■次回は・・・
8- リベラルとネオリベラル(1):平成・令和のマクロ経済政策
この現代社会論Iは、教科でいえば公民に属します。いまの高2から新課程になるわけですが、3年生は旧課程。そこにおいて公民に属する科目(教科のサブカテゴリが科目)は、現代社会、倫理、政治・経済です。みなさんはすでに倫理と政治・経済を学んでおられますね。ところで、大学に進んで何か専門をというときに、倫理と政治と経済はそれぞれ別の分野で、進学先も違ってきます。文学部哲学科あたりがメインとなる倫理と、政治経済学部経済学科とか商学部がメインになりそうな経済では、一般的なイメージとしてはかなり遠い感じかもしれません。政治も微妙でしょう。これらをまとめて公民というふうにしているのは不思議でもあるのですが、以前は中学校と同じように「社会」という大きな教科だったのが、1989年に2分割され、地理歴史(世界史・日本史・地理)が抜けてしまったため、残った部分が公民になったといういきさつによるものです。ただ、倫理と政治と経済を底のほうでつなげて考えると、社会の見方・考え方にびしっと一本筋が入ります。今回と次回は、リベラリズム(自由主義)という概念をキーとして立てて、こんにちの文脈に置きなおしながら、いろいろな問題を考えていくことにしましょう。
リベラル(自由)という形容詞は、原義をさかのぼれば古代ギリシアまで行き着きますので、膨大な議論や思考の蓄積があります。いったん近代の思想にしぼって考えます。経済学の始祖がアダム・スミスであったことは、みなさんもよく知っていることでしょう。資本主義経済の根幹部分である市場原理、価格機構を分析したことで非常に有名です。彼の「国富論(諸国民の富)」にはじまる経済思想が古典派経済学と呼ばれるもので、オールド・スタイルの経済自由主義でした。それに対し、1930年代の世界恐慌に際して現れたジョン・メイナード・ケインズは、「雇用・利子・貨幣の一般理論」を著して、経済観の転換を強く迫りました。20世紀中盤以降の各国の経済政策がおおむねケインズの思想に立脚していたことも、またよく知られています。とはいえ、経済(学)は抽象的なモデルを扱うため、いま述べたような文字列を暗記するくらいならできるが、要するにどういうこと?というのがわからないということもめずらしくありません。社会科学方面を志すのであれば、ここはわかっておくほうがよい、わからないと厄介なので、今回あらためて基礎的な部分を確認して、しっかり共有しましょう。ただ、本命の議論はさらにその先にあります。1970〜80年代に入ると、ケインズ的な発想もまたつまずきを見せるようになりました。ここで再び転換とか旋回のポイントが訪れます。それは、はたして・・・
スミスもリベラルならばケインズもリベラル。憲法・人権論でいうなら、自由権も社会権もリベラルを尊重するものにほかなりません。リベラルという言葉が多義性やあいまいさをもっているのか、論じられる時代ごとに制約要件が違っていてリベラルの解釈の幅に違いが生じるのか。まあ、両方です。誰だって不自由よりも自由のほうがよいはずなのだが、不自由はわかりやすくても、自由がわかりにくいせいか、目標やそこにいたる道筋についての見方がバラバラになってしまうようです。リベラリズムを考えるとは、近代を考えるということです。今回と次回でそれを網羅することなどとうていできませんし、はるか手前の入口に案内できればという程度ではありますが、文系の学問が何をどう考えるのかという点を、いまのうちに少しのぞいてみることにしましょう。
REVIEW (6/2)
■前回にひきつづき長距離移動について考えた。大阪にある祖母の家に毎年帰省する際に新幹線を使うので、身近に感じられる話題だった。新幹線建設の際、地方自治体がお金を出していることには驚いたが、経済が回るという点や雇用対策の面から考えると納得した。佐賀県が反対したという点にも納得することができた。日本は地理的にも、地域によって土地の特徴に違いがあるので、ヨーロッパより複雑な問題を抱えていることや、交通格差があるのも仕方がないといえるのかもしれないが、それらの問題をどう緩和するのかが大切だと思った。
■私は、基本的に遠いところに行くとなると、旅をした気分がより味わえる気がするので、航空を使いたくなる。だがたしかに待ち時間や空港までのアクセスを考えると、新幹線のほうが優位になることも多いと思った。祖父母は函館に住んでいて、新幹線が開通してからは新幹線を利用するようになったが、片道4時間半くらいかかるので、いつも飛行機がいいなと思う。繁忙期でないときは、すいていることも多いし、駅も売店などがあまりないので、集客もあまり期待できない。なぜ建設したのかなと思ったこともある。しかし需要が少なくても見栄を張って造ることもあると知り、見栄のためにわざわざお金をかけるのはどうなのかなと思った。海外にも広がるくらい日本の高速鉄道がすばらしいのはわかるが、必要性をもう少し考えるべきではないかと思う。
・・・> 地方にやや同情的にいいますと、新幹線でも造らないと、「東京の人」はいよいよ地方に見向きもしなくなり、無視・スルーという最悪の状態が永続するのではないかな。
■地方は景気対策や東京直結のステータスなどのために新幹線を要求するが、それは一瞬の恩恵があるだけで、地方に長期的・根本的な恩恵をもたらすことはないと思いました。一方、並行在来線問題などのように、JRが赤字対策のために新幹線と並行する在来線を廃止することで、交通弱者がさらに苦しくなり、地方自治体がその救済として在来線の経営をおこない、それによって自治体の負担が増大するように思いました。以前の授業内容と関連させて考えると、地方を活性化させるには、手っ取り早そうに見える新幹線を造るのではなく、第一次産業に投資するなど、中・長期的に見て効果があり、根本的な問題解決につながる対策をとるべきだと考えます。

(左)東海道新幹線こだま(東京駅) (右)秋田新幹線こまち(宇都宮駅)
■今回の授業のための調べ学習をしているときに、北陸新幹線開通後の2016年に富山県への宿泊者数が減少したことを知った。富山県を訪れても他県に移動して宿泊する人が増加したのだと考えていたが、今回の授業を踏まえると、日帰り旅行客・ビジネス客の割合が増加したのではないかと思う。
■新幹線ができることに伴って自治体が引き受けることになる在来線が存続するのかが気になった。運賃が値上げされると交通弱者は耐えられないのではないか。

(左)パリ東駅で顔を合わせた両雄 左がフランスの高速列車TGV、右がドイツの高速列車ICE (右)ICE一等車の車内
開講にあたって
人文社会科学特論は高大接続に主眼を置く選択必修科目で、附属高校ならではの設定といえます。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、文系学部への進学をめざす3年生を対象に、特定の学問分野というよりも社会全般、文系全般を視野に入れるような広域的・学際的な学びに取り組むものとして設定され、2006年度の開講よりずっと私が担当しています。「教科」としては公民に属しますが、そこに内包される現代社会(2022年度入学生以降は「公共」)、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各分野、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。もともと人間とか社会にボーダーはなく、わかりやすくするためにラインを仮設しているにすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体感していただければと願っています。
当科目は毎年、内容とサブタイトルを変えています。2023年度は「探究への社会科学入門」です。探究とは、近ごろの文部科学省が好んで使用するタームのひとつであり、単なる調査(search)に終わるのではなく繰り返し調べ、深める(re-search)という趣旨です。私なりに解釈しますと、表面をなぞってわかった気になったり、ただ一つの正解らしきものを求めて安心したりする安直さを自戒し、絶えず複数の角度からアプローチし、反作用や副作用にも目配りし、そして学んだことが足場になって次の探究へとつながっていく、というようなことだろうと思います。大学こそそういう学びの場だと思うかもしれませんが、高等学校はすでにその段階にあります。残念なことに、当学院の生徒を含む多くの高校生が、そうした学びに触れない、あるいはそのことに気づきもしないまま高校生活を終えています。私(古賀)は、学校教育それ自体を研究対象とする教育学の専門家であり、同時に公民(公共)の教科書なども執筆する社会科・公民科教育の専門家でもあって、その立場からも、せっかく高校生になったのだから高校生らしい学びを経験してほしいと、強く念願して、この科目の指導に取り組んできました。本年度は、ニュースなどでもしばしば報じられるような社会的事象を、過去・現在・未来にわたって考察し、共有するという知的作業を試みます。大半の高校生が学んでいる内容よりも少し(かなり?)レベルの高い話題が多く含まれます。知的な負荷をかけて、探究のスピリットを呼び起こそうという試みです。もとより、高校3年生が1年弱学んだところで「わかる」範囲は限られており、また解決可能なことなどほとんどありません。この先ずっとつづく、学びへの助走なのだと考えてください。
2022年度よりはじまった高等学校の新課程(したがって現3年のみなさんは対象外)のキャッチフレーズは「主体的・対話的で深い学び」です。これは「アクティブ・ラーニング」と呼んでいた事項の言い換えでもありました(古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022年、p.12の拙稿を参照)。これは、従来の学校の学びは、「受動的・非対話的で浅い学び」であった、と半ば自白するようなものといえますし、私もおおむね同意見です。受動的で対話のない学習はノルマやタスクでしかなく、おもしろさや次への学習動機につながりません。初めのうちは面倒なことも多く、頭をフル回転させるため疲労がかなりあるものと思いますが、それに慣れてきたとき、主体的な学び、探究への学びのスイッチが入ることでしょう。
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