La tour de l’Allemagne 2012

2012 Winter

 PART3 ベルリン その2


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193040年代のベルリンはナチス・ドイツの都でした。最晩年のヒトラーはブランデンブルク門ちかくの地下壕に本拠を置いて、そこから戦争指導をしていました(ネオナチによる神聖化を避けるため長く正確な場所は公表されていませんでした)。19454月、東から襲来したソ連軍はベルリンを包囲します。絶望的な状況の中でもナチスの抵抗はつづき、ついには多くの市民を巻き込んだ市街戦に突入しました。430日、ヒトラー自殺。ドイツが連合国に降伏したのは52日のことでした。人類の歴史に極めつきの痛恨事として記憶されるナチスの時代はこうして都市の破壊とともに終わるのですが、ベルリンの悲劇はさらにそこから先のことです。ヤルタ密約にもとづいてソ連が参戦する前にアメリカが独力で屈服させようと原子爆弾を投下した日本のケースと違い(というか対独終戦での「失敗」に懲りたアメリカが対日終戦をそのようにしたのか)、ヒトラーの息の根を止めたのは共産主義国家ソ連でした。戦後の日本は、「連合国」といっても実質的にアメリカ一国に占領されたわけですが、戦後のドイツはアメリカ、英国、フランス、そしてソ連の連合国4国によって分割占領されるのです。そして、大戦の勝者である連合国は、アメリカを中心とする西側(資本主義)陣営と、ソ連を中心とする東側(社会主義)陣営とに分裂しました。英首相チャーチルの著名な演説で知られる「鉄のカーテン」は、欧州大陸のど真ん中を南北に走る分断のラインで、カーテンというのは比喩でしたけれどもまさに鉄の堅牢さをもっていました。

敗戦国ドイツは、両陣営により引き裂かれたまま戦後の再出発にいたりました。米英仏の占領地域と、ソ連の占領地域とに。――冷戦後に育った人にはわかりにくいでしょうし、当時の私たちの世代においても案外知られていなかったことではありますが、東西に引き裂かれ分断されたのは「ドイツ」だけではありません。ドイツ全土は4国により分割占領されていましたが、首都ベルリンはそれと別枠で、やはり同じ4国に分割占領されました。ベルリンは「ドイツ」の中のソ連占領地域に浮かぶ島のような位置ですから、冷戦勃発後はベルリンの西半分だけが社会主義の海に取り残されることになったのです。逆にいえば、西ベルリンは西側資本主義の出城であり橋頭堡でした。管理された社会主義体制を嫌がる人たちは、ここ西ベルリンを経由して西欧に脱出していきます。1960年代に入り東西の経済力の差が顕著になってくると、このまま人口流出を許せば東側が内部崩壊してしまうという懸念が生じます。ドイツ民主共和国(DDR 通称「東ドイツ」)の最高権力者ホーネッカーは1961年、比喩のカーテンなどではない本物の「壁」を構築しました。

 
地下鉄U55ブランデンブルガー・トーア駅の壁面には門の歴史の展示が (左)「分断のシンボル」 (右)「ベルリンの壁 1961-1989


ベルリンの壁Berliner Mauer)――この語のもつ重々しく悲痛なメタファーを、冷戦世代ならば共有していることでしょう。ベルリンの壁はほんの数キロだけれども、それは欧州を東西に二分する「鉄のカーテン」をリアルに象徴する構築物であり、東と西とを決定的に分かつ壁でした。壁の東ベルリン側にはさまざまな人的・物的な仕掛けがあって、ここを越えようとして命を落とした人は約200人。

正直に申しますと、左傾した家で育った私は、東側とか社会主義に対する嫌悪はなく、むしろ「搾取や階級化のある西側よりもいいんじゃないの」といううっすらとした希望さえもっていました。少なからぬ進歩的文化人がそうであったように思います。その理由というか原因として、「壁」があまりに堅牢で東側世界の情報が入ってこないため、あちらのリアルなやばさが伝わってこなかったということがありました。昨今の中国が何かと共産党による統制を発動し、肝心のところが不自由なままだと報じられますけれど、ソ連とか東欧諸国の謎っぷりはあんなものではなかったですからね! 東側のやばさを感じるようになったのは、1980年代に入ってからの「新冷戦」と呼ばれる時期のことでした。そのころ私は中学生ですから、要は世界をちゃんと見る眼をもつ前に、冷戦に触れてしまったのですね。高校生になったころ、ドイツ連邦共和国(通称「西ドイツ」)のヴァイツゼッカー大統領による「過去に目を閉ざす者は未来に対して盲目となる」という終戦40周年記念演説に言葉も出ぬほど感動し、同じころ、西ベルリン市長から「西ドイツ」の連邦首相になって東側との平和構築に努めたヴィリー・ブラントの事績を学んで、右傾化というわけではないけれど意識が西のほうへと引き戻されていきました。――ここは、ですからいつか訪れようとずっと思っていた場所でありました。

日本人にとって、ロンドンやパリと比べてベルリンについては心理的な距離があるのではないかと、冒頭で申しました。実のところこの首都が長いあいだ「東ドイツ」であったことが作用しているのではないかと思います。東側世界は霧の中でした。

 日没後のクーアフュルステンダムで
 


U
バーンを乗り継いで西ベルリンに戻りました。日本のガイドブックのどれかに、ベルリンで宿泊するならウンター・デン・リンデン周辺またはクーアフュルステンダム周辺がよいが、両地区は新宿と渋谷くらい離れているので注意が必要、とか書かれていました。新宿〜渋谷なんてがんばれば歩いたって行けるし、「注意」って何だよと突っ込みたくなります。でも、その新宿と渋谷のあいだをまともに通行できない時期が四半世紀以上もつづいたんですね。いまは、UバーンもSバーンもDBも路線バスも、見事なまでに東西方向を結んでいます。

ホテル・カリフォルニア0階のホテルバーでウェルカムドリンク(キールロワイヤル)のサービス。ビールだったらいいのに。しばらく休憩してから、19時半ころ晩ごはんをとりに出かけます。ホテルから北に歩いて5分ほどでサヴィニー広場(Savigny platz)があり、その周辺にはレストランがたくさんあるよと聞いていたので足を向けました。で、たくさんあるにはあるのだけれど、イタリア料理、ベトナム料理、中華料理・・・と多彩すぎてドイツに来た感じがせず、そのまま散策がてら西から南に回り込み、15分くらい歩いてクーアフュルステンダム(ホテルよりもだいぶ西寄り)に出ました。この通りは表参道ないしシャンゼリゼだからレストランはきっと直交する道路のほうにあるだろうときょろきょろ。自慢ではないけどこういう勘ははたらくのよん。すると、ありました、KNESEという看板が光を放っていて、お客もけっこう入っており活気がありそうなお店。レストランというか大衆食堂みたいな感じですね。

 
  ディナー


ドアを押すと、カウンターとその周辺に「飲み」のゾーン、壁に沿って食事のテーブルが配置されていました。ほぼ同時に入店した初老のおっちゃんが右隣に座り、そちらは常連さんらしくとっとと注文して、暗い中でタブロイド紙をたんねんに読んでいます。ずいぶんとでっかいグラスで赤ワインを召し上がっていました。当方は、まずはメニューの検討。何ページもある冊子だなと思ったものの、実際には見開き2ページ程度で、ドイツ語の他に英語、フランス語、オランダ語、スペイン語のページを設けてあるのでそうなっていたのでした。英語とフランス語があれば百人力、てほどでもないけど、ドイツ語はまったくできないんですよね。「ベルリン&ブランデンブルクの味」なるカテゴリがあり、その中にBerliner Kalbsleber €15.90)という料理名が見えました。このくらいの単語ならば英語に近いので何とかなります。ベルリン風カーフ(仔牛)のレバーということですよね。グッドグッド。お飲み物は「ドラフト・ビア」といったらBerliner Pilsnerのジョッキ(0.5リットル)が運ばれてきました。われわれがいうところの「ビール」の味に近い。お気づきのように地名に -erをつけると形容詞になり、Berlinerはベルリンのという意味ですが、ピルスナーというのは現チェコ共和国のプルゼニ(ドイツ語読みでピルゼン)の形容詞だから、文法的には少し変な感じがします。プルゼニのビール、ピルスナーはそのままビールの有力カテゴリになり普通名詞化したのね。われわれがいうところの「ビール」は、スーパードライも一番搾りもわが黒ラベルもみなピルスナーの仲間。

店内は地元客らしき人たちで満員になり、あとから来た客はカウンターでビールを飲みながら食事席が空くのを待っています。ややあって運ばれてきたお皿には、けっこう大きなレバーが3枚も載っていて、炒めてくったりとなったタマネギ、リンゴのコンポートが載り、マッシュポテトが添えられていました。やや、隣のおっちゃんも同じ料理だったのか。おっちゃんは当方を見やって「グッド・チョイス! ボナペティ」とにっこり。サンキュー、ユートゥー。しかしこれ美味しいですね。ありふれた表現でいうなら、表面はカリッと、中身はトロン。グッドグッド。最近、こちらもおっちゃん化してきたせいか、焼きトンとかもつ焼き(ほぼ同じジャンル)のようなもので飲むのが好きになってきたのですが、そういう京成立石的な食品が好きな人なら絶対に美味いと思うはず。左隣のテーブルは職場の同僚らしき性別年齢ばらばらな6人組で、妙齢の女性だけが巨大なアイスバインと格闘していました。コラーゲンでお肌がぷるぷるになるのと、要らん栄養が皮下に蓄積されるのと、どちらが勝利するのでしょうか。食後にエスプレッソを飲んで、〆て€20.47。レシートを見るとHotelgastとあり、1割引かれてその価格になっている。レバーも€14.31でした。会計時に店員さんがHotel’s guest?と訊いてきたので意味がわからないながらもノーといったはずなんだけどなあ。外に出れば、なるほど兼営なのか系列なのか上階はホテルで、宿泊客には割引料金が適用されるのね。ちゃんとノーっていったからね(笑)。ああそれで観光客を見越して各言語のメニューを用意していたわけだ。

 
 ホテル・カリフォルニアの朝食 盛りつけのセンス最悪(笑)


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24日、朝起きてもやはり真っ暗。朝食は本館1階のダイニングでと指示されており、行ってみると、表通り(クーアフュルステンダム)に面したかなり広い食堂でした。欧州のホテルの朝食は基本的に取り放題のセルフサービスで、ホットドリンクだけ従業員がサーヴしてくれるところと、それもセルフのところがあります。ここは完全セルフ。普通のコーヒー、カフェラテ、カプチーノ、ココアなどを出すコーヒーマシーンを備えています。パンもおかずも豊富すぎて迷いますね。翌朝もあるので欲張らないようにしよう。各テーブルにサンタクロースのチョコが置いてあるのがイブらしい。8時前だったためかお客は数組ほどで、若いOLふうの日本人2人組もいました。欧州に来る若い日本人女性観光客って、ものの本で指示しているためかウソみたいにみんなポーチなどを斜め掛けにするんだけど、朝食ルームでもそうするかね!

 
 
Sバーンのサヴィニープラッツ駅 通過線はDBの長距離列車のもの


さて前日は日没してしまって東ベルリンにほとんどいられなかったため、まずは都心部の東端に行き、そこからブランデンブルク門方面にじわじわ近づいていくことにしましょう。前夜、夕食のレストランを探しているときSバーンのサヴィニープラッツ(Savignyplatz)駅がホテルから近いことがわかったので、ツォー駅でなく1駅西のここからはじめよう。ツォー駅は元ターミナルらしく長距離列車の一部も停まる大きな駅ですが、こちらは郊外線Sバーン専用の島式ホーム1面の小さな駅。高架下の小さな商店とか手狭な入口とか階段を上っていく感じが、関西の民鉄の、それも急行が停まらない駅のように思えます。ドイツの鉄道は、DBSバーンもUバーンも改札がありません。無賃乗車が発覚すると高額の罰金をとられますから変なことを考えないようにね。ほどなく西行きのSバーンがやってきました。前日来、何度目かのこの区間で、進行右手に広大な動物園とティーアガルテンTiergarten)を見ながらベルリン市街地の北辺を迂回します。ティーアは動物という意味なのでこちらも直訳すれば動物園でしょうが、もともとはプロイセン王家の私有地で王様の「御狩り場」だったらしい。日本のガイドブックにもロクな説明がないので、仕方ない、英語版のウィキペディアで見てみますと(お!)、ヒトラーがベルリンを「世界の都」にしようと都市計画した際に都合よく作り変えられ、戦争末期にはさまざまな歴史的遺物が破壊され、戦後は燃料不足のため樹木が乱伐されるなど散々だったらしい。ティーアガルテンの東端はブランデンブルク門に接していますので、分断時代には一種の緩衝地帯でもあったんでしょうね。ロンドンのハイドパークなどもそうですが、町なかに大きな森林帯をつくる発想は西欧都市のいいところです。Sバーンで中央駅を通り越し、アレクサンダープラッツ(Alexanderplatz)駅までやってきました。中央駅と同じような半円状のガラスのドームで覆われていて、なかなかよいたたずまいです。

 アレクサンダープラッツ駅
 駅前にトラムの電停(右が駅舎)


駅前は雑然とした感じで、車の通行量が多く歩行者はさほどでもありません。まだ10時前ですしね。娯楽施設や飲食店が入ったビルなんかがけっこうあって、山手線でいえば恵比寿とか大塚くらいの感じかなあ。ベルリンは雪国か!という初見での感想は外れていて、たまたま来た日に降ったということらしく、もうすっかり解けています。駅前にトラム(路面電車)が走っています。シティマップで確認するとすぐにお目当ての方向から反れてしまうようなので、1駅だけ記念乗車することにしました。東ベルリンのメインストリート、カール・リープクネヒト通り(Karl-Liebknecht-Straẞe)の上を西に進みます。この通りがそのままウンター・デン・リンデンになるのです。

 
テレビ塔(Fernsehturm)が見える


トラムを降りて通りをそのまま西に。このあたりがミッテ(Mitte)地区かな。大型ホテルとか有名企業のビルなどが並んでいます。ほどなくシュプレー川(Spre)を渡るリープクネヒト橋。ちなみにカール・リープクネヒトといえばドイツ革命の立役者で、往年の左翼業界では英雄だった人! 橋の東側にはDDR博物館(DDR Museum)があります。DDRは旧「東ドイツ」で、当時の人々の暮らしなどを振り返るものらしい。10時オープンだったのであと10分くらい待っていればよかったのだけど、後で見ようと思っているうち失念してしまいました。東に住んでいた人たちは、そういう展示そのものを不快に思うのか、なつかしむのか。20年経ったとはいえ、20年ですからね・・・。

橋を渡ったところにベルリン大聖堂Berliner Dom)があります。これはかなり重厚で、しかも黒ずみ方がハンパではありません。拝観料を納めても見てみたいところですが、今日は特別の日だからか入れませんでした。夜になると信者さんたちが集まってくるんでしょうね。

 ベルリン大聖堂
 
大聖堂前に、小さな芝生公園と旧博物館


さすがに芝生の上は前日の雪が凍結したまま残っていて、歩くのに難渋します。大聖堂の隣はギリシア式の円柱が印象的な旧博物館(Altes Museum)。この裏に新博物館(Neues Museum)もあります。シュプレー川の縦長の中洲は「博物館島」と呼称されていて、共通チケットなどもあるみたいですよ。私としてはシュロス橋(Schloẞbrucke)を渡り越したところにあるドイツ歴史博物館(Deutsches Historisches Museum)のほうに惹かれますし、いまやっている展示がナポレオンがらみらしいのでなおさら興味があるのだけれど、残念ながらクリスマスでクローズ。ま、ベルリンにはそのうちまた来ることがあるでしょう。

 
東ベルリン中心部はどことも何かを工事している


「博物館島」を過ぎたところからウンター・デン・リンデンになります。歴史博物館のすぐ西隣に、これまた円柱をもつ端正な建物があって、ガイドさんが団体客に何やら説明しているところでした。ノイエ・ヴァッヘNeue Wache)という建物のようです。玄関のところにドイツ語のほか英語、フランス語、スペイン語、ロシア語などさまざまな言語での由緒書きがあり、日本語もありました。最初は日本語の存在に気づかなかったため英語とフランス語を交互に読んでみると、簡単にいうなら戦没者慰霊のための施設ということらしい。もともとはプロイセン王家の衛兵所だったところを第一次大戦後、ヴァイマール共和国によって慰霊施設とされ、第二次大戦後は「東ドイツ」政府のもとでファシズムの犠牲者を追悼する施設へと少し趣旨を変えていきました。統一後の1993年に現在の趣旨になったわけですが、第一次・第二次大戦を初めとする戦争の犠牲となった軍属・民間人、ナチスの暴力支配の犠牲となった人々、そして何とドイツと戦った国の戦争犠牲者たちをも対象としているそうです。ひるがえってこちらは、なんてここではやめておきますが、ドイツすげー。それにしても、いま日本のガイドブックを見たら、こんなにど真ん中にあって目立つ建物なのに1行の記述もないものがありました。日本語の解説板までつけてくれた彼らの思いを汲み取ってほしい。

  ノイエ・ヴァッヘ
 フンボルト大学


ノイエ・ヴァッヘの西隣がフンボルト大学Humboldt Universität)。ベルリン大学の名のほうが日本では通りがいいかもしれません。おお、ここですか。ずいぶんと都心部の真ん中にあるんですね。私の教育史の授業でたまに登場させるのだけど、ナポレオン占領下の1810年にヴィルヘルム・フォン・フンボルト(この名前を聞いてペンギンを思い出す人もいるでしょうが、無関係ではなくて、そちらはヴィルヘルムの弟で近代地理学の祖であるアレクサンダー・フォン・フンボルトに由来します。海流も同じ)によって設立された大学で、学科・講座制の導入や教養課程の制度化など、近代の大学のモデルとなる諸制度を打ち立てました。高校時代に世界史を学んだ人は、ナポレオン占領下でシュタイン、ハルデンベルクらの政治改革がおこなわれてプロイセンの復活が図られたこと、フィヒテの連続講義「ドイツ国民に告ぐ」(Reden an die Deutsche Nation)がおこなわれたことなどを頭の片隅に入れていますか? ナポレオンのフランスにやられたことを契機としたドイツ「国民」の創生および帝国建設については「ドイツ二旅」でけっこう熱を入れて述べました。ベルリン大学の創立はそうした文脈の中にあります。何といっても事実上の国立大学であったということが大きい。国家が国家のために研究をおこなわせ、それと教育システムとを結びつけたのです。いうまでもなく日本の帝国大学の直接的なモデルとなりました。いわゆるフンボルト理念なるものが当初から本当にそうだったのか、それが捻じ曲げられて各国で導入された結果、高等教育がいびつなかたちになってしまったのではないかなど、教育学の世界でも近年になっていろいろな議論がおこなわれています。いうまでもなく、グローバル化、IT化、そして大衆化(要は「誰でも大学にいける」ということ)という時代にあって、多くの大学人が信奉してきた「大学ってこういうもの」という理念が動揺してきて、これからどうなるかが争点化されてきたからです。ことが大学の未来に関することですから、教育の専門家だけでなく大学関係者のほぼ全員にとっての関心事ではあるわけね。潮木守一先生の『フンボルト理念の終焉?』(2008年)という本が出たときは、私を含めて多くの関係者が、わかってはいるけど認めたくないなあという複雑な気分で接したものです。そうか、ここですか。


PART4 につづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。