古賀毅の講義サポート 2025-2026
Études sur la
société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche 現代社会論I:近未来の社会を(に)生きる構想と探究
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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び
2025年6〜7月の授業予定
<第2部 現代社会と情報・メディア>
6月6日 ICTが代替したもの、ICTを代替するもの
6月13日 同居人・AIさんの優秀さと気難しさ
6月20日 いまどき/いまさらの「オールド・メディア」考
6月27日 フェイク、ガセ、エセ科学の時代を生きる
<期末特別プログラム>
7月11日 ちょっと待って!モラトリアム:青年期の発達課題
1学期の最後は大きなテーマを少し離れて、公民科の中でいえば公共と倫理で重要な単元として取り上げられている青年期(adolescence)を考察します。倫理の中でもここはちょっと異質。思想史や現代倫理ではなく、なぜか「若者はこんなふうです」というような「自分たち(高校生たち)」そのものが論じられる単元ですからね。でも自分たちが取り上げられているわりには、ピンと来ないということが多くないでしょうか。思い当たるふしがほとんどないとか、書かれている用語の意味する対象がわからないといったことが、しばしば聞かれます。また、「若者」をひとくくりにして、こうだと決めつけるような書き方に納得がいかないという声もよく耳にします。教える教員の側の事情を申しますと、歴史(世界史・日本史)の支えとなる学問分野は歴史学、地理は地理学です。これに対し、公民のほうは政治学・法学・経済学・社会学・国際関係学・哲学・倫理学・思想史などが対応する学問分野で、かなり広がりがあります。今回の青年期という単元に関しては心理学(psychology)です。 子ども(child)とおとな(adult)。マンガやイラストで両者を描いてみてください。おそらく身体のサイズを違えて描くのと、顔のつくりをそれっぽく違えるのではないでしょうかね。音声まで含めることができればさらに違いが明瞭になります。声質や声の高さ、そして話している内容や語彙がまるで違います。しかし、そんなおとなも、かつて子どもだった時期があります。SFではないので、その子どもがある日突然おとなに化けたわけではありません。結構なグラデーションを経て、おとなになっていったわけです。子どもとおとなの2種類しかないという前提でイラストを描きなさいといわれるから、違いをデフォルメするわけですが、そのあいだにあるはずの連続性を意識すると、途端に難しくなります。個人差も結構ありますからね。――でも、あえて申しますと、そのグラデーションというのはシンプルな右上がりの直線を示すわけではありません。ある時期にドライブがかかったかのように、怒涛の勢いで成長する局面があります。急カーブを強引なハンドルさばきで乗り切ろうとすれば車体がきしみますし、ときに火花を発するかもしれません。人間の場合にもそれが起こります。つまり、子どもにも、おとなにもない、青年期固有のトラブルや症状というのがどうしても起こってしまうのです。子どもは子ども、おとなはおとな。青年期と呼ぶ、そのあいだの時期は、どのような特徴をもつのでしょうか。グラデーションとはいうけれど、どちらのようそがどのくらい強いのかな? そして気になるのが、青年期はどれくらいの長さ(期間)をもつものなのかという点です。青年期の渦中にあると思われる高校生のみなさんは、青年期が長いほうがいいですか? 短いほうがいい? いつまで青年期だと思います? もう30年以上も公民科の教員をしています。どちらかといえば倫理ではなく政治・経済のほうなので(公共の教科書では倫理のパートを担当していますが)、この青年期という単元を指導する機会はあまりありません。ただ、私の本来の(大学院生時代に専門家としてのトレーニングを受けた)専門分野は教育学(pedagogy / science of education)で、教育にまつわる教授(teaching)、学習(learning)、カリキュラム(curriculum)といった概念をしょっちゅう扱いますし、大学の教職課程では未来の教員たちにそのことを教えています。その中に発達(development)という概念・テーマがあります。鉄道網の発達とか科学技術の発達といった場合とは、ちょっと違う言葉の使い方で、教育の世界に特有の用法なのですね。青年期という概念はこの発達というテーマの一部。したがって私の本来の専門のど真ん中にあるものといえます。高等学校の授業では自分の専門をほとんど教えないのですが、学期末の特別プログラムですので、私の専門はこんなに有意義でおもしろいんだよ(気になったらそっちの道も考えてみてね)という紹介を兼ねて、取り上げてみます。今回の内容は、持ち帰っておうちの方と共有するのは、少しばかりこっぱずかしいかもしれません。そのときは、お友達とぜひどうぞ。 REVIEW (6/20) 6月27日のレビューは7月5日ころに更新の予定です。しばらくお待ちください。 ■今回の授業では、マス・メディアの中立性や信頼性について、これまで自分があまり意識してこなかった視点から考えることができた。プロレスなどの報道の変化を通じて、何を報道するに値するのかをみなすかが、社会的・文化的に決まっていることに気づかされた。また新聞や週刊誌、ワイドショーなどのメディアにも、それぞれ役割やスタンスがあることを知り、すべてのメディアが真実を客観的に伝えているとはかぎらないことをあらためて感じた。報道されない陰謀や偏向を短絡的に考えるのではなく、その背景にある編集方針や限界、意図を読み取る力、メディア・リテラシーが必要だと思った。 ■情報を疑い、嘘を見抜くというリテラシーが必要であると教育されてきたが、本当にわれわれに求められているのは、情報の発信源がもつ癖や偏りを自身で読み取り、その前提を理解するという本来の意味でのリテラシー(読解力)であるとわかった。むやみにメディアを批判的な目線で見ていると結果的に何にも関心をもてない人になってしまうと思う。 ■マス・メディアの情報は、鵜呑みにせず批判的に見よう、といわれることがある。それ自体が間違っているわけではないが、そこには多くの意味があることを今回の授業で学んだ。そもそもメディアといってもただ一つに括ることができるものではなく、新聞、スポーツ新聞、テレビニュース、ネットニュースなどさまざまあて、取り上げるテーマや内容はそれぞれ違う。批判的に見るということは大事なことだが、真に大事なことは、批判的にさまざまなメディアを見ることだと思った。 ■あらゆるメディアは偏っている、という内容に共感した。公正中立のメディアがあるのだと思いがちだが、どのメディアも人間がつくっているので、個性が出るのは自然なことだと思った。高校に入って思想の強い、または自分自身の思想を公表する先生の授業を受けることが多くなった。中学校のときは、公立というところも関係するのか、無味無臭でおもしろみのない授業が多かった。小さいころから思想の偏りを認識しておくべきだと思った。メディアは偏っているということを理解し、私も偏りが出るくらい情報を得て、賢くなりたい。 ■父の影響で、小さいころから朝夕ともによくニュースを見ていた。父はそのときに、そのテレビのニュースは右だ、左だなどとよく教えてくれ、ニュースに対して私の前で堂々と文句をいうなど、とても「思想が強い」人だったが、私はこれがすごく嫌だった。高校に入って外の世界に触れれば、「中立的な思想」が知れるのだろうと期待したが、全然そんなことはなくて、父なんかの比にならないくらいに偏った、強い思想をもつ人が、先生にも生徒にも多くて驚いたのを思い出す。「中立的」な思想というのは、思想に偏りがないのではなく、多方面に偏った思想に触れ理解したうえで、自分の立場を確立することなのかもしれない。高校に入って自身の思想ができてきたことで、いまは父の文句を一方的に聞くだけでなく、議論できるようになってとても楽しい。 ■いままで、思想は偏ることなく中立の立場でいることが安全で、正しいことだと思っていました。また正直、私自身も右か左かという強い思想をもっていません。そこに対して、自分の考えのなさを感じて、反省しました。 ■メディアが偏るのは、悪いことではないと思った。メディアをつくるのは人間であり、その人間にもいままでの人生経験によって形成された価値観、考え方があるので、完全中立なメディアは存在できないと考えた。利用者側が、メディアは偏っているという事実を知ったうえで利用すべきだ。メディアの左右をもっと勉強するべきだと思った。 ■メディアが偏っているのはいけないことである、と小・中学校で学んできたように思います。私も、恥ずかしいですがそれを信じてきました。いままでそのようにいわれてきたからなのか、メディアとの接触が少ないからなのか、たくさん理由を推測することはできますが、先生が今回の授業で「偏向するのは当然」とおっしゃっていて、私は驚きました。自分のメディアに対する概念が崩れたように思います。たしかに偏りがないほうがおかしいし、その偏ったメディア上で報道されるものを探り当てる力がない(少ない)われわれの問題であるということに納得しました。また雑誌の例で、見出しを見るだけで、それぞれの「色」が出ていることにも驚きました。いままでまったく気づかなかったことに初めて気づきました。 ■この授業を受ける前まで、メディアをはじめとした、誰かに教える立場にある人は偏向してはいけないのだと直感的に思っていました。しかし偏っていることが当たり前、左か右かだけでなく資本系列など何かしらにおいて偏っているからこそ、ある面に対して詳しく知ることができたり、逆の視点から見ることができたりするのではないかと、考えを改めました。そして多角的に見るためにも、教養やネット・リテラシーを身につけ、ひとつの情報のみにまどわされたり、とんちんかんな意見を出したりしないようにしたいと考えました。
■私たちはいま簡単に情報を得られる環境にいるからこそ、メディア・リテラシーを身につけ、高めることが非常に重要だとあらためて実感した。SNSなどで発信されている情報源や根拠の不確かな情報をそのままなんの疑問ももたずに鵜呑みにする若者が多い(私の身近でも)。そのような人たちは、テレビで報道されるニュースなど、なおさら無批判で受け取ってしまうだろう。マス・メディアの偏りを知って、報道されるニュースなどにこれからも向き合いたい。 ■報道という言葉について自分でも考えが及んでいなかったことがわかった。もろもろの偏りに関する話を聞いていて、無意識・無自覚のうちに清廉潔白なものを求めていたのだなと思いました。同時に、思想的な偏りは排除すべきとするのではなく、可能なかぎり吸収して自己を確立することの重要性を認識しました。ただし、それは左右両方取り込めば打ち消し合って均衡がとれるという意味ではなく、いろいろ取り込んだモザイク状のタイルを俯瞰して見ようという意味です。ひとつ確認したいのですが、左右うんぬんが語られるときに、「保守派」というのがたまに登場します。保守派=体制側で、左右両派=反体制側、という認識でよいでしょうか。 ■メディアは、常に中立の立場で物事を報道しなければならないと思っていましたが、立場が傾くことは必ずしも悪いことではなく、現在では「完全な中立」のメディアはないことがわかった。これからの将来も、きっと中立な存在は生まれないと考えるからこそ、メディア・リテラシーは必須であると感じた。しかし、だからといて自分も中立的な立場に立つ必要はなく、自分の軸をもちながらその思想を臨機応変に動かしていこうと思った。できるだけ多くの情報を得ることは、すなわちそれを処理する能力も必要になってくる。高校生の段階からたくさんのメディアに触れていきたい。 ■メディアには権力を監視するという役割を背負っていると授業内で述べられていたが、右寄りの新聞は、とくにそれに矛盾していないのか疑問に思った。 ■今回出てきた新聞やテレビ局ごとの思想の違いをまったく知らなかった。これを知らないでいると自分の思考が気づかないうちに影響を受けるかもしれないということがわかった。世の中の風潮や自分も、マスコミは中立的な立場であるべきだとしていたが、そうではなくて各社の主張や思想を理解したうえで自分で比較しなければいけないと思った。今回の授業で、自分がこのまま社会に出てしまったら、「バカな国民」の部類に入ってしまうと気づけた。社会で起きている批判やデモなどを見て、その人たちがどのような言い分をもっているのか、矛盾しているかなどがわかるような人間になりたい。 ■教科書も書いている先生に質問なのですが、教科書は偏っていると思われますか? 私の中学校の社会科の先生が、教科書選びを綿密におこなっているようだったので、偏りなども(それがあるのであれば)考慮していたのかなと疑問に思いました。
■家では複数の新聞をとっていて、テレビのニュースをよく見ます。正直、内容を深く理解している自信はなく、朝日新聞の「いちからわかる」も、ひとつもわかりません。自分の無知をいつも痛感しています。ただ、テレビ局によって報道の仕方が少しずつ違って、興味深く思っていました。そもそもことばを使って表現する以上、「無色透明」はありえないと思います。中立を求めるよりも、さまざまな報道に触れて自分で吟味する力をつけるほうが重要だと感じました。 ■ニュースや時事にいままで自分からかかわったことがなかった。ことしの授業で時事問題があって、スマートニュースを見はじめた。気になった事柄(見出し)をタップして記事を読むと、本文を読んで思ったことと見出しの言い方に、ニュアンスや意味の差があるように、よく感じる。とくに事件などではどちらか一方に非があるような誇張された見出しが多い。この点は改善されてほしいと思った。 ■メディアにはそもそも偏りがあるのだと理解してからメディアに触れる必要がある、という話を忘れないようにしようと思った。テレビや新聞はその偏りがわかっているが、ネットやAIはわかりにくいため、より一層気をつける必要があるということに納得した。どこの出版社がどれくらい偏っているという情報は、どのようにして知ればよいのでしょうか? ■疑問に思ったのは、メディアが偏ってよいのか、いけないのかという論点についてです。私は、一人ひとりの意見がどちらかに偏るのは当たり前だと思うし、メディアの制作者によってメディアが偏るということも当然だと思います。しかし、メディアは複数の人間がかかわっているからこそ、一つの意見だけでなくさまざまな意見を踏まえて、記事や番組をつくることができるのではないでしょうか。メディアがさまざまな意見を踏まえた結果として偏るなら問題はないと思いますが、一つの意見のみを踏まえて偏るのは、それは問題アリなのではないでしょうか。ですから私は、メディアは偏ってよいと思いますが、偏る背景に複数の意見を踏まえているのかどうかが肝心で、偏るかどうかについては後づけでよいと思いました。 ■ふだん週刊誌を読まないこともあるが、ここまでそれぞれの週刊誌の内容に偏りがあることは知らず、無知で恥ずかしいと思った。これからは右翼、左翼などに関する知識を深めて、「メディアの偏り」に気づき、見分けられるようになりたい。 ■一般紙やスポーツ新聞、週刊誌など、それぞれ扱う情報や分野が違っていたのに、ワイドショーなどが台頭しエンタメ化していったことや、各新聞の傾向、ネットニュースなどの話から、自分が欲しい情報に合わせてメディアを使い分ける必要があるなとあらためて思いました。そのためにはやはり知識や素養がなくてはならないため、いまの段階では勉強が足りていないと強く感じます。親の収入と子どもの学力に相関関係があるという話や、親と一緒にニュースを見る子どものほうが学力が高いといった話から、早期英語教育に関しても同じことがいえるのではないかと思いました。親が最低限の知識をもっていないと、子どもの学力や知識に影響するのだろうと思いました。 ■プロレスが集客ビジネスとして有力なのは同意できるが、それは他のスポーツと一緒なのでは? 殴る・蹴るといった過激な要素を含む部分が、一般紙において報道するには問題があったのだろうか?
(類例複数)
■SNSはいまどき多様な情報を簡単に入手できるツールのように思っていたが、誰でも使えるという点からも、偏りのある意見や的外れな指摘が多いのだとわかった。 ■SNSは、匿名で自分の考えを気軽に書くことができるものですが、利点だけでなく、表面的なことだけを見てすぐに誰かを攻撃してしまうことがあるという悪い面もあるとわかったため、見たものだけですぐ判断しないようにしたいと思いました。 ■ネットニュースやSNSといった、出どころのわかりにくい情報のほうが、偏りもわかりづらく、受け取る側の情報処理の力が試されるなと思った。右派=愛国的=排外的といったイメージが最近のSNSだと見かけることがたしかに多いし、自分もそういうものなのかと認識しつつあったので、考えを訂正できてよかった。 ■ネットニュースで上部に出てくるニュースは、マス・メディアが大事なことだと考えていることなのか、ネットを見ている国民の多くが大事なことだと思っているものなのか、気になりました。似たような内容のものでも、注目されるニュースとそうでないニュースの差は、どのようにしてできたのか知りたいと思いました。 ■一般紙とは違い、「らしい」とかタレコミのレベルの情報でも記事を掲載できるのが、スポーツ紙や週刊誌の強みだと思った。ネットニュースが普及してきてから、見出しの重要性がより高まったと思う。クリックさせるための誇張やミスリードなどが増えた。ただでさえネット・リテラシーの低い人が増えているいま、このようなことをするネットニュースの会社が増えるのはよくないと思う。 ■やはり、歴史等の「社会科」とされている科目は、先生側は時代の流れや時の人物の人間性、物事の背景を語り、教えてくれているはずですが、生徒側としてはテストのために暗記する、ということしか考えていません。そう考えると、社会の本質を知ることのできる現代社会論は、過去に受けたことのない形態の授業ですが、いちばん生徒にとってよい形の授業だと感じました。授業を通じて、マス・メディアは情報源の人々の考え方によって右寄りや左寄りが分かれていて、それを理解して読まなくてはならないのだと学びました。テレビもそうなのでしょうか。よくSNSで情報を収集するのではなく、新聞やニュースから収集しなさいといわれるが、それは本当によいことなのでしょうか。
■安易に「マスゴミ」と評するのは危険だと感じた。新聞やニュースなど自分の能力の乏しさのせいで得ることができていない情報がたくさんある。情報があふれた時代では、メディア・リテラシーがないとその情報を自分のものにできないと思った。 ■「マスゴミ」という言葉や、それを用いたマス・メディア批判は、X(旧ツイッター)などのSNSでよく見かけていた。いまやSNSにはさまざまな地位、思想の人がいて、それぞれが自分の発信したいことを発信しているが、当然そこには浅はかな考えをもつ人も多く存在しているため、自分自身がネット・リテラシーや教養をもたなければならないのだということを再確認した。また多様性の尊重が正しいとはかぎらないのだと感じた。誤った情報を鵜呑みにしてしまう人(そしてそれを発信する人)が多いのは、自分の精神状態や知能レベルにとって都合のよい情報ばかりを吸収する人が多いからなのだと考えた。そのためSNSを利用する際には視野を広げることが大切だと思った。 ■「メディアは大事なことを報道せず隠す」という意見がある一方で、古賀先生は、メディアは多くのことを報道しているが「報道している箇所」を探り当てるスキルが失われている、という指摘をしていました。また、表面しか見ていない、何も知らない人が「マスゴミ」などといっているのは、その本質にしっかり目を向けていないからだと述べていました。重要なのは、あらゆるメディアを制作しているのも人であり、企業であり、偏っているのだという事実を理解し、その思想的立場やスタンスを知ったうえで情報を比較し、読解するメディア・リテラシーだと考えます。 ■マス・メディアは大事なことを報じない、といってSNSのニュースを信じがちになってしまう人は、「SNSの爆弾垢などは他の組織との利害関係やしがらみがないから本当のことを発信できる」と考えているのではないかと思いました。たしかにSNSには個人で情報を発信する人もいて、誰かに発信を制限されることはありませんが、自分の発信への責任もないので、マス・メディアに比べて信頼できるということはないと思います。ところで、「あらゆるメディアで一つの大きなニュースばかり報じているときに、裏で重要な法案が通っている」という説を、SNSでたまに見かけるのですが、これは実際にそうなのでしょうか? 最初は本当っぽいなと思っていましたが、大きなニュースの裏でこっそり可決するのではなく、大きなニュースのせいで法案についての報道が手薄になっているのを「隠された重要な法案」であるように誤認しているのではないかとも思いました。 ■とくに印象に残ったのは、「マスでもネットでもコメントは一呼吸おく」というところです。最近、インスタグラムやTikTokなどのSNSで、まだ使い慣れていないように見えるユーザー(小学生くらいの)がコメントするのをよく見かけます。彼らのコメントに悪意や批判の意図はなかったとしても、語彙の少なさや表現の未熟さから、意図しないかたちで相手を傷つけてしまうものも少なくありません。文章の拙さを自覚し、相手にどう伝わるのかを考えることが大切であると感じました。 ■新聞で週刊文春の広告を見ると、文春はどんな分野でも記事にしているというイメージに見えていましたが、たしかに文芸関係の報道はないです。メディアが報道しない空白の部分を想像することも大切だと思いました。 ■いま課題2を書きはじめていて、授業の予習みたいになっているのですが、ネットはマス・メディアの受け売りであるという着眼点で調べていました。今回、授業の前半でより理解が深まり、普段のまっさらな状態で聞くよりもとてもおもしろく感じました。 ■最近は「若者離れ」したメディアが多く、ときどきニュース番組で「TikTokで話題の動画」の解説をしていて、テレビがスマホに負けたことを認めた!といわれているところをよく見る。ワイドショー的な情報とニュースコーナーが融合しはじめたのは、若者の知能や趣向に合わせたからだとも考えられる。高校生の私たちにとっての情報源は学校かネットだと思うので、友人からの間違った意見が、影響を受けやすい私たちの意見になってしまわないように、自分の意見をもたないといけないと思った。 ■以前、「新聞を毎日読む」というチャレンジをしたことを思い出しました。難しくて内容が頭に入ってこず、すぐに挫折してしまいましたが、あのときつづけていればもっと硬派な文を読めたかもしれず、悔しいです。 ■プロ野球の記事に偏りがあることは普段からいろいろな球団のニュースを見ているのでわかっていたが、そのついでに読む政治に関する報道の偏りは、何も意識していなかったので、どのような立場からの記事なのかという視点を大切にして見ようと思った。県の高校野球の記事で、異様に公立高校の勝利を報じていると感じていて違和感を抱いたが、授業を受けて納得できた。 ■あらゆるメディアは偏っているという話を聞いて最初に思い出したのは、アメリカのテレビで、トランプの大統領選挙スピーチが悪く思われるような編集をされていたことだ。ネットニュースならまだしも、テレビでそんな印象操作みたいなことをしていいんだと思った一方で、日本もそんなものかと思った。そしてもう一つ思い出したのが、推しのYouTube動画。無料で観られる動画では仲が悪く見えるのに、有料会員用の動画では仲よく見えるという謎編集がされていた。これのせいで推しのグループの仲が悪いといわれていて不満だった。が、これは推しであるから仲がよいと信じたいだけで、本当に仲が悪いのかもしれない。どちらにせよ、推しには幸せであってほしい・・・。
■今回の授業は、いままでと比べても個人的にとても刺激的な内容だった。自分がどれだけ無知だったのか痛感した。マスコミの右・左の立場すら知らなかった。マスコミやニュースを自分でかみ砕き、幅広いジャンルに触れるべきだと思った。それぞれの立場を理解したうえで記事を読むと、さらにおもしろくなるだろうから、楽しみになった。 ■今回の内容は卒論のテーマとも重なる部分も多くて、とても興味深く、考えさせられた。とくに「メディアは偏るべきではない」のではなく「メディアは偏っている」という前提で、互いに補完し合っている側面もあるため、やみくもに「メディア批判」を展開するものではないと思った。またXなどを通じて、私自身「いまの時代はソーシャル・メディアだ」と認識していたが、その考えそのものが、情報元が限られているため、SNSによるある種の「洗脳」になっていたのだと、はっとさせられた。 ■「思想が強い」のを嫌う。これに関しては、プレワークでも書いたのだが、「異なる意見をもっていても嫌わないこと」「人付き合いと異論を切り離して考えること」が大切だと思う。メディアはそもそも偏っている。公正な情報ではなく利益を重視する。しかしそれの変化の余地はないので、改善すべきは読者・大衆である。「マスコミ」「ネット」などの大きな主語に惑わされないように、メディアに対する解像度を上げなければならない。 ■メディアといっても読み手の意識・能力が必要とされるかどうかで性格が異なり、異なるからこそ多様な人のニーズに合わせられるのだと思いました。「マスゴミ」といえるほどマスコミのことを知っているのか?という話で、いまの私は社会について意見をいえるほど知識があるのだろうかと、怖くなってしまいました。自分の意見をいえるように、これからも学習していきたいです。ニュースは速報だけでなくその中身の解説等も重要であるということから、ニュースを見たときにその本質まで知ろうとする意欲、知る力をつけたいです。 ■テレビでニュースを観たり新聞を読んだりするには、理解の前提となる社会的な知識があり、新たなニュースを処理する能力・素養・リテラシーをもった人でなくてはならない、といった教えは、多くの先生が話され、私もそのたびにハッとさせられます。そして、これからは何を意識していこうかと考えるのですが、最近では無知な私が何か意見をもったところですべて間違いなのではないかと思ってしまいます。私も表面的な部分しか捉えられていないと思いますが、まずは「学問」と「協働」をがんばろうと思いました。 ■私は将来、テレビ局に就職してニュース制作に携わりたいという目標をもっているので、今回の授業はとくに興味深く、勉強になった。ニュースを与えられ、その内容を正確に理解し、本質を学ぶには、自身が幅広く正しい知識をもっていることが必要であると聞いて、大きく納得した。毎朝かならずNHKのニュースを観ているが、いまだ深い知識を得ていない私が社会を知ろうとさまざまな分野のニュースを観たとしても表面的な内容しか認識することができないだろう。これからは、一つの狭い分野でもいいから、自分なりに正しい知識を深め、ニュースや新聞を観るように心がけたい。新しい出来事だけ知るのではなく、背景や原因を理解してから一歩ずつ新たな知識を得ていくべきだと思った。またメディアの偏りの話題も印象に残った。インターネットに掲載されている記事よりも新聞のほうが偏りがないから新聞を読むべきだという意見を聞いたことがあった。そのときは疑問を抱かず、受け入れてしまったが、新聞にも偏りがあることがわかり、重要なのは自分自身に偏りがあること、その偏りの内容を十分に理解したうえで情報を得ることだと気づいた。そして、マス・メディアが間違っている、偏っているため反対だ、という意見を掲げる人をよく目にするが、まずは一度立ち止まって自分はどこに注目し、何の根拠にもとづいて異議を唱えるのかが大切である。そのメディアと他の企業とのつながりや特徴を把握することも求められる。今回の授業を受けて、夢をかなえることができたら、正しいニュースとともにメディアの本質についても伝えられるものを制作したいと思った。 ■SNSやテレビで、ある物事について一見客観的のような視点にもとづいて批判しているように見える人でも、そのような批判をしている時点で右か左かに偏っていて、またそれは決して悪いことではなく、むしろ大のおとなが右か左に偏っていないほうがよくないのだ、という先生の話が新鮮でした。人間でなくても、われわれが日ごろ使っているAIも、根本的には人間から生み出されたものであり、ある思想や偏りの影響を受けているという話を聞いて、AIというものの捉え方が一転しました。 ■メディアが、私たちに「教える存在」であり、親と同じで「選べない」存在であるとみなし、無垢で正直であることを視聴者が求めすぎているような気がする。しかしメディアは各々の利益のため、属性に合わせて動いているのだと考えれば、メディアが問題を起こしても、あくまでもメディアは手段であり私たちが理解しなければならないものであるため、過度に批判する必要はないのだと思った。ついついスキマ時間に娯楽としてメディアやネットを消費する傾向のある私だが、それを娯楽として、リアルと切り離した区分の視点をもってメディアを見るほどの知識が、いまはないことを痛感した。
現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。 当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。 2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。 |