古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études sur la société contemporaine I:
le dynamisme de la Société / les études pour l’approfondissement, l’intégration et le recherches

現代社会論I
社会のダイナミズムと深化・統合・探究の学び


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S203教室

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現代社会論II:変動する世界/グローバルな視座と思考のために

 

202679月の授業予定
7
10日 ちょっと待って!モラトリアム:青年期の教育課題
9
11日 地方分権化の明暗:不均衡の容認はどこまで? Side-A
9
18日 Side-B
9
25日 まちづくり・地域再生への挑戦:実情と理想を語ろう Side-A

 


次回は・・・
1314- 地方分権化の明暗:不均衡の容認はどこまで?

2学期は1つのテーマに対してA面・B面の両面からアプローチします。政治理論とか経済政策というような対象自体が抽象的で捉えにくいものはなるべく避けて、私たちが生活している「この地面」を意識して、しかし目には見えない構造や影響関係などを掘り出していきたいと考えています。最初の主題は地方分権。実のところ、使い古されたというか、もう飽きられつつあるテーマなのかもしれません。721日に発表された政府の「骨太の方針」の最新版で、ずっと掲出されていた「東京一極集中」という語が消えたというのが注目されました。小池百合子都知事はこれに触れ、東京一極集中という言い方が「古びた表現」と述べていますが、他の首長たちからは「それこそが東京の傲慢」といった声も聞かれました。1学期の隠しテーマのようにもなっていた新自由主義の発想でいえば、地方はダメなんだから(経済力が不足しているのだから)いっそうダメになっても仕方ない、という結論になりえます。ただ私は東京人ですけどそこまで割り切る度胸はありません。人は生まれ方を選べない。生まれた地域を宿命的に背負っていきます。たとえば高校3年生が大学に進学したいとなったとき、バリエーションに富んだいろいろな大学の中から自身の好みや興味・関心や通学のしやすさなどを判断材料にして選択できる東京あたりの生徒と、そもそも通学圏内に大学自体がないという地域の生徒では、「考えなければならないこと」の質・量が違ってきます。当クラスにも首都圏育ちの人が多いですが、「来春、地元を離れるか残るか」という重大な決断を迫られる(自分だけでなく家族も)という経験をするかしないか、その違いは結構大きいと思いませんか? もちろんいつの時代にもそうした地域格差の問題はあるのですけれど、近年のさまざまな変化(一例を挙げればインターネットの発達)に伴って、格差の質や程度がずいぶん変わってきたという点を考えたいものです。

地方分権の対義語はもちろん中央集権です。たいていの場合はトレード・オフです。G7諸国(アメリカ、カナダ、英国、フランス、ドイツ、イタリア、日本)の中ではフランスと日本の「中央集権度」の高さが際立ちます。ということで、なぜ中央集権になりがちなのか、なぜ地方分権になりにくいのか、という両面を考えるべきでしょう。原因や構造は中央と地方のそれぞれにあります。私が公民の教員になった1990年代は、地方分権化をどうにか推進しないとということが教科書にも出ていたのですが、建前や学問的な話はともかくとして、「地方分権にしなくては」と実感をもって考えている人は思いのほか少ないのではないかと思う。日本は明治このかたずっと中央集権なので、よい・悪いではなく「そんなものだ」と大半の人が思い込んでしまっているのではないでしょうか。中央集権のままにしておくほうがラクだという面も、もちろんあるのでしょう。

このテーマを当科目で取り上げ、議論しようとするときに、事前に少し知識を入れてあげなければいけないと思うところがあります。前述のように、どこに生まれ育つかによって「問題」の見え方がずいぶん違います。東京生まれ東京育ちで、おじいちゃんちも東京にあるというような場合、「問題」そのものの存在に気づかぬままということもありえます。こんな時代だからグローバルな文化に触れたいと思う。多国籍的な人やモノに触れるという点では、圧倒的に東京・首都圏が有利です。そこまでは考えるだろうけれど、たとえば自分が海外に行こうとするとき、東京に住んでいれば2つの国際空港(羽田・成田)が手近にあって、そこからいきなり飛ぶことが可能です。でも地方の田舎に住む人が外国に行こうとすれば、なんらかの手段で東京・名古屋・大阪あたりに行って、そこで乗り継いであらためて国際線に乗らなくてはなりません。航空運賃の差はいうほどではないのですが、心理的なハードル(面倒くささ)にはかなりの差があります。もちろん娯楽や余暇の部分よりも生活・生産の本体のほうが重要で、そちらの格差はいっそう大きなものに感じられるかもしれない。埼玉県の教室で私が提示したところで、どれくらい伝わるのかわかりませんが、そうした「問題」の存在自体を知ることなく、「日本はこんな国で」なんていうことはできない、というところまではいきたいですね。

 

REVIEW 7/10

今回の授業で青年期のあれこれを学び、青年期というのが単に子ども→おとなの途中のことではなく、自分を客観視したり進路や生き方を模索したりする期間であると知った。いま直面している悩みが青年期特有、とくに第二次性徴後の自然な心理ステップであることがわかり、ちゃんと同じように成長しているのか〜と、少し安心した。モラトリアムに絶賛入り込んでいる私は、先生のいうとおり、まじでおとなになりたくないと思っているので、もう少し心理的な揺らぎ、おとなから見た異常を(適度に)繰り広げつつ成長し、30歳には脱出したい。

子どもとおとなの境目は難しいが、青年期というのがその変化に大きくかかわっていると思った。青年期には心身が急激に発達して、ものを考える視点や考え方が変化するため、それまで(児童期まで)とは周囲への態度や行動も大きく変わっていく。「自分」について考えるようになり、自己中心的な思考だけだったのが客観的な思考をできるようになる。それによって「子ども」という枠組からおとなになっていくのだと感じた。また青年期というのは社会が複雑化・高度化するにつれて、それに適応するために長くなっているという話があった。いつ終わるのかがあいまいになると、おとなになるという感覚が薄れ、そこからの人生・行動が不安定で中途半端になってしまいそうだと感じた。一方で、適切に時間をかけて準備できるという点では、社会に出てから自分なりの多様な働き方ができると思った。

青年期の初期に人間関係の再構築が起こるという話で、自律した自己の確認と抽象的思考が重要な役割を果たすということが学び取れた。おとなの位置を自身の中で下げて、自律した自己を確認するという行為は、客観的な視点で物事を捉えることができるようになりはじめているのに対し、自分中心の世界から抜けきれていない青年期のとくに初期を象徴的に表しているように感じました。また自律した自己を捉えようとする過程で、同時に客観視できるようになるからこそ、他者に合わせる必要性と自分中心の世界との葛藤で悩むのかなと思いました。

青年期に抽象化が可能になり、学習においても概念を学ぶことが増えるが、ここで急な概念化を受け入れられるか否かでその学問への道を進むことが可能なのかがわかると知り、私自身いまでもそれがうまくいかない教科では、抽象化をあきらめて具体化してしまっていることもあると思った。青年期が長くなっていることがわかったが、おとなにはなれない、内面的に未熟な部分があるにもかかわらず、人生において重要な決断が多すぎると思う。そして社会に出ておとなになれば、青年期の苦悩を忘れてしまい、もしかしたら青年期の未熟な決断を後押しする日が来るのかもしれない。

青年期の入口として、自分がどのように他者から見られるのかが気になったり、自分を模索したりするということを学び、MBTI診断などの性格診断が青年期の年ごろに流行する要因でもあるのかなと考えさせられた。これらの診断は、自分で答えるものがほとんどであり、他者から見た自分の評価というのを知るには至らないが、同一の診断を通して他者と比較し他者との相性や他者とのかかわりにおける自分の立ち位置のようなものを判断する材料の一つとして青年期の人々に捉えられ、好まれるのかなと感じた。
周りのおとなに導かれるままに行動していた児童期と違って、自分が軸になって思考、行動し、自立に向かう青年期では、より「個人」としての存在が強まるぶん個人差というのが顕著に表れるし、外から捉えられるようになる「周囲と自分」という見方が強まり、属するコミュニティが及ぼす影響が大きくなると思った。それぞれが「自分」を探してロールプレイする時期において、最近流行のMBTI診断とか、パーソナルカラー診断のような「型にはめる」ものが若者にウケる理由も青年期の発達心理にあるのかなと思ったし、格好のビジネスの対象だなと感じた。
・・・> 2学期のテーマにも出てきますが、MBTIというのは典型的なエセ科学です。十二星座や血液型などと同じで、話のタネにする程度ならば目くじらを立てるほどではないが、「診断」などともっともらしい語を立てて、中にはそれで自身の行動や、ときに進路まで判断しようとする若者が出ているのは由々しきこと。MBTIがエセ科学であることを知らずにいる人が多いというのもまた不思議なのだけど、結構多いんですよね。おっしゃるとおり「格好のビジネスの対象」(カモ)ということです。

青年期の特徴的なこととして抽象的な思考が可能になることが挙げられている。この性質は自己を俯瞰する視点が生まれることで、自己分析を多様な観点でできるようになる。またたくさんの人と出会い、関わり合うことで、優越感よりも劣等感を形成し、嫉妬や羨望という感情がよりいっそう大きくなる。授業で最も共感したのはステージ4.5のことである。規範や善悪観を疑い、反抗して、その存在と有効性を実感しようとする段階がおとなになる手前にあり、その実態は傍から見るとわがままにわめいているように見える。これは頭や感覚ではわかるけれど、これほど言語化して分析する発達心理学者や教育学者ってすごいなと思った。


L.コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』
授業のときスライドに入れようと思って探したけど見つからなかったのが
つい最近になって大学のロッカーに入れていたのを再発見(汗)

 

第二次性徴の際に自分の体をコントロールできなくなる。自分の体を含めて「私」だと思っていたものが、「体」と「私」?(意識?)に分裂していくというのは、心の成長において大きな転機なのかもしれない。しっちゃかめっちゃかになった、他人と自分の境目をなんとかつくろうともがく時期が青年期なのかも。

今回の授業はめちゃくちゃ共感できるところがあった。手続きのもろもろの書類は私に放り投げるのになぜスマホのGPSはオンなんだ?とかで、よく母親とケンカしたことを思い出しました。自分の自我の形成には親が大きくかかわっていると思いました(家庭環境とか)。

たしかに、いまでは座席の近い人とよく話すという傾向が完全になくなったと思う。中学生のころはその傾向がまだ少し残っていたので、自分の成長を感じた。
子どものころはもっと自分と違った特性をもつ人とも話せていたのに、中学校に進んでからはさっぱりで、自分の社会性はどんどん落ちているのではないか、と悩んでいたことがあったので、それが青年期の特徴であると知り、少し安心した。

小学生のころ読書感想文で私がよく使っていたテンプレートが「もし自分が主人公だったらこのとき○○していたと思う」というものでした。今回の授業を受けて、振り返るとこのようなことを考えた経験が、抽象的思考能力を育てていたのだなと気づきました。

小学生時代はサッカー、中学生時代は受験勉強に打ち込んで、先の人生のことは考えていなかった。しかし高校生になり、依然として明確な目標は決まっていないが、自分と向き合う時間は増えた。多少苦しいと感じることもあるが、乗り越えないといけないと思う。

青年期とそれ以前の世界の捉え方を、天動説と地動説で喩えていたのが秀逸だと思った。身体的な発達が早くなっても、精神的な発達はむしろ遅くなっているのではないか。十代とその前後を、未熟さが当たり前の環境に身を置くことで「まだおとなじゃなくてもいいんだ」と思える期間が延び、その期間の精神の成熟を止めてしまっていると思った。昔であれば幼少期から親の仕事に触れ、準備期間も社会に出るのも早く、そのぶん精神的な発達もいまよりも早かったのではないか。秩序が保たれたおとなの社会に出て、おとなに多く触れることが精神の発達にいちばん効果的だと思ってしまった。


ウィリアム・スミス・クラーク(1826-86年)の像(札幌 羊ヶ丘展望台)
アメリカの化学者・動物学者で札幌農学校に招かれ指導にあたった

 

近代以前の、身分が区切られ第一次産業が主要な産業形態であったころは、身分・職業・生き方が固定されていて、おとなへの準備期間が不要で、青年期はなかったというのが興味深かった。青年期などの成長体系は社会の構造に影響を大きく受けることを実感させられた。

近代より前は職業選択の自由がなかったから青年期が必要なかったと学び、生き方で悩む必要のない前近代と、その逆である近代とで、どちらが自分にとってよいのかといわれると、前近代のほうが楽かもしれないと少し思ってしまった。世の中の構造が複雑化していることで青年期がさらに延長していると知り、これからももっと長期化するのだろうなと思った。

職業選択の自由が生まれ、生き方も自由になった結果、青年期という発達段階ができたということに少し驚いた。自由に生きることが許され、推奨されるこの時代には個人の自由があるが、そのぶん生き方に正解はなく、自分自身について深く考えつづける必要がある。その結果、自分自身のことを考えたくないとか就職したくないという思いを総合して、おとなになりたくないと逃げてしまう人が増え、青年期がまた長くなってしまう。現代の、多様な生き方や現実的な社会の裏側など自己同一性の確保に少しでもつながるような情報を学ぶ機会があってもよいと思った。また、青年期のころの感覚がすぐに薄れてしまうのなら、青年期を抜けてすぐの人や青年期の中にいる人が声を上げて自分たちの自律のために必要な教育や理解を促していかないと、今後自己責任がより強くなり、生き方の制限がなくなったときに、後の世代が苦労すると思う。

近代以降における「生き方の自由」や、終身雇用の崩壊が、若者に多大な負担を与えているというのは本当にそのとおりだと感じた。社会の複雑化により、おとなになるための猶予期間が長期化する一方で、身体の成熟は早期化しており、その心身のズレが現代特有の深刻な課題になっているのだろう。また「なりたい自分」を求める風潮の本質が、実は社会から個人への責任転嫁に過ぎないという指摘は、現代の若者が抱える生きづらさの根源をするどく衝いていると思った。若者の葛藤を単なる内面の心理的問題として片づけるのではなく、消費社会や近代のシステムが生み出した構造的な問題として客観的に捉えなおす視点をもつことが大切だと思った。

青年期いというのが近代になってから生まれた単語であることに驚きました。おとなとして社会に出る時期が小学校卒業後くらいだったころは青年期と同じく「第二次性徴」という言葉もなく、おとなと子どもの違い程度の認識だったのでしょうか。他の授業で歴史の解釈は次第に変化するという感じのことを教わりましたが、公共・保健体育のような内容も移り変わるのだと実感できたので、おとなになっても新しい知識を得ないといけないと思いました。
・・・> 第二次性徴という語が意味する内容(初経・精通、変声、骨格の変化、発毛など)は当然いつの時代にもありますし、それらは人間の内面とかかわりなく身体の面だけで見ても明らかな変化なので、「ああ、おとなの身体になったね」ということで、終わりでした。そこに「第二次性徴」などという学術用語を充てたのはもちろん近代人ですし、それを発達における青年期のはじまりであると意味づけたのはさらに後の、20世紀のことです。解釈が変わったということでもあり、新たな捉え方(の必要)が生じたということでもあります。「幕府」とか「産業革命」といったおなじみの用語・概念も、それが存在したころにはそのように呼ばれていませんでした。洋酒が入ってくるまで「お酒」だったものが、のちに「日本酒」と呼ばれるようになりました。すごく最近の話ですが、コロナ禍にオンライン授業が登場するまで、対面授業という語はありませんでした。事象は不変でも、新たな捉え方や認識の仕方が必要になると、概念や用語を新たにつくるということはよくあるのです。

前近代には青年期がなかったという話は不思議に思いました。前近代といえども人間関係も身体の変化もあっただろうし、豊かな暮らしにあこがれたりしたのではないかと思いました。抽象的な思考を得る年代になると、決まった秩序のようなものに対する反感のような、青年期に近い感情はなかったのかなと思いました。実際に、そうした運動が革命につながり近代につながったのではないかと思いました。そういう感情はもともとあったものではないかと思います。それとも、そうした運動はもともと自由のあった人々によって起こされたものなのでしょうか。
・・・> 青年期という発達段階の捉え方が不十分かもしれません。既存の秩序に対する反発や豊かさへのあこがれというのは普遍的なもので、十代の若者に限った話ではなく、むしろ成熟した成人のほうに起こりやすいのではないでしょうか。身分固定的な前近代ならなおさらそうであるはずです。授業では、心身のあり方や認知、行動が変化しておとなに近づいていくという過程を示しましたが、そうした事象を「おとなの手前にある準備期間」であるという観念がおとなの側で共有されたという趣旨のことを申しました。後者の部分が、前近代にはまったくありません。それどころか、西欧では「子ども」という発達段階すら認められていなかったということが指摘されています(フランスの歴史家フィリップ・アリエスが「アンシャン・レジーム期の子どもと家庭生活」という著作の中で提起し、日本では「子どもの誕生」として知られる事象です)。青年というからには一定の時間的な長さ(period)が想定され、その考え方が共有されていなければならないわけですけれど、ほぼ「点」として捉えられ、ゆえに共有もほとんどなかった、ということです。

青年期は近代固有の現象、という考え方が新鮮だった。「こころ」や「舞姫」の例で出てきた「自己責任」。精神がおとなになってからそれを負う必要があるが、見た目がおとなであれば他の人にとって精神もおとなであると認識されてしまい、未熟な人にとっては困惑につながる。このズレが子どもたちの焦燥につながり、背伸びしたり現実逃避したりする現象が起きるのだとわかった。この時期も青年期の一種であると思うので、次に近代固有の理由を考えた。そこで出てくるのが自由主義で、若者にもいろいろな選択の自由が与えられるということは、自分で自由の管理をしなければならないということ。つまり自由主義の責任の重さがあいまいなまま自立しなければならない不明瞭さをもつ成長過程の子どもの時期を、青年期と呼ぶのだということだ。

「こころ」は読んだことがあるが、「先生」の葛藤に共感するだけで、彼が近代人だから悩むのだ、その最先端が夏目漱石なのだ、といった読み方はできなかったし、したことがなかった。歴史を照らし合わせて作品を読むことは、やはり大切なのだと実感した。

ルソーの「エミール」の一部を読んで、難しそうな話なのかなと抵抗があったが、納得する言葉が多くあり、公民に出てくる「社会契約論」を著した彼の作品や境涯に大変興味をもった。
ルソーが底辺の生活をして、音楽にも触れていたということに驚いた。てっきりエリート的に階級を駆け上がった社会学者なのだろうと思っていた。近代になると、結果に伴う責任がすべて自身に帰属するというのは、この学院にいて、十分実感できると思った。逆にいえばこの学院の校風によって、青年期の苦悩がより顕著になると考えた。

 
ジャン-ジャック・ルソーの墓所(パリ パンテオン)

 

「ちょっと待って期間」(モラトリアム)という考えはとてもおもしろいと思った。成人を示す元服の儀式は1216歳でおこなわれた。現代でいえば小6〜高1くらいであり、主に義務教育期間内だったということである。そのように考えると、義務教育の終了とともに成人ということでも、本来は問題なかったのかもしれない。しかし、授業内でも触れられていたように昨今はさまざまなものの変化が早いため、準備が必要なのである。そのため「ちょっと待って期間」=青年期が必要となり、その期間も延びていく。ただ授業で指摘された、近年の青年期は30歳くらいまでというのは、事実だとしても延びすぎではないかと思う。

ちょっと待って期間という表現がすごくわかりやすいくていいなと思いました。椎名林檎の「無罪モラトリアム」というアルバムが好きなんですが、よく意味がわかっていなかったのが、長年の疑問が解けてすっきりしました。1990年代以降に、終身雇用だけでなくさまざまな職業生活の選択肢が出現したことで、さらにモラトリアムの期間が延びたのではないかと感じました。ミュージシャンとかギタリストなどに限って、すごくしゃべり方が子どもっぽかったり、服装がおもしろかったりして、嫌悪感があったけれど、きっとそういう人たちはまだ青年期を抜け出していないんだろうなと思いました。異常が正常だとしても、いい齢をしてまだそのままだったら、ただのヘンな人だなと思うので、自分自身を客観視するように努力したいと思いました。
・・・> 椎名林檎サマは同郷の、9学年後輩なので、あの世界にあまり共感はしないのだけど彼女が吸っている空気みたいなものはよくわかるんですよね(彼女の兄さんが私の高校の後輩)。ミュージシャンやギタリスト、あるいは俳優や芸術家などで、おとなになりきれない感じの言動や外見の人は各世代にいますが、まあビジネス青年期だという人が多いと思いますよ。「彼・彼女は俺たちのことをわかってくれる〜〜」とそのあとを追いかける人たちの中に、おとなになりきれない(青年期を引きずる)人が多く、雑な言い方をするとそこは「市場」になるわけです。

社会が複雑化・高度化するにつれて、おとなになるための準備期間が長くなっているということを学びました。身体がおとなになっても内面の成熟や社会に出るための準備が追いつかない状態をモラトリアムと呼ぶことが印象に残りました。また自由に進路や生き方を選べるようになったことが現代社会の大きな特徴であるとは思いますが、その自由がかえって人々の負担になっている面もあるのではないかと思います。選択肢が多いからこそ、自分で決断することが難しくなり、進路や生き方を考えることを先延ばしにしてしまうのだと思いました。社会変化によって準備期間が長くなること自体は、現代社会においては自然なことだと思います。ただ、その延びた期間の中で自分について考えたりさまざまな経験を積んだりすることが大切なのではないかと思いました。

近年は社会の複雑化によって学生でいる期間が長くなり、青年期も長期化しているため、自分の進路や生き方をじっくり考える時間ができて、何ものにでもなれる環境を誰でもつくれるようになっている。一方で、選択肢が多く自由であるが何を選ぶべきか悩み、不安に思う気持ちも生み出しているということに共感した。この青年期の長期化は、本当にアイデンティティの形成に必要なのか、考えなければいけないと思った。選択肢が増えすぎることで、かえって自分らしさを見つけにくくなっているようにも見えた。何ものにもなれる環境に依存して何も考えなくなってしまいがちだとおもうので、常に何に興味があるのかアンテナを張りつづけたいと思った。

おとなの位置を自身の中で下げて自律した自己を確認するという行為こそが反抗期であり、心理的離乳ともいわれる。自分のいままでの人間関係の構築を振り返りながら学ぶことができた。

反抗期の話がおもしろいなと思いました。人の反抗期は、反規範的行動をして自己の地位を相対的に高めるものだとすれば、動物によくみられる、親が子を突き放す行為は、親に頼れない状況をつくり自分(子)の絶対的地位を高める行為であると考えました。
・・・> 動物は違うんじゃないのかな??

自分の反抗期はいつだったのかと考えてみたのだが、小学校4年生のころには親の示す規範に反感をもつようになったと思う。少し早めの反抗期だった。親に隠しごとをするというのが、ただの反抗ではなく自立に向けた境界線の獲得なのだと、ポジティブに捉えられるようになった。
おとなへの反抗的な態度は自分をおとなにするために、周りのおとなを下げて見ようとするという自然なプロセスであると知りました。実際、親にこうしなさいといわれて不快に感じるのも、おとなに指示されなければ生きられない子どもとして扱われていることに対する拒否反応なのだと思いました。道徳観についても共感できる点が多く、中学校時代は悪いことをしているほうがかっこいいと本気で思っていたし、自分の中での道徳観が未熟だったのだなと感じました。

自分がいつまで子どもでいつからおとななのかと聞かれたら、きっと18歳くらいが境目なんだと思う。理由は、高校生になってからとくに考え方や自分のあり方みたいなものが明確になったり、成長したなと感じたりするようになったからだ。また何がおとなになっていくきっかけなのかといわれると、一つこれというのはないけど、きっと日々の新しい発見や人とのかかわりがそうさせていくのかなと思った。
・・・> 述べていることはすべてそうなのだろうけど、授業内容があまり生きていないような。難しかったですか?

青年期くらいからおとなに対する意見をもちはじめ、「親がまじでうざい」「先生がまじで」などといって自分の地位を高めようとするといっていたが、おとなでも人の悪口をいったり自分より偉い人をうざいなどおいって自分の地位を高めようとする人がいるのは、青年期から成長できていないのか、それともそれが人間としての本能なのか。なんの役に立つのかわからないことをしないと何の役にも立たないという先生の話が個人的に刺さった。身体はおとなでも内面の成熟が追いついていないというのはそのとおりだと思うし、自分は将来もっと成長しても身体に内面が追いつくことはないと思っている。この先ずっと働かないで生きていきたいという考えはずっと変わらないと思う。
・・・> 後段のおもしろそうな話はそれとして、おとなにも他者の悪口をいい、地位が上の人を引きずり下ろそうというような動きを見せることがあるという話ですが、それは個人の性格やパーソナリティや言動。青年期のそうした動作は発達段階を示す示準的行動。その年代(青年期)の人に高い確率であらわれる事象ということです。まったく意味が違います。この手の話に「おとなだって、こういうことする」という反応を示すのは、実は青年期の示準的行動だったりします(^^)。

 
(左)伊能忠敬(1745-1818年)の像(千葉県香取市 伊能忠敬旧邸宅) 商家の当主として「一生分」のはたらきをしたのち
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歳で江戸に出て年若い学者に弟子入り、数学・測量技術を学び初の実測日本地図(伊能図)を制作した
(右)二宮尊徳(1787-1856年)の像(神奈川県小田原市 報徳二宮神社) 江戸後期の関東地方で活躍した
農村復興コンサルタント 少年時代(金次郎)に薪を背負いながら読書する像であまりに有名である

 

小学校中学年くらいから担任の先生に嫌われはじめた理由がようやくわかりました。手のかかる子ほどかわいいというのは、こういうことだったんですね。そして青年期の定番、反抗期ですが、私には反抗期がありませんでした。1113歳にかけて家庭がごたついていたので反抗などしている場合ではなかったためです。すると現在、私には社会的規範や人生観において何か欠けているように感じます。恵まれた環境の中で反抗できることが、そのあとの人生において意外と大事なことなのだと思いました。
・・・> 最近レビュー主さんうっすら反抗期というか「え、なんで?」という表情や発言をなさることが多くて、手はそんなにかからないけど、ああちゃんと前進しているなあと先生思っていますよ(^^)。人間どこかで内面のバランスを取れるようになっているのだなと思います。何かが欠けているのはみんなに共通。その疑問も青年期っぽくてほほえましい(^^^^)。

身体はおとなになったんだから働けという思考のようなものは、年代的に見ればそういう思考になりうると思った。それと同時に、このような考えは古いためなくなっていったのだと考えられる。たしかに今も人手不足は問題としてあるが、昔に比べて仕事の効率はよくなっていられるのではないかと考えられるため、第一に優先するべきものではない。それ以外にも大局的に見たときの大学進学者数の増加や個人が重視されるようになったことも挙げられる。青年期を脱する=青年期の記憶を失う というのはある意味で普通のことではないかと思った。私が思ったのは、物心がついていそうな子どもがバカなことをしているところを見ると、なんで意味のないことをしているのかと思うことがある。少し違うかもしれないが、これが青年期のところで起こっているのではないかと考えた。
・・・> 全体に、うっすら青年期特有のアレかなと思うところがあるねええ。それが正常です。高校生が小さな子どもを見て、という話と、おとなが青年期の若者を見て、というのでは決定的な違いがあります。それがなんだかおわかりでしょうか。(おとなはすぐにわかる)

年齢面ではすでにおとなとして扱われる私たちだが、いまだ精神という面では全然おとなになりきれていない人が多いと思う。たしかに高校や大学は義務教育でないので、おとなの一員として社会で働くことのできる年代ではある。しかし現代の職業選択の自由によるゴールの複雑化によって、「社会に出る準備がさらに多く必要になったからまだ学生(若者)でいたい」という考えをもつ人が増えている。実際に高校(とくに附属校)や大学の勉強を、しっかり社会に出るための準備だとしてがんばっている人がどれくらいいるのかはわからないが、このような考えが青年期の人の増加につながっていると考えられる。精神の面においていまだ未成熟な私たちの、異常な異常まではいかない正常な異常は、社会的に多くは許される。だからこそ小さな失敗を恐れず、いま抱えている悩みも当然のものとして、おとなへの準備を一歩ずつ進めていくことが、この期間の私たちにとって重要なことではないかと考える。

卒アル撮影などで卒業を意識することが多くなり、将来について悩む機会が増えましたが、いままさに私はモラトリアムにあると感じており、自分らしさを見つけ、足りない何かを培おうとする時期です。しかし意識して培えるものではないので、日々を過ごすしか方法はないと感じました。消費社会に利用されているのは、本人たちはそれで満足しているため、そこまで悪いことではないと考えています。最近は人目を気にすることが多くなりましたが、好きに生きて許される青年期のうちに、自分の生きたいように生きてアイデンティティを見失わないことが重要だと思いました。青年期は不安や迷いが多い時期である一方で、自分自身を成長させるための大切な期間でもあることを理解しました。

自分のアイデンティティを形成していくために青年期はなくてはならないものであり、社会に出るための準備という役割も担っている。そのようなモラトリアムの期間が心理的・社会的なものであるならば、情報化が進んだ、SNSを使用する現代社会においてさらに短く考える人が多くなってきているといえる。SNSで社会により簡単に触れる機会が多くなり、「おとなになって社会に出る」という明確な基準があいまいになっているからである。一方で、高学歴化などによってモラトリアムをさらに長くしないといけない状態にもある。モラトリアムが短すぎるのも準備ができないのでよくないが、なかなか社会に出ずにモラトリアムを長くとりすぎるのも、おとなになるのを先延ばしにしているだけで、意味はない。青年は、性加害などの「異常な異常」を防ぎながら、不安定な感情を抱えて過ごすことを求められる。この状態を経験して、最終的な「自分らしさ」を見つけ、克服することが、おとなになるということであり、モラトリアムから抜ける一歩になるのだと考えた。
・・・> 「さらに短く考える」というところがちょっとわかりにくい。モラトリアムは長期化しているはずで、「社会」との心理的距離をいったのでしょうか? さて、このごろの高校生世代は何ごとにつけてもSNS万能で、社会科の理由づけにも「SNSのせいで」となりがちではあります。ここでレビュー主が述べておられることのすべては、SNS以前の「消費文化」によってすでに生じていたことです。実際の「おとな」になるのにはまだ時間がある青年期の若者(中高生)が、消費文化を介してなまじ「社会」っぽいものに触れてしまうために(ここでは「学校以外のこと」が社会。そんなはずはないのだけど、そんなショートを起こしやすい)、リアルな社会人(おとな)になることがむしろ抑制されるという逆説です。

今回とくに印象的だったのは、青年期の心理が消費社会に利用されやすいという指摘です。判断力や分別がまだついていないがゆえに、なにげなくみんなやっている若者文化という消費やSNSは、実は資本主義の側に操られてしまっている。たとえばSNS上で急に新しいもの(服、コスメ、食べ物など)が流行しはじめ、よくわからないけどとりあえず乗っかってみるという人たちが多発する。自分たちでは新しい文化をつくり出したり、自分らしさをアピールしたりしているつもりかもしれないが、実はそこを含めて資本主義側の思うつぼなのではないか。好きで、必要で買っているというよりかは、買わされているに近い気もする。

オーストラリアなど海外で、未成年のSNS利用が禁止されましたが、これによって子どもがおとなの世界に触れる機会が遠くなり、SNSがなかったときの発達過程に近づくのではないかと思いました。この法律は、発達心理学としては「いいこと」のように思われているのかもしれませんが、ネット・リテラシーを早く身につけるために早い段階から使い方を知っておくべきという点から見ると、「よくないこと」になると思いました。どのような改革も一概によい悪いの判断はできないので、制度を決める人は大変だと思います。

 
ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-92年)の像(パリ)
「私は何を知っているのか?(クセジュ?)」「詰まった頭よりもよくつくられた頭がいい」などなど
神から解放されかけた初期近代の人間・人生像をたくみな文章で描き出した知の巨人
近くのパリ大学の学生がご利益?にあやかろうと右足に触れるためそこだけぴかぴかに!

 

先生は、中学校にも「子どもの専門家」が必要だといっていた。中学生はある意味、青年期真っただ中だと思うので、トラブルや間違いがいっぱいある。よって予防や更生のためにも中学校や高校に、青年期に詳しい専門家を雇うべきだ。これから社会がより高度化すれば、青年期を抜け出す時間がもっと後になるので、青年期への理解を社会全体として取り上げていくべきだ。
性をもつ生き物として、多感で不安定である中高生こそ、小学校のように人と向き合う教師が求められている。これはそのとおりで、自由度が広がり社会に出る一歩手前の、おとなでも子どもでもないこの時期に、精神の学習をさせてもらえないのは謎である。授業で触れられた内面のズレというのはここにも原因があるのだろう。学ぶことの意味、学校にいることの意味についていま一度考え、未来につながる青年期を送ることができるといいなと思った。人によってズレのある期間を、個人と向き合わず皆同じ教育を受けさせるのは、はたして正しいか。
・・・> はたして質問なのか自問なのか。(質問だとしても意味がちょっとわかりにくい)

私自身は、いまがいちばん他者評価で生きているような、自分がなくて他人と比べてばかりの、何も定まらないところにいるように感じていて、THE青年期!! なのかなと思う一方で、いつになったら抜けられるのかなという不安がある。気づいたら成人していて、もうすぐ高校も終わりで、時間は待ってくれない(身体的にはどんどんおとなになっていく)のに、悩みばかり増えて将来が抽象的になっていくのは、どうしたらいいのかと思う。前回の授業も今回の授業も、やはり育つ環境やかかわる人間の影響は大きいと思ったし、その大事な時期の大事なポジションである教員が不足しているというのは、社会的にとても大きな問題だと思った。

今回の授業の中で、先生が「大人」という言葉をひらがなで「おとな」と表記している点が気になった。漢字の「大人」には精神的にも経済的にも完成された、絶対的な存在というニュアンスを感じるが、ひらがなにすることでその境界のあいまいさが浮き彫りになっているように感じた。子どもとおとなの間はグラデーションのようになっている。同時に、私たちを指導する立場にある周囲の「おとな」たちもまた実は未完成で、内面に子どもっぽさや割り切れない葛藤を抱えて生きているのではないかと気づいた。近代が生み出した「青年期」というモラトリアムの期間は、単に「完成された大人」になるための準備期間ではなく、そうした社会のあいまいさや、いまある規範を疑い自分なりの生き方を模索するためにある。その期間が30歳までとされているのは意外だったが・・・。それまでたくさん悩み、おとなにとっては異常とされる行動にも挑戦していきたい。
・・・> 私がオトナをひらがなで表記する理由は、10- 地域を支える/生活を支える基盤を見つめて のスライド24枚目に実は書いてあります(スーパーじゃないほうの銭湯の話)。

「おとなになる」とは、「自分」という人間を理解することでもある。いまの高校生が化粧やおしゃれを男女関係なくおこない、取り入れるようになったのは、ネットの発達によりロールプレイの幅が広くなったからだと思う。以前よりも比較対象が増え、情報が多くなったことで自己の確立がより高度化している。かつては身体的成熟をおとなの基準にしていた。けれども現在はモラトリアムが設けられ、将来の選択肢が増えて、自分で考えることができる。そのように選択できるということは一見自由で幸せであると思えるが、そのぶん自己に降りかかる責任は大きくなり、不幸せになることもあると思われる。青年期はたくさん失敗しろといわれるが、これは社会で将来失敗しないようにというよりは、いまの自分を模索するためなのだとわかった。この反発感情や、うまくいかないもどかしさというのは、将来的に忘れてしまうとしても、おとなとしての自分をかたちづくるためのベースとなる大切な機関であると思う。その期間に生きる私たちは、この模索を面倒くさがらず、さまざまなことを体験し、知識を蓄えることがいちばん必要であると感じた。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成と細部タイトルを変えています。2026年度は社会のダイナミズムと深化・統合・探究の学びとしました。ダイナミズムは動態のこと。社会というカタマリが、まるごと動いていて、その動き方も均質ではないので全体を捉えるのは大変です。当科目ではいくつかの切り口を用意して、ためしに私(教員である古賀)が「現代社会の像」を掘り下げてみますので、受講するみなさんもそのうちに自分なりの掘り下げをできるようにしましょう。分野や方法の得意・不得意はもちろんありますが、それを自覚することも大事です。この段階での学びは、もはや知識を量的に入れるということよりも、そうした「学び方の学び」に向けるほうがよいと考えています。なぜなら、社会はますます変化していき、みなさんはいずれ学校を卒業して社会人になり、もう「先生に教わる」ということもできなくなりますから、長い社会生活は自身の学びによって見通していかなくてはならなくなるからです。試験で正解を出したり、よい点数を取ったりすることに終始する学習は、もう終わりにしましょう。そんな束の間の正解や点数よりも、自分の人生やキャリアを豊かにするほうがはるかに大切です。深化とは掘り下げて深めること、統合とは複数の分野や方法にまたがって学ぶこと、探究(re-search)とは自身の問題意識をもって学びに突っ込んでいく姿勢を指します。

2026年は、この現代社会論という選択科目が設定されてから満20年にあたります。みなさんが生まれる前から、私は3年生にこの科目を指導しているのですね。本年度の、とくに1学期はそうした蓄積を少し意識して、当科目がはじまったころ(みなさんが生まれたころ)、つまり2000(ゼロ)年代以降の社会動態をさまざまな角度から考察する、ということをしてみます。20年ちょっとのあいだに、私自身の学びや社会観察もかなり深まりましたが、その時々の学院3年生の反応や成果そのものが、現代社会を考察するうえで得がたい材料になっています。さてみなさんには、2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

 

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