La tour de l’Allemagne 2012

2012 Winter

 PART4 ベルリン その3


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東ベルリンの目抜き通りといえばウンター・デン・リンゲンであるわけですが、商業地という意味ではこれと直交して南北に走るフリードリヒ通りFriedrichstrae)が代表的です。ちょこっと寄り道してみましょう。2つの道路が交差する付近には囲いがしてあってクレーンや重機が勢ぞろい。先ほどからこの一帯はどことも工事中に見えます。思うに、旧「東ドイツ」時代のインフラが更新の時期を迎えて、一挙にやってしまっているのでしょう。ウンター・デン・リンゲンの下にUバーン(U5)を通す工事のようで、それならぜひやったほうがいいですよね。メインストリートというわりには交通の便がよいとはいいにくく、とくに新しいターミナル駅(ベルリン中央駅)との連絡がよろしくありません。景観がよくないのはUバーンが開通するまでの辛抱ということです。

 Uバーン(地下鉄)工事中のウンター・デン・リンゲン
 
フリードリヒ通りのギャルリー・ラファイエット 吹き抜けの感じはフランスの各店と同じながらエッフェル塔というのが妙に笑える・・・


まだ朝の10時台ですので買い物客などもさほどいないのですが、フリードリヒ通りにはファッションビルやデパート、有名ブランドの路面店などが林立していてにぎやかな様子。資本主義っていいなあ(まじで)。おや、ギャルリー・ラファイエット(Galeries Lafayette)があるぞ。パリのオペラ座裏に本拠をもちフランス各都市に展開するデパートで、東ベルリンにも進出しているんですね。本店と比べては気の毒なスケールながら、独特の上品さと動線配置の上手さは共通しています。いろいろ買い物してみたいところではありますが、まだ旅程の半分も行っていないので荷物は増やしたくない。例によって見るだけショッピングね。

ウンター・デン・リンゲンに戻ってさらに西に進むと、観光客めあてのお土産屋さんがいくつも現れました。この種のものにはまったく関心がなく、外からウィンドウを眺めるにとどめます。マグカップとかトートバッグとかキーホルダーとか、観光地のお土産ってかわりばえしませんな。でも、この1ヵ月くらい前に来日したフランス人の学者を東京見物にご案内した折、どうしても買いたいものが2つあるとおっしゃって、「日本のお米」というのはまあわかるにしても、I LOVE TOKYO(ラブはハート、東京は漢字)と書かれたTシャツがほしいというのにはちょっとびっくりしました。まあたいていの場所で入手可能ではありますが、ハイセンスと(ネーション偏見込みで)信じるフランス人がそこまでこだわるものかなあ。で、原宿竹下通りのお店でめでたくゲットできたわけだけど、自分にぴったりのサイズはLなのかMなのか何度も何度も当ててみて長考しておられました。え、ご自分用なんですか!(竹下通りにはハイセンスなTシャツなんぼでもあるんだけどなあ)

 公衆トイレ


そうして、前夕いらいのブランデンブルク門までやってきたわけですが、そろそろどこかでお手洗いを借りようかなと思っていたら歩道上に公衆トイレが。ずいぶん立派な造りで、1€0.5020分間使用できますと、ドイツ語、英語、フランス語、トルコ語の説明書きがありました。入ってみるとかなり清潔で、よくメンテナンスされているなという印象。パリの町なかにもあちこちにトイレボックスがあり、数年前に無料化されたものの、まあお世辞にもきれいとはいえないのでよほど他にないとき以外は使いたくありません(それなら€1くらいチップを払ってカフェのを使わせてもらいます)。単純なことだけど、こういう印象って大切だと思うんですよね。観光客を呼び込もうとすればとくに。世界的観光都市であるパリは、ホスピタリティっていう概念をどこかで勉強したほうがいいな本当に。

 
ブランデンブルク門 (左)旧東ベルリン側 (右)旧西ベルリン側


さすがに日昼ですから門の周辺には世界各地からとおぼしき観光客がたくさん集まってきています。昨日は閉店していた門横のインフォメーションに行ってみると、ホテルやツアーなどの手配をしてくれるいわゆるツーリスト・インフォメーションと、お土産屋さんが同居するスペースでした。壁の残骸を記念品として1€5で売っていたので数個購入。これを観光化・商品化してよいのかどうかはよくわかりませんが。

ことの発端はハンガリーでした。東側諸国(社会主義陣営)の中ではいちばん社会主義離れが早そうだなというのは衆目の一致するところでした。かつて民主化を試みた際にはソ連に軍事介入され圧殺されましたが(1956年)、そもそも東側諸国に民主化とか自主化といったムードを醸成したのがソ連のゴルバチョフ書記長だったわけですし、1985年ジュネーヴ会談いらいの東西融和の潮流の中でもはや親分が強引に締めつけるわけにもいかなくなっていました。ハンガリー当局はまず自国民に対してオーストリアとの国境を通行できるようにしました。すると、これに期待感をもった「東ドイツ」市民が友国であるハンガリーに押し寄せ、ここ経由で西側に脱出しようと試みます。これは法的には無理な相談でした。が、19898月のある日、オーストリアとの国境に面したハンガリーのショプロンで、ピクニックと称して結集した1000人ほどの「東ドイツ」市民が国境越えに成功します(汎欧ピクニック事件)。西側の手引きと、ハンガリー当局の黙認が背景にありました。この事実が明らかになると、さらに多くの「東ドイツ」市民の脱出がはじまります。最高権力者ホーネッカーは事態を掌握できていないにもかかわらず、旧来の強権的な手法で臨めばよいのだという確信めいたものをもっていたようですが(この妙な傾向は独裁政権の末期に多くの類例があります)、頼みにしていたゴルバチョフに「ソ連も改革(ペレストロイカ)しているのだから東ドイツも変わったらどうか」と諭されるに及んで、ついに党の内部でも見捨てられ、失脚に追い込まれました(1018日)。こうして119日、「東ドイツ」当局が即時の国境開放をテレビで告げることになります。本当はミスリリースだったらしいのですが、大々的に出てしまった以上どうにも止まりません。東ベルリンの人たちは壁に殺到し、ゲートの開放を強く迫りました。東のテレビ放送を受信できる西ベルリンの市民たちも、壁の周辺に集まってきました。世界のメディアが注視している中で武力弾圧することはもはやできません(この年6月の天安門事件が教訓になっていたと思われます)。ついに国境警備隊は持ち場を放棄し、ゲートは開放されました。長く断絶の場だったブランデンブルク門周辺は、再会・邂逅の場となって、東西市民の心からの歓喜がつづきました。

 
 ブランデンブルク門の西側 歩道がゆるやかな円弧を描いている部分に「壁」があった


と、いま一応はものの本などで日付などの事実を確認しながら壁崩壊の経緯をたどってみましたが、裏話的なことをのぞけば、同時進行的に知っていたことばかりです。オチがわかってからいうのと違い、1989年の当時は、日々刻々変わる情勢を「次はどうなるのか」とはらはらしながら注目していたのです。私だけでなく、世界中が、メディアを通じて、ほぼリアルタイムで。壁崩壊が11923時ころで、日本時間だと10日未明ですから、たしか朝のニュースでこれを知って驚愕した記憶があります。ハンガリーの動きあたりから、何かが動く、近く何かがあるとは思っていました。しかし、あの巨大で堅牢な「壁」が一夜にして乗り越えられるなんて誰が予想したでしょうか。「東欧」といってもいろいろあります。しかし、いわゆる象徴であったベルリンの壁が崩壊したのを機に、あとはなだれを打つように社会主義政権、共産党一党支配が崩されていきます。壁崩壊の翌日にはブルガリアで、1週間後にはチェコスロヴァキアで民主化政変が発生、この年の暮れになって頑迷に独裁政権を固持していたルーマニアのチャウシェスクが銃殺された姿を世界中のテレビにさらして、いったん収束しました。日本国内がバブルといううたかたの夢に沸いていたころ、欧州はそのようになっておりました。1991年にはバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)が苦闘の末にソ連から独立、同年8月にはソ連で保守派(社会主義固守派)によるクーデタ未遂が発生して、これをテコにロシアのエリツィンが主導権を獲得し、一連の民主化に火をつけた功労者であるゴルバチョフを、「ソ連」もろとも歴史の彼方へと消し去っていくことになります。肝心のドイツはといえば、「東ドイツ」政府がねらった対等な東西合併は果たせず、「西ドイツ」ことドイツ連邦共和国に5州が編入されるというかたちで、199010月に悲願の再統一となりました。

ニュースを見るたびに、新聞を開くたびに目の前で歴史が動いていくものすごさに圧倒されてしまった20歳の私は、まだ本格的にはじめてもいなかった歴史学の勉強をあきらめて、創造を旨となす(はずの)教育学への転向を早くも決めてしまいました。

 壁跡のモニュメント


往年の「壁」は、ブランデンブルク門の西側を回って、シュプレー川に沿って北へ伸びていたようです。何も壁跡に固執するつもりはないけれど、中央駅で明日の切符の手配をしたいから、そちらへ向かって歩いていくことにします。晴れてきてよかった(ホワイトクリスマスでもよかったけどね)。


左(左岸側)がライヒスターク(Reichestag 旧帝国議事堂) 右が連邦議会事務棟(あえて両岸に渡っている) 右岸側に「壁」があった


このあたりでシュプレー川が西向きからいったん北向きに流れを変えています。この川はそのままティーアガルテンの北辺に沿って西南西に流れます。川沿いの遊歩道は散歩する人もまばらで、白鳥さんがのびやかに泳いでいるくらい。右岸の旧東ベルリン側は、やっぱりあちこちで何かの工事中です。数分歩くと、更地みたいなところに突如として巨大なガラス張りの建物が見えてきました。これが昨日ICEで着いたベルリン中央駅。前述のように、東西に分かれていたターミナルを一本化するために造られ2006年に開業したばかりで、一帯はまだ造成中というか開発途上なのでしょう。それにしてもこの駅はなかなかよくできていますよ。これまで西欧のあちらこちらのターミナルを見て、実際に利用してきましたし、日本国内についても主だったところはだいたい知っていますけれど、規模と機能性をマッチさせているという点では相当に高得点でしょう。フランクフルトやハンブルクなど西からの列車、ポーランドなど東からの列車が入るのは最上階。南北方向の列車は地階のホームに着きます。Sバーンは両方に。いずれも西欧に多い行き止まり式でなくスルー構造なので、発着が込み合っても無駄な時間をかけずに済みそうです。切符売り場、飲食店、各種ショップなどはそのあいだの階にかなり入っています。何よりびっくりするのが、地階から最上階までが完全な吹き抜け構造になっているところ。したがって、地階を走る列車の姿が上からも丸見えなのです! 東京駅の地下ホームを思い出してください。何ですかあの陰気な感じは。仮にも成田エクスプレスが発着するところなんだからなぜもっと明るく華やかにできないのかなあ。吹き抜け構造にはそういう意味での開放感と明るさがあっていいですね。

吹き抜けは南北方向になっているので地階ホームと同じ向き。これに対して最上階のDB線およびSバーンは空中でこれを横切っている感じになり、小倉駅のコンコースを北九州モノレールが突っ切るような絵ですが、こちらはかなり大規模です。

  ベルリン中央駅
  


ところで、翌25日以降の行程をまだ決めかねています。日本で手配したのはベルリン2泊まで。あとは成り行きまかせの現地仕立てにしていました。少なくとも明日の行き先くらいは決めておかないといけませんね。決まっているのは帰国前夜の28日(金)にまたフランクフルトのあの宿に戻ることだけ。中3泊ぶんがフリーです。で、目下の悩みどころはプラハに行くかどうかでした。地図上で見ると周回ルートにうまくはまっているのだけど、鉄道時刻表で調べると時間的な距離がありすぎます。逆にいえばドイツ国内のICE効果がありすぎるということでしょう。ICEとかTGVなどの高速特急が登場する前の欧州は、電気機関車の引くEC(ユーロシティ 国際急行列車)がけっこうのんびり走っているのが常態でした。現在のチェコを「東欧」と呼ぶのはどうかと思いますが、かつての東側という意味で西欧にはまだ及んでいない点があるということですね。

プラハに行くとなれば明後日です。どうしようかな。両にらみのつもりで、25日の宿泊地をドレスデンではなくやや南西に向いたライプツィヒにしよう。ライプツィヒからプラハに入るにはドレスデン経由になるのですが、オシャレな雑誌なんかでドレスデンが賞揚されているので何だか気乗りしなかったのと、子どものころに何かの本で読んだライプツィヒの印象が強かったからです。私、コテコテの「観光地」って好きじゃないんですよね。とかいいながらパリにはしょっちゅう行くし、プラハに行こうかどうか迷っているわけなのでいい加減な話だけど。

 


巨大なターミナル駅にいることだし、まずは昼食。フランスの駅だときちんとしたレストランも入るのが普通ですが、これまでの経験では、ドイツやベネルクスだと軽食とかファストフードばかりというところがほとんどですね。ここもだいたいそう。ドイツらしくケバブ(ドイツではトルコ語式にKebapと綴る)屋さんがありました。もとよりケバブの種類もドイツ語もわからんので、写真メニューを指さしてSac BurgerMenü(セット)€6.00なるものを注文。パリに行きはじめたころ、Sandwich grec(ギリシア式サンドイッチ フランスではそう呼ぶ)というのがめずらしく、手軽で美味いので何度も食していました。2006年に初めてドイツに来たときにはケルン中央駅構内のケバブ屋さんで食べていますね。ほとんど記憶にはないけどここに書いてある(笑)。東京にケバブ屋さんが出はじめたのはそのころじゃなかったかしら。いまではたいていの繁華街にあるし、お祭りの屋台にもありますもんね。店員の男性はやはり中東系らしく、独特のアクセントの英語で「チリソースかける? カライヨ」とか何とか。いやいやお任せいたします。セットの飲み物が小さな缶コーラというのがちゃちくていい! 供されたケバブは、肉のほかにキュウリ、タマネギ、パプリカ、千切りキャベツが例によってわんさか入り、何をどうしてどこから食べてよいやらわからないほど。地元のお客さんはフォークでほじって食べているのでそれに倣ってやや上品に。美味いは美味いけれど、終盤になるとさすがに飽きてきました。そして、チリソース効果で汗がだらだら。

 ベルリン中央駅のチケットコーナー


明日ライプツィヒに行くことは決めたので、切符を手配しよう。前日、おねえさんのアシストを得てウェルカムカードを購入したチケットコーナーの、今度はカウンターに向かいます。待ち客はなくすぐに中年女性が座るカウンターに通れました。いつも思うことに、フランス国鉄SNCFのチケットコーナーはムショの面会所みたいなアクリル板で隔絶されているのが気に入りません。DBJRのみどりの窓口(一部例外はあるが)と同じようにオープンで明るい。自分の英語力はさほど低いとは思っていないのですが、手続き的なことで間違いがあってはいけないので、日付・列車番号・出発時刻を書いたメモを見せて、ライプツィヒまで1名、2等でと頼みました。もちろんたちどころに了解され、発券。指定料金€4込みで€50ちょうどでした。事前のネット予約と違ってどうしても割高になりますけど、それは承知でノープラン旅行にしています。€50紙幣1枚で決済しました。「では明日はよい旅を。メリークリスマス」だって。サンキュー。

Sバーンに乗ってサヴィニープラッツ駅からホテルに戻り、いったん小休止。ふと考えました。もしプラハに行くとすると、ホテルなんかは現地で確保できるんだろうか。何だかんだいって「西欧」とは違うしくみだとすると、いつもみたいにツーリスト・インフォメーションを探し当てて手配するのにも難儀するのではないか。プラハはけっこうな大都市なので、キャリーバッグを転がしながら旧市街あたりにありそうな(知らんけど)インフォメーションをめざすのもしんどそうだぞ。ホテル0階のインターネットコーナーに行ってみると、前客の「やり残し」が10分くらい残っていました。しめしめ。時間的余裕がないので11つのホテル情報を当たることができず、やむなく前から知っている英語のホテル紹介サイトを開き、スコアとリアクションがよくてお値打ちのところを探します。すると、1泊朝食つき€70で最後の1室!というのがあり、前後の中では最も好条件。プラハのホテルでもユーロ建てなんかいなといぶかりつつ、個人情報を書き込んで送信しました。すぐに私のアカウントにメールが届き、ブッキング完了とのこと。プリンタが使えないため大急ぎでホテル名と住所と予約番号を書き写したところでネットがタイムアウトになりました。危ない危ない。唯一気になるのはプラハ本駅からかなり距離がある感じだったことですが、まあ何とかなるでしょう。あれ、いつのまにか「プラハに行く」ことになっていましたね。その場の勢いというやつです。

 ツォー駅前のカリーヴルスト屋さん
 
バス100系統の2階最前部に座って、ティーアガルテンを横断 正面の戦勝記念柱はヒトラーがこの地に移設したもの


小休止中に日本のガイドブックを斜め読みしていたら、ツォー駅前から出る100系統のバスはベルリンの中心部を横断するので見どころ満載という耳寄りな情報が載っていました。よっしゃ、ベルリンの仕上げに、3度目の東ベルリンへ行こう。読者の中には、ベルリンで23日のゆとりがあるならどうして隣接するポツダム(ポツダム宣言、サン・スーシ宮殿などで有名)に行かないのと思う向きもあることでしょう。行くつもりはあったのですが、着いたときが雪で、こりゃなかなか動けないだろうなと思ってしまったため、チケットを購入する際に「ポツダムには行きません、ベルリン市内で」と頼んでしまったのでした。ポツダムはゾーンが1つ外になるのでウェルカムカードも割高になるんですね。あとから思えばもったいなかったですが、ベルリンにはまた来るはずなので、その折にでも。で、さっそくツォー駅、ツォーローギッシャー・ガルテン駅へ行ってみると、100系統のダブルデッカーがまさに到着したところでした。2階に上がり最前列に着座。観光ツアーバスではないので通常のチケットで乗れるのです。バスは、広大なティーアガルテンに南側から突っ込み、森の中央に位置する戦勝記念柱(Siegessäule)で東に向きを変え、森の小径といった感じのところを走ります。こんな森の中で乗降する客など基本的にいるはずがないので、まあ観光路線ではあるのでしょう。とはいえけっこうな速度で飛ばしています。そういえば高所恐怖症なんだった。常磐高速バスにダブルデッカーが導入されたときなど目をつぶって乗っていたものなあ。何となくロンドンのダブルデッカーよりも背が高いような気がします。内臓がふわふわいう感じ。バスはブランデンブルク門を北側から回り込んでウンター・デン・リンゲンを東に進みますので、朝行ったベルリン大聖堂の前で下車しました。スリルはあるけど、たしかになかなか使える路線ではあります。

 
大聖堂から南へ散策


世界的大都市ですので見るべきところは他にもたくさんあるけれど、今回は町の概要を頭に入れる程度で終わっておきましょう。私見でいえば、この余裕が出てくると旅行はおもしろくなります。大聖堂にはミサを待つ人が集まりはじめていますが、まだ数十人くらい。そろそろ日が落ちかけているので、あとは適当に散歩して、乗り歩きして帰ろうかな。路上では若い男性のパフォーマーがアルトサックスを吹いていて、これがまた哀愁を帯びたメロディで黄昏の教会にぴったりです。大聖堂の南側、かつてマルクス・エンゲルス広場と呼ばれたところを通り抜け、シュプレー川沿いに2筋歩きました。クリスマスらしい電飾があるものの、静かで落ち着いた雰囲気。水都アムステルダムにも似た感じかな。福岡の中洲界隈も、川のすぐそばまでビルが建ち込んでいるところなど似ています。およその方向感覚で歩くうち、来たバスに乗ってみると、ビジネス街と住宅地の境目あたりを南に進みました。10階建てくらいの古い公団住宅みたいなのが目立ちます。われわれも共有する1970年代くらいの感覚が残っているようで、何だかなつかしい。東京都内にはむしろ少ないが、千葉・埼玉・神奈川県内にはこの種の団地群がいまもけっこうあります。

  U1ハレッシェス・トーア駅


時間が時間だから、もう食事の支度を整えてミサに行く態勢になっているのか、表を歩いている人は皆無に近い。適当な停留所で降りて15分くらい歩くと、Uバーンが高架線になっているハレッシェス・トーア(Hallesches Tor)駅に出ました。高架なのはU1系統、地下にはU7系統が来ているようです。U1に乗ればクーアフュルステンダムまで1本なので好都合。パリ左岸カルチェ・ラタンの住宅地を高架線で貫くメトロ6号線みたいな感じだなあ。この付近は完全に住宅街。線路と並行して小さな運河がありました。無目的な散策で大いにリフレッシュし、またまた西ベルリンに戻りました。と、地上に出てみて、あることに気づきます。あれだけ盛大に営業していた商店がすべてクローズになっている! ショッピングビルも、路面店も、ファストファッションも、マクドナルドもスターバックスも、みんな。こういうのは実体験してみないとわかりませんね。クリスマス・イブの今日は、だいたい16時くらいで営業を終えてしまうものなのです。シェービングクリームを忘れたのでホテル近くで買えばいいやと中央駅の薬局をスルーしたのは失敗だったな。ま、シェービング・セットはレセプションにいえば簡易のやつをくれるのでいいとして、食べるものを確保しておかないと。日本の小売店はいまや元日から営業して刺身まで売ってしまうほどになってしまいましたが、かつては三が日はオールクローズと相場が決まっていました。キリスト教圏では当然ながらクリスマスが最大イベントですからね。率直にいうと、25日が祝日扱い(場所によっては26日も)でオールクローズなのはわかっていたのですが、イブの扱いというのがよくわかっていませんでした。さっきまで開いていたからなおさらです。飲食店の一部はさすがにやっているでしょうけど、当てにならないし、17時過ぎだけどとりあえず晩ごはん代わりのものを入れておかなくては。急ぎクーアフュルステンダムを歩いてみましたがことごとく灯りを消しています。そうだ、ツォー駅に降り立ったとき、ジャンクっぽい飲食店が並ぶ薄汚いアーケードを通ったなと思い出して行ってみると、おお中華などのアジア料理店はいくつか営業している。こういうときは異教徒の店にかぎりますね。

 イブは夕方で営業終了(大手デパートのカールシュタット)


さほど腹が減った感じもないので酢豚定食なんか食べてもなあと思ったら、CHINA BOXという屋台ふうテント営業の店がありました。フランクフルトでも見かけており、チェーンなのかな。東南アジア的な顔立ちの若い女性が、日本でもおなじみの鉄板で、コテを使って大量の焼きそばをこねくり回しています。どうも焼きそば専門店らしい。大小あるというので小を選ぶと€3Berliner Kindlというビールが€2で、非常にお手軽。隣接するイートインコーナー(路上なのでインではないか)に腰掛けて、町行く人を見ながらアジアンフードをつまみます。これはあれだね、上海ふうではなく、タイ料理店あたりで出てくるタイプの焼きそばですね。チープではあるけれど、まずまず。紙皿の焼きそばにビールと、イブの夜は野球場みたいなセットでした。

  町はイルミネーション
 カイザー・ヴィルヘルム記念教会


それにしても、日没後はイルミネーションが本当にきれいですね。一時期、東京の表参道のやつが有名になり、冬場はカップルの車で大渋滞になったものですが、クーダム周辺は当時の表参道よりも美しいような気がしますよ。東京だったら大変な賑わいになること必至ですが、経済と学歴だけを信仰する日本人と異なりこちらはガチのクリスマス・イブですから、いたって静かで落ち着いています(そもそも表参道って明治神宮へのアプローチだったはずで、クリスマス仕様に問題ありでした)。気温はたぶん23度くらいだと思う。心にしみる、いい夜になりました。昨日は前のクリマを冷やかしただけだったカイザー・ヴィルヘルム記念教会を訪れてみます。戦争でやられながらも生き残り、ぼろぼろの醜態をさらすことで平和の尊さを訴えかける建物で、西ベルリンのシンボルではあるのですが、大修復に入っていて今は全身をステンドグラス様の覆いで包んでいます。特設の礼拝堂のほうに行くと、ミサまで間があるせいかまださほど人が多くはありません。異教徒がミサまで付き合うのは申し訳なく、いつものように魂の救済を祈って、撤退。

というわけで、ホテルのミニバーにあったビールと赤ワイン、成田で買ってきたおせんべいで静かにイブの夜を過ごしたのでした。メリークリスマス♪


PART5 につづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。