古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche

現代社会論I近未来の社会を(に)生きる構想と探究


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

講義サポート トップ
現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び

 

20251112月の授業予定
<第3部 現代社会と文化・教育>
10
10日・17日 ジェンダー問題と格闘してみる
11
7日・21日 新仕様の学校教育
12
5日 高等教育(大学)の遊び方

 


次回は・・・
21-
高等教育(大学)の遊び方

このところ最終回は高等教育higher education)を取り上げることにしています。順調にいけばまもなくその中に入っていかれるから、というのが直接の理由。ただ高等教育がどのようなものであるのかという客観的な知識や情報は、世間一般でもさほど共有されているとはいいがたく、教育学の専門家が担当する科目ゆえ、せっかくですので少し紹介しようという思惑があります。初等教育(elementary education)や中等教育(secondary education ←いまココ)との大きな違いは、なんだと思いますか? 学(高等教育ではこの漢字表記になります)の内容やカリキュラムのありようが違うとか、学生の自由度が高いといった想定があるものと思いますし、実際に大学で学んだおとなたちの多くも、そのあたりを答えることでしょう。制度的に、そして実際に本質の部分を考察するならば、高等教育ならではの特徴というのは、それが教育(education)であるのと同時に研究research)の場でもあるということです。ですから大学は、教育機関と研究機関を兼ね備えた機関であり、どちらかというと研究機関の色が強いところです。ただ、多くの学生が(文系はとくに)大学院に進まず学部=学士課程で終わるため、大学というところで実際に研究がおこなわれている場面に触れる機会があまりない。スチューデント(生徒・学生)として授業を受け、課題を提出して単位を取るという点では、高校と大学にさほどの違いはありません。前回の授業でも指摘したような、学びは形式的なものだと考え、自ら学ぶ意思に乏しく、「ボク聞いていますから先生講義してください」という姿勢であれば、余計に「上等な高校」くらいの存在になってしまうことでしょう。

大学の教職課程(私の場合、中・高の教員免許状の取得をめざす学生への指導)の中で指摘していることですが、小学校の教員は「子どもの専門家」「発達支援の専門家」であり、中学校・高等学校の教員は「教科の専門家」としての性格が強い人です。これに対して高等教育機関である大学の教員は、まぎれもなく「学問の専門家」です。幼小中高特の教員と異なり教員免許状は必要ありません。「学問ができる」ことが認定されれば、中卒だろうとネコやワニだろうと大学教員になることができます(残念ながらワニ教授に実際にお目にかかったことはない)。このごろは、学院でもしているような授業評価というのが必須化されていて、学生が「○○先生は教え方が下手すぎる」といった非難が集まることもあるのだけれど、極論すれば教え方はまあどうでもよくて、教える内容がちゃんとした学問に裏づけられていればよい、というのが本来の高等教育でした。本来の、といいますが、高等教育が生まれたのはいつごろだと思いますか? 「大学」(universitas)という名称や概念であれば、11世紀のイタリア・ボローニャ大学が元祖とされます。高等教育という概念は近代のものですけれども、歴史をさかのぼって当てはめるとすれば、紀元前のギリシアや中国にも高等教育機関は存在しました。学問に従事し、その成果を世に訴えようとする人たちは古代からずっといて、社会に影響を与えつづけています。いま日本人の多くが大学と聞いて思い浮かべるようなかたちの大学が成立したのは19世紀でした(元祖はドイツ・ベルリン大学)。長い歴史をもっていますから、時代ごとに内容や性格、役割は違っています。それでも変わらないもの、つながっているものもあります。そのものの本質は歴史に根ざす、というふうに考えると、高等教育の歴史をアウトラインだけでも押さえておくことは、有意義かもしれません。

ここまで「学問」と結びつけて高等教育のことを話しました。どこにも「就職」や「ステータス」のことが出てこないことに、違和感があるでしょうか? いま日本人の多くが大学と聞いて思い浮かべる姿は、たしかに歴史の本流とは大きくかけ離れています。それがダメだということではなくて、なぜそうなっているのかを考えることで、高等教育との向き合い方のヒントを得られそうです。学問を探究する場が、いつ、どのように社会的なメリット(これは文字どおりのmerit=利得)を得るための手段になったのか。また、高等学校はその多くが本校を含めて普通科ですので学ぶ内容に大きな違いがないのに対して、大学は学部・学科によって学ぶ内容や分野がそもそも違います。その違いとは何であり、どのような意味があるのか。「将来に役立つようなことを勉強したい」と望んで進路を選ぶ人が少なくないはずだけれど、「将来に役立つ」学問って、あるのだろうか。「役立つ」とはどのようなことなのか。同じ「スポーツをする」というときに、ある人はテニスを、別の人は水泳を、また別の人はゴルフを選んで、練習して、楽しむ。学問分野は、それとは「選び方」が違うのかどうか。普通に考えて、全員に見合った学問分野などというものが存在するはずはありませんし、あらゆる方面に役立つ分野が存在するはずもありません。でも、そんな当たり前すぎることを曇らせてしまう何かが、日本社会の一部(一部なんですよね!)には根強く残ります。そのようなテーマを考えるための地盤は、4月からの当科目でかなり提供できているかなと思います。高等教育や大学それ自体も、探究や考察の対象にするべきものでしょう。でないと、おもしろくないですからね。



REVIEW 11/7

1121日のレビューは遅れて更新します。しばらくお待ちください。

 

今回の授業で、学校教育の真の目的を深く捉えなおすことができた。教育は単なる知の伝達だけでなく、集団を通じた社会化であり、さらに知識を内面化し自己のウツワを広げる過程であるという指摘は印象的だった。一方で、一斉教授法や単数形の正解を暗記する学習が、惰性化・儀式化を招いているという指摘は、まさに現状の教育が抱える病理であると痛感した。学びの目的は、目先の受験や実用性ではなく、知的探究心をもって自己を形成し、近未来の社会を生きるための基盤を築くことだと思う。この人間形成の過程としての学びを追求し、自らのスペックを真に広げていきたいと感じた。

今回の授業を聞いて、あらためて学校教育の意義を考えたとき、私は学校を「知識を得る場」よりも「社会と自分をつなぐ練習の場」と捉えました。AIがどのような情報も瞬時に教えてくれる現在において、「勉強する」という行為は、知識を蓄え、学ぶという意味よりも、「人とどのようにかかわるか」「自分の考えをどう表現するか」を学ぶという意味のほうが大きくなりつつあると思います。また、そのような行為をする場として、同年代の人と一つの教室で時間を過ごす学校というのは、単に将来のために「学校を卒業した」という名目を得る場ではなく、社会の縮図を体験する場であると思います。そして教育は「正解を学ぶ過程」から「問いをもつ過程」に変わりつつあると思います。そのような面で、高校や大学に行く意味は、自分がどのような問いをもつ人間なのか、を知るところにあると思います。

今回の授業で挙げられていた、学校は社会化の場であり人を社会の一員として形成する役割をもつ、という話が印象に残り、小学校時代を思い出した。私は国立小学校に通っていたのだが、そこは教育実習生を多く受け入れる学校で、授業参観も頻繁におこなわれていた(常に誰かに見られるような環境の中で授業がおこなわれて、他の学校とは雰囲気が少し違っていたと思う)。理科の授業ではお菓子やパンをつくるといった実験的な取り組みがあり、子どもにとっては楽しくもあり、同時に自分で考えて行動する力が求められた。いまになって振り返ると、それは単なる特別授業ではなく、教育の新しい形を模索する「実践の場」であったのかもしれない。また他の小学校に比べて林間学校の回数が圧倒的に多く、1回あたりの期間も長くて、自然の中での共同生活を通して友人との関係や協調性、責任感などを学んでいたように思う。当時はただ楽しい行事だと感じていただけだったが、今回の授業で学校の社会化機能について学び、それがまさに集団生活を通して社会の一員としてのあり方を学ぶ機会だったのだと理解できた。これまで当然だと思っていた学校生活の裏側に、社会的な意図や制度的なしくみがあることに気づき、教育をより広い視点から捉えることができるようになったと思う。
いままで16年間、さまざまな「教育」を受けてきましたが、今回の授業でそれが言語化・具体化され、自分の過去と考えを振り返るよい機会になりました。私は小・中と国立校に通い、義務教育を終えました。先生を輩出する大学の附属校であったためたくさんの実習生を毎年受け入れていましたが、彼らが、今回先生がおっしゃっていたことを学んでいたということを知り、私自身も教育学に興味をもちました。なんとなく受けなければならない、と思って受けていた授業にも意味があった(具体的な目的があった)ということをあらためて感じました。
・・・> 国立大学教育学部附属学校というのは、いってみれば学校教育の実験場という位置づけのものです。したがって一般の学校よりも授業や活動に幅があり、中には無理筋なものとかチャレンジングなものも含まれます。幼小中高特の教育課程(カリキュラム)を改訂する際には、新しい試みや概念を、附属学校を使って試してみるのですね。それもあって、入学に際しての選抜は学力だけでなく「多様な児童・生徒」が集まるように、抽選なども加味しているわけです。私も30代のころに某国立小学校の教材づくりなどにかかわらせていただいて、それはもう勉強になりました。前の方がおっしゃっているように、子どもたちは外部の人に「見られる」ことに慣れていて、きょうはまた違う人が来たぞ、おじさんはどこから来たの?なんてフレンドリーに接してくれて楽しかったです。


2017年度の現代社会論の授業より
このくらいの人数だとセミナー(演習)方式で多様な学習形態を組み合わせることができるが
それでも参加しようとしない、声を出そうとしない生徒はいくらかいる
1
年生の必修科目であれば当番制でみんなに機会を回すべきかとも思うけれど
3
年生の選択科目は「お好きなようにどうぞ」というのが、いまのところの古賀の方針

 

以前の公共の話にもあったが、現在必要な知識やスキルでも数年後には陳腐化してしまうので、私たちは自分をアップデートしつづけなければならない、という話にはとても納得した。
自分の知識をアップデートする能力を身につけたいと感じました。大学を卒業して社会人になった後も、社会の成長に置いていかれないようにする(先導する?)ために、学習は必要不可欠なので、先生がいなくなっても自分の足で歩いていけるようにしたいです。

たしかに私は高校に入って何を学んだのかわからないと思うことが多々ある。頭の中では積極的に活動していろいろなスキルを得たいと思うけど、結局は高校を卒業して早稲田大学に入ればいいや、と思っている。自分で考えて創り出すことのできる人になるためには、いまの学歴社会に流されてはいけないと考えた。社会の流れに乗るだけではおもしろくないと思う。

教育が惰性化していて、目的が学習ではなくなっているという現状は、まさにいま中等教育を終えようとしている自分にとって、とても耳の痛いものだった。教育において主眼とすべきものは「知の貯蔵」よりも「自力で探究する力やその意欲」を伸ばすことだと思った。受験というシステムが詰め込み型学習を転換することの大きな障壁になっていると思うので、そもそもの「大学を出る」という価値を下げる(他の道をつくる)か、入試のあり方を変える(大学に入る人の姿勢の改善)しかないと思った。

正解暗記型が楽ではあるけれど、別の学習方法でないとこのような力は身につかないのだろうと思いました。
・・・> そう、ラクなんですよね。暗記ばかりで嫌だ、意味なくね?とぼやいていながらも、じゃあ思考しなさい探究しなさいとなったら、いや面倒だからいいです、先生が講義してくれればそれを暗記しますから、と本音で思っている高校生はむしろ多数ではないかな。暗記した知識を使って思考・探究するおもしろさを何度か経験すれば、たぶんぼちぼちそのスキルもつくのだけれど、こんどは教員側がそのスピードの遅さにいら立って正解を教えちゃうとか、そもそもそういう教え方のワザをもっていないという問題が出てきます。

理系の答えは一つではないという話を聞いて、はっとさせられた。卒論で哲学を選んだ理由が「答えが複数ある(自由度が高い)」ということだったため、本来の理系は答えのその先にある不明瞭な部分を追求するものだという話に強い印象を受けたし、そのとおりだと思った。私はあまり学習によいイメージがない(好きではない)が、学習に楽しさを感じるから能動的に学ぶという考えではなく、楽しさを感じるために能動的に学ぶ(楽しさ→積極性ではなく積極性→楽しさ)という考えを意識すべきだと思った。

最初の教育の段階(初等教育)よりも抽象化した学びになる中等教育以降における学ぶことの意義の明確化が、生徒の学習意欲や学びを活用することにおいて重要であると感じた。また社会に出た際の自身の再構成も大切だと思った。学習の内容や要領は新しくアップデートされるということを実感しているが、学習の形態やしくみ自体はなかなか更新することがなく、その部分にはギャップがあると思った。

高学歴化により、知識を入れ込むだけで質のよい学びを得られず、思考力や社会に出たときに必要な能力が身についていないのではないかと以前から感じていたため、公教育の目的や総合的な学習の時間の意義を知り、勉強しなくてはという危機感が強まりました。ICT化により娯楽や消費に埋没する人が増えたという話がサブカルチャー論につながるように、古賀先生の授業は視点が広がり、おもしろいなと感じます。教員の不足は深刻な問題だろうとも思いました。

教育の機能として社会化が挙げられていましたが、社会に適応するとともに、単一化も進むのではないかと思いました。たまに学校はサラリーマンの養成所であるといった言葉を聞くことがありますが、ある意味間違っていないのかなと思います。よい面でいえば、社会で他者と協働できるようになりますし、よくない面としては個性を抑えつけられてしまいます。それが個人の学校に対する合う・合わないという感覚につながるのかなと思いました。

学校教育において、知識を得ることが重要なのではなく、集団行動を通して社会性を学び、社会に適応することが本来の目的であると感じた。そのためには、先生からの一方的な授業よりも、双方向性のあるワークなどを通した学習のほうが効果的であると思った。
・・・> ちょっと文字数が足りないかな。「そのためには」のところをもう少し具体的に、それもいくつかの事例を噛ませて説明してくれると、論理的で説得力を高めるコメントになります。このレビューはわりと一般的な答えとしてアリで、たとえば教員採用試験の面接で聞かれたらそう答えるべきだろうと思いますが、教育学的にはいろいろ疑問符がつきます。それはここで指摘しませんが、言葉尻だけひとついいますと、「社会に適応する」というのはちょっと弱いのではないか。一部のエラくてカシコい人たちがつくった社会に(どうにか)ついていって適応する、ということで本当にいいのでしょうか?

技術の発展に伴い、世の中の多くがブラックボックス化してきた。洗濯機や冷蔵庫のしくみを完全に理解している人は少ない。専門家だけが知っていて、私たちはそれを利用するだけだという構造ができている。しかし教育を受けることによって私たちは知識を獲得し、ブラックボックス化しているものを理解できるようになる。国の制度やしくみによって徴収されるお金を少しでも安く、いままで無意識に払っていた、払わなくてもよかったお金に気づくことができるかもしれない。知識を得ることで、私たちは得をすると思った。だからこそ学校だけでなくバイトやテレビなど、知を得られるものに積極的に向き合うことが大切であると感じた。
・・・> 最初に挙げた例が洗濯機というのが私の刷り込み 教育の成果か(笑)。最後のところ、バイトやテレビに加えて「家事」も入れておいてください。


早稲田大学本庄高等学院公式サイトより
自ら学び、自ら問う というのは、私大好きなんですよね 自分も常にそうありたいと思って生きています

 

授業中に先生が急に「前を向きなさい」といったとき、自分の背筋が伸び、反射的に「前」を向いてしまったことから、自分の中には「先生に何かをいわれたら、そのままおこなう」という昔からのプログラムがあるのではないかと考えました。これが効率的な権力行動であるということにも気づかずにいままで生きてきたのだな・・・と身をもって感じました。また、そういわれたときの脳内は、「あ、怒られるかもしれない」でした。このように、先生に情報も答えも一括もすべてを依存してしまっているのが、少なからず自分の現状です。私は自分のOSのアップデートが必要だと思います。今後は自分から意欲的に行動していきたい、と考えさせられるような有意義な授業でした。
・・・> 前を向けと指示されたら(とくに何も考えず)反射的に前を向くとか、キンコンカンコンのチャイムが鳴ったら席に着くとか、45分授業(小学校)に合わせて時間感覚をいつの間にか心得ているというように、「これを覚えなさい」という項目ではないはずなのにいつの間にか習慣として内面化されるように、学校には種々の仕掛けがあります。これを教育学ではヒドゥン・カリキュラム(隠された教育課程)と呼びます。とくに小学校はヒドゥンの巣窟というべきものですね。

今回の授業を踏まえ、私立で、しかも附属である本校での3年間の学びがどうだったかを振り返ると、たしかにOSを鍛えられる授業があったなと思う。テーマだけは最初に与えられるけれど、その後は理論や歴史、社会問題と自由に結びつけながら資料を持ち寄って授業内で意見を交わす。そのように、内容はともかく方法も学ぶというのが、OSのアップデートということなのかなと思う。


ロンドン ウェストミンスター宮殿(議会議事堂)
時計台はビッグ・ベンの通称で知られる おなじみの絵ですが、ここの鐘の音(メロディ)が
キンコンカンコンという日本で標準的な「学校チャイム」の原曲になった

 

インクルーシブ教育の広がりについて、たとえば支援を必要とする生徒とそうでない生徒では能力に明らかな違いがあるため一緒に学校生活を送るべきではない、というような考えは適切でないとわかった。たしかにそのための配慮や工夫が必要かもしれないが、誰もが選択肢をもつべきだという考えに納得した。

インクルーシブ教育がなぜ求められているかはわかりました。しかしネット上で、自分の子どもが、配慮の必要な児童のお世話係にされていて大変だという話を見るし、私も中学生のころ席替えの担当になったとき「○○さんと△△さんは近くの席にするように(△△さんがサポート役のため)と指示された経験があります。インクルーシブ教育は大切だと思いますが、特定の児童や生徒に負担がかかることがないように、また担任の先生の負担が増えないように、適切に人員を補充する必要があると思いました。

インクルーシブ教育というのが、これから大変になる課題だと思った。これまでも多様な生徒がいたはずで、教育ニーズに応えるような教育をするのは難しいと思う。多様な生徒がいるからこそ、生徒の課題別にクラスを分けるのは悪いことではないと思う。分断や格差を減らすためにも必要である場合があるのではないかと考えた。

インクルーシブ教育の話で、特別支援教育がかなり痛烈に批判されていたが、そこまで悪いと私は思っていない。まったく別の場所に隔離してしまうと溝は深まるし差別的であるというのは理解できる。共生や同じ空間で学ぶことの限界は必ずあると思う。

インクルーシブ教育や特別支援教育の話題を出したのは、それ自体を議論するのではなく、そこで得られた「教育というものに対する見方、考え方」を学校教育全体に援用しましょう、という趣旨でした。したがって特別支援教育そのものの理念や内容を詳しく説明していません。いくつか伝えきれていない部分や、一般的な誤解や無理解もありますので、少しばかり解説します。(私自身は特別支援教育を「痛烈に批判」していなくて、日本の特別支援教育が国際機関などから批判されているということを簡潔に紹介しただけです。念のため) (1)分離か統合かという論争は、もう十数年前に終わりました。いまその議論をしているときではありません。(2)特別支援教育の理念を大切にし、今後は本格的なインクルーシブ教育に向かうべきだと教育界や政策当局は考えており、私も同意見です。それは「いまおこなわれている特別支援教育」のあり方や実態がよいものであるとか、理想だとか、正しいものだという意味ではありません。教育実践が理念や政策どおりにならないのは、あらゆる部門と共通します。「お世話係」なるものがあちこちの学校に設けられ、それに対する批判や苦情がSNSなどでしばしば議論されていることは確かです。「お世話係」は特別支援教育やインクルーシブ教育の理念に見合ったものではありませんし、ネーミングも含めて不適切です。それをもって「特別支援(インクルーシブ)教育というのは間違っている」という論調になりがちなのは困ったことです。(3)最後のレビューにあるように「同じ空間で学ぶことの限界」はあります。また、同じ空間で学ばないほうが、障がいのある児童・生徒自身にとってよい場面もかなりあります。学校の学びの空間(物理的な意味での)を一本化してどんな生徒も同じ場で学ぶべきだ、という主張は誰もしておりません。むしろ多様にカスタマイズできるようにすべきだ、という流れです。その際に、選択やカスタマイズの最終的な判断は児童・生徒(と保護者)自身である、という当然のことをいっているわけですね。「共生」ということについてもレビュー主の誤解があります。この社会で多くの人が共生(live together / co-live)しています。実際には無数の企業や組織、地域や家庭に分節されて生活しています。仕切りや区切りがあるのは当然です。ただ、どのエリアに住む/どのエリアで活動するかどうかは当人が選択する、という当たり前のことを確認してください。(4)最後に、いま一度クラス全員に申しますが、自分や(未来の)家族がどういうコンディションであるのか、ということは現時点ではわかりません。そこまで考えて、インクルーシブ教育や特別支援教育を議論しているでしょうか?


つい先日、福岡県立高校の副校長とお話しする機会があったが、福岡はいまも「学ラン」が主流で
時代遅れかもしれないと指摘したら「なぜそんな話になるのか」と意外そうにされていた
地域差ということもあるけれど、一般社会との感覚の差に気づけるようになるほうがよいと思う
(自省を込めて 私が運営にかかわっている県立高校も男子は学ランだから)

 

学校教育の中で部活はどのような役割をもっているのか気になった。小学校に部活動はなく、4年生になってやっとクラブというものに入れるようになった。集団行動を学ぶのならもと早くから参加させてもいいと思うし、大会も要らないと思う。私は部活を、アイデンティティを見つけるものとして位置づけていると考えた。
・・・> まず制度上のことをいえば、部活動というのは教育課程の外側にあるものです。国の定める学校教育の正規のカリキュラムではありません。あくまで任意加入の、放課後の自主的な活動ということになっています。そのため指導にあたる人が教員身分(教員免許状を所有する人)である必要はなく、最近では意識的に外部人材を活用する流れになっています。一方、ご指摘の「4年生になってやっとクラブ」というのは、こちらは正規のカリキュラムに含まれるもので、正式にはクラブ活動といいます。名称は似ているがまったく別種のものです。クラブ活動は、授業内でもお話しした特別活動の一環です(他に学級活動、児童会活動、学校行事)。なぜもっと早くからしないのかというと、特別活動の理念・哲学として、初めのうちは学級を固定して同じメンバーの中で学習・生活をともにすることで集団生活になじませ、中学年が過ぎたころから徐々に目的別かつ規模の異なる集団に(も)属させて、学級とは異なる経験を積ませることになります。クラブ活動は趣味的な活動、児童会活動は組織的・計画的な活動を経験させるものです。1学期の最後に少しお話しした、子どもの発達段階に即して、そのように徐々に機会を広げていくのですね。レビュー主さんは、1年生のときの私なら大丈夫とおっしゃるかもしれないが、大丈夫ではない子どもが結構いるのです。さて、そんなわけで部活動は「欄外」のものですから、とくに公式の「役割」は規定されておりません。歴史的・社会的に見るなら、次のようになります。部活動・命という人や、部活動あっての自分だという人は、ショックや反発を覚えるかもしれませんので、マスキングします。読みたい方はカーソルで文字を反転させるなどしてお読みください。
明治期〜昭和戦前期の中等教育の部活動は、完全にエリート(生まれながらの金持ちのこと)の道楽でした。これは主に英国の中等教育に範をとったものです。戦前の甲子園出場校などを見ると、いまでは各地のトップ進学校みたいなところばかり並んでいて「むかしの人は文武両道だったんだな」などと思いかけますが、義務教育が小学校までだった戦前では、中等教育を受けられるのは金持ちの子どもに限られており、ヒマとお金のある人が放課後の自主的な活動としておこなっていたのです。ファシズム期〜戦時期は、国家の求める精神性の鍛練ということに役割が転換されました。中等ではなく大学の話になりますが、早稲田大学の野球部監督だった飛田穂州が「野球道」「一球入魂」という精神野球を掲げて軍部の追及を逃れようとしたことが知られます(その根性論的なスポーツが戦後もいろいろ温存されてしまった)。戦後の教育改革で中学校が義務化され、高度成長期以降に高等学校の進学率が急上昇します。中学校の部活動の最大の役割は、子守と治安維持でした。児童期の子どもと異なり、青年期の中学生は、おとな並みの体力・性欲をもち、しかもそうしたおとなの身体のコントロールを十分にできない段階ですので、暴力や性的逸脱といった問題行動に走るリスクがあります。それは現在も同じですが、当時はまだ日本社会が貧しく、戦争などで家族に恵まれない生徒も多かったことから、彼らのありあまるエネルギーを健康に?発散させる機会として、スポーツなどの部活動が奨励されました。高等学校における部活動は、なんといっても生徒募集上の効果と生徒の愛校心の醸成が最大の目的です。あの高校に入学して○○部に入りたい、という生徒を集めるだけでなく、スポーツなどの成績を上げて学校の知名度そのものを高め、出願の候補として考えてもらいやすくするというねらいがありました。
ほらね、教育学なんて学ぶと傷つく人が出てくるというのがわかるでしょ? ^^

最近私は新自由主義について学ぶ機会が多々あるが、社会に出てからの話(企業などについて)ばかりで、学校教育と新自由主義のかかわりについては意識したことがなかったので、今回の授業を通して視野が広がった。

たびたび「責任を取る」という言葉が出ていたけれど、教育の責任とはどのように取るのかと疑問に思った。
・・・> これは、教育が(も)新自由主義的になってきている、という話のところですよね? 責任を取れよというのは簡単な話で、教育する側も受ける側も、どのような教育なのかは自分で選んでください(選べるだけのバリエーションをつくってください)、そしてそれがうまくいったらハッピーだしうまくいかなかったら残念ですよね、以上、ということです。自分が判断して選択したんだから結果に文句をいいなさんな、ということ。

先日テレビを視聴していたら、東京都に住む5人に1人は中学受験するという情報が流れて来た。中学受験は教育学的にどうなのか、メリットとデメリットを考えてみた。メリットは、幼いころから学習意欲や思考力を身につけられることや、周りの仲間と競い合えるなどがあるが、過度な競争が生まれるとそれがストレスに変わり、デメリットに変化する。私は中学受験にあまりよい印象をもっていない。学歴に縛られている感覚を幼いころから抱かせることにつながりかねないと考えるからだ。先生はどういう考えをもっているか気になりました。
・・・> そこはメリットとデメリットでいいのかな。まあ、いいのか(むしろ)。一般論的にいえば、レビュー主のいう学習意欲や思考力というのが、さほど中等教育以降の学びにつながっていないというのが大きな問題です。ただこれは高校受験や大学受験にも似たところがあって、せっかく時間と労力をかけ、ストレスに耐えてまでやってきたことがただの「修行」みたいになっているのが、学校種を問わず受験式の学習の限界でしょう。「いや僕はそうじゃない」という人がしばしば現れますが、一般論に均せば、そういうことになります。ただ、中学受験すべきでないというつもりもまったくありません。ご存じかどうか、中学受験なるものがそこまで一般的なのは全国で東京都だけです。いま早稲田大学の学生は、首都圏の私立一貫校の出身者が過半以上を占めますので、話していると感覚がバグってくるのだけれど、全国的に見れば、いまも公立の小中高→私立大学というパターンが圧倒的に多いのです。ある意味で都民は気の毒かもしれない。高校から受けることのできる学校が限られているため、中学受験せざるをえないという状況があるからですね。千葉においで(笑)。

私自身、中学生だったころは高校受験のことで頭がいっぱいで、受験対策の勉強ばかりになり、ひたすら暗記し、数学の解き方さえも覚えて、機械的に問題を解いていた。これこそ学習の目的を見失っていたなと、いまわれながら反省もしている。この学院は附属校ということもあり、大学受験を気にかける必要がほとんどないが、そうでない進学校において受験対策を念頭に置くなというのは難しいと思った。
・・・> 「難しいと思う」というオチは、いろいろなテーマにおいて自重するほうが自分にとってよいことだと考えておいてください。難しいのでそれ以上は考えませんと思考停止するか、自分は考えないので誰か別の人に任せますという放棄になってしまいます。自身はすでに附属の生徒なのだから進学校のことを考える立場にない、といわれそうですが、それなら別の表現にするほうがいいでしょうね。さて、受験対策を念頭に置くかまったく排除するかという0100かみたいな二分法になっていませんか? 本庄高等学院だって、一般入試への対策がないだけで、生徒個々の目線でいえば、内部進学のスコアを上げるために試験対策をするということが多いはずで、構造はきわめて類似しています。そこに連続性をみる、というのが社会科学の作法。それと、別の話になりますが、生徒数が多くて熾烈な競争が起こっていた昭和後期ならともかく(私はその世代)、少子化とグローバル化が進行する現在は、狭義の受験対策ばかりやっている学校はもう選ばれない傾向が強まりました。巨人よりメジャーに行きたいという人が増えているのです。大学卒業後の進路や仕事を考えても、旧来の日本式では通用しないというのが明白になってきていますからね。そして、シングルの知識を単方向で押し込んで暗記させる教育をやめて、探究型・思考力重視型の教育に切り替えたところは、進学実績もかなり伸ばしています。そうした最近の変化に気づかない人(保護者や教員)、気づきたくない人、気づいているけど新しいスキルをもっていないので沈黙している人が、結構いるということです。

本来の「ゆとり教育」のねらいは、何だったのだろうか。なぜ「ゆとり」と呼ばれるようになったのか? ゆとり世代という言葉を聞いたことはあるが、どういった経緯でそのようにいわれるようになったのか。
・・・> 幼小中高特の教育内容は、文部科学大臣が告示する学習指導要領(法的拘束力のある法令の一種)で規定されています。これは約10年ごとに改訂され、教科編成や時数配当、教科書の内容や構成などに反映されます。昭和431968)年の学習指導要領は、理数系を中心にがんがん詰め込むというポリシーで、高度成長期ならではの勢いのあるカリキュラムでしたが、消化不良を来たして失敗しました。このため昭和521977)年の学習指導要領では、なんでもかんでも教え込むのではなく、教える内容を精選して、そのぶん多方向から考察するとかじっくり深掘りするといった授業をおこなうこととして、授業時数を大幅に減らし、展開しだいでいろいろな学習に活用できるジョーカー的な時間(ゆとりの時間)を設けました。私が小4までは昭和43年版、小5から昭和52年版が適用されましたので、なぜか5年生になったら時間割が軽くなりました(4年生なのに6時間目まであったんですよ!)。この「ゆとり」という言葉は、バブル崩壊後の初の改訂となった平成101998)年の学習指導要領に再録され、年間授業時数の削減(このとき土曜が休みになった)とあいまって、全体としては軽量のものになったのです。台形の面積とか円周率とか、いろいろネタはあるのだけどここでは触れません。しかしこの平成10年版は、適用されるよりも前に世間の強烈な批判を浴びて炎上し、適用する際にはいろいろなエクスキューズを添えなければならないほどになりました。この平成10年版で学んだ世代が「ゆとり世代」といわれます。学習指導要領というのは学校業界の内部文書みたいなもので、世間に広く知られるようなものでもなかったのだけど、長期不況やICT化の影響などもあって社会の関心が教育に集まったのも、このカリキュラムにとっての不運でした。その次の平成202008)年の学習指導要領では、年間授業時数を再び増やし、教科書も増量して、もう「ゆとり」なんていうのはやめます、と文科省も宣言しました。この問題に関しては、ネットの記事にいろいろ書かれていますが、まともなものはほとんどありません。教育学の本を読んでくださいな。


高校情報科の授業(千葉県内)
デジタルやICTに強く、かつ教育適性のある専門性の高い教員をどう育成するかが
目下の課題になっている 中学校でも新教育ができるようなので喫緊の問題だ

 

実生活で直接使わない教科を「要らない」と思ってしまうのは浅い、というのはそのとおりだと思います。私は数学が嫌いで苦手ですが、必要な学問ではあるなと思いながら勉強しています。それをわかってはいながらも「数学なくなればいいのに」とか「絶対これ学ぶ必要ない」などと、友達との雑談で言い合うことがありますが、友達がどれくらい本気でそれをいっているのかがわからなくて、少し不安になることがあります。

私は、ある教科に対して苦手意識をもつときに、テストで問われる内容に関して暗記が多いとか、解き方が難しいといったことを考えてしまっていると思います。テストに向けた勉強という考えを少なくして、それぞれの教科の深いところも見ていくことができたらいいなと感じました。また私は文系ですが、だからといって理系の教科にまったく触れないということはなくしていきたいとも感じました。

高校1年生のころに学んだ内容を3年生になって活用したり思い出したりする場面が増え、そのときに内容を思い出せず、短期インプット型だった自分の思考を浅はかだと思ったが、レポートの執筆や意見を述べるときに、客観的な態度・思考で考える力が身についてきたことを実感して、学びとは内容だけではないという視点を得られ、今回の体育や数学の目的という部分に共感できた。歴史も、解釈や発見によって教科書の内容や表現がしばしば変わるので、暗記型の科目だと捉えられることが多いことに対して少し疑問に思う。その歴史の教科書の変化の背景にも、理論的なプロセスについての学びが隠れていると思う。

教育については、さまざまな観点から考えることがあると思う。よい学校、優秀な学校と呼ばれる学校は日本にもたくさんある。そのような学校は、教員が優れているというよりは優秀な人材(生徒)を集めているから、自然とその学校全体も優秀になるに決まっているという話を聞いたことがある。小学校ないし中学校からのエスカレータ式の学校は、また話が変わってくると思うが、高校からの学校は、3年間での過程などを考えると、たしかにそうだと納得する部分もあると思う。
・・・> そのとおりだと思います。エスカレータ式の進学校のほうが、むしろそうかもしれない。学力選抜(いわゆる入試)をして、学力の優れた層を引き受けた時点で、社会一般の平均値よりもはるかに有利な前提からスタートできますし、ついてこられない生徒がいても「あなたがこの学校を選んだのだし、そもそも競争だから」となって、学校や教員の側の指導のあり方を反省する前に「生徒のせい」にしてしまうことも多いですね。ま、ただ、教員として働くときにどちらが楽しいのかとなると、事情は変わってきます。もう四半世紀以上も早稲田大学の教員養成に携わっていますけれど、早稲田の教職の学生は大半が進学校の出身なので、「賢い(学力の高い)生徒に高度な内容を教えたい」と考えがちです。私もそうでした。でも、教育者としての楽しさってそこじゃないんですよね。多くの先生は、現場に出てそのことをよくわかるようになります。私自身はいまこうやって、かなり高学力の生徒を相手に、ときに大学レベルの内容を指導していますけれども、公立・私立、男子校・女子校・共学校、都心部の学校・郊外の学校、アンダー40からオーバー70まで、ご縁に恵まれて本当にいろいろなところで教える機会に恵まれ、そこで得たものを次の場で還元する、という幸せなキャリアを得てきました。第3回の洗濯の話の冒頭に、ちらっとそうした経歴をもぐり込ませています。

教育の話はアイデンティティにかかわることだから感情的になる、という先生の話に納得した。いままでも授業の要所要所で、自分は理系だから興味がないだけだと思う内容があった。しかしそれは、学ばなければならないのにただ不愉快という理由だけで学びを放棄していただけだった。自分が振れたことのない世界を体験するのが学びだと思った。

教育学は自身の過去を刺されるからつらい、というのがおもしろかった。かえって先生のような人でもそうなるなら、恐れず教育学をやってみても楽しいかもしれないと思った。

教育のあり方を変えるためには、まず評価する側の意識を変える必要があると感じた。受験至上主義や詰め込み型の学習は、就職活動における学歴主義に起因していると考える。企業という、本来は実力主義の場だからこそ学歴による選別をやめ、より総合的な評価をおこなうことが重要だと思う。そうした変化が大学・高校の入試の変化を生む。それが「自分のための勉強」と「受験のための勉強」を分ける必要をなくし、受動的で意味の薄い学習時間を減らすことにつながるのでは。
・・・> おっしゃることはそのとおりなのですが、弱点があります。社会とか社会科学を考える際の重要な視点なので指摘しますね。学校というのは国や自治体の一部であり、公教育というのは公権力の作用なので、こうすべきだと命じたらそのようにする義務があります。しかし民間企業には経済活動の自由があり(日本国憲法22条)、社員を実力本位で採用しようが有名大学の卒業者を採ろうが自由。そこに国や自治体が強制力をはたらかせることはできません。実際には、世の中はいうほど学歴本位でも学歴社会でもなくて、たいていのところは実力主義や縁故主義で動いています。一方で、上場企業の多くは学歴を重視している(ように見える)。大きな要因としては、採用する側の小心というかチキンぶりがあります。こいつは見込みがあるぞと、あまりメジャーでない大学の出身者を採用して、それでうまく成果を上げられればいいですが、うまくいかないと「なぜ一流大学を採用しなかったのか」と担当者が問責される(ような気がする)。それを恐れて、まあ無難なところを採用する傾向が、結構あるわけです。「東大だからと見込んだのだけど(たまたま)こいつはダメでした」というのなら、採用担当者の責任が減じられる(ような気がする)からですね。とはいえ、好況時には1年に何人もの新人を採用できるから、そのうちの1人か2人が当たればいいという計算が成り立ちますが、景気が悪くて採用枠が1つとか2つしかなくなったとき、大学のネームバリューを当てにして採用してもうまくいかないことが多く、そうすると全社的な損失になります。ここ1520年くらいは、全体にそんな傾向が強まっています。

私たちの学年から、中学校でGIGAスクール構想がはじまって、インターネットが教育に多く取り入れられるようになった。だが私たちやその下の世代が、前の人たちと比較してインターネットに強いかといわれると、違うような気がする。学習指導要領の理念を末端の生徒にまで反映するには、どれだけ時間がかかるのだろう。
・・・> どれだけ時間がかかるか、あるいは本当に反映され浸透するのかどうかは、テーマによります。授業内でICT教育に関して指摘したように、教育を企画する側と実践する立場と受け取る側とで、それぞれ向いている方向や関心のありかがまるで食い違っていれば、うまくいくことはまずありません。また政策や方針を実施するという場合に、行政はどうしても量的な部分を重視します。GIGAスクール構想では、11台デバイスというところにこだわりすぎて、配ったはいいがデバイスの性能がスカだったり、それを用いた授業を設計する能力が教員になかったりして、税金を使って子どものおもちゃを供給するだけ、という事態にもなりました(もちろん成果をしっかり出している地域や学校もあります)。遊びではなく生産や学習にICTを使う、というのは思いのほか難儀なことです。そして、さほどおもしろくありません。1学期の内容に即していえば、「フェイクでもガセでも別にかまわないと思う。それを見抜くために何重にも勉強しなくちゃいけないのなら、スマホで遊ぶほうがいい」と本音で思っている生徒のほうが圧倒的に多いことでしょう。

質問です。古典をなくして情報の授業を増やしてほしいと思ってしまうが、間違っているか? 私立を含めた高校無償化についてどう思う?
・・・> 「思ってしまう」のは本人の考えなので、そこに正しいとか間違いというのはありません。そのような考えもあるよね、ということです。これこれこういうふうな理由(論拠)で私はこういう考えにいたったのですが、どうでしょうか、という聞き方をしてくれると、その思考のプロセス自体の質や妥当性について評価する余地が生まれます。これは生成AIに対するプロンプトでも同じ。精度を上げるように心がけておくといいですよ。後段ですが、無償化というワードが独り歩きしていて、実態をちゃんと把握できている人が少ないのではないかと思う。一般論としていえば、後期中等教育の無償化は必然であり、日本も締結・批准している国連社会権規約にもそのように書かれています(日本は数十年にわたってその条項を保留したままでしたが、十数年前に解除しました)。ただ、現在国会や内閣でいわれている無償化というのは、授業料相当分を公金で支出するというものですから、その外側の部分の負担が厚い私立高校の事情を無視ないし軽視しているようです。授業料相当を国が拠出するとなると、公立高校が自助努力でどうにかできる範囲がますます狭まり、良質の教育を提供することが難しくなるかもしれません。そうなると公立に行かざるをえない低所得層の子どもにとって不幸な階層再生産が起こります。社会権保障という公教育の本質からすると、むしろ逆行する措置になりえます。首都圏・京阪神圏と地方との教育事情の差に関してもほとんど考慮された気配がありませんしね。


1950年代ころの小学校の教室を再現した展示(川越市立博物館の特別企画)
個々のアイテムの材質や性能が少しよくなったということはあるが、学校教育の「仕様」そのものは
明治期から現在までさほど変わってはいない

 

知をインプットすることが、陶冶のためでなく高校や大学に入るため、そしてその後は単位を取ってよい企業に就職するための手段になっており、本来のおもしろさに気づきにくい環境になっていると思った。文系・理系の選択の際に、理系のほうに需要があるし、文系は意味がないという意見に触れることもあったが、その違和感や閉塞感に対して、今回の授業で新たな見方を学ぶことができた。多様性がうたわれる近年は、学校に行かないという選択も以前と比べると一般的になってきたように思う。学校だけがあなたの居場所ではないなどの言葉を耳にすることもあるが、自分が学校に所属しているという事実からは逃れることができないので、たとえ他のコミュニティに居場所を感じても、根本的な問題の解決にはならないこともあるのではないかと思う。

きのう中学校の先生から、勉強やテストとの向き合い方について中学1年生にアドバイスが欲しいといわれました。私は、これから先の基礎づくりのためと思って向き合うべきだと返信したのですが、「これから先」といってしまうと職業に就くというメリットだけが捉えられてしまうと思いました。学習で得られる「気づき」や「喜び」を伝えるためには、どのような説明がよかったのか、考えなおしたいです。

今回の授業を通して、学校教育について自身の中で考えたことが3つあります。(1)私たちはこれから大学生となりますが、受動的な面が多い小・中・高での教育、とくに高等学校でも、生徒の能動的な思考や行動が非常に大切であるということです。いままでは、高校までは主に知識を得て、大学からはアウトプットを中心としていくという考え方をもっていました。しかし英国の小学校で助教法が生まれ、一斉教授法の発明につながったように、先生から与えられた決まった講義内容に対して、どれだけ自身の中の興味を引き出すことができるか、新たな学びに発展させることができるかが、今後寄り濃く自分に合った学びをするために非常に大切だと感じました。(2)自身が苦手な学びに不必要性を感じてしまうことについて、自分が興味のある分野を学ぶのに役立つかどうかだけを考えているのが不適切であると考えます。世の中が変化したら要らなくなるという思想も同様ですが、自分の興味も世界も今後どう変わっていくか予想できません。苦手だと感じている分野を試しに学んでみることで、それが最も好きな学びの分野に発展する可能性もあります。自分の好き嫌いで学ぶ必要性を判断するのではなく、常に自身の興味や世界に可能性を意識しながら学ぶことが大切だと思いました。(3)おとなから子どもに対する教育のイメージの与え方は重大です。教育を受動的に受ける子どもにとって、親や先生がもっている教育の考え方は、子どもにも同じように影響を与える可能性が高いです。おとなも教育に対して正しい知識をもつことが大切だと考えました。
・・・> (1)は、とてもすばらしい気づきですね。今回私はそのことに直接言及していないのだけど、1学期からずっとそこを意識して、刺激を投入してきたつもりです。レビュー主さんが毎回、内容を正面から受け止めて真摯に考察してくれているのはよくわかっていて、私なんかそのまじめさがないので頭が下がる思いです。ちゃんと考えていくと、大事な気づきを得られるということですね。おっしゃるとおりで、高校でもアクティブに、自らの関心を深めて探究するように学ぶべきですし、本来はそのように設計されています。言い換えると(おっかないのですが)高校で好きなことを主体的に学ぶことができなかった人は、大学に入って自由度の高いカリキュラムの中に飛び込んでも、「先生どうすればいいんですか」「私の興味ってなんですか」となって、好きなことを主体的に学ぶことなんてできないですよ、ということでもあります。

学校での成功者が先生になりたがるという循環には、納得した。高校生で、教育を受ける立場にいるいま、教育学について先生から教わることができるなんて貴重だと思う。このまえ初めて会ったおとなに「早稲田なら安心だ」と、出会って10分程度でいわれ、学歴が性格や能力を決めつけるものになっているんだなあと感じた。私は数学と情報、地理と物理など、科目の組み合わさった学びが好きで、歴史や国語など、なんで学んでいるんだ?って疑問に思うような科目もあるけど、他の分野と組み合わせたり関連させたりして、より深い学びを今後していきたいなと考えた。寺子屋、塾(集団、個別、動画式)から学び取って、学校のあり方(とくに生徒数)や授業形態の最善の案について考えてみたいと思う。
・・・> 私も教科の枠に縛られるなんてまっぴらごめん委員会の委員です。とはいえ中学校・高等学校の教員免許状には教科の縛りがあって、たとえばいくら理科が得意だったとしても、理科の免許をもたない公民の教員が理科を教えることはできません。でも、見通しを示すくらいはできる。できるのに、やらないことが多すぎますね。教員自身の不勉強や関心の狭さが主因でしょうが、生徒(と親)の側も、そんなことはいいから受験に役立つ教科の部分だけ教えてくれよという妙なニーズを突きつけているのではないか。この現代社会論Iを、経済からはじめて、家庭科、技術、歴史・・・ といって情報やサイエンスまで突っ込んで構成しているのは、みなさんを委員会に勧誘するのと同時に、これまで中・高で学んできた個別の教科の知識や見方を動員すれば(するだけで)いろんなことがわかってきて楽しいよ、と伝えたいからでもあります。

私は最近、何かを「教える」仕事に興味を抱いています。理由は、性格が合っているかなとか子どもと接することが好きだとか、浅はかなものですが、生活の中で誰かに何かを教える際に、私は喜びを感じます。しかし同時に、今回先生もおっしゃっていた、どのくらいの知識があれば?という不安や疑問が浮かびます。先生という立場になるには、できるだけ完璧な知識人でなくてはならないのではないかと、どうしても思ってしまいますが、授業を受けて、求められる教育は時代や場所によって異なるとわかりました。たとえどれほどの知識をつけたとしても私は揺らぎつづけるのだろうから、これも浅はかですが、いま私自身が受けている教育とまじめに向き合っていくしかないのだと考えました。
・・・> 話のスコープはもう少し広いのだろうと思いますが、学校(公教育)の教員ということにあえてしぼってお話しします。知識はもちろん多いほうがよいし、一般人よりもはるかに多くの知的な蓄積をもっている必要があります。でも「完璧」なんてあるはずはないし、少なくとも大学を卒業して教員になりたてのころには誰だってアマチュア同然です。みなさんが生徒目線で気づいているように、ベテランで多くの蓄積のある先生のよさと、若手でフレッシュな先生のよさは、別のところにあるかもしれず、両方あって学校教育。いまの時代は、教員がなんでも知っていてそれを生徒に「切り売り」する教育なんて成立するはずもなく、ときに生徒と一緒に悩んで学び、成長する教員像が求められます。「先生の先生」としての私は、未来の先生たちに、こういっています。学ぶ人が教える人になる。教員とは学びつづける人である。学ばない人は教壇を去れ。(若いころの蓄積を吐き出しつづけるなという意味ですね) 高校の教員になるということは、自身が高校生だったときに学んだ(習った)ことを教えるのではありません。大学で学んだこと、プロになった後に学んだことを、高校生にわかるように翻訳して教えるのです。だから幼小中高特の学校種を問わず、教員免許は大学卒でなければ取得できないのです。最後の部分「いま受けている教育とまじめに向き合って」いくのは当然として、教育者をめざすのであれば、大学での学びとまじめに向き合わなければ話にならないし、それは「受けている教育」という受身よりも自身の学びのほうに力点が置かれるべきなのです。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。

2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

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