北側のもう一つの見どころであるビュユック・ハンはモスクのすぐ近くにあるのですが、あすまた越境して訪れる口実として残しておきたいので、裏側をスルー。その付近にはおしゃれなカフェやレストランがいくつか見えて、そこだけ切り取れば西欧のどこかの都市に見えなくもありません。ただ、その先ですぐに中東チックな町並に戻ります。古くて背の低い建物が隙間なく密集し、廃屋のようなところも目立っていて、映画のセットのような景観がつづきます。道路舗装だけはなぜかきちんとしています(というのが表面的な観察にすぎなかったことを2日後に思い知ります)。かれこれ35ヵ国以上を歩いてきましたが、実は純然たるイスラーム圏は初めて。私の行くところは欧州に偏っているのでそういうことになります。EU完訪も達成したことだし、そろそろアジアにも積極的に足を向けようかなと考えているところです。キプロス島の対岸にあたるイスラエルやレバノン、シリア界隈にはかなり興味があります。が、イスラエルはともかくシリアなんて生きているあいだに行けるかなあ。
北レフコシャ旧市街
あとで南側も歩いてみて、まったく同じ感想をもつのですが、城壁に囲まれた旧市街の内部は無秩序に道路が走っていて、思いついた順に道を敷いたのかと思うほどタテヨコ関係なく気ままにくねっています。そのため、ときどき私の体内センサーが誤作動を起こすのですが、さほどの広さがある区画でもないためとくに害はありません。へえ、こことつながっているんだねという意外さがおもしろかったりします。ゆっくりのんびり1時間ほどかけて、クロス・ポイントから半径300mくらいの狭いエリアを一周しました。あすはもう少し遠くまで行ってみようかな。15時ころクロス・ポイントに戻ってきました。南→北の越境も、逆方向の北→南も作法はまったく同じ、シンメトリーになっています。今度は、まず北キプロスの「出国」審査を受け(といってもパスポートをスキャンするだけ)、バッファー・ゾーンを歩いて、その先の小屋でキプロス共和国の「入国」審査を受けます。いや、あらためて不思議な感覚。
以前に日本→香港、香港→中国、中国→香港、香港→マカオ、マカオ→日本と、4日間で5度の出入国審査を受けたことがあります。香港・マカオとも中華人民共和国の主権下にある地域ですが法や制度、言語、文字、教育、交通、電気・通信などはそれぞれ完結していて、別々の「国家」とみなされてよいと思います。「一国」だと中国側が強調するわりに、ちゃんと「国境」が存在して出入国を管理しているのはおもしろい。対して欧州のシェンゲン圏では主権国家間でも出入国審査をおこないません。いまの世界では、実際に出入りした国の数と出入国審査を受けた数が一致するということはないわけです。このほどEU加盟国をコンプリートしたとはいえ、私のパスポート上に電子情報ではなく目に見える記録としてスタンプがあるのは、フランス、ドイツ、英国、アイルランド、ポルトガル、オーストリア、クロアチア、ブルガリア、ルーマニア、キプロス共和国のみで、残り18ヵ国に行ったよというのは私の一方的な言い分だったりします(笑)。互いを国家として認めない「国家」どうしの直接の行き来というのはなかなかないケースで、今回の越境をどのように数えればよいのか私にもわかりません。
クロス・ポイントの北レフコシャ側 「出国」審査は進行方向左手の小屋でおこなう
幻の国家を脱出して、実在する国家に舞い戻りました。というわけではなくて、日本と国交のあるキプロス共和国の実効支配エリアに戻ってきたということね。まだ来たばかりですが、今回は3泊4日の滞在なので少なくとも南側の旧市街の大半は歩けるのではないかと思います。といって際立った見どころがあるわけでもなく(北側のセリミエ・ジャーミー級のポイントがない)、私自身に知識や個別の関心があるわけでもないので、テキトーに歩いて町の様子をひたすら観察しようと思います。南レフコシアでは、メイン・ストリートのレドラ通りにしてからが幅の狭い道で、中央車線のはっきり描かれた道路はどうやら城壁の内側をめぐる周回道路くらいらしい。レドラ通りの東側に並行するオサナゴル通り(Ονασαγόρου)に入り込んでみたら、こちらは静かですがしっとりしたカフェやブティックなどが点在する裏原宿的な設定(あんなに人が歩いてはいない)。こちらもおもしろいですね。
オサナゴル通りとレドラ通りがV字的に合流する地点は、もう城壁のすぐ近くです。その東側一帯がライキ・ギトニア(Λαϊκή Γειτονιά)と呼ばれる地区。道幅がいっそう狭くなり、ときに段差まであって、小さな商店が密集した薄暗いゾーンです。南側のツーリスト・インフォメーションもその中にありました。「地球の歩き方」もロンリー・プラネットも、あとで各種サイトを見てもぜひ訪れましょうと推奨している地区なのですが、過度にツーリスティックな気がして私はあまり気乗りしませんでした。ま、好みの問題です。同じ民族系統のためか、1年前にギリシアのアテネで見たツーリスティックな地区と印象が重なりすぎているせいでしょうかね。
南レフコシア旧市街
16時ころいったんホテルに戻って小休止し、17時過ぎに再始動します。地図で見ると、滞在中のザ・クラシック・ホテルはグリーン・ラインのすぐ南側にあって、ドローンでも飛ばせば余裕で北キプロス側に行かせられてしまう距離。旧市街の城壁もすぐ目の前ですので、追い込まれたような区画にあたります。ただその実感はまったくありません。ホテルの1ブロック西側にパフォス門(Πύλη Πάφου)という城壁上に造られた軍事設備があり、中世後期のものらしい。城壁は近代にいたるまで何度も上書きというか補修されているのですが、この付近のものは14世紀に造られたことが推定されるのだと、由緒書きに書かれていました。門の内側にカトリックの教会(Holy Cross Catholic Church /
Καθολικός Ναός του Τιμίου Σταρού)。この寺院のすぐ裏というか2方向にグリーン・ラインが走っていて、かろうじて南側に取り込まれている区画のようです。
パフォス門付近(下右のパフォス門は23日に撮影したもの)
つまり、この先を進もうとすれば城壁の外の新市街側に出るしかありません。ラインの向こう側に行きたいなら、ドローンにぶら下がるのではなく、先ほどのクロス・ポイントを大回りしなくてはならない。しかも要パスポートですね。旧市街は巨大な五稜郭的なもので、真円形に三角形のでっぱりがついていると申しました。パフォス門のすぐそばにも三角形があるのですが、そこは北の管理区域になっていて(Sınır Parkıという公園)、バッファー・ゾーンは数メートルだけというスリリング?な境界部分です。いま歩いている道の路肩に手すりがあり、そのすぐ先に強固な石の壁があって、てっぺんに鉄条網つきの金網が張られています。手すりと金網のあいだがバッファー・ゾーンで、この付近では実質的に緩衝地帯なしということのようです。あちら側の公園には屋外カフェやアズマヤのような施設もあって、「外国人」らしき夫婦がのんびりとくつろいでいました。入場料の要る区画をフリー・エリアから見上げるような構図ではあります。
城壁の向こうは北キプロス いまいるのは南サイド
混線するアイデンティティ・・・
なんとも興味深いのは、その「国境」のぎりぎり北側に2本の国旗が並び立っていることです。白地に赤い新月・五芒星で、天地に赤いラインが入っているのが北キプロス・トルコ共和国の「国旗」。誰がどう見てもトルコ共和国の国旗(赤地に白抜きの新月・五芒星)を反転させたものです。もう1本はほかならぬトルコの国旗そのもの。ここに北キプロス国家が実在するぞ、ちゃんと現実を見ろや、と南側に見せつけているのは間違いないのですが、北キプロスだけでなくトルコの国旗を同格で並べるというのは、ちょっとわかりにくい感覚です。だって「主権国家」なんでしょ? トルコは後援者とかスポンサーではあっても宗主国ではないはずです。北キプロスという国家ないしその国民は、本当は、内心はトルコ(人)のつもりなのでしょうか。クロス・ポイントに高々と掲揚されていたのもこの2本の旗でした。む〜。しかしそれならば南側も人のことはいえず、クロス・ポイントにはやはりキプロス共和国国旗とギリシア共和国国旗を並べて掲揚していましたし、市内のあちこちで両「国旗」の並列を見ました。キプロス共和国はEU加盟国でもあるため、2本の旗に欧州旗が加わる場面も見られます(EU加盟国は自国国旗と欧州旗の併用を求められる)。
私は、ナショナリズムとナショナル・アイデンティティ形成ということにこだわって研究してきましたし、欧州各地を歩く際にもまずそのことに注目してきました。ナショナル・アイデンティティのあり方は、フランスを中心に思考していた時期には想像できなかったほど多様で、複雑だということが実感としてわかってきました。それにしてもナショナリズムとかアイデンティティというのは「愛国心」、つまり現実の自国を向くものだというのが常識です。キプロスはきっと、ひとつの島として「独立」なんてしたくなかったんだろうなということが伝わってきます。長くオスマンという広域普遍帝国の一部でしたし、その後は英国の植民地でした。19世紀末あたりにナショナリズムにめざめたころ、ギリシア系住民は「ギリシアという国家に抱き取られたい」と願い、トルコ系は「それは困る」という立場でした。少数派であるトルコ系からすれば、「トルコ国家に抱き取られる」という選択肢は非現実的だったのでしょう。PART1に載せた地図を再掲します。
二宮書店版 デジタル世界地図「ヨーロッパ」より(一部)
ギリシアは遠く、トルコは目の前。しかしそれは第一次大戦後にオスマン帝国が崩壊し、トルコ共和国という国民国家が成立したあとのことであって、小アジアにもかなりのギリシア系住民が、現在のギリシア領内にもかなりのトルコ系住民がいました。何かと仲の悪い両国は、ある種の「手打ち」として数百万人規模の住民交換を強行し、民族の純化を図ります。数百年、数千年にわたる父祖伝来の地を奪われ、不動産なども奪われて移住を強制された人たちの犠牲の上に、バルカン半島や中東各地域がひたすら悩む民族混交とアイデンティティの混乱を避けることができました。キプロスは、島国であり英領であったために、その流れの外側に置かれ、ギリシア系が多数だがトルコ系もいるという状況を変えることができませんでした。ただ、キプロスをギリシア国家に編入するという選択肢が荒唐無稽だったかといえばそうでもありません。同じくオスマン領であり、のちに英仏などの干渉で自治権をもつことになったクレタ島は、第一次大戦の勃発を前にギリシアに編入されています。オスマンの宗主権維持を主張する勢力や独立派もあったのですが、多分に国際情勢の影響で、ギリシア本国の独立から80年遅れてギリシア領になりました。ギリシア王国の首相として一時代を築いたエレフテリオス・ヴェニゼロスはもともとクレタ人で、クレタ編入の推進者であって、本国の指導者にまで出世した人物でした(だからといってウソつきではないよ、というネタの意味がわからない人は、倫理の先生かグーグル先生に聞いてください)。クレタとキプロスで、さほど条件の違いがあったわけではありません。英領になったかどうかの違いというのが、やはり最も大きな事情だろうと思います。英国は本当にここを維持したかったんだなと思う。
1960年に英国から独立したキプロス共和国は、ギリシア系とトルコ系の微妙なバランスの上に構築されたため、当初より混乱し、国連が介入する事態となりました。その後の国際情勢、とくにギリシア軍事政権の迷走を受けて、キプロス共和国大統領マカリオス3世はソ連に接近、米英の強い警戒を引き出します。20世紀の世界全体でもイタい、クソ政権のひとつであるギリシア軍事政権は、政策的にはアナクロニズム、イデオロギーは反共、そしてなかなか政治意識を成熟させられない人々の支持で成り立っていたため、売官とか公金横領とか公共物の横流しなどの腐敗を止められない、いや自分たちこそが抱え込んでいました。そうした矛盾をごまかす手法は古来決まっていて、「外」に目を向けさせることです。米英がマカリオスを見限ったタイミングでキプロスを併合すれば、その外交的成果により支持を増やすことができるだろうと踏みました。独立維持に転換したマカリオスを恨むキプロス島内のギリシア併合派を焚きつけ、クーデタで政権を倒して一挙に併合にもっていけるはずだ、ギリシアとキプロスの反共要塞化を望むアメリカも支持を与えるだろう、と考えたわけです。CIAが内々にGOサインを出したのかどうかははっきりしません。1974年7月15日、クーデタ派は国軍の一部を抱き込んで大統領官邸を襲撃、新聞社や共産主義者の拠点などを一斉に抑える挙に出ました。マカリオスは公用車に仕掛けられた爆弾により吹き飛ばされます。
キプロス情勢を伝える1974年7月の朝日新聞(縮刷版より) 7月16日付→17日付→18日付
第一報で「殺さる?」と伝えられたマカリオスが脱出して「国際社会」の支持取りつけに走っている様子がわかる
7月21日付→23日付 トルコ軍の進撃で情勢一転、ギリシアで軍の一部が軍事政権に反逆している様子も伝わる
(右)1983年11月16日付は「北キプロス・トルコ共和国」の独立宣言を伝えている
そのころ私は中学2年生 朝日新聞を熟読してスクラップもしていたはずだが、この出来事の記憶はまったくない・・・
――と思ったら、マカリオスは半日後にパフォスに現れ、「ふっふっふ、私は不死身だ!」的なことをいったので世界が仰天しました。こんなこともあろうかと思って、公用車には身代わりの蝋人形を乗せていたという、安っぽいB級アクション映画のような種明かしでした。島に残る英領に逃れて生きながらえることができたようです。国連が調停しようとしますが、肝心のアメリカはやましいところもあったせいか動かず、島内は暴力の応酬がやまずに大混乱に陥りました。暴力と破壊を恐れた人々の、グリーン・ラインの向こう側をめざす移動がいよいよ本格化しました。併合派、マカリオス派、トルコ系の衝突がつづく中で、ついにトルコ共和国がトルコ系住民の保護を口実に軍を出動させます。7月20日、トルコ軍はキプロス島への上陸作戦を成功させ、一気に首都レフコシアに進撃しました。なんといっても「目の前」ですからね。これを織り込んでいて、対抗的に出兵しキプロスを押さえてしまうつもりだったギリシア軍事政権は、しかしどうにも間抜けな自爆劇を見せます。ギリシア国軍に出動命令は出されたものの、上から下まで腐敗していた軍人たちはサボタージュして動かず、そもそも武器や弾薬が横流しされていて武器庫はカラでした。アメリカ政府は火の粉をかぶるのを恐れてか軍事政権つぶしを決断、ギリシア情勢に介入して、民主的な政府の復活を後押しします。ギリシア側の視点で見れば、軍事政権の無謀なキプロス併合策→自爆→ひょうたんから駒のような民主化、という流れで、ようやく民主国家としての歩みをはじめることができたということになります(1981年に欧州共同体ECに加盟)。しかし「ダシ」にされたキプロスの側は、その無謀な試みのせいで決定的な破局を招きました。グリーン・ラインの北側を完全に制圧したトルコは、トルコ系の権利を大幅に認めた連邦国家の樹立を要求しますが(流れからして当然でしょう)、ギリシア系は態度を硬化させます。国連や欧米諸国のたびたびの調停も実らず、1983年11月、トルコ系は北キプロス・トルコ共和国の「独立」を宣言してしまいました。
国土は二分され、首都まで二分されて45年。情勢は何も変わっていません。それ以前を知る世代もどんどん減っています。それでいて、国際社会はもうキプロスに注目することがなくなりました。キプロス紛争が過去の出来事、歴史的事実のように語られるだけで、いまも分断されているということを知る人は少ない。2004年のEU加盟に際しては南北で「国民」投票が実施されたものの、トルコ系への配慮がありすぎるとして南では反対が大多数を占め(北では賛成多数)決裂。分断国家の出身である国連の潘基文事務総長らが粘り強く調整をめざしたものの、やはり果たせませんでした。どうにか合意できたのは、先ほど通過したレドラ通りのクロス・ポイント設置と双方向の移動の承認だけ。
城壁の張り出し部分は「北キプロス」領 手前の歩道までがキプロス共和国の実効支配領域
実際に来てみて、ここは本当に不思議な紛争地域だなと思います。分断線のすぐそばに泊まっても何の心配もないし、おそらくキプロス人の大半も含めて、どうせこのまんまの状態がつづくんでしょ、と思っています。資源があるわけでもなく、冷戦も終わったあとでは、世界がこの島に注目することもありません。未読スルーに近い状況だろうと思います。治安がどうなんですかと問われそうなのでお答えしておきますと、何かと物騒な英仏独あたりよりもずっと安全だと思う。いまはね。英軍、国連軍に加えて世界でも屈指の強さを誇るトルコ軍が駐留していて、だから危ないともいえるが、だから安全だともいえる(軍隊というのはそうしたものです)。2日前にミュンヘンから乗ってきたルフトハンザ機は、トルコ上空を横切り、北キプロスの空域を避けて島の南側からキプロス共和国に入りました。ドイツも日本もトルコとは仲がよい。しかしトルコが承認する北キプロスは認めていない。なんだこの不思議な図は。
2004年5月、いわゆる「東方拡大」の一環として、キプロス共和国は欧州連合に加盟しました。位置だけを見るならば中東に属し、欧州といわれてもなあという感じなのですが、南の共和国に関するかぎり、EU加盟国ギリシアと同じ宗教・言語の人たちが大多数ですので、文化的には地続きだということなのでしょう。サッカーでは欧州連盟に属するトルコ共和国は、エルドアンが登場するまで長いことEU加盟申請を繰り返し、それが拒絶されるたびに苛立ってきましたが、キプロス問題も拒絶の理由に挙げられています(おそらく真の理由はイスラーム国家を入れたくないということだと思う)。EU公式サイトの加盟国リストでキプロスの項を見ると、こう書いてあります。
Despite joining the EU as a de
facto divided island, the whole of Cyprus is EU territory. Turkish Cypriots
who have, or are eligible for, EU travel documents are EU citizens. EU law is
suspended in areas where the Cypriot government (Government of the Republic)
does not exercise effective control. Cyprus has two official languages: Greek
and Turkish; only Greek is an official EU language.
事実上分断された島としてEUに加盟しているとはいえ、キプロス全体がEUの領域です。EU旅券を所有している、もしくはその資格のあるトルコ系キプロス人はEU市民です。EU法は、キプロス政府(キプロス共和国政府)が実効支配していないエリアでは効力が停止されています。キプロスには2つの公用語、ギリシア語とトルコ語がありますが、EUの公用語になっているのはギリシア語のみです。
(2020/02/05閲覧 古賀訳)
2004年時点では、EUに抱き取ってしまえば事態が前進するというふうに楽観していた可能性もあります。不完全を承知で加盟を認めていますからね。でも現実はこのとおり。EUは加盟国の国家公用語すべてをEU公用語とし、あらゆる文書をすべての公用語(現在は24言語)に訳します。EUをモデルのひとつにしている東南アジア諸国連合(ASEAN)が、面倒だとばかりにワーキング・ランゲージを英語1つに絞ってしまったのとは対照的で、それこそがUnited in diversity(多様性の中の統合)というEUの理念に合致するのだとされます。が、キプロス共和国の国家公用語であるはずのトルコ語が除外されているのは公式が認めているとおりです。
夕食をとろうと再び中心部に足を向けたのですが、さほど歩いた感じもないのに疲労がどっときました。北キプロスの呪いでないことを祈ります。このところ18時台、早ければ17時台に夕食を済ませてしまい、夜のパブ・タイムを長めにとるという方針にしています。出先ではとくに。19時半とか、場合によっては20時を過ぎなければディナー・タイムにならないというフランスは論外ですけれど、キプロスの相場はどうなんでしょうね。ただ、疲れたのに加えて、よい店を探り当てられそうなセンサーが作動しない予感がにわかにこみ上げたため、レストラン探しを中止することにしました。バーガーキングのバーガーとポテトを持ち帰って、早めのパブ・タイムのアテにしよう。さっきホテル裏に見つけたリカー・ショップで赤ワインを購入済みです。ワインはギリシア産で、フルボトル€4.35と安値ながらけっこう美味でした。相場が安くて、高いのが並んでいないんですよね。
2月21日(木)は8時過ぎに0階に降りて朝食。ホテルはいろいろ不備だらけだけど、朝食はなかなか美味しく、どうもバランスが悪い(笑)。ここもトーストに卵、ビーンズというブリティッシュ・スタイルです。たかがそれしきの料理をわざわざまずくする英国の風土にもいろいろいいたいことがありますが、旧英領の状況はところによるということね。キプロス共和国は観光のほか、金融やIT、研究などの分野に力を入れており、とくに中東やアフリカなどとの距離の近さ(ともちろんEU加盟国にしてユーロ圏であるということ)を生かした商業拠点になることをめざしています。朝食会場にツーリスト風の人は見当たらず、ビジネス関係だろうなと見受ける人ばかり。
レフコシア2日目は、旧市街の南レフコシア側のうちレドラ通りより東側の一帯をべたべた歩こうと思います。滞在しているホテルが南レフコシアの西端ですので、その反対側ということ。前述のように旧市街はさほど広くないので、ずっと徒歩です。まずは外周道路というか、城壁のすぐ内側に沿った円弧の部分をなぞりながら東へ。バス・ターミナルを通り過ぎてもしばらくは道幅が広くて、それなりの交通量があります。旧市街よりも少し高い位置にあるらしく(城壁だからかな)、円の内側に入り込む道路はみな緩やかな下り坂。のんびりとした住宅街という感じでいいですね。
外周道路の南縁あたりは、歩道にヤシの樹が植えられて南国風の演出。ラルナカとは違って内陸部なので、あまりトロピカルな感じはありません。レフコシアのツーリスティックな価値ってどのあたりなんでしょうかね。避寒地というわけでもなさそうだし、一流の遺蹟がありそうな感じでもないし。分断そのものが「見どころ」といえばそうなのだけど、それは気の毒なことではあります。北アイルランドの首都ベルファストを訪れた折に、かつて分断の象徴だったピース・ライン(カトリック系とプロテスタント系の居住地を分けるフェンス)を見に行きました。いまは平和で落ち着いているその界隈は、かつて憎悪と暴力が実在したという「政治遺構」が観光の対象になっていました。あちらは過去の話だからいいでしょうが、キプロスはいまも分断の中にあるので、性格としては韓国の統一展望台のような感じになるのでしょうかね。
1世紀来の遺恨を抱えた北アイルランド紛争を終結に導いた最大の要因は、欧州統合であったと考えます。EUという大きなくくりの中では各国のアイデンティティが相対化されますので(み〜んなマイノリティだからね)、国家と民族の不整合もそのまま相対化され、痛みが薄れるわけです。それが、連合王国(英国)のEU離脱という事態になって、ハンドルを誤れば北アイルランドでは小国内で多数派と少数派の対立する状況が復活しかねません。困ったことです。対してこちらキプロスは、南半分だけがEUに加わってみたが、そうなればいっそう北半分の孤立が進みます。「EUに入れてやるから」といわれても、イスラームのトルコ系住民がそれを喜ぶのかどうか。ひとつの島でもマイノリティなのに、人口5億人の欧州の一部となれば半端なく微小な存在になってしまうのではないか。
城壁の外側の空堀部分は、グラウンドや駐車場として活用されている
自由記念像
城壁のでっぱりの一つに小公園が造られていて、自由記念像(Άγαλμα της Ελευθερίας / the Liberty Monument)なるモニュメントが置かれていました。右手を挙げた女神像が、兵士や労働者とおぼしき人々を見守るような構図になっています。英国からの独立を記念するもののようです。普通は独立を喜ぶものですが、隣国に吸収合併されたいという不思議な願望が強くて、おかしなことになったのでしたね。このモニュメントも、よく見ると両サイドにキプロス共和国とギリシア共和国の国旗が対等の格で立てられています。ま、不思議だとか意味がわからんというのはヨソ者の勝手な言い草であって、現地に行けばそれが正解だというのがいつもの私のスタンスです。いまもそのように考えなおすことにしましょう。東地中海に来てみて、出会ったことのないようなタイプの国家をリアルに見ることができた、というおもしろさ、ということにしておきましょうね。
PART5につづく
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