古賀毅の講義サポート 2020-2021

De Société contemporaine I: Éducation civique que nous recherchons ver.3.0

人文社会科学特論(現代社会論 I
:探究するシヴィックス3.0 

早稲田大学本庄高等学院 3 (文系必修選択科目)
金曜 12限(9:10-11:00)  教室棟95号館  S205教室   

 

 

 

 

 

 

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202012月〜20211月の授業予定
12
4 現代のライフ・プランニングとキャリア(1):リアル社会へのキー・センス
12
11 現代のライフ・プランニングとキャリア(2):社会変動時代のキャリア (無介入授業)
1
15 西北の森を歩く(特別企画)

3学期の課題は16日いっぱいが提出期限になっています。忘れずに作成・提出してください。


■■次回は・・・
特別企画 西北の森を歩く

教育界ではかなり古くから東京六大学と総称する習慣があるのですが、実をいえば東京六大学野球(1924年創立)という野球のリーグ戦を組むための集まりにすぎず、いまもなお大学そのものの公的なつながりはありません。それほど大正・昭和期には野球が強い影響力をもっていたというのと(ちょうどラジオ放送がはじまった時期で、その有力コンテンツだった)、慶應義塾や早稲田の知名度や社会的地位が高かったということの表れでもあります。プロ野球の人気が東京六大学を上回るようになるのは、1958年に立教大学卒の長嶋茂雄が巨人に入団したあたりからで、「野球しかしていない人たち」よりも「大学生にして、野球をしている人たち」のほうがリスペクトされていたのです。さてその東京六大学の大学名を見ると、慶應義塾と明治は創立期の元号を冠したものだとすぐにわかります。立教と法政は教育理念のようなものを抽象化した校名でしょうか(立教大学の名の由来はよくわからない、と立教自身がいっています)。東京大学はいうまでもなく所在地の大地名。これに対して早稲田大学というのはずいぶん小さな地名で、地区名というべきものです。東京でこれに類するのは駒澤大学、青山学院大学などです。お茶の水女子大学、一橋大学、芝浦工業大学なども本来はそうなのですが、どうも本体部分がその地区から離れてしまっているので微妙な感じ。そういいながら、本庄早稲田などと意味不明の駅名をつけてしまったのも気になるところですが・・・。

いまさら申すまでもなく、早稲田大学は1882(明治15)年に肥前佐賀藩出身の政治家、大隈重信侯によって創立されました。当初は東京専門学校という呼称でした。早稲田大学を自称したのは1902(明治35)年、晴れて法的にも大学であると認められたのは1918(大正7)年のことです。思いのほか「自称・大学」であった期間が長いですね。早稲田の周辺にいると見えにくいのですが、いまでも早慶より国立大学を重んじる気風というのが日本のあちこちにあり、戦前のそれは圧倒的でしたから、私立学校ごときが帝大と並び称されることなど、まずありえないことだったのです。早稲田の先人たちは、どうにかこれを一流の高等教育機関としてのステータスに押し上げ、それにふさわしい内実を整えようと尽力してきました。私立大学ならではの「学風」や伝統がそこに宿っていくことになります。

校歌の冒頭に「都の西北」とうたわれているのは、いまなら所沢キャンパスあたりじゃないのかなどと揶揄されますけれど、明治期の早稲田地区はほとんど東京の「外」でした。政府を追われた大隈先生が足場を築いたのは、一歩も二歩も東京を離れた場所であったわけです。のちに早大生のつつましい日常をモチーフにしたフォーク・ソング「神田川」(南こうせつとかぐや姫)がヒットしますが、その神田川は早稲田キャンパスのすぐ北を流れています。井の頭池を源流として流れ下る自然河川を、徳川家康が江戸建設に際して上水道化することを指示して改良、こんにちのような姿になりました。この神田川流域には、中世から近現代までのさまざまな歴史の跡が点在しています。元号や大地名ではなく、早稲田という小さな地区名を名乗る大学には、それを彩る周辺の見どころがたくさんあるのです。

私がこの大学に入学したのは1988(昭和63)年のことです。ちょうどそのころ(バブル期)から、早稲田や慶應義塾は「伝統ある私学」の内容が支持されるというよりも、「世間がいいというからいいんだ」というステータスの世界に押し下げられてしまい(断じて「押し上げる」ではない)、伝統にも歴史にも地域的特色にもまったく関心がなく、ステータス確保と平板なキャンパス・ライフにばかり執着する学生が増えました。でも、私立大学ことに伝統私学にあっては、他とは違う自分たちの理念とか内実というものがあって、そこに校風があって、ゆえに自身のアイデンティティと一体化するというよさがあるはずです。附属高校で3年間を過ごしたみなさんは、慶應義塾や他の伝統私学と早稲田の違いは何であるのか、ちゃんと説明できるでしょうか? 今回は特別企画として、まもなく創立140周年を迎える早稲田大学をいくつかの角度から捉えて、その特徴をみんなで見ていくことにします。

 

REVIEW (12/4
*文意を変えない範囲で表現・用字法を改めることがあります

キャリア教育というのが日本の学校すべてで実施されるようになったのが2006年だったことを知り、意外と早い時期にはじまったのだなと思った。それでも、個人的には高校全般にそれが定着し、活用されているとは思えなかった。次回の授業で「問い」に対して学びを深めていくので、学歴がどうあるべきかについて考えたいと思う。将来就職して社会人になる自分のために、他の受講者の意見を参考にするような貴重な場をみんなでつくりたい。

キャリア教育は21世紀になってからはじまったことから、「IT化と情報倫理」などと同様、いま議論すべきテーマであると思います。ですが「高等教育」のテーマと同じで、高校生の立場で考え、議論するのは、乏しい経験からは難しいことでもあります。自らの将来(大学→就職)を見据え、またいままでの小・中学校での学習経験を踏まえ、学歴社会について考え、キャリア形成のあり方、プロセスについて議論しようと思います。

大学を卒業したあとどんな職業に就職するのか、何が自分に向いているのか、ぼんやり考えるけど、どんな職があるのかすらまともにわかっていない中で、考えるのはとても難しいです。学院でおこなわれているキャリアデザイン講座などはとてもよい取り組みだと思いました。何になりたいのかわからない、専門性がない人にとって、キャリア教育はとても大切だと思います。中学生のとき職場体験学習があり、何になりたいのか定まっていなかった私は、友達に合わせて保育園を選びました。体験してみて、私には驚くくらい合わなかったので、自分に適していない職業を見つけるのも大切だと思いました。

日本では高等学校段階においてキャリア教育をすることが重視されたそうで、そうならば高校3年生の私はキャリア教育をすでに学校で受けていることになります。本庄高等学院ではキャリアデザイン講座などがおこなわれていますが、任意参加のことが多く、個々にゆだねられています。また受験のある高校ではそちらに力を入れることになるため、実際は高校段階でのキャリア教育はあまり積極的におこなわれていないのかなと思いました。

「学歴」は就職で有効になることがあると思う。就職についてあまり知らないが、書類審査は大学名によって通るか通らないかが決まると聞いたことがある。その点において学歴は有効になると思う。

私にその気がなくても、社会的に見たら「キャリア」を積んでいる一人になっているのだということに気がついた。まだ自分の考えがまとまっていないのであまり下手なことはいえないが、来週はがんばって発言したい。

キャリアが求められるようになり、それによって雇用の形態や進路も変わってきている。キャリアを文字としてわかるようにするものの1つが学歴であるが、企業が求めているものは、学歴はあるという前提で「人間力」のような気がする。それは高等教育を誰しも当たり前に受けるようになったため、学歴の差が大きくつかなくなったからだ。同じ学歴というのをスタートとして考えれば、人間力を求めるのも自然な気がする。

自分が何を学んでどのように生きていくのかを考える前に、自分が生きていく「社会」のありようやその動態を知る必要がある。私も打算で学部を選ぼうとしていたから納得してしまった。現実社会について自分がまったく知らなかったことが原因だと思う。そんな自分を変えたいと思えた。恥ずかしいから。

私自身を含め、周りの友達などは、学歴が欲しいだけとか、学歴があれば就職余裕!というように、学歴を求めているだけの人が多い気がする。レベルの高い学校や環境に飛び込んでいくことは大切だと思う。そのような環境で、とても多くの刺激を得ることができるし、自分のレベルアップにもつながる。学びの場を出てもそれは同じことがいえると思う。

 

キャリア教育と社会的背景は大きく結びついている。青年期の消費社会化や中等教育の偏り(受験のための勉強になってしまいがちであり、教員や学校も受験のための勉強を教えがちである)によって、学びのおもしろさや自分が興味のある分野に気づくことができないまま大学生になる、ということが多いのではないか。これが大学でも学びに対して受動的になり、サークルやバイトにばかり明け暮れる学生が多い原因であると思う。理系は学んだことや研究内容がそのまま職業に結びつくが、文系はあまり結びつかない。スポーツ科学部の学生が金融に就職したという話も聞く。そういったこともやりたい職業を見つけることができない原因ではないのか、疑問に思った。
・・・> スポ科の学生が金融に進むことがさほど異例とは思えませんし、私の感覚では普通だろうと思います。高校生(附属高校生)の見方がちょっと固定的すぎるのではないかな。理系の研究・開発部門をのぞけば、学部学科と産業分野の相関性というのはさほどのものではありません。誤解を恐れずにいえば、トップレベルの人材でなければ、学部学科よりも人物で選抜されます。私はもう20年以上も教育学部で教えてきて、うち7年くらいは34年生のゼミ指導(教育学)もしてきましたが、教育関係に進んだ卒業生なんて多めに見積もっても4割もいなかったと思います。メーカーも金融もIT系もベンチャーも公務員も、当たり前にいますよ。

偏差値の高い高校に行って、よい大学に入って、一流企業に就職して、定年まで働く、というのが日本でエリート・コースといわれるものだと思う。しかしこの型にはまって道を進むのが向いている人もいれば、性に合わない人も多くいるだろうし、そんな中で全員に同じキャリア教育をするのは、個人の長所をつぶすことになりかねないと思う。
・・・> 同じキャリア教育→同じ方向を押しつける、というイメージで捉えていると思うのですが、そうではありません。教育プログラムに決まった「正解」があると思い込んでいませんか。その発想を崩すのも、キャリア教育の重要な役割です。

日本などの先進国は経済が発展しきっている。そこで今後は、量的ではなくいかに質的な成長をさせるかが鍵となってくる。そこでキャリア教育のあり方が問われる。「大企業に就職した人の中で、優秀な人たちほど何年か経ったあとで独立する」と聞いたことがある。最近ではベンチャー企業が多いとも聞くので、従来のような、大企業が社会全体の成長をリードするという構図ではなく、ベンチャー企業が経済を質的に発展させていく形に変化してきているのではないか。

理系大学でも物理・化学とやることがまったく違うのに、就職がよい、偏差値が高いなどの理由で親の介入があって、進路が決まってしまうというのは、キャリア形成においてよくないと思った。しかし私の身近にもそのようなことがあった。たとえ就職のよい大学・学部に進学しても、その分野に興味がなく熱心に学びに取り組むことができなければ意味がないと思う。だから中等教育段階で過保護な親の介入なしに進路を決められるようになるのがよいと考える。中等教育までの学びが社会に応用されることがほとんどない、ということは、中等教育までの教育は、幅広い分野を学習してパーソナリティや関心を得ることが目的なのかなと思った。

従来のキャリア形成モデルは、現在を固定化されてしまっていると思う。実際私も早稲田に入れば将来自分の好きな仕事に就けると思っていた。しかし今になって自分の興味のある仕事は何だろうと考えたとき、専門学校に通えばよかったかなと思うときもある。その原因は、キャリア形成モデル(いい教育→いい企業)を信じ込んでいて、それを当然だと思い込んでいた中学校時代の考え方にあるだろう。これを信じて通っている学校での教育が、もし無意味ですぐに役立たなくなる(科学・技術の発展によって)のであるならば、ここでの学習が直接将来に役立つのだろうかと疑問に思う。

本来、キャリアの形成において最も重要なのは、それがその人にとって「好きな分野であるかどうか」であるはずだ。そのため教育においては、生徒間の平等よりも個人の得意な部分を伸ばす必要があるはずである。日本の受験勉強が実践的な学びではなく、ただの暗記になってしまっているのがその表れだと思う。生徒間の能力を平等にするために暗記が中心になる、というが、それは結果として実践的ではない人材を生むことになり、社会全体の労働者のレベルを下げることになるとも考えられる。実践的な能力の高い人が受験で失敗したりすると、本来有用な人材が社会にうまく適応できなくなることもありうる。「平等」よりも「個人の力」を重視したキャリア教育のプログラムが必要だと考える。

 

いままでの自分の経験と、親からいわれていることで、今後の自分のキャリアや就職について知ったつもりになっていると勝手に思っています。ですが、今回の学びを通して、さらに深め、高等教育で広がるであろう視野とを掛け合わせて自分に合ったキャリアを見つけたいと思います。

高校生の段階では、理系に行きたいか文系に行きたいかくらいしか将来が見えていないと思うが、将来やりたい仕事は学習していく中で変わると思うので、それでもいいと思った。

価値観が広がったり、従来は認めてもらえなかった「職」も多数あったりする。そんな中で、何をキャリア教育の結果、成功として考えるのか、定まらなくて難しい。

中学生のときにワーキング・ウィークというのがありました。そのとき私は市役所に行きました。しかし大したことはしませんでした。はたしてキャリア教育をする必要があるのか、来週までに考えます。現時点では、私はキャリア教育なんて必要ないと思います。やりたい専門分野が決まっている人には効果的かもしれませんが、そうでない人にとっては、専門分野を押しつけているようにしか見えないからです。

キャリア、将来について若いころから考えて行動することは、正しくないと考える。小・中・高は、学校での授業や生活を通して自己を確立し、人間関係について学ぶべきであり、それらの経験が結果的に将来のキャリアにつながる。すぐに社会に出ない人やニートが存在するのは、小・中・高と満喫せずに大学に入ってしまったからなのではないか。これらの点を踏まえて、来週のディスカッションに備えたいと考える。

建前として、あるべき世の姿は学歴よりも個人の人間性の豊かさを重視する体制だと思う。しかしこれを「建前として」と書いたのは、実際世の中は学歴社会であるし、早稲田に通っている私自身も一種のステータスのようなものを感じている。学歴というのは、自分のもっている実力というものを、わかりやすく可視化できるものなのかもしれない。学びはある程度決まったプロセスがあり、それにのっとって努力をするだけといえば単純なものに聞こえる。就職(それを結局はゴールと考えるとして)において勝負できるものを身につけるために、人とは違う何かを求めると思う。人とは違う、その何かを生み出すのに、いちばんわかりやすく、ある程度努力が結果を出す保証が、学びと、そして学歴を追求するのではないか。そして、これにおいて塾や家庭教師などお金をかけることもよい結果に到達する一種の手段ともいえる。学歴は、すべてはビジネス(就職するという意味でもあり、そのための課金という意味でもある)のためといえるのではないか。そう考えると、やはり学歴を重視しないというのは、もはや不可能なのだと考える。

私自身も、高校生までしか経験していませんが、自分のいままでの進路について正解であってほしいと思ってしまうし、いままで学んだことについて否定されるのはあまり快く思えない部分があると感じた。しかし理系分野では有用性があっても日々アップデートする技術についていくことができなくなり、文系分野ではそうした変化を見通す力をつけられるにもかかわらず依然として経済成長モデルのような大学生活を過ごして、そのような力が欠けてしまう。キャリア教育の方向性と実際の社会との差について調べ、自分の考えを整理して臨みたい。

 

学校で教わってきた社会科は、どちらかといえば歴史に近いような、ただの暗記物であり、テストが終われば一気に知識が抜けてしまうようなものでした。キャリア教育は、この暗鬼を現実の世界に応用して考え、自自分や社会のあり方を考えるものなのだと思いました。材料を用意し、自分の考えをもって話し合いに参加できるよう、準備していきたいです。

普段から、試験用に学んでいる「社会」は固定的で図式的だと感じており、本音をいえば、よい点数を取るために暗記している、というのも事実だ。どのようにすれば本来学ぶべき社会を学び、自分の生き方を見つけられるのかがわからない。安易な発想で見つけられるのであれば、きっとすぐ実行されているだろうと思う。しかし今の私には見当もつかないため、来週のディスカッションを通じて少しでも導き出せればと思う。個人の意見としては、本来学ぶべきものは学校の授業ではない、授業外の部活や、人間関係を通して学んでいるのではないかと思う。実際そのような授業外のものが私たちの成長につながっているのではないか。データがあれば調べていきたい。

キャリアの形成には、自分自身を見る眼が必要だとされていて、それらを社会的な流行や親の介入によって操作されているという話があった。しかし大学での学びやキャリアの形成において「親にいわれたから」と主張する人はむしろ、自分が自己決断しないことの正当性のために「親」を利用しているのではないか(自戒でもあります)。また公民で学ばれる「社会」が実際の「社会」とはなかなか認識されないというのは、「社会」が可変的で、また個人の考えによりやすい学問であるからだと思う。これ自体はよいことであるはずだが、先生側で政治的な発言や個人的な考えを制限されているからだと思う。生徒側が個人的な考えと、授業で扱う普遍的な部分について個人で判断できるようにすることも必要だと考えた。

私は、中学校・高校と公民や政治・経済の授業を受けてきたはずなのに、社会のしくみについてわかっていないことだらけで、先生がおっしゃっていたとおりの典型的なタイプだとあらためて実感した。次回の授業ではしっかり自分の意見をもって発言できるようにしたい。学歴は、よい大学を出ていれば長くつきまとうものであり、周りからの期待も大きくなると考える。しかし中堅大学などは、就職してから学歴としてつきまとうものではないのではないかと考える。学歴はあっても働いているのはその人自身の人格と能力によるものであり、学歴によって人を判断するのはどうなのかと考える。このことについてもっと自分の考えを深めたうえで次回に臨みたい。

キャリア教育を実施するにあたって、いろんな先生が「自分の興味・関心を知ることが大事」だというけれど、その興味・関心がそもそも見つけられず、見つけられたとしてもキャリアとなかなか結びつけられなかったりするのが現状なのではないかなと思いました。そもそも明確なキャリアを中高生のときからしっかり見据えて、それを実現させた人は少数だと思うし、中・高〜就職の6年で社会も自分も大きく変化していくのだから、そのうちに興味・関心が変化することだってよくあることだと思います。自分のやりたいことが明確ではないうちに「適当」な会社に就職して、そこで「それなりに」がんばるのが、いまの社会のマジョリティになってしまっているのではないだろうか。

 


開講にあたって

当科目は公民科に属します。高等学校の公民科は、現在のところA現代社会、B倫理、C政治・経済の3科目から成っており、Aのみ、またはBCの履修と単位修得が高校卒業の要件になります。これは各学校で定めるのではなく国の法令なので厳守しなければなりません。本庄高等学院がBCを採っていることは経験上おわかりのとおりです。ところが20183月に学習指導要領が改訂され、2022年度入学生からは「公共」という新設科目が全員必修となり、倫理と政治・経済は科目名こそ変わらないものの選択扱いとなり、しかも探究科目という位置づけに変更されます。現在の理科で、物理基礎、化学基礎など「基礎」のつく科目がゲートウェイとなり、物理、化学といった科目が本格的に内容を深めるという構成になっているのに似ていますが、探究というからには課題について関心を深め、思考を自ら掘り下げていくような能動的な態度が求められることになります。小中高の全体を通して、受身で他律的な学びへの反省から、主体的、対話的で深い学びが求められるわけですが、その最後の段階にあたる高校23年生では探究科目をたくさん設定して、知識を得ることはもちろんですが、学び方を学び、視野を広げ、学校を卒業してからの長い人生でさらに学んでいくための構えを身につけることに重きが置かれるようになります。

前述のような国の方針は、グローバル化する世界情勢やそこにおける日本の産業とのかかわりが非常に強いものですが、生徒たちはもちろん少なからぬ教員にとっても「上から一方的にいわれた話」であり、長年のしくみや習慣を変えることへの反発や拒絶反応があちこちでみられます。ことに、学習というのは試験で点数を取る(そして上級の学校に合格する)ためのものだと信じて疑わない人にとっては、いまさら能動的に学べといわれても困るのでしょう。しかし、世界情勢や政府の方針の是非は置いておいて、学びは能動的なほうがよいに決まっているし、探究はするほうがよいに決まっています。そのよさを知れば、受身で他律的な学びに戻りたいとは思わなくなることでしょう。さらにいいますと、社会科というのはもともと知識の詰め込みでも暗記でもなく、まさに探究するために設定された教科でした。国家やおとなにとって重要なことがらを詰め込み、暗記させ、むしろ思考させないようにしてしまった戦前への反省から、1947年に学びの大転換を期して新設されたのです。それがいつしか社会科こそ知識偏重、詰め込み暗記の元凶だとみなされるようになってしまいました。社会科・公民科を長年指導してきたひとりとして、その現状が残念で仕方ありません。ですから私は常にアクティヴ・シンキングを生徒に求めてきました。知識は詰め込むものではなく使うものです(暗記するくらいならフォルダかクラウドに入れておきましょう。あるいはAIに任せましょう)。当科目では、現代社会を覆う大きなテーマ――人権保障、軍事・安全保障、交通・都市計画、社会保障、食料問題、エネルギー政策などなど――を提示し、公民あるいはその他の教科・科目の知見をどこにどう当てはめて思考することができるのか、を実際にやってみようと思います。正解はあるようでなく、ないようであります。探究型で学ぶとどうなるかというのをみなさんに経験していただきます。探究型と一口にいってもさまざまな形態やプロセスがあります。教育技術みたいなものに凝りすぎても仕方ありませんので、そこは気楽に構えて、しかし

ものごとの上っ面をなぞり、もっともらしくまとめる
政府や経済界や教師が喜びそうなことをいう
「みんなで考えましょう」「バランスをとりましょう」といった紋切り型に走る

ことを厳しく戒めていきたいと思います。「考えて、話し合った結果わからなくなった」くらいのほうがよいと思います。専門家のおとながあれこれ考えて正解がわからないのだから、そちらのほうが普通なのです。探究型のひとつの特徴であるオープン・エンドを、前向きに援用していくことにしましょう。


 

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