古賀毅の講義サポート 2023-2024

De Société contemporaine I: Introduction aux sciences sociales à rechercher

人文社会科学特論
現代社会論I:探究への社会科学入門


早稲田大学本庄高等学院3年(文系選択必修科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館 S325教室(ゼミ室4 S222教室(ゼミ室1

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現代社会論II:グローバル思考へのネクスト・ステップ

 

20231112月の授業予定
11
10 論点としての性と性差(1):ジェンダー、セクシュアリティのいま
11
17 論点としての性と性差(2):「女子学生」の進路をめぐって
11
24 高等教育とキャリア形成:探究の先にあるもの
12
8 社会系教科の学び:小・中・高の学習を総括して

 


本年度の授業は終了しました。大学生活の充実とみなさんの健勝をお祈りします。

 



REVIEW 12/8

第二次産業が主流の時代には、発展を遂げていた(正解を導いた)欧米を見習って一本の道を進んだ日本ですが、第三次産業が主流になりソウゾウする力が問われるようになった現代では、正解は1つではなく、物事を抽象化して学び、応用したり、多面的に考えたりする必要があると思います。加えて、三種の神器から3Cを求めたり、米だけでなく豊富なおかずを求めたりするようになるなど、最低限の生活を超えて快適を求める消費社会に変化しました。そのように変化する社会に応じて最も変化する学問は社会科であると考えます。地理・歴史・公民と分野を分けて考えるのではなく、相互につながりがあるということに気づきました。また、知識を覚えることだけではなく現実に起こっていることを共に学んで知識を応用する力を身につけないと、本当に「学んだ」とはいえないのだと痛感しました。情報化が進みグローバル化した社会となり、変化が激しい現在の最前線に対応し、すべての教科や生活の基盤となる教科が社会科であると考えます。

私はいままで知識をとりあえず詰め込み、それをつなげて、つながりを考える、という勉強法をしてきたつもりだった。新しいものや制度をつくり出すことが必要とされる、移り変わりの激しい世の中で、自分の知識を使うためには、この「知識を得る」という時点で何度も反芻し、既存の知識に対し深い理解をする必要がある。先生のおっしゃる「知識不足の学院生」はまさに自分であると思った。社会科では、中学生までに受けていたものと学院で学んだものとの違いに入学当初は驚いたが、いまの世の中に必要なものだと知ることができた。社会という、自分たちの生活にいちばん結びつく教科をどこか他人事のように感じてしまうのは、自分の課題だと知っていながらも、どのようにすれば能動的に学ぶことができるのかと考えたときに、すべてのテーマに当事者意識をもつことは難しいと思った。解決のカギは、当事者意識をどのようにもつのかではなく、「当事者意識でないところで能動的に学ぶこと」ではないかと思う。

社会科の歴史などの授業は、とくに他と比較して暗記科目だというイメージが強かったが、もとをたどれば民主主義と教育を理念とした非主知主義的な教育であったということに驚いた。いまの日本は戦後と比べて豊かであり、どうしても受動的に授業を受けることになってしまうが、農業の分野で社会の知識を生かすことができたりするなどまったくの暗記ではないのだということを、あらためて思い知らされた。日本は世界の中でも豊かな国に入るが、周りの途上国を見ると、この非主知主義的な教育が当てはまる国はたくさんあるだろう。日本には教育者の問題など、社会系にはさまざまな問題があるが、日本だけを見るのではなく、視野を広げてみることも大切なのではないかと私は考えた。
・・・> 昭和期の、工業化・途上国型の学習という話から、現在の「途上国」について類推してくれたのですね。現在の途上国の中には、教育インフラが脆弱で、まともな教員を確保できないところも結構あります。ただ、グローバル・サウスといわれるような新興国では、先進国以上に中等教育が充実してきています。東南アジア諸国の初等・中等教育は、探究・思考やICT活用、英語力といった点で、もう日本の教育の何周も先を行くくらいの水準になっています。日本は豊かな国で先進国だと思って構えていると、いつの間にかオワコン化するということにもなりかねず、このところの停滞ぶりを見るにつけ、その心配は増していきます。


歴史博物館で近現代史を学ぶ小学生(ギリシア アテネ)

 

いままで歴史という過去を学ぶことに意義を見出せず、いろいろな出来事が複雑に絡んでいて難しいと苦手意識をもっていた。しかしいまの社会があるのは歴史からすべて学んだことだし、これから自分の学びに必要になってくると考えると、これまで歴史を学んできたことの意義を見出すことができた。

社会科は受動的に授業を受けているだけでは使えるようにはならず、使えるようにしないと意味がないと聞いて、本当にそのとおりだと思った。私も受動的すぎたせいで、覚えたことはほとんど短期記憶に入れており、いざ思い出すとなると人名は出てきてもその人が何をしたのかなどはまったく思い出せなかった。人間は、将来使えるかどうかを頭で判断し、使えるものは長期記憶に入れているそうだ。私が無意識に短期記憶に入れていたのは、頭で将来に必要ないと思ってしまっていたせいだと思った。そもそものの認識が間違っていたのかもしれないと思った。
・・・> 将来の有用性を脳が判断して記憶の種類を選択するということは、たぶんないと思います(心理学的にあるのかな?)。たとえば趣味の分野などでは、意味があろうとなかろうと、将来使えようが使えまいが、くだらないことも含めて存分に記憶し、自在に繰り出せるほどに立体化することが多いですね。いま教育の分野でいわれているのは、「いずれ(たとえば来学期とか、次の学校に進んだあととか)必要になるから、しっかり学びなさい」といって、基礎トレーニングのような学習を繰り返すだけだと、もう修行や忍耐だけになり、おとなでもついていけないくらいなのだから子どもは脱落する、ということです。ではどうすればいいかというと、基礎トレーニングなのだが、3回に1回くらいはそれを現実場面などと接触させてみて、有用性やつながりを感得させる。「おもしろいな」「もっと知りたいな」と一瞬思わせる。学びの手ごたえを、小学生・中学生なりに獲得させる。学びの意味を小出しに体験させる。そんなようなことです。さらに私が考えるのは、「試験の役に立つ」という趣旨で説得するのは逆効果で、試験さえ、点数さえクリアできればOKという誤ったメッセージを発してしまうということです。

たしかに高校2年生で日本史を学んで、中2で習っていたはずなのに初めて学習するような感覚になって驚いた記憶がある。ゲートウェイ科目は、社会科でも必要だと思った。中学校までは、先生によってストーリー化された授業をそのまま受け入れていたので、多方向から学習することができなかったし、テストが終わるとすぐ忘れた。高校に入ってから板書してくれない先生は嫌だなと最初は思っていたけど、そのような授業のほうが自分の言葉でまとめることで理解が深まるし、参考書、教科書、経験、映画や本から自分でパズルピースをはめていく感覚で、一生ものの学習ができると思った。

この授業のように、ゲートウェイ科目の上にある探究科目は「深める」という作業をするので、いまの段階でそれをできるのはとても大切なことだと思った。しかし、それもゲートウェイ科目の土台がなければまったく機能しないことをいま知ったので、もう少し前に気づいていればよかったなと思った。

1年間探究をおこなうことで、現実社会により近づいた学習をすることができたと考えます。生きていくうえでとても大切な授業を受けることができました。

 
(左)1960年代の小学校を再現した展示(川越市立博物館) (右)中国東北地方の日本語学校(2011年ころ)
教室の基本構造が教師による単独の語り(いわゆる「講義」)に適したかたちでつくられたのは19世紀半ばで、そこから抜け出せないでいる
各種メディアが発達し、人々の学びや情報収集のプロセスが大きく変わる中で、「これしかない」のはリスクでしかない

 

 

 


開講にあたって

人文社会科学特論は高大接続に主眼を置く選択必修科目で、附属高校ならではの設定といえます。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、文系学部への進学をめざす3年生を対象に、特定の学問分野というよりも社会全般、文系全般を視野に入れるような広域的・学際的な学びに取り組むものとして設定され、2006年度の開講よりずっと私が担当しています。「教科」としては公民に属しますが、そこに内包される現代社会(2022年度入学生以降は「公共」)、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各分野、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。もともと人間とか社会にボーダーはなく、わかりやすくするためにラインを仮設しているにすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体感していただければと願っています。

当科目は毎年、内容とサブタイトルを変えています。2023年度は「探究への社会科学入門」です。探究とは、近ごろの文部科学省が好んで使用するタームのひとつであり、単なる調査(search)に終わるのではなく繰り返し調べ、深める(re-search)という趣旨です。私なりに解釈しますと、表面をなぞってわかった気になったり、ただ一つの正解らしきものを求めて安心したりする安直さを自戒し、絶えず複数の角度からアプローチし、反作用や副作用にも目配りし、そして学んだことが足場になって次の探究へとつながっていく、というようなことだろうと思います。大学こそそういう学びの場だと思うかもしれませんが、高等学校はすでにその段階にあります。残念なことに、当学院の生徒を含む多くの高校生が、そうした学びに触れない、あるいはそのことに気づきもしないまま高校生活を終えています。私(古賀)は、学校教育それ自体を研究対象とする教育学の専門家であり、同時に公民(公共)の教科書なども執筆する社会科・公民科教育の専門家でもあって、その立場からも、せっかく高校生になったのだから高校生らしい学びを経験してほしいと、強く念願して、この科目の指導に取り組んできました。本年度は、ニュースなどでもしばしば報じられるような社会的事象を、過去・現在・未来にわたって考察し、共有するという知的作業を試みます。大半の高校生が学んでいる内容よりも少し(かなり?)レベルの高い話題が多く含まれます。知的な負荷をかけて、探究のスピリットを呼び起こそうという試みです。もとより、高校3年生が1年弱学んだところで「わかる」範囲は限られており、また解決可能なことなどほとんどありません。この先ずっとつづく、学びへの助走なのだと考えてください。

2022年度よりはじまった高等学校の新課程(したがって現3年のみなさんは対象外)のキャッチフレーズは「主体的・対話的で深い学び」です。これは「アクティブ・ラーニング」と呼んでいた事項の言い換えでもありました(古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022年、p.12の拙稿を参照)。これは、従来の学校の学びは、「受動的・非対話的で浅い学び」であった、と半ば自白するようなものといえますし、私もおおむね同意見です。受動的で対話のない学習はノルマやタスクでしかなく、おもしろさや次への学習動機につながりません。初めのうちは面倒なことも多く、頭をフル回転させるため疲労がかなりあるものと思いますが、それに慣れてきたとき、主体的な学び、探究への学びのスイッチが入ることでしょう。

 

 

 

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