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■次回は・・・
12- ちょっと待って!モラトリアム:青年期の教育課題
前回は、おなじみすぎるけれどもそれゆえに構造や機能に目を向けることの少ない学校教育を取り上げました。学校が果たしている役割やその課題、そこで児童・生徒が何のために何を学んでいるのかといったことが主題でした。今回も同じようなところを取り上げるのですけれど、注目する先は学校や教師ではなく生徒(student)のほうです。もちろん、私が専門にしている教育学の範囲ではありますが、どちらかというと発達心理学という学問によるところが大きい。発達(development)というのは、人間に対して用いられる場合、時間の流れに沿った心身の変化の総体を指します。右上がりとか成長でなくてもかまいません。年齢を重ねて身体的機能が低下していったとしても、それは発達というふうにみなします。その発達心理学で、幼児期→児童期と来て、成人期に達する前にあるのが青年期(adolescence)です。やや雑な言い方をするならば、子どもからおとなへ変わっていく過程の時期、ということになるでしょうか。何ごとによらず変わり目というのは観察していておもしろい。普通に考えて、子どもとおとなでは、能力でも振る舞いでもかなりの差があります。ではどのような経過をたどって、人はおとなになるのか。その途中においてはどのような姿を見せるのか。そのあたりを考えてみるのが今回の主題です。
発達は心身の変化にかかわる概念であると申しました。心身と、さらっといってしまいましたが、心と身の発達はそれぞれ別個であるように見えながら、相互に作用して、全体として人を変化させていきます。身体の発達のほうは、学校の教科でいえば保健体育が主に扱うところですね。栄養の摂取や健康の維持・管理というのが大事なところになります。それらは、ある時期まで子ども自身ではなく親などのおとなが支えていたはずなのが、いつからか子ども自身が自律的におこなえるようになります。人によっては、支援を継続しようとする親やおとなをお節介なものとして受け止め、「もういいから、自分でやるから」と口をとがらせているかもしれません。親やおとなが、これをこうしなさいと指示しても「嫌だ」「私はこうする」とそれに逆らうような反応を見せ、これをしてはいけないと禁じられても「嫌だ」「私はそれをする」と、またしても逆の反応を見せることも、しばしばあります。大のおとな(あまり学問的な表現でなくてすみません)がそんな態度を取ったら、ただの●●ですけれど、なぜか青年期のそれは「はいはい、そういうお年ごろね」と、全体として容認されているようなふしがあります。
私の本務である教員養成(teacher training)は、未来の教員を育て、送り出す仕事です。いまのところその主たる対象は中等教育(secondary education 現在の日本の制度では中学校と高等学校)の教員。彼らがプロの教員になって指導・支援にあたる中学生や高校生というのは、どっぷり青年期の中にありますので、指導するべき対象への理解というのが欠かせないのはいうまでもありません。教える教科が理科であろうと情報であろうと音楽であろうと、それらを学ぶ生徒は青年期としての特色を帯びているからです。そしてその特色は多様性や幅やグラデーションをもっています。あれ? と思うでしょうか。ここは高等学校の教室。「高校生というのは」なんて書きましたけれど、これを学んでいるあなたは高校生、つまりどっぷり青年期の渦中にある人ですねきっと。自分自身が属する発達段階を学ぶ、さらには自分自身を学ぶというのは恥ずかしくもあり、面倒でもあり、苦しくもあり、反発したくもなることですし、「学校の先生がそれを学ぶのは仕事なのだから当たり前だけど、自分たちは高校生だし」と思うことがあるかもしれません。しかし、公共や倫理の教科書を開いてみてください。高校生自身が学ぶべきテーマとして「青年期の課題」が、かなりの分量をとって記述されているはずです。今回の主題は公民科としてど真ん中の(それなのになぜか実際にはあまり教えられていない)テーマということなのですね。
REVIEW (6/19)
6月26日のレビューは遅れて更新します。しばらくお待ちください。
■私たちの当たり前の日常を支えるエッセンシャル・ワーカーの重要性と、少子化がもたらす地方の基盤崩壊という現実について、深く考えさせられた。とくに印象深かったのは、自分中心の天動説から、自らを社会の膨大な一分子として客観視する地動説へと視点を転換させることの重要性である。普段はブラックボックス化している流通や福祉の現場に想像力をはたらかせることの大切さを学んだ。この俯瞰の視点を意識し、収益と利他を両立させるいきかたを模索していきたい。また、まずは自分の足で現場に行き、隠れた不便や不条理を見つけることからはじめていこうと思う。
■本当に必要な仕事やそこに就く人は、社会で適切に評価されていないと感じた。必要性が高いものほど付加価値は低くなり、第二次産業にしても部品をつくる下請会社よりも商品を消費者に最終的に届ける会社のほうが有名であり、人気もあるからである。社会が発展するにつれベースを軽視する傾向がどうしても生まれてしまうと思った。
■『君たちはどう生きるか』で、人々は水の分子であり世界は海や川であるという比喩はすばらしいと感じた。読んだことがなかったので読んでみたい。
■『君たちはどう生きるか』は、入学前に一度読んだことがありますが、中3には少し早かったようで、あまりそのよさがわかりませんでした。いま見るとコペル君の社会的成長を描いているが、ある程度社会について知っていないとおもしろく見えないのだと思いました。
■『君たちはどう生きるか』を読んだことはあるのですが、最後に読んだのが小学生のときだったので、内容がよくわかっていませんでした。同級生?とけんかする話だと思っていたのですが、コペル君の考え方の成長の話でもあることを知って、もう一度読もうと思いました。
・・・> ケンカというか、悪いやつらと戦おうぜと約束したのにコペル君だけヒヨってしまい、そのことで屈折するというようなことだったかな。あのエピソードを入れておかないと多くの子ども(中学生)には読んでもらえないから挿入したのだと思いますが、キーパーソンは、その騒動にも出てくる豆腐屋の浦川君なので、ぜひまた読んで、感想を聞かせてください。

■インターネットの影響などもあり、「好きなことだけ視る」といった視点しか重要視していなかったが、「いかに外の世界を見てニーズに気づくか」が大切であると学び、もう少し趣向を変えた挑戦をしてみようと思った。
■生活が陶冶するというテーマに関して、たしかに社会科見学でごみ処理場を訪れた際に、ごみを出したことがある人が少なかった。あまり生活の中にあるもので学んでいるという感覚がなかった。生活実感は、学びにおいて重要であるとわかった。
・・・> マンションなんかだと、お手伝いをしたとしても「ゴミ収集の手前」までしか知らないということもあるでしょうしね。
■私自身、世の中には数えきれないほどの職業があるのだと最近実感したところなので、小学生にそのことを実感してもらうのは難しいと思いました。でも、たとえば職業体験や職業調べなどで、一つの職業を深く学んで、その中に別の仕事をしている人が出てくることを発見してもらうことができたら、小学生にもわかりやすいのではないかと思います。
■社会の基盤を支える人々や仕事を理解できていないと気づかされた。保育、介護、物流など生活に必要不可欠な分野ほど低賃金になりやすいという構造は、改善すべき課題だと考える。しかしデジタル化が進んだ社会では、生産や流通の過程が見えにくく想像しにくくなっているため、多くの人々がそれらの仕事の必要さを理解できておらず、見合った評価がなされていないと思った。この中で次の社会の担い手を育てるために、現場を積極的に体験させるべきだと思う。アルバイトやボランティアなどを通して社会のしくみに触れ、体験したことを社会で発生している問題と結びつけて考察する機会を設ければ、自分も社会を支える一員であるという意識が生まれると思う。
■第三次産業の発展によって仕事と私生活の境目が大きくなり、とくに企業−企業のB to B産業の具体的な内容が見えづらくなってしまった。意識的に生活の中で流通の過程を考えたり、自ら調べたりしないと情報を得られず、どうしても個人の興味・関心に知識が寄ってしまう現状にあると思う。そのけっか、人々が日常的に意識しづらい物流関係や農業・漁業、保育や介護関係などの仕事は人手不足に陥る傾向にあるのだと思う。しかし、そのような仕事こそが人間の生活の基盤を支えており、人の生活をより便利に、豊かにするためにあるような情報産業よりも重要な職業として存在しているのかもしれないと思った。また、大学では文理融合の思考や専門的な知識を得るだけではなく、さまざまな人と出会い、広い視野をもち、一つの物事を多数の面から考えなおす力を得ることも大事だとわかった。学びを日常生活と結びつけて考える習慣をつけていきたい。

(左)マカオ (右)ソウル
■商店街からスーパーや大型商業施設への転換など、効率化を求めるほど人間・地域のつながりが失われていることを実感する。とくにテレビなどで「人情」などといって人間らしさ=昔らしさが「よいもの」として懐古されているところを見ると、それをよく感じる。ただやはり時代の流れにまったく逆らうものであり、機械化・効率化をいまさらやめるなんてことはたぶん誰にもできないし、やろうともしないだろう。
■イオンネクストデリバリーのコンセプトムービーを視聴したが、たしかにB to Bの職種は多くの人に認知されておらず、将来の選択肢として入れている人が少ないと感じた。有名なのは本当にB to Bなのか怪しいが、公認会計士のみなのではないかと考えた。
・・・> いろいろ、そんなことはないよ。(1)将来の選択肢に入れている人は多いです。早稲田大学とか附属高校には多くないかもしれない。(2)公認会計士ってレビュー主自身の関心がそこにあるだけでは? 有名でないとはいわないけど、その程度の知名度であれば他にもいろいろあるよ。(3)B to BとかB to Cというのは基本的には企業(business)にかかわる概念なので、○○士・師といった職名には当てはまりません。「○○士法人」ならば当てはまらなくもないですが、無理に考えないほうがよい。B to Bなどで表現したいのは、そういうことではないからです。いまのうちに視野を広げておきましょう。○○士・師になって、商売相手というかお客さんになってくれるのは、同業者ではなく「社会」の人たちだからです。
■クリーニング店が減少しているというのは大いに実感できる。うちでは私が10歳のころまで毎週利用していたが、いまは使っていない。コロナでリモートワークになり、スーツを使わなくなったからである。そのクリーニング店はなくなってしまった。コロナ禍の影響はB to Cにも出ていたといえる。
■将来クリーニング店で働こうと思ったこともないが、クリーニング店の数すら減っている、となると、自分たちの世代が働くことのできる環境はあるのだろうか。無意識にそういうことから目を背けてきたが、わりとまじめに考えなくてはいけないなと思った。とはいえ、はたして自分がやりがいを感じ、ある程度満足するような職にありつけるのだろうか。
■エッセンシャル・ワーカーと呼ばれる職業でも、AIの登場によりエッシェンシャルなのかわからなくなっている。やはり職業の優劣や重要性を測るというのは見当違いであるのかなと思った。エッセンシャル・ワーカーであるほど賃金が少ないと繰り返し学んだが、これらの生活や地域といった分野は永続的であると知り、いままで娯楽ばかりにフォーカスしていた自分が少し恥ずかしくなった。
■私たちの生活に絶対に欠かせないはずのエッセンシャルな仕事が、低賃金でおこなわれている現状は、必ず是正しなければならないと思った。保育士や介護士の仕事は、どれだけAIが進歩しても最後は必ず人の手が必要になるため、政府がこれらのエッセンシャル・ワーカーに対して補助金を出すべきだと思う。
■介護や保育にあたる人員が足りていないという話題はよく耳にする。保育士さんたちは、少子化しているとはいえ子どもの成長に大きく影響するため、重要な職であるといえる。介護士は、高齢化の影響でさらに需要が増している。しかし、そんな彼らの所得は日本人の平均年収とほぼ変わらないか、より低い場合が多い。資格の必要な職業であるにもかかわらず、給料は低く、地方では保育系の学部をなくす大学もあるという。そんな状況では、王全人員も減るに決まっている。今後さらに少子高齢化がすすむとしたら、同時に需要も増すだろう。某論破系の有名人はFラン大学を非難していたようだが、私は国の介入で、介護系や保育系の職に手を加えるべきだと考えている。
■介護や保育の現場が必要なのに、人材の供給が追いついていないという問題は、少し前に聞いたことがありました。それが、大学や地方の教育の問題と関係があると初めて知りました。これからの少子高齢化に対応するために、それに対応できるアタマをもって社会に出てくる人が必要であると思われ舞う。これからの自分たちの雇用に対してでもありますが、硬い思考ではなく多方面から考えることのできる思考力をもつことが、今後の社会のためにも必要だとわかりました。地方だから関係ないという考え方ではなく、日本という集団の中にいる以上、狭い範囲ではなく広い視野をもつことが大切だと考えることができました。
■保育や福祉は心労のわりに低賃金なのが許せないと思った。かつて女性というだけで職業が制限され、20代半ばで結婚退職という人も多く、幼稚園や保育園には若い人が入り、勉強がそこそこできる人は学校の先生というような風潮があったことがわかった。保育園は子どもたちの精神を育てる大切な社交の場であり、それを軽視し賃金を低くして働かせるのは、先生たちの意欲を下げるし、とくに介護においては人手が足りない。これからもっと不足すると思うので、エッセンシャル・ワーカーの賃金を増やすべきだ。保育・福祉にどれだけオンライン通信教育が可能なのかという話があったが、やらないほうがいい。なぜなら子どもはやはり対人で対応するほうが学びの機会が圧倒的に多いし、福祉についてもオンラインではできないことが多すぎる。
・・・> 思考の段取りは悪くないのですが、おそらく社会的な問題を実際に取り上げて考察した経験が少ないせいで、うまく整理できていないところがあります。保育園が軽視されて賃金を「低くし」たわけではなくて、元来は家庭・家族の仕事だったものが外部化されたため例外とか欄外の扱いだったから、市場原理の作用によって労働単価が低くなっている、ということです。労働力も商品だと考えて、おなじみの価格機構のグラフにのっけて、考えてみてください。後段の、保育・福祉にオンライン通信教育というのは、保育や福祉の担い手(たとえば保育士や介護福祉士)を育成する学校でオンラインをどの程度入れられるかという話。保育や福祉そのものをオンラインにするということではありません。
■少子高齢化が進むいま、介護サービス等は必須になるはずですが、上の世代は兄弟も多く、自分たちはできた世代だからと、家庭での完結を求めてくるのは不合理です。それによって母の負担の大きさにもつながっていると考えるため、福祉サービスの発展にとても賛成です。しかし、そもそも少子高齢化による労働力不足が顕著なので、介護職員の待遇改善やAI技術の活用を進めることで、社会全体で支えるしくみにしていくことが重要だと思います。
■介護は、いまでも「家族がするもの」という考えをもつ人が結構いる、という話があった。その人たちは、いくら家族でも経済的・精神的・技術的な限界があるということを理解する必要があると思った。先生もおっしゃっていたように、どうせ家族の中の特定の人に押しつけるということが多い。実際に、介護疲れによる事件が起こり、よくドラマ等でも描かれたりする。そういうことが起こらないようにするためにも、専門の人たちに頼るというのは別に間違ったことではないと考える。しかし介護職は社会においてとても必要な職業であるにもかかわらず、給料が安く仕事が大変で見合わない、というような理由でなり手が少なく、やめてしまう人も多いというのが課題だ。そこを改善していく必要があるのではないか。これからはさらに少子高齢化が進んでいく見込みだが、ただでさえ4人に1人は高齢者というのは多いのに、どれほどになるのだろうか。介護にまつわる問題や意識を優先して解決していく必要があると考えた。
■自分が40歳くらいになって、親の介護をしなければならない状況になったとして、仕事で忙しくても自分の手で親の介護をしたいなと感じた。サービスが発展したり介護AIができたりしても、自分がしたい。
・・・> それはご随意にというか、自身の考えを大切にしてください。要するに、そうした個別の考え方とか価値観が万人に共通するわけではない、だからサービスや介護AIそのものやその利用者に無用な非難を向けるべきではない、ということですね。保育にしても介護にしても、福祉の外部化にあらがう一部の保守系の人は、自身の考え方をみんなに共有させようとするところがあって、それが気に食わないんだよね(笑)。また、社会情勢の変化に伴って、自分と高齢親の居住地が遠距離になる(ときに海外になる)ケースも当たり前になっています。長く住み慣れた土地を離れて老後を過ごすことのよしあし、好き嫌いというのも、結構人によってあるのではないでしょうか。

冬の札幌市街
■少子化に伴う学校の統廃合や教員不足は、遠い地方の話ではない。これに対して、「昔ながらの学校の形」にいつまでもこだわる必要はないと思う。先生が提案されたように、オンライン授業をうまく使ったり、電気バスで生徒が行き来したりするような新しいアイデアを取り入れるべきだ。地域や学校が小さくなっていくのをただ黙って見ているのではなく、私たち若い世代がデジタル技術を「新しい時代の当たり前」として使いこなしていくことが大切であると考える。
■地方分権化というと小泉元首相の「小さな政府」の取り組みを思い出した。人口減少という社会問題を背景に、地方がとくに負の影響を受けるということで、先生の教科センタースクール構想が印象的だった。物資があふれ何かと便利な中心部に人が集まり、過疎地域が生まれ、人がいないから突然発展させるというわけにもいかず、とくに若者がまた減少するストロー現象で負の連鎖が確立されてしまっている。その現状で人口増加のために改善を図るのではなく、いまを最大効率化させるという発想が現実的で、魅力を感じた。いっそ過疎地域で、その土地に残らないといけない事情がないのであれば、自然に戻したほうがよいという考えが頭をよぎった。
■教科センタースクール構想について、学校を回って授業をするというのはよいかもしれないと思ったが、その教科の先生の数が少なかったときに1人が多くの人数を担当することになるのは大変だと思った。小学校。中学校のうちから、音楽と美術の教科を選択制にしてもよいのではと感じた。
・・・> 教科センタースクールというのは古賀のオリジナルなので、議論や考察の対象にしてくださらなくても結構です(笑)。その教科の先生の数が少なかったとき、というのがいまいちわかりませんが、現状少ないので、そういうアイデアを案出したということです。わかるでしょうか。やや込み入った話ですが、公立学校の教員というのは、一部の政令指定都市(さいたま市、横浜市など)をのぞけば、都道県教育委員会が一括して採用し、市町村に割り振ります。小・中学校は市町村管理なのに、そこの先生たちは県から来るのですね。で、○○市には英語の先生を何人、といったん割り当てられたら、その範囲で○○市はやりくりしなくてはなりません(さらにいえば、その先生がアレだったとしても取り換えは利きません・・・)。人口縮減社会では、限られたリソースをどう最適化するのかというのが大事な考え方になるので、たとえばこんなのどうです、という趣旨(考える材料)で提案しています。
■学院のすぐそばにある本庄特別支援学校の文化祭に行ったことがあります。作業学習でつくった木工のベンチや陶芸のお皿などの販売がおこなわれていました。とくに木工が人気のようで、積み木や木製ラックがよく売れているようでした。来校者がサインしている名簿を見ると、生徒の家族以外の方も多く見られました。特別支援学校の文化祭は地域交流の場になっており、障がいへの理解を深める機会なのだと感じました。このような地域のつながりがあるゆえに、小・中学校よりは閉校しにくいと思うのですが、どう思われますか。
・・・> 特別支援学校に関しては、もともと児童・生徒数が少なくてよい(むしろ教員一人あたりの生徒数を抑えたい)というのがありますので、閉校の危機ということはないと思います。むしろ県内に1校種1校というところが多くて、足りないのではないかな。もっとも2007年以降の特別支援教育は、通常の学校・学級で障がいのない生徒とともに学ぶというのが基本で、必要やニーズに応じて特別支援学校・学級などを活用するという考え方ですので、特別支援「学校」ばかりを増やすのはよくないのかもしれない。おっしゃるように、各地の特別支援学校は、学校開放や地域への広報活動にとても熱心です。地域社会と信頼関係を築いておかないと、学校の運営がうまくいかないですし、身近に障がいのある方がない場合にはそれだけで身構えてしまうという人が結構いますからね。
■現代は「本当の学び」を提供する場が限られてきていると思う。幼保の先生の背景を踏まえても、将来を担う子どもの教育が低賃金で支えられていると考えると、「Fラン大学をなくす」と国が言い出したことに反発を覚える。子どもが社会を俯瞰してコペル君のように物事を考えられるようになるには、そのプロセスを育むことのできる場を広い地域に設けるべきであると思う。しかしながら地方の大学は定員割れの影響で閉鎖がつづいている。人口減少の中で複雑化していく社会であるにもかかわらず、社会性を磨く場が失われている。この現状に対し、これからは最新技術やAIなどを活用することで子どもに必要な知と社会性を適切に提供していくべきだと思った。
■社会が複雑化・高度化して大学進学率が高くなっている現在、定員割れの地方大学をなくすと、学びたいことがあったとしても、学ぶことのできる大学が県庁所在地や大都市にしかなかったら、進学をあきらめてその人の夢がつぶれる、あるいは一人暮らしをはじめてそのまま地方から若者が離れてしまうといったことが起きると思う。とくに後者は人口の一極集中になり、負の連鎖になるので、大学数の減少はよくないと感じた。
コロナ禍であらためてエッセンシャル・ワーカーとしての認識が強まった保育士には、たくさんの問題があります。地方に免許を取れる大学や短大が少なく、進学のために地元を離れ、そのまま都市部で就職してしまうケースが多く、結果として地方の人材不足につながっています。少子化が進んでも共働き家庭の増加により子育て支援の需要は決して少なくないため、就職支援の強化の必要があるといえます。
■人口縮減の影響は最初に地方に表れるというので、地方は大学や就業機会の少なさや所得水準などから人口が都市部に流出し、さらに過疎化が進む。それぞれの県で地方に人材をとどめるのは厳しいので、たとえば秋田から東京ではなく、秋田から仙台のように、近い都会で人材をとどめておく必要があると、地理で学んだ。今回の授業を通して、さらにそういった取り組みが必要だと思った。
・・・> これは実際にはちょっと複雑な話です。東京一極集中と並行して、仙台のようなブロック中核都市への一極集中が、まるで相似形のように進んでいます。俗に札仙広福(さっせんこうふく)と称される札幌・仙台・広島・福岡が、都市の規模や機能をかなり充実させていて、それ以外の地域の衰弱が余計に目立つようになりました。札幌以外の北海道、仙台以外の宮城県・・・
といったところを見ても、かなり危ういコントラストに見えます。ご指摘のようにブロック中核都市に人口を回収できれば、「東北」「中国」といったブロック全体の人口は減らない計算ですし、かつて支店都市と呼ばれたように東京や大阪から札仙広福への流れもあるので、東京一極よりはマシなのかもしれません。ただ、「それ以外」の衰弱をより加速させるのはブロック内での一極集中のほうかもしれません。
■私の住んでいる埼玉の鴻巣市でも過疎化が進んでおり、町のコンビニはどんどんつぶれて介護施設やデイサービスに変化し、小学校は廃校が増えている。日本における少子高齢化はとても深刻で、地方にもっとお金を分配していくべきだ。ただ、国が財政難になり地方に分配できないとなると、この国はどうなってしまうのだろうか。
■地理の授業で平成の大合併について学びましたが、合併による国民の負担やサービスの低下という弊害は、地方の発展を逆に阻害していると思ったので、これが都市への集権につながったのかなと考えました。合併の際、人口増加を予想してハコモノを建設した結果、失敗したという自治体の例を思い出しました。これは、小・中学校の社会性形成の問題や部活の不自由さの問題にもつながっているのかなと思いました。地理の授業で学んだことをもとに、今回の授業では合併のその先に発生した問題を想像することができ、学問がつながった感じがして、おもしろかったです。
・・・> つながったときのうれしさって格別ですよね。私は「知のスパーク」と呼んでいます(ネタではなく本気でいっていて、本にも書いています)。まあ自治体の合併はやむをえない面がかなりあります。1つの役所がカバーする範囲や対象人口を大きくすれば、それだけ効率的になりますし、限られた予算で対応しようとすればそうするしかありません。ハコモノの話も、大目に見てあげたい部分があります。合併特例債という臨時収入があるうちに、地域のストック(資産)を少しでも増やしておきたいという考えは、まあ普通でしょう。ただハコモノ建設が、その地域の建設業者や関連会社の収入につながり、雇用につながればいいのだけれど、おいしいところは東京や大阪のゼネコンがもっていくというケースが多く、お金の流れが想定の逆になってしまうことには注意が必要ですね。
■市町村が合併することによって行政のサービスが統合されるので、財政負担を減らせるのかなと思った。また、ふるさと納税は、本来の役割は地域の活性化であるが、豪華な返礼品を求めて納税する人が多いように感じ、寄附意識が薄れてきているのではないか。返礼品ではなく事業的なものに回せば寄附意識が高まるか?などと考えたが、事業などより具体的なモノでなければ、満足感というか「お礼」感がないと思うので、納税する人が減ってしまうのではないかと考えた。
・・・> まあそうなんですけど、ふるさと納税なる制度自体がちょっと変化球というか、小細工のたぐいなので、そこを当てにしすぎてもいけないように思います。地方交付税の分配とは別ルートで、国の手を介さずに、本来は大都市部に入るべき地方税の一部を他地域の自治体に回すということですし、真に税収を欲しがっている自治体ほど体力がなさすぎて返礼どころではないですね。

鳥取市内
■かつては仕事や社会のしくみが身近で見えやすかったのに対し、現代では多くの産業が高度化し、大学レベルの知識や技能が求められる分野が増えているということが印象に残りました。大学は専門知識を学ぶだけでなく、自分の考えを深めたり、社会とのかかわりを考えたりする場でもあることがわかりました。さらに、現代の社会課題を解決するには、文系と理系のどちらか一方ではなく両方の視点を生かして協力することが重要だと感じました。
■地方の二番手大学は「地域の産業を担う人材の育成」ができるから大切であるということだったが、どうして二番手大学は地域の産業を担う人が多いのか?
・・・> トップ大学(たいてい国立大学)は県庁や金融機関、メディアなどの地方エリート部門に多くの人材を送り出しますので(また、そういう人たちが集まる)、中堅大学はリアルな産業部門を担うことになります。
■私は、何も目的もないまま行く高校や大学より、工業高校や大学で専門的なものを学び、将来に役立てるほうがよいと考えている。普通科の高校のよい点は、全体的にまんべんなく学べるところにあると思う。幅広い分野を学べるので、なにかしら一つ興味が湧くものがあってほしいが、それがないという人もたまにいると思う。そんな人が大学に行き、収入のよい、あまりおもしろくない仕事に就職するより、一つのことをたくさんの時間をかけて学び、おもしろさを見つけ、そのおもしろさを糧に仕事をし、お金を得たほうが、人生という長い目で見たときに楽しくなると考えた。
・・・> ぜひ、そのようになるよう願っています。普通科でまんべんなく学んでも、試験で点数を取って終わり、という人が結構多くて、だとするとそこで興味が湧くものがあってもセンサーに引っかかりにくいですよね。で、大学に行ったら、おもしろいかどうかは別にして「収入のよい」仕事にありつけるというのは、もう過去の発想。そんなことはないよ(怖)。高卒求人より悪条件なんていくらでもあります。
■学びたいという意思は立派だし尊重されるべきだと思うが、家庭・地域の環境による限界はどうしてもあり、そこを国の助成金で支援してあげられればと思うが、そもそも教養もなければ人の熱意は数値的に測ってくべつできるものでなく、そういって支援をしないなら人材は育たないし、地方も国も成長できないのでは?
■私は、大学数を減らすことには賛成です。少子化の中で、これまでと同じような数の大学があるのはおかしいのではないかと思うからで、統合を進める必要はあると思います。しかし同時に、機会はすべての人に開かれているべきだと思うので、大学への支援ではなく、学生への支援に力を入れるべきなのかと思いました。
■先生は工業大学の先生をやっていると思いますが、工業科は理系と文系のどちらに入るのでしょうか。
・・・> 工業大学と工業高校がごっちゃになっていませんか。あまりなじみがなくて、よく知らないということかもしれません。「工業科」という学科や教科があるのは工業高校のほうです。工業大学も、機械・電気・土木・建設といった工業高校と同じような分野を教育する部門が当然ありますが、理学系とか情報系、システム系もあるということが多く、「工業大学」といいつつ「理系いろいろ大学」というところが多いのではないかな。いま東京科学大学になっている国立のトップ校は、少し前まで東京工業大学といっていました。工業高校の工業とはずいぶん意味合いや範囲が違います。高校の工業科はばりばり理系です。
■正直なところ、教育(私たち目線でいえば、学ぶこと)における学校の役割は形骸化している部分がかなりあります。型にはまった勉強の仕方が肌に合わない子というのはたくさんいて、必ずしも学校という檻のない牢獄に閉じ込める必要はありません。いまこの時代こそ、N高の成功をきっかけに、学ぶ「機関」と「社会性をはぐくむ場」とを分けるべきであると考えました。
・・・> それはそのとおりで、次回また考えてください。ただ、今回のどこの文脈に差し込んで考えればいいのかがいまいちわかりません。学校数の維持が困難というあたりですかね。そこでいわれている「学ぶ場がほしい」というのは、レビュー主の指摘しているようなことではなく、従来型の学校なのだと思うけど、どうでしょうか。
■子どもの数が減っているなら、保育園や幼稚園、大学なども、増やす必要はないのではないか。むしろどんどんなくなっていくのではないか。工業高校なども、東京はほとんど定員割れしているし、子どももどんどん減ってきているから、どんどんなくなっていくのではないか。
・・・> 他動詞と自動詞が混線しています。「増やす必要」の話と、「どんどんなくなっていく」というのでは、いっていることがかなり異なります。また、「どんどんなくなっている」前提を共有したうえで、それが何を意味するのかというのが今回の議論だったはずで、地域の底が抜けるとか雇用が厳しくなるといった肝心の話が抜けてしまっています。このテーマ、ピンとこなかったですかね。

工業高校の課題研究(卒論に相当する活動)の発表会
■授業の冒頭付近で、もともとキリスト教の考えでは儲けることは善くないとされており、第三次産業が否定的な捉え方をされていたことを学んだが、このことが現在の社会的な構造に影響しているのではないかと考えさせられた。金融業などの商業で多くのユダヤ人が活躍しており、ユダヤ人は商売上手といったイメージがもたれている現状は、過去にキリスト教徒らが自身の信条にもとづいて第三次産業を敬遠し、ユダヤ人の多くがその担い手となったことによって築かれたのだと思った。キリスト教徒が多数を占めるアメリカでも、現在は商業において影響力をもつユダヤ人が政治的発言力を高めているということを聞くが、これも歴史にもとづいての流れなのだと考えさせられ、興味深かった。
・・・> ちょっと、ではなくかなり危なっかしい議論になってしまっています。歴史と現在、事実と虚構、学問的な話とアンダーグラウンドなうわさ話が混線しています。欧州の中世(だいたい15世紀くらいまで)において、キリスト教徒から差別・迫害を受けたユダヤ人たちが金融業などに追いやられ、結果的に蓄財していっそう嫌われるという事態が起こっていたことは本当です。私が授業で指摘したように、16世紀のカルヴァンが予定説を唱えてからは、キリスト教徒も普通にコマースに従事するようになりましたので、ユダヤ人の特殊性というのはかなり薄まりました。レビュー主自身が「イメージがもたれている」といっているように、ユダヤ人うんぬんと現在いわれる場合の多くは、欧米社会に染みついた偏見や差別を土台にした(悪しき)イメージです。欧米の悪性の陰謀論は、なにかとユダヤ人やフリーメイソンのせいにするという傾向があります。下手をすると、そのつもりがなくてもそれに荷担することになりかねません。現在、イスラエルの問題もあって、このテーマにはさらに慎重さが必要です。もしかすると欧米のどこかに住んでおられて、その種のことを見聞きしたのかもしれませんが、そもそも○○人といった属性がまるごと商売上手とか悪辣とかいった属人的な性質をもつはずはないので、絶対に引っかからないように注意してください。
■私は文系を選んだおかげで社会をより深く学ぶことができていると思いますが、数学が週2、地学も週2というのは少なすぎると思いました。もう少し、社会の技術的な知識もつけたいです・・・。
・・・> えらいな〜。茶化しているのではなく本当に感心です。高校時代の私は数学と理科がだめすぎて、これ以上やったら健康を害すると医者に止められ(これはネタ)、3年次に英社国体のみの私立文系クラスに行ったくらいでしたからね。もう金輪際、数学なんかとかかわらなくて済む!と叫びたくなったのを思い出しますが、めぐりめぐって理系大学の教員になって、「数学や理科の先生の先生」になるなんて、なんということ(笑)。文系でも科学・技術の深めの理解が必要になるというのは本当のことなので、高校でも大学でも授業を当てにするのではなく、自身で学ぶ方法を考えてください。他律的にやっているあいだは、ものにはなりにくいのですね。
■誰かのために、社会のためにと高尚な理想を掲げて仕事をし、結果として稼ぐという人たちで世の中があふれれば、このうえなく理想的だと思うし、部分的にはそういう人もいてすばらしいと思う。ただ、娯楽が仕事の外にあったり、とくに何かのためと思わずに生きているという人にとっては、儲けることが目的でありおそらく多くの人はそうやって生きている。ただ自分自身は利他と利益の双方の追求はめざしたいと思う。たぶんそうでないとモチベーションがつづかない気がする。
■今回の授業は、生活基盤となるものを再考するものでした。これまでの授業のとおり、生活に本当に必要となるものは儲からないというのが基本でしたが、「ヘルプパッド」やホンダの車いすの例を聞いて、必ず一定数の需要があるという点で、そういったものにも価値があることに気づかされました。また、新しいものをつくろうと考えるだけでなく、現状を見つめなおしてその中から需要を見つけ出す力の大切さに気づきました。
■エッセンシャル・ワーカーについて、人々の生活に欠かせない仕事であるにもかかわらず付加価値が低いのは、社会的価値の高い介護や保育、農業などは一人が一度におこなえる仕事に限度があって利益を出しにくいからだと考えられる。この社会を生きる多くの人は「儲かる」付加価値の高い仕事に就きたいと考えることが多いため、このままだと本当に必要な部分を支える担い手がさらに減少してしまう。これは、これからの社会を考えるうえで非常に重要な課題だと感じた。「儲かる」ことは善いことか?という問いがあった。儲かることは自分のプラスになるため、よい、といえるが、仕事を選ぶうえでの条件にするのは適切ではないと考える。儲かるかどうかにこだわらず、社会的価値のあることをしていきたいと感じた。
■今回の、地域・生活を支える基盤を見つめるというテーマを通して、授業冒頭の「社会・人生を見る眼」を養った先を体験させていただいたような感覚を得た。商店街の例で、産業構造の不可視化を知り、その裏で身近なものだった産業がいまどう衰退、変化しているかを知る。そしてその変化がなぜ起こっているのかを、人材育成の観点から、大学にも目をつけて考え、そして変化がより顕著に表れる地方を検討する。このまま大学に進学しても、このプロセスの半分も踏めるようになる自信はない。不可視化された部分が見えるところに立たなければ、まず進歩がないと思い、「現場を見る」ことを心がけたいと思った。
■デジタル化が進んで、知ることのできる情報は増えているはずなのに視野は狭まっているのかなと思いました。スマホやパソコンを使ってその場で得られる情報は膨大だけど、何を検索するかはその人が見たいと思ったものに限定されるし、アルゴリズムが個人の好みに合わせた情報を集中して提示するので、なんでも知れるはずなのに知りたいことだけに限られてしまい、わかっている気になる、という現象が起きやすいと思います。自分で現場に出向いて情報を得ようとする過程で見えてくることもあると思うのに、最初から端的な結果にたどり着けてしまうインターネットでは柔軟性が培われないのだと感じました。AIに取られて雇用が減るとか自分の就ける仕事があるのかという不安は間違いではないと思うけど、スライドにもあったように、自分の知っている職業は全体の何パーセントなのかと思うと、社会全体を捉える、自分の見えていないところに目を向けるということを大切にしたいと思いました。この授業を受けるにしても、今後の社会で大切になるのも、思考力や柔軟性だと思うけど、それはどうやったら育つのかなと、ずっと疑問です。
・・・> こうやったら育つかもよ、という一つのサンプルとして、毎度ストーリーがあるようなないような探究プロセスを演示しています。変数(テーマ)の部分をどうするかは、お考えくださいな。
開講にあたって
現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。
当科目は毎年、内容・構成と細部タイトルを変えています。2026年度は社会のダイナミズムと深化・統合・探究の学びとしました。ダイナミズムは動態のこと。社会というカタマリが、まるごと動いていて、その動き方も均質ではないので全体を捉えるのは大変です。当科目ではいくつかの切り口を用意して、ためしに私(教員である古賀)が「現代社会の像」を掘り下げてみますので、受講するみなさんもそのうちに自分なりの掘り下げをできるようにしましょう。分野や方法の得意・不得意はもちろんありますが、それを自覚することも大事です。この段階での学びは、もはや知識を量的に入れるということよりも、そうした「学び方の学び」に向けるほうがよいと考えています。なぜなら、社会はますます変化していき、みなさんはいずれ学校を卒業して社会人になり、もう「先生に教わる」ということもできなくなりますから、長い社会生活は自身の学びによって見通していかなくてはならなくなるからです。試験で正解を出したり、よい点数を取ったりすることに終始する学習は、もう終わりにしましょう。そんな束の間の正解や点数よりも、自分の人生やキャリアを豊かにするほうがはるかに大切です。深化とは掘り下げて深めること、統合とは複数の分野や方法にまたがって学ぶこと、探究(re-search)とは自身の問題意識をもって学びに突っ込んでいく姿勢を指します。
2026年は、この現代社会論という選択科目が設定されてから満20年にあたります。みなさんが生まれる前から、私は3年生にこの科目を指導しているのですね。本年度の、とくに1学期はそうした蓄積を少し意識して、当科目がはじまったころ(みなさんが生まれたころ)、つまり2000(ゼロ)年代以降の社会動態をさまざまな角度から考察する、ということをしてみます。20年ちょっとのあいだに、私自身の学びや社会観察もかなり深まりましたが、その時々の学院3年生の反応や成果そのものが、現代社会を考察するうえで得がたい材料になっています。さてみなさんには、2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。
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