古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche

現代社会論I近未来の社会を(に)生きる構想と探究


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び

 

20259月の授業予定
<第3部 現代社会と文化・教育>
9
12日・19日 消費の魅力と魔力
9
26日・103日 令和のカルチュア考

 


次回は・・・
13
14- 消費の魅力と魔力

現代人は消費consommation)に囲い込まれています。消費のヌマにはまり込んでいます。国語的には、生産(production)と対になる概念なのですけれど、生産されるものがあるから消費する、というのではなさそうなところが、社会科学の難しい点です。まず共有しておかなければならないのは、社会学や経済学でいうところの消費は、「お金で購入する」という意味です。190円払っておにぎりを1個買って、それを食べずに捨てたとしても、購入した時点で消費だと考えてください。四六時中、衣食住、生老病死・・・ つまり生活や人生(life)そのものが消費にあふれています。けさ起床してから何も購入していない? そんなことはないはずです。電気や水道を使っていますよね。それらも消費のうちです。学校に行って教育を受けるのも、サービス(service 無形の商品のこと)を購入した結果です。だとすれば生活が消費にあふれているのは当たり前じゃないかと思うかもしれません。しかし人類の長い歴史の中で、そんな状態になったのはこの数十年のこと。人間生活のデフォルトでは、どうやらないらしいのです。

1学期の授業を思い出してみましょう。最初に食料・飲食の価格上昇の話題を取り上げました。人間も動物であり生命体ですから、何かを食べなければ死んでしまいます。現代人はおそらく、そこいらへんにいる動植物を捕まえて食べるということはなく、自分が食べるぶんの野菜や家禽は自分でつくるという人も圧倒的に少数派でしょう。お金を出して食べ物を買うのが普通です。だから価格上昇は痛いのです。ただ、飲食というときに大きく分けて2種類のものがあることに気づくでしょうか。まず、いま述べた生命維持のための飲食。もうひとつは、楽しみとしての飲食です。生命をつなぐだけならば、高価なもの、ことさらにおいしいものを探求する必要はないかもしれないのに、わざわざ高いお金を払って飲み食いするのはなぜか。最近だと、「きょうは自分へのごほうびで豪華なディナー」みたいな写真をインスタグラムで発信する人がやたらに多いですね。あそこで見せびらかしているのは生命維持活動ではなさそうです。いってみれば、高価なブランドのバッグを見せつけているのと趣旨や主張は変わらないのではないかな。第3回の授業では、経済成長を経て「便利」になったという高校生の主張が、ゲームだのカラオケだのといった遊びの方面に偏っていて、中に洗濯機を挙げてくる例外的な生徒がいた、という話をマクラにしました。30年も前のことだけれど、いまも高校3年生のありようはさほど変わっていないと思います。衣食住の話題だと頭の動きが鈍いのに、インターネット系の話題になったら活性化した!という人も実は多いことでしょう。そうした傾向を、「必要なこと・もの」「不必要なこと・もの」に分類することに意味はありません。意味がないだけでなく、現代社会の構造に対する理解をみずから閉ざしてしまうことになります。必要、なくてはならない(不可欠)、便利・・・ といった表現の示す対象や範囲に目を向けて、私たちがいったいお金を出して何を購入しているのかを考えてみることにします。

消費の何がいけないのですか? だって仕方ないじゃないですか! 的な反応も、ちょっと待って。いけないとか、いけなくないといった倫理や心がけの問題にしてしまうのも早計で、またまた社会科学的な視線をみずからさえぎる所業。べき・べきではない という思考は、先の先のほうにとっておいて、社会のありようをそのままスケッチする。ただし、平面ではなく立体を捉えるようにする、というふうに考えましょう。このやり方だけが真っ当で正当なものだというわけではなく、社会科学的なアプローチには何通りもありますが、いずれにしても主観や身近な経験をいったん突き放し、対象として捉えなおすという作業が要ります。これが思いのほか大変です。誰にだって主観があり自身の生活がありますからね。Side-Bのディスカッションを通して、問題意識や論点を共有します。結論部分の共有ではありませんよ。さて冒頭で消費という語を出したとき、一般的なconsumptionではなくconsommationという、辞書に載っていなさそうな語を示しました。これはフランス語の消費です。今回テーマにしているような意味での消費を本格的な考察対象にしたのが、フランスのボードリヤールであり、彼の主著『消費社会の神話と構造』(原著1970年)の表題にあるSociété de consommation(消費社会)という語が世界に知られるようになった端緒だったためです。生まれたときから消費にまみれている高校生のみなさんが、そのありようをどれくらい対象化して考察・議論できるのか、ちょっと楽しみではあります。

 

REVIEW 7/11

今回は、青年期を単に身体の成長期間としてではなく、ルソーの「第二の誕生」やエリクソンの「モラトリアム」といった概念を通じて、高校3年生である自分のいまの思いや考えについて、外側から捉えるよい機会だった。青年期が近代社会で生まれた概念であるという歴史的な背景や、産業革命以降の自由な選択がもたらした自由の代償としての苦悩があることを知ることができたのは、現代を生き、青年期真っただ中の私たちにとっても非常に重要なことだなと感じた。今回の授業を通じて、自分自身がいまいる時期を客観的に見つめなおし、社会とのかかわりのなかで青年期を捉える新しい視点を得られたことは、大きな学びであったと思う。戻ることのできない、「異常」でいられるこの時期を楽しみたいなとも思った。

人生の4分の1が青年期であるということを初めて知った。また、いままでに青年期という言葉を聞いたことはあったが、意味を完全に理解できていなかった。青年期について知識をもったうえで、Netflixで配信されているAdolescenceというシリーズを観てみたいと思った。
・・・> 私は観ていないのですが、英国の事情は独特の文脈もあって、だから参考にならないというより、だから参考になる気がします。現代の英国社会は中等教育とか青年期を思考するうえでの(こういっては失礼だけれど)ネタの宝庫です。ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』もそうですし、ブレア政権の中等教育改革なんかも参考になりますね。ニートというのは日本語としても定着していますが、もとは1990年代に提起された英国の社会政策用語で、Not in Employment, Education or Training(雇用されておらず、学校教育も職業訓練も受けていない状態)を指します。

青年期が、おとなになるための「ちょっと待って期間」であることがわかった。社会の構造が複雑化していくにつれ、専門的な知識などが必要になり、教育を受ける期間が長くなって、青年期も長くなっていくというのを初めて聞いたので、そうなんだと思った。

いままでのテーマと違い、対象が私たち自身で、自分が授業の論の渦中にいるというのが新鮮でおもしろく、少し恥ずかしい感じがした。共感もするし、自身にもそのような感情や時期があったなとハッとさせられる部分も多々あった。一方で青年といっても個体差はあるので当然ともいえるが、私としては「そんなことはないだろう」と反発したくなるような部分もある。しかしそれも今回の論では「青年期らしい言動」といえてしまうのが、八方ふさがりというか、それはずるいじゃないかと感じた。自身が当事者である論に対して意見するというのは、入れ子構造的で、どうも何かもどかしい。「私はウソつきです」という言葉に代表されるジレンマのような感じだ。私が「おとなに反発などするつもりもない」とこの論に反発したとしたら、何が真なのか。
・・・> そのように考えている自分自身の存在を認知している。それは疑いのないことです(デカルトっぽい)。

個人と全体をまったく別のものとして捉え、2つの事象の基準や関連を考えることができず、青年期から抜け出せないために、周りのおとなや世間、企業などの他のおとなたちの存在に気づかず、彼らが助けてくれないと思い、孤独に感じたり悩んだりしているように感じました。昔は神や階級で説明されていたことが、自分のことになると悩むなど、自己の感情や内面の部分を重視するようになったことに加え、さまざまな手段の変化(SNSや交通網の拡大など)により私たちが現実を知る機会が増えたことも、青年期に関係していると思いました。

選択する自由がない状況であれば、もちろん自由が欲しいと思うようになると思うのですが、実際に自由な立場にいると自分の選択に責任が伴うことで、選択すること自体にストレスを感じるようになり、事由になればなるほどそのようなストレスは増えてしまうのだろうなと思いました。

自分がなんとなく過ごしてきた青年期がこんなにも深いことを知りませんでした。自分を客観視することで、「わたしって・・・」と思うこともたしかにありましたし、ピアとの関係も大きく変わりました。でも客観視していることを客観視できていなかったということを今回実感しました。また青年期の入口が速くなり出口が遅くなっていることについて、少子高齢化が進んでも青年期の人口が増加するため、社会に操作される人がさらに多くなるということにも気づきました。いままでの授業で最も興味が湧いたので、心理学の道も考えてみようと思いました。

自分自身の認識では、中学生から反抗期がはじまり、現在も若干の反抗期を引きずりつつ、将来や人間関係、勉強や自分自身について、悩みながら生きている。わたし的には真剣に悩んでいるのにもかかわらず、おとなになったらわかるよ的なことをいう人が周りにはたくさんいて、それに反発する自分もいるし、その一方で納得する自分もいて、高校に上がって自分の考えがすごく複雑になっているような感覚がある。私は、考えることを先延ばしにするくせがあるので、おとなでも子どもでもない今の時期を大切に思って過ごさなければならないと思った。いま抱いている感情と向き合い、自分が進むべき道を見つけたい。


ウィリアム・スミス・クラークの像(札幌市 羊ヶ丘展望台)
ビー・アンビシャスをちゃんと訳せば、大志を抱けなどというヌルい意味というよりは
「ガツガツ行けよ」「前のめりで行こうや」という感じだと思う

 

なかまとの交友関係は、物理的な親疎から性格などに要素が変わっていくとのことですが、実際にそれを感じていました。小学生のとき家が近くて仲がよかった人たちも、高学年くらいになるとだんだんグループができていました。その流れを具体的に知ることができてよかったです。
青年期に人間関係の再構築がおこなわれるということに関して振り返ってみると、たしかに高学年のころから勉強やクラブ活動に対して同じ熱量で取り組む人とばかりつるむようになったと思う。
小学生ころまでは物理的な距離が近いと仲よくなれるが、いまの私たちのように趣味・立ち位置・価値観などで親しくなるように変わる、というのはすごく斬新で、納得できる考え方だなと思った。

小・中学校のクラス替えの際に、ピアノを弾ける人、まとめる人、頭がいい人などが振り分けられていたことは知っていたが、同時に多様な人格やキャラをもつ人どうしをかかわらせていたとわかった。当時はただ楽しい学校というイメージだけだったが、今回の授業を聞いて、たくさんの先生の思いが詰まった「教育機関」というイメージが強くなった。

「子どもなんだから」と「もうおとなでしょ」を使い分けている人は本当に都合がいい。その点、うちは親が子どもを子ども扱いしていなくてよかったと思う。ある程度好きにやらせてもらっていて自由だと感じるし、失敗したときは自己責任で他人に当たることもないので、人にいつも頼りながら生きていかなくてよいような育て方をされて感謝している(といっても、もちろんお世話になりすぎているが)。いまのうちは自由にやって、自由に感情を爆発させていたいと切に願う。

青年期は周囲の言葉に敏感になってしまう時期だと思います。自分自身が周りを観察し、さまざまな価値観や意見をもつようになるからこそ、同じように他人から見られている気がしてしまうのではないかと思うからです。

いま青年期にいる自分たちにとって共感できる部分が多かった。体や、必要とされる責任はおとなに近づいていくし、子ども扱いされることを嫌う傾向にあるのに、心がまだ追いついていない(責任感や計画性などもろもろ)ように感じることが多かった。親などのおとなに反発してしまうのも、おとなになるための成長だと知り、少し安心した。私が「異常な異常」に陥っていないのは、優しく厳しく見守ってくれる周りの人たちのおかげなのだと思った。

第二次性徴を経て、他人と比較して自分の能力や適性の有無に気がつく、ということを学んだが、ただ学校が同じだけで知り合った友人たちと比較して、優越感や劣等感に振り回されるというのももったいないなと感じた。
・・・> まあでも、そういうものですし、その時期がないと成長しないんじゃないですかね。自分の自分らしさを認識しようとすれば、他者との比較と、そこに優劣という尺度を持ち込むことでなければ無理でしょ? (鏡を見たってわかるものでもないですしね)

反抗期のイメージとして、娘が父親のことを気持ち悪く思う、というのがありますが、これは「おとなを評価する」という動きなのでしょうか。
・・・> そうです。

青年期にある私の悩みとして、おとながおとなしかわからない話題で笑い合う場面は居心地が悪いとか、おとなが説教してくると「私の何を知っているのか」と反発したくなることがある、などいろいろありますが、これらすべて「反抗期」で片づけられてしまうことが一番の悩みです。私たちがどれだけ考え、成長しようとしていても、おとなの視点から見ればなお未熟として扱われてしまうことが多く、そのたびに、ではどうすればおとなたちに「成熟した存在」として認められるのか、という疑問が湧いてきます。以前は、成人したらおとなだと思っていたが、18歳になってもなお子ども扱いなので、いまはお酒を飲めるようになったらおとなの仲間入りであると信じている。
・・・> 大学生になるとお酒を飲みはじめる人が多いですけど、はじめのうちはガキがイキって 青年期の若者が背伸びして「おとなのしそうなことをしてみる」飲み方ですよね。いや〜そんなこともあったっけなあ(遠い目)。「ではどうすれば成熟したと認められるのか」的な疑問を抱かなくなったときに、成熟したと認められるのだと思います。とループします。おとなになったらお酒に誘ってね。


第七高等学校造士館の記念碑(鹿児島市)
戦前の(旧制)高等学校はいまでいう大学の前半に相当する高等教育機関で
高い階層の出身の「若者」(ただし男子のみ)がつどって若き日を過ごした
第七高等学校は戦後の学制改革で鹿児島大学になっている

 

今回の授業で、青年期と抽象的思考との関連に非常に興味をもちました。スライドにあった例(πとか英語の例)を見て、私たちは知らず知らずのうちに抽象的に思考し、さまざまなことを学んでいっているのだと感じました。そして、この抽象的思考ができるようになるからこそ、他者との比較ができるようになり、アイデンティティを模索するようになるのだとわかりました。
・・・> ですから中学校あたりで知識の量的な暗記みたいな学習ばかりさせるのは本当にまずいのです。量的に知識を突っ込んで、その中で自身が「型」のようなものを見出し、取り込むことができればベストでしょうが、自力でそれを果たすのは難しいのと、それを果たしやすいのは子ども自身の先天的な能力より親の経済水準によるということがわかっていて(ひらたくいえば、金持ちの子どもほど高学力になりやすく、逆は逆)、私たち学校教育の側が生徒の自主的・自律的な学習努力に投げてしまうのでは役割を果たせていないことになるのですね。国語・数学・英語が非常に重要です。社会科や理科の学習は、それらの教科の出来に引っ張られる部分が多く、そうでなくて「社会科だけできる」タイプの生徒は、残念ながら応用が利かないことが多い。

青年期においては異常が正常であるということを学び、青年期にある自分を少し俯瞰することができた。またこの学びを生かすことで自身の成熟につながると考えた。しかし「異常が正常」であることを過信すると「異常な異常」につながってしまうので、私たちがしっかりと青年期の課題を理解し、自身を規律すべきだと考えた。

子どもの夢に比べて青年期の「進路」は、何かしらをあきらめなければいけない、という実感があったのですが、これは自分の適性を自分で考えられるようになったということだと知って納得しました。青年期は、はじめ職業選択をするおとなへの準備期間だと説明されていて、私はまだまだおとなではなく、このまま大学生・社会人になっていいのだろうかという不安がありましたが、青年期が長期化していると知って安心しました。ですが、成人という区切りがあり、ある程度の常識などは身につけておかなければなと思います。

モラトリアムは、単なる猶予期間ではなく、現代の若者が自分のアイデンティティや生き方を模索する大切な時期だということを授業で学びました。とくに現代においては、選択肢が多く、不安定な社会だからこそ、この期間が長くなったり終わりが見えなくなったりすることが多いという話が印象的でした。自分もまさにモラトリアムの最中にいて、なんとなくですが、漠然としている将来について「いまは決めなくてもいい時期」だと考えて、無意識に安心を求めていたのかもしれないと思いました。今後はモラトリアムをただの「逃げ」ととらえるよりも「必要な時期」としてどう支えていくのかが社会全体の課題だと感じました。

いつおとなになるのか、どのような考え方ができれば子どもではなくなるのか、自身のみで考えるのは危険だと考えました。なぜなら、その段階では自分が最大まで成長したのではなく、他の周りの人たちを自分の目線まで下げてしまっているからです。青年期は周りの環境も自分の心身も大きく変化する時期であり、その期間により多く正しい知識を身につけ、外面・内面ともに成熟したおとなになれるよう、日々意識的に過ごしていきたいと思いました。

私も現在、身体的には社会人の人たちと同じくらいだが、心(考え・知識)が社会に適応しきれない「ちょっと待って期間」に突入していると思う。小・中学校のときには、とりあえずたくさん勉強して将来、社会に出るときに選択肢をたくさんもてる状態にしよう、と考えていたが、現在もその思考のままで将来の選択から「逃げて」しまっている。しかしこの状態をつづけられるのも青年期のあいだだけで、おとなになったらこの期間の気持ちになることができないのだから、将来に対する期待や不安感といった現在の気持ちを大切にして、日々の生活を過ごしていきたい。

年期のことをこんなに詳しく読み解いたのは初めてです。コールバーグの道徳性発達理論を聞いていて、私自身も小学生のころは「よい子」になることがおとなになることだと思っていたなあと思い出しました。当時は演じていたわけではないけれど、いま振り返ると周りの子と比べてしっかりしていると思われたいという願望で動いていた気がします。過去を振り返っている今の私も、未来の私が振り返るとまだまだ未熟なのだと思うと、何をしてもなんか違う気がしてしまうけど、この模索が有意義なものになるような「ちょっと待って期間」にしたいです。

以前、家庭科の授業で青年期の心理について学び、興味をもっていたので、今回より深く知ることができて非常におもしろかったです。とくに印象に残ったのはコールバーグの考えた「善」の認識を6段階に区分したものです。自身の経験を当てはめ、何を善とするのか正確に理解できていない私たちにとって、今後その考え方がどのように変化していくのかがわかるのは興味深く、段階の進歩を個人個人で比較してみたいと思いました。4から5への変化は、たしかに4では知識として捉えることができるのに対し、5ではそれを応用して自分の経験等を踏まえて考える必要があるため、4.5というステージが存在するということに大いに納得しました。
・・・> ステージ4.5を提唱したのはコールバーグ自身ではなく後継者たちですが、それは社会の変化(現代化)に伴って、「そんな簡単におとなになってくれないじゃないか」という疑念が共有されるようになったからです。いわゆる「若者」は、やれといったらやらないし、やるなといったらやるし、いうことは聞かないし身勝手だし反抗的だし、小学生よりも手に負えないじゃないか、というわけですね。5を模索する中で、善悪を判断する主体を客観的な価値ではなく自分自身の主観の中に取り込もうとする(つまりまともに成長している)のだが、その過程では見かけ上、ステージ2くらいの退行を見せます(いわゆる第二反抗期)。そこをうまく説明するために4.5を想定したのでした。私は、そんなにシンプルでもないと思うのだけれど、心身の遊離や思考過程の迂回化といった現象はたしかにありますので、誰かが提唱した概念、ということで援用しています。

コールバーグの道徳性発達理論のステージ6に到達する人とステージ5にとどまる人の違いは明らかになっていますか。
・・・> ステージ5は、道徳的な価値の基準が個人をして自律化し、原則的になっている/個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうかが問題となる/この段階では、困っている人はそれだけで援助を受けるに値するという認識がある。ステージ6は、すべての人間としての権利や価値を平等に尊重するという人間の尊厳の尊重が正しさの基準となる(普遍的な倫理的原則を持つ) 「正義」と「慈愛」の原理が相互に支持し合い、調和する。つまり、人間として完成されすぎている段階なので、常人には無理でしょう(笑)。コールバーグがこの段階を代表する人物として例示するのは、キリスト、ソクラテス、仏陀、孔子、リンカーン、キング牧師など。

古賀先生は生まれたときからおじさんとのことですが、それを自覚してしまったきっかけなどあれば知りたいです。
・・・> あ、ネタです。(元ネタは伊武雅刀の「子供達を責めないで」。これは秋元康の出世作です)

 
(左)二宮尊徳像(小田原市 報徳二宮神社)  (右)伊能忠敬像(千葉県香取市 佐原駅前)
自然災害と両親の死によって幼年ながらに家計を支えた尊徳(金次郎)は近代に入って「めざすべきモデル」とされたが、さて・・・
伊能はいまでいう中小企業経営者の地位を引退後、50代になって学生となり、全国を踏破して正確な日本地図を作製した

 

近代化に伴って青年期は短縮されるのかと思ったけれど、逆に長くなっていまは1130歳とされていることに驚いた。まだ自分自身が確立されない段階で人生のたくさんの選択(進学や就職など)をしていくというのは大変だと思った。いろいろな自己表現の方法や経験(失敗を含む)を通じて、徐々に自分というのがかたちづくられて、青年期からおとなへと変わっていくのだとわかった。青年期についてもっと知りたいと思った。

就職活動の競争が激しくなったことが高学歴化の要因だと思っていたので、若者が社会に出たがらない「ちょっと待って期間」や、世の中自体の複雑化もかかわっていると知って驚いたし、納得した。小学生のころは早くおとなになって自分の力で稼ぎ、生計を立てられる一人前の人間になりたいと思っていた。しかし義務教育を経て自分で高校を選べる中2・中3あたりで、自由すぎて自分のしたいことがわからなくなり、世の中のしくみを知ればしるほど自分の未熟さを痛感することが増えて、まだ親のもとで安全に生活していたいと思うようになった。誰もが青年期を過ごすのに、いずれ私もいまの感情を忘れてしまうのかと思うと、少し寂しい気がする。4

青年期が近代の概念であること、長期化しているということを知り、驚くとともに、昔はなかった概念を教えたり青年期の子どもに教えたりするのはすごく難しいのだろうなと思いました。そして、近代化はよくも悪くも新しいものをもたらし、社会を変化させたのだろうと思いました。(類例複数)

自由になったことで、よりおとなになるための期間が長くなるということが理解できた。私は小学校高学年のころから義務教育に不満があり、早くおとなになりたいと思っていた。しかしこの考えこそがおとなになる準備であり、移行期間であったから許容されていた考えなのかもしれないと思った(先生への反抗など)。

近代人が獲得した自由が、おとなへの準備期間である「青年期」を生んだという解釈が興味深かった。義務教育の長期化、世の中のしくみの複雑化・高度化によって青年期は長期化している。しかし栄養状態の好転により身体の成熟は早まっている。IT企業などはその青年期の不安定性を理解して、私たちを操っているのだろう。とても恐ろしいが対策が難しいと思った。2年生で習った「こころ」に対する解像度が上がった。自由に迷う苦しみは近代人の宿命である。

近代における自由の代償、自分の選んだ道には責任が伴う。「自分らしくいる」というのはよいことばかりではない。全員が自分らしくしていたら社会は不安定になる。自分らしくいたいという気持ちは、勇気でもあり恐怖でもある。世の中の複雑化→就学期間が長期化→労働人口の減少→(しかし)技術の進歩や効率化により生産性は上がる→(とはいえ)それだけでは非生産層の拡大をカバーしきれない?
・・・> 勤労人口そのものが大きく減っていますからね。カバーしきれないでしょうね。

将来の職業に合わせて教育され成長していた時代と異なり、何にでもなれる=何になるかわからない不確実性に、近代以降の人々の不安の源があると理解しました。青年期の長期化という点で、入口と出口の距離が開いているという話がありましたが、時間の長さだけでなくその質や密度に関して何か変化はあったのでしょうか。
・・・> ルソーの予言みたいに「嵐の一夜」くらいの話であれば、早々に腹をくくらなければなと当人も周囲も思うでしょうが、ずっと青年期だとそういう感覚も失われますし、異常な正常が異常だと思わなくなります。質や密度に大きな変化があるから問題、というよりも新たな課題(教育あるいは社会の)が生じているのです。

近代になるまで青年期は存在せず、社会の構造やしくみの変化によって現れた、という話が印象的だった。古賀先生は知識として青年期のことを知っているが、「エミール」を書いたときのルソーは青年期の感覚を覚えていた。まだ青年期だったのでしょうか? また、反抗期の人にこの講義をして「反抗している」といったら、反抗することに反抗するようになるのでしょうか。
・・・> 後半は意味がわからん(笑)。わかるけど、わからんほうがおもしろいのでわからんことにしておこう。わかる?(わからん) ルソーのレベルになると、超人ないし変人ですから、自他とか時代を超越して人間の真理を見通せてしまうのではないかな。あいつ本当に変人だから。おそらく古代以来の歴史・社会の中に近代的な何かを見つけ出したのでしょう。ポリスに関する知識をさんざんひけらかしたあとで「でもそれはどうでもいいことだ、無用だ」といっちゃっていますしね。この達観は、デカルトやモンテーニュなどのフランス系啓蒙思想に独特の感性かもしれません。私はついていけない(笑笑)。


ジャン-ジャック・ルソーの像(出身地ジュネーヴにて)

 

世の中のしくみが複雑化・高度化することに応じて人の発達が変わり、青年期が長期化するという話がとてもおもしろかったです。身体の成熟スピードは、栄養状態などで早まったり遅くなったりしますが、心・内面の成熟スピードもなんらかの影響で左右されることはありますか? 青年期が資本主義の格好のカモという話で、そういった若者文化を好む人は、学生にかぎらず社会人にも多いと感じていたので、青年期が30歳あたりまでということを知り納得しました。自分で稼げる状況でもカモになってしまうのは恐ろしいなと感じました。
・・・> 1学期後半のテーマであった情報・メディアが、現代の青年期の内面に大きく作用しているといわれています。かつて農村共同体の中で過ごしていた子どもと違い、都市は商業的にも文化的にも刺激にあふれていますし、そこをねらって資本主義の側が若者をターゲットにした刺激を繰り出してきますよね。いい意味でも悪い意味でも「頭でっかち」になり、しばしば心・身のバランスを大きく崩すとされます。かつては都市部のほうが女子の初経年齢が早いという傾向がみられたのですけれど、このところは有意差というほどでもなくなっているようです。おそらく性ホルモンの分泌を促すような刺激の度合いが、農村部でもあまり変わらなくなったことと、なにより食生活の傾向が全国で均質になってきているということでしょう。

青年期が30歳近くまでつづくなんて驚いた。おとなも、かつては子どもだったのに子どもの気持ちがわからないなんておかしいと思うことがよくあったけど、正常を理解したおとなは「異常な正常」に戻れなくなるのだと初めて理解できた。

おとなは青年期を乗り越え、忘れた存在だということに少しとまどいを感じたが、青年期にある私自身、青年期を乗り越えるという理想像を思い描くことはできる。また個人差が出やすいという点を考えると、少し納得できるような気がする。

青年期を脱すること=おとなになること であるなら、青年期に含まれる2030台の人々はどういう存在になるのかが気になりました。10代が、子どもともおとなともいえないのはわかりますが、おとなとしてわかりやすい年齢でも青年期に含まれていることが驚きでした。

青年期が30歳前後までだとしたとき、成人しているけど(または学校を卒業したけど)未成熟な人が多いということであり、「先生」や「親」であっても未成熟な人が子どもに教育をしているかもしれないと思うと、少し怖いなと思いました。

栄養状態の変化によって青年期に突入する年齢が若くなっていることや、大学進学が増えたことなどにより結婚年齢が高くなって青年期が終わる年齢が遅くなっている、ということに驚いた。青年期が長くなったことで、企業などお金もうけを目的としたものが青年期の人たちを対象に経営戦略を立てるようになるということに納得した。おとなが青年期を忘れてしまうのなら、青年期の人たちの悩みに本当に寄り添うことができるのは、おとなではなく青年期の人たちだと思った。カウンセラーなどの人が青年期でないのは、あまり意味がないのではと考えた。
・・・> 寄り添うということの意味を、まだ十分にわかっていないのではないかと思います。カウンセラーは誰よりもおとなでなければなりません。いまどきカウンセラー志望の若者って結構多いのだけど、君がカウンセリングを受ける側なんじゃないのというタイプの人が一定以上の割合でいます。自分(の内面)にしか興味が向かわないあいだは、カウンセラーなどの対人臨床は無理だなあ。

青年期を忘れた状態であるのがおとなである、と授業では述べられていたが、たまにいる、子どもみたいなおじさんはまだ青年期という解釈でよいのだろうか。公共の場で迷惑行為をしてSNSでさらされるのを見て、「自分で選べる」というのは恐ろしいことだと思うことが多々ある。
青年期だけでなく、おとな、老人についても教えてほしい。アイデンティティを手に入れても幼稚に思える人も多く存在するはず。
・・・> 子どもみたいなおじさんは青年期ではなく、おじさんです。公共の場で迷惑行為をするのは迷惑なおとなです。青年期ではありません。アイデンティティを手に入れても幼稚に見える人は、幼稚なおとなです。青年期ではありません。

自分の青年期がいくつまでつづくのかはわかりませんが、将来自分がおとなになり、子どもが青年期を迎えたときに、感覚を忘れていても少しでも寄り添えるように、いまから日記をつけて、この貴重な青年期というライフステージを大切にしたいです。
青年期の、まだ社会に出たくないという状態は正常であり、発達段階も人によって差があるのだとわかった。学校の教員は、身体的な面と精神的な部分のどちらも考慮して一人ひとりに適した対応をとるべきだと思った。これは、以前に学んだAIには備わっていない能力だと思う。青年期の感情を記憶することはできないが、日記などで残すことはできるので、将来の自分の子どものためにメモしていこうと思う。
・・・> 健康に悪いからやめたほうがいいかもよ(意外にまじで)。日記じゃなくて作品か何かのほうが、自分や子どものためになると思う。

おとな=青年期を忘れた存在 というのは、青年期のモヤモヤする気持ちへの対処方法がわかるようになった、無駄に悩むことをしなくなった、ということなのか? 栄養状態の好転により以前に比べて青年期は入口が早くなったとあったが、出口が早まったり遅くなったりする要因は何かあるのか?
・・・> モヤモヤしなくなります(青年期みたいな感じでは)。そして、無駄に悩まなくなります。青年期の悩みやとまどいの大半について、なんでそんなことに引っかかっていたんだろうとアホらしくなります。悩みがなくなるのではなく、そのステージが移行するということです。青年期の出口が遅くなる要因は、高学歴化や終身雇用の後退などの今日的変化に求められることが多いですが、私がかねていっているのは、授業でも指摘したように「消費社会の魔の手」のせいです。青年期のままでいてくれる人が多いほど「市場」が厚くなるのでね。


ベルリン ウンター・デン・リンゲン通り 旧東ベルリンのメイン・ストリートで
撮影位置の背中側に有名なブランデンブルク門がある 「舞姫」の主人公豊太郎は
写真手前から奥に向かって歩き、その先のクロスター通りで舞姫エリスと出会った
「或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、
我がモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ」(青空文庫版より)

 

「ちょっと待って期間」がおとなになるための準備期間であることを見失いがちである、とありました。準備期間であることを見失わず、おとなになるうえで考えることを放棄せず、準備を徹底した人と、準備期間であることを見失って準備できず青年期から抜け出せない人の差が、今後より顕著になる(経済格差や情報格差など)のではないかと考えました。

新自由主義の陰謀、とはどのような文脈でしたか?
・・・> なりたい自分になる、ていう派遣会社のうたい文句を例示しました。青年期の成長願望と、束縛を嫌い自由にありたいという思いに、雇用の流動化を求める(正社員でないほうが解雇しやすいので)資本主義の側がまんまとつけ込んでいる、という話です。

私もそうなのですが、青年期の人たちは、とくに自分のアイデンティティを確立したいという気持ちが強いと思います。ここ数年MBTIが若い人を中心に一般的な概念になっているのは、それが理由なのだろうと思います。しかし就職系のサイトなどでもMBTIに絡めたことをやっているなど、やたらと診断させておすすめの職業を紹介するというのが見られます。診断することで新たな発見もあるとは思いますが、進路に関することにMBTIをやたらと絡めるのは、若者の心理につけ込んでいるようにも感じます。
・・・> この前の授業でいっておくべきだったかな。MBTIなるものは典型的なエセ科学ですので、ネタとして扱うならまだしも、そんなものに一喜一憂して心を痛めたりするのはもったいない。MBTI自体が学会で否認というかエセ認定されたものであり、それを取り込んで民間のサイトなどで「診断」するというのはより悪質な霊感商法の一種です。「建物診断」といったような、明らかに比喩として使う場合はともかく、人間の心理や精神を「診断」する行為を、医師免許をもたない者がやるなど言語道断です。診断というのは医療行為です。こんなものに引っかからないようにしてください(友達を巻き込むのも罪だと思ったほうがよいです)

おとなが青年期を脱したら青年期の感覚を忘れてしまうというところで、とても納得がいきました。母に人間関係のことを相談すると、なんでそんなのに気を遣っているの? 一人になってもよくない? みたいなふうにいつもいわれて、なぜ共感してもらえないのかと疑問に思っていたのですが、「周りからどう見られているのか気になる」といった青年期の感覚をおとなはやはり忘れてしまうのだなと思いました。もちろん母なりの性格というのはあると思いますが、少なからず関係しているのだろうと感じました。

おとなも青年期を経験しているのに青年期の子に寄り添えないのか。自分の過去を見ているようでムカついてしまうからなのではないかと考えた。昔の自分の未熟さと子どもの未熟さが重なって、子どもに当たることで自分にも刺さっている。
・・・> たぶんそういうことではありません。子どもにはわからんのだよ。ふふ(ていうのはズルいよね、ごめんなさい)。自分の子どもにかつての自分を重ねてしまう(たいていは「いらだつ」)というのは、よくあることですが、それは青年期の問題というより親の側の問題。たいていは、おとな(成人・社会人)としての迷いや悩みやネガティブな部分を投影してしまっています。

子どもからおとなになる段階の私たちは、自由だけど自由でなく、まだ何かが足りないという状況にある。ここから抜け出すにはかなりの時間がかかることを学び、その期間が思っていたよりも長いことに驚いた。万能な進路選択はないし、親に頼りたいし、いろいろな面で自立できないポイントがあり、おとなになれるのか不安になった。姉が来年就活ですが、それもあってだんだんおとなにならなくてはいけないドアが近づいているのを実感し、嫌です。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。

2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

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