古賀毅の講義サポート 2024-2025

Études sur la société contemporaine I: Instruction civique pour la recherche

現代社会論I探究するシヴィックス5.0


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル時代のパースペクティヴ2024

 

20244月の授業予定
4
12日 開講にあたって/探究する学びのイメージ
<第1部 産業構造>
4
19日 産業の高次化と工業(第二次産業)
4
26日 軽工業の推移と労働者のスキル

 


次回は・・・
3-
軽工業の推移と労働者のスキル

工業の中でも軽工業(繊維、食品、雑貨など)は、いまの日本ではさほど重視されているとはいいがたい分野です。みなさんが普段身につけている衣類の多くは綿製品(あるいは綿+化学繊維)ではないかと思いますが、それらは糸も布も商品(完成品としての衣類)も、大半がアジア各地域からの輸入に負っています。いまや世界規模で展開するユニクロは、もとより日本発祥の企業ですが(出発は山口県)、日本国内に生産拠点はありません。日本以外のどこかの国で製造した衣類を世界中で売っていることになります。しかし、いまから半世紀くらい前(1970年代ころ)までは、綿製品こそ日本の主力産業のひとつでした。綿(コットン)の糸をつむぐ工業を紡績業と呼びます。いつの間にか生産が海外に移転したのです。さらにその前になると、1930年くらいまでは、生糸(きいと=シルクの糸)をつむぐ製糸業が盛んでした。群馬県の富岡製糸場が知られるように、幕末から明治期にかけて製糸業が勃興し、欧米向けの主力輸出品になります。ここで考えたいのが、なぜ製糸業や紡績業が明治〜昭和期の日本で繁栄し、なぜその後に衰退したのかということです。いま綿製品の生産が盛んな国や地域との類似点があるのかどうかにも注目しましょう。

いまユニクロの社名を例として挙げました。スウェーデンに本拠のあるH&M、スペイン発祥のZARAなどとともに、ファスト・ファッションと呼ばれる業態を代表する存在です。いまの高校生が生まれる少し前のころから、これらのファスト・ファッションが世界規模で展開するようになり、私たちの生活に定着しました。全身をファスト製品で包んでいるという人も少なくないはずです(そんな私もガワはAOKIで中身はユニクロ 汗)。昭和時代の「お洋服屋さん」はもっと多様で多彩であり、商店街の小さなお店(「洋品店」と呼びました)も多く、衣類を生産し流通させるルートもさほど大規模ではありませんでした。ファスト・ファッションはとにかく巨大で、世界規模だというのが特徴です。その呼称のネタ元であるファスト・フードと同様に、世界のどこにいても同じような水準の味とサービスを受け取ることができるという点で、安心感や安定感は抜群です。これも今回の大きなテーマとして取り上げます。なぜファスト・ファッションは世界規模なのか。それを成り立たせるものは何か。そして、ファスト・ファッションが大規模に展開した2000年代ころに何があったのか。

日本人にとって軽工業というテーマは、ある意味で「終わった話、過去の件」です。いまからどうあがいても、オートクチュールなどの高級品をのぞいては国内で大々的に生産するということにはなりえません。なぜそれを「現代」社会論のテーマにするのかというと、「産業というもの」の考え方におけるある種の規範が、軽工業というか繊維工業には多分に含まれるからです。高校3年生にとって重要なことは、繊維工業に進むかどうかはともかく、数年後にはなんらかの具体的な産業部門に足を踏み入れ、その一員となるはずですから、自分が生きていく社会や産業の見方・考え方を心得ることではないでしょうか。「終わった話」は、その意味で当事者性を薄めながら考えることができる、よき素材です。ただ、私たちが大いに世話になっているファスト・ファッションの構造に目を向けると、それは軽工業にとどまらず、第三次産業や情報産業の問題へと広がっていき、たちまち当事者性が高まります。おもしろさと恐ろしさを存分に感じ取ることができるテーマではないかと考えます。

 

REVIEW 4/19

先生がおっしゃるとおり、産業とは私たちの生活に直結する、いちばん身近な話題だと思いました。将来のこともそうですが、生まれてからずっとかかわりつづけていくものであって、なぜいままでしっかりと扱ってこなかったのか不思議で仕方ありません。第三次産業が大きくなってきて、どんどん生活も便利になってきて、それ自体は喜ばしいことですが、その根幹となる第一次産業の人手不足は、機械化等でなんとか補えないのでしょうか。

第一次産業、第二次産業、第三次産業と分類されていることは知っていたのですが、それぞれの分野が何をするものなのか具体的に理解していなかったため、授業を通して知ることができてよかったです。

第一次・第二次・第三次産業を分類した人やその考え方を知れて、社会の流れがわかり、今後の知りたい分野が拡大した。

国によって産業分類の仕方が少し違うことに驚きました。また、一・二・三となっていますが、その数字もただのヘッダではなく意味があるというのがわかっておもしろかった。

産業革命は、重工業の発展がキモだと思っていたが、本質は軽工業の近代化であったということを初めて知った。

中学校の復習のような内容だったが、第一次産業革命と第二次産業革命は、日本ではたてつづけに起こっていて、ひとつづきの話として捉えられていたという見方は初めて知り、とても興味深かった。

第一次産業、第二次産業、第三次産業の分類があまり理解できませんでした。ビニールハウスでのレタス栽培は日光さえ必要ないというような写真を見たことがあるのですが、それでも第一次産業に入るのでしょうか。不思議です。軽工業と重工業の違いもよくわかりませんでした。木製の織機はどちらに分類されるのでしょうか。
・・・> 授業で申したように、第一次〜第三次というのは、あくまで統計を取ったり社会構造を理解するための便宜だったりして、こまかな意味をもたせるものではありません。植物を育てるのは、ほぼ例外なく第一次産業と考えて結構です。農業だってハイテク化します。木製の織機を製作するのは軽工業です。ていうか、そんなのはいま伝統工芸品でもなければつくっていませんので、産業のうちに入りません。

けさ電車で前に立っていた社会人のかばんのファスナーにYKKと印字されていた。授業で、黒部川の水力発電とアルミニウム産業の話が出てきたときに、社会と生活がリンクしていることを実感し、少し当事者意識が芽生えた。

公務員は第三次産業に分類されるのだろうが、職務的に産業とはいいがたく、そういったグレーな部分を一緒くたにまとめてしまってよいのかと、少し気がかりである。
・・・> 「その他」「分類不能」はすべて第三次産業です。統計を取るときに合計を100%にしなければならないというのは、小学校の算数で習いましたよね。その関係。

将来やりたい職業などはまだ見つかっていませんが、第三次産業に進むのではないかと思っています。しかし、これは必要不可欠で重要な第一次産業=もうかりにくい という概念が知らず知らずのうちに定着しているからであり、そういう社会になってしまったからだと思いました。

 
(左)インドの最大都市ムンバイの屋外市場 このあたりの「お店」はおそらく農家の直売
(右)フランス マルセイユの旧港では、漁船の持ち主が獲れたばかりの魚を朝に直売する
こういう業態はおそらく古代から普通にあって、第一次とか第三次などという区分が無意味な時代の名残だろう

 

B to Bは消費者から見れば裏方の企業なのでしょうか。私は裏側を知ることが好きで、おもしろいと感じるので、B to CよりもB to Bのほうが楽しめる気がしました。いままでは名のある会社のことしか考えていなかったので、視野が広がりました。
自分の進路に役立ちそうな産業構造について学ぶことができました。どの産業に興味があるのか、よく考えていきたいと思いました。ついついB to C企業ばかり考えてしまいますが、それはB to B企業の知識が不足しているからだと思ったので、もっといろいろな企業の情報を収集する必要があると思いました。
日常で目にする企業はB to Cの会社ばかりで、B to Bにも有名な企業があるのは知っていたが遠ざけてしまっていた。また、第二次産業と第三次産業でも違いが少ないと知り、興味をもつことができました。

私は、B to BB to Cという言葉を初めて聞きました。業務スーパーとかワークマンなどは、近年一般の消費者に人気ですが、これらはB to BからB to Cへとターゲットを広げた企業と認識してよいのですか。
・・・> そうです。

早稲田の理系学生は4年生修了時の就職率が6割もなく、B to Cに執着しているという話がありました。理系学部生の多くが大学院に進むと聞いたことがあったので、大学院からの就職はどうなのか気になりました。
・・・> そうではなくて、文系も含めた早稲田の卒業生という話をしました。一般に、文系のほうがB to Cに固執しがちです。普通に考えて、理系の技術者が自分たちの腕を発揮できるのはB to Bのほうでしょうからね。

軽工業が近代化したあと重工業が追いつくと考えられている、という話がありました。それを考えると、B to C企業を支えるのはB to B企業だから、B to Bもさらに発達するはずだと思いますが、B to Cほど有名でないのは、私たちがCの立場だからでしょうか。B to BがないとB to Cが成立しないのに、B to Cのほうが有名だからよい、みたいに思われそうで恐ろしいです。
・・・> あえて乱暴で無礼なことをいっちゃうと、Consumer(消費者)だからというより、Child(お子ちゃま)だから気づかないだけだと思う。おとなになったら、案外すぐに視界に入ってきます。浜松町から羽田空港に向かう東京モノレールに乗ると、車内広告や駅の広告にやたらとB to B企業が出ていることに気づきます。ビジネスマンがたくさん乗っているからですね。東海道新幹線で東京から新大阪に向かうと、少し平らな地面があれば727と赤い文字で書かれた野立て広告をたくさん見ます。あれはセブンツーセブンという大阪の化粧品メーカーの広告。薬局や化粧品店での販売はおこなわず、ヘアサロンや美容室に商品を供給する謎めいたB to B企業です(美容室で購入することはできるようです)。

セブンイレブンの話を聞いて、「初」とか「業界一番」をとることが、企業が生き残るために大事になるのだと思いました。すでに売り上げが安定していたとしても、抜かれないように常に新しいものを求めつづけることが企業にとって大切なのだとわかりました。
・・・> とくに現代では、勝者総取り(Winner takes all)的な色合いが強く、プラットフォームや規格を最初に得た企業はしばらく安泰です。あとはそこにぶら下がるしかない。でも、システムそのものが別のものへとスライドするとき、主役の交替は案外あっさりと起こります。PCの基本ソフト(OS)ではマイクロソフトがアップル(マッキントッシュ)を追い落として、1990年代に独占に近い状態を確保しましたが、デバイスの主力がPCからモバイル(携帯端末)に移行した際には、マイクロソフトはPCでの成功体験や成功モデルを脱することができず、メジャーの地位から転落しました。グーグルとアップルにやられたわけです。飲食業界にも似たような例がいくつもあります。傍目に見聞きするぶんにはおもしろい物語ばかりですが、当事者たちは大変だろうな。(誰? 学校教育はオワコン化しているなんて私にささやくのは!)


台北のセブンイレブン 東京とほぼ同じ仕様だが出典密度は東京を上回るかも・・・

 

第一次産業の就労者が3%しかいないということに危機感を覚えた。しかし自分が第一次産業に進むかと聞かれたら、進まないと思う。私のような考え方の人が多いから、人まかせになって率が下がっているのだと思う。
第一次産業と第二次産業が年々減少しているという話は小・中学校で学んだ覚えがあり、私を含め多くの人が、第一次産業がなくなったら生きていけないというのは理解していると思います。しかし私も、誰かがやってくれるのだろうと思ったり、将来の生活を見据えると第一次産業にかかわるというつもりはありません。第三次産業は発展させる方法がたくさんあり、成長しつづけるからニーズが高まり、労働者も増えるが、第一次産業は高次の産業の根元にあり、重要であるのは誰もが理解しているのに苛酷なうえに稼げず、安定した生活が保障されないことから現在の産業構造になっていると思う。ペティ&クラークの法則は明らかだとあらためて思った。

第一次産業の衰退により機械の導入が進むだろうから、第一次産業の概念や存在も時代ともに複雑に変化するだろうと思った。

どれだけ軽工業が不可欠であるかをすべての人が理解したとしても、産業の高次化は停められないので、第一次産業のみならず第二次産業の割合も少なくなると考えた。ただ、結局は無人プランテーションや自動生産システムのようなものができてきて、生身の人間がどれだけ軽工業が不可欠であるかをすべての人が理解したとしても、産業の高次化は停められないので、第一次産業のみならず第二次産業の割合も少なくなると考えた。ただ、結局は無人プランテーションや自動生産システムのようなものができてきて、生身の人間が直接生産にかかわることが少なくなる、ということもありえるのではないか。

いま情報化社会に生きる人々が、第一次産業の価値に気づきはじめている。その意味で、もっと国がその雰囲気をつくるべきだと思うのですが、どう思いますか?
第一次産業の従事者が少ないというのは知っていたが、全体の1割もいないということに驚いた。国の支援金等による補助で、従事者を増やすことはできないのだろうか。金額などの単純な問題ではないのだろうか。
第一次産業が足りなくなっているのは、そのイメージの影響が大きいと思う。
将来なりたい仕事になかなか第一次産業が挙がらないのは、収入が少ない、天候などに左右され安定しない、というイメージがあり、学歴社会である以上どうしても名の知れた大企業に人気があるが、政府から第一次産業従事者へもっと支援があってもよいと思う。
・・・> 農業や農村と縁遠いのがわかります。大事な部分に対する考察が、みんな抜け落ちていますね。農業はたいてい世襲(親から子へと受け継がれる)です。自分の所有する土地で生産しますので、その範囲内で無限の可能性をもっています。また定年退職もありません。好きなだけ存分に働くことができます。自分たちのつくったものを多くの人たちが「おいしい」といって食べてくれます。そんなストレートな喜びを感じられる仕事って、ほかにあると思いますか? 学歴社会や消費社会に絡めとられている誰かさんたちよりも、よほど誇りと喜びをもって生産に取り組んでいるのかもしれませんよ。実地に見学に行ってごらん!

社会が発展すると、産業は第一次→第二次→第三次というように高次化していくし、同一分野内部の主軸の推移においても同じことがいえるということでしたが、農林水産業、鉱工業、サービス業の順でもうかる確率が高いという現実にかかわらず、一人ひとりそれぞれの人に適した分野を職業として選択すべきだと思いました。
・・・> そんなふうに「べき」論を掲げたところで誰も聞く耳をもちません。また、国家や政府が強要することも許されません。日本国憲法22条、職業選択の自由があります。身分や居住地の制約をのがれ、自分の意思で職業や生き方を選べるようになったのが近代社会です。「適している」かどうかを自分で判断できると思いますか? 誰か他の人や権威のある人が判断すると、それは社会主義っぽくなります。

第一次産業は欠けてはならないものであるにもかかわらず、人手不足であり、日本の大きな課題であると思いました。AIロボットなどを活用するなど、高次産業の力を借りる必要があると考えました(重工業が軽工業を支えたように)。

農業の高次化にAIを活用するのは、よい手段といえるでしょうか。私は、マンパワーの代用としてAIを使用するのが、AIの活用法としてよいと思います。
農業における近代化によって高次化するのですか? また、別のことであるならば、農業の高次化に必要な要素は何だと思いますか?
・・・> 「農業の高次化」というのは表現としておかしい。高度化と取り違えていませんか? それとも六次産業化のこと? 今回の主題である「高次化」をもう一度、おさらいしてみましょう。

産業の高次化に伴って第一次産業の就労者数が減少するというのは、大きな問題ではあると思うが、端的にいってもうからないうえに肉体労働を必要とする、大変な仕事であるから避けられている。そこで付加価値の創造がうたわれる。ブランド牛など。だが、本当に必要なのは小麦や米など、生きていくための農作物なので、根本的な問題解決は遠いと思う。まったく解決策を思いつかないので、学ばなければいけないと思った。

工場見学が好きで、春にアサヒ飲料の工場見学に行ったのだが、数年前の建て替えで設備の機械化が進み、1フロアに2人くらいしかいなかった。家の近所の豆腐店は、設備の機械化を推し進め、より衛生的で長期保存できる豆腐で、もうけまくっている。工場の機械化が進み人間の必要性が減ってきている(ように見える)。4人に1人がブラジル人である大泉町では、餃子やチャーハンをつくる味の素の作業レーンでブラジル人がわんさか働いている。言語能力が未熟な外国人が正規のルートでしっかり働ける環境というのは限られている(PCスキルとかがあって超ハイスペックなら別だけど)。工場での人間の雇用が減っていることも見越して、外国人労働者の雇用、スキルの見直しは必要だと思う。
・・・> ロースペックで賃金が安く、ついでにいえば不況になったときに解雇しやすいからというので、外国人を迎え入れているのが現状です。少しポイントがズレているかもしれません。

自動車工業の中でも産業の高次化が進み、EVが出てくるとどうなるのか、ということをちらっと話されていました。私は、EVは環境によいものではなく低迷していると思っているので、EV化が進む中国に対して後れを取る日本に、どのような影響があるのか教えてください。
・・・> 環境によいかどうかという話と、実際にEVが主流になるかどうかというのは別件なので、ガソリンカーがあるとき一挙に淘汰されEVに集約される未来も十分にありえます。ガソリンカーの成功体験と既得権にしがみついていれば、中国うんぬんではなく、日本経済はやばいかもしれない。


パリ市内のあちこちで見かけるオトリブ(Autolib’
EV
のシェア・カーで、クレジットカードで決済して充電器を外せば誰でも利用できる

 

これからどんどん第三次産業の従事者が増えて、第一次産業が減っていく。第一次産業がなくなってしまうとか、それに近い状況になってしまうことはあるのか? そういうとき世界・社会はどうするのか。それとも、テクノロジーとかが発展して、そこまで第一次産業が必要なくなるのか、と疑問に思いました。
ペティ&クラークの法則があてはまった先の社会はどうなるのでしょうか? 待っているのは失脚なのか、新たに進みつづけるのか。その先にある産業社会について記述している人物はいるのでしょうか。
・・・> 先の話はわからん(ことにします)。ウィリアム・ペティさんだって「高次化するよん」と予言したときには、たぶん周囲は「何いってんの、このオッサン」と、相手にしなかったと思う。産業社会の未来を書いている人はたくさんいるが、おそらく大半は生前には評価されないのでしょう。

ペティ&クラークの法則が示すように、いまの産業の主軸が第三次産業に推移し、74%の人が第三次産業に就いているが、第一次産業の必要度が低いということではなく、むしろ第一次産業が最も根本的なものであり、それがなければ第二次・第三次産業へと発展することができない。このように、第一次・第二次・第三次産業と分類されてはいるが、お互いに関係していて、連続的であるということがわかった。
いままでは深く触れてこなかったが、産業において、第一次・第二次・第三次産業は相互作用の関係に近いかたちであることがわかった。国が発展していくにつれ、低次のものは衰退するものだと思ったが、どの産業も必要なものであることを学んだ。いま問題なのは働く人数のことだと思ったので、少子化対策が問題解決に必要だと思った。

付加価値に対する考え方が変わりました。ニーズによって価値が決まるのではなく、より高次化することで、その対価を受けることができるのだとわかりました。

八高線ユーザーですが、いまはディーゼルカーですし、2両編成で乗客も少なく、栄えているとはいえない状態です。しかし産業革命時代は栄えていたのだと聞いて驚きました。
・・・> 乗客うんぬんという話がありますが、たしかにそれもあるのだが、本来的には貨物列車がメインでした。産業革命の意味を考えたらわかりますよね。秩父鉄道も、セメントを京浜工業地帯に輸送するための貨物列車の運転のために敷設された路線です。ついでのことに、高崎線も製糸業の製品(生糸)の輸送が本来はメインでした。

軽工業が安定していない段階での重工業化は危険だと、アルゼンチンなどの例を通して学んだけれど、第一次産業が後退している日本で、いま以上に高次化が進むと、土台が安定しなくなって不安だと思いました。

高次な産業のほうが大切だ、すごいんだと勝手に思ってしまっていたが、今回の授業で、低次の産業の重要性がよくわかった。ただ私は、第一次産業には携わりたくないと思った。

どんなに高次化が進んでも、人々の生活に不可欠なのは低次のものであり、あくまでそれを支えるのが高次のものである、という意識を忘れないようにしたい。ただ、付加価値が高いのは高次産業であるから、それを踏まえて今後の進路を考えていきたい。

付加価値があるかないかによって低次の産業が低く見られるのは残念だ。もっと第一次産業が発展していくような政策をとるべきだと思った。

第二次産業の中にも低次、高次の違いがあることに驚いた。社会権が成立した経緯に重化学工業の発達があることがわかった。

軽薄短小産業はなくても生きていけるけど、一度はまると抜け出せないことから、今後もこの産業が発展していくのだと思いました。しかしこのままでは生活が成り立たなくなるので、第一次産業に活用する方法や実践している企業はないのだろうか、知りたいなと思いました。

産業の高次化がいくら起こったとしても、お金で楽を求めることだというのは変わらないということを学びました。また、私たちが触れているものの裏には、多大な努力があることを忘れてはならないということも認識しました。
・・・> 前段は、ちょっと違うように思います。お金を払って快楽や快適を購入(消費)するようになるのは、衣食住が家族も含めて十分に満足できるようになったあとのことであり、そう考えると「人の世の常であり、人間のサガである」というふうには考えにくい。人間がそっちに向かっていくのだ、くらいに考えておきましょう。この考え方は、のちのちかなり有効になります。

軽薄短小は、なぜ人々がやめられなくなるのか?
・・・> ケイハクだからじゃないですか。軽薄短小がというよりも、それに象徴される、「必要不可欠」というよりは「もう一段の快適さ、楽しさ」のことであり、いったん課金しちゃったらもうループでしょ?

高付加価値の工業製品の付加価値が高まりつづければ、お小遣いレベルで買えるものが減ってしまいそう・・・。
・・・> いつまでお小遣いもらう側のつもり(笑)。工業製品は高付加価値のものばかりでない。日用雑貨などはむしろ低廉化しているのでは?(100均とか)

みんな当たり前のように受け入れていたので質問できなかったのですが、「付加価値」の定義ってなんですか? サービスは、高次で必要不可欠であるものもあるから、よくもうかるのですか?
・・・> 文字どおり、付加された価値(英語ではadded value)のことです。工業でいうならば、原材料を加工して製品をつくり、それを売ったときに、そこで発生する「もうけ」の部分だと考えてください。生産額(売れたときの金額)から経費などを引いた分です。減価償却費も引く場合と、引かない場合がありますが、まあ商業高校でないのでそれくらいでいいでしょう。後段、一次の製品を使って二次をやり、それをさばいて三次がある、という段階を踏むならば、付加価値はそのつど積み上げられていきますので、トータルで第三次産業の付加価値が高くなります。(それ以外の重要な要素もあるが、後日!)


お正月に新幹線の車窓から富士山を撮影しようとしたら、何か第二次産業らしきものが映り込んだぞ!

 

低次があって高次がある。第一次、第二次産業があって第三次産業がある。産業の大元となる大切なことなのだと納得したのですが、いままでこのことに気づかず、高次な第三次産業が優れている、という偏見をもっていたのだと思います。より低次の財まで組み込むから高次が高付加価値になることがわかりましたが、その競争力の高さや利益の大きさから、低次をおろそかにすると人々の生活(衣・食・住)が苦しくなり、結局は国も苦しくなっていくのだと思いました。社会の成熟とともに産業の主軸も推移して、知識集約型になっていき、人々の暮らしをより豊かにする方法も増えたが、その一方で学歴社会の形成など人々の進路選択の考え方にも大きな影響を残したと思います。

軽工業の発展に伴って重工業も発展していったが、北朝鮮は重工業ばかり重視し、ミサイルが多いのに対し、軽工業に力を入れないため国の経済力が発展していかないことに納得した。
・・・> ミサイルの話はしていませんよ。そこではない。

軽工業は比較的簡単に利益を生み出せるが、重工業はもともとお金持ちでないと起業できず、格差が生まれるのだと理解しました。社会主義は悪だという印象をもっていますが、生まれた格差をなくす、という面からみると、よいところがあるのではないかと思うようになりました。
毛沢東の政策で、重工業を重視しすぎて、ありとあらゆる鉄資源を回収し、建造物を構えたりしたが、結果的に鍋などの生活に必要な物資の枯渇や食料の不足が起こって人口が激減した、という話を聞いたことがあります。これは、分類するなら第二次産業に該当すると思います。第一次産業が廃れると生活が危ぶまれるという話が、とてもしっくりきました。
・・・> ああ、よくご存じですね。毛沢東の「大躍進」(の失敗)です。あれは相当にひどくて、集めたくず鉄や鍋・釜のたぐいを鋳ようとするのはわかるのですが、農民たちが手づくりしたような炉でそれをしたので精錬度が低く使い物にならない鉄ばかりが鋳造されました。そしてご指摘のように食べ物すら回らなくなって餓死者がたくさん出ました。毛沢東の失敗に乗じて対抗勢力(劉少奇やケ小平)が出てくるのですが、毛沢東はとんでもない仕方でまきなおしを図り、これが中国のさらなる苦闘につながっていきます。ロシア→ソ連もそうなのだけれど、農業社会の、それも生産力が低いままの社会をいきなりどうにかしようとするとき、地主から土地を奪って共同管理し、産業や生産の役割分担を政府(と共産党)がやって、経済を全体的にマネジメントする、という社会主義の発想は、まあわからないではないわけです。でも、人間の理性や知恵というのは、いうほどでもないし、「神の見えざる手」のほうがはるかに優秀で汚職もしないという、まあ当たり前のところに落着したのですね。だいいち、社会全体のためにといって私利私欲を制限されたら、誰だってやる気を失って生産性は下がります。

他の授業と少し重なっていて個人的にうれしかったです。歴史の要素が多めで、よいと思いました。日々の復習で何をすると効果的ですか?
・・・> いまPCが暴走して、日々の「復讐で」と出てしまいました。答えましょうか(笑)。この科目の成績につながるかどうかはわかりませんが(たぶん直結しない)、新聞を読んで、興味のないところも見出しを拾い読みすることを日課にするといいですよ。どこかでつながったときに、楽しくてやめられなくなりますから。

学部選択で、就職における有利不利を考えるべきか、やりたいことを第一に選ぶべきか、悩ましい。
・・・> 前提としての問いの立て方がおかしいですよ。○○業に進むために有利/不利なのはどのコースか、というのならばわかるが、「就職における」なんて一般論があるはずがないじゃないですか。「よい大学に進むのに有利な高校」という一般論は成り立つかもしれないが、そういう受験生思考をもったまま職業とかその手前を考えてもうまくいきません。同時に、仮に同じ業種をめざしていたとしても、人によって取るべき経路が異なるということは十分にありえます。学問の得意・不得意や向き・不向きというのがあるのであって、「有利だと聞いたから」というので苦手で不得意な方面に進んで、GPA1点台になってしまったら取り返しがつかなくなりますよ。だいたい早稲田大学の卒業生であれば、学部による進路の有利・不利なんてあまりありません。それを気にするのは附属の生徒(とその家族)くらいです。悩む場所が違います。何度でもいいますが、そこじゃない!!!

 

 


開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2024年度は探究するシヴィックス5.0としました。もちろん、いまいわれているSociety5.0を意識した副題で、過去何度か類似の副題を設定してきました。ここにある探究というのは、探求ではなく、あえてそのような文字を選んでいます。総合的な探究の時間や世界史探究など、文部科学省も好んで用いるのは「究」すなわち「きわめる」ほうです。英語の単語に直せばresearch。お気づきでしょうか、さがすという意味のsearchに、繰り返しの、再々のという接頭辞のre- がついています。何度も掘り込んで、どこまでも突きつめていくといったイメージで捉えましょう。公民や地理歴史などの社会系教科では、どのテーマであっても、いくらでも、どこまでも突きつめることができるのに、学習者はしばしば表面をなぞり、「正解」らしきものをつかまえて、そこで思考を停めてしまいます。なんなら試験の前に単語と意味を暗記して、答案用紙にはき出し、以降は内容ごと忘却するということに終始する人も少なくありません。「暗記が苦手だから社会系は嫌い」という人が、文系にも多いのは本当に残念です。この現代社会論Iでは、暗記はまったく必要ありません。むしろ、暗記なんて絶対にしないでくださいとお願いしたいほどです。でも、暗記不要の学びは、慣れるまでなかなか大変です。「試験前に覚えればいいや。いまは何もしないでおこう」という態度が許されないからです。その場ごとの思考と考察、その先の探究が不可欠です。慣れてくると、授業外で出会ったテーマに対してもその方法を当てはめて思考する習慣がつきます。希望としては、できるかぎり多くの受講生がそのレベルまで行ってほしいなと思っています。

「現代社会」に関する学びは、歴史のそれよりも役に立ちそうだ、と考えていないでしょうか? まあそうなのですけれども、しかし「いま、この瞬間」としての2024年は、10年経てば「むかしの話」になります。制度や法律が変わり、社会情勢が変わり、人々の価値観や行動様式も変わっていきます。いま、この瞬間に正解だったものが不正解になることも多いですし、それ以上に、いまこの瞬間に重要だとされているものが10年後には無用になるということだって大いにあります。歴史に比べると、現代社会は「足が速い」。だから、個別の知識を得ること(さらには暗記すること)には、さほどの値打ちはありません。数学や物理の公式、英語の文法などを思い出してください。それらは生きているあいだずっと有効で、数値や単語を入れ替えれば無数に展開できますよね。現代社会の学びも、そのようにありたい。そのための探究を、さあはじめましょう!

 

 

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