古賀毅の講義サポート 2026-2027

Études sur la société contemporaine I:
le dynamisme de la Société / les études pour l’approfondissement, l’intégration et le recherches

現代社会論I
社会のダイナミズムと深化・統合・探究の学び


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S203教室

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現代社会論II:変動する世界/グローバルな視座と思考のために

 

202645月の授業予定
<第1部 OVERVIEW 2001-2026
4
24日 小選挙区制×デジタル時代の到来
5
1日 メディアの変遷、メディアとのかかわり方の変化  *当初予定と順序を入れ替えました
5
8日 保守政治の変容:農村型政党の消滅? 
5
15日 なりたい自分になる! 雇用流動化のはじまり

 


次回は・・・
4- メディアの変遷、メディアとのかかわり方の変化

前回少しだけ予告したように、1990年代(平成初期)が、インターネットや携帯電話が急速に普及した時期にあたります。ITinformation technology 情報技術)という言葉は、そのあとから追いかけてきて、1990年代後半に広まりました。某首相が「イット」と読んだというネタが示すように、その時期にはITに実際に触れる人とそうでない人とが、まだ分離していました。また携帯電話などのモバイル端末と、PCとは、まるで別の系といえるものでした。PCはテレビに似て、家の中のPCの置いてある席でしか使えず、しかもインターネット回線は脆弱で、たいていは通常の電話回線を利用していましたから、ちょっとでも複雑な画面になると送受信に数分を要するような感じでした。大容量化、常時接続化という、ある意味で革命的な変化は、ゼロ年代に起こります。携帯電話が単なる通話機ではなく複合機へと飛躍するのもそのころです。いつしか電話という語が外され、「携帯」「ケータイ」と呼ばれるのが一般的になっていきます。いまでは娯楽というかヒマつぶしの王道となっているYouTubeも、そのころに日常の風景になりました。大容量化と常時接続化の産物です。まだYouTuberなる属性の人たちはおらず、テレビなどの海賊版動画がかなり目立っていました。私の主観にはなりますが、ストリーミングの技術もかなり進んで、動画を自然な感じで観ることができたのは、かなり画期的に思えました。そうなってこそ、ネットがテレビを凌駕する可能性が生まれるわけですね。そういえばアイドル番組の配信を観たくて、動画プラットフォームに月額いくらで課金したのは2007年ころだったように思います。当時スマートフォンは登場前なので、動画を観るとなると設置型のPCとほぼ決まっていました。

いまの高校3年生が生きてきた時代というのは、人々が四六時中、インターネット漬けになってしまった時期にまるまる相当します。スマートフォンの普及が2011年以降ですので、ガラケー(フィーチャーホン)は使ったことがないという人が大半ではないでしょうか。2010年代以降は、ハードやシステムの面で画期的な技術や新たなものが登場したというインパクトはあまりなくて、どちらかというとネットやスマホを介してできること(ソフト面)が多かったように思います。みなさんは、ネットやスマホは空気とか水のたぐいだと思っているかもしれませんけれど、あれはひとつの産業分野であり、ビジネスです。惰性的に画面をさわる人が増えるほど、誰かが儲けているということですね。2020年から約3年間つづいたパンデミック下の自粛期間も、この分野には強く作用しました。

さて今回のタイトルにあるメディアmedia 媒体)は、ある時期まではマス・メディアを指す用語として用いられてきました。情報の送り手と受け手とのあいだにあるもの、情報のやり取りを仲立ちするものがメディアで、受け手が大衆(mass)であり単方向的に大量の情報を流していくのがマス・メディアです。テレビを中心にその弊害が問題になったのが1980-90年代ですが、いつしかメディアの問題点といえばインターネットのそれに置き換わりました。さらにこのごろの特徴としては、ネット漬けになっている人たちのあいだに、マス・メディアへの不信感がかなり生まれているということが挙げられます。中には、テレビなどのマス・メディアを実際にはほとんど見ないのに、ネットの情報だけをもとに「マス・メディアはこれだからだめだ」などと煽る人たちも出てきました。2020年代に入ると、それが現実の政治・経済にも大きな影響を及ぼすようになります。私の中身は完全に文系なので、インターネットやICTinformation and communication technology 情報通信技術)の技術的な面よりも、それが人間や社会の側にもたらした影響や変化のほうに関心があります。現在進行形の話ではあるので、切り口が難しいのですが、いくつかの視点を設定して、考察してみることにしましょう。

 

REVIEW 4/24

正解主義に意味はない。時代によって解釈は変わるから、というのがすごく納得できた。産業立地の例がわかりやすかった。

穴埋め式のテストばかりを受けてきたが、そのような01かのデジタルなプロセスを求める「正解主義」のような考え方は、決して普遍的ではない「正解」を、絶対的に正しいものだと思い込んでしまうことにつながるのだなとわかり、教育現場の変革が必要なのかもしれないと思った。留学先のアメリカの高校でも、すべての教科のテストで持ち込みありである代わりに、論述問題が多かったが、考えるプロセスというのを養うことが目的だったからだと考えさせられた。

2年生のときはとくに暗記科目が多く、正解主義を実感していたので、教育の考え方を、授業を通して知るよい機会になったと思います。暗記自体ではなく、そこからもう一歩踏み込むことが大切で、意義があるというのは、今後の学校生活でも生かせると思いました。

探求型の学校は進学実績もよいとおっしゃっていましたが、探求型の授業とはなんですか? すべて大久保山学みたいなことですか? まったく想像もつかないし、本当に探求型の学校があるのかと疑っています。
・・・> 学校教育関係では、すべて探求ではなく探。探して、究めるのです。私はむしろ大久保山学がわかっていないので、自分なりの説明。知識を得て、試験のときにそのまま再現するのがダメなタイプの学習。知を得て、それが既得の知や経験と反応して、手ごたえとなり、なにより自身の次サイクルの学びへのモチベーションになるということ。高等学校の教科の大半は、1階に基礎、2階に探究という建てつけになっています。実際にそのような運用がおこなわれている学校は、残念ながら多くはありませんが、私が知るだけでも、結構あります。で、進学実績もそれによって向上しました。学力的に最上位の層は、知識を投げっぱなしでも、それらを自分の血肉にするワザをもっているため問題ないのだけれど、中位層やその上の層では、探究による動機づけが大きな効果を発揮します。レビュー主さまが何層なのかは存じません(笑)。

正解主義という考え方を初めて聞いたので、それが間違っているという意見が正しいとは思えなかった。学習の到達度を測るにはどうしても正解のあるテストが必要だし、考え方を重視してしまうと、努力が結果に結びつきづらい環境になってしまうのではないか。また、選挙制度は選挙に当選した人が決めるから、自分たちが落ちないような制度にするというのがすごくおもしろかった。私は、誰かしらが選挙制度を決めないといけないのだから、民意で選ばれた人が決めるのは正しいと思った。
・・・> レビュー主のこれまでの努力を粉砕しかねない強烈なことをいいましょうか。無用な努力をすることや、誤った学習成果(到達度)を測るなんて誰の得にもなりません。そうやって身につけられたものが何かを考えたらわかる。短期的な記憶力のある者が選抜されるしくみが、いまの時代にふさわしいと思います? (ご自身のコメントで「正しい」という表現2度使っておられますが、その「正しさ」は何をもって判断しましたか? で、いまこのカッコ内の問いをなぜいわれているか、わかるでしょうか?)

正解を求める教育がよくないという話は、すごくいいなと思いました。単語を暗記するだけのいまの教育より、思考力を鍛える教育のほうが、やっていて楽しいと思うし、「黒部市」「秩父市」などの単語も覚えやすくなる気がします。野党と与党の違いがよくわからないので授業してほしいです。
・・・> さすがに野党と与党の違いを授業することはないと思うので、それこそAIに聞いてください。それは思考力以前の知識。2010年ころ、ある女子高で政経を教えていたときに、与党と野党の違いを説明してもわかってもらえない生徒たちに、つい「与党というのはね、民主党のことだよ。そう覚えておいて」といってしまったことがあります(笑)。←この(笑)の意味わかるかな。(苦笑)のほうがいいのかな。

いつだって、どんな教科だってなるべく腑に落ちるように勉強したい。学校で教わることも、たった数年でゆらゆらと変わってしまう。どんなことを目の当たりにしても、どっしり構えて考えられるように日々精進したい。小学生のころは生徒みんなで畑に行ってとうもろこしを植えたりチューリップを育てたり、農業らしいことと少しでもつながっていた気がする。学年が上がるごとに農業が遠くなっていき、生活との結びつきを意識しにくくなる。食(=生きること)と切り離すことができない第一次産業を遠く感じるというのは、何か生物として大切なことを見失ってしまわないか心配になる。

教育のプログラムは常に新しくなりつづけている印象があり、これは時代によるものなのか、またそれ以外の理由があるのか気になった。自分の言葉で再確認するときの「合ってますか」と、単純に答えを聞くときの「合ってますか」では、いまの教育では全然違く、前者のほうが意味があるものだと思った。教育の話がとてもおもしろく、もう少し話を聞きたかった。
・・・> 時代によるものです。社会が変化するのだから教育課題も変化するのです。学習指導要領はだいたい10年ごとに改訂されます。「全然違く」という表現が、全然違くて、合ってません(涙)。ネタでなくマジでそう思って書いているのであれば、日常の話しことばから見直していくことを勧めます。英語differentは形容詞だけれど日本語の「違う」はワ行五段活用の動詞。かろ(未然)・かっ(連用)・(連用)・い(終止)・い(連体)・けれ(仮定)・○(命令)と活用するのは形容詞です。「違う」が、雰囲気的に形容詞だと思ったら、それは違う。

自分もよく、この単語の意味これで合ってる?というふうに友達と会話していて、周りと合わせる同調圧力とも関係していると、たしかにと思う一方、まずいなとも思った。またデジタル化や受験などの○か×かの二択にも同じことがいえるのも、あーと納得した。自分はあまり選挙に興味がなかったが、自分の一票が大事だったり、何があってもあの人に投票するというような人がいたりするんだなと思った。全体を通して選挙の話は結構難しかった。
・・・> そうねえ。少しずつ自分の言動や行動や情報収集の精度を上げて、社会的なスキルを身につけていくようにしたいですね。レビュー主にかぎらず一人称を「自分」といったり書いたりする人がいます。これは社会的な作法としては「合ってない」ので、少なくとも書きことばではやめましょう。話しことばであっても、面接などでいうと「あー」と思われます。「あー」でわかりました? この人はわかっていない、アレなんだ、ということです。「たしかに」とか「あー」というのも、会話ではよく出てきますが、書きことばにすると相手に伝わらないよ(笑)。(自分のことを自分というのは戦前の陸軍式で、戦後は大学の体育会系→高校の運動部系男子が用い、2000年前後から一般の若者男子、ときどき女子も使用するようになりました。海軍式は「おれ」ですが、いずれにしてもやめておくほうが先々のためです)

デジタル化は、操作の簡便化やプロセスの軽減につながったが、それによって考える力や、それをおこなう能力が低くなったと考える。いまでは、長く生きている人がスマホを操作できないなどの理由で、老害などと呼ばれてしまっていて、経験を生かして生きていくという世界ではないんだなと思った。

その場の正解に囚われて思い込むのはとても危険で、自分自身の成長の妨げになってしまう。時代によって変容していく物事を俯瞰していく思考力を身につけようと思う。今回の授業で取り扱われた政治の話、とくに自民党の野党時代の話は、時代ごとに正解が変化することを表していると思う。


なつかしのガラケー
(ミュンヘン ドイツ博物館蔵)

 

ことしから選挙権を有するが、選挙の制度、歴史を詳しく理解していない自分が恥ずかしくなった。私も正解を求めたり大勢に合わせたりする癖があるが、どの政党にどの政策があるのか、歴史があるのかを自分で判断しなければと思った。小選挙区制は死票が生まれやすく、少数意見を反映しにくい。まさに白と黒がはっきり出やすい選挙制度なのではと思ったが、小選挙区制は少数意見にとってはまったくよくない制度なので、いま一度それぞれの選挙制度の特色を見なおしたいと思った。

選挙制度は当選した国会議員が決めているという事実をまったく意識していなかったので、ハッとさせられた。現政権に都合のよい制度になるのも当選だし、日本維新の会が比例定数を減らそうとしているのも納得である。しかし死票が増えて民意の反映がいまよりできなくなるというのは、民主政治的にはよくないと思う。

自民党がなぜ人気なのか、歴史とともに制度を学んで、少し政治への解像度は上がりましたが、まだ全然わからない! とりあえず、いままで保守派は頭がおかしいと思っていたけれど、本当は私たちの中に保守派が内在していると気づいて、恐ろしくなりました。
昭和の自民党が強かった理由として「農村部を基盤とした日本らしさ」やその保守的なスタンスがあるが、戦争を経験した国民にとっては、自分たちのアイデンティティに相当するものであり、安心して支持していたのではないかと思いました。

自民党が、もともと全く別の自由党と民主党がくっついた党だったとは知らなかった。自民党のバスツアーのくだりは、いまでは絶対にできないだろうなと思った、平和でよかったとも思っている。

同じ政党内で争っているときにどちらの候補に入れるかと考えると、お金ではなく、歴とか経験値で選ぶのがよいのかなと思った(歴が長いと慣れているからよい?と思った)。
・・・> 歴が長いとダーティな部分も蓄積されるかもしれません。また「経験値」は外から見てわかるようなものでもなさそうです。経験値の高さでいうと、いろいろな職業を経て議員になるよりも、親子代々で地盤を受け継ぐ世襲政治家のほうが「政治的な文化」「政治的な技術」に長けていることが多く、議員の息子や娘は子どものころから親のふるまいを見て育ちますので経験値がついています。そのあたりをどう評価するのか。もちろんケースバイケースなので、それを見抜く力量、いうところの政治リテラシーが要る、という当たり前の結論になります。

現在の選挙制度がどのような経緯で成り立ったのか、ある程度理解できた。戦後増えた自作農を中心とする支持層をもっており、それにより大選挙区制で強かった自民党だが、冷戦終結後に大敗を喫した。その後の選挙制度改革で、もっと厳しくなると思われたが、国民全体が保守化していたため強さを維持した。これは、とてもおもしろい流れだと思った。国民の意識により、1位のみ当選する小選挙区制は大きな変化を遂げる。インターネットが発達した現在の社会では、国民の考え方や価値観が変化しやすく、結果がどうなるかも読みづらくなっている時代の変化とともに選挙のあり方も変化していくのだなと感じた。

それまで野党だった人たちが集まった非自民連立の細川政権の時期に小選挙区制が導入されたことがわかった。それまでの大選挙区制の当選者は各区に35名だったというのは初めて知った。それを1人に絞るということは、本当に優秀な人のみ当選するようにするということでありながら、一票の格差が広がることでもある。そして、1位をとれない自民党候補にとって票を集めることが難しいということで、非自民側に有利な選挙制度に変えたということがわかった。
・・・> 2つ、そうではないかもしれない、ということがあります。選挙制度の原理を考えるうえで大事な部分なので、時間をかけてじっくり考えてみてください。(1)1選挙区から35名を選出する大選挙区単記式を、1選挙区から1名のみ選出する小選挙区制に変更することで、一票の格差はむしろ縮まることが多いです。当選者(議員)1人あたりの人口がだいたい等しくなるように選挙区割りをつくるのは、さほど難しくないためです。原理はそうなのですが、実際には一票の格差はなかなか縮まりませんでした。これは特殊な事情のためで、そこはお調べください。(2)小選挙区制の導入に対して、それまで複数派閥の候補が争ってきた自民党側が抵抗したことは確かなのですが、さりとて非自民の側に有利になるかというとそうでもありません。細川連立政権の時期においても、国会で最も勢力をもっていたのは自民党でした。1位のみ当選の制度では、比較第一党が常に有利であることは間違いありません。ただし、何かやらかせば1位をとれずに負ける、ということです。また、細川政権は8党派の連立でしたが、そのままでは小選挙区制を戦うことができません。そのため小沢一郎さん(当時は「新生党」という党の幹事長だった)が中心となって細川政権の与党のいくつかを統合して1つの政党にし、二大政党制をめざす動きが起こりました。これはのちに新進党として実現しますがうまくいかずに解散、あらためて民主党がつくられて、2009年の政権奪取につながります。

 

私は改革派的な人間で、常に変わりつづけていく社会が好きなので、もともとの自民党が何十年も与党でありつづけたことから政権交代で選挙制度が変わり、政権交代が起こりやすくなったのはよいことだと思う。そして二大政党制であればさらに政権交代しやすいが多党制でなくなると少数派が排除されやすい社会になってしまう点が厳しいと思う。しかし政権交代が起きづらくなると余計に少数派の排除につながってしまうのではと思って、どうすればその両方を達成しやすくなるのだろうかと、政治については常にそのジレンマを考えている。
・・・> 小選挙区と比例代表を組み合わせる現在の制度は、両者の持ち味をそれぞれ生かして、そうしたジレンマを薄める役割が期待されたものです。しかし、大選挙区単記式の時期が長かったこともあり、「選挙は地盤に根ざすもの=選挙区制が王道、党にぶら下がる比例は邪道」というイメージをもつ人が多いのと、あまりに複雑でアホらしいので授業ではカットしましたが重複立候補なるしくみを組み込んだことで、比例区が二軍化したことも重大な問題でした。定数調整がおこなわれるたびに比例区が減らされるのも、少数意見の反映をなるべくしたくないのだろうなと思わされますね。

政治家が、自分が当選しやすい選挙制度にしているという話を聞いて、選挙制度に関して自分がいままでもっていた違和感に合点がいった。先生もいっていた、個人単位の意見を反映できるようになればいいと思う。自分も政治家だったら自分に都合がよいようにズルしたりお金を受け取ったりすると思うので、400人という少ない人数に任せるのは危険だと思う。
・・・> 一方で、政治の作法を心得ず、何を考えているかもわからず、増税と減税だったらいつだって無思慮に減税を支持するような一般国民に直接の決定権を与えてしまったら、政策は安易に流れ財政は破綻し、戦争が起こって社会が破綻するのではないか。というようなことを、紀元前のプラトンは考えました。直接民主主義のアテネで、大事な師匠ソクラテスは民意の暴走(あいつムカつくから死刑にしようぜ)によって殺されてしまったプラトンは、教養のある一部の人たちに政治をゆだねる賢人政治を指向しました。プラトンの弟子アリストテレスは、それでも民主主義のほうが優れていると考えました。実際には、アテネの民主主義はプラトンが予想したように悪い方向に作用してしまい、国家の自滅を招きます。英国を皮切りに議会制が採用された近代の西欧諸国は、アテネの民主主義を参考にしつつも、間接民主主義(代議制)を採用しました。都市国家アテネとは国家のサイズが違いすぎて、代表者を選んで首都に送り、そこで議論してもらう制度以外には考えられなかったのです。同時にそれは、選挙を通じて「アホではない、よりよい(よりマトモな)人」をフィルタリングするという効果をもたらしました。昨今のポピュリズム(意味と状況は調べてください)の様子を見るに、インターネットを介した直接民主主義はかなり危険のように私は思います(プラトン先生ほどの確証はないが)。

55年体制とか選挙区といったワードはいままで何度も聞いてきましたが、今回のように流れやその背景について学んだことはなかったので、おもしろかったです。私もほぼ成人で、もうすぐ選挙権を得られるので、少しずつ政治や政党について勉強しようと思っていますが、そこにおける考え方がいまのままでよいのか、考えなおそうと思いました。SNSが普及してマジョリティとマイノリティがわかりやすくなりましたが、それに流されたり投票しなかったりなど、自分の意見を全く反映させられないことがないように、しっかり自分なりに考えて選挙に行きたいと思います。
・・・> SNSが普及してマジョリティとマイノリティがわかりやすくなったと信じているのは、SNSでしか情報を得られない○弱の人、ということになってしまいますので、そこは修正しよう。自分の画面で見ているSNSはエコー・チェンバー(同じような意見の人たちが共鳴し合っている小部屋)ですので、「みんなそういっているよ、これがマジョリティだ!」と思ったものが全然そうではない、ということが普通です。しかも、そのように信じ込んでしまう人たちというのは、政治家や扇動者にとって都合のいいことこのうえない存在。この複雑化した社会で「みんなそういっている」ことなんて、ないと考えるほうが適切です。

2年の政経では、中選挙区制は存在するものとして扱われていた覚えがあるので、実際はないと知って驚きでした。また自民党の強さの原因を考えたことがなかったので、東西冷戦などの時代背景とのつながりに興味をもちました。

大選挙区制で単記式ではなく連記式だったら、同じ人に複数回投票することは可能なんですか? また1票は投票し、残りの1票は棄権することはできますか? たらればの話になってしまいますが、1人しか推したくない!という人がいたとして、それらが不可能だったら意思を反映しにくい選挙制になってしまうと思います。
・・・> 大選挙区連記式の通常の考え方は、(1)同じ人に複数回投票することは不可能で、2つ目以降が無効になるか、またはすべて無効票となる場合も想定されます。(2)与えられた回数の内側であれば投票数は任意となります。また定数5名として、連記できる人数を5とすると非制限連記式、24とすると制限連記式といわれる制度になります。1946年の総選挙で採用されたのは、大選挙区制限連記式でした。旧社会主義国の選挙などでは、3票与えられたときに必ず3票行使しなくてはならないというところもあったようです。それによって当局(共産党など)が意図する議員を確実に送り込み、支配層を固定することにつながりました。

授業内容は正直難しい。大選挙区制では同じ党から複数の候補者が出るため、それぞれが自分の支持者をもつようになり、派閥につながるというしくみを、少しばかり理解できた。いまの選挙はSNSの影響もあり、有権者の考えが変わりやすいと思う。政治や何においても「正解」があるわけではなく、さまざまな考え方、やり方を見出すことに意味があると思った。これからの授業をもっと理解できるように、新聞(過去の)を読んでいきたい。

一票の格差で、田舎のほうがかなり強くなってしまうのを政府がどうにかできないものかと思ってしまう。
・・・> それはそうなのですが(実態としても)、一票の格差を含む選挙制度を検討して、ときに改正するのは政府(内閣)ではなく国会の仕事。三権分立を思い出してください。


板垣退助像(岐阜市)
この付近の演説会場で暴漢に襲われ「自由は死せず」と叫んだことで知られる

 

小選挙区制は世の中の流れでかなり結果が変わってしまうことが、おもしろいと感じました。自分が選挙権をもったときには、投票しないことも大きな影響をもつということをしっかり覚えておきたいです。

ことしの総選挙のときテレビの開票番組で小選挙区の結果を見て、自民党が支持されていることをすごく感じたけれど、票差が僅差かどうかまでは見ていなかったことに気づいた。SNSでの活動は主に若者の投票に大きな影響を与えるが、興味を与えて調べさせるような影響ではなく、単にブームやノリを見ているだけなのかもしれないと思った。また投票率の低下が問題になっているが、どこにも入れないという行為自体が意味をもつことになり、ただ投票を呼びかけるだけでなく、そのことも同時に伝えていくべきだと思った。

社会の情勢や構造の変化がここまでわかりやすく選挙結果に表れることに驚きました。選挙でえらばれる側の政党もえらぶ側の国民も、みんな自分が有利になるようにしたいから、ときにはリベラル、ときには保守になって、いま私がもっている価値観や「多数派」の概念も何十年か後には変わっているのだろうなと思いました。いまはいろいろな政党が出てきているので、1人だけをえらぶ小選挙区制では票が分散しやすい環境にあまり合っていないと思いました。また、投票しないことまでも意思表示になってしまうこの制度で、投票率が下がっている状況は、どんどん偏りを生んでしまうのではないかと思ったので、選挙に行くことや自分の考えをもつことを大切にしたいです。

デジタル化によって操作の簡便化やプロセスの軽減が進んでいることと、社会や制度のしくみが結果に影響する点で共通していると思った。たとえば日本の小選挙区制は、1人だけを当選させるしくみであるため、一つの政党が勝ちやすく、結果的に政権が安定しやすい。これはデジタル化の中で、「いいね」ボタンがあることで投稿する内容や行動が変わるように、しくみが人の行動や結果に影響するということだと思いました。

SNSで「いいね」が多いと、その考え方が正しく、少数派は過激派であるなどと一蹴されてしまう構図をよく見かける。そのような中で選挙に行こうという運動が強まると、ただパフォーマティヴな政党に票が集まることになり、自分たちの意見というのがあいまいなものになると感じさせられた。

近年の日本の選挙ではSNSを使った印象操作が多くおこなわれている。これは、小選挙区制においては大きな影響力をもっている。小選挙区制では最も得票数の多い1人のみが選ばれるため、一票一票がとても大きな役割をもち、そのような中でSNSで敵の悪口をつぶやき、それが広がると、相手に大ダメージを与えることができる。それも正しいといえば正しい使い方なのかもしれないが、個人的にはそういう人に、日本を回させるのは少し怖いので、投票できる年齢になったら公約をしっかり読んで決めたいと思いました。
・・・> SNSを介したネガティブ・キャンペーンでは、対立候補を貶めるために虚偽やデマを投げつけることがしばしば起こります(動機がそもそもやばいので)。候補者やその関係者がそれをすれば問題になるが、厄介なのはそうではない一般人(のふりをした人)が虚偽情報や誹謗中傷を拡散し、それがリポストされてたちまち広がるということが多いことです。この種の事案では、震源地は特定の数名というケースが多いことが判明しています。また、虚偽であれ人権侵害であれ、情報が拡散されると広告収入が入ってくる連中にとっては、民主主義とか社会正義は関係ありません。「正しい使い方」というのがあるのかは知りませんけれども、選挙での用いられ方はロクでもないというのが現在の状況。なお公約なるものを読んで本当にわかるのかどうかも、注意しておいてください。知事や市長などはともかく、国会や地方議会の議員を選ぶ際には、その議員の意思でできることに限りがありますし、所属政党による縛りもあります。場合によっては、嫌いな政党の好きな候補者よりも、好きな政党の嫌いな候補者を「よりまし」で選ぶということも考えたほうがよいかもしれません。

 

これからの社会は、何をするにおいても二択の問題と捉えてしまうようになる、という考えに驚いたが納得した。私も小・中学生のときから、決められた正解を探す勉強をしてきて、いまでもそれが癖になってしまっていると感じる。そのような二択式になっているとも考えられる小選挙区制は、政権交代しやすくなったが、最近では政党が増えたりほかの政党に投票する人が増えたりして、結果的に自民党が変わらず第一党だけど過去と比較すると相対的に率が下がっているのだとわかった。

現在の世界は、賛成・反対などのデジタル思考になっていると、私もよく感じる。SNSなど人々に身近なものから、政治など日本全体にかかわることまで、そのような考え方、選択の仕方になっているように思われる。今回の授業で、小選挙区制の問題点として、得票率と議席数のバランスが取れていないことや、死票が多いことが挙げられていた。現在は小選挙区制によって政治が比較的安定しているが、本当にそれで民意を反映できているのか、正しい決め方といえるのか、とても難しい問題だと思った。「投票しない」という行為も意思表示となってしまう、というのも考えさせられた。私ももう18歳になり選挙権のある年齢になったため、政治のことについて適切に考え、自分の意思表示をたしかにしていきたい。

自分は選挙についてわかっておらず、水を差したくないので投票しない。と意思表示する人をネットで見たことがある。私はそれは違うと思っていて、政治に詳しくない人が投票を避けると、知識のある人だけの意見に偏ってしまい、多様な意見を減らしてしまう。情報が不十分で不安なら政策の一つや、どのような社会をめざしているのかということだけでも調べれば、完全に無知なまま投票することはなくなる。完璧に理解していなくても、なんとなくこっちのほうがよい社会になりそう、という判断も、有効な意思表示になると思う。
・・・> それでよいと思うのですが、自分の投票と「よい社会」づくりのあいだに、どのような政治的作用があるのかというのは心得るほうがよいでしょう。目の前の選挙が国会議員の選挙なのか、地方議員を選ぶのか、首長(知事や市町村長)なのかによって、作用の仕方はずいぶん異なります。それが衆議院議員総選挙であるなら、自分が投票する候補者の人柄や政策うんぬん以上に、その候補者が所属する政党のトップを「内閣総理大臣にしたい」という意思を表すことなのだということです。それが議院内閣制。「自民党候補に入れたけど高市さんは支持しない」というのは、本来は成立しにくい論理です(結構あるんですけどね)。また、現政権に問題があると判断して政権交代を望むなら、与党議員に投票する行為は矛盾することになります。候補の「よりマシ」と、政権(首相)の「よりマシ」を見分け、選ぶスキルが求められているということですね。

選挙の結果は当選するかどうかの二択であるという点や、小選挙区選挙では1位になれるかどうかが大事で得票差は関係ないという点が、デジタルの01かの世界と似ていると思った。将来自分が選挙権をもったときに、自分の投票先が国民の大半と同じかどうか、クイズのように答え合わせをするのではなく、投票するかしないかを選択しはじめる時点から自分の考えや意思を強くもてるようになりたいと思った。

当選しそうな人に入れよう、というような答え合わせ的な行動、冒頭の「合ってますか」についての話から、真の目的が薄い行動の怖さに気づかされた。日々の行動の教訓の話が、とても心に響いておもしろかった。

「合ってますか」と聞くような心理が、選挙にも反映されていることを知って、おもしろいなと思った。小選挙区制だと、とくに意見もなく特定の候補を支持していなくても、このように「勝ちそうな人」「マシなほう」に投票することで、最終的な結果として特定の勢力を推すことになってしまいかねない。だからといって投票しないというのもある種の意思表示で、これもまた特定の人たちを後押しすることになってしまうのが難しいところだと思った。おそらく最近の人たちは、みんな正しいことだけをするように、選ぶようにと教育されている。だからこそだんだん自分の意見をはっきりもつことができなくなってしまっているのではないか。

選挙は、国民の意思が政治に反映される大事な行程ですが、その制度により反映の仕方が変わってしまうのは問題だと感じました。また知識がないと、正解主義のように当選しそうな政党に投票することにつながり、自分の意見が反映されているようでありながら、自身で考えていないので意味がなく、それで安心してしまうのは悪習慣だと思いました。
・・・> 選挙制度によって有権者の意思(民意)の反映のされ方が変わるのは「問題」ではなくて「当然」です。だから、どの選挙制度が現状において最適なのかを、まさに民意によって選ぶ必要があるのです。ということは、たとえば小選挙区制と比例代表制の特徴(長所や短所)を、学校のテストに出るから丸暗記するのではなく、自分たちの意思をどのように法律や政策に反映させるのかにつながる問題として、難しかろうが抽象的だろうが真に自分のものにする(暗記ではなく内面化する)ことが、一般の有権者に必要だということではないのかな。

自分が投票した人が落選したらいやだから、当選しそうな人に投票するというのは、私にとってはありえない考え方だと感じました。しかし、正解主義や「これで合ってますか」という聞き方は、私の中に定着しているように思えます。それは投票の仕方の例と同じことだと気づいて、驚きました。去年は暗記科目として選挙制度を学んでいましたが、具体的なエピソードや流れがつかめて、より理解が深まりました。

授業の終わりに差しかかるまで、デジタル時代の「合ってますか」の潮流と選挙制度の変遷がどうつながるのかまったくわからなかったけど、死票=間違い と捉えられるというところでリンクしたことにとても沸いた(心の中で)。5149でも1000を成り立たせてしまう小選挙区の力強さを知ったのと同時に、どれだけ「相対的に」人気を得られるか、世論がいかにカギを握るのか、そして「投票に行かない」ということがどれだけ致命的なのかを思い知らされた。「合っているか」にかかわらず、自身の望む党、候補に投票したい。




開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。当科目(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成と細部タイトルを変えています。2026年度は社会のダイナミズムと深化・統合・探究の学びとしました。ダイナミズムは動態のこと。社会というカタマリが、まるごと動いていて、その動き方も均質ではないので全体を捉えるのは大変です。当科目ではいくつかの切り口を用意して、ためしに私(教員である古賀)が「現代社会の像」を掘り下げてみますので、受講するみなさんもそのうちに自分なりの掘り下げをできるようにしましょう。分野や方法の得意・不得意はもちろんありますが、それを自覚することも大事です。この段階での学びは、もはや知識を量的に入れるということよりも、そうした「学び方の学び」に向けるほうがよいと考えています。なぜなら、社会はますます変化していき、みなさんはいずれ学校を卒業して社会人になり、もう「先生に教わる」ということもできなくなりますから、長い社会生活は自身の学びによって見通していかなくてはならなくなるからです。試験で正解を出したり、よい点数を取ったりすることに終始する学習は、もう終わりにしましょう。そんな束の間の正解や点数よりも、自分の人生やキャリアを豊かにするほうがはるかに大切です。深化とは掘り下げて深めること、統合とは複数の分野や方法にまたがって学ぶこと、探究(re-search)とは自身の問題意識をもって学びに突っ込んでいく姿勢を指します。

2026年は、この現代社会論という選択科目が設定されてから満20年にあたります。みなさんが生まれる前から、私は3年生にこの科目を指導しているのですね。本年度の、とくに1学期はそうした蓄積を少し意識して、当科目がはじまったころ(みなさんが生まれたころ)、つまり2000(ゼロ)年代以降の社会動態をさまざまな角度から考察する、ということをしてみます。20年ちょっとのあいだに、私自身の学びや社会観察もかなり深まりましたが、その時々の学院3年生の反応や成果そのものが、現代社会を考察するうえで得がたい材料になっています。さてみなさんには、2つのことをあらかじめ心得てほしい。(1)これは政治、こっちは経済、それから世界史、日本史、倫理、あるいは数学、理科、情報・・・ などと、学校の都合で設定されたような教科や科目の枠組にしばられるのは、もうやめましょう。何もいいことはありません。大学受験生であれば入試で選択する科目を重点的に学習しなければならないのでしょうが、附属のみなさんはその点でアドバンテージをもっています。世の中に教科の境目なんて存在しません。苦手でも不得意でもいいから、飛び越えましょう。(2)難解なこと、意味のわかりにくいことがあっても、絶対に思考を停めない。もっと易しくなりませんかとか、もっと高校生に身近な話題にしませんかといわれることもあるけれど、社会というのはそんなに甘くないし、高校3年生のアタマの水準や興味に向こうから寄り添ってくるということは絶対にありません。こちらが、寄せていかなければ。学期終わりまでに点数を取れるようになりなさいというわけではなく、ひとまず、とりあえず思考しなさい、食らいついてでも考えなさいというだけなので、それを早めに放棄してしまうのはもったいないです。率直にいって、高校3年にもなれば人によって出来・不出来やアウトプットの程度の優劣はかなりあります。あったっていいじゃないですか。メジャーリーグも草野球も野球です。それぞれの場所でバットを振ることに意味があります。

 

 

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