古賀毅の講義サポート 2025-2026
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Études sur la
société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche 現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究
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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び
2025年11〜12月の授業予定
<第3部 現代社会と文化・教育>
10月10日・17日 ジェンダー問題と格闘してみる
11月7日・21日 新仕様の学校教育
12月5日 高等教育(大学)の遊び方
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このところ最終回は高等教育(higher education)を取り上げることにしています。順調にいけばまもなくその中に入っていかれるから、というのが直接の理由。ただ高等教育がどのようなものであるのかという客観的な知識や情報は、世間一般でもさほど共有されているとはいいがたく、教育学の専門家が担当する科目ゆえ、せっかくですので少し紹介しようという思惑があります。初等教育(elementary education)や中等教育(secondary education ←いまココ)との大きな違いは、なんだと思いますか? 学修(高等教育ではこの漢字表記になります)の内容やカリキュラムのありようが違うとか、学生の自由度が高いといった想定があるものと思いますし、実際に大学で学んだおとなたちの多くも、そのあたりを答えることでしょう。制度的に、そして実際に本質の部分を考察するならば、高等教育ならではの特徴というのは、それが教育(education)であるのと同時に研究(research)の場でもあるということです。ですから大学は、教育機関と研究機関を兼ね備えた機関であり、どちらかというと研究機関の色が強いところです。ただ、多くの学生が(文系はとくに)大学院に進まず学部=学士課程で終わるため、大学というところで実際に研究がおこなわれている場面に触れる機会があまりない。スチューデント(生徒・学生)として授業を受け、課題を提出して単位を取るという点では、高校と大学にさほどの違いはありません。前回の授業でも指摘したような、学びは形式的なものだと考え、自ら学ぶ意思に乏しく、「ボク聞いていますから先生講義してください」という姿勢であれば、余計に「上等な高校」くらいの存在になってしまうことでしょう。 大学の教職課程(私の場合、中・高の教員免許状の取得をめざす学生への指導)の中で指摘していることですが、小学校の教員は「子どもの専門家」「発達支援の専門家」であり、中学校・高等学校の教員は「教科の専門家」としての性格が強い人です。これに対して高等教育機関である大学の教員は、まぎれもなく「学問の専門家」です。幼小中高特の教員と異なり教員免許状は必要ありません。「学問ができる」ことが認定されれば、中卒だろうとネコやワニだろうと大学教員になることができます(残念ながらワニ教授に実際にお目にかかったことはない)。このごろは、学院でもしているような授業評価というのが必須化されていて、学生が「○○先生は教え方が下手すぎる」といった非難が集まることもあるのだけれど、極論すれば教え方はまあどうでもよくて、教える内容がちゃんとした学問に裏づけられていればよい、というのが本来の高等教育でした。本来の、といいますが、高等教育が生まれたのはいつごろだと思いますか? 「大学」(universitas)という名称や概念であれば、11世紀のイタリア・ボローニャ大学が元祖とされます。高等教育という概念は近代のものですけれども、歴史をさかのぼって当てはめるとすれば、紀元前のギリシアや中国にも高等教育機関は存在しました。学問に従事し、その成果を世に訴えようとする人たちは古代からずっといて、社会に影響を与えつづけています。いま日本人の多くが大学と聞いて思い浮かべるようなかたちの大学が成立したのは19世紀でした(元祖はドイツ・ベルリン大学)。長い歴史をもっていますから、時代ごとに内容や性格、役割は違っています。それでも変わらないもの、つながっているものもあります。そのものの本質は歴史に根ざす、というふうに考えると、高等教育の歴史をアウトラインだけでも押さえておくことは、有意義かもしれません。 ここまで「学問」と結びつけて高等教育のことを話しました。どこにも「就職」や「ステータス」のことが出てこないことに、違和感があるでしょうか? いま日本人の多くが大学と聞いて思い浮かべる姿は、たしかに歴史の本流とは大きくかけ離れています。それがダメだということではなくて、なぜそうなっているのかを考えることで、高等教育との向き合い方のヒントを得られそうです。学問を探究する場が、いつ、どのように社会的なメリット(これは文字どおりのmerit=利得)を得るための手段になったのか。また、高等学校はその多くが本校を含めて普通科ですので学ぶ内容に大きな違いがないのに対して、大学は学部・学科によって学ぶ内容や分野がそもそも違います。その違いとは何であり、どのような意味があるのか。「将来に役立つようなことを勉強したい」と望んで進路を選ぶ人が少なくないはずだけれど、「将来に役立つ」学問って、あるのだろうか。「役立つ」とはどのようなことなのか。同じ「スポーツをする」というときに、ある人はテニスを、別の人は水泳を、また別の人はゴルフを選んで、練習して、楽しむ。学問分野は、それとは「選び方」が違うのかどうか。普通に考えて、全員に見合った学問分野などというものが存在するはずはありませんし、あらゆる方面に役立つ分野が存在するはずもありません。でも、そんな当たり前すぎることを曇らせてしまう何かが、日本社会の一部(一部なんですよね!)には根強く残ります。そのようなテーマを考えるための地盤は、4月からの当科目でかなり提供できているかなと思います。高等教育や大学それ自体も、探究や考察の対象にするべきものでしょう。でないと、おもしろくないですからね。
REVIEW (11/7) 11月21日のレビューは遅れて更新します。しばらくお待ちください。 ■今回の授業で、学校教育の真の目的を深く捉えなおすことができた。教育は単なる知の伝達だけでなく、集団を通じた社会化であり、さらに知識を内面化し自己のウツワを広げる過程であるという指摘は印象的だった。一方で、一斉教授法や単数形の正解を暗記する学習が、惰性化・儀式化を招いているという指摘は、まさに現状の教育が抱える病理であると痛感した。学びの目的は、目先の受験や実用性ではなく、知的探究心をもって自己を形成し、近未来の社会を生きるための基盤を築くことだと思う。この人間形成の過程としての学びを追求し、自らのスペックを真に広げていきたいと感じた。 ■今回の授業を聞いて、あらためて学校教育の意義を考えたとき、私は学校を「知識を得る場」よりも「社会と自分をつなぐ練習の場」と捉えました。AIがどのような情報も瞬時に教えてくれる現在において、「勉強する」という行為は、知識を蓄え、学ぶという意味よりも、「人とどのようにかかわるか」「自分の考えをどう表現するか」を学ぶという意味のほうが大きくなりつつあると思います。また、そのような行為をする場として、同年代の人と一つの教室で時間を過ごす学校というのは、単に将来のために「学校を卒業した」という名目を得る場ではなく、社会の縮図を体験する場であると思います。そして教育は「正解を学ぶ過程」から「問いをもつ過程」に変わりつつあると思います。そのような面で、高校や大学に行く意味は、自分がどのような問いをもつ人間なのか、を知るところにあると思います。 ■今回の授業で挙げられていた、学校は社会化の場であり人を社会の一員として形成する役割をもつ、という話が印象に残り、小学校時代を思い出した。私は国立小学校に通っていたのだが、そこは教育実習生を多く受け入れる学校で、授業参観も頻繁におこなわれていた(常に誰かに見られるような環境の中で授業がおこなわれて、他の学校とは雰囲気が少し違っていたと思う)。理科の授業ではお菓子やパンをつくるといった実験的な取り組みがあり、子どもにとっては楽しくもあり、同時に自分で考えて行動する力が求められた。いまになって振り返ると、それは単なる特別授業ではなく、教育の新しい形を模索する「実践の場」であったのかもしれない。また他の小学校に比べて林間学校の回数が圧倒的に多く、1回あたりの期間も長くて、自然の中での共同生活を通して友人との関係や協調性、責任感などを学んでいたように思う。当時はただ楽しい行事だと感じていただけだったが、今回の授業で学校の社会化機能について学び、それがまさに集団生活を通して社会の一員としてのあり方を学ぶ機会だったのだと理解できた。これまで当然だと思っていた学校生活の裏側に、社会的な意図や制度的なしくみがあることに気づき、教育をより広い視点から捉えることができるようになったと思う。
■以前の公共の話にもあったが、現在必要な知識やスキルでも数年後には陳腐化してしまうので、私たちは自分をアップデートしつづけなければならない、という話にはとても納得した。 ■たしかに私は高校に入って何を学んだのかわからないと思うことが多々ある。頭の中では積極的に活動していろいろなスキルを得たいと思うけど、結局は高校を卒業して早稲田大学に入ればいいや、と思っている。自分で考えて創り出すことのできる人になるためには、いまの学歴社会に流されてはいけないと考えた。社会の流れに乗るだけではおもしろくないと思う。 ■教育が惰性化していて、目的が学習ではなくなっているという現状は、まさにいま中等教育を終えようとしている自分にとって、とても耳の痛いものだった。教育において主眼とすべきものは「知の貯蔵」よりも「自力で探究する力やその意欲」を伸ばすことだと思った。受験というシステムが詰め込み型学習を転換することの大きな障壁になっていると思うので、そもそもの「大学を出る」という価値を下げる(他の道をつくる)か、入試のあり方を変える(大学に入る人の姿勢の改善)しかないと思った。 ■正解暗記型が楽ではあるけれど、別の学習方法でないとこのような力は身につかないのだろうと思いました。 ■理系の答えは一つではないという話を聞いて、はっとさせられた。卒論で哲学を選んだ理由が「答えが複数ある(自由度が高い)」ということだったため、本来の理系は答えのその先にある不明瞭な部分を追求するものだという話に強い印象を受けたし、そのとおりだと思った。私はあまり学習によいイメージがない(好きではない)が、学習に楽しさを感じるから能動的に学ぶという考えではなく、楽しさを感じるために能動的に学ぶ(楽しさ→積極性ではなく積極性→楽しさ)という考えを意識すべきだと思った。 ■最初の教育の段階(初等教育)よりも抽象化した学びになる中等教育以降における学ぶことの意義の明確化が、生徒の学習意欲や学びを活用することにおいて重要であると感じた。また社会に出た際の自身の再構成も大切だと思った。学習の内容や要領は新しくアップデートされるということを実感しているが、学習の形態やしくみ自体はなかなか更新することがなく、その部分にはギャップがあると思った。 ■高学歴化により、知識を入れ込むだけで質のよい学びを得られず、思考力や社会に出たときに必要な能力が身についていないのではないかと以前から感じていたため、公教育の目的や総合的な学習の時間の意義を知り、勉強しなくてはという危機感が強まりました。ICT化により娯楽や消費に埋没する人が増えたという話がサブカルチャー論につながるように、古賀先生の授業は視点が広がり、おもしろいなと感じます。教員の不足は深刻な問題だろうとも思いました。 ■教育の機能として社会化が挙げられていましたが、社会に適応するとともに、単一化も進むのではないかと思いました。たまに学校はサラリーマンの養成所であるといった言葉を聞くことがありますが、ある意味間違っていないのかなと思います。よい面でいえば、社会で他者と協働できるようになりますし、よくない面としては個性を抑えつけられてしまいます。それが個人の学校に対する合う・合わないという感覚につながるのかなと思いました。 ■学校教育において、知識を得ることが重要なのではなく、集団行動を通して社会性を学び、社会に適応することが本来の目的であると感じた。そのためには、先生からの一方的な授業よりも、双方向性のあるワークなどを通した学習のほうが効果的であると思った。 ■技術の発展に伴い、世の中の多くがブラックボックス化してきた。洗濯機や冷蔵庫のしくみを完全に理解している人は少ない。専門家だけが知っていて、私たちはそれを利用するだけだという構造ができている。しかし教育を受けることによって私たちは知識を獲得し、ブラックボックス化しているものを理解できるようになる。国の制度やしくみによって徴収されるお金を少しでも安く、いままで無意識に払っていた、払わなくてもよかったお金に気づくことができるかもしれない。知識を得ることで、私たちは得をすると思った。だからこそ学校だけでなくバイトやテレビなど、知を得られるものに積極的に向き合うことが大切であると感じた。
■授業中に先生が急に「前を向きなさい」といったとき、自分の背筋が伸び、反射的に「前」を向いてしまったことから、自分の中には「先生に何かをいわれたら、そのままおこなう」という昔からのプログラムがあるのではないかと考えました。これが効率的な権力行動であるということにも気づかずにいままで生きてきたのだな・・・と身をもって感じました。また、そういわれたときの脳内は、「あ、怒られるかもしれない」でした。このように、先生に情報も答えも一括もすべてを依存してしまっているのが、少なからず自分の現状です。私は自分のOSのアップデートが必要だと思います。今後は自分から意欲的に行動していきたい、と考えさせられるような有意義な授業でした。 ■今回の授業を踏まえ、私立で、しかも附属である本校での3年間の学びがどうだったかを振り返ると、たしかにOSを鍛えられる授業があったなと思う。テーマだけは最初に与えられるけれど、その後は理論や歴史、社会問題と自由に結びつけながら資料を持ち寄って授業内で意見を交わす。そのように、内容はともかく方法も学ぶというのが、OSのアップデートということなのかなと思う。
■インクルーシブ教育の広がりについて、たとえば支援を必要とする生徒とそうでない生徒では能力に明らかな違いがあるため一緒に学校生活を送るべきではない、というような考えは適切でないとわかった。たしかにそのための配慮や工夫が必要かもしれないが、誰もが選択肢をもつべきだという考えに納得した。 ■インクルーシブ教育がなぜ求められているかはわかりました。しかしネット上で、自分の子どもが、配慮の必要な児童のお世話係にされていて大変だという話を見るし、私も中学生のころ席替えの担当になったとき「○○さんと△△さんは近くの席にするように(△△さんがサポート役のため)と指示された経験があります。インクルーシブ教育は大切だと思いますが、特定の児童や生徒に負担がかかることがないように、また担任の先生の負担が増えないように、適切に人員を補充する必要があると思いました。 ■インクルーシブ教育というのが、これから大変になる課題だと思った。これまでも多様な生徒がいたはずで、教育ニーズに応えるような教育をするのは難しいと思う。多様な生徒がいるからこそ、生徒の課題別にクラスを分けるのは悪いことではないと思う。分断や格差を減らすためにも必要である場合があるのではないかと考えた。 ■インクルーシブ教育の話で、特別支援教育がかなり痛烈に批判されていたが、そこまで悪いと私は思っていない。まったく別の場所に隔離してしまうと溝は深まるし差別的であるというのは理解できる。共生や同じ空間で学ぶことの限界は必ずあると思う。 インクルーシブ教育や特別支援教育の話題を出したのは、それ自体を議論するのではなく、そこで得られた「教育というものに対する見方、考え方」を学校教育全体に援用しましょう、という趣旨でした。したがって特別支援教育そのものの理念や内容を詳しく説明していません。いくつか伝えきれていない部分や、一般的な誤解や無理解もありますので、少しばかり解説します。(私自身は特別支援教育を「痛烈に批判」していなくて、日本の特別支援教育が国際機関などから批判されているということを簡潔に紹介しただけです。念のため) (1)分離か統合かという論争は、もう十数年前に終わりました。いまその議論をしているときではありません。(2)特別支援教育の理念を大切にし、今後は本格的なインクルーシブ教育に向かうべきだと教育界や政策当局は考えており、私も同意見です。それは「いまおこなわれている特別支援教育」のあり方や実態がよいものであるとか、理想だとか、正しいものだという意味ではありません。教育実践が理念や政策どおりにならないのは、あらゆる部門と共通します。「お世話係」なるものがあちこちの学校に設けられ、それに対する批判や苦情がSNSなどでしばしば議論されていることは確かです。「お世話係」は特別支援教育やインクルーシブ教育の理念に見合ったものではありませんし、ネーミングも含めて不適切です。それをもって「特別支援(インクルーシブ)教育というのは間違っている」という論調になりがちなのは困ったことです。(3)最後のレビューにあるように「同じ空間で学ぶことの限界」はあります。また、同じ空間で学ばないほうが、障がいのある児童・生徒自身にとってよい場面もかなりあります。学校の学びの空間(物理的な意味での)を一本化してどんな生徒も同じ場で学ぶべきだ、という主張は誰もしておりません。むしろ多様にカスタマイズできるようにすべきだ、という流れです。その際に、選択やカスタマイズの最終的な判断は児童・生徒(と保護者)自身である、という当然のことをいっているわけですね。「共生」ということについてもレビュー主の誤解があります。この社会で多くの人が共生(live together /
co-live)しています。実際には無数の企業や組織、地域や家庭に分節されて生活しています。仕切りや区切りがあるのは当然です。ただ、どのエリアに住む/どのエリアで活動するかどうかは当人が選択する、という当たり前のことを確認してください。(4)最後に、いま一度クラス全員に申しますが、自分や(未来の)家族がどういうコンディションであるのか、ということは現時点ではわかりません。そこまで考えて、インクルーシブ教育や特別支援教育を議論しているでしょうか?
■学校教育の中で部活はどのような役割をもっているのか気になった。小学校に部活動はなく、4年生になってやっとクラブというものに入れるようになった。集団行動を学ぶのならもと早くから参加させてもいいと思うし、大会も要らないと思う。私は部活を、アイデンティティを見つけるものとして位置づけていると考えた。 ■最近私は新自由主義について学ぶ機会が多々あるが、社会に出てからの話(企業などについて)ばかりで、学校教育と新自由主義のかかわりについては意識したことがなかったので、今回の授業を通して視野が広がった。 ■たびたび「責任を取る」という言葉が出ていたけれど、教育の責任とはどのように取るのかと疑問に思った。 ■先日テレビを視聴していたら、東京都に住む5人に1人は中学受験するという情報が流れて来た。中学受験は教育学的にどうなのか、メリットとデメリットを考えてみた。メリットは、幼いころから学習意欲や思考力を身につけられることや、周りの仲間と競い合えるなどがあるが、過度な競争が生まれるとそれがストレスに変わり、デメリットに変化する。私は中学受験にあまりよい印象をもっていない。学歴に縛られている感覚を幼いころから抱かせることにつながりかねないと考えるからだ。先生はどういう考えをもっているか気になりました。 ■私自身、中学生だったころは高校受験のことで頭がいっぱいで、受験対策の勉強ばかりになり、ひたすら暗記し、数学の解き方さえも覚えて、機械的に問題を解いていた。これこそ学習の目的を見失っていたなと、いまわれながら反省もしている。この学院は附属校ということもあり、大学受験を気にかける必要がほとんどないが、そうでない進学校において受験対策を念頭に置くなというのは難しいと思った。 ■本来の「ゆとり教育」のねらいは、何だったのだろうか。なぜ「ゆとり」と呼ばれるようになったのか? ゆとり世代という言葉を聞いたことはあるが、どういった経緯でそのようにいわれるようになったのか。
■実生活で直接使わない教科を「要らない」と思ってしまうのは浅い、というのはそのとおりだと思います。私は数学が嫌いで苦手ですが、必要な学問ではあるなと思いながら勉強しています。それをわかってはいながらも「数学なくなればいいのに」とか「絶対これ学ぶ必要ない」などと、友達との雑談で言い合うことがありますが、友達がどれくらい本気でそれをいっているのかがわからなくて、少し不安になることがあります。 ■私は、ある教科に対して苦手意識をもつときに、テストで問われる内容に関して暗記が多いとか、解き方が難しいといったことを考えてしまっていると思います。テストに向けた勉強という考えを少なくして、それぞれの教科の深いところも見ていくことができたらいいなと感じました。また私は文系ですが、だからといって理系の教科にまったく触れないということはなくしていきたいとも感じました。 ■高校1年生のころに学んだ内容を3年生になって活用したり思い出したりする場面が増え、そのときに内容を思い出せず、短期インプット型だった自分の思考を浅はかだと思ったが、レポートの執筆や意見を述べるときに、客観的な態度・思考で考える力が身についてきたことを実感して、学びとは内容だけではないという視点を得られ、今回の体育や数学の目的という部分に共感できた。歴史も、解釈や発見によって教科書の内容や表現がしばしば変わるので、暗記型の科目だと捉えられることが多いことに対して少し疑問に思う。その歴史の教科書の変化の背景にも、理論的なプロセスについての学びが隠れていると思う。 ■教育については、さまざまな観点から考えることがあると思う。よい学校、優秀な学校と呼ばれる学校は日本にもたくさんある。そのような学校は、教員が優れているというよりは優秀な人材(生徒)を集めているから、自然とその学校全体も優秀になるに決まっているという話を聞いたことがある。小学校ないし中学校からのエスカレータ式の学校は、また話が変わってくると思うが、高校からの学校は、3年間での過程などを考えると、たしかにそうだと納得する部分もあると思う。 ■教育の話はアイデンティティにかかわることだから感情的になる、という先生の話に納得した。いままでも授業の要所要所で、自分は理系だから興味がないだけだと思う内容があった。しかしそれは、学ばなければならないのにただ不愉快という理由だけで学びを放棄していただけだった。自分が振れたことのない世界を体験するのが学びだと思った。 ■教育学は自身の過去を刺されるからつらい、というのがおもしろかった。かえって先生のような人でもそうなるなら、恐れず教育学をやってみても楽しいかもしれないと思った。 ■教育のあり方を変えるためには、まず評価する側の意識を変える必要があると感じた。受験至上主義や詰め込み型の学習は、就職活動における学歴主義に起因していると考える。企業という、本来は実力主義の場だからこそ学歴による選別をやめ、より総合的な評価をおこなうことが重要だと思う。そうした変化が大学・高校の入試の変化を生む。それが「自分のための勉強」と「受験のための勉強」を分ける必要をなくし、受動的で意味の薄い学習時間を減らすことにつながるのでは。 ■私たちの学年から、中学校でGIGAスクール構想がはじまって、インターネットが教育に多く取り入れられるようになった。だが私たちやその下の世代が、前の人たちと比較してインターネットに強いかといわれると、違うような気がする。学習指導要領の理念を末端の生徒にまで反映するには、どれだけ時間がかかるのだろう。 ■質問です。古典をなくして情報の授業を増やしてほしいと思ってしまうが、間違っているか? 私立を含めた高校無償化についてどう思う?
■知をインプットすることが、陶冶のためでなく高校や大学に入るため、そしてその後は単位を取ってよい企業に就職するための手段になっており、本来のおもしろさに気づきにくい環境になっていると思った。文系・理系の選択の際に、理系のほうに需要があるし、文系は意味がないという意見に触れることもあったが、その違和感や閉塞感に対して、今回の授業で新たな見方を学ぶことができた。多様性がうたわれる近年は、学校に行かないという選択も以前と比べると一般的になってきたように思う。学校だけがあなたの居場所ではないなどの言葉を耳にすることもあるが、自分が学校に所属しているという事実からは逃れることができないので、たとえ他のコミュニティに居場所を感じても、根本的な問題の解決にはならないこともあるのではないかと思う。 ■きのう中学校の先生から、勉強やテストとの向き合い方について中学1年生にアドバイスが欲しいといわれました。私は、これから先の基礎づくりのためと思って向き合うべきだと返信したのですが、「これから先」といってしまうと職業に就くというメリットだけが捉えられてしまうと思いました。学習で得られる「気づき」や「喜び」を伝えるためには、どのような説明がよかったのか、考えなおしたいです。 ■今回の授業を通して、学校教育について自身の中で考えたことが3つあります。(1)私たちはこれから大学生となりますが、受動的な面が多い小・中・高での教育、とくに高等学校でも、生徒の能動的な思考や行動が非常に大切であるということです。いままでは、高校までは主に知識を得て、大学からはアウトプットを中心としていくという考え方をもっていました。しかし英国の小学校で助教法が生まれ、一斉教授法の発明につながったように、先生から与えられた決まった講義内容に対して、どれだけ自身の中の興味を引き出すことができるか、新たな学びに発展させることができるかが、今後寄り濃く自分に合った学びをするために非常に大切だと感じました。(2)自身が苦手な学びに不必要性を感じてしまうことについて、自分が興味のある分野を学ぶのに役立つかどうかだけを考えているのが不適切であると考えます。世の中が変化したら要らなくなるという思想も同様ですが、自分の興味も世界も今後どう変わっていくか予想できません。苦手だと感じている分野を試しに学んでみることで、それが最も好きな学びの分野に発展する可能性もあります。自分の好き嫌いで学ぶ必要性を判断するのではなく、常に自身の興味や世界に可能性を意識しながら学ぶことが大切だと思いました。(3)おとなから子どもに対する教育のイメージの与え方は重大です。教育を受動的に受ける子どもにとって、親や先生がもっている教育の考え方は、子どもにも同じように影響を与える可能性が高いです。おとなも教育に対して正しい知識をもつことが大切だと考えました。 ■学校での成功者が先生になりたがるという循環には、納得した。高校生で、教育を受ける立場にいるいま、教育学について先生から教わることができるなんて貴重だと思う。このまえ初めて会ったおとなに「早稲田なら安心だ」と、出会って10分程度でいわれ、学歴が性格や能力を決めつけるものになっているんだなあと感じた。私は数学と情報、地理と物理など、科目の組み合わさった学びが好きで、歴史や国語など、なんで学んでいるんだ?って疑問に思うような科目もあるけど、他の分野と組み合わせたり関連させたりして、より深い学びを今後していきたいなと考えた。寺子屋、塾(集団、個別、動画式)から学び取って、学校のあり方(とくに生徒数)や授業形態の最善の案について考えてみたいと思う。 ■私は最近、何かを「教える」仕事に興味を抱いています。理由は、性格が合っているかなとか子どもと接することが好きだとか、浅はかなものですが、生活の中で誰かに何かを教える際に、私は喜びを感じます。しかし同時に、今回先生もおっしゃっていた、どのくらいの知識があれば?という不安や疑問が浮かびます。先生という立場になるには、できるだけ完璧な知識人でなくてはならないのではないかと、どうしても思ってしまいますが、授業を受けて、求められる教育は時代や場所によって異なるとわかりました。たとえどれほどの知識をつけたとしても私は揺らぎつづけるのだろうから、これも浅はかですが、いま私自身が受けている教育とまじめに向き合っていくしかないのだと考えました。
現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。 当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。 2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。 |