古賀毅の講義サポート 2024-2025
Études sur la
société contemporaine I: Instruction civique pour la recherche 現代社会論I:探究するシヴィックス5.0
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現代社会論II:グローバル時代のパースペクティヴ2024
2024年9月の授業予定
9月13日 共生と寛容 Side-A
9月20日 共生と寛容 Side-B
9月27日 性と性差と女と男 Side-A
授業予告は8月下旬ころに更新予定です。しばらくお待ちください。 REVIEW (7/12) ■「とくに親しい誰か」「他者評価」「居やすい自分」「他者に好かれる自分」など、並べられた言葉に思い当たるところがあり、「わたしのことをわかってもらいたい」など、誰かに一度は話したことのあることばかりだった。こんなに自分と他者の違いについて考えているのは自分くらいだろうと思っていたが、こんなにもぴったりと言い当てられて、自分が特異ではないことに気づき、本当に安心した。おそらく私は人よりもこういったことについて考えすぎているのだろうが、「人よりも」といってしまっていることに自分が「典型的」であることを思い知らされる。そして、「自分らしさ」を出したくなり、さらに他者と比較するようになる。自分がいままで考えていた範囲以上に自分を説明されて、こういう人は一人ではないという安心感と、所詮おとなの思考範囲内だったということに複雑な気持ちになった。この思考から抜け出せる、収まるようになる時はいつ来るのだろうか。青年期の出口が楽しみになった。 ■数年前から「わたし」が他人からどう思われているか、どう見えているかが気になりはじめて、外見や言動をキレイにしようと気をつけるようになったのも、「高校生は井の中の蛙で社会を知らない、判断力もない。おとなを超えられない」と父がいうのに対して「パパだっていまの若者の社会を何も知らないじゃん」と心の中で文句をいっていたのも、青年期真っただ中だからだと理解しました。 ■私は教員志望なので興味深い内容でした。小学校か、中学校・高校かは定まっていません。 ■ちょうど私はいま青年期なんだろうなという自覚がありますし、早く心もおとなになりたいと思うのですが、みんなはどうなんでしょう。気になります。 ■ますます「人間」「社会」がわからなくなった。多様化、ギャップとかいわれるけど、根本は同じで変わらない。予測不能。 ■青年期は不安定な時期であると思うけれど、それについてここまで具体的に説明を聞く機会がなかったので、論理的に知ることができておもしろかったです。自分のアイデンティティを探すようになり、心理的離乳につて自分にも思い当たることがあったので、客観的にみてこのようなことが起きていたのだなと納得できました。 ■私たちは現在進行形でモラトリアムのただなかにいるはずなので、今回の授業のコンテンツは、私にとってメタ的な揺さぶりになったと思う。学問としてコンテンツ化された形式で自分自身の心理状況について考えると、冷静な視点で捉えることができた。青年期の痛々しい反発や恥ずかしく思える内面も、よい意味で他人事のように理解できたので、新鮮な感覚だった。モラトリアムという過渡期は、その善悪を判断するような代物ではないけれど、それがあまりに長期化するのも考えものだと思った(社会的秩序、アイデンティティ確立の観点などから)。
■青年期以前は、親や周囲のおとなが教えてくれた楽な道を歩いていたということにかなり気づかされた。青年期は自分で危ない道に立って、周囲のおとなが歩き方を教えるのではなく、自分が主体的に周囲から歩き方を学んでいかなければならないのだということをあらためて理解した。また自由ということのよい点と悪い点を知ることができた。 ■現代社会の中心は「おとな」であるが、そのおとなのプレ段階、つまり将来的に社会を担う対象が「子ども」であることを認識しなければならない。私は18歳で、法的には「大人」である。ところが実際に自らを客観視すると、まだまだ「子ども」であると思う。これこそが青年期であり、モラトリアムであるということがわかって、少しばかり安心した。考え方や感じ方に対する成長は感じているものの、自分が小・中学生のころに思い描いていた「大人」という理想とは多くが違っているように思える。 ■自己を他から捉えるというのは、若者が診断(MBTIとか占いなど)を好むのと関係ある? 私は物心ついたときから規則やルールに対して「なぜそれが必要なのか」と思ってしまっていたので、児童期がなかったのかもしれない。 ■若いうちにやっておいたほうがいい、といわれますが、青年期は、なぜそれをやっておいたほうがいいのか理解できない時期にあたると思います。また青年期は目の前のものに集中する期間であり、周囲の人によって視野に入っていないものを補うもので、おとなはある程度その視野が広がっているのだと思います。 ■こうも詳しく分析されると、思春期真っただ中の自分は妙に恥ずかしく、嫌な気持ちになってしまい、ステージ4.5を実感してしまいました。 ■中学校・高校生活で感じていた葛藤が言語化され、少し理解できる気がした。そして、その葛藤をビジネス・チャンスと見ている企業や商品も、いま考えると身の回りにたくさんあるとわかった。子どもができた際には、青年期のサポートをできるように、いまの感覚を忘れずにいたいと思った。 ■第二次性徴を境に自己を外から捉え、考える能力がついてくる。抽象的思考能力を得られるとともに、変化のなかった自身に変化が表れ、「本当の自分」とは何かと考えはじめる。おとなになる準備期間であり、自立しようとする時期であるので一見よいように思えるが、失敗を恐れるようになり、環境の変化に伴うストレスを受け、他からの視線に過剰に反応するようになる。小学校高学年から中学校にかけてひきこもりが増えたり、心理カウンセリングを受けたりする人が増えるのもそのためだろうと考える。 ■いま妹が、他人の眼を通して自分を見たり、他者を見たりしていて、常に「この子かわいくない?」「私のこれどう思う?」といっている。その対応の仕方、青年期の対応の仕方はすごくすごく難しいと思う。他者ならもっと寛容に受け止められると思う。だから青年期の家庭のあり方は、帰ってこられる場所、そして他の機関として青年期の子どもにいろいろな視野を与え発達を補助するところが学校以外にも必要だと思った。 ■児童期から成人期への移り変わりの中で子どもとおとなのどちらにも属さない青年期の真っただ中にいるというのは事実だが、ただの言葉の定義で、その内容はもっと深いと感じた。青年期における変化のうち、人間関係を築くにあたって、相手の思考の裏側まで自分の頭で考え、探って、深読みしてしまうのも、他人を無理やり自分と重ね合わせて自分に足りないことは取り込んで自分を成長させようとしていることも、こうした自分の内面の複雑さにとまどい、解決策を見つけようとしてもなかなか見つけられず自分に対する怒りやもどかしさを覚えることも、人生をトータルで考えたときには「異常」であるが、それが「正常」であると認めてくれるおとながいるだけでも救われると思った。青年期はある意味、悩みが多くてもそのぶん発見が多くておもしろい。自分の感情の敏感さにも驚く。そんな感覚を失いたくない・・・。 ■保健や公共の授業で扱う青年期は、何十年も前から注目されており、それをテーマにした歌がヒットしていたことからも、かなり注目されていたことがわかった。 ■昭和のアイドルの歌は、歌詞の意味がしっかりしていていいですよね。私は、竹内まりやと松田聖子が好きです。あと少し前の尾崎豊も好きです。
■第二次性徴が起きると自身の変化にとまどい、動揺するというところに共感した。小学校高学年くらいから周囲の視線が気になり、自分の存在とは何なのかを考えるようになった(クラス内での立ちまわりやキャラのようなもの)。今回の授業で、その悩みは科学的に青年期の特徴として示されていることを知って安心した。 ■友達と恋愛の話をしていたときに、「何人(なんにん)と付き合ったことがあるか」という話になって、そこから「小学生のときは含めるのか」などということについて議論になった経験があります。今回の授業を受けて、この議論には、青年期になると「好き」の意味合いが変わってくるということ、そして、青年期が何歳から何歳までなのかは人によってさまざまな考えがあるということが前提にあるのだと思いました。 ■摂食障害を患った13歳のころ、そういう悩みを抱えたことがない年代しか周囲にはおらず、現代の厳しさを感じました。養護教諭の先生には定期的にカウンセリングのようなかたちで話を聞いていただきました。この年代にしか理解できない、抱えることがない悩みというのがあるのに、おとななんだから、子どもなんだからとひとくくりにしないでほしい、と考える年齢は、これからどんどん低年齢化すると思います。犯罪の低年齢化が問題視されることもありますが、私からすると、おとなが罪を犯すのは当たり前なの?と思ってしまいます。 ■身体の成長とこころの成長のズレは、私自身よく感じます。実際に日常生活の中で感じたり、ニュースを見ていて感じたり、自分がいまよくわからない反抗をしていると感じることもあります。客観視すれば私たちはまだ危うさがあるのだろうと思うし、両親が過保護になるのもうなずけるくらい高校生って危なっかしいんだとあらためて思いました。でもそれは理解しているけど、それでも「もうおとなだもん!」といいたくなってしまいます。青年期は終わるのでしょうか。自信をもって、自分は立派なおとなでもう不安定ではない、と言い切れるときが来るのかと聞かれると、答えられません。自分に子どもができて、子を心配する立場になったらそういえるのかもしれないし、それでもなおいえないような気もしています。いつ「おとな」になるのでしょうか。 ■小学校から中学校に進むときに引越ししたのですが、まったく気の合う知り合いがおらず、つらい期間がありました。対なかま関係を失敗していたようですね。一人ひとりには特性があるから、得意・不得意が分かれるのは自然であるし、納得できます。一方で、不得意があるのはダメなことだという風潮がある気がしています。特性のことを考えると、それはよくない風潮だといえる気がするのですが、どう思いますか? ■「子どもの夢」と「青年の進路」は似て非なるもので、進路を早いうちから考えさせることがよいことではないと知りました。なぜ小学校・中学校では、ことあるごとに「将来の夢」を考えさせ、発表させるのか疑問に思いました。 ■青年期の感情や行動についてもSNSが大きな影響を及ぼしているのだと思いました。たとえば、他者から自分はどのように見えているのかというのを気にしたり、過度の(そして誤った)ダイエット方法を信じ込んで行動したりすることです。 ■児童期から青年期への移行について、授業では第二次性徴が中心に据えられて説明されていたが、私は「学歴至上主義」的な価値観も大きく影響すると思う。小学校高学年ころから中学校受験を意識する人がちらほら現れて、塾に通う人も増えて、中学校進学後には順位・偏差値のつく定期テストがおこなわれる。周りの子はあんなにできるのに、と他者と比べて自分の成績を見て落ち込んだり、親に怒られるからとテストの答案をもみ消したりする。これが、自己を定義し自律心を構築する青年期と重なるところがあるのではないかと考えた。
■青年期は職業選択の自由が共有された影響でできた、おとなへの準備期間であるということがわかった。青年期についてここまで詳しく学んだことがなかったので新鮮だった。 ■青年期が長くなっているということを、今回の授業で初めて知ることができた。おとなになるのを避けようとするのは、青年期であれば少々悪いことをしても大丈夫だということも影響しているのかなと思った。 ■「こころ」を去年読まされて、おもしろくない作品なのになぜ教科書に載っているのかと不思議に思ったが、近代人の悩みを予見した偉大な作品であることを初めて知った。受身で読んでいたため、自主的に読んで、作品におもしろさを見出そうと思った。 ■モラトリアム=準備期間であることを見失い、おとなになるのを先延ばしにするという指摘は、本当に耳の痛い話だと思いました。人生の選択の自由がさらに増して、すぐに社会に出なくてもよいという環境に甘え、決断を先送りにして将来についてもよく考えていないなと、あらためて気づかされました。現状に甘んじて何もしない、何も為せないまま高校生活や大学生活が終わらないようにしようと思いました。 ■「青二才」といった表現が悪口なのはわかるけれど、メーターとかで青色が小さい値(正常な値)を表しているのとは逆になっているなと思いました。 ■産業革命以前には青年期という概念自体が存在しなかったということに驚いた。しかし考えてみれば、人々が青年期に気づかなかったのは普通のことであるとも思った。産業革命が起こる前は、身体だけ成熟していれば農業をすることができたのでそれでよかったが、産業革命によって頭脳を使うことが求められるようになると、抽象的な概念を考えることが必要となり、また複雑な技術や思考を身につけなければならなくなるため、おとなとして生きるための準備期間が必要になるのは明白である。 ■職業の自由はあってよかったのではないかと私は思う。たとえば農家の子どもがとても優秀でノーベル賞を取れるほどの発明をしても、職業の自由がなければその発明が表に出ることはない。そう考えると、文明の進化を求めた人々が職業の自由を得ることは自然であると思った。 ■職業選択の自由がないころは、そもそも自由という概念がないため、「こんな仕事をやりたかったな〜」という憧れみたいなものも生まれなかったのではないか。腹をくくって進路を決めなくてもなんとなく生きていける現代の環境が、青年期の幅を長くしているのかなと思った。 ■産業革命を経て職業選択の自由が共有されるようになったというのは、私にとってはあまり望むことではない。選択を自分でおこなうということは、責任も自分で負うということなので、何かあったときに、自分の生まれ育ちに責任を押しつけたい、あるいは責任という考えさえ思い浮かばないような、それが当たり前という世界で生きたかった。いまこんなに悩んでいる自分の将来を「誰か」に決めてもらい、いざというときはその「誰か」のせいにできたら、どんなに気持ちが楽なのだろうと、ついつい考えてしまう。 ■自由っていいものだと思っていたし、もっと世の中が自由になるようにとデモしている人たちをよく見るので、自由がつらいことだ、という考えはいままでまったく起きなかった。 ■職業を縛られるのも、自由なのも嫌なので、私はしっかり二次性徴期が来ているのだと思いました。 ■近代に入り青年期という考えが生まれたが、同時に職業選択の自由という負担もあるので、早めに将来の職業を決めておくことが、いまの自分がやるべきことだと思った。
このブロックは、青年期の範囲に関するものです。まとめてコメントします。 ■時間の定義はどの分野であっても難しい。おとなに見えておとなのように振る舞うが年齢が低い人は青年期のどの部分にあたるのか気になる。「ちょっと待って期間」は、結局「何であるか」と定義するよりもおおまかなほうが全体として意味が通ると思う。私は、青年期は15〜22歳だと考える。 ■私は、青年期は15〜22歳だと思う。中学生の前半は純粋にばかなことができるが、受験生にもなるとそろそろ「責任をもてよ」といわれるようになり、遊びたいが内心は半分羽目を外しすぎることができないようになる。そして、一般的に大学を卒業するまでは、いつかは稼いで自立しないとな、でも具体的なレールを敷けないからどうしたらいいのかわからない、という状況に陥るように考えた。 ■青年期やその他の人間の発達過程で、心の中や見た目でどのような変化が起きたら○○期、というのはなんとなくわかりますが、何歳から何歳までが○○期というのは、人によって変わるので、事典などによって幅が変わるのは納得できます。ただ、青年期に入ったときにどのような環境で過ごしたか、何に力を入れていたかなどで、その人の人格や社会的スキルなどの確立が起こり、青年期の長さも変化してくるのではないかと思いました。 ■青年期は、子どもとおとなの境界線を拡大したものであるが、その境界がきわめてあいまいだと思った。身体的に見れば子どもだがおとなのように抽象的な思考ができ、アイデンティティが確立されている人もあれば、身体はおとなだが心理的な面でまだ成熟しきれていない人もいる。だから青年期の定義は人によって異なり、身体的成長と心理的成長の速度にも差が生じてしまう。より正確に青年期を定義するため、青年期を身体と心理の2つに分けたほうがよいのではないかと考えた。(類例複数) ■青年期の区分について、時代の流れには反するかもしれませんが性別でも区別するべきかと思います。男性に月経がなくてそれに伴う悩みがないように、女性にもないものがあると思うので。 ■ギフトと呼ばれる、子どもだけど同年代の周りの友達よりも概念的な学習ができる人たちは、青年期といえるのかと疑問に思った。周りよりも学習能力が高く、それによって「自分は優秀」という外からの視点を見ることができるが、周りを見下すような子ども的な思考もあるため、青年期ではないのではないかと思う。また、青年期とは、あらためて「概念的」なものであると感じた。青年期の期間はいつからいつまでなのかと聞くと、人によって意見が異なり、いま青年期にあるであろう自分でさえ青年期という実感がない。
■「異常」な青年期を、私自身は少なくとも転落しないように、周りを頼りながら生活したいと思った。 ■世間が不景気になると不寛容さが増す傾向にあるのはなぜでしょうか。 ■青年期の感覚を忘れたのがおとなだから、青年期に寄り添ってくれないのかもしれないけど、もしかしたらある程度は寄り添ってくれているのに青年期のわれわれがお得意の「反発」で無下にしているのかもしれないと思った。 ■青年期特有の症状が細かいところまで言語化されていること、研究されていることに驚いた。青年期を忘れて、おとながいる向こう側に行くことになるというのを、まだ信じられていない部分がある。 ■おとなは青年期の感覚を忘れるという話がありましたが、私も小学生時代に抱いていた感覚や想いはほとんど覚えていないので、同じことかなと思いました。古賀先生のように知識としてもっていれば、青年期の感覚に寄り添うことができるのかなと思いました。 ■古賀先生はいつ青年期を脱しましたか? ■主観ですが、昭和にはあまり印象のない「ゆとり世代」や「Z世代」といった○○世代という表現が、人をばかにしているかのような扱いで疑問に思っていたのですが、青年期の拡大で「異常な期間」が長い分、それをわすれたおとなにとっては気に食わない世代に映っているのかと思いました。
■親の立場になったときに、青年期に該当する子どもに対してどこまでプライベートに突っ込んでいいのか、突っ込むべきなのかを考えてしまった。あそこの家は過保護すぎるよねといわれてしまったら、子どもには申し訳ないような、でも放置しすぎるのはよいことなのかなど、行動の基準がないためわからなくなった。年齢的には成人したものの、なんとなくぼんやりした毎日で、ひたすら課題に取り組み、寝て起きてごはんを食べていると、誰かのレールに乗っているようで、何がしたいのかわからないような、もどかしい気分になった。目標や将来が定まらないため、やる気が出ず、とりあえずあとでいろいろな選択をできるように特定の分野だけではなくちょこっとずつ手を出すような状態が、余計にぼんやりとした毎日にしてしまっているような気がして、「ちょっとどうしたらいいかわかんない」ことが増えた。 ■私はいま青年期にいると思うが、いままで主観で悩んでいたことが、客観的な傾向として言語化されることで、自覚が増した。とくに高校生の時期には、自分の存在意義や客観的な価値に囚われすぎて悩むことが多いのだろう。おとな扱いされないから許容されているということについても、反発心を抱くと同時に、物事を考えすぎず自由に行動できる現状にもっと甘えていたいという本心もある。だから青年期は異常なのが正常だという考えがしっくりきた。ただ、おとなになって全員が青年期を忘れることができるのでしょうか? よくおとなでも、学生時代に戻りたい、昔はよかったなどと嘆く人もいますが、これは「青年期だったら許される」というのを悟っての言葉なのですか? ■青年期に対する考え方だが、今回の授業を受けて変化があった。現在私はおそらく青年期の渦中にいると思う。自分は正常ではないのだろうか、異常なのだろうか、この気持ちの高鳴りや激動に対する最も当てはまる、よい答え(呼び方)が見つかったと思う。それならば、青年期に直面している私たちはどうするべきなのだろうか? 一日一日を大切に生きていくことを、まずはやりたいと思う。多くの考え方を取り入れて、どんどん変化し、そして自分が考える理想に近づいていきたい。 ■私は、自由すぎて、職業や学部の選択肢が広すぎて、それらについて考えるとき自分を見失いそうに感じてしまう。また、親と意見が合わないだろうなと初めから壁をつくってしまうこともある。兄は大学生だが、将来の職業も、一定期間勤める職場も決まっており、周りからは「職が決まって親も安心だね」なんていわれる。実際、私もとてもうらやましく感じるときがある。しかし今回の授業で、自分は青年期の真っただ中にいるのだと気づいたので、悩むことや葛藤することすべてをデメリットとは捉えず、いまの期間があとで振り返ったときに将来の土台になったのだと思えるように、一日一日を大切に生きたいと思った。 ■中高生の教育は、おとなが子どもの上に立って教えるとか、おとなが子どもに0→1までちゃんと教えなければいけないといった考えをもつべきではないと思う。おとなとして経験や、より専門的なことを補助的に教える、考え方の視野の候補を挙げる、という体制になれば、子どもは「フィットする」という領域を自らの手でつかみ取りにいけると思う。
現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。 当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2024年度は探究するシヴィックス5.0としました。もちろん、いまいわれているSociety5.0を意識した副題で、過去何度か類似の副題を設定してきました。ここにある探究というのは、探求ではなく、あえてそのような文字を選んでいます。総合的な探究の時間や世界史探究など、文部科学省も好んで用いるのは「究」すなわち「きわめる」ほうです。英語の単語に直せばresearch。お気づきでしょうか、さがすという意味のsearchに、繰り返しの、再々のという接頭辞のre- がついています。何度も掘り込んで、どこまでも突きつめていくといったイメージで捉えましょう。公民や地理歴史などの社会系教科では、どのテーマであっても、いくらでも、どこまでも突きつめることができるのに、学習者はしばしば表面をなぞり、「正解」らしきものをつかまえて、そこで思考を停めてしまいます。なんなら試験の前に単語と意味を暗記して、答案用紙にはき出し、以降は内容ごと忘却するということに終始する人も少なくありません。「暗記が苦手だから社会系は嫌い」という人が、文系にも多いのは本当に残念です。この現代社会論Iでは、暗記はまったく必要ありません。むしろ、暗記なんて絶対にしないでくださいとお願いしたいほどです。でも、暗記不要の学びは、慣れるまでなかなか大変です。「試験前に覚えればいいや。いまは何もしないでおこう」という態度が許されないからです。その場ごとの思考と考察、その先の探究が不可欠です。慣れてくると、授業外で出会ったテーマに対してもその方法を当てはめて思考する習慣がつきます。希望としては、できるかぎり多くの受講生がそのレベルまで行ってほしいなと思っています。 「現代社会」に関する学びは、歴史のそれよりも役に立ちそうだ、と考えていないでしょうか? まあそうなのですけれども、しかし「いま、この瞬間」としての2024年は、10年経てば「むかしの話」になります。制度や法律が変わり、社会情勢が変わり、人々の価値観や行動様式も変わっていきます。いま、この瞬間に正解だったものが不正解になることも多いですし、それ以上に、いまこの瞬間に重要だとされているものが10年後には無用になるということだって大いにあります。歴史に比べると、現代社会は「足が速い」。だから、個別の知識を得ること(さらには暗記すること)には、さほどの値打ちはありません。数学や物理の公式、英語の文法などを思い出してください。それらは生きているあいだずっと有効で、数値や単語を入れ替えれば無数に展開できますよね。現代社会の学びも、そのようにありたい。そのための探究を、さあはじめましょう! |