古賀毅の講義サポート 2024-2025

Études sur la société contemporaine I: Instruction civique pour la recherche

現代社会論I探究するシヴィックス5.0


早稲田大学本庄高等学院3年(選択科目)
金曜12限(9:10-11:00) 教室棟95号館  S205教室

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現代社会論II:グローバル時代のパースペクティヴ2024

 

202412月の授業予定
12
6日 社会変動の中の高等教育:学びの到達点にしてリスタート

 


本年度の授業は終了しました。みなさんのご活躍を心よりお祈りいたします。


最終課題を出題しています。期日までに取り組んでください。

 

REVIEW 12/6

なんとなくの「一般的」に乗っかって、深く考えることなく大学進学を捉えていたので、大学の意義や、何を学ぶのかと悩んでいたところでした。どうしても就職のため、就活で自分を高く評価してもらうため、など表面的な付加価値を求めてしまっていて、自分が何を学びたいか、将来何をしたいのか真剣に考えられていなかったなと反省しました。

大学は、知識を身につけるのではなく、それを通したレベルの高い考え方、ものの見方を身につける場であると知りました。創造性を一緒に身につけるには、タスクをこなす受身でいるのではなく、自発的に学に向かうことが大切なのだと思いました。

私の中での陶冶の解釈は、物事を本質的に見るということです。その意識やアプローチのもと、言葉の使い方(障がい者/障害者 など)に気をつけるという意識にもつながるのだと思いました。これまでの現代社会論の授業では、哲学を学んでいるような意識が大きくありました。それというのも、社会のしくみや本質を理解するために不可欠な知識(考え方、思考回路)を学んでいたのだなと思いました。いままでの授業を経て、現代社会は便利になった、過去よりもよい時代だと考えられがちだけれど、実は問題がたくさんあるということに、危機感とともに気づくことができました。

「学ぶ」とは何なのか。それは人格の陶冶にあるというのが、今回いちばん心に残りました。試験前に詰め込んだ知識なんてすぐ忘れるし、常に変わりゆく社会でなんの役にも立たないんだと思いました。知識はベースであり、そこからどう結びつけて考えるか、そこにたどりつく過程はどうするのか・・・ これらを考えながら個人を形成していくのを経て、高度な人間性がはぐくまれるということを学びました。私は大学の学びを勘違いしていました。考えれば、成績優秀でいい就職?をして人生でどんな幸せを得られるのだろうと思いました。陶冶の実現を、ぶれずにめざして、これから学んでいきたいと思います。

大学でやりたいことが変わる可能性はいくらでもあるので、あんまり学部選択に悩みすぎても仕方ないなと思いました。また大学は就職のために力をつける場所だと本気で思っていたので、今回の授業はいつも以上にびっくりしました。

学部を選ぶときに、どれが将来に生きるかなと考えることがあったが、自分の学びたいことで陶冶を身につけられるような方向で考えたらいいかなと思った。
・・・> 陶冶は身につけるものではなく、自己を陶冶するのです(無生物主語のイメージ)。自分の学びたいことの先にこそそれがあるのはいうまでもありません。

大学では、いま役立つ知識やスキルを身につけるのではなく、もっと抽象的で、変化するものごとに対応可能な学を身につけようと思った。いま思えば高校での私の学びは受動的だった。大学生になるのであれば、得た知識を批判的に見て、自分の考えを構築できるようにならないといけないと思う。そのためには、いままでやってこなかった読書に取り組まないといけない。がんばりたい。

幼いころ学校に行く目的を母に訊ねたら、「社会の規律を学ぶため」といわれたが、父は「学びたいから学ぶんだ」といった。そのときには意味がわからなかったけど、いまは少しわかるようになった。

 
ドイツ北西部のゲッティンゲン大学 大学の規模のわりに文系・理系を問わず多くの優秀な研究者を輩出する、学術の殿堂である
旧市庁舎前の噴水には「リーゼル嬢」の像が組み込まれていて、同大学で博士学位を取得するとこの像にキスするという慣習があるらしい

 

国際関係学と西洋中世史を選択している。今回の授業は、いままで学んできた知識がいろいろ結びついて、おもしろかった。

高等教育には、本来的には職業準備という機能はないという、少し考えれば当たり前のことが、当たり前ではなくなっているなと思いました。大学とグランゼコールが分かれているフランスは、目的がはっきりしていていいなと思いました。近代的な国家を形成するうえで法学の素養をもっている人が必要だから、ベルリン大学では法学部系が強い、みたいな話は、学問を学ぶ場としての大学という存在意義と、少し食い違いがあるのではないでしょうか?
・・・> 高等教育には職業準備の機能があります(例 グランゼコール)。その機能が本来的にないのは「大学(ウニヴェルジタス)」。ヒントとしては、東京大学(本来的な大学)にあるのは経済学部で、一橋大学(日本型グランゼコール系)にあるのは商学部、という区分を指摘しましょう。後段、食い違いというより、中世型大学と近代型大学の違いがそこにあります。近代国家が国家的な機関として大学を設立した以上、いくら陶冶うんぬんといってもそれで済むはずはないのではないかな。

初等・中等・高等教育の3段階があって、ある程度のつながりがあるのだと疑問を抱かずに考えていたが、経済成長や産業の高次化を背景に、それぞれが普及していったということ、個々の本来の目的を理解することができた。でもいまは小中高大の一連がスタンダードだから、現在の教育制度はある程度つながりを意識しているとも思う。

経済成長によって「食える」ようになったことで、社会のいろいろなことが変化したのだなと、1年間の授業を通じて思った。

西洋中世史を学んで、学びたい人が集まるギルドだった大学と現在を比べ、突き詰めたいと思う学問の一つでももっているほうがよいのかと思わされ、いま学ばないと食えなくなるという危機感をもっていないから就職のためにという考え方になってしまうのだと思いました。近年の学生の動きが以前より鈍いのは、大学でおとなしくしていて、会社に入れば生活していけるという確約を得られるからだと思いました。親子ともに自立して安定的に生きていけることを念頭に置いていると考えました。現在の政治に疑問をもったら社会科学を学ぶ必要があるのかと思いました。
・・・> 世間の相場の話はいいけど、自分はどう考えるのかな?

小さいころ、何のために歴史などを勉強するのかと父に聞いたときに、どう考えるかが大事だよといわれ、そのときはよく理解できず、とりあえず勉強していままで来ましたが、ようやく少しわかったような気がしました。一つ一つの内容というよりは、それぞれの学びをつなぎ、分野に役立てていくという力が求められているのかなと思いました。先生がおっしゃっていたように、内容がつながるという感覚は何度もあって、勉強していてよかったと感じることもありました。父がどういうことをいいたかったのか真相はわかりませんが、信じて勉強してきてよかったと思い、これからも「主体的」に取り組みたいと思いました。

大学を出たら何になろう、という将来の展望がない。大学で知のスパークを味わいたいので、そのためにバイトや課外活動よりも学問に力を入れて取り組みたいと思った。

日本の大学は近代型がほとんどであるような気がするけど、中世型+エコル型に収束させるべきだと思う。「大卒の無能」が社会問題化しているいま、学歴至上主義的な社会は、経済成長を抑制すると思う。学問は教養として独立させ、技能は技能として独立させないと、有能な人材が育たない。逃げられるしくみがあるからこそ、レジャーランド化する。若者の学習意欲に自主性を任せてはいけないと思う(どうせ遊んじゃうだけ)。文系の人間として、陶冶にもとづく文系大学生の力を思い知りたいものだが、実際、職場は新自由主義的な競争原理に従ったスピーディーな場だと思うし、戦力として成立しているのだろうかと思うのは仕方ない。
・・・> うふふ辛辣(^^)。そのキレ味は長所でもあるので伸ばしてくださいね。中世型+エコル型に収束させるべきだと考える人は結構いますが、いかんせん当人はエコル型には行かないんだろうなというタイプの人ばかりそう発言しているんですよね。10年くらい前だったかに、大学をG型(グローバル・タイプ)とL型(ローカル・タイプ)に分割して、前者を高度な知的探究に、後者を地域の人材育成に充てようという議論が、国の真ん中のほうであったのだけれど、沙汰やみになりました。どっちもに、他方の要素が入り込むからこそ意味がある、というのも、意味があると思いません?(思わないか 笑)

 
フランス国立物理化学研究所 有力グランゼコールのひとつ国立高等化学学校の附属機関で「ピエール&マリ・キュリー・キャンパス」の名がある
構内にはマリ・キュリー(キュリー夫人)の庭と称するガーデンも残されている

 

本来の大学の趣旨であった「学びたい人が学びたいから学ぶ」というあり方は、現代では多くの人にとってかけ離れていると感じた。日本は学歴社会が形成されていることによって、頭のよい大学に入ることが将来を決定すると考える人が多くいる。また企業でも学歴フィルターのように、ある程度、大学のレベルで区別する実態も影響している。こうした現状は、中国や韓国などにも存在している。元来の大学のあり方が、現在ではみられる機会が少なくなっている。またフンボルト理念では、学問を学んだ先に人格の陶冶があると示されているが、現代では学ぶこと自体が目的化していることが多いと思う。ただ、一番の原因は、学ぶことよりも大学生活をどのように楽しむかという考えが、現代の大学のあり方に大きく影響していると思う。高校までは大学に入るために学習する人が多く、大学に入って学びたいことがある人は限られていると思う。ただ、大学入学後に学んだことによって人格の陶冶につながることもあるため、いまの大学のあり方が完全に間違いともいえない。
・・・> 学歴社会なんていうほどないんだよ、という話は下のほうで記していますのでお読みください。なんだろう、何かを恐れていますか? 世間でいわれがちなことを並べて、そう言い聞かされて、それを信じたくないけど信じてきた自分がぐらつくのを回避しようとしている? それはそれで防衛機制かもしれませんので、別にかまいません。聞きたいのは、上のように考えたり書いたりすることで、何かあなたにとっていいことってあるんですか?ということ。あります、ということであれば、私から申し上げることはもうありません。

昔、サッカーや野球が強かった学校は進学校が多かった。富裕層しかスポーツをできなかったということに驚いた。工業化により中等教育の開放が進んだことがわかった。会津の白虎隊の生き残りが日本人初の物理学者、東京帝国大学の総長を務めたことに驚いた。
農業が主で、代々おこなわれてきた家業を青年期という意識がないまま継いでいた時代に、産業革命が起きると農村から都市への人口の流出、家族形成による都市の拡張、産業に必要なスキルを習得しなければ職につけず、それが初等教育の義務化につながっていることがわかった。終身雇用・年功制モデルは経済成長期は問題はなかった。それは企業規模が拡大していたから成り立っていたのであり、1990年代以降はそのモデルに限界が来た。バブル崩壊で氷河期世代が就職難になり経済的に余裕がなくなったことが少子化につながり就職人数が減っていくが、またこのモデルは使われないと考えた。
・・・> ついに最後まで抜け出せなかったか。個別の情報を未消化のままオウム返しにする。教材の文字をわかるところだけ切り貼りして「と考えました」とまとめたようにする。現代社会論を1年間学んできて、この科目はそういう学び(ありがちな型)を全否定ないし無力化するものだ、ということに気づけなかったのは残念ですが(これまでもレビュー主には当欄で指摘していたのだけど読んでいないのかな?)、私の指導力の限界でもあります。まあ、がんばりましょう。

一流大学出身の無能になるのではなく、自身の将来に向けた学問を学び、多様な知識を身につけることによって社会に必要とされる、貢献できる人材をめざしたいと思う。
・・・> またしても私の限界か。伝わらないものですね。私に賛成しなくてもいいけど、いっていることがすべて正反対のことなので、わかっていて書いているのだったら超優秀なのですが・・・。

附属だから必然的に学部や先の先を見てしまうことはあるが、もっと客観的に物事を見ないといけないと感じた。大学に進学したときに、ただ時間をつぶさないようにしっかりやりたいことを見つけ、大学や学ぶことの意味を見つけ出して、有意義な時間を過ごしたいと思った。附属には「とりあえず政経」とかがあるが、そのような考えで大学に行っても無意味だと思った。

 
本庄高等学院(20074月のようす)

 

現代社会において、明確な目的や学習意欲をもって大学に進学する学生はあまり多くないと思う。それこそ中世のエリートで大学に通うくらいの割合ではないか。モラトリアムや就職のことさえ考えずに、「生まれてから大学卒業までは、誰もが通る当たり前の道」と考えている人がほとんどであるような気もする。それが悪いかと問われれば、一概にそうでもないと思う。つまり目的をもたずに進学することよりも、目的を見つけようとせずに進学することに問題意識を向けるべきということだ。学びを深めるうちに興味や関心の矛先が変化するのはよくあることだし、むしろそこにも学びのおもしろさがあるとも思った。

大学で、自分の専門を学べば学ぶほど、社会に対する批判的な目をもつという現象が起こると思います。その場合、学生にとっての「心地よい場所」が徐々に崩れていくのではないかと思い、結局大学はどのような立場に立っているのだろうと、疑問を抱くことがあります。「学びを深める」以上に、「自分に合った環境についてあらためて考える場」でもあると考えます。
・・・> 怖いことをいうようですが、文系の学びというのは(理系は実感としてわからないのですみません)、自分の「心地のよい場所」をみずから掘り崩すものです。とくに人文系にはその破壊力があります。だから、いいんじゃないですかね。「私ってこういう人間」「私の居場所はここ」というのが、いってしまえば安易な主観(しばしば願望に引きずられる)にもとづく判断であるならば、学問によって更新された思考力や分析力は、そんな自分ごと捉えなおし、より高度な次元に連れていってくれるように思います。それを恐れるのは自然なこと。そして、それを恐れつつも学び進めるのが、より大学生らしい態度。

大学は就活前の、最後の人間構築期間だと考えていました。就職先から考えて○○学部だと決めていました。そこはよいとして、大学で学びたいことは将来進みたい路線の中で決める、その中に「学び、使う楽しさ」を得ているのが、今という時間軸でみた「私」です。今はあくまで今であって、将来の変動を柔軟に受け入れられる器であれるよう、常に先を見て、考えて生きていきたい。
・・・> 変動するのは社会だけでなく自分もそうです。ていうか、そちらのほうが短期的には変動します。学びには、自分や自分の見通しまで更新してしまうような力があります。

お勉強、人材育成、人間性??? 知のスパーク!!! 別に高いお金を払って授業に行かなくても、図書館で本読んで、バイトして、YouTubeで問題解説動画を観て、計算問題やって、テレビ・新聞・SNS等々で情勢をチェックしていれば身につくことばっかし。「医者になる」とかなら別ですけど、まじで、なんでこんな高いお金払ってもらって早稲田来たんだろ。あ、古賀先生に出会うためかな(^u^)キラッ!!!
・・・> 教育の専門家として、まじめに答えますとね、(1)個別の知識や情報の集積の先にスパークとか陶冶が起こればいいのだけど、自力でそれを起こせる人はかなり少数。しかも生まれの格差(親の経済力)に強く相関します。公教育というのはそれを均すための、社会権保障の一環です。であれば、各自で各メディアから学べばよい、ということにはなりますまい。(2) 2020年春、新型コロナの急拡大を受けて、日本中の幼小中高大が一斉に休校になりました。本庄高等学院を含む、ちゃんとした学校では、オンライン授業を実施してどうにか乗り切りました。そのときは急ごしらえだったし、教員側のICTスキルも未熟だったため適切な方法ではなかったのかもしれませんが、学校教育の本体部分は知識や情報の伝達(生徒を主語にするなら「取り込み」)だという私たちの常識は、その数ヵ月間の経験でずいぶん相対化されました。無意味とか重荷とすら思えていた「登校」「通学」「学級活動」「課外活動」「学校行事」そして休み時間のクラスメイトとのいちゃいちゃ・・・ が、実は「知の獲得」を載せる重要なウツワだったのだということがわかったのです。もちろん(1)で述べたようなことを自力で実現できる人は、元から一定の割合でいて、それはどんどんやればいいと思うけど、教育のメイン・ストリームは依然として従来型のほうにあるのだと、多くの関係者が、そして私もようやく確信したものです。これについては古賀「2020年に起こったこと/2020年に見えたもの」、古賀毅・高橋優編著『教育の方法・技術とICT』、学文社、2022年、所収、pp.2-5にて文章化しています。ま、でも最後の一言がカワイイので全部許す。

明治後期と高度経済成長の影響で、ここまでの結果(学歴)が重視されるようになったのが驚きでした。日本の若者は、近年、親がつくってきてくれた生活水準を下げたくない、という安定志向があり、社会への批判や抵抗が停まっているということを学びました。その背景には、食べられないことへの危機感がない、ということがあります。しかしそれは「食べることができている状況」がこれからもずっとつづくという前提が心の中にあってのことだと思いました。世界は日々揺れ動いているから、日本の立場も日々変化していきます。だからこそたくさんの書を読んで世界に目を向ける必要があると思いました。国民が安定志向でいても世間は移り変わっています。たとえば物価高、学費の引き上げ(東大の)などがあります。そのため安定志向でいられなくなるときが来るのかなと思いました。
・・・> ときどき思うんですけどね、安定志向っていう場合の「安定」って、本当は「安心」なのではないか。もうとっくに社会が流動的になってきて、先行きが不安で仕方ないが、さりとて確固たる何かをもっているわけでもないので、いまのところ世間がいっている安定とか安全とか無難とか相場なんかに乗ってみて、「大丈夫、ほかの人とおんなじ」という、いっときの安心感を得ようとしているとか? (違うかな?)

文学部を考えているという旨を明かすと、親や友人から「将来の就職とかどうするの?」的なことをたびたびいわれるのですが、毎度毎度そんなことのために学習したいわけではないと思ってしまいます。私は文学部で、美術作品やその関連に隠されたメッセージを捉えるということに興味をもっているので、それを学びたいのですが、就職とかそういうものが絡んでくると迷ってしまう自分もいます。しかし、その学問と就職の欲求は必ずしもリンクするわけではないということを今回の授業を通して学んだため、大学は大学で学問を学んで、就職は就職でもう何も気にせず、その時々に自分がやりたいこと、やるべきことに集中していきたいと考えました。
・・・> それだけ大学で(当面)学びたいことの展望がはっきりしているのに、「就職」の話になると急にそこいらへんの「いい会社に入る」トーンになるのが不思議。そこまで具体的な学びを掲げているくらいだから、そっち方面の進路を考えているのだと思ったら、違うのでしょうか? 継ぐべき家業があるなら、きょうだいや養子に託して(松岡修造が東宝社長の座を弟に託してテニスに投じたみたいに)、アートで生きていけばいいのになと思うのは、人ごとだからでしょうかね。そこいらへんの「いい会社」で働ける人はなんぼでもいるが、アートでやっていける意思やセンスのある人ってそんなにはいないんですけどね。(レビュー主が大成するかどうかはもちろん別件。スタート時点の発想の話にとどめましょう)

今回は現代社会論のまとめの授業として、4ヵ月後と間近になっている「高等教育」について深掘りできてよかった。日本は異常なまでに学歴社会であり、近年は緩やかになってきたが、苛酷な受験文化などによって、これまで私自身ステータスというものこそ重要だと考えてきたふしがあった。しかしながら経済成長が停滞する昨今では、大学名などあまり意味をなさないことを痛感した。本来の大学のあり方に立ち戻って、おもしろいと思える内容を探究し、それを社会に活かせるよう、中身のある大学生活を送れるようにしたいと思う。
・・・> 当欄でも何度か強調しているのだけど、いまの日本が「学歴社会」だなんて私は思いませんし、おそらくそのように信じたい人(そのせいにしたほうが好都合な人)が多いのだろうと思う。「学歴」の劣る人が苦しむ実態はよくわかりますが、少なくとも「真ん中から上」にその種の階層なんて、まずないですけどね。「異常なまでに学歴社会」だという言説が覆い隠している、もっとやばい構造に目を向けてはどうでしょうか。それはおもしろくて、有意義な学びになります。

 
(左)梨花女子大学(韓国 ソウル)  (右)ジョージ・ワシントン大学(合衆国 ワシントンD.C.

 

私はいまこの学校で学ぶことができている一方で、圧倒的に知識が劣っているということを、最近すごく実感するようになった。両親は、よく巷でいわれる学歴フィルターにかければ上位には来ない人だが、私よりも言葉を知っているし、思考力が深く、いまでも物事を知ろうとする探究心を絶やさない。このまえテレビで「坂の上の雲」を見たとき、父は学生時代にこの本を血眼になるほど読んだらしく、学びつづけることで未来が明るくなるというのを単純明快に理解できる本だといっていた。この授業を聴いて、あらためて学びつづけることは困難ではあるが、とにかく「知る」ということを大切にがんばっていこうと思った。
・・・> 「未来が明るくなるというのを単純明快に」というのは、想像ですが、おそらくお父さんのおっしゃったままの言い回しですよね。ドラマの原作になっている司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」は、明治時代の日本人と日本史そのものが主題で、本文中でたびたび「明治人は未来をまっすぐ見つめて進む、単純な信念をもっていた」という趣旨のことが、作者の言葉として語られています。私は、おもしろかったのは間違いないのだけど、なぜかあまりハマらず影響を受ける部分も少なかったのですけれど、同世代にも司馬ファン、坂の上ファンはたくさんいて、やっぱり人生訓みたいなものを得ているようですね。年ごろの娘に素直に尊敬されるご両親っていいですね!

スポーツや学問は金持ちの娯楽だった、というのが印象的でした。実際に私の祖父は経済的な理由で、意欲はあるにもかかわらず高校にも大学にも通うことができませんでした。一方祖父の友人は、学問にほとんど興味もないのに裕福な家庭であったため高校や大学に通ったそうです。祖父は悔しくて仕方なかったそうです。私はいま高い学費を親に払ってもらって、ここで学ぶことができています。高校も大学も私立なので、とくに高額であるということを理解しています。働くという選択肢もあるのに学問をやらせてもらっているということをあらためて認識し、残りわずかの学院生活、その先の大学生活に励もうと思いました。

日本の社会構造、雇用構造が変わるには、何のきっかけが必要なのか? 安定した経済(好景気)のとき? なぜ転職すると、せっかくそれまで積み上げてきたキャリアがゼロ扱いになってしまうのか? 近年、情報がたくさんある。転職するときにその人のしてきたことを履歴書ではなくデータとして渡せばいいのにと思う。
・・・> 12学期の授業の本体部分でもあるのだけれど、社会構造は相当に変わってきています。あまり明示はしなかったが雇用構造も連動して大きく変わってきました。ただ、昭和の残影というか、変わりにくい部分もまだまだ残っています。今後、よくも悪くも「正社員モデル」のようなものが相対化されていくだろうと私は見ています。多くの人にとっては、それはマイナスに作用しますが、もう従来型のモデルを維持できる情勢でもありません。それに伴って階層分化や中間層の没落といった事態が懸念されます。真にセンスやスキルのある人、形式的な学歴なんて笑い飛ばせる人、そして女性(の何割か)にとっては大チャンス。私の少し下の学年(だいたい1975年生まれくらいまで)がやたらに分厚いので、彼らが(私たちが 笑)定年退職する前後に、エア・ポケットがあるのではないかしら。転職にもいろいろあって、プラスに作用する人もずいぶん多くなってきました。問題は、そういうプラスの話を聞いたからというので、便乗して転職を試みるケース。学歴をむやみに信奉するのと同じで、世間の意見や相場に流されがちの人は、転職なんてしないほうが安全です。レビュー主さんはどうなんでしょうね(^^)。30代になるころまではどこか1ヵ所に食らいついて、他人のメシを食って、他人のふんどしで相撲を取る度胸をつけるほうが、先々伸びるかもしれない(※個人の感想です。それと、年ごろの女性にふんどしとか相撲とかいってごめんなさい 笑)。

法学部志望なのですが、必修科目が多く、他学部よりも拘束される時間が長いので、他の学部や他のコミュニティの人とのかかわりを増やすおすすめの方法を知りたいです!!!
・・・> 早稲田の他学部生との付き合いをわざわざ演出することもありますまい。放っておけばそれなりにはできます。なにかしらサークルやるんでしょ? それよりも、地域社会のおっちゃんたちとか、遠隔地の同世代の人たちとか、海外の人たちとかかわってほしい。方法は簡単で、そういう場にみずから出かけて、歩いて、話すことです。法学部志望の先に、一般企業に普通に入りますという進路を考えているのなら話は別ですが、法曹系(裁判官、検察官、弁護士)をめざすつもりなのであれば、「世の中の人たち」とのかかわりの経験が最終的にものを言います。弁護士などは、このごろは専門化が顕著で、各分野が相当に高度化されているわけなので、その専門知識と、法律の知識の両方が要ります。しかも過半以上は理系がらみ。医療系、工業技術系、情報系・・・ など。ロースクールでひたすら法律ばかりこなしているのでは絶対にたどり着けないので、早い段階で目を開いておかないとね。

本たくさん読まなきゃいけないのはわかるのですが、どうしても読書が好きになれません。古賀先生が読書にはまったのっていつですか?
・・・> 身もふたもない話とか、救いようのない話ではないので、最後まで読んでね。高校3年生の終わり間際まで読書を好きになれない(ていうか、おそらく「嫌い」「苦手」)だという人が、大学生になったからといって進んで読書するという確率はかなり低いと思います。みなさんの想像どおり、大学生は、高校生までとは自由とか自律の度合いが段違いですので、時間・お金の使い道や健康管理という部分で、自身のマネジメントがものをいいます。高校生までにある程度それができていない人が、急に優れたマネジメント能力を発揮するというのはおかしいですよね。でも、そういうギアチェンジ、シフトチェンジが、大学生になって起こることがあります。最大の契機は出会い。先生、友達、好きな人、大学の外の人、学問、社会的活動、旅行とかね。そこで獲得できれば本物になります。いまから本を読んでおもしろいと思えるようになるには、個人差を捨象すれば、だいたい3050冊くらいがんばって読み切ったあとのことでしょうかね。同じ人生を生きるのなら、本好きになるほうが何倍も楽しいですよ。私は変人なのであまり参考にはなりません。小学2年生のとき、学校の図書室にあった野口英世の伝記を読んで伝記のとりこになり、そこにあったシリーズのほとんどの本を3年生くらいまでのうちに読みつくしました。いつしか関心は人物から歴史に移り、こんどは子ども向けの歴史・地理の本を公共図書館で読み漁って・・・ てな具合で、おそらく小学生時代に、そこいらの学院生が18歳までに読んだ本の数倍くらいは読んでしまっているのではないかな。スマホなんかなくても普通ですが、読書を止められたら酸欠で死んじゃう。

読書がお好きな先生にお聞きしたいのが、いままでに読んでいて(正否は問わず)おもしろいなと思った本 死ぬまでに読むとよい本 などが知りたいです。どんなジャンルでもいいです。春休みにたくさん読みたくて、授業の本題に沿わない野暮な質問ですみません。
・・・> もう死ぬほど読んだから、どれが、というのは憶えていない(汗)。あえて一つ挙げれば、中学生のとき知人にプレゼントされて読んだ、田中克彦『ことばと国家』(岩波新書、1981年 なんといまでも増刷がつづいている「古典」です!)。長じて博士論文を書く際に土台になったものでもあります。現代社会論II1学期のタネ本にもしています。おすすめの本を聞いているヒマがあったら片端から読め!というのが、いつものお答えなのだけど(人によって好みや相性の問題があるから)、せっかくなのでいいことを教えましょう。中公バックス世界の名著/中公バックス日本の名著(中央公論社) というシリーズがあります。昭和後期に刊行されたものなので、もう図書館か古書店に行かなければ入手できないでしょうが、「大学生の文系の学び方」としては優れているのでご参考までに。これらのシリーズは、公民や歴史の教科書に出てくるような、有名な思想家や作家の作品を集録したアンソロジーなのですが、本体部分は岩波文庫でもさほど違いはありません(邦訳のよしあしは作品によります)。中公バックスのよさは、その「解説」にあります。たいていの本だと解説や解題は巻末に載るのだけれど、なぜか巻頭にあり、しかもそれ自体がかなり長文の論文になっています。当代一流の学者が解題しているので、作品そのものよりもおもしろくて、勉強になることが多い。本体よりも先に解説を読んで、アウトラインをつかむようにするといいですよ。私なんかはかなりインチキで、本体を読まず解説だけ何度も読んで、さも知っていますみたいに語っているものがいくつもあります。「思想史概論」みたいに一発でわかりそうなやつなんかより、はるかに実になります。

ネットで調べても、人に聞いてもあんまりよくわからなかったので教えてほしいのですが、インターナショナルスクールの先生って、どうやったらなれるのですか。
・・・> 学校によります。公募のこともありますし、コネのこともあります。運営主体が海外のどこかにあるのであれば、当該国の学位や教員資格を求められるケースもあります。日本国内のインターに関していえば(朝鮮学校、中華学院などの民族学校も同じ)、学校教育法1条に定められた「学校」ではなく各種学校の扱いなので(つまり「公教育」の範囲外)、一つ一つのインターが独立した私企業ということになります。そのへんの株式会社が、各社それぞれの方針で社員を採用するのと同じで、その学校や運営主体が資格要件やリクルートの方法を決めていますから、本当に千差万別。個別に聞いて、調べるしかないでしょうね。


2007年秋ころの早稲田キャンパス
わがゼミ生たちもすでにアラフォーになっていて、みんな元気に活躍している(と思う)

 

日本海側のある大学の話を聞いて、「絶対に変えてはならないもの」というのは、ないに近いのだと思いました。なぜなら、それは人々の思い込み、刷り込みでしかないからです。実際この例も大勢の反対を押し切って方針転換して、それが成功すると手のひら返しで賞賛されていました。結局はその程度なのだと思いました。

授業を受けたあとで、就職の強さをうたう大学というのはやはり違うのではないかと思いました。大学は、学問を究めんとする場所であって、就職のための機関ではなく、就職の強さをうたったらそれは大学ではない他の何かなのではと思いました。視野を固定するのではなく、広く世の中を見て、断片的ではない、総合的な知識を集積しなければいけないと思いました。一般的な世間や周囲の人々からの評価やイメージで物事を判断するのはやめて、本当に価値のあるものを見出せる力を身につけたいと思います。

「就職に強い」大学というのを強調するのは、学びを深めるという大学本来の意味とは、ずれてしまうと思いました。大学は学びだけでなく社会に出る前に社会性を身につけることができる最後の機会だと思います。たとえばサークルの仲間と一つの目標に向かう経験を積むことです。そのような経験を積まずに社会に出ると、誰も教えてくれないので協調できない、それに気づけないままただ社会になじめずにいて、苦しくなります。このようなところにも日本の大学の意義があると思います。

就職の話とか卒論の話とか、まんま自分で恥ずかしく思った。ただ企業とかもそういう学歴とかで採用を決めているとこも多いと思うし(就職に強い大学の話とかであったように)、先生はそういう大学至上主義的な企業とかにどう思っているのか、もっと詳しく知りたいなと思う。
・・・> 大学至上主義的な企業なんて数からいえば圧倒的に少数だし、いくら見かけ上の学歴があっても中身がアレだったら採用するわけはないので、いまさら議論しても仕方ありますまい。レビュー主には少し強めにいっておこう。中身がアレかどうかは、エントリーシートや面接での受け答えくらいしか判断材料がありません(最近はSNS警察をしている企業もあるにはある)。この科目の中で、表情や書いたものを読み取るだけなのですが、いまのままだと学歴がもったいなくなるよ。自信をつけられるくらいには学んでおこう。1年間、ついにレビューの記述が各回のテーマの本体部分に入りませんでした。そして、文体が幼すぎる。「とか」って何回いうんですか。リアルな自分の実力(の不足)を直視するのが怖くて、斜に構えているのだったら、それは一文の得にもなりませんのでもうやめましょうね。

高校生に見えている社会や学問は、実物よりもかなり狭いといっていたが、だとすれば高校生のうちは文系・理系に分かれずに、より広い分野を学ぶほうが、将来の学部選択や就職に有利ということも考えられますか?
・・・> 文系・理系に分けるほうがいいのかどうかというのは、わりと本質的な疑問であり、イエスでもノーでも私は論理化できます(本音はイエスに近い)。ただ後半の、学部選択や就職に有利かどうかなんて、1ミリも興味がありませんので、そういうことに関心がありそうな先生にお聞きください。学びをそんなこと(小さなこと)に閉じ込めないでほしい。

大学の学びと就職先がリンクすると考えていたので、将来どのような職業に就きたいのかを考えてから、学部を決めようと思っていました。どこの学部に行くか悩んでいたので、「学部歴」は社会に出てからそこまで必要ではないと知り、少し気が楽になりました。姉が学部歴にこだわって、附属から政経に進み、両親が喜んでいたので、政経でやりたいことはないけれど自分もそうしたほうがいいのかなと考えていました。文学部について調べてみます。
・・・> 授業の中でも述べたように、具体的に進みたい先があるのならばそれにふさわしい学びがあるだろうけれども、何も決めていないのに「あらゆることに有利な学部」なんてあるわけないだろ、という、しごく当たり前のことにみんな気づいてほしいな。この下につづくレビューもだいたい女性の方なのですが、偏見を込みで申しますと、どうも「学部歴」に執着しがちなのは(そんなようなコメントを記すのは)女子生徒に多いかなと。なぜなんでしょうね。1年間の、とくに2学期の授業でわかったのではないかと思う。学歴(どこの大学を卒業したかの歴)による差があるのだとしても、早稲田大学のどの学部を出ましたというのが有意差になるような場面はほとんどないということ、そんなことよりもはるかに厳しく険しいジェンダーの壁と、女性のみなさんは格闘して生きていかなければならない、そっちのほうが重要なテーマなのだと、本当に本当に知ってほしい。そのときに武器になるのは、歴ではなくて中身ですよね。まずは、人間や社会のありようをまっすぐに、邪念や先入観をはねのけて直視する構え(仏教でいう八正道みたいな)を身につけよう。

学部選択のときに「就職のことも見据えなさい」といわれる。文学部が気になっていても、就職の際に見られる学歴として「よくない」から、手堅く政経や法に行きなさい、「早稲田なんだから」、きっと大学受験をするのであれば「とにかく受かるところに行きなさい」と大学卒であることを望まれるだろうから、なまじ大学卒が確実そうだから、そしてさらに「就職に有利」であるように学部まで考えなければいけないのがとても嫌だと思った。どの学部なのかも就職において見られるのかもしれないが、私が企業側であれば、その大学でどのくらい学んだのか、学部のその中身を見たい。いくら「よい」学部に行っても、遊び倒してぎりぎりの単位で卒業した人は信頼できない気がする。どの学部に進んでも、そこでしっかり学ぶことができれば、そこは私にとって「よい学部」になれると考える。大学生になると、知識の詰め込みではなく思考力が問われるという話はよく聞く。社会が移り変わったとしても、なぜ変わったのか、どう変わったのか、これからはどう変わるのかという思考がはたらくから、大学時代に得るものは長持ちするのではないかと考えた。

早稲田の附属校に入学して、学部希望を決めるいまになって、自分が何を学びたいかということがはっきりしていない中で、偏差値や評判などがどうしても判断の要素の一つになってしまっているなと思いました。進んだ学部での授業や出会いなど、将来につながるものをたくさん得たいなと思いました。

小・中学校では、敷かれたレールの上をぼーっと過ごしていた(いまとなってはそんな気がする)。高校受験の段階で少しは選択をしたが、それは専門高校か普通の高校か?程度のものだった。一方でいま直面している学部選択は、狭い分野を考えなければならない。しかし、これといってぴったりはまるものがなく、一般受験の人たちからすれば贅沢な悩みかもしれないが、正直どこでもよくなってしまった。でも、いまの私がやってみたいことを選んだのなら、誰かに決められたものではないので、後悔は限りなく小さなものになると思うので、大学卒業後のことはあまり考えすぎないようにしてもよいかもしれない。もちろん大きく道を外すような、突拍子もないような選択をするわけではないが。

自分の興味のある分野の学校、学部に行くのが一番とはいわれますが、親も私自身も、やっぱりその先の就職率や就職先の情報を気にしてしまいます。「最近の会社は出身高校も見るから」「とりあえずいまは、やりたいことがなくてもイイトコロに行きさえすれば選択肢が広がる」と、かなり幼いころからいわれて育ちました。たしかに間違ってはいないと思うけれど、いまはっきりとした目標をもって受験勉強している友人、専門学校をめざしてる友人らを見ていると、学歴だけの、意欲のない人間って本当に必要なのだろうか、と考えてしまいます。学歴が高い人は、本当に仕事ができるのでしょうか。
・・・> そんなわけないやん、て答えてほしくて聞いているんでしょ。いや本当に、そんなわけないです。そしてレビュー主さんは、学歴だけの、意欲のない人にはならないと思います。見るところ「あとちょっと、もう一息」のところまで来ているので、成長する勇気を捨てなければ大丈夫。

 

これまでありがとうございました。先生の授業のようなものは受けたことがなかったため、とても新鮮で楽しかったです。自身の考え方、プロセスが明らかに変化したのが、自分でもわかります。今後はこの科目での学びを活かして、さらに学びを深めたいと思います。

先生の授業は私にとって高度なもので、理解するためにスライドを何度も見返しました(授業後に、父と)。大学で学ぶことは自分で決めるし、どのくらい深く学ぶのかも自分で決めると思います。高校3年生で先生の授業を受けることができたこの経験を大切にして、大学では自分の専門とする分野を見つけ、どっぷりとその学びの沼に浸りたいと思います。

この選択科目を取ったことで、現代を見るには歴史から、そして未来を考えるときにも過去と現在からヒントを得るということのすばらしさを理解することができました。さまざまな考え方を知る必要があると思ったので、古典を読もうと思います(本を読むのが大嫌いだった私が変われたのは、自分でもビックリです)。

楽しく興味深い授業をしていただきありがとうございました。古賀先生のお話の内容をおうちでして、家族の意見を聞くのが楽しかったです。名前を褒めていただいたり、おいしいもののお話をしたりと、レビューの内容をサポートページで確認するのが毎週楽しみでした。卒業しても忘れないと思います。

この授業は本当に多角的な視点を身につけることができて、いつも鋭いツッコみをしてくれるので自分の視野の狭さと社会の構造、真理に気づくことができました。これから自分の身の回りの社会にもっと目を向けて、楽しみながら考えてアウトプットすることをつづけていこうと思いました。

 


開講にあたって

現代社会論は、附属高校ならではの多彩な選択科目のひとつであり、高大接続を意識して、高等学校段階での学びを一歩先に進め、大学でのより深い学びへとつなげることをめざす教育活動の一環として設定されています。この現代社会論(2016年度以降は2クラス編成)は、教科としては公民に属しますが、実際にはより広く、文系(人文・社会系)のほぼ全体を視野に入れつつ、小・中・高これまでの学びの成果をある対象へと焦点化するという、おそらくみなさんがあまり経験したことのない趣旨の科目です。したがって、公共、倫理、政治・経済はもちろんのこと、地理歴史科に属する各科目、そして国語、英語、芸術、家庭、保健体育、情報、理科あたりも視野に入れています。1年弱で到達できる範囲やレベルは限られていますけれども、担当者としては、一生学びつづけるうえでのスタート台くらいは提供したいなという気持ちでいます。教科や科目というのはあくまで学ぶ側や教える側の都合で設定した、暫定的かつ仮の区分にすぎません。つながりや広がりを面倒くさがらずに探究することで、文系の学びのおもしろさを体験してみてください。

当科目は毎年、内容・構成とサブタイトルを変えています。2024年度は探究するシヴィックス5.0としました。もちろん、いまいわれているSociety5.0を意識した副題で、過去何度か類似の副題を設定してきました。ここにある探究というのは、探求ではなく、あえてそのような文字を選んでいます。総合的な探究の時間や世界史探究など、文部科学省も好んで用いるのは「究」すなわち「きわめる」ほうです。英語の単語に直せばresearch。お気づきでしょうか、さがすという意味のsearchに、繰り返しの、再々のという接頭辞のre- がついています。何度も掘り込んで、どこまでも突きつめていくといったイメージで捉えましょう。公民や地理歴史などの社会系教科では、どのテーマであっても、いくらでも、どこまでも突きつめることができるのに、学習者はしばしば表面をなぞり、「正解」らしきものをつかまえて、そこで思考を停めてしまいます。なんなら試験の前に単語と意味を暗記して、答案用紙にはき出し、以降は内容ごと忘却するということに終始する人も少なくありません。「暗記が苦手だから社会系は嫌い」という人が、文系にも多いのは本当に残念です。この現代社会論Iでは、暗記はまったく必要ありません。むしろ、暗記なんて絶対にしないでくださいとお願いしたいほどです。でも、暗記不要の学びは、慣れるまでなかなか大変です。「試験前に覚えればいいや。いまは何もしないでおこう」という態度が許されないからです。その場ごとの思考と考察、その先の探究が不可欠です。慣れてくると、授業外で出会ったテーマに対してもその方法を当てはめて思考する習慣がつきます。希望としては、できるかぎり多くの受講生がそのレベルまで行ってほしいなと思っています。

「現代社会」に関する学びは、歴史のそれよりも役に立ちそうだ、と考えていないでしょうか? まあそうなのですけれども、しかし「いま、この瞬間」としての2024年は、10年経てば「むかしの話」になります。制度や法律が変わり、社会情勢が変わり、人々の価値観や行動様式も変わっていきます。いま、この瞬間に正解だったものが不正解になることも多いですし、それ以上に、いまこの瞬間に重要だとされているものが10年後には無用になるということだって大いにあります。歴史に比べると、現代社会は「足が速い」。だから、個別の知識を得ること(さらには暗記すること)には、さほどの値打ちはありません。数学や物理の公式、英語の文法などを思い出してください。それらは生きているあいだずっと有効で、数値や単語を入れ替えれば無数に展開できますよね。現代社会の学びも、そのようにありたい。そのための探究を、さあはじめましょう!

 

 

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