古賀毅の講義サポート 2025-2026

Études sur la société contemporaine I: Pour vivre dans une société du futur proche

現代社会論I近未来の社会を(に)生きる構想と探究


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル思考と近未来の世界への学び

 

2025910月の授業予定
<第3部 現代社会と文化・教育>
9
26日・103日 令和のカルチュア考
10
10日・17日 ジェンダー問題と格闘してみる

 

 

次回授業(117日)はテーマの詳細を検討中です。
予告の掲出をしばらくお待ちください。

 


次回は・・・
17
18- ジェンダー問題と格闘してみる

いまの高校生世代には信じがたいことかもしれませんが、2000(ゼロ)年代あたりには、ジェンダーgender)という表現を聞いただけで目を吊り上げ、戦闘態勢に入ろうとするおとなが結構いました。ジェンダーなるカタカナ語を振り回す連中は、伝統的な社会秩序や規範を破壊し、日本の社会をめちゃくちゃな方向にもっていこうとたくらんでいる、という感じです。いまほどSNSの利用者が多くなかったこともあり、主な舞台はマス・メディアや地方議会でした。流れとしては1990年代にジェンダーの観点からの種々の問いかけ、問いなおしがあって、それに対する反応もいろいろみられたのですが、その動きへの批判的ないし否定的なリアクションだったわけです。この時期の反動的?なリアクションは、のちにジェンダー・バックラッシュと呼ばれるようになっています。もちろん2025年の現在でもその流れを受けた「ジェンダー的な言説」への批判はつづいており、政治では主に右派・保守勢力(の全部ではない)が、「ジェンダー的な視線」への配慮に批判的な層の票を当て込んで、たとえば「行きすぎた男女の違いの否定は秩序を破壊させる」「家族の危機を招く」といった主張をすることがあります。夫婦別姓の制度化への反対はその一環と考えられますが、はっきりとは見えにくいものの、たとえば学校における性教育への強い規制の要求や、家族・家庭の重要性を強調することを通した従来型(既存)の秩序への従属を呼びかける動きなどがあります。このごろは少なくなりましたけれど、ひところのSNSでは「ツイフェミ」などとレッテルを貼って、とくに女性の論者が発言することに対して、批判というより嘲笑を浴びせるということが蔓延していました。最近では、他国のことになりますがアメリカのトランプ政権がジェンダー的な言説に対して、攻撃ともいえるほどの対応を見せています。

このテーマは、現代社会論の授業内で何度か取り上げたことがあり、そのときの教室の反応はだいたいいつも同じです。問題が次々に指摘されるものの、「ジェンダーの考え方がおかしい」とか、「生まれつきの性(身体的形質)が違うのだから役割分担は当然だ」といった発言が聞かれることはほぼありません。本音ベースでいえば(女性にも男性にも)そのような考えに近い人は少なくないはずなのに、それが音声になることがほとんどないのです。そして、事後のレビューで見当違いの(事実認識自体がSNSに煽られているようなトンデモな)ことを記して、「いまここに書くくらいなら教室で発言せよ、そして高3にもなって非科学的・非論理的なことに依拠するのはやめなさい」と当欄でやっつけられる(で、古賀先生まじアレなんだけど、というふうに不満をもちつつそのまま 汗)ということに。ことしもそうなのかな〜? まあ無理もないことではあって、おとなの社会そのものがそんな感じ(いやもっとひどい)ですからね。もとより考え方はいろいろあって当然なので、(1)同じフィールドで議論する(相手のいないチェンバーで同種のことを一方的に主張しない)、(2)そもそもどのような論点があるのかというところを共有する(しばしば「見ている部分がまるで違う」ということが起こる) という姿勢を大事にしてください。

高校生は、このテーマのリアルな部分、とくにジェンダー・バイアスやジェンダー的な構造の深刻さということに気づいていないという可能性が、かなりあります。というのは、少なくとも学校教育(幼稚園〜高等学校)の範囲において、本質的に深刻だというようなことはあまり多くないからです。前回の議論で指摘されたように、学校の制服が性別で固定(二分)されているとか、学校内での役割分担や扱いが過剰に男女別であるといったことはあるのですが、長く観察してきた私の眼には、この20年あまりでずいぶん改善されているように思います(当事者にとっての深刻さがそれぞれあることは承知で)。生まれの性にかかわらず、当人の能力や努力によって、周囲からの評価や自身のステータスを高めることができる、という手ごたえをもっている方も多いことでしょう。ただ問題は「この先」にあります。社会には強固で頑迷なジェンダーの壁があります。男性ならば問われずに済むことを、女性だけが突きつけられます(子どもが生まれたら仕事はどうするの?とか、結婚したら名字変えるの?とか)。「男性ならば問われずに済む」というところがミソというかポイント、だと私は考えています。同時に、問われずに済み、考えずとも生きていけそうな男性は、じゃあこの問題にじゃまされずに安楽に過ごせるのかといったら、そんなこともありません。女性以上に問題のありかが見えにくくなっているだけのことです。2学期の各テーマに共通して、普段よく知っていることでも、掘り起こせばいろいろと重大な問題がある、ということがあります。それを「いまさら蒸し返すなんて」「いっても仕方ないと思う」というのでは、学ぶ人(student)としておそらく失格でしょうし、「いいたい人にいわせて、自分は黙っている」というのは余計にまずいような気がします。さて。



REVIEW 10/17

今回の話題、とくに姓(氏・名字・苗字)とアイデンティティ、家族観などに関して、ご自身がそれらに直接かかわる立場や境遇にあって、いろいろ思うところはあるが発言できないとか、クラスメイトの意見や指摘に心を痛めるというケースがきっとあるものと思います。このテーマでの議論を設定したのは私(古賀)ですので、不快さを感じられた場合の責任は私にあります。

 

選択的夫婦別姓制度を取り入れるべきだという考えと、戸籍上は同姓だが公の場所では旧姓を名乗ることができるようにする制度にするべきだという考えが出ていましたが、どちらにも納得するところがありました。授業内では後者に手を挙げましたが、さまざまな要素を考えると、これがよいと言い切るのは難しいと感じました。
・・・> 言い切るのは難しいと感じた、のは、わりと普通の感覚だと思いますが、当科目の受講生としては(古賀の思いとしては)非常に物足りない。どうせこの場でのかりそめのことなのだから、言い切ってほしいな。ディスカッションの様子を見ていると、たぶんこの感覚の人が過半数はいるのだろうと思います。「正解」「完全な答え」を求められすぎて、安全を意識しすぎて(反論や攻撃を恐れて)、整えようとしすぎ、なのではないか。何をどう学習しても、この先に何年をかけても、おそらくずっと「考えるのが難しい」といいつづけ、もやもやしたまま、ということになりえます。いつだって旗幟鮮明にするとか、自身の意見を明瞭に示すばかりが能ではない。それはそうですが、しかしいつも(ずっと)明瞭にできないのは、ある種の優等生病のきざしかもしれないので、(レビュー主にいっているのではなくみなさんに)自覚的に取り組みましょう。

夫婦別姓制度に関してお墓の話題が出たとき、制度が導入され別姓の夫婦が増えたり、妻の姓に合わせる人が増えたりしたときにお墓の慣習がどうなるのか気になりました。もともと夫のほうの姓に変えた妻が夫のほうの家のお墓に入るのは、妻自身が夫の家に入ることと同じだったと思うのですが、最近は妻自身が夫の家の人間になるという部分は薄れ、姓を夫に合わせて夫のほうの墓に入るという形式だけ残っているように感じます。イエ制度の価値観が以前より薄れているいま、夫婦別姓や妻のほうの名字が増えたら、お墓に対する価値観がどう変化するのか気になります。
・・・> きちんと整理しているのに最後が「気になります」というのが気になります(笑)。そこが本質なのだろうか? イエ制度がほぼ溶解して、意識も遠ざかっているのであれば、お墓のあり方もいずれ(あるいはすでに)変わっていくというのは当然です。そもそも農村共同体の時代はいざ知らず、都市型の生活になり、居住地がしょっちゅう変わるのが当たり前の時代になって、「定住型」のお墓を何世代にもわたって管理するなんてできるはずがありません。単身家庭や子どものいない家庭も普通です。一人っ子がこれだけ多いということは、従来であればイエを継いだ息子(男性)がないというケースが半数はあるわけなので、男系でイエやお墓を維持するというのがもはやナンセンスであることは疑いありません。そのあたりまでは共有しておいてほしい。そのうえで、じゃあ亡くなった方への追悼や祭祀をどのようにするのかという提案に踏み込まないとね。このレベルで止まって「気になった」といっている場合ではないぞ^^

最初にジェンダー意識の変遷を明治時代から法律の視点で見て、とてもおもしろいと思いました。法律上では平等を実現しているように見えるけれど、根底には残っているというところが、テイラーのアンコンシャス・バイアスにつながっていて、とても連携が取れていてすごく内容が濃くなっていると思いました。テイラーの、レーベル側のイメージづくりとそれをくつがえすテイラー、それ自体がテイラーの売りになっているし、ファンがつく理由で、彼女のNOといえる強さとそれを出せる自己プロデュース力も長けていると思いました。同時に、それを含めてレーベルの戦略だったら怖いなと思いました。

最初の報告では、日本社会におけるジェンダー観の歴史的な形成過程を学び、現在の男女格差の根本に「制度としての差別」があることを実感しました。とくに女性の社会進出が進んだ現代でも「ガラスの天井」や「無意識の偏見」が残っているという点が印象的でした。制度上は平等でも文化や慣習の中に残る差別が、人々の思考や行動を制限しているのだと思います。今後は、法や制度を整えるだけでなく、教育やメディアを通じて「性別に囚われない考え方」を社会全体に根づかせていく必要があると感じました。
・・・> このレビューが優勝(そんな制度あったか 笑)。大半の議論が別姓の話になっている中で、最初の歴史的な解説をきちんと受け止めて、最も肝心の部分を整理しています。以下のレビューを読んでみると、どうも多くの人は、報告自体というよりも自身がこれまでの経験の中で考えたことの範囲で述べているように見えます。さほど知識を得ていなかったり、この種のテーマに関する本を読んだことがなかったりすると、思いつきとか場当たり的な発想に終始してしまい、かみ合いません。「そこじゃない」という趣旨の突っ込みを私がいくつか入れています。いわれた人だけでなく全員が確認してほしい。「素手で来てはいけない」といっていましたが、これまで学習も経験もしていないのであれば、本の1冊くらい読んでくるべきではないのかな。この優勝者(笑)くらいの認識を共有して、そこからようやく議論ということになるのでしょう。

選択的夫婦別氏の話では、姓の問題が単なる名前の問題ではなく、個人の尊厳や自由にかかわる重要なテーマであることに気づきました。現行の制度では、結婚後に多くの女性が改姓しており、キャリアやアイデンティティに影響を受ける場合が多いことを知って驚きました。一方で、制度導入に反対する意見の背景には、家族の一体感や伝統を重視する考え方があり、単純な対立ではなく、価値観の衝突であることも理解しました。しかし芸術や学問の分野など、自分の名前が評価や実績と直結する世界では、姓の変更が大きな不利益をもたらすことがあります。選択的夫婦別氏制度は、そうした不平等を解消し、個人の生き方を尊重する社会の一歩になるのではないかと感じました。
・・・> 準優勝。


天璋院 像(鹿児島市)
幕末の薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、13代将軍徳川家康に嫁いで御台所(みだいどころ)となった
戊辰戦争時、官軍に対して徳川慶喜の助命を嘆願し、江戸と江戸市民を救った功労者とされる
大奥の終焉に立ち会った、ラスボス的な存在でもあった

 

選択的夫婦別姓制度は、近年とても注目されている話題だが、詳しいメリット、デメリットについては知らなかったので、発表とその後の議論はとてもためになった。これに関して、「自分が相手の姓に合わせたい(合わせたくない)かどうか」と、「自分が選択的夫婦別姓に賛成かどうか」は、少し違うと思った。自分は合わせたくないが社会的に同姓が認められるのは別にいい、と思う人がいるはずだから。そのため、選択的夫婦別姓(または緩和)に賛成する人が多いのではないかと考えた。

スターターも私も女性側としての意見に偏ってしまったのは少し残念でしたが、2コマ目で、男性側の考えを聞けたのはとてもよかったです。他の人の意見にもありましたが、私は、子どもを産むと選択した人が子どもの氏をどのように決めるのかというのがいちばん気になりました。高校生のいまは、氏を変える際の手続きの難しさや、実際にどんな氏になるのかなどを想像しにくいので、親が別姓で自分がどちらの氏を選択しなければならないかという場合が最も身近に感じます。その際のいざこざを想像すると、同姓のメリットは大いにあると思うし、キャリア等を保証する別姓のメリットも理解はできます。しかし、間をとるという中途半端な策では、根本的な変化につながるのかどうかと、不安にもなりました。

選択的夫婦別氏にすると、子どもの名字をどちらにするかという問題が生じてしまうということを考えると、戸籍上は同じ名字にしたほうがよいのではないかと思いました。戸籍が別で、子どもの名字をどちらかに決めるとすると、子どもの親に対する気持ちの偏りが生じてしまう気がします。

私は、家族観で名字が違うというのをうまく信じられないというか、想像できないし、複雑すぎるので、いまの制度を保っていくのがよいと考える。小学生のころ、好きな人の名字と自分の下の名前をくっつけてみるようなこともあり、結婚の醍醐味?ともいえるかなと思う。そうはいっても私は自分の名前が好きなので、パートナー側が変えてくれたらうれしい。

以前、生まれたばかりの女の子の名前を決めることについて、どうせ名字が変わるのだから画数は気にしないといった人がいたのを思い出した。冗談なのかもしれないが、生まれた時点で結婚すること、そして男性側の姓に変えることが想定されていることに驚いた。私も漠然と、女だから名字を変えなければならないのだろうなと思っていたが、クラスメイトのディスカッションに触れて、考えさせられた。

選択的夫婦別氏制度についていろいろな観点から述べられていて、とてもおもしろかったし、紹介されたアメリカのハイフンの表記がすごくよい案なのかなと思いました。日本でハイフンは合わないのかもしれないけど、櫻井(古賀)優衣となるのもおもしろいし、いま別姓がいいといっている人も、変えたい人もどちらの意見も取り入れられていて、よい案だなと思いました。
・・・> 本当はそこにレビュー主の氏名が入るのですが匿名化の都合で(あと古賀の希望で 笑)差し替えました。このまえ大学生のコメントに「抱負:櫻井優衣と結婚する」とあったので、単位はやらないと心の中で誓いました(大笑)。まあ本気は置いておいて、欧米語のハイフンと日本語のカッコ表記は同置できないのではないかと思う。カッコ式は、いまでも慣用としてしばしば見られる表現です。カッコ内が旧姓なのか新姓なのかわからないところが、表記法としては残念な点ですね。通常は、いま最も使いたい姓を前に出して、他者からの識別を補助する意味合いでカッコ内を書くということが多いようです。結婚してパートナーの姓を戸籍上は名乗っていても社会的には旧姓を使用している人が、しばしば用います。同窓会名簿などでは、カッコ外の姓は現在のもので、カッコ内は「同級生だった時代の姓」を意味するものになります。これはご本人がそのような表記を希望することよりも、幹事などが親切や配慮でそのようにしているケースが多いかもしれません。高校生のとき気になっていた誰かさんの姓が変わっていたら一瞬ドキッとする、という時期が20代のころにはありました(笑)。さて、「いま別姓がいいと言っている人も、変えたい人もどちらの意見も取り入れられ」るとおっしゃっていますが、それは選択的夫婦別姓を採用すれば簡単にクリアできます。「別姓がいいといっている」というのが、本人の問題ではなく「世の中の夫婦はすべて同姓であるべきだ」ということなので、ハイフン式でもカッコ式であっても、両方の意見を取り入れることにはなりません。

選択的夫婦別氏に関して、日本が海外に比べて姓に大きな意味を付与し、海外よりも「夫婦が別の姓を名乗れるようにするべきか」についての論争が交わされる要因とsて、他人を名字で呼ぶことが多く、名前よりも名字に個人のアイデンティティや価値を多く見出しているからではないのかと思いました。

旧姓を使うことで専門職や研究者の方々が業績など一貫性を保つことができるという話が印象的でした。地理学でも、県をまたいだ市町村合併で歴史的な統合を取れなくなってしまうという問題があると学び、名前の重要性を感じました。
・・・> 同じ固有名詞で、地名(自治体名)の場合と個人の氏名の場合とで、どこにどのような違いがあるでしょうか。県をまたぐ「越境合併」という例はほとんどないのですが(兵庫・岡山県境の旧・日生町などが知られる)、県をまたがなくても「平成の大合併」などで、ヘンテコな地名や歴史も文化も感じられないような地名がずいぶん増えて、住民がどう思っているのだろうかと同情したものです。「それでよい」という人、「サイコーです」という人もあれば、「自分の住む町の名として許せない」という人もあることでしょう。地名は「共有」されるものなのです。対して個人名はまさに個人が独占するものですので、「わたし」を識別する記号であり、「わたし」のアイデンティティを成すものでもあります。ただし、出生時の姓・名を自分で決めることができないという決定的な問題があります(だからこそアイデンティティと一体化するのでしょう)。


徳川家康 像(静岡市 駿府城公園)
「豊臣」は氏(うぢ)だが「織田」「徳川」は名字で、信長の氏は「平」、家康は「源」である
いまのように姓名一対型の名前の表記が成立したのは明治維新後のことと新しい

 

選択的夫婦別姓制度について、賛成・反対の双方の詳細な理由を知ることができてよかった。私は結婚が身近ではなかったので、あまり強い意見がないことに気づいた。女性にしかわからない行動、問題があることがわかってよかった。

夫婦別氏制度自体が結婚を前提としているので、結婚できないだろうと感じている私からすると、自分のいない世界の話をしているような気がして、どうもとっつきにくかった。

夫婦別姓に対して私は賛成である。1年生のとき家庭科で、夫婦で同じ姓を名乗る大変さを学んで、賛成の意見に変わった。

夫婦別姓制度自体は、意外とジェンダー問題に関係していないのかと思った。問題は、別姓制度が採用されていないいま、女性が男性に姓を合わせることで男性に従うという構造がつくられていること。そしてそのことが、女性のほうが弱い立場にあるというような価値観が染みついていることだと思った。
・・・> それって「ザ・ジェンダー問題」だと思うのだけど、違うのかな?

夫婦別姓について世の中にはさまざまな考え方をもつ人がいるから、選択肢が広がることがいちばんよい方法だと思う。

選択的夫婦別姓制度の影響を大きく受けるのは、これから結婚する女性たちだから、その人たちの意見をもっと聞き入れることができるとよいと思った。

自分の氏に対して強い意志をもっている人は少ないことに気づいた。これから時間をかけて、夫の姓に合わせることが「普通」と認識されにくくなっていくのかなと考えた。

選択的夫婦別姓制度に関して、自分の名字にこだわりをもっているのは、自分自身よりもその家族のほうが多いのではないかと感じた。またその名字が好きだから変えたくないというよりは、事務手続きが面倒であることが理由であるほうが多いと感じた。家族・家計の価値観を変えることは困難であり、長い年月がかかるので、その中間的政策からはじめていくのはよい案だと考える。また2030年が経てば、保守的な世代が少なくなり、名字を変えることに比較的寛容な私たちが残って、選択的夫婦別姓は進んでいくのではないかと感じた。
・・・> 後半はいいですが前半は違うんじゃないかな。家族の抵抗とか事務手続きはもちろん重要な問題ですが、何よりアイデンティティの問題として提起されていたはずで(今回の報告でも)、汲み取るべきポイントがずれているように思います。どのように受け止めてもそれは自由ですが、中には「あえて汲み取るべきポイントをずらして」現状維持を正当化する人もいますので、議論の精度を高めておかないと、意図しないほうに引きずられるリスクがありますよ。レビューの中に3ヵ所も「感じた」とあります。レビュー主にかぎりませんが、「感じる」「感じた」を多用する若い人が実に多い。社会科学で「感じる」はタブー、くらいにしておくほうがよいです。論拠を立てて考察・推論して議論しましょう。「感じる」は主観なので、「私がそのように感じたのだから、あなたにとやかくいわれなくてもいいですよね」というふうになりえます。クセならば、やめましょう。

夫婦別姓に関しては、風習的なものというよりも、利便性を重視した結果、現在何も変わっていないのだと思いました。男女平等を考えるうえで、機会の統一をおこなうことが今後重要になってくると思い、男女平等の機会を与えたうえで、実際に男女同じ割合になるかは、人々の考え方(マインド)に依るものだと考えました。
・・・> なになに? 何の話をしているのか後半はわからなくなっています。前半も、たぶん汲み取るべきポイントがずれています。

選択的夫婦別姓について、世間が盛り上がっているなとしか感じたことがなかった。長いあいだ採用されてきた同一姓を簡単になくすことはできないと思うが、実用的・日常的な面で別姓が使用できるのはよいのではないかと思った。戸籍上は同姓であるが別姓を使用することもできるという、中間的な制度から取り入れるべきではないかと思った。
・・・> それって、本当に「中間的」なのかな。私はまったくそう思わないですけどね。だったら男性(の半分)は妻の姓に改めて、自分が旧姓の通称使用をするのかってことですよ。

議論や発表の中で、名前はアイデンティティの一部であるといわれていたが、それは負の面でも同様で、自分の姓を変えたいと願う人も少なくないだろう。姓を変えたい人、変えたくない人のどちらも納得できる選択肢を残すべきだと思った。
・・・> 姓(氏・名字・苗字)は、結婚・離婚だけでなく、養子縁組(その解除)によっても変えることができます。外国の話になりますが、私が尊敬する政治家、ドイツ元首相のアンゲラ・メルケルさんは、2度結婚されていますが、最初に結婚した相手の姓メルケルを離婚後も再婚後も名乗っています。(ドイツは選択的夫婦別姓を導入している)

選択的夫婦別氏制度について、私は法的に旧姓を維持しつつも利用範囲を拡大する案がよいと思った。旧姓制度を維持するデメリットは、時代の流れ(保守派が減っていく)の中で大きくなっていくため、将来的に選択的夫婦別氏が導入されていくだろうと思った。しかし、いますぐの導入では、受け入れられつつも、改革的な意見が弾圧されてしまうと思うので、利用範囲拡大といった中間の案をとるべきだと考える。別氏制度だけの問題じゃなくて、ジェンダー問題の現時点での改善案は、そのような社会の基盤づくりからはじめるべきだと思った。
・・・> それって本当に中間の案だろうか、というのは1つ上で述べました。いや、自身の見解をという以前に、議論されていることに関してわかっていない部分が結構あるのではないか。「旧姓制度」という表現はおそらく誤っています。維持されるのだとすればそれは「旧姓制度」ではなく「現行の制度」でしょう。また「改革的な意見が弾圧され」るというのは、たぶん違う。非難を浴びるとか批判にさらされるということはあっても、「弾圧」なんてないのではないか(トランプ政権が日本に出現すればわからないが)。そして、弾圧ないし非難されたくない夫婦は、「選択的」なのだから夫の姓に合わせるという現在の主流の方法を選択するのではないか。弾圧されたら気の毒だからいまは旧姓拡大で、というのは、論の展開として適切でないように私には見えますが、どうでしょうか。

いま、選択的夫婦別姓制度についての議論が積極的に買わされているのをテレビやインターネットでよく見る。もちろん夫婦のうち片方(とくに女性)が結婚した後に多くの苦労をするというのは絶対によくないことだと思うし、女性のキャリア形成のうえで旧姓の使用を拡大することは必要不可欠だと思うし、仮に自分が相手に合わせる立場になっても、旧姓の使用が拡大するほうがうれしいので、旧姓使用拡大には賛成。しかし「家」という枠組は残したほうがよいのではないかと思った。
・・・> 「家」という枠組、といっておられるので、間違いですとはいいにくいのですが(「制度」ならば明確な間違い)、そこでいう枠組なるものは制度ではなく慣習の一部であり、幅もあるし、そんなものとっくに無くなっているという人もあります。法律や制度を操作してそうした慣習の一部を「残す」というのは、かえって問題ではないのかな?

夫婦別姓は、とくに老人や親などに受け入れられづらいから導入しなくてよい、という意見は理解できない。それによって導入が難しくなることはわかるが、拡大が難しいことが導入をあきらめる理由にはならない。夫婦別姓が好きなおばあちゃんだっているだろう。

選択的夫婦別姓制度について、私は、選択肢が増えることはいいかもしれないけどいまの社会ではメリットがデメリットを上回らないのではないかと感じました。それよりも、高市さんが主張しているような、戸籍上は同姓にしつつ旧姓の使用範囲拡大をしていくことがよいと考えました。もし選択肢を増やして別姓が制度として可能になっても、婿入り・嫁入りなど家制度の名残や、子どもをどうするかなどで、別姓に反対する人も多いと思いました。また、きょうだい間で名字が異なることや、両親の名字が異なることは「おかしい」ことではないことを子どもに教える方法も考えなければならないと思いました。ただ、女性が女性を批判することもあるという話を通して、性別にかかわらず個人を見る視点を身につけたいと思いました。

夫婦別姓制度について、新しく制度をつくるより、先入観や風潮を変える必要があると考えた。氏の制度の議論を知るまでは、結婚すれば苗字を変えるのが当たり前だと思っていて、女性の姓を継ぐことができることも知らなかった。若いころ(子どものころ)からこの先入観をなくせるような取り組みをするべきだと思った。ただ、いまの制度では妻の苗字に合わせることができるのに、昔からの家の仕事の都合などで、男性側の姓に合わせる割合が高いままという現状が変わらないのだと気づかされた。また旧姓で築いたキャリアを維持する観点も必要なのだと気づいた。


マリア・テレジア 像(オーストリア ウィーン)
言わずと知れた18世紀ハプスブルク家の当主だが、神聖ローマ皇帝位は男性に
限定されるため即位できず、オーストリア女公・ハンガリー女王などの称号を名乗った
欧州の君主国でも、女王を認めるところと認めないところが現在もある

 

テイラー・スウィフトの話に最も衝撃を受けた。いくら人気が高くて影響力が大きいアーティストになっても、「性」という面で見下されてしまう現状にショックを受けた。ただ現在、女性差別にかぎらずアジア人や黒人に対する差別は年配の人に多く、若者には少ない印象がある。そのため、いまは我慢が必要だが時間が自然と解決するのではないだろうか。

曲や歌詞に触れる機会が日常的に多いテイラー・スウィフトに焦点を当てることで、女性が世の中からどのように考えられているのか、新たな視点にいろいろ気づかされた。

2つ目の発表は、政治や制度ではなく音楽という、もっと身近なところから考えられていて、イメージが湧きやすかった。男性が曲をかくことは芸術的、女性が曲をかくのは計算高くて感情的だと無意識に捉えられていることに、今回初めて気づいた。また男性アーティストと女性アーティストで、求められていること(見た目の変化や露出度)が異なるというのも、いわれるまで気づけなかった。この話を聞いて、女性が痴漢に遭う事例を思い出した。一部の意見では「スカートが短いからしょうがない」「性欲を抑えるのは難しいことだ」というのもあるが、はたして本当にそうだろうか。女性が他人に見せびらかしたくてかわいい恰好をしていると勝手に決めつけていることがよくないのだ。そして、そう決めつけているのは男性だけでなく、女性でもあるのも問題だ。少し離れてしまうが、女性の生理に関しても、女性がどう感じているのかを勝手に判断せず、本当はどう感じているのかを理解しようとする姿勢が大事なのだと私は考える。夫婦別姓の話も同じで、自分の姓に強いこだわりをもっている人はわりに少数で、別姓にするという選択肢もあるうえで同じ姓を選ぶ人が多いと予想する。女性の自由が認められている事実がほしいだけで、内容はそこまで重要ではない。クォータ性もハンデを与えて、実力を発揮しきれないかもしれないという配慮があるかないかで、対象の人は尊重されていると感じられるのではないか。

テイラー・スウィフトのこれまでの活動からジェンダーについて考えられた報告について、たしかに同じ行動・発言でも、その主体が男性であるか女性であるかによって、社会的な受け入れられ方が明らかに異なると思います。音楽業界の場合、恋愛に関する感情的な歌詞を女性がかくか、男性がかくかにおいて、前者の場合エンターテインメントとして捉えられてしまったり、過剰・下品といった批評を受けたりすることが多いですが、後者の場合は、正直・感情豊かなど、どちらかというと賞賛するような評価をされることが多いと思います。

テイラー・スウィフトは知っていたけれど、自身の意見(フェミニズム的な主張)を音楽に載せて発信しているというのは知らなかった。日本ではフェミニストというと倦厭されがちだと思うので、芯をもっている女性の存在というのはかなり大きな影響をもつと思う。

ジェンダー問題について深く考える、よい機会になった。テイラー・スウィフトがトランプを皮肉っていたという事実に驚いた。日本では著名人が政治に絡むことはほとんどなく、まして批判することはもってのほかである。日本と外国の政治に対するかかわり方の違いがわかって、興味深かった。
・・・> 著名人だけではないぞ。高校生や大学生も「政治に絡むことはほとんどなく」て、批判することはもってのほかだと(ひとまず)考え、何かを考えていても表明しないのが普通になっています。そんなのまともなおとなではない、というのが私の考えです。

白雪姫の話で、若く美しい姿がよしとされ、老いて醜い姿がダメという社会の形が問題だと発表者の方が話していたが、そもそも人間として若い人のほうが老いた人よりも好まれると思うので、そもそもの人間の好みと、テイラーの例のような商業とが結びついてしまうのは、どうしても避けられないことのように感じた(だから許すというわけではないが)。そのような、そもそもの本能的なものと結びついて変わることのないような性質から生まれる問題をどうすればよいのかが難しいと思った。(本当は授業内で発言できればよかったのですが、あまり考えがまとまりませんでした)
・・・> 「そもそも」を繰り返していますが、本当に「そもそも」なのか(所与の前提なのか)ということ自体が問われている、という指摘だったと思います。「若い人のほうが好まれる」というのがいつでも、誰でもそうなのか、それは本能的な(先天的な)ものなのか、文化やメディアによってあとからつくられた価値観が内面化されたものなのか、どれくらい見通せているでしょうか。また、「若い人のほうが好まれる」度合いに、ジェンダー差があるのではないか、という趣旨もいわれていたと思います。そして「所与の前提を疑い、批判的に考察・表現する」という態度そのものに不快さを感じて攻撃するという動きについても触れられていました。いま私が、スターターたちの報告内容をゼネラルな形に変換してここに記しているのですが、高校生には、そのプロセスを確実に自身でできるようになってほしい。

テイラー・スウィフトがフェミニズムを掲げながらも結婚や出産を望む、というのが印象に残った。アメリカの女性アーティストは「女性らしさ」を積極的に表現することが多いが、それは必ずしも古い価値観や偏見の肯定ではなく「女性らしくあること」と「女性の自由を謳うこと」は矛盾しない。

女性に対する偏見のことで、一人の歌手の人生を例として挙げてくださったので、ひじょうによく理解できた。その人が活動していく中で、男性から女性への圧力のようなものがまったく改善されていなかったことに驚いた。商業的な目的で彼女にイメージを押しつけたり、性的被害を与えたりといったことが長期間つづき、彼女の希望する歌へのコンセプトを大きく阻害したのではないかと思う。改善方法としてクォータ制の導入は非常に効果的ではあるが、男性の権力が強いままでは、根本的な問題は解決しない。したがってその企業の中でガイドラインなどをしっかり整え、アーティストなどへの対応を透明化し、道を誤りそうになった場合はなるべく多くの人がそれに気づいて声を上げ、受け入れられやすい環境をつくることが大切だと思った。
・・・> 指摘はもっともですが、クォータ制の話はこの文脈には乗りにくいと思う。それとテイラー・スウィフトについての話は、その次元よりももう少し深いところで展開されていたのではないかと思います。彼女の来歴や作品などに触れたことがあまりないと、報告者のいいたいことを汲み取るのが難しかったかもしれませんが、「業界の闇」の話はむしろ副次的で、テイラーがその活動全体で体現している「社会のあり方そのもの」のテーマを受け止められるようになるといいなと。(実際には、テイラーに関する2つ目の報告を読み解くには、音楽とかアーティストの話というよりは「社会のあり方」に対する日ごろの問題意識を言語化していなくてはならないので、たいていの高校3年生には難解で高度なものであったろうと思います。報告が「よすぎた」と考えます)

映画などから男女のイメージがつくられているという話がありましたが、男女平等を進める動きが強いいま、時間の経過とともに平等の達成に近くなるのではという希望が見えました。新しい映画やドラマがつくられて、つぎのせだいはそれを見て育っていくので、一歩ずつ進むことができると思いました。

同じような表現でも、性別が異なっているというだけで評価が違うという話を受けて、法律上では差別がなく、平等であっても、暗黙の了解がまだ抜けないことを実感しました。男女平等について、昔からの風習が抜けても自民党のように見えない圧力がかかりつづけてしまえば、想像するよりも長く男女の本当の意味での平等が実現しない時間ができてしまうのではないかと感じた。
・・・> なになに? どの話に対していっているのかがわかりにくいのと、見えない圧力がどのような種類のもので、どこにかかるのかがこの文章からは読み取りにくいです。


七五三

 

クォータは逆差別だと思っていたけれど、男女の立場を公平にする役割があることがわかった。単に優遇しているのではなく、不利な立場の人たちにチャンスを広げる意味があるのだと思った。

クォータ制は能力ある女性が社会でさらに活躍するために必要なのかもしれないと思うようになった。ただ、政治、民主制などとの兼ね合いを考えなければ、逆差別だといわれても仕方ないと思う。
クォータ制は、民主主義との兼ね合いをとって、制度上の平等と実際の問題をどう折衷していくのかをよく考えなければいけないと思った。

クォータ制は、意見にもあったとおり活躍の機会を得るためのものならよいものだと思う。保守派がいるいまでは、制度を取り入れることが難しいと思う。

クォータ制に関して、政治に直接のテコ入れをするのではなく教育から間接的にアプローチするべきだと考える。男子校・女子校の問題など。東大・京大の女性の学生の割合は約2割だ。教育の男女格差を縮められたら政治参加も増える。

クォータ制について、規則としての平等ならば必要ないが、本質的平等に寄与すると聞いて、なんとなく障害者に対する配慮と似た話だと感じた。クォータ制は導入されなくても、保守的な世代の引退などで徐々に男女間の差は縮まると私は考えている。

クォータ制に関して、女性が活躍する場面をつくるための基盤、という意見を聞き、そういう意味ですごく大切なのかなとは思いました。ただ、本当にこれが意味を成すかといわれると、そうではない気がします。私の周りに、本当に優秀ですごく仕事のできる女性が要るけれど、結局マネージャーの2つ下のポストに就いていて(まだ若いので年齢的な側面もあるとは思う)、どう考えても現マネージャーよりも仕事ができるのにポストに就けないというのを見ると、結局男女差や年齢格差が残っているように思え、クォータ制を導入したところで本当に活躍する場面を与えられるのか、重要な仕事を任せてもらえるのかは、また別の問題だなと感じています。
・・・> クォータ制では、女性の分母を作為的に大きくすることで、「本当に活躍する場面を与えられる人」の出現する確率を高くする、ということだと思います。性別関係なく、真に仕事のできる人が真にふさわしいポストに就けるのかというと、どんな社会でも集団でも、そうでもないだろうと思いますし、他方で、有能な人材を相応に処遇しない社会や集団はすぐにだめになるだろうとも思います。

 

何かのマンガで、頭がよすぎる女性はモテない(結婚できない)といった意味の発言や、東大の女子学生はモテないという発言を聞いたことがあり、女性は、男性に理想像をつくり上げられ、縛られているということがときにあるなと思った。一方で、私には想像するしかないが、男性でも「泣き虫」「弱い」「おとなしい」ことは男らしくないという偏見や押しつけもあるのかなと考えると、女性にも男性にも差別のある社会は、伝統がつくったものだろうなと思った。
・・・> 差別というより、そこはジェンダー・バイアス(たぶん「差別の素」くらいの話)であろうと思います。大の女子学生は、いまどうなんでしょうね。「いや東大じゃないので」とおっしゃるかもしれませんけど、パートナー側の学歴によっては大いにありえますよ。後半は本当にそうで、男性に求められる「男らしさ」のイメージは、ジェンダー問題として自覚されにくいばかりに、ちょっと厄介かもしれません。高校生や大学生はピンと来ないかもしれないけれど、ダメージフルなのは「男のくせに女房・子どもを食わせられない(稼ぎがない)」というやつ。「娘を嫁にやらない」という親が放つ、最も鋭利な凶器かもしれません(された経験ないですけど 笑)。

国ごとに政治の形態やジェンダー格差の背景が違うので、いまの時代の日本に合わせた方法で、男女差をなくしていかなくてはならないのだとあらためて思いました。

日本のジェンダー指数が低いことに関して、どうしたら解決できるのか、何が男女平等の妨げになっているのか考えさせられた。男女平等になっていくと、もちろんよい点はたくさんあると思うが、これまで平等でなかったからこそ得られていたこともあると思うので、これからの社会を生きていくうえでさまざまな動きに対応できるように気を引き締めて生きていかないとなと感じた。

発表にあったように、日本はジェンダー・ギャップ指数が低く、ジェンダー後進国と呼ばれる。スライドを見ると、教育と健康の分野より、政治や経済の面で問題があることがわかる。教育・健康は、制度や形式によって平等を実現しやすい傾向にあるが、政治や経済は、男性がチームを引っ張るリーダーであるという価値観があり、権力関係は男性というイメージが根強いのかなと思った。また、女子も大学に行けるし健康寿命も長いという男女平等の素地や土台がありそうに見えるからこそ、日本はジェンダー平等なのではという認識をもってしまっていたが、現実には課題を抱えているのだと気づいた。

日本が、他国に比べて男女不平等だといわれるのは、他国のリープ・フロッグ現象なのではと思った。発表者の方がいっていたように、もともと日本は男女の不平等が他国に比べると緩く、そのうえで少しずつ女性の権利を獲得してきた。完全な平等などというのは革命のように相当の熱量と爆発力がないと難しいのではないか。ある程度は平等化が進んでいる日本において、それほどのムーブメントを今後生み出すことはできるのだろうか。微妙な進歩を見守っていくことになる気がする。

世代によって考え方が異なり、今回のディスカッションでも明確になったように、若い世代はある程度、氏姓に対してリベラルな考えをもつ人が多いのに対し(この学院にいる人たちだけなのかもしれないが)、政治の中枢を握る人々にはそうでない世代が多く、よい意味でも悪い意味でも私たち若い世代は選択の自由に慣れすぎてしまっているように感じた。クォータ制ではなく、herのようなどちらかの性に偏ったものではない言葉を広めていくことや、意識を変えていくことから、日本のジェンダーに対する考え方の変革をはじめていかなければならないと思う。

今回の討議を通して、私が問題提起した選択的夫婦別氏について、自分が調べて考えたことの2倍、3倍の理解や、考えの深まりにつながった。他の2人の発表も、わりと女性優位といった考えがあったと思うので、討議を通じて男性の意見も聞くことができたのがよかった。今後の政策に関するニュースに注目したい。

初めて自分で発表して見て、人に伝えることの難しさを感じました。自分が調べたことに対して、自分の考えを混ぜ、偏りを生んでしまったかもしれませんが、主張したいことはすべていえたことが素直にうれしかったです。またジェンダーという枠組で自分の意見を述べやすかったと思います。私は、夫婦ごとに好きな姓を選べばよいと思いますし、もともと根づいている慣習は直らないものだと考える人もいるかもしれませんが、それはどこかで方向を転換させていく必要があると思います。日本はジェンダー平等に対してG7でも最下位という話が紹介されていましたが、それでも「女性が納得している」と社会に思われるくらいに声が上がっていないのでは?と思いました。われわれで、いままでの慣習を疑問視し、問題視していかなければ、今後このままになってしまう、または停滞してしまうと思います。

 

 


開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2025年度は近未来の社会を(に)生きる構想と探究です。副題の妙なところに(かっこ)がついていますが、助詞を入れ替えると「生きる」の主語も替わるようになっています。どのようになるかは、各自でお考えください。現代社会論Iではこのところずっと探究(re-search)を掲げています。これは文部科学省も強調するところであり、日本の児童・生徒、とくに中高生が重点的におこなうべきだと考えられている知的プロセスにほかなりません。インターネットに加えて生成AIも身近になりましたので、○○の意味はなんですかといったシンプルな問いであれば、一瞬で答えを出せてしまいます。下手な先生が講釈するよりもはるかに平易でわかりやすいですよね。しかし、社会で生きて、生活・生産に携わろうとするときに、それで済むのかということについては、絶えず自問してほしい。実際に直面するのは、まだ出会ったことのない問題や、正解がはっきりしない課題であることが多いのです。○○の意味というような知識を、高校や大学でしこたま取り込んだとしても、社会のほうがどんどん変わってしまいますので、せっかくインプットしたものがたちまち無駄・無用になります。構想や探究というのは、その先で持続可能なもの、というイメージで設定した当科目の主題です。現代社会がいま抱えている問題の多くは、原因や構造がはっきりしているが解決策が見出しがたい、あるいは解決策をめぐって対立が起きているという場合と、原因や構造すら明らかでないというものです。正解を覚えてテストで出力し、点数を取るという方式にはなじまない、そうした部分こそ、小・中・高と社会科や地理歴史、公民科を学んできた先の部分、つまりみなさん自身がその力を磨いていくべき部分ではないかと、私は考えています。大変ですし面倒ですが、この作業はとてつもなくおもしろい。大変だけどおもしろい、ということをわかってしまうと、もう探究をやめられなくなります。生涯にわたって学びつづけることになります。その一歩にしたいですね。

2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

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