さすが計画都市だけあって、マンハイム中央駅前は広々とした空間に各方面へのトラムとバスの乗り場が整然と並んで機能的。欧州各都市でよく見るように、トラムとバスがプラットフォームを共有していて、系統番号も通しのため、利用しやすくなっています。私のようなマニアは別にして、利用者からすればお目当ての○系統が「電車」であろうと「バス」であろうと大差ないはずです。これでトロリーバスとか、ナンシーで見たような謎の1本レールなどが混在していればなおおもしろかろうね。銀行などが目立つのは駅前ならでは、野菜や果物などの露店が出ているのは欧州の駅前ならではで、無機質になりがちな計画都市に景観的なうるおいをもたらしてくれています。
12時30分ころ駅に着いて構内に進みます。今回は窓口に並んで切符を買うのではなく、自動券売機を試してみましょう。ハイデルベルクは隣町ですからね。東京など日本の都市部では、都市内や近隣との往来には自動券売機で切符を購入する(ないしICカードで乗る)と相場が決まっており、窓口発券は主に長距離ということなのですが、これだけ外国人が増えてくるとそうした見通しも変わってくることでしょう。われわれからすれば何でもないような切符購入でも、超複雑な路線図から希望の行き先を読み取り、鉄道会社の違いを把握し(「他社連絡」なんていう概念は日本以外では一般的ではない)、タッチパネルを操作し・・・
というのは想像以上に大変なプロセスなのです。パリのメトロ(地下鉄)は券売機の数が少なく、クレジットカードは使えるが紙幣を飲み込んでくれないなどの問題があるので、私は窓口での購入を好んでいましたが、ここ数年で大きな駅以外の窓口販売が廃止され、すべて券売機でという扱いになっています。紙幣を使えるところも増えてきたとはいえ、パリのサービスは世界最大の国際観光都市とは思えぬひどさ。で、欧州各地で券売機を試してみると、最近は使いやすくわかりやすいところが増えてきました。ドイツ鉄道(DB)の赤い券売機は何度か利用したことがあります。画面上のユニオンジャックをタップすると英語表示に切り替わります。ハイデルベルク・アルトシュタット(Heidelberg- Altstadt)までのシングル(片道)1枚をオーダーすると、名刺より少し小さな切符が発券されました。€5.60とあんがい高い。画面には直近の利用可能な便が表示されており、何と12時38分発とな。急いで地下通路を通り抜けて9番線に駆け上がると、ほどなくオスターブルケン(Osterburken)行きのSバーンが入線しました。
マンハイム中央駅
マンハイムとハイデルベルク(Heidelberg)は同一都市といってもよいくらい近接しており、所要およそ20分。ただその間には農地や牧草地が広がっていて、都市景観が連続しているわけではありません。昼過ぎなので列車内には老若男女がけっこう乗っています。13時ころハイデルベルク中央駅(Heidelberg Hbf)着。ただ今回はそこから2駅さらに進んで、アルトシュタット駅で下車することにしています。事前に調べたところ、ハイデルベルクの旧市街は中央駅から1.5〜3kmほど東に離れたところに位置しており、見どころの1つであるハイデルベルク城は旧市街東端のようなので、そのさらに東にあるアルトシュタット駅まで行ってから、西(中央駅)に向かって戻ってくるという計画なのです。DB線は市街地の南を主にトンネルで迂回して、東はずれのアルトシュタットで顔を出します。13時8分にアルトシュタット駅に到着。直訳すると「古い町」ということね。2面2線のローカル駅そのもので、たぶん無人駅。私のほか数名が下車しました。駅の北側は道路をはさんですぐにネッカー川(Der Neckar)の流れが見えます。対岸は崖状なので峡谷っぽいところに入り込んだ感じもあります。
ハイデルベルク・アルトシュタット駅
駅前にはキヨスク、バス停、シェアサイクルなどがあり、全部で10人ほどの影が見えます。ただ、あまりに静か。京都の南側、宇治川とか木津川の流域に行くとこんな感じの景観あったかもしれないなと思います。学校帰りの小学生2人がたわむれながら進む後ろを西に向かっててくてく。すぐにカール門(Karlstor)なるレンガ積みのゲートが見えました。由緒書きによれば、18世紀後半にプファルツ選帝侯カール・テオドールが建造を命じたものらしい。ハイデルベルクの市域を拡張してここに東端を設定、交易の充実を期したとあります。ハイデルベルクは選帝侯の居城を中心に中世後期から繁栄した都市ですが、プファルツ継承戦争(1688〜99年)でかなり破壊され、狭い範囲に完結した中世都市のままでは存立できなくなっていたのでしょう。
カール門
いい感じの静かな町を歩いていくと、山上にハイデルベルク城が
いま歩いているのはカール門をくぐってそのまま直進するハウプト通り(Hauptstraße)。これがこのまま東西に長いハイデルベルク旧市街のメインストリートになります。ハウプトは英語のcentralなのでまさに真ん中を歩いていくことになるのだけど、お城より東のほうは閑静な住宅街を通るごくごく普通の道。舗装が石畳ふうになっているのがおしゃれですね。おそらく自動車をネッカー川沿いの国道に走らせ、こちらの「中央通り」は歩行者向けというふうに分離しているに違いありません。300mくらい歩いたところで左側の崖の上を見ると、ハイデルベルク城が際立った存在感を示していました。正確には「城址」で、リアルな生活場面を高台から見下ろすように建っている廃城というのが不思議なコントラストです。その先にカール広場(Karlplatz)がありました。なるほどこの先(西側)のハウプト通りは商店街になっているらしい。ハウプト通りはさながらハイデルベルク城の「表参道」になっていて、カール広場がお城のエントランスを兼ねているというような位置関係です。私はあえて裏門側からやってきたわけです。
カール広場の北側にケーブルカー(Bergbahn 「登山鉄道」と表記)の駅が見えます。下からお城を見上げたかぎりでは、急斜面ではあっても無理なく登れそうな感じではありますが、乗り物好きとしては乗り物に乗っておきたいところ。窓口に少しだけ並んでチケットを購入すると、ケーブルカー往復とハイデルベルク城の入館料がセットで€7でした。お城の入口は実は「途中駅」で、ケーブルカー自体はさらにその先のケーニヒシュトゥール(Königstuhl)まで路線があります。そこに展望台がある由だけど、まあお城だけでよかろう。10分ほど待って乗り込みます。おお、ケーブルカーとはいってもトンネルの中を進む地下鉄なんですね。ごつごつした急斜面にケーブルカーの軌道を敷設しようとするとそういうことになりがちです。スペインのバルセロナ、モンジュイックの丘に登るのがやっぱり「地下ケー」でした。スマートな車両は家族連れなどでほぼ満員になっています。
2分ほどでシュロス(Schloss)駅に着き、私を含めて大半の乗客が下車しました。シュロスは英語に直訳すればpalaceで、ハイデルベルク城といっても正確には宮殿というわけです。宮殿というか廃城は目の前にありました。その手前(本来はお城の一隅)がちょっとした展望台のようになっているので、まずはそこからハイデルベルクの町を見渡すことにしましょう。
おおすばらしい眺め! このあたりはみな三角の赤褐色の屋根を白壁の建物に載せたスタイルになっているので、シックな感じで統一され、町が穏やかに見えます。ネッカー川左岸まではほんの少しの距離なので、旧市街はずいぶん幅狭のスペースに展開していることになりますね。ネッカー川は工業都市シュトゥットガルト付近から流れ下り、このハイデルベルク付近で平野部に出て、マンハイム市内でライン川に合流します。この付近は物流の拠点だったに違いなく、町の全貌を見渡せるこの高台に統治者が居を構えたのは当然のことでしょう。高台とはいっても高すぎないので、町との一体感もあったに違いありません。14時近くになっているので、カール広場に面したパン屋さんで買ったソーセージのサンドイッチで軽昼食。眺めがよいのでサンドイッチも美味く思えるねえ。西の方角、つまりマンハイム方面を見ると、はるか彼方に地平線をなしているのはラインシーファー山地(Rheinsches Schiefergeb)などルクセンブルクやベルギーとの国境をなす高地で、その手前には実に広々とした平原が広がっています。ドイツ経済の枢要部ですね。いまいるハイデルベルクが、ネッカー川が高地を削り込んで流れ、その平原に飛び込む寸前に位置しているということがよくわかります。
ハイデルベルク旧市街 写真中央の方形の空間がコルン広場 ネッカー川に架かるのがカール・テオドール橋
ハイデルベルクは選帝侯の城下町ですので、神聖ローマ帝国の中でもかなり自律的な立場を保障された都市でした。ドイツ地域で最古の高等教育機関であるハイデルベルク大学(Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)を中心とした学園都市でもあります。やたらに中央集権的なフランスと違って、分権的であるのを旨とするドイツの各都市についての知識は(不勉強ゆえに)あまりないのだけど、ハイデルベルクといえば大学がまず浮かぶというのは教育の専門家である私だけでもないでしょうね。
日本語の表記はありがたいけど、誰かちゃんと教えておいてくれないかな?(たぶんGoogle翻訳でやったな!)
幅狭の石堤で空堀を渡る昔ながらのアプローチをたどって城門から中へ。ヨロイカブトを身につけて斜面を登りお城を攻撃するというのはやっぱりやりたくないわな。火器の本格使用によって戦争の形態が大きく変わるのは日欧とも16世紀のことです。日本ではそのころ権力の象徴としての天守閣を平野に近いところに築くことが流行しましたが、欧州ではハイデルベルクのような山上の城郭は打ち捨てられ、平地の宮殿の文化へと移り変わりました(ハイデルベルクとマンハイムの位置関係を地図で見ればよくわかります)。したがって打ち捨てられたままの中世のお城を、こうして見学することができるわけです。がっしりとした石造りというのはさすがに丈夫ですね。壁面だけ残っているような箇所もあり、遺蹟感?は抜群。もっとも地震の多い日本列島では仮に石造りであったとしてもそのまま残存するのは難しいことでしょう。
城門を入ってすぐのところに方形の広場があり、宮殿(跡)はこれを取り囲んで建てられています。崖側を1フロアぶん降りたところに、往時の見張り台とおぼしき小さなステージがありました。ここからも町の様子がよく見えます。どちらかといえばシーズンオフなので観光客は多くないですが、この場所で写真を撮り合うなどわいわい。建物の一隅に、なぜかドイツ薬事博物館(Deutsches Apotheken- Museum)という施設があり、けっこう充実していました。先入観込みで申せば、ドイツは製薬に強いイメージがあります。地下にはカフェというか昔のビアホールみたいな飲食コーナーがあります。今回カウンターはスルーして、同じフロアに展示されているワインの大樽を見物。直径にして10mはありそうで、誰が何のために運び込んだものだかよくわかりません。こんなのサイズが大きければいいというわけでもないし、見せびらかして称えられるものでもなさそうですしね。
中世の城郭はさほどの広さでもないため2周しても1時間かからないほど。眺めも堪能したので早々に下山することにします。ケーブルカーの駅に戻ると、次の便まで10分くらいあるようなので、交通マニア恒例インフラの観察。ケーブルカーは2台の車両をいわばつるべのようなかたちで上下させます。このシュロス駅が、2台の行き違う中間地点になっている模様。日本のケーブルカーの多くは途中駅をもちませんので、文字どおりの中間地点にすれ違いポイントを設けるのだけど、下車できるようにするにはその「文字どおりの中間地点」にホームを造るか、上下対称の位置に複数の途中駅を設けるしかありません。強羅〜早雲山間を上下する箱根登山鉄道鋼索線には4つの途中駅があり、起終点を含めた6駅がすべて等間隔で配されています。想像するに、ハイデルベルクのケーブルカーは、お城にアプローチするシュロス駅の位置を最初に設定して、下の駅からの距離とちょうど同じだけ上側に行ったところに上の駅を設けたのではないかな。ホームが狭くて危険のためか、車両が到着する直前まで1つ上のフロアで待たされ、時間が来るとバーが開いてお進みくださいと。
下界?に戻って、あらためてハイデルベルクの町歩きを開始します。町歩きといってもいつものような面的な動きではなく、ハウプト通りをひたすらまっすぐ西に進むというもの。市庁舎(Rathaus)の重厚な建物と赤褐色の聖霊教会(Heiliggeist-
kirche)がつづきます。その先のハウプト通りは、シックな建物と石畳で統一された美しい散策ルート&ショッピングストリート。近年になって計画的に美観を整備したのに違いないですが、わざとらしさがなくて好感をもてます。ショップも、いわゆる門前町の土産物屋さんではなく日常生活に溶け込んだお店がほとんど。歩車分離で自動車の乗り入れが規制されているため、このメインストリートは歩行者専用なのもよいです。シビアなことを申しますと、観光を主たる産業にしようと思うのなら、新自由主義の逆を行く規制強化を図り、一般の商工業を犠牲にして町づくりをするしかありません。ハコモノやテーマパークを造るだけでは町そのものの魅力がなくなり、1回訪問で飽きられるだけでなく、昨今はSNSやランキングサイトなどを通じて「陳腐」という評価が固まってしまいます。
コルン広場
ハイデルベルクのメインストリート、ハウプト通り
ハウプト大通りの西端はビスマルク広場(Bismarckpratz)で、そこまで1.5kmほど歩行者専用のにぎやかな商店街がつづきます。その半ばほどにあったPerkeoというホテル兼営の古めかしいカフェに入って小休止。15時過ぎで、冬休みの旅行だとそろそろ暗くなるころだから先を急ぐでしょうが、春分が近い2月下旬はその心配が要りません。どういうわけか今回は身体のキレがよく、町を歩いても疲労やダメージが少ない。昨年夏の旅行ではけっこう膝ががくがくしていたのだけど、体重が減ったのかな? ビスマルク広場が近づくと道幅も広くなり、ファストファッションの大型店舗などおなじみのショップが増えました。中央駅からビスマルク広場に出て、そこから徐々に渋くなっていくハウプト通りを歩いてお城に向かうというのがスタンダードな観光ルートのはずで、どちらがよいかは好みの問題です。ネッカー川の対岸に渡って、哲学者の道(Philosophenweg)なる散策ルートを歩けば一周コースになります。ま、古い町並や古城が好きな人は私のような「ついで」の日帰りではなく、この町なかに宿をとってゆっくり歩くのがよいでしょうね。ドイツの観光当局が力を入れている○○街道という観光ルートのうち古城街道(Burgenstraße)というのがここを通ります。マンハイムを起点としてネッカー川をさかのぼるように進み、バイエルン州ニュルンベルクを経由してチェコのプラハまで。日本人ツーリストもドイツ観光といえば古城をという人が多いのではないかな。そのわりには町なかで同胞らしき人を見かけません。
ビスマルク広場はかなり大きな区画で、トラムとバスの停留所が系統ごとに数ヵ所設けられていました。どうやらここが新市街と旧市街の境界のようです。ここから中央駅まではさらに1.5kmくらい離れているのでトラムに乗りましょう。1回乗車なので車内でチケットを買えばいいかなと思ったら、マンハイムのと同じで車内発売はない模様。検札があるわけではないので無札で通してしまうこともできなくはないけれど、交通愛好家としてそれはしたくないので次の電停で下車しました。それでも1駅ぶん無賃乗車してしまっているわけですが、欧州のトラムは乗り継いでも同一運賃なのでそこは見逃してもらおう。あらためて電停を見ると自動券売機が設置してあります。1回乗車€1.30のチケットを求めると、おや、これはマンハイムのと同じ仕様だ。ホームに掲出されていた路線図を眺めて初めて気づいたのですが、マンハイムとハイデルベルクは一続きになっており、DBだけでなくトラムでも直結されているのね。経営は同じRNV(Rhein-Neckar-Verkehr GmbH ライン・ネッカー交通事業体)、マンハイム、ハイデルベルク、ルートヴィヒスハーフェンの公共交通を統括する企業とのことです。だったらマンハイムで購入した一日乗車券も有効だったのではないかな?(そうなのかどうかは知りません) あらかじめ決めたとおりにこのあと中央駅からDBでマンハイムに戻ったのだけど、あとから思えば、片道はこのトラムでことこと進んでもよかったかもしれない。広島〜宮島間を片道は広島電鉄のトラムでゆっくり進むような感じですかね。日本でもかつては隣町まで軌道線をつないでいる箇所がいくつもあったのですが、モータリゼーションその他の理由で、現在では広電のほか富山県の万葉線、高知のとさでん(旧土佐電気鉄道)、大阪の阪堺電軌くらいしかありません(江ノ電を含めるのは苦しいでしょう)。
ビスマルク広場電停
収容人員の多い連接車なのに乗客はかなりありご同慶。時代の要請だったかもしれないけれど、国際観光都市京都の市内交通の不便さを思うとき、市電を廃止してしまったのは返す返すも惜しいなあ。子どものころ1回だけ乗ったことがあり、八坂神社あたりの東大路の景観に路面電車がマッチしていた記憶があります。
ハイデルベルク中央駅は、旧市街の雰囲気とは裏腹に、ガラス張りのモダンな駅舎でした。15時40分ころ券売機でマンハイム行きの切符を購入すると、表示された次の便はまたまた直後の15時43分。しかもその次の55分発はICなので運賃が高く、この切符では乗車できません。跨線橋を渡って2a番線に急ぐと、Sバーンがすぐに入線しました。マンハイム、ルートヴィヒスハーフェンを経由してゲルマースハイム(Germersheim)が終点の路線。ゲルマースハイムはライン川を少しさかのぼったところにあります。支流筋のネッカー川沿いに下っていって、合流地点にあたるマンハイムから折り返して上流側に戻る逆V字ルートのようですね。席が埋まって多少の立ち客があるSバーンは、約20分でマンハイム中央駅に着きました。
ハイデルベルク中央駅
さあこれからマンハイムの町歩き。来たときに中央駅からホテルまでけっこうな距離を歩いたので町のサイズはだいたい体感しています。町のシンボルである給水塔まで10分くらいかかっていました。今回は一日乗車券をすでにもっているのでもちろんトラムを利用します。中心部に直行する系統がしばらく来ないようだったので、先ほどと逆ルートで、タッターサルまで1駅進み、そこで6系統に乗り継ぎました。ホテル最寄りのペスタロッチシューレと逆方向に乗れば、給水塔を左折して市内中心部に入ります。リンクを離れて目抜き通りのプランケン・ハイデルベルク通り(Planken- Heidelbergstraße)に入ると、車窓には見るからににぎやかな「中心部」の景観が映りました。ハイデルベルクで見たようないかにもの旧市街ではなく、モダンな建物が整然と並びファッションビルやファストフードなどが広い間口を開いている、現代風の町並です。どうやらこの付近の目抜き通りは一般車両の乗り入れを禁止して、歩行者とトラムだけが通れるようにしているらしく、歩行者天国を電車ですいーっと移動しているような気分になります。
市庁舎付近からプランケン・ハイデルベルク通りを望む 正面に給水塔
めあてがあるわけではないのでどこで降りてもよいのですが、しばらく進んで商店などが途切れたあたりの電停で下車してみました。マンハイム市役所/レイス博物館(Mannheim Rathaus / Reiß- Museum)という連立的な停留所名のとおり、市庁舎と博物館が向き合う場所です。いま電車で来た道をいったん歩いて戻ってみよう。マンハイム中心部のユニークな構造については、ツーリスト・インフォメーションでもらったシティ・マップの解説に語らせましょう。やたらに大きな数字が住所に現れる札幌と比べればかわいいものだけど、○○通りという道路名称で住居表示するのが一般的な欧州の都市としては非常に例外的かつ特徴的といえますね。
マンハイムの、チェス盤のような独特の中心部はブロック状に仕切られています。そのためこの町は「四角形の都市(Quadratestadt / City of Squares)」の別名をもっています。ブロックの列それぞれはAからUの順に名づけられています。宮殿の側から見ると、A列からK列が左側、L列からU列が右側に位置します。これに加えて個々のブロックには数字が振られています。したがって、道路名の代わりに、たとえばA2とかK5といった文字が付されているのに気づくことでしょう。各ブロックの住所は、宮殿に近い側が1番地で、A列からK列までは時計回り、L列からU列までは反時計回りに数字が大きくなります。(“Die Mannheimer Quadrate”)
リンク(環状道路)の内側が縦横に仕切られたマンハイムの市街地 ついつい「ボキャブラ天国」を思い出す・・・
この都市が建設されたのは1607年。プファルツ選帝侯フリードリヒ4世(Friedrich IV von der Pfalz)が「理想都市」をめざして造らせました。ライン川とネッカー川の合流地点で、ちょうど島のようなところだったので防衛上も商業上も優れた場所だったのでしょう。同じ時期に誕生したニューヨークのマンハッタン(ハドソン川とイースト川に囲まれた島)を想起させるものでもありました。と、市のサイトに書いてあります。400年でだいぶ差をつけられましたね。ドイツの17世紀初頭といえば宗教改革の真っ只中で、神聖ローマ帝国の実質的な崩壊を意味した三十年戦争(1618〜48年)の直前です。フリードリヒ4世はルター派ではなくカルヴァン派を信奉して、ネーデルラントなどに接近しました。ウィーンの皇帝との精神的な距離が開いていくということは、もともと経済的に交流の深かったフランスとのかかわりが大きくなるということであり、やがて野心的な太陽王ルイ14世がこの地域の接収をめざしてやってくることになります。
PART8につづく
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