出発時刻の15分くらい前にホームに出てみたら、すでにマインツ行きRBの車両が入線していました。ブルーの流線型の電車ですが、このタイプは初めて見たかもしれない。側面は真っ白。1両あたり片側にドアが1ヵ所だけ、センターにあるというのは他の車両でもしばしばみられます。網棚が狭くてキャリーバッグが乗りそうになかったのできょろきょろしていたら、同年齢くらいの紳士が「ここなら荷物を入れられますよ」と、固定式クロスシートが背中合わせになっている箇所を教えてくれました。サンキュー。ありがとうついでにこの列車はどちらに進みますかと方向を訊ねたら、それも教えてくれます。欧州の人は後ろ向きのまま走ることをそれほど嫌わないのですけれど、車窓を楽しむならやっぱり進行方向じゃないとねえ。
11時51分定刻に発車。初対面のカッコいい車両ですが加速性能もすばらしく、すーっと滑り出しました。たちまち森林ぽいところに突入します。大学生ふうのパンツスタイルの女性が斜め後ろの乗客に声をかけて何やら話し込んでいます。ちょっとした質問なのかと思ったものの話が延々つづいていて不思議。それが終わると今度は私のところに来て、込み入ったフレーズ(単文ではなく複文だったな 笑)を繰り出しました。――Sorry, I don’t speak your language. すると「ああ、そうなんですね。では結構です、よい旅を」と英語でいって、先ほどの親切な紳士のところに移動しました。あらかじめ用意したらしい問いを投げかけ、ヤーとかノインを引き出しているので、社会調査の宿題でも出ているのでしょうか。相手を選ばず、すべての乗客に声をかけているようです。検札に来た車掌とも普通にあいさつしてインタビューを続行していたので、そういう行為はダメではないらしい。へえ。
列車は軽快に走り、ノインキルヒェン(Neunkirchen)、オットヴァイラー(Ottoweiler)、ザンクト・ヴェンデル(Sankt Wendel)と停車。ザンクト・ヴェデルでは思いのほか下車と乗車がありました。このあたりまでが州都ザールブリュッケンの都市圏になるのかもしれません。メモに書きとめた停車駅をあとで地図と対照してみると、市町村の中心駅を選んで停まり、森や畑の中の駅は通過しています。Sバーンよりも上等なRBならではの走りですね。このあとしばらく通過がつづいて、12時31分ころトゥルキスミューレ(Türkismühle)に停車。ここはかなり山の中という雰囲気で、線路は雪に包まれています。車窓が白中心のモノトーンになりました。冬の欧州には毎度来ていますけれど平らな場所が多いので、こういう雪景色は久しぶりです。いいなあ。
12時36分ころノイブリュッケ(Neubrücke)着。この程度のドイツ語なら意味わかります。パリのポン・ヌフ(Pont Neuf)と同じで「新橋」ですよね。この駅の手前でザールラントとラインラント-プファルツ州(Rhinland- Pfalz)の境を越えました。いま向かっているマインツがラインラント-プファルツの州都です。そのあとイダー-オーバーシュタイン(Idar- Oberstein)、キルン(Kirn)、バート・ゾーベルンハイム(Bad Sobernheim)、バート・ミュンスター・アム・シュタイン(Bad Münster am Stein)、バート・クロイツナハ(Bad Kreuznach)と停車。だらだら停車駅を書きつらねているので、お時間のある方はグーグルマップか何かでトレースしてみてください。ナーエ川(Die Nahe)に忠実に沿って進んでいることがわかります。この川はザールラントとの州境付近に発し、ライン川をめざして流れ降りるもので、この地方では非常に大切な水路であったと推測できます。鉄道は水運に代わるものとして建設されたのでしょう。バート・クロイツナハはかなり大きな駅でした。その先でナーエ川と分かれ、ゲンジンゲン-ホルヴァイラー(Gensingen-
Horrweiler)に停まったあと、車窓は一気に「平原」に躍り出たような感じになります。列車が突然、大きなカーブを描いて走ったと思ったら、左から来る線路と合流しました。ライン左岸をコブレンツ、ケルン方面に向かう「本線」に違いありません。2010年2月にフランクフルトからボンにICEで向かった際にこの路線を通っていますが、名高いライン下りの鉄道版みたいなすばらしい眺望で、とても感動しました。いま走っている付近の既視感はありませんが通ったことのある区間には何となく親しみを覚えます。次の停車駅インゲルハイム・アム・ライン(Ingelheim am Rhein)には「ライン川沿いの」という冠がつきました。ここはライン左岸ですが、ラインラント・プファルツ州はここまでで、対岸はフランクフルトを擁するヘッセン州(Hessen)です。13時59分、マインツ中央駅(Mainz Hbf)に到着。峠越えを含む2時間の移動で、これぞ鉄道旅行という風情を楽しめました。
マインツ中央駅
ラインラント・プファルツの州都マインツ(Mainz)は、あとで触れるようにドイツ最大の宗教都市として発達した古い町です。日本人になじみがあるとすれば、ブンデスリーガのマインツに昨年まで岡崎慎司が、最近では武藤嘉紀が所属していて都市名ならぬチーム名が報道される機会が増えてきたことによるのでしょう。サッカーのことはまったくわからんですが、いわゆる国民性とか行動様式の点において、日本人がなじみやすいのは英仏よりも(ましてイタリアよりも)ドイツだというのはたぶんそうだと思う。私も、客観的な研究対象としてフランスを選択しているものの、居心地のよさではドイツが数段優るような気がしています。
中央駅は橋上コンコースをもつ現代的な内装でした。東京ではおなじみの橋上コンコースも欧州の大きな駅ではあまり見かけません。せっかく地平面に線路があるのなら1番ホームにノーステップで入れるようにしたいということでしょうか。エスカレータで駅正面に出てくると、こちらは重厚なネオ・ルネサンス様式。またまた門司港を思い出します。駅前にはトラムやバスも行き来していてさっそくそそられるのだけど、まずはチェックイン。前日予約したホテル・ケーニヒスホフ(Hotel Königshof)は駅前広場に面した本当の駅前ホテルで、距離的には津田沼駅・千葉工大間よりもはるかに近い。喩えが一般的でなくてすみません。探すまでもなく目の前の建物にたやすくアクセスし、レセプションで名乗ると1階(日本式でいう2階)の部屋を指示されました。外観といい内装といいちょっとくたびれた感じは否めないけれど、ずいぶん天井が高い部屋で、広々としています。水まわりも清潔で立派。何より、広い窓から駅と駅前の様子がばっちり見えるのが萌えます。Königはキングのことなので、ホテル名は「王たちの館」ということかな?
ホテル・ケーニヒスホフ
駅前だけ見た感じでも、ザールブリュッケンより一回りかそれ以上大きな都市であることがうかがえます。駅前広場が手狭で窮屈な様子は、首都圏の私鉄主要駅みたいにも見える。レセプションで応対してくれた上品なマダムは、マインツは初めてですかと訊ね、シティ・マップを出して「歩き方」を指南してくれました。トラムの走る道路を道なりに進むとシラー広場(Schillerplatz)に出るので、そこを左折して進むと、大聖堂などオールド・タウンの中心になりますとのこと。その助言がなくても歩いて中心市街地に向かうつもりでしたが、どこかでトラムに乗りたいし、切符の購入方法がわからずにまごまごするのは嫌なので、中央駅前にいるうちに一日乗車券を買ってしまおう。プラットフォームに設置された券売機を英語画面にして操作し、Tageskarte Erwachsene(おとな用一日乗車券)を入手。€6.60で、通常運賃が€1.40だから元を取るには5回乗らなくてはならず、そんなに使うかなあ。まあお守り代わりですね。ホーム上の券売機が普通に紙幣を飲み込むのは立派です。コインとクレジットカードの二者択一というツーリスト泣かせの設定ばかりだったパリやフランスもこのところは五輪招致をにらんでか改善が進んでいて、€20までの紙幣なら使えるところが多くなりました。こういうのはグローバル水準に合わせたほうがその町の実入りも増えるというものです。
(左)中央駅前電停に停車中のトラム (右)市内交通の一日乗車券
中央駅を背に、教えられたとおり線路の敷かれた道を東に歩きます。中心街と駅が離れている場合、駅周辺はホテル、銀行、オフィスなどが機能的に集中する地区になりやすく、ここもそんな感じ。それと最近はケバブ屋さんが駅周辺でよく見られるようになりました。移民が集まりやすいということのほかに、駅の界隈では本式のレストランではなくちゃちゃっと手軽に済ませられる軽食のニーズが大きいということなのでしょう。トラムはけっこうな頻度で走っており、それ以上にバスが往来しています。もらったシティ・マップ、「地球の歩き方」ともにトラムの線路が描き込まれていないのは遺憾。電停には路線図が掲げられているものの、一般の「地図」との整合関係がわからなければ利用しにくいですよね。ま、東京もたいていそうか〜。
シラー広場 トラムとバスが停留所を共有して相互に乗り換えられるようになっている
15分くらい歩いたところでシラー広場に着きました。広場というより、そこだけ石畳風の歩道部分が少し幅広になっているというくらいのものですが、どうやらここが旧市街の入口で、トラムはそちらへは入らないためバス路線との結節点になっているらしい。広場の中央には固有名詞の由来になっているフリードリヒ・フォン・シラー(F. von Schiller)の銅像がありました。これくらいの超VIPになると、おそらくドイツ全土を飛び越えて欧州各地の固有名詞にその名を冠しているものと思われますが、マインツとの関係は不明。ベートーヴェンの第9交響曲第4楽章「歓喜の歌」(An die Freude)はこのシラーの作で、「国歌」に相当する「欧州連合(EU)の歌」に認定されています。ドイツの作品ではなく、欧州のそれとして共有されるということね。
ここから直角に折れて、ルートヴィヒ通り(Ludwigsstraße)を進みます。ラインラント・プファルツを含む3州の州議会議員選挙が近づいているため、かなりの電柱が政党や候補者のポスターに占拠されていますね。もう争点というのは誰が見ても明確で、難民(Flüchtlinge)を受け入れるかどうか、その受け入れ方をどの程度にするのかといったこと。ドイツは、経済大国にしてEUのリーダー国であり、どこよりも率先して人道的な難民受け入れをおこなう立場を表明しており、ナチスがやらかした件の責任をいまなおそういうかたちで負わされている面があります。「何でうちばっかり」という思いはあるものの、しかし表向きはそのような国家的態度をとることで尊敬されたいという人が多いようです。が、シリア情勢がますます泥沼化して難民の流入に歯止めがかからないこと、連邦政府のメルケル首相が新たな手を打てないでいること、ケルンで難民によるレイプ事件が起こっていること、さらには11月にパリで自称イスラム国の影響を受けた者らによる凄惨な同時多発テロが起こったことなど、「もう限界」と思わせるような事態が進行中。よその国のことながら、こういう場合の選挙ってどうなるんだろうなあと大変気になります。(その後3月13日におこなわれた選挙では、同州の政権党であった社会民主党がひきつづき第1党を維持したものの、右派の「ドイツのための選択肢」Alternative für
Deutschlandが一挙に躍進して第3党になりました)
グーテンベルク広場
2ブロックほど進むとグーテンベルク広場(Gutenbergplatz)。印刷革命を起こしたグーテンベルクはこのマインツの出身で、一時期シュトラスブルク(現フランスのストラスブール)で活躍し、晩年を再びマインツで過ごしました。彼の活版印刷は「グーテンベルク版」と呼ばれる聖書を手がけたことで権威化されたわけですが、ここマインツがドイツにおけるカトリックの中心都市であったことが大きく作用していたものと思われます。広場の周辺には、カールシュタットなどのデパートやチェーンストア、マクドナルド、各種インビスなどが並んでいます。大聖堂も見えていて旧市街の一隅ではあるのでしょうが、非常に現代的な造りになっていますね。路線バス以外の自動車の乗り入れが規制されているようなので、欧州の各都市でみられるような歩行者優先のシティ・センターづくりが近年になっておこなわれたのでしょう。
マインツ観光のメインは何といっても大聖堂(Mainzer Dom)なので、そこに近づいてみると、大きすぎる建物の周囲をモダンな低層建築が囲んでいるため、どうも入口がよくわかりません。まあ町の様子を眺めるということでもあるし周囲を一周してみようかなと南側に入り込んでみたら、ますます教会から遠ざかってしまいました。地図を見ながら歩くのも何なので、もう流れに任せます。入り込んだのはアウグスティン通り(Augustinerstraße)という商店街で、小さなお店が並んでおり、人もたくさん歩いていてにぎやか。景観はとてもおもしろいのですが、このままだと大聖堂からますます離れそうなので、シティ・マップを取り出し、方向を修正。いま歩いてきたところにも小さな寺院がいくつかあり、長野の善光寺周辺みたいな門前町独特の感じはあります。
マインツの旧市街
いったんライン通り(Rhienestraße)という幹線道路に出て、北側から大聖堂に向かうことにしました。さすが自動車大国、旧市街への乗り入れは規制されていますが、幹線道路ではかなりのスピードでばんばん走っています。おもしろいことに、門前町とか旧市街らしい部分はほんのわずかで、1ブロック外側のこの付近は東京の郊外とほとんど変わらない住宅地の景観です。数分歩くと、あらためて大聖堂の尖塔が見えてきました。どうやらこちら側が正面、表参道のようですけれども、ファサード(切妻)というようなお顔でもなく、現在ではそこから入場できるわけでもないので、前後左右がわかりにくくなっているのね。ものの本にはロマネスク様式の教会建築の典型として紹介されています。
先ほど、低層建築に囲まれて入口がわからんと思って迂回したほんの少し先に、入口がありました。地味すぎてわからん(笑)。聖檀に向かって右の身廊部分から入るようになっています。時間が中途半端なせいか、参拝の人も観光客もほとんどなく、静かというかひっそりしすぎているというべきか。この大聖堂は、先代が火事で失われたあと11〜12世紀にあらためて建てられたもので、そのころがロマネスク様式の全盛期でした。のちゴシック的なトッピングも施されたようです。工業大学の先生にしてはそのへんの知識が素人同然で恐縮なのですが、ロマネスクは円的、ゴシックは直線的なイメージで、修道院建築にロマネスクが多いといわれますね。このような古い建物を維持するのはなかなか大変だと思いますが、非常にきれいに整えられています。
マインツ大聖堂
ドイツが、われわれがよく知る「国」としてのドイツになったのは19世紀後半のことで、神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich)という中世的な普遍帝国の尾っぽをひきずったため、国民国家化がかなり遅れたのでした。世界史を勉強する高校生がほぼ必ず混乱するのは、神聖ローマ帝国とはいかなる国なのかという点。それに対しては、現在の社会や国家を見るやり方を捨てて、そういうものだと思いなさいとしか助言できません。原理的には、ローマ教皇の権威のもとに古代ローマ皇帝の地位を受け継ぐ地上の支配者としての皇帝があり、したがってその領域といったものもきわめて抽象的なものでした。実際には歴代の東フランク王→ドイツ王が、教皇に認められて皇帝を称したものです。当初はいくつかの家系で引き回された帝位ですが、12〜14世紀を通して有力諸侯により選出される慣わしが定着し、1356年に皇帝カール4世の「金印勅書」(bulla aurea)によって明確に制度化されました。このとき皇帝選出権を認められたのは、聖界からマインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3者、俗界からボヘミア王、ザクセン公、ライン・プファルツ伯、ブランデンブルク辺境伯の4者でした。勅書を出したカール4世自身はボヘミア王で、この地位はのちにハプスブルク家に世襲され、事実上同家が帝位を独占することになったのですが、形式的には「選帝」手続きが毎度とられていたのです。マインツ大司教座はもともとアルプス以北のゲルマン人たちへの布教を本格化する目的で設定され、8世紀にはドイツ地域におけるカトリック最大の権威となっています。このため金印勅書では7選帝侯の筆頭に置かれ、実態はともかく権威としては最高の地位を得たことになります。マインツが選ばれたのはライン川を介した交通の要衝だったという理由が大きかったのだと思われます。
国家主権という近代的な概念が現れた17世紀以降に形骸化した神聖ローマ帝国は、1806年、ナポレオンの大陸支配の下で建前上も消滅します。マインツはそれに先立つ1802年に大司教座の地位を失いました。もう宗教が現実の政治的場面をどうこうすることができない時代に入っていました。逆に考えると、ずいぶん長いこと宗教都市(附属の領地も広いので実質的には宗教国家)としての地位を保っていたのだと感心することもできます。ナポレオン帝国の一時期、マインツを含むライン左岸はフランスに編入されました。マインツは、フランス語ではマイヤンス(Mayence)と呼ばれます。一昨日からずっと、元ドイツのフランスとか元フランスのドイツとか、もっと複雑なもろもろの地域を歩いています。世界史を学ぶ高校生には受験のためにクリアしなければならないノルマがあるので努力が求められるけれど、そういうノルマとかタスクの稀薄な大学生は、地域の複雑な経緯や来歴を前にしばしば思考停止してしまいます。「現在の日本」を基準に世界を考えてどうする。そして、そうした多様で複雑な実態の観察が、ひるがえって「わが国」内部の繊細な多様性や複雑性に気づくきっかけにもなるんだよ。
ライン川の上流側を望む
もう一度ライン通りのほうに戻り、そこを渡り越して1ブロック進むと、ライン川の左岸に出ます。西欧最大の河川ですのでその流れにはこれまで何度も接してきました。最後に出会ったのは1年半前、スイスのバーゼルでした。バーゼルでは建物の密集した市街地のあいだを窮屈そうに流れていましたが、このあたりでは川幅も広く、ゆったりと、悠然とした姿を見せています。ここからほんの少しだけ上流に進んだところにマイン川との合流地点があり、そこを「左折」すると、年末に訪れたフランクフルト・アム・マイン。これだけ大きな河川だと、何かの境目になるというのが自然なことに思えます。対岸のヴィスバーデン(Wiesbaden)はヘッセン州(Hessen)の州都になっており、いわば「外国」。マインツとは一種の双子都市をなしています。フランスの歴代政権が自然国境説なるものを持ち出す際には、たいていこのライン川までは本来フランスの領域だという主張になりました。さすがにこの向こう側までフランスだと言い張ることはできなかったのね。10年前、この西欧あちらこちらの第1シリーズではケルンを訪れており、そこで初めてライン川を見て妙に感激したことを憶えています。
PART6につづく
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