古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche

現代社会論I近未来の社会を(に)生きる構想と探究


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び

 

202567月の授業予定
<第2部 現代社会と情報・メディア>
6
6日 ICTが代替したもの、ICTを代替するもの
6
13日 同居人・AIさんの優秀さと気難しさ
6
20日 いまどき/いまさらの「オールド・メディア」考
6
27日 フェイク、ガセ、エセ科学の時代を生きる
<期末特別プログラム>
7
11日 ちょっと待って!モラトリアム:青年期の発達課題

 


次回は・・・
12-
ちょっと待って!モラトリアム:青年期の発達課題

1学期の最後は大きなテーマを少し離れて、公民科の中でいえば公共と倫理で重要な単元として取り上げられている青年期adolescence)を考察します。倫理の中でもここはちょっと異質。思想史や現代倫理ではなく、なぜか「若者はこんなふうです」というような「自分たち(高校生たち)」そのものが論じられる単元ですからね。でも自分たちが取り上げられているわりには、ピンと来ないということが多くないでしょうか。思い当たるふしがほとんどないとか、書かれている用語の意味する対象がわからないといったことが、しばしば聞かれます。また、「若者」をひとくくりにして、こうだと決めつけるような書き方に納得がいかないという声もよく耳にします。教える教員の側の事情を申しますと、歴史(世界史・日本史)の支えとなる学問分野は歴史学、地理は地理学です。これに対し、公民のほうは政治学・法学・経済学・社会学・国際関係学・哲学・倫理学・思想史などが対応する学問分野で、かなり広がりがあります。今回の青年期という単元に関しては心理学(psychology)です。いろんなことを知っている公民の先生ってエラいんだな 心理学の中でも発達心理学という分野が直接かかわります。他の学問とはかなり毛色の異なる用語づかいをしますし、考え方も慣れないうちは独特です。ただ、ほぐしていくと非常におもしろいし、親しみをもてる分野ではないかと思います。

子ども(child)とおとな(adult)。マンガやイラストで両者を描いてみてください。おそらく身体のサイズを違えて描くのと、顔のつくりをそれっぽく違えるのではないでしょうかね。音声まで含めることができればさらに違いが明瞭になります。声質や声の高さ、そして話している内容や語彙がまるで違います。しかし、そんなおとなも、かつて子どもだった時期があります。SFではないので、その子どもがある日突然おとなに化けたわけではありません。結構なグラデーションを経て、おとなになっていったわけです。子どもとおとなの2種類しかないという前提でイラストを描きなさいといわれるから、違いをデフォルメするわけですが、そのあいだにあるはずの連続性を意識すると、途端に難しくなります。個人差も結構ありますからね。――でも、あえて申しますと、そのグラデーションというのはシンプルな右上がりの直線を示すわけではありません。ある時期にドライブがかかったかのように、怒涛の勢いで成長する局面があります。急カーブを強引なハンドルさばきで乗り切ろうとすれば車体がきしみますし、ときに火花を発するかもしれません。人間の場合にもそれが起こります。つまり、子どもにも、おとなにもない、青年期固有のトラブルや症状というのがどうしても起こってしまうのです。子どもは子ども、おとなはおとな。青年期と呼ぶ、そのあいだの時期は、どのような特徴をもつのでしょうか。グラデーションとはいうけれど、どちらのようそがどのくらい強いのかな? そして気になるのが、青年期はどれくらいの長さ(期間)をもつものなのかという点です。青年期の渦中にあると思われる高校生のみなさんは、青年期が長いほうがいいですか? 短いほうがいい? いつまで青年期だと思います?

もう30年以上も公民科の教員をしています。どちらかといえば倫理ではなく政治・経済のほうなので(公共の教科書では倫理のパートを担当していますが)、この青年期という単元を指導する機会はあまりありません。ただ、私の本来の(大学院生時代に専門家としてのトレーニングを受けた)専門分野は教育学(pedagogy / science of education)で、教育にまつわる教授(teaching)、学習(learning)、カリキュラム(curriculum)といった概念をしょっちゅう扱いますし、大学の教職課程では未来の教員たちにそのことを教えています。その中に発達development)という概念・テーマがあります。鉄道網の発達とか科学技術の発達といった場合とは、ちょっと違う言葉の使い方で、教育の世界に特有の用法なのですね。青年期という概念はこの発達というテーマの一部。したがって私の本来の専門のど真ん中にあるものといえます。高等学校の授業では自分の専門をほとんど教えないのですが、学期末の特別プログラムですので、私の専門はこんなに有意義でおもしろいんだよ(気になったらそっちの道も考えてみてね)という紹介を兼ねて、取り上げてみます。今回の内容は、持ち帰っておうちの方と共有するのは、少しばかりこっぱずかしいかもしれません。そのときは、お友達とぜひどうぞ。

 

REVIEW 6/20

627日のレビューは75日ころに更新の予定です。しばらくお待ちください。

 

今回の授業では、マス・メディアの中立性や信頼性について、これまで自分があまり意識してこなかった視点から考えることができた。プロレスなどの報道の変化を通じて、何を報道するに値するのかをみなすかが、社会的・文化的に決まっていることに気づかされた。また新聞や週刊誌、ワイドショーなどのメディアにも、それぞれ役割やスタンスがあることを知り、すべてのメディアが真実を客観的に伝えているとはかぎらないことをあらためて感じた。報道されない陰謀や偏向を短絡的に考えるのではなく、その背景にある編集方針や限界、意図を読み取る力、メディア・リテラシーが必要だと思った。

情報を疑い、嘘を見抜くというリテラシーが必要であると教育されてきたが、本当にわれわれに求められているのは、情報の発信源がもつ癖や偏りを自身で読み取り、その前提を理解するという本来の意味でのリテラシー(読解力)であるとわかった。むやみにメディアを批判的な目線で見ていると結果的に何にも関心をもてない人になってしまうと思う。

マス・メディアの情報は、鵜呑みにせず批判的に見よう、といわれることがある。それ自体が間違っているわけではないが、そこには多くの意味があることを今回の授業で学んだ。そもそもメディアといってもただ一つに括ることができるものではなく、新聞、スポーツ新聞、テレビニュース、ネットニュースなどさまざまあて、取り上げるテーマや内容はそれぞれ違う。批判的に見るということは大事なことだが、真に大事なことは、批判的にさまざまなメディアを見ることだと思った。

あらゆるメディアは偏っている、という内容に共感した。公正中立のメディアがあるのだと思いがちだが、どのメディアも人間がつくっているので、個性が出るのは自然なことだと思った。高校に入って思想の強い、または自分自身の思想を公表する先生の授業を受けることが多くなった。中学校のときは、公立というところも関係するのか、無味無臭でおもしろみのない授業が多かった。小さいころから思想の偏りを認識しておくべきだと思った。メディアは偏っているということを理解し、私も偏りが出るくらい情報を得て、賢くなりたい。

父の影響で、小さいころから朝夕ともによくニュースを見ていた。父はそのときに、そのテレビのニュースは右だ、左だなどとよく教えてくれ、ニュースに対して私の前で堂々と文句をいうなど、とても「思想が強い」人だったが、私はこれがすごく嫌だった。高校に入って外の世界に触れれば、「中立的な思想」が知れるのだろうと期待したが、全然そんなことはなくて、父なんかの比にならないくらいに偏った、強い思想をもつ人が、先生にも生徒にも多くて驚いたのを思い出す。「中立的」な思想というのは、思想に偏りがないのではなく、多方面に偏った思想に触れ理解したうえで、自分の立場を確立することなのかもしれない。高校に入って自身の思想ができてきたことで、いまは父の文句を一方的に聞くだけでなく、議論できるようになってとても楽しい。
・・・> 私なんかついお父さん側の目線になっちゃいますよね〜。高校生の娘に「楽しい」なんていわれたらうれしいだろうな。

いままで、思想は偏ることなく中立の立場でいることが安全で、正しいことだと思っていました。また正直、私自身も右か左かという強い思想をもっていません。そこに対して、自分の考えのなさを感じて、反省しました。

メディアが偏るのは、悪いことではないと思った。メディアをつくるのは人間であり、その人間にもいままでの人生経験によって形成された価値観、考え方があるので、完全中立なメディアは存在できないと考えた。利用者側が、メディアは偏っているという事実を知ったうえで利用すべきだ。メディアの左右をもっと勉強するべきだと思った。

メディアが偏っているのはいけないことである、と小・中学校で学んできたように思います。私も、恥ずかしいですがそれを信じてきました。いままでそのようにいわれてきたからなのか、メディアとの接触が少ないからなのか、たくさん理由を推測することはできますが、先生が今回の授業で「偏向するのは当然」とおっしゃっていて、私は驚きました。自分のメディアに対する概念が崩れたように思います。たしかに偏りがないほうがおかしいし、その偏ったメディア上で報道されるものを探り当てる力がない(少ない)われわれの問題であるということに納得しました。また雑誌の例で、見出しを見るだけで、それぞれの「色」が出ていることにも驚きました。いままでまったく気づかなかったことに初めて気づきました。

この授業を受ける前まで、メディアをはじめとした、誰かに教える立場にある人は偏向してはいけないのだと直感的に思っていました。しかし偏っていることが当たり前、左か右かだけでなく資本系列など何かしらにおいて偏っているからこそ、ある面に対して詳しく知ることができたり、逆の視点から見ることができたりするのではないかと、考えを改めました。そして多角的に見るためにも、教養やネット・リテラシーを身につけ、ひとつの情報のみにまどわされたり、とんちんかんな意見を出したりしないようにしたいと考えました。


コミュニケーション博物館(ドイツ ニュルンベルク)

 

私たちはいま簡単に情報を得られる環境にいるからこそ、メディア・リテラシーを身につけ、高めることが非常に重要だとあらためて実感した。SNSなどで発信されている情報源や根拠の不確かな情報をそのままなんの疑問ももたずに鵜呑みにする若者が多い(私の身近でも)。そのような人たちは、テレビで報道されるニュースなど、なおさら無批判で受け取ってしまうだろう。マス・メディアの偏りを知って、報道されるニュースなどにこれからも向き合いたい。

報道という言葉について自分でも考えが及んでいなかったことがわかった。もろもろの偏りに関する話を聞いていて、無意識・無自覚のうちに清廉潔白なものを求めていたのだなと思いました。同時に、思想的な偏りは排除すべきとするのではなく、可能なかぎり吸収して自己を確立することの重要性を認識しました。ただし、それは左右両方取り込めば打ち消し合って均衡がとれるという意味ではなく、いろいろ取り込んだモザイク状のタイルを俯瞰して見ようという意味です。ひとつ確認したいのですが、左右うんぬんが語られるときに、「保守派」というのがたまに登場します。保守派=体制側で、左右両派=反体制側、という認識でよいでしょうか。
・・・> そうではありません。保守派というのは現状、現在のあり方や構造を是として、これ以上の改革を望まないというのが一般的な解釈です。社会思想・政治思想としての保守主義は、漸進主義や慣習主義とかなり近くて、理屈をこねて今はないところに人為的にもっていくのではなく、「これまでどうにかうまくやってきた」ことには相応の意味や安定感があるのだから基本的にはそれ(慣習)を重視して、頭でっかちな改良をやらない、という感じの思想のことです。たいていは、左右でいえば右派にあたることが多いのですけれど、たとえば(もうほとんどありませんが)社会主義国家においてはゴリゴリの社会主義路線(計画経済、集団農業、私的所有権の厳禁など)を採る人たちを保守派と呼ぶことが多く、資本主義的な要素を取り入れようという(西側では「右寄り」とみなされがちな)人たちが改革派と称されることが多いですね。また、このごろは現状のさらに「右」を主張する勢力が、各国とも伸びていますので、それはそれで現状を批判的に捉え、今はないところに人為的にもっていこうとするわけなので、保守派とはいえません。厄介なのは、日本におけるそうした右の右の人たちは、自分たちを「保守」だと称することが結構あるということです。排外主義や自国ファーストは保守ではないと、私は思うのだけど、本人たちが保守だというのなら保守なのか(何をいっているのかな 笑)。左・右というのは、フランス革命のときの議会で、保守派が右側、進歩派が左側の席にかたまって座ったことに由来します。おおざっぱにいって、前述の保守主義のほか、宗教保守派、新自由主義、共同体主義、リバタリアニズムなどが右、無政府主義、共産主義、社会主義、社会民主主義、進歩主義などが左。再分配的リベラリズムは、文脈によって右になったり左になったりします。

メディアは、常に中立の立場で物事を報道しなければならないと思っていましたが、立場が傾くことは必ずしも悪いことではなく、現在では「完全な中立」のメディアはないことがわかった。これからの将来も、きっと中立な存在は生まれないと考えるからこそ、メディア・リテラシーは必須であると感じた。しかし、だからといて自分も中立的な立場に立つ必要はなく、自分の軸をもちながらその思想を臨機応変に動かしていこうと思った。できるだけ多くの情報を得ることは、すなわちそれを処理する能力も必要になってくる。高校生の段階からたくさんのメディアに触れていきたい。

メディアには権力を監視するという役割を背負っていると授業内で述べられていたが、右寄りの新聞は、とくにそれに矛盾していないのか疑問に思った。
・・・> 日本ではほぼ一貫して保守政党(左右でいえば右)が権力側でしたので、右寄りの新聞は体制を補完し、体制の批判に対する批判を展開して政策の確度を高める役割を果たしてきました。まあ批判と、批判に対する批判というのは、えてして足の引っ張り合いになって生産的でないことも多く、それを「マス・メディア内部での勝手なやり取りで、実はヤラセだ」と批判するネット民も一部にあります。ただ左派が権力を握る例がないわけではなく、196070年代には革新自治体と呼ばれる左派(社会党や共産党)主導の知事や市長が全国にいましたので、その時期には右寄りの新聞が大活躍でした。また200912年の民主党政権のときには、産経新聞が張り切って(開き直って?)「野党に徹する」と宣言し、実際にそのような役回りを果たしていました(朝日は「いままで権力側だったことを認めるんかい」と突っ込んでいましたが)。

今回出てきた新聞やテレビ局ごとの思想の違いをまったく知らなかった。これを知らないでいると自分の思考が気づかないうちに影響を受けるかもしれないということがわかった。世の中の風潮や自分も、マスコミは中立的な立場であるべきだとしていたが、そうではなくて各社の主張や思想を理解したうえで自分で比較しなければいけないと思った。今回の授業で、自分がこのまま社会に出てしまったら、「バカな国民」の部類に入ってしまうと気づけた。社会で起きている批判やデモなどを見て、その人たちがどのような言い分をもっているのか、矛盾しているかなどがわかるような人間になりたい。

教科書も書いている先生に質問なのですが、教科書は偏っていると思われますか? 私の中学校の社会科の先生が、教科書選びを綿密におこなっているようだったので、偏りなども(それがあるのであれば)考慮していたのかなと疑問に思いました。
・・・> 教科書とありますが、正確には教科用図書といい、小学校・中学校・高等学校・義務教育学校・中等教育学校・特別支援学校では、文部科学省の検定を受けて合格した教科用図書を用いて授業するべきことが法律で定められています。上記の各学校種と幼稚園に関しては、文部科学大臣が告示する学習指導要領(幼稚園教育要領)が法的拘束力をもつものとして、その教育内容を規定しており、教科用図書はその方針や範囲を守らなくてはなりません。検定は、それを確認する作業です。学習指導要領の拘束と検定があるので「偏り」の幅はさほどではありませんが、それぞれ主張や思想のある「人」が書き、編集するわけですから、どうしたって偏りや傾きは出ます。むしろ検定に合格する範囲内でいかに個性や特色を出すか(≒偏りを出すか)で、かなりがんばっているといってよいかもしれません。それと、文部科学省の側にも一定の傾向や偏向がありますので、文科省のいうとおりにするとそれはそれで偏りといえてしまいます。率直にいって、自民党政権がつづいていますので文科省の検定基準は自民党の思想に近いものになりがちです。社会科や家庭科、特別の教科 道徳ではとくにその傾向が顕著ですね。左系の出版社や著者がいつも難儀するところです。なお、教科用図書の採択は、公立小・中学校では区市町村の教育委員会が権限をもっています。本庄市とかさいたま市といった「市」の中で使われている教科書は学校にかかわらず同一です。私立学校、国立学校、特別支援学校、高等学校に関しては学校単位での採択です。


昭和期の小学校の教科書(長野県松本市 国宝開智学校)

 

家では複数の新聞をとっていて、テレビのニュースをよく見ます。正直、内容を深く理解している自信はなく、朝日新聞の「いちからわかる」も、ひとつもわかりません。自分の無知をいつも痛感しています。ただ、テレビ局によって報道の仕方が少しずつ違って、興味深く思っていました。そもそもことばを使って表現する以上、「無色透明」はありえないと思います。中立を求めるよりも、さまざまな報道に触れて自分で吟味する力をつけるほうが重要だと感じました。

ニュースや時事にいままで自分からかかわったことがなかった。ことしの授業で時事問題があって、スマートニュースを見はじめた。気になった事柄(見出し)をタップして記事を読むと、本文を読んで思ったことと見出しの言い方に、ニュアンスや意味の差があるように、よく感じる。とくに事件などではどちらか一方に非があるような誇張された見出しが多い。この点は改善されてほしいと思った。
・・・> 改善されることはないので、あなたが変わってください。構えが甘いですよ〜。

メディアにはそもそも偏りがあるのだと理解してからメディアに触れる必要がある、という話を忘れないようにしようと思った。テレビや新聞はその偏りがわかっているが、ネットやAIはわかりにくいため、より一層気をつける必要があるということに納得した。どこの出版社がどれくらい偏っているという情報は、どのようにして知ればよいのでしょうか?
・・・> 以前は、いろいろ読んでいくうちに体得していったものですが、このごろはネットで調べればだいたいわかるのではないかな。対象が小さい(マイナーな)ほど一面的な評価になりやすいという弱点を心得たうえで、Wikipediaを見てみると、雑誌のスタンスなどはだいたいわかってきます。なお、同じ出版社(あるいは同じテレビ局)でも雑誌や番組による「偏り」の違いはあるので、そこはそんなものだと思ってください。

疑問に思ったのは、メディアが偏ってよいのか、いけないのかという論点についてです。私は、一人ひとりの意見がどちらかに偏るのは当たり前だと思うし、メディアの制作者によってメディアが偏るということも当然だと思います。しかし、メディアは複数の人間がかかわっているからこそ、一つの意見だけでなくさまざまな意見を踏まえて、記事や番組をつくることができるのではないでしょうか。メディアがさまざまな意見を踏まえた結果として偏るなら問題はないと思いますが、一つの意見のみを踏まえて偏るのは、それは問題アリなのではないでしょうか。ですから私は、メディアは偏ってよいと思いますが、偏る背景に複数の意見を踏まえているのかどうかが肝心で、偏るかどうかについては後づけでよいと思いました。
・・・> 偏ってよい/よくないというのではなく、客観的な公正中立など論理的にありえないので、すべて「偏る」ということですね。後づけというような性質のものではないと思います。メディアが組織や企業といった「人間の集まり」である以上、メンバーそれぞれの傾向が反映されるべきではないかというのはそのとおりです。ただ、すべての人がなんらかの偏りをもっている以上、平均値や中央値を出しても、そこには一定の「値」が出ます。右と右を足して2で割れば右になります。絶対値がだいたい等しい右と左を足して2で割れば0になりますが、それは公正中立で絶対的な0というのではなく、右・左を踏まえた客観的な位置としての0。わかるでしょうか。ご指摘のことを少し丁寧に考えると、2つの可能性が見えてきます。(1)わがメディアはどのへんの主張・思想で行くのか、どの分野を重視するのか、といった方針を、内部の話し合いやコンペを通して集約する。新聞社の場合だと、社説をどのスタンスで出すかというのを、論説委員の会議で決めます。そのプロセスを明らかにする新聞がこのところ多くなりました。(2)それにしても社是や一定の路線というのが先にある、というほうが多いと思う。朝日新聞に入社する人、産経新聞に入社する人は、それぞれの方針を心得ているはずですし、嫌なら別のところを探せばよいのですね。――ただ、朝日新聞にも自民党べったりの記者は結構いますし、産経新聞にもやたらにリベラルな記者がいます。

ふだん週刊誌を読まないこともあるが、ここまでそれぞれの週刊誌の内容に偏りがあることは知らず、無知で恥ずかしいと思った。これからは右翼、左翼などに関する知識を深めて、「メディアの偏り」に気づき、見分けられるようになりたい。
・・・> 新聞はぜひ読んでください。週刊誌は、どうでしょうね。必須ではないかもしれませんね。もともと娯楽に資するのが前提ですので、好きな人はどうぞということではないでしょうか。従来、週刊誌が果たしていた役割の結構な部分をネットの記事やSNSがもっていっているのだろうと思います。その結果、いま週刊誌の購読者は、一般紙以上に高齢化しています。私は若いときからの習慣や惰性でいまもかなり読んでいますけれど、高校生のみなさんもぜひ!という気持ちはありません。

一般紙やスポーツ新聞、週刊誌など、それぞれ扱う情報や分野が違っていたのに、ワイドショーなどが台頭しエンタメ化していったことや、各新聞の傾向、ネットニュースなどの話から、自分が欲しい情報に合わせてメディアを使い分ける必要があるなとあらためて思いました。そのためにはやはり知識や素養がなくてはならないため、いまの段階では勉強が足りていないと強く感じます。親の収入と子どもの学力に相関関係があるという話や、親と一緒にニュースを見る子どものほうが学力が高いといった話から、早期英語教育に関しても同じことがいえるのではないかと思いました。親が最低限の知識をもっていないと、子どもの学力や知識に影響するのだろうと思いました。
・・・> 英語教育(第二言語≒母語以外の言語の教育)については、もちろん「同じことがいえる」のですが、それ以外の要素もあります。ニュースなどと異なり、日本の普通の状況だと、身の回りに外国語のコミュニケーションというのがないですからね。早期教育のおかげで発音や聴き取りの能力が高まったとしても、「中身」がスカであれば意味が目減りします。中身を厚くし、本物にしていくのは家庭の状況によるところが(残念ながら)大きい。フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した文化資本(capital culturel)という考え方です。

プロレスが集客ビジネスとして有力なのは同意できるが、それは他のスポーツと一緒なのでは? 殴る・蹴るといった過激な要素を含む部分が、一般紙において報道するには問題があったのだろうか? (類例複数)
プロレスをパフォーマンスとして捉える人が多いのでテレビで報道されていない、と習ったが、関心のある人が多いことに変わりはないので、報道されなくなった理由が、あまり納得できなかった。いまとなってはプロレス人気がすっかりなくなってしまったが、プロレスと私たちの生活がどう変化したのか気になる。報道されなくなったからなのか、他の理由があるのだろうか。
・・・> プロレスを冒頭にもってきたのは古賀の「ネタ」なので、あまり引きずらなくていいですよ。プロレスはおもしろいし、結構な人気があるけれど、その勝ち負けやレスラーの動向を一般のニュースで報じることはありません。価値がないわけでも人気がないわけでもなく、一般のニュースで報じる意味がない(薄い)からです。アニメでもアイドルでもそうでしょ? 2学期にカルチュアの話題を扱いますので、そのときにまた考えてみてください。


ドイツの最有力誌 デア・シュピーゲルの本社ビル(ハンブルク)
ドイツといえば、の雑誌で紙媒体のものはやたらにごっついことで有名 内容も硬派だ

 

SNSはいまどき多様な情報を簡単に入手できるツールのように思っていたが、誰でも使えるという点からも、偏りのある意見や的外れな指摘が多いのだとわかった。

SNSは、匿名で自分の考えを気軽に書くことができるものですが、利点だけでなく、表面的なことだけを見てすぐに誰かを攻撃してしまうことがあるという悪い面もあるとわかったため、見たものだけですぐ判断しないようにしたいと思いました。

ネットニュースやSNSといった、出どころのわかりにくい情報のほうが、偏りもわかりづらく、受け取る側の情報処理の力が試されるなと思った。右派=愛国的=排外的といったイメージが最近のSNSだと見かけることがたしかに多いし、自分もそういうものなのかと認識しつつあったので、考えを訂正できてよかった。

ネットニュースで上部に出てくるニュースは、マス・メディアが大事なことだと考えていることなのか、ネットを見ている国民の多くが大事なことだと思っているものなのか、気になりました。似たような内容のものでも、注目されるニュースとそうでないニュースの差は、どのようにしてできたのか知りたいと思いました。
・・・> 新聞やテレビのニュースの「ニュースの差」は、「読んでもらいたい順」ですが、読者・視聴者のニーズはここだろうなという要素が多分に反映します。それに対してネットニュースは、「大事なこと」というより「見たがっているもの」を優先する傾向にあります。推測ですがAIが作動して、過去の統計などから傾向を割り出し、ヘッドラインの掲出順を決めているのだと思う。ネットの場合、なにより重要なのは広告代を稼げるかどうかです。新聞やテレビは、1回の紙面や放映にどの社がどのくらい広告を出す(=広告料を支払う)かが決まっているのに対し、ネットのほうはアフィリエイト広告ですので、注目度の高い記事の見出しをタップさせないことには稼ぎが発生しません。これもAIさんのはたらきでしょうかね。

一般紙とは違い、「らしい」とかタレコミのレベルの情報でも記事を掲載できるのが、スポーツ紙や週刊誌の強みだと思った。ネットニュースが普及してきてから、見出しの重要性がより高まったと思う。クリックさせるための誇張やミスリードなどが増えた。ただでさえネット・リテラシーの低い人が増えているいま、このようなことをするネットニュースの会社が増えるのはよくないと思う。
・・・> まあでも、あちらもご商売ですからね。「このようなことをする」のがその手の会社なのだということなのでしょう。

やはり、歴史等の「社会科」とされている科目は、先生側は時代の流れや時の人物の人間性、物事の背景を語り、教えてくれているはずですが、生徒側としてはテストのために暗記する、ということしか考えていません。そう考えると、社会の本質を知ることのできる現代社会論は、過去に受けたことのない形態の授業ですが、いちばん生徒にとってよい形の授業だと感じました。授業を通じて、マス・メディアは情報源の人々の考え方によって右寄りや左寄りが分かれていて、それを理解して読まなくてはならないのだと学びました。テレビもそうなのでしょうか。よくSNSで情報を収集するのではなく、新聞やニュースから収集しなさいといわれるが、それは本当によいことなのでしょうか。
・・・> もっと褒めて(照)。テレビにももちろんクセがありますし偏りがあります。新聞と比べると、電波法の制約もあって(公共の電波を割り当てられていること、発信力が新聞に数倍して一般人への影響が大きいことから、中立性を求められる)、局ごとの違いはそこまで明瞭になりません。また、同じテレビ局の中でも番組やスタッフ、出演者によって多少の、あるいはかなりの差があるのが普通です。したがってテレビのほうがクセを読みにくいというか、傾向を見つけにくいといえるでしょうね。後ろのご質問ですが、ネットであれマス・メディアであれ、情報とされるものの大半は二次情報(以降の、三次情報、四次情報・・・)です。「誰さんがそういっていた」と書いてあっても、正しくは「誰さんがそういっていた、と別の誰さんが報道していた」ということが多い。したがって、情報を精査する際には「おおもとに当たる」ということが重要になってきます。ネットの解説記事とかYouTubeの解説動画などは、大半が「こたつ記事」です。こたつ記事の意味がわからなければネットのこたつ記事で調べてください(笑)。どんな感じかな、だいたいでいいから知りたいなというときには、こたつ記事で十分なのですが、それを根拠として何かを主張する際には、一次情報を掘り出さなくてはなりません。高3のみなさんがそれに関してまず直面するのは卒業論文。高校生の卒論とはいえ、学術論文ですから、引用・参照しているものがオリジナルなのか、二次情報なのか、こたつ記事なのかが問われます。学問の世界では一次情報にあたらないものは認められないと考えておいてください。高校や大学で学ぶというのは、そのこと自体が役に立つというよりも、そういう「型」の部分にこそ値打ちがあり、大学に通わない人よりもそこが優れている(だから好待遇)ということを心得ておきましょうね。


フランスの日刊紙ル・フィガロ 左派のル・モンドに対してこちらは右派とされるが
昨今の排外主義や極右とは明確な一線を引いて、むしろ中道に見える場面が多くなっている
これは20202月にオーストリア ウィーンのホテルで宿泊客用に置かれていた朝刊で
新型コロナウィルスの危機がいよいよフランスで拡大、という見出しが見える

 

安易に「マスゴミ」と評するのは危険だと感じた。新聞やニュースなど自分の能力の乏しさのせいで得ることができていない情報がたくさんある。情報があふれた時代では、メディア・リテラシーがないとその情報を自分のものにできないと思った。

「マスゴミ」という言葉や、それを用いたマス・メディア批判は、X(旧ツイッター)などのSNSでよく見かけていた。いまやSNSにはさまざまな地位、思想の人がいて、それぞれが自分の発信したいことを発信しているが、当然そこには浅はかな考えをもつ人も多く存在しているため、自分自身がネット・リテラシーや教養をもたなければならないのだということを再確認した。また多様性の尊重が正しいとはかぎらないのだと感じた。誤った情報を鵜呑みにしてしまう人(そしてそれを発信する人)が多いのは、自分の精神状態や知能レベルにとって都合のよい情報ばかりを吸収する人が多いからなのだと考えた。そのためSNSを利用する際には視野を広げることが大切だと思った。

「メディアは大事なことを報道せず隠す」という意見がある一方で、古賀先生は、メディアは多くのことを報道しているが「報道している箇所」を探り当てるスキルが失われている、という指摘をしていました。また、表面しか見ていない、何も知らない人が「マスゴミ」などといっているのは、その本質にしっかり目を向けていないからだと述べていました。重要なのは、あらゆるメディアを制作しているのも人であり、企業であり、偏っているのだという事実を理解し、その思想的立場やスタンスを知ったうえで情報を比較し、読解するメディア・リテラシーだと考えます。

マス・メディアは大事なことを報じない、といってSNSのニュースを信じがちになってしまう人は、「SNSの爆弾垢などは他の組織との利害関係やしがらみがないから本当のことを発信できる」と考えているのではないかと思いました。たしかにSNSには個人で情報を発信する人もいて、誰かに発信を制限されることはありませんが、自分の発信への責任もないので、マス・メディアに比べて信頼できるということはないと思います。ところで、「あらゆるメディアで一つの大きなニュースばかり報じているときに、裏で重要な法案が通っている」という説を、SNSでたまに見かけるのですが、これは実際にそうなのでしょうか? 最初は本当っぽいなと思っていましたが、大きなニュースの裏でこっそり可決するのではなく、大きなニュースのせいで法案についての報道が手薄になっているのを「隠された重要な法案」であるように誤認しているのではないかとも思いました。
・・・> 「裏」「隠された」といいますけど、国会審議はネット時代になってからむしろすべてオープンになっていて、誰でもアクセスできるようになりました。隠しようがありません。そんなに重要な法案なのだとすればそれこそが「大きなニュース」です。ですから、このようなことがあるとすれば、「多くの人の目を引く(わかりやすく、低次元の)ニュース」のせいで、「本当はまともで重要な法案のニュース」に注目する人が少なくなる、ということでしょう。その「多くの人の目を引くニュース」を意図的に流しているのだとすれば、それは「煙幕」というべきものですね。でも、それをいいすぎると陰謀論みたいになってしまうし、むしろ本質を覆い隠すことにもなりかねません。実は私も、ある時期までそのようなことを一種のネタとして披露していました。「ワイドショー陰謀説」というもので、憲法解釈にかかわる重大事案があるときにはワイドショーや週刊誌で低次元の話題をえんえん繰り返しそれ一色にしてしまう(煙幕を張る)という趣旨。1992年のワイドショーは統一教会に入信した芸能人の合同結婚式参加の話題が何ヵ月もつづきました。安倍晋三さんが殺害された事件で統一教会問題が呼び返され、「低次元」どころかきわめて重要な社会問題だったのに、という感じになりましたよね。でも1992年当時は芸能人信者の話題が大半で、要はゴシップ記事だったのです。この間に、自衛隊を海外派遣するという戦後初の決定(PKO法)が国会で可決されました。1999年には、プロ野球の野村克也さん(当時は阪神監督)の妻・沙知代さん(タレント的な活動をしていた)が、少年野球チームの指導で乱暴な態度をしているとか、仲間の芸能人にいやがらせを繰り返したとかいった、人間関係をめぐる(まあ他人にはどうでもいい)話題が何ヵ月もつづきました。「あいつ、なんだかむかつく」という感情のようなものだけでよくそこまで引きずったものだと感心します。この間に、日米安保や自衛隊の定義そのものにかかわる周辺事態法(新ガイドライン関連法)が国会で可決されました。2003年にはパナウェーブ研究所なるあやしい集団の出没をえんえん追いかけ、その間に、有事法制という大きな法案が国会を通過しています。テレビや新聞では国会のほうをちゃんと報道しているのだけど、ワイドショーや週刊誌はゴシップ系を好みますよね。ネット時代になって余計にその傾向はあるかもしれません。何か重要な法案がぬるっと可決されたという話ではないのだけれど、2021年の東京五輪の折に、金メダルを獲得した選手が名古屋市長だった河村たかしを表敬訪問し、河村がそのメダルを自分の口に入れて大ひんしゅくを買いました。河村といえばメダルを食う男という評判というか、そちらがやたらに報じられるのだけど、愛知県知事リコール運動に際して不法な追い落とし運動があってそれに荷担したのではないかという、政治家としてより問題にするべきほうがほとんど共有されないままでした。ま、要するにわれわれのリテラシーよね、という例の結論になってしまいます。

とくに印象に残ったのは、「マスでもネットでもコメントは一呼吸おく」というところです。最近、インスタグラムやTikTokなどのSNSで、まだ使い慣れていないように見えるユーザー(小学生くらいの)がコメントするのをよく見かけます。彼らのコメントに悪意や批判の意図はなかったとしても、語彙の少なさや表現の未熟さから、意図しないかたちで相手を傷つけてしまうものも少なくありません。文章の拙さを自覚し、相手にどう伝わるのかを考えることが大切であると感じました。

新聞で週刊文春の広告を見ると、文春はどんな分野でも記事にしているというイメージに見えていましたが、たしかに文芸関係の報道はないです。メディアが報道しない空白の部分を想像することも大切だと思いました。
旧ジャニーズ事務所の問題や、朝日新聞が高校野球のまずい部分に触れないことなど、さまざまな不都合で世に出ない情報はたくさんあると思います。権力者からの圧力や、私にはとうてい考えられないような裏側があるのだと思いますが、その不都合を突破してさまざまな情報を出す記者の人たちがすごいと思いました。

いま課題2を書きはじめていて、授業の予習みたいになっているのですが、ネットはマス・メディアの受け売りであるという着眼点で調べていました。今回、授業の前半でより理解が深まり、普段のまっさらな状態で聞くよりもとてもおもしろく感じました。

最近は「若者離れ」したメディアが多く、ときどきニュース番組で「TikTokで話題の動画」の解説をしていて、テレビがスマホに負けたことを認めた!といわれているところをよく見る。ワイドショー的な情報とニュースコーナーが融合しはじめたのは、若者の知能や趣向に合わせたからだとも考えられる。高校生の私たちにとっての情報源は学校かネットだと思うので、友人からの間違った意見が、影響を受けやすい私たちの意見になってしまわないように、自分の意見をもたないといけないと思った。
・・・> 若者離れしたメディアではなく、若者のメディア離れですよね? 「といわれているところ(をよく見る)」とありますが、それがいわれているのはテレビ? ネット? (たぶんネット) レビューは限られた時間で、わりに思いついた順に書いていただくことが多いので、主語・述語のような部分には目をつぶるのですが(どうせ書きなおしますし)、ちょっと意地悪なことをいったのは、「メディアを考える」ということの本質にかかわるからです。テレビがスマホに負けたと「ネットが」いったのであれば、テレビは独自のネタをもたず若者に迎合しようとしてTikTokSNSからネタあさりをしているw、といった「嘲笑」です。ただ、レビュー主がそれを引用する際の意図によっては、「とネットが嘲笑しているが、そういうやつこそ本質をわかっていないww」という意味となる可能性があります。どちらでしょうか? あまり考えなかったでしょうかね(笑)。私も、新聞はともかく、テレビがSNSTikTokYouTubeの内容をそのまま引用してコンテンツをつくっているのが許せない一人です。また、そのまま引用だけでなく、番組づくりの際に参照するのもネットだけという場合が多くなりました。私ごとき者のところにも、たまにテレビの制作会社から問い合わせがあります。要するに、いまごらんになっているような自前のサイトを開いていますので、ネット検索に引っかかる場合があるのですね。「その話は、これこれの本に書いてありますのでお読みください」と返すのだけれど、本を探したり読んだりする手間もヒマもかけたくないスタッフが、スマホをいじって安直に情報を得ようとしています。かわいそうな面はあって、バラエティや情報番組の多くは、テレビ局本体が制作するのではなく、下請け・孫請けの制作会社が担当していて、最近は経費もかなり安く抑えられていますから、自力で学問的な情報を調べて分析できるほどのスタッフを雇用できないのも無理はありませんし、納期の短さを考えれば図書館などに行っていられないのですね。他方で、ネットの側もマス・メディアの情報(とくに一次情報)がなければかなりガタガタになります。この先にどうなっていくのかはわからないけれど、2025年の状況としては、ネットとマス・メディアはどっちもどっち、持ちつ持たれつの状態にあるということです。テレビばかり観る人は「ネットはテレビのパクリ」というでしょうし、ネットしか見ない人は「テレビはネットのパクリ」と信じて、嘲笑するのでしょう。まあ嘲笑だけにイタいですなあ。イタいと思われたくなかったら・・・ もうおわかりですね。

以前、「新聞を毎日読む」というチャレンジをしたことを思い出しました。難しくて内容が頭に入ってこず、すぐに挫折してしまいましたが、あのときつづけていればもっと硬派な文を読めたかもしれず、悔しいです。
・・・> いまからでも読んでください。毎日新聞ではなく(でもいいけど 笑)、毎日・新聞を読むということね。書籍でもそうですが、ネット以外のメディアに慣れていない人はどうも「前のほうから順に」読むとか、「すべてを理解しながら全文を読む」みたいに考えてしまう人が多い。新聞でも書籍でも、思いついたところから読めばいいし、順序は最終章からでもかまわないし、意味がわからなければ飛ばしてもいい。最初と最後だけ読むのを「キセル読み」といいます(キセル乗車からの連想ですが、キセル乗車そのものが絶滅しかかっているのでググってくださいな)。おもしろそうなところ、読めそうなところだけ、ちょこちょこっと切り取って読み進めるのを「つまみ読み」といいます。キセル読みやつまみ読みならば、さほど難しくありません。課金したのにもったいない、といったケチくさい根性さえ捨てられれば、きょうからでも取り組むことができます。

プロ野球の記事に偏りがあることは普段からいろいろな球団のニュースを見ているのでわかっていたが、そのついでに読む政治に関する報道の偏りは、何も意識していなかったので、どのような立場からの記事なのかという視点を大切にして見ようと思った。県の高校野球の記事で、異様に公立高校の勝利を報じていると感じていて違和感を抱いたが、授業を受けて納得できた。
・・・> 本人も自覚しているように、野球報道に対するものと同等かそれ以上のセンスを、報道全般に向けられるといいですね。

あらゆるメディアは偏っているという話を聞いて最初に思い出したのは、アメリカのテレビで、トランプの大統領選挙スピーチが悪く思われるような編集をされていたことだ。ネットニュースならまだしも、テレビでそんな印象操作みたいなことをしていいんだと思った一方で、日本もそんなものかと思った。そしてもう一つ思い出したのが、推しのYouTube動画。無料で観られる動画では仲が悪く見えるのに、有料会員用の動画では仲よく見えるという謎編集がされていた。これのせいで推しのグループの仲が悪いといわれていて不満だった。が、これは推しであるから仲がよいと信じたいだけで、本当に仲が悪いのかもしれない。どちらにせよ、推しには幸せであってほしい・・・。
・・・> なるほど、レビュー主はかなりネット寄りの生活ですな(笑)。トランプの話とYouTuberの話を同一次元で持ち出して、今回の授業内容に接続するあたり、アルゴリズムがネットそのものです(悪いといっているのではなく、そのように分析できますねという意味)。一般紙がプロレスの勝ち負けを報道しちゃうようなことなんだよ、ということは認識しておいてください。大統領選の話ですけれど、アメリカの大手メディアのほとんどは共和党寄り、民主党寄りという性格がはっきりしています。FOXは共和党寄り、CNNは民主党寄りとされます。「トランプのスピーチに印象操作的な編集が加えられた」のは本当ですが、それを報じているのがネットニュースで、しかもレビュー主はそれしか見ていなくて、ハリスのスピーチにも逆側の操作があったということについては知らない(ニュースを見ていない)でしょ。日本語のネットやSNSでは右寄りの人の主張が目立ち、排外主義や外国人批判とセットになると広告料収入が増えるため、各種のネットニュースではトランプびいき(ないし民主党批判)の記事が上位に来ることが多いのです。私は教え子たちに幸せであってほしいと思うので、できれば無料のニュースに頼るのではなく、ちゃんと新聞やテレビの報道を見てほしいんですよね。


フランスの主要紙ル・モンドの電子版(2025622日)
インターネットとAI翻訳でいろいろな国・立場のジャーナルを手軽に読めるようになっているのだから
進んで「アクセスするメディアの種類」を増やしたいところだ
https://www.lemonde.fr/

 

今回の授業は、いままでと比べても個人的にとても刺激的な内容だった。自分がどれだけ無知だったのか痛感した。マスコミの右・左の立場すら知らなかった。マスコミやニュースを自分でかみ砕き、幅広いジャンルに触れるべきだと思った。それぞれの立場を理解したうえで記事を読むと、さらにおもしろくなるだろうから、楽しみになった。

今回の内容は卒論のテーマとも重なる部分も多くて、とても興味深く、考えさせられた。とくに「メディアは偏るべきではない」のではなく「メディアは偏っている」という前提で、互いに補完し合っている側面もあるため、やみくもに「メディア批判」を展開するものではないと思った。またXなどを通じて、私自身「いまの時代はソーシャル・メディアだ」と認識していたが、その考えそのものが、情報元が限られているため、SNSによるある種の「洗脳」になっていたのだと、はっとさせられた。

「思想が強い」のを嫌う。これに関しては、プレワークでも書いたのだが、「異なる意見をもっていても嫌わないこと」「人付き合いと異論を切り離して考えること」が大切だと思う。メディアはそもそも偏っている。公正な情報ではなく利益を重視する。しかしそれの変化の余地はないので、改善すべきは読者・大衆である。「マスコミ」「ネット」などの大きな主語に惑わされないように、メディアに対する解像度を上げなければならない。

メディアといっても読み手の意識・能力が必要とされるかどうかで性格が異なり、異なるからこそ多様な人のニーズに合わせられるのだと思いました。「マスゴミ」といえるほどマスコミのことを知っているのか?という話で、いまの私は社会について意見をいえるほど知識があるのだろうかと、怖くなってしまいました。自分の意見をいえるように、これからも学習していきたいです。ニュースは速報だけでなくその中身の解説等も重要であるということから、ニュースを見たときにその本質まで知ろうとする意欲、知る力をつけたいです。

テレビでニュースを観たり新聞を読んだりするには、理解の前提となる社会的な知識があり、新たなニュースを処理する能力・素養・リテラシーをもった人でなくてはならない、といった教えは、多くの先生が話され、私もそのたびにハッとさせられます。そして、これからは何を意識していこうかと考えるのですが、最近では無知な私が何か意見をもったところですべて間違いなのではないかと思ってしまいます。私も表面的な部分しか捉えられていないと思いますが、まずは「学問」と「協働」をがんばろうと思いました。

私は将来、テレビ局に就職してニュース制作に携わりたいという目標をもっているので、今回の授業はとくに興味深く、勉強になった。ニュースを与えられ、その内容を正確に理解し、本質を学ぶには、自身が幅広く正しい知識をもっていることが必要であると聞いて、大きく納得した。毎朝かならずNHKのニュースを観ているが、いまだ深い知識を得ていない私が社会を知ろうとさまざまな分野のニュースを観たとしても表面的な内容しか認識することができないだろう。これからは、一つの狭い分野でもいいから、自分なりに正しい知識を深め、ニュースや新聞を観るように心がけたい。新しい出来事だけ知るのではなく、背景や原因を理解してから一歩ずつ新たな知識を得ていくべきだと思った。またメディアの偏りの話題も印象に残った。インターネットに掲載されている記事よりも新聞のほうが偏りがないから新聞を読むべきだという意見を聞いたことがあった。そのときは疑問を抱かず、受け入れてしまったが、新聞にも偏りがあることがわかり、重要なのは自分自身に偏りがあること、その偏りの内容を十分に理解したうえで情報を得ることだと気づいた。そして、マス・メディアが間違っている、偏っているため反対だ、という意見を掲げる人をよく目にするが、まずは一度立ち止まって自分はどこに注目し、何の根拠にもとづいて異議を唱えるのかが大切である。そのメディアと他の企業とのつながりや特徴を把握することも求められる。今回の授業を受けて、夢をかなえることができたら、正しいニュースとともにメディアの本質についても伝えられるものを制作したいと思った。

SNSやテレビで、ある物事について一見客観的のような視点にもとづいて批判しているように見える人でも、そのような批判をしている時点で右か左かに偏っていて、またそれは決して悪いことではなく、むしろ大のおとなが右か左に偏っていないほうがよくないのだ、という先生の話が新鮮でした。人間でなくても、われわれが日ごろ使っているAIも、根本的には人間から生み出されたものであり、ある思想や偏りの影響を受けているという話を聞いて、AIというものの捉え方が一転しました。

メディアが、私たちに「教える存在」であり、親と同じで「選べない」存在であるとみなし、無垢で正直であることを視聴者が求めすぎているような気がする。しかしメディアは各々の利益のため、属性に合わせて動いているのだと考えれば、メディアが問題を起こしても、あくまでもメディアは手段であり私たちが理解しなければならないものであるため、過度に批判する必要はないのだと思った。ついついスキマ時間に娯楽としてメディアやネットを消費する傾向のある私だが、それを娯楽として、リアルと切り離した区分の視点をもってメディアを見るほどの知識が、いまはないことを痛感した。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。

2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

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