することで風俗営業ではなく飲食店扱いとなり
ライブハウス等が深夜まで営業できるという、法律の運用上の問題ですね

 

ペットボトルが現代の消費社会を考える軸になるなんて想像したこともなかった。飲料商品も、日曜的な消費と娯楽的な消費に分けて捉えるという観点も新鮮だった。キッコーマンが開発したペットボトルは、どのように広く使われるようになったのですか? 特許や技術提供がおこなわれたのか、どういう経緯でそうなったのか疑問に思いました。
・・・> ペットボトルの原型とされるものは、キッコーマンの少し前にアメリカの化学メーカーであるデュポン社が開発しました。アメリカでは当初から飲料への利用が想定されていたようです。こうした開発のニュースがあれば各国の企業が似たものを開発しようと努めるのは必須で、キッコーマンは日本のプラスチック容器メーカーの草分けであった吉野工業所に委託して、お醤油向けの新たな容器を生み出したのです。化学工業の分野では、素材とおおまかな製法がリリースされれば、権利などに抵触しないようなものを生み出すような競争がたちまち起こるみたいですね。それ以上に重要だと思うのは、日本では当初、この容器を飲料には使えなかったという点です。食品衛生法の古い規定が足かせになっていたためです。法改正に向けた容器メーカー、飲料メーカー、行政当局の取り組みにおいては、安全性の検証というのが最も重視され、長い時間を要します。飲料は火を通さずに直接体内に入れるものですし、日本人はボトルに直接口をつけて飲みますから余計に安全性が重視されたのでしょう。この時点で容器の組成や製法はほぼ共有されることになりました。なお、本筋から外れるので話題にしませんでしたが、炭酸飲料を入れる場合にはボトルの底部にごつごつした硬い凹凸がつけられます。この「発明」も画期的だったのだそうです。

ペットボトルの起源が醤油だったことが印象的だった。それを特許化しなかったことでジュースの産業が活発になったのだと思った。さらに、日本独自の自動販売機が開発されたことでペットボトル産業は普及していったのだと思う。
・・・> 自動販売機は日本独自ではなく欧米発祥です。いまの3だとピンと来ないでしょうが、飲料の自販機がペットだらけになったのはこの1015年くらいであり、それ以前は、自販機の主力は缶飲料であって、ペットボトルはコンビニや売店で購入するものでした。1本あたりの容量と価格が缶飲料とは違っていたのが大きい。昨今はひとつの自販機の中にさまざまな価格の商品が混在していますが、それでも問題にならないのはキャッシュレス化のおかげでしょう。

毎日必ずおこなっている消費ですが、時代を経た変化について全然知らなかったことに気づきました。とくにペットボトルの話題では、キッコーマンの醤油が元祖であり、缶の不便な点や消費者のニーズを考慮してどんどん使用が拡大していったことがわかりました。またペットボトルの発明は、持ち運びのしやすさや廃棄のしやすさだけでなく、量り売り店まで重い容器をもっていかなければならなかった主婦の負担の軽減に大きく貢献したというのが、非常に興味深いことでした。1970年代醤油→1980年代コーラ→1990年代お茶・水という流れを学んだ際、醤油の後に娯楽的な消費対象であるコーラが登場し、そこから日用的なものに戻るという流れを最初は意外に思いましたが、最初は主婦にとって重労働だった量り売り購入を簡易化するためにペットボトルに入った醤油が販売され、次に家庭ではつくれないジュース類などの娯楽的な商品に使われ、最後に家庭でも比較的つくりやすい緑茶や麦茶などが入れられたということを、いままでの学びを生かして考えて、納得できました。

ペットボトルの普及は、水やお茶からはじまってジュースにも使われるようになったのかと思っていたが、まさか醤油からジュース(コーラ)、お茶という順だったのかと驚いた。でも必需品のためだったものが娯楽や、圧倒的な趣味のためのものへと移っていったというところは、そのとおりだなと思った。(類例複数)

ペットボトルが、日用品から娯楽に、そして日用品に戻ってくるというのが興味深いと思いました。ここでも便利さから快適さに移ったのだと思いました。駅で水やお茶を売っていないと困る。これが不便なのか不快なのかもわからなくなっていて、自分が消費社会に生まれてきたのだということを知ることができました。
・・・> 同じ飲み物でも(酒類は別にして)、水とお茶と清涼飲料水ではルートというか入手経路が別、というのが1980年代まで当たり前でした。水は水道から出したものをそのまま飲む。駅のホームには手洗いと飲用を兼ねた旅客用の洗面台があるのが普通だったのです(山手線の駅にも普通にありました)。いまも公園などで見かける、上段に小噴水みたいな飲用の蛇口、下段に手洗い用というものもありましたし、長距離列車が発着するホームには小学校にあるような横長で蛇口が複数並ぶ、石製や陶器製の流し台がありました。私はその世代ではないけれど、蒸気機関車の牽引する長距離列車に乗ると窓から煤煙が入り込んで顔が汚れるので、ホームに降りたらまず洗面、というのが作法だったそうです。夜行列車が当たり前だった時代には、駅の流しで歯磨きをしている人もよく見かけました。お茶は、駅構内にある駅弁業者のブースで、大きなやかんと土瓶で淹れたものを、てのひらサイズの陶器の器に小分けして、駅弁と一緒に売っていました(のち容器はプラスティックに)。ふたの部分をひっくり返すとおちょこみたいな小湯呑みになったのです。冷たいお茶というのは概念自体がなかったのではないかな。清涼飲料水はいまと同様に自販機がキヨスク。ICTの回で、もともと別の概念・事象だったものが合流していくのが現代の特徴だと指摘したのと同じことが、駅の飲み物にもみられるわけですね。

ミネラルウォーターはコントレックス推しです。他のものと比べて圧倒的に飲みにくいですが、体内がすごくきれいになる感覚があります。
・・・> 私もコントレックス嫌いじゃないですけど、エセ科学っぽくなっているよん。※個人の感想です、とかつけておきましょう(笑)。

水とジュースの違いや、「欲求」と「欲望」の違いなどについて思考したことが以前にもあった。三種の神器と3Cなど身近なところにも「便利」と「快適」の違いを感じるものがあるということに今回気づくことができて、社会の見方が少し変わった。

食料自給率が高くないのは、快を求めて食の興味が他国へも向いた結果なのだと知って、本来見るべきは食糧のほうなのだと思いました。明確に食料と食糧を分けることができないから難しいけれど、食糧を意識することが大事だと思いました。
以前に先生が「食料自給率なんて上げる必要ない」とおっしゃっていた。食糧は生存に必要なもの、食料はその他を含めたすべてであるから、食料自給率が下がるのは当然という話に共感できた。3C的なものはなくても問題ないが、元には戻れないということと、不快を不便に置き換えるのが消費社会であるということを忘れないようにしたい。

時代を経て技術がますます発展したことによって、便利よりもさらに快適さが求められるようになり、現在も楽するための商品が多く開発されていますが、ないことの不便さを実感させるような商品を見抜き、生産者の意図を理解することで、自分の能力を軽減させてしまうような結果とならないか、熟考できる人になりたいです。

 
(左)台湾 台北  (右)韓国 ソウル

 

いまの商品がわれわれに提供しているのは便利ではなく快である、という文脈は、たしかに卑しいな・・・とも思う一方で、すでに満足だと思っている現状だが、それを振り返って不便だとさえ思えるような未来が少し楽しみだ。タケコプターで空は飛びたい。消費社会を抜け出すのは大変そうだ。

地に足をつけて他の人のものを欲しがらないというのがもともとキリスト教の教えだったというのが意外だったし、結局は「消費」することが私たちの目的になっているように思った。またその「消費」は、第二次大戦後の物資が豊かになったころから活発になったということも印象に残った。

「便利さ」「なくてはならないもの」は、もういまの時代に増えることはそんなにないと思った。でも、なぜ消費が常態化しているのかというと、快(なくてもいいもの)にフォーカスした商品を便利だと勘違いして消費しているからだ。その人たちの快がすべてにおいて快なのかというと問題もある。菓子類の食べ過ぎで病をもった人、ゴミの量が起こす環境問題。しかしそのような快を生み出さなければ生きていけない人もたくさんいる。
・・・> 私はちょっと違う感覚をもっています。「便利」で「なくてはなならないもの」は、社会変化につれてもっと出てくるはずですし、そうでなくてはなりません。若いうちは消費文化が楽しかろうけれど、もう少し落ち着いたら、衣食住など生活の本体を自身でこなしていかなければならなくなるので、気づきの機会は増えることでしょう(「奥さん」とかに依存してしまうと永遠に出会えないでしょうが)。

比較生産費説はイギリスの出まかせだ、というようなことをおっしゃっていましたが、どのような部分に論理の破綻があるのですか? 私はこれを最初に習ったとき、分業って大切だなーと素直に思ってしまっていたので、気になりました。
・・・> イギリスの出まかせではなく(国家が主語になるのはおかしいですね)、発案者であるリカードの「まやかし」です。あえて国家を噛ませるならば、19世紀の英国の人たちがこの学説を支持したことが自分勝手で、調子のいいことだということです。論理はまったく破綻していません。非常に明快な論理であり、辻褄が合いすぎているからこそ、レビュー主を含む多くの人が納得して、うんなるほど、分業って大切だよね〜と考える(考えた)わけですよね。日本語の文章だとリカードと書くのが一般的ですけれど綴りはRicardo(英語式の読み方はリカードゥ)。ポルトガル系の人物で、原語ではリカルドと発音します。そのリカードがモデル化した有名な構図(公民の教科書にも載っている)は、英国とポルトガルのそれぞれで毛織物とワインを生産するのは非効率であり、英国は毛織物、ポルトガルはワインの生産に特化するほうがウィン・ウィンになるよ、というものでしたね。毛織物は工業製品、ワインも工業といえなくはないが農作物に依存して農村で生産される(しかも技法が前近代的)一次産品に近いものです。付加価値は毛織物のほうがずっと高い。ウィン・ウィンのつもりで分業して自由貿易をやっていれば、英国のほうに分厚い富が蓄積されていきます。関税をなるべく低くする自由貿易は、国家それぞれの経済力(や軍事力)に大きな差があるあいだは、大国優位を固定化し、いっそう差を開かせるものになりえます(実際には「その後の展開」があります。4- 繊維工業の来た道 の最後のほうを振り返ってみてください)。分業には、水平分業と垂直分業という2つのモデルがあります。ダブルスで「僕は背が高いから前衛、君はショットが強いから後衛ね」というのは水平分業、「僕はマネジメントがうまいから社長、君はパソコンが上手だから僕の秘書ね」というのは垂直分業。得意分野に特化した結果、主従関係や力関係が固定化されたり拡大したりするのが垂直分業です。リカードならぬリカルド君の主張の動機がなんだったのかを知ると、その垂直分業容認のあくどさを読み取れるのではないかな。ま、いろいろな数式を浴びせてきてこれをごまかそうとする人も多いのだが。

消費をめぐるリソースの奪い合いが現代の価値観を構成しているという話に興味をそそられた。一度快適なものに出会ってしまうと離れられないのとともに、それを肯定してくれる貨幣(消費)社会が既成のものであるということが厄介だと思う。生まれた瞬間からそのようなスターターセットを渡されてしまえば、それ以外を知る・気づくのは大変なことだ。

消費社会を生み出したのは、「不便」な部分が満たされ、人々がさらに豊かさを実感するために必須ではないものを追うようにになった、その欲であるとわかった。授業内では、消費の対象として食料などの例が挙げられていたが、行きていくうえで不要で娯楽的なものという点で、文化(芸術や宗教)も消費の対象に入るのか疑問に思った。文化は豊かになる前から人々がつくり上げたものなので、例外である気もするように思えた。
・・・> 文化の話はこの次のテーマで取り上げますのでまた考えましょう。宗教は、本体部分は違うんじゃないかな。動物ではない「人間」という存在と不可分に、原始時代からずっとあるものなので。

スマホを充電したり、検索・通信したりすることを無料のように感じて、便利になったと思っていたけれど、それは消費であり、簡単に快適さが手に入るという幻想を抱いていたことに気づきました。財やサービスが大量にあふれ、しかもキャッシュレス化が進むいま、消費という感覚が以前よりも薄くなっていると思います。スマホはみんなもっているのが当たり前だけれど、たしかに無いと生きていけないというわけではなく3C的消費社会に自分も組み込まれていることに、少し悔しいと思ってしまいました。自由に消費生活をしていると勘違いしていましたが、不便さをつくり出されていただけだったと気づかされました。だからといって、いまさらスマホを捨てるとか、白黒テレビに戻すとかはできないし、それはそれで快適さの果てに制約を望むという、ある種の現代人の病気やうぬぼれなのではないかと思いました。
・・・> 最後の一文は、私の考え方とはちょっと違うのですが、非常に重要で示唆に富んだ指摘です。次回もあることですし2つのことを考えてほしい(全員に)。主に関係する科目は倫理です。(1)自由に消費生活をしていると勘違いしていた、とあります。消費生活を無自覚かつ前向きに満喫している人ほど、自分は自由であり自分こそ自由であると思い込みがちですね。それはなぜだと思いますか? そして、それが真の自由ではないということにうっすら気づいておられるようですが、それはどのような部分で思いますか? 7- 新聞とテレビの昭和、ネットの平成 の最後に類似の指摘があります) (2)自由を存分に受け取った人たちはその自由の重荷に耐えかねて、それを投げ出し、ときに権力側にそれを預けてしまうことがある。大衆(マス)文化時代の自由とはそのような性質をはらんでいる。と、エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」(1941年)に述べられています。にわかに信じがたい構図のようですが、現在でも思い当たることはいくつもあります。どういうことなのでしょうか? 12- 青年期の発達課題 では夏目漱石の命題に寄せて、若干の考察を試みました)

 

*今回の内容のうちペットボトル(「コーラ」など利用される中身の推移)の問題に関しては、2000年代半ばころにお茶の水女子大学附属小学校の佐藤孔美先生(現 敬愛大学教授)の社会科の研究授業にヒントを得て、疑問点を私なりにアレンジするなどして練り込んだものです。その他にも佐藤先生の授業実践から視点や手法をいただいていまも定番にしているものがいくつもあります。先日、私が企画した教職課程の業界団体のシンポジウムに佐藤先生をお呼びしたのですが、その折に遅まきながら御礼を申し上げたことでした。貴重な学びの機会をくださったことにあらためて感謝申し上げます。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。

2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

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