古賀毅の講義サポート 2020-2021

De Société contemporaine I: Éducation civique que nous recherchons ver.3.0

人文社会科学特論(現代社会論 I
:探究するシヴィックス3.0 

早稲田大学本庄高等学院 3 (文系必修選択科目)
金曜 12限(9:10-11:00)  教室棟95号館  S205教室   

 

 

 

 

 

 

講義サポート トップ

 

202011月の授業予定
11
6 社会変動と倫理(1)IT化の進展と情報倫理
11
13 社会変動と倫理(2):サイエンスと軍事利用
11
20 社会変動と倫理(3):生命のはじまりとその動揺
11
27 社会変動と倫理(4):生命の終わりとその動揺


■■次回は・・・
22-
社会変動と倫理(4):生命の終わりとその動揺

科学・医学の発達に伴って、「神様マター」だったはずの生命のはじまり(birth)がぐらぐら動揺してきました。同じように、生命の終わり(death)もまた、容易に結論を出しがたいほどの問題を提起しています。生き方や死に方はそれなりに選べるが生まれ方は選べない、というのが私の基本姿勢だと申しましたが、実は死に方についても当人の意思を超えたところになりつつあります。正気を失って、意思や意識を確認できない状態が長くつづき、もはや回復の見込みがないというときでも、現代医療は少なからぬ場合、生命体として生かしつづけるだけの技術をもちます。家族としては、大事な肉親を1秒でも長く生かしておきたいという思いでしょうが、同時に自分たちの意思・判断で生命を終わらせるということは(いくら回復不能だとしても)避けたいという心情もあることでしょう。

生命倫理bioethics)は、そうした死の問題も重要な主題として提起します。よき死というのがよき生につながるという議論が、哲学や倫理学、あるいは文学などの方面で古くからあります。その前提にあるのも、生き死には自分の意思や人間の知恵でどうにかできるものではない、という人間観であることはいうまでもありません。もとより科学・医学が発達したところで、死んだ人をよみがえらせるということはなく、その日を遅らせたり、痛みやつらさを緩和したりというのが(今のところ)せいぜいなのですが、それでも人間は生に執着するものですので、使える技術があるのであれば使いたくなりますし、家族のためにというのであればなおさらそうした判断にもなります(世間からどう見られるかという問題もあります)。

ここ数世代のあいだで、科学・医療技術の進歩と死生観というテーマに最大の動揺をもたらしたのは脳死・臓器移植問題です。死亡の判定は呼吸・瞳孔・脈拍というところでみるわけですけれども、現代の技術は脳波をモニターすることが可能ですので、それら全体をみて死亡を確定させます。ただ、確率的には多くないのですが、脳が機能を停止しても心臓がしばらく動く、というケースが起こりえます。これが脳死で、心臓が動いているから臓器にも酸素や栄養が送り込まれ、なお「生きている」状態を継続させます。そうであれば、そのタイム・ラグを使って脳死者の体内から臓器を取り出し、自分の臓器では生を継続できないような人に移植してはどうか、ということになったわけです。具体的な場面を考えればわかるように、脳死・臓器移植問題は、医療技術だけでなく通信や交通、コンピュータなどさまざまな分野の高度化がなければそもそも起こりえないものでした。そして、いつものように、人間の知恵と技術でできることであればやってよいのか、という倫理的な判断を迫られます。脳死・臓器移植問題では、ドナー(臓器提供者)とその家族、レシピエント(移植を受ける人)とその家族、そしてどちらとも無関係の第三者と、その人の立場によって見解や判断が分かれる(揺れる)のが普通です。また、生命のはじまりのケースと同様に、その人の宗教観や倫理観によっても変わってきます。正解がない問いを、やはり限られた人だけが突きつけられるというのが現状ではないでしょうか。

順当に行けば、みなさんはまもなく大学生になります。そして成人を迎えます。社会人になる日も遠からずやってきます。世の中に「正解」というものがあるとどこかで信じているのかもしれませんが、真に人間としての値打ちを問われるのは、正解のない問いに直面するときであり、それは当事者でなくてもそうなのです。当事者になって初めて気づき、わめき騒ぐのではなく、第三者でいるときから問題の所在をつきとめ、自身の頭で思考すること。それは上書き、更新されて考えが変わるかもしれませんが(それが普通です)、そういう年齢にさしかかっているのだということをそろそろ覚悟しましょう。生きているあいだに、現在は存在しない技術が生み出され、また新たな倫理的課題を突きつけられることは間違いありませんので、そのときへの構えをつくることでもあります。

 

REVIEW (11/20
*文意を変えない範囲で表現・用字法を改めることがあります

<当欄をごらんのみなさまへ>
今回「生命のはじまりとその動揺」と題して、生殖医療や出生前診断、代理出産といった問題を、高校3年生の授業で扱いました。以下は受講直後の生徒のレビューです。高等学校では、このテーマは高度かつ繊細な問題を含むため、まっすぐに取り上げることを避けたり、単語を並べるだけで深めることを回避したりする傾向があります。しかし私は、当該クラスの生徒の学習傾向や能力、これまでの信頼関係などをもとに、この時期における真摯な議論・考察が適切であると判断し、今回実施しております。生徒はまだ1718歳でありますし、このテーマについての学習経験が浅く、知識や理解に不十分な点もあるため、偶然に、ないし意図をもって当欄をお読みくださっている方の中には、お立場やご事情から、不快感や怒りをおぼえることもあるのではないかと思います。しかしそれらは私の指導力と、授業の企画に帰するものであり、掲載した文字に関する責任は私に属するものです。未熟で経験の浅い高校生が、しかし人生の本質的な部分にかかわって思考し、テーマと格闘した点をご評価いただければ幸甚です。(古賀)

 

事前に知識をつけ、意見をもって臨んだつもりであったが、とても重い内容であった。地球上に誕生していない、まだ母体内にいる生命は、すでに地球上に生きている人間によって殺されることがある。これは遺伝上の父や中絶に同意を与えた人だけでなく、社会制度や風土など、社会全体が大きくかかわって起こる問題である。生命倫理の問題は現代の教育では学べる機会がとても少ないが、自分が当事者でないとして他人事として考えるのではいけない。今回考えきれなかった部分も含め、次回も準備して授業に臨みたい。

科学は大きく発展し、これからも考えられないほど大きく発展するだろう。しかし問題なのは、開発していく側の人々だけが先行し、それを利用するだけの側が無知であることだ。生命にかかわる問題はとくにそうである。目先の問題を解決するために、生命倫理というものがどんどん失われていくのではないだろうか。何が問題なのか、社会制度などからも考えていくべきではないだろうか。

不妊治療や出生前診断をめぐる議論は、生命の誕生に対するそれぞれの倫理観や立場にもとづくものにすぎないと考えていました。しかし、その議論には自然と社会的事情が介入するので、技術の発達や晩婚化、少子高齢化といった社会の変動とともに考えつづけていく必要があるとあらためて思いました。最終的には「生命」について考えるうえでは、正しい知識をもとにして得た倫理観が基本になります。教育が大きな意味をもちますが、個人個人の倫理観によって社会の動向が変わっていくのだと思いました。

高校を卒業してすぐ、またはそれよりも前に結婚して子どもを産んでいる人もたくさんいる。そのような人々は大学に進学しないことを選択していることが多いので「低学歴」といわれる人が必然的に多くなる。大学を卒業し就職するような「高学歴」といわれる人から見ると、無責任だと感じたり、大学へ行かない人はだめだと思われたりする可能性もある。実際私も高卒で親になるのは子どもの学歴にも影響があるのではないかとか、経済的に子どもを育てていけるのかなど、心配に思うこともある。しかし生物学的にみれば、女性の卵子の数は年齢を重ねるにつれて減っていくので、妊娠する確率も下がる。この事実は、いまの社会情勢とミスマッチだ。高学歴化(大学のレジャーランド化?)し、大学を卒業後の23歳から社会に出て、交際し、結婚して、数年は夫婦ふたりで楽しんで・・・ とすると、30歳を超えて妊娠・出産ということも多くなった。それが一般に認識されている人生のサクセスなのではないだろうか。このような認識が変わらなければ、晩婚化や少子化という現状はあまり変わらないと思う。しかしこの問題に関しては個人の判断にすべてがかかっているので、日本国民の大勢の考え方を変えることができなければいけない。
・・・> 大学の話のときにも同じことをいいましたが、附属高等学校の生徒には「一般」的なのかもしれないけれどリアルな一般の相場とはちょっとズレているように思いますけどね。人生の「プロセス(過程)」でなく「サクセス(成功)」と書いているのは、それでよいのかよくないのか。ま、これからいろいろな人と出会って、虚心坦懐、自分側の常識をいったん引っ込めて、いろいろなことを見て、考えましょう。

不妊治療や中絶は、倫理、生物、化学、その他多くの問題が混在し、さらに当事者の所得や人種など社会的な立場や個人的な面も交じっているのに、政府はその1ヵ所を直せばよいと考えているようなので根本的な解決にはつながらないし、私も今日まで保険適用されればよいと思っていた。しかし高学歴化の傾向や所得格差、晩婚化など、さまざまな問題を改善しなければ不妊治療に駆らぬ問題の根本的な解決にはつながらない。
今回の授業で感じたのは、生命の誕生前・後の問題が複雑に絡み合っているということだ。誕生前については、そもそも晩婚化によって子どもを授かる年齢が上がっているということが挙げられる。これは社会的な問題であり、日本国民の全員に関係があるといえる。さらに「不妊」という、子どもをもちたいという意思があるにもかかわらず身体的条件からできにくいという問題もある。おなかの中で生命が誕生しても、その子どもが正常であるのかを検査する出生前診断があり、その結果をもとに中絶するかどうかという問題もある。このように、生命のはじまりにおいてさまざまな問題が起こりうる。そこには社会問題や差別などの倫理上の問題も複雑に関係してくる。一つの問題の身を取り上げて考えることができないように思える。

子どもを産む、産まないという選択をするときには、必ずモラルや社会のシステムも一緒に考えなければならない。不妊治療に保険適用することには賛成だが、この類のテーマを政治家たちが避ける傾向にある以上、環境は改善しないと思う。海外で、政府が積極的である国のケースを知りたいと思った。

菅総理のいう不妊治療への保険適用は、子どもができなくて苦しんだ人を見てきたことがあるので、とてもよい政策だと思うけれど、「産みたくて産めない人」よりも「産めるけれど産まない選択をしている人」に産む選択肢を与えるほうが、子どもは増えるのではないかと思いました。

フランスでは合計特殊出生率が2を超えているとおっしゃっていましたが、先進国なのに数値が高いのはなぜなのか気になりました。政府が何か助成をおこなっているのでしょうか。それとも日本など他の先進国と比べ、初婚年齢や初産年齢が若いのですか?
・・・> フランスは人権概念の発祥の地(のひとつ)であり、そのことへのプライドが国民意識として共有されています。女性の権利ということにもかなり敏感です。ただ、そこには微妙な問題もあって、女性の相続権が長いこと認められなかったことで、かえって事実婚が常態化し、「入籍」しないのがデフォルトになりました。女性が相対的に自立していますので、パートナーをもつ、同棲する、子をもつ、という判断においても、対等ないしそれ以上の主張をするというところでしょう。さらに、米英などが新自由主義政策に移行する中で、フランスは全体として再分配的な政策を崩さなかったため、政府や国家・公共部門への信頼が厚い国でもありました(このところ崩れてきています)。出生率が1.5に近づきつつあった1990年代以降、当時としてはかなり画期的だった男性の育児休暇制度を導入、これは実態面よりも政策理念的なメッセージとして広く共有され、出生率の回復に寄与しました。また欧州にオリジンをもたない移民系が増えて、その層の出生率が上がったことも全体の引き上げに貢献しました。ただ、やはりというか都市部とくにパリ首都圏などの出生率は低く、さらに2018年以降は全仏でも率が下がって、いまは1.9を少し割り込むくらいになっています。この先がどうなるのか、フランスの専門家のひとりとしても注視しています。

不妊治療においては、医学的な観点と社会的な観点では適切な時期が異なるというが、子どもをつくりたいと強く考えている人には、その機会が均しく完全に与えられるべきだと思う。そのため、早期からの不妊治療で、より高度な技術を適用することで、「少数派の苦痛」という問題が少しでも減ってほしい。


※写真は本文と関係ありません(以下同じ)

 

私は、普通かもしれないが、結婚して子どもを産みたい。20代で産むのが夢であるが、実際の社会的なことや経済力を考えるとそれは難しい。そうなると30代となる。身体的に衰えがみられる年齢で子供を産むとなったら、妊娠できないのは嫌なので、不妊治療を受けるだろう。それは2人の子どもという純粋なものではなく、その行為に重点が当たっているような気がしてしまう。いつしか機械的作業になってしまうのではないか。でも私がそうなったとき、あきらめることはないとも思う。「神様のおくりもの」でなくなってもいいとすら思ってしまう。

不妊治療の技術的発達と普及は明暗をもたらしたと考えられる。高学歴化が進んだため初婚年齢や妊娠する年齢も上がっている。そうなると、授かりたくても授からない問題が生まれる。しかしその時期に不妊治療をおこなっても遅い場合が多い。社会は、少子高齢化だからと子を産むことを求めたり高学歴を求めたり、われわれは何に重きを置いて生きればよいのだろうか。自分の幸せを求めたうえで選択しても、不妊により希望がかなわなかったり、そこからすべてが崩れてしまうのだろうか。不妊治療がうまくいけば最高であるが、うまくいかなかったら最悪(人生の設計が崩れる恐れも)である。
・・・> 誤解はなさっていないと思いますが、3040代になると「よろず授かりにくくなる」のではなく、授かりにくかったときの対応がより難しくなる、ということですね。3040代で順調に妊娠・出産されている方がかなりいらっしゃいますし、私の周囲もそういう方が多いです。また、最高・最悪というのはちょっと極端のような気もしますよ。あと数年したらみんな経験することになると思いますけれど、人生って、学生時代に思い描いていたようにはたいてい進みません。思いがけない苦しみも、思いがけない、予想もしないような喜びもあって、だからおもしろいのです。設計どおりに進む人生なんて不幸かもしれないよ。

妊娠しにくい体であるという人はほとんどいないと思っていたから、子宮の中でもさまざまな場所で正常に機能しないということがありえるということを知った。自分が子どものできにくい体であった場合、パートナーにそれを告げるのはとても勇気のいることだと考える。子どもが欲しくて結婚する人、結婚したら子どもが欲しいと考える人がほとんどなのではないか。だから、子どもができにくい体だと相手が知ったらどう思うか、捨てられるのではないかと考える人もいるはずである。結婚する前に、自分が妊娠しやすい体かどうかを調べることを勧めるのがよいと考える。互いに理解を得たうえで結婚するのがいちばん安心だ。もし自分ができにくい体だったら不妊治療を受けると思う。パートナーとの血を受け継いだ子を産みたいと思う。結婚して何年後かに自分の体のことを知るより、私だったら先に検査して、産みやすいかどうかを調べたい。

医療技術の進歩によって、前よりは生命の誕生について人間が操作できるようになっている。出生前診断や不妊治療など、手段があるから実行し、精神的・倫理的な問題を抱える事態になっていると思った。しかし親になる人はだれしも、五体満足で健康な子どもが欲しいと願っているのではないでしょうか。胎児の状態を調べて、最適な分娩方法や出産後の対応を検討するための出生前診断であるとしても、もし陽性反応が出たら、いまの私は育てる意思をもてるかわかりません。また子どもを産んでも疾患によってはすぐに亡くなってしまうケースもあるみたいです。そのときの精神状態を考えると、非常に難しい問題であって、いますぐには答えることができません。母体保護法に規定されていること以外の、望まない妊娠による中絶はあってはならないと思います。男女ともに育てる責任感をもつ必要があります。生まれてきてくれることが、妊娠そのもの自体が奇跡であることを理解しておかなければならないと思います。この生命のはじまりの問題は、一生かけて考えていくべきことだと思いますが、「生命を選ぶこと」をしてしまうのなら、現時点の私は、出生前診断をしないほうがよいという結論です。

もし自分が女性で妊娠してしまって流産しなかったら怖いと思った。だから知識がないときに性行為をするのはいけない。しかし知識を身につければつけるほど警戒心が強くなって、少子高齢化につながってしまう。子どもを増やすためには、女性の卵子の数が多いうちに子どもをつくらなければならない。子どもをなかなかつくれない人は不妊治療をして子どもを得ようとするが、うまくいく確率は低い。この問題について詳しく触れることができて、すごくいい機会になった。正直、体が動かなくなるほどのテーマだと思った。
・・・> そうね、現時点(高校3年)であっても、もうちょっと知識があったほうがいいでしょうね。「流産」の意味をたぶん誤解していますし、「子どもを増やす」ということの主語が何なのか(当人か、社会か、国家か)をわかっていないような感じも見て取れます。これから大学生になりますので、同世代の学生と対等に議論できるくらいにはしておきましょう。

非常に重いテーマだと思います。出生前診断で、生まれてくる子どもが何かしらの障がいをもっていると知ったとき、その子どもをどうするか決めるのは、おなかの中にいる子ではなく、産む母親あるいは父親だ。胎児に人権はあるのかないのか、その答えは出すことはできない。胎児は命をもっているが、感情や判断能力をもっていないからだ。

出生前診断によって、胎児が健康であるのか障害をもっているかを知れるようになったことで、最適な分娩方法や出産後の対応を検討できるようになった。これは明らかに科学の進歩であり、妊婦さんにとってプラスの面もある。しかし胎児異常が見られ中絶に至るケースを引き起こしていることも事実である。胎児にも権利はあり、中絶は殺人であるという意見は最近よく耳にする。たしかにひとりの生命を人工的に奪うことは倫理上適当ではないと思う。しかし母親にも子どもの数や、産むかどうかを選ぶ権利はあり、中絶を選んだ両親が精神的に問題を抱えてしまうことも多い。このことから私は、中絶という選択に責任があるのは社会制度だと考える。両親への十分な説明や精神面でのケアをおこなうこと、「経済的に育てることができない」という基準を明確に設けることなど、両親の負担を減らすことと法整備によって、少しでも中絶で失われる命が減るのではないか。排卵誘発やES細胞でも、本来生きられるかもしれない命が奪われている。こういった問題にも目を向ける必要があるのではないか。

本来、産んで初めてわが子の姿を見るはずであるが、いまではおなかのなかにいるときから性別も顔もわかる。このような技術の進化が妊娠・出産を身近なものにし、さらに産むか産まないかの判断までさせるようになってしまったのではないだろうか。技術の進化が、さらによい子を産みたいという人間の「欲」に使われるのは間違いだと考える。どんな子が生まれるのか、安全に産めるのかが気になるという欲のために、技術が生まれ、使われ、進展し、さらに生まれてくる前から子どもに手が加えられるという状況になれば(体外受精などもそれに含まれるのでは?)さらに人の欲が出てきて、人の命の誕生を軽んじてしまうのではないだろうか。妊娠の「手軽化」は、多くの人にとってよいことのように見えるが、人類のはじまりと比べてしまうと、人の命の誕生が手軽化していて、すばらしいもの、神聖なものとして捉えられていないのではないかと思う。

 

妊娠中絶に対して、誰が責められるべきなのかと先生が問いかけていた。私は、社会慣習が責められるべきだと考えた。そもそも「胎児に障害があるから」「母体が若いから」などの何が問題なのか。障害をもつ人が差別されてしまっていて、「障害=つらい」という価値観が植えつけられてしまっているからこそ、中絶という選択肢が出てきてしまっているのではないか。障害をもっていても幸せを感じるし、障害をもつ子が生まれてくることに対して抵抗するのは、障害をもつ方に失礼だと思う。またSNS等で若いお母さんが写真などを投稿すると、「若いくせに」「責任取れないくせに」などとたたかれる。若くてもきちんと稼いで人に頼らず子どもを育てている人もいるし、たたく必要はないのではないか。たしかに命の大切さをわからず、後先考えずに妊娠させた父や母には問題があり、責められるべきだ。しかし全体的に考えると、まず社会慣習を抜本的に変えるべきではないか。
・・・> 後先考えずに、とありますが、性や生殖に関する教育がこれほど不十分で、教育しようとすると横やりや圧力が入るというような社会風土のことも考えておかなければなりません。女性側が性的な自律性を十分にもっていないことも考えるべきでしょう。人工妊娠中絶が起きやすいのは1020代と、もう1つは40代です。若い時期のやんちゃな行動が望まない妊娠をもたらすだけでなく、男性と女性の不一致(10代の男性はどうしても性衝動優先になりやすく、女性側は「嫌われたくない」「彼氏が大丈夫だっていっていた」という非論理的な判断に陥ることがある)も指摘されます。性感染症(STD)の問題なども同根かもしれません。これだけ性が商品化されていれば(しかもインターネットという悪魔の増幅装置があれば)、多少教育を受けたくらいでは停めることが難しいのではないでしょうか。最近は漸減傾向ということですが、40代では、妊娠の意思がないのに避妊せず、結果的に中絶ということが結構あります。夫婦間が性において(あるいはその他の意識も)対等でないということの現れといえます。

誰が責められるべきなのか? 「風土や民族性」に示される社会のあり方に、すべてとはいえないが、責任がある。障がいをもつ胎児を中絶する理由に、「産むのは親のエゴで、障がいをもって生まれてくる子どもがかわいそうだ」というものがみられるが、批判的にいってしまえば、出産はすべて親や社会のエゴであるといえるため、言い訳のように聞こえてしまう。また「かわいそう」という概念がずっとあるのは、障がいをもつ人にとっては不自由で暮らしにくさをもたらす。障がいをもつ人がマイノリティとして差別されている社会であるからである。いくらバリアフリーからユニバーサルデザインへの転換があっても、町の中にそのようなサービスや工夫があふれていたとしても、人々の中の意識があまり変わっていないのだと思った。障がいをもつ子の中絶を認め、ダウン症の新生児がゼロであったという国があるそうだが、そのようにまるで「達成した」かのように数字を報告するのは、優生思想の極みであり、倫理観の欠如であると思う。そのような優生思想の中では、「望まない妊娠」の「望まない」の範囲が拡大し、優生保護法のような恐ろしい概念がまた生まれてしまうと思った。その意味でも、出生前診断は中絶を軽視するようなものであり、絶対にこれ以上デフォルト化させてはいけないと思う。

その時々の社会状況に合わせて、生命が誕生する機会を法などで調整する、というのは、決してあってはならないことだと考える。妊娠中絶が経済的な理由や暴行などの理由以外でおこなわれていることが、個々人の問題のようにされているが、実は政治が優生保護法などの法律をつくって、そういう風潮をつくり出した結果なのではないか。今後クローンなどがつくられるようになってしまったら、命の重さが変わり、倫理的な問題が増えるのではないかと考える。

人間の技術が「神の領域」を侵犯し、生まれてくる前から生命が差別されつつある、という事実を知って恐ろしくなった。「できることなら」優良な子が欲しいという気持ちはわかるけれど、この世界に染色体異常で生きている人がいる以上、やはり中絶することも、不妊治療の過程で優良な受精卵を選ぶことも、してはいけないことだと思った。ヒトクローンについては議論がなされ、いまは禁止されているのに、これらが許されているというのは少しおかしくないか?

スターターのみなさんは中絶反対で一貫していた。これに一つ疑問をもったのが、たとえばある人が、健康な子が欲しいのに障害をもった子を産んだら、これははたして子どもにとってよいことなのだろうか。胎児の権利のために「望まれない子」として生まれる、その子どもは、はたして生まれて幸せになれるのだろうか。(これは優生思想?) 先生が授業中に、これは神様マターにしたほうがいいと話していたが、それはつまり、このような問題は着地点が見つからないもの、ということになる。であれば、いっそのことこれ以上の技術の発展(出生前診断や出産に関する分野)は止めるというのも、一つの方法だと思った。

人工妊娠中絶が法的に認められたとき、社会的に何か反対運動が起こったか?
・・・> 優生保護法が成立した当時はむしろ「前進」と受け止められましたし、社会的な運動を起こすような側が支持しました。時代だと考えてください。戦前の日本では、民法でも刑法でも男女の不平等性を有していましたし、「家」制度というのが前提でしたので、女性をそうしたしがらみから解放することでもあったのです。

 

代理の母になることを望む人はいるのか・・・。頼みたいと思う人はいるかもしれないが、その代理となって、約1年間子どもを抱えて、産むところまでゆくのは大変である。しかも生まれた瞬間に、親に子どもを引き渡すのである。とても残酷であり、その事実を子どもに伝えたらどう思うだろうか。子どものできにくい体の人にとっては一つの方法かもしれないが、とても理解しがたい方法だと私は感じた。技術の発展はすばらしいが、それが人間にとって残酷な選択肢を増やすのではないかと、この授業を通して思った。

代理出産は一定数の女性に希望を与えるものであり、非常に有効なものであると思うが、その実施についてはかなり慎重にならなくてはいけないと考える。代理出産を認めたとき、代理母になる女性は経済的に苦しい状態にあることも予想されるが、この制度を利用した女性の売買が、たとえ日本であっても起こりうると思った。一定数の女性に希望を与えるために、一定数の女性に恐怖を与えてはいけないものだから、これについては政府がかなり厳しい規準をつくる必要があると思った。

私は、生命の誕生は「神様マター」であるべきだと思いました。まだまだ妊娠・出産の経験もなく、不妊治療に取り組む当事者の方々を否定したいということではないですが、生命は「一回性」と「偶然性」があるから奇跡的であるのだと思います。子宮の臓器移植の話題のところで、もしそれが可能になったとして、移植された人は拒絶反応を起こさないように一生薬を服用しなければならないし、さらには免疫力が衰退して自らの生命すら危うくなるという話がありました。これを聞いたとき、たしかにある人々にとっては希望となるけれど、そこまでする必要はあるのか? それで生まれてきた子どもは事実を知ったら責任を感じてしまうのではないか? と思ってしまいました。生命の誕生は、母子ともに幸せであることが大切なのではないかと思います。

優生思想という言葉を知って、健常者である私たちは日ごろからこの考えを無意識にもってしまっている、ということに気づいた。この話題は決して本人だけでなく社会全体の問題であることを実感した。

 

「神」の領域にあったものが、科学の進歩によって、人間の手を出せる領域が広がり、検査の確実性が上昇して、それまでは「与えられるだけ」のものであった新たな生命を「選び取る」ものとしてしまった。選び取る優生思想は本当に子どものためなのか。障害がある(可能性がある)子どもを育てたくない親や社会の独りよがりを、「子どものため」として押しつけているだけではないのだろうか。

いままで神様マターであった生命の誕生だが、サイエンスの発達によって人間の力でおこなうことが可能になった。希望を得る人が出てくるようになった一方で、絶望を感じる人がいることも否めない。神様マターであった時代は、後者のような人々は存在しなかったが、サイエンスの発達に伴って絶望を得る人がいることを考えると、サイエンスと幸せについて、深く考える必要があると感じた。

自分が思っていた以上に科学が進んでいて、進みすぎていて、倫理が追いついていない感じがしました。
科学の力は、人間を救う力であると同時に、人間の優劣を決定づけてしまった。私の予想ではあるのだが、科学がさらに発展していけば、生まれる以前に、この子は頭がよい、運動ができる、さらには誕生後の顔立ちまでわかってしまうようになるかもしれない。そう考えると非常に恐ろしく、生命倫理が破綻しそうな気がする。

生命倫理の対象が、想像していたよりも広かった。不妊治療の段階で生命の可能性をなくしていることもある、ということには驚いた。問題が複雑に絡んでいて全体像を理解できないままに生きていくことは恐ろしく、適切な知識をもちたいと思った。

マジョリティ側の前提とその結果が気持ち悪くて、まず根底から考えられなかった。菅首相の保険適用政策も、少子化と経済のことしか考えていないと思ってしまう。不妊治療している人から見ればありがたい政策でも、そのニーズとはもはや正反対(子どもが欲しいという感情と子どもを産むことを前提に、その後の子どもの成長後まで考える経済論)だと気づいているのだろうか。望まない妊娠でも出産が義務づけられるアメリカの州法も、何を目的としてつくられたのだろうか。子どもがかわいそうなんて意見は当たり前に受け入れられない。性犯罪者を許して、望まない妊娠に対する中絶を許可した意思を重い罪に問うことがあるなんて、よく許されたなと思う。偏見込みでいえば、「どうせ」男か、少数の「幸せ」に過ごしてきた女でつくったのだろう。私は、妊娠や中絶、性犯罪にかかわったことはないが、「男女共同参画社会なんて1ミリも進んでいない」という私の考え方がマイノリティである時点で、社会も政府も性に関する意識なんて変わるはずがない。夫婦ともに子どものことなんて考えないパターンもたくさんあって、子どもという存在、もはや自分自身の存在すら生々しくて怖い。胎児をどの段階で堕したら殺人であるとか、胎児に人権があるかどうか、ということではないだろう。勝手につくられた「被害者」は胎児であるから、「加害者」に焦点を当てるべきだ。堕胎罪もあってないような罪で、結局は価値観の狂った人が無責任に命を授かるから論点がずれていく。「孫の顔が見たい、抱きたい」という無責任な言葉もどうにかならないのか。すでにある身体を目的としたセクシャル・ハラスメントよりよっぽど気味が悪く、おかしい前提だ。

生命の誕生に医療技術が関与するようになっているのは、ありがたいことでありながら、恐ろしいことでもある。これは自分の立場次第というのが非常に大きい。もし私の体が正常であるならば、そもそも変わった技術は必要なく、むしろたとえば男の子か女の子を選べるなどの遺伝子操作など、なくてもどうにかなる技術にすら興味をもってしまう。しかし万が一正常でない体であったら、と考えると、非常に恐ろしい。ある程度の可能性を上げることができる不妊治療自体にはとても賛成である。矛盾した意見が自分の中に混在するが、もし不妊の可能性のある体なら、ある限りの技術や方法を駆使したい。しかしそういった技術だけでなく、中絶などの全面的には賛成できない技術もある。私は、受精卵ができた時点で生命の誕生で、一人の誕生だと思う。だから、簡単にそれを中絶して失わせるのはとても悲しいことであり、できればそのような機会は減らすべきだと考える。しかし万が一自分が子育ての適正年齢でないときに妊娠してしまったら中絶をしなくてはいけなくなると思う。非常に矛盾して、どっちつかずの考えになってしまう。総合的に考えると、やはり医療技術の発展を阻止することはできないと考えた。真の幸せというのは人によって違う定義もあるだろうから、一概に結論を出すのは難しい。そうなると、やはり数の暴力で、多数派の意見が尊重されることになる。その技術とどう向き合っていくかは一生の課題であり、どう使うかで、とても大きなプラスにも、マイナスにもなる。その選択肢を増やしてしまうこと(技術を発展させること)は、人々を幸せにすることも、深く悩ませ傷つけることもあり、はっきり二面性を持ち合わせている。まだ他人ごとのように捉えてしまう内容だったが、いつかは自分ごとなるときが来るかもしれない。非常に難しい内容だが、このように授業で扱って、この話題について考えることが、生命の重みを感じるのにもとても大事な方法なのではないか。

 


開講にあたって

当科目は公民科に属します。高等学校の公民科は、現在のところA現代社会、B倫理、C政治・経済の3科目から成っており、Aのみ、またはBCの履修と単位修得が高校卒業の要件になります。これは各学校で定めるのではなく国の法令なので厳守しなければなりません。本庄高等学院がBCを採っていることは経験上おわかりのとおりです。ところが20183月に学習指導要領が改訂され、2022年度入学生からは「公共」という新設科目が全員必修となり、倫理と政治・経済は科目名こそ変わらないものの選択扱いとなり、しかも探究科目という位置づけに変更されます。現在の理科で、物理基礎、化学基礎など「基礎」のつく科目がゲートウェイとなり、物理、化学といった科目が本格的に内容を深めるという構成になっているのに似ていますが、探究というからには課題について関心を深め、思考を自ら掘り下げていくような能動的な態度が求められることになります。小中高の全体を通して、受身で他律的な学びへの反省から、主体的、対話的で深い学びが求められるわけですが、その最後の段階にあたる高校23年生では探究科目をたくさん設定して、知識を得ることはもちろんですが、学び方を学び、視野を広げ、学校を卒業してからの長い人生でさらに学んでいくための構えを身につけることに重きが置かれるようになります。

前述のような国の方針は、グローバル化する世界情勢やそこにおける日本の産業とのかかわりが非常に強いものですが、生徒たちはもちろん少なからぬ教員にとっても「上から一方的にいわれた話」であり、長年のしくみや習慣を変えることへの反発や拒絶反応があちこちでみられます。ことに、学習というのは試験で点数を取る(そして上級の学校に合格する)ためのものだと信じて疑わない人にとっては、いまさら能動的に学べといわれても困るのでしょう。しかし、世界情勢や政府の方針の是非は置いておいて、学びは能動的なほうがよいに決まっているし、探究はするほうがよいに決まっています。そのよさを知れば、受身で他律的な学びに戻りたいとは思わなくなることでしょう。さらにいいますと、社会科というのはもともと知識の詰め込みでも暗記でもなく、まさに探究するために設定された教科でした。国家やおとなにとって重要なことがらを詰め込み、暗記させ、むしろ思考させないようにしてしまった戦前への反省から、1947年に学びの大転換を期して新設されたのです。それがいつしか社会科こそ知識偏重、詰め込み暗記の元凶だとみなされるようになってしまいました。社会科・公民科を長年指導してきたひとりとして、その現状が残念で仕方ありません。ですから私は常にアクティヴ・シンキングを生徒に求めてきました。知識は詰め込むものではなく使うものです(暗記するくらいならフォルダかクラウドに入れておきましょう。あるいはAIに任せましょう)。当科目では、現代社会を覆う大きなテーマ――人権保障、軍事・安全保障、交通・都市計画、社会保障、食料問題、エネルギー政策などなど――を提示し、公民あるいはその他の教科・科目の知見をどこにどう当てはめて思考することができるのか、を実際にやってみようと思います。正解はあるようでなく、ないようであります。探究型で学ぶとどうなるかというのをみなさんに経験していただきます。探究型と一口にいってもさまざまな形態やプロセスがあります。教育技術みたいなものに凝りすぎても仕方ありませんので、そこは気楽に構えて、しかし

ものごとの上っ面をなぞり、もっともらしくまとめる
政府や経済界や教師が喜びそうなことをいう
「みんなで考えましょう」「バランスをとりましょう」といった紋切り型に走る

ことを厳しく戒めていきたいと思います。「考えて、話し合った結果わからなくなった」くらいのほうがよいと思います。専門家のおとながあれこれ考えて正解がわからないのだから、そちらのほうが普通なのです。探究型のひとつの特徴であるオープン・エンドを、前向きに援用していくことにしましょう。


 

講義サポート トップ