Chypre : un pays divisé inconnu ("deux pays" divisés?)


Map: Kythrea Press and Information Office

PART2

 

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オスマンは一種の普遍帝国でしたので、スルタン(皇帝)はトルコ人、トルコ語が公用語であったとはいえ、首都イスタンブール自体が多民族共存でしたし、支配階層にトルコ人以外が入り込むのも普通のことでした。スルタンの生母などむしろ非トルコ系ばかりです(外戚を増長させないための知恵でもある)。ギリシア本土を含むバルカン半島では、ギリシア語が普遍語であり、ギリシア正教の聖職者が地主層と一体となって統治に関与しました。東地中海全体を統べる帝国でもあり、宗教や言語の違いで大きなトラブルが発生するということはなかったのです。しかし西欧で市民革命がおこり、ナショナリズムという厄介な怪物が出現すると、オスマン域内にもその毒が入り込んできます。また、勢力を拡大させた欧州列強は東欧・中東方面への進出をさかんに試みるようになりました。文明の交差路、交通の要衝であったキプロス島は、オスマン帝国のふところに抱かれた安楽な場から、列強×オスマンの最前線の島へとその意味合いを変えることになります。1830年にギリシアの独立が達成されると、ギリシア系がマジョリティであるキプロスにもナショナリズムが少しずつ現れました。この場合、キプロスという国家を独立させるのではなく、ギリシア王国に引き取ってもらうということにほかなりません。

19世紀半ばの情勢は、ギリシア独立でかなりのダメージを負ったオスマン帝国に英国とフランスが肩入れし、南下を図るロシアと対決する構図でした。オスマンからの完全自立をもくろむムハンマド・アリー朝のエジプトがこれに絡みました。英国は、完全植民地化しつつあったインドへのルートを確保し、中東に勢力を拡大するため、オスマン帝国やエジプトをたくみに操り、東地中海に足場を築いていきます。ドイツのビスマルクが仲介役となってバルカン半島の勢力を確定させた1878年のベルリン条約で、ついに英国はキプロスの統治権を獲得しました。オスマン帝国の宗主権を認めたまま実質的な支配領域としたわけです。この時期の「オスマン帝国の宗主権」というのは有名無実化される決まり?になっていて、ルーマニアもボスニアも、やがて質流れでもするかのように奪われていきます。第一次大戦の勃発(1914年)と同時に英国はその宗主権を否認してキプロスに軍隊を侵攻させ、完全併合を宣言しますが、実質的な英領化はもっと前にはじまっていたことになります。新たな主人である英国は、あちこちでやらかしたのと同じように、住民をギリシア系、トルコ系というふうに色分けして対応しました。なんなら対立を煽っておいて仲裁するくらいのことを繰り返します。古代ローマから学んだ分割統治(divide and rule)というやつです。ギリシア系のナショナリズムは、前述のように「本国」たるギリシア王国への併合を求めるものなのでこれは困る。だから英国の支配層は、「マイノリティだけどトルコ系もいるんだぞ」と強調して、トルコ系に対しても「もっと主張しなよ」とけしかけました。中東欧やバルカン半島のあちこちで見てきたような話が、この小さな島でもはじまろうとしています。

 
 
ありがちな住宅街ではあるが、言語と文字は何種類もある ゆえにか、英語を教えてくれそうな学習塾も・・・

 

同じ道を引き返すのでは芸がないので、だいたいの方向だけを押さえながら南に向かいます。とはいえ道路が直線ではなく、交差点もことごとく変形十字または丁字なので、たまに地図を見返さなければおかしな方向に進みかねません。景観は欧州ばなれしているが、セキュリティ上の問題はどこにも感じられず、のんびりして平和そのもの。晴天で温暖、いうことありません。4年前のこの時期に北アイルランドを訪れた際には、「そんなところに行って大丈夫なの?」という質問というかご心配を何件かいただきました。「北」がつけば「紛争」という連想になるのが、社会科の常識ではあります。いま歩いている旧英領の島国だって、教科書の同じ単元に紛争地域として登場するはずで、それにしてはそうした連想の声は聞きませんでした。古賀がよく知らん場所にひとりでのこのこ出かけていくということが知られてしまい、いまさら心配してくれなかったのだろうとは思いますが、キプロス紛争と聞いても「ずいぶん前に終わった、過去の話」としてしか認識されていない可能性は非常に高い。朝鮮戦争が1953年に「休戦」したままの状態で法的にはまだ継続しているというのと実はだいたい同じです。なるほど、韓国に行っても大丈夫ですかという心配は、たしかにないですよね(別の意味ではありそうだけど、聞かないことにします。キプロス行きに先立つ数ヵ月間に2回も韓国に行きました。なんなら翌月も行く!)。


 
(上)学校の壁に掲げられたレリーフ 「1974715日に殺害された共和国の代表者たち」とある
(下)キプロス共和国大統領マカリオス3世の像 EU旗、キプロス共和国国旗と並んで、なぜかギリシアの国旗が・・・

 

大通りというのがなさそうなこの町で、かろうじて対面通行2車線の道路に出ました。ホテル前から西に向かう道でしょう。何らかの公共の建物みたいなものがあり、そこに右手を高く掲げる聖職者の像。見るとマカリオスの名が刻まれています。ああ、これはマカリオス3Μακάριος Γ 191377)ですね。キプロス生まれのマカリオスは少年時代に修道院に入り、アテネ大学などで学んだあと、ここラルナカの主教になります。1950年には若くしてキプロス大主教の座に。正教は基本的に国家別の教会組織を営むことになっていて、イスタンブールにいる全地総主教からは独立することになっています。ヴァチカンの教皇とのあいだに世界的なヒエラルキーがあるカトリックとはそこが異なります。マカリオスが生まれたころはすでに実質的に英領でしたので、彼は初めから「キプロス正教」の聖職者でした。人望と指導力のあるマカリオスは、英国の統治を離れてギリシアへの併合をめざす島のマジョリティ、ギリシア系のシンボルになっていきます。その求心力を強く警戒した英国はマカリオスを英領セーシェルに追放、しかし逆にギリシア系ナショナリズムの勢いを煽る結果になってしまいました。しかもギリシア系の運動が高揚しすぎたことに危機感をもったマイノリティのトルコ系も、地位の保全や、さらにはキプロスとしての独立を要求する動きを見せるようになり、英国はコントロールを失いました。1956年、英国はエジプトとイスラエルの紛争(スエズ動乱)に介入しますが外交的に大失敗し、同盟国アメリカの勧めもあって(ソ連と対決する中で得策ではない!)、スエズ以東からの撤兵を宣言するにいたります。キプロスは軍事拠点としてぜひとも維持したかったけれど、自らハンドリングしそこねたこともあってこれを断念。ギリシア併合派からキプロス独立派に転向していたマカリオス3世を戻して、彼の指導する独立国家を建て、そのもとで軍事基地を維持する方針に転換しました。のちにヴェトナム戦争に行きづまったアメリカが沖縄を返還し、その後も基地の権利を手放さないのと似たような事情です。

1960年、キプロス共和国は主権国家としての独立を果たしました。マカリオス3世は初代大統領に就任し、トルコ系の副大統領とともに新国家の経営にあたります。熱烈な併合派だったマカリオスが独立容認に転じたのは、やはり冷戦下の国際情勢ゆえでした。ギリシアは戦前からの混乱を収拾できずに国力が疲弊しているし、トルコは軍に強力な力をもたせているがそれが不安定要因にもなっています。米英からすればギリシアとトルコの安定は、ソ連を封じ込めるために不可欠のことでした。それなのにこの両国はずっと仲が悪い。キプロスにおける両住民の争いが「親会社」同士の紛争に発展するのはまずいのです。賢明なマカリオスはそうした情勢を読んで、当面はギリシア系の併合熱を冷ましながらバランスをとっていくしか道がないと考えたのでしょう。「バランスをとる」とは、しかしなかなか難しいもので、トルコ系にしてみれば「権利保障はまだまだ不十分」だとなるし、ギリシア系は「トルコ系は2割にもならないのだから過大な配慮は要らない。それなら俺たちの暮らしを保障しろ」となります。独立国家とはいえ国軍を完成できなかったことから、島内には英軍、ギリシア軍、トルコ軍が駐留していました。度重なるテロや暴力行為が限界を超えたと判断した国連は、1964年に平和維持軍(PKF)を派兵し、一応の収拾をみました。

 

ここがラルナカのメイン・ストリート 小さな本屋さんを見つけてガイドブックを購入!

 

マカリオスの像が立っている地点から南に伸びる道が、どうやらラルナカのメイン・ストリートのようです。海岸道路は観光客向けのリゾート・エリア、こちらは日常生活の場ということなのでしょうか。いわゆる路面店ばかりで商店街感が強いのはどちらも同じです。洋服屋さんに帽子屋さんなど、なんだかなつかしいな。その商店街の一角に間口の狭い書店を発見。私、本と本屋は飲食(店)以上に好きかもしれない人なのですが、言語の限界というのがありますので旅先では見物する程度というのが普通です。この書店も看板にギリシア文字が見えるので、やっぱりのぞくだけかなと思って近づいたら、店先に積んである雑誌はみな英語のもの。ギリシア語の本もあるのでしょうが、書店を利用するような層は英語メディアに触れることができるのかもしれず、英語の書籍を期待して中に入ってみました。昭和時代の、町の本屋さんそのものという雰囲気で、メガネをかけたおじさん店主がヒマそうにしています。ハロー。本が好きとはいってもペーパーバックスの小説など読むつもりはなく、適当に背表紙を見ていくと、ツーリズム関係に結構なスペースをとっていました。そうだ、キプロスのガイドブックを買おう。「地球の歩き方」は前述のようにギリシア編のついでのような分量でしたし、パリでフランス語のガイドブックを探したときもキプロスとして独立したものは見当たりませんでした。見つけられなかったのは、日曜日で、シャンゼリゼのあまり大きくない書店くらいしか開いていなかったせいでもあります。さすがキプロスに来ただけあって、何種類もありますよ! で、世界で最も売れているアメリカのロンリー・プラネット(Cyprus, Lonely Planet Global, 2018)を手に取り、即購入。€20.99でした。キプロスだけで290ページもあるボリュームがすてき。いま記しているキプロス・ヒストリーは、旅先で、そして帰国後にこのガイドを読んで参考にしている点がかなりあります。

冷戦が最もピークになった時期、キプロスは英国とアメリカにとって、ソ連の動向をモニターするうえで戦略的な価値が高かった。マカリオスは政治的非同盟のポジションをさぐりはじめたが、それにより共産主義者ではないかと疑いをもたれることになった。米英両国はキューバ危機の再現を恐れ、早期の介入の必要を考えるようになった。(ibid., p.236 古賀抄訳)

PKFの指揮官は地図上で、首都レフコシア、ついでキプロス全島にグリーン・ラインGreen Line)と呼ぶ線を書き込みます。これはあくまで管理のための表現だったのですが、トルコ系の人たちはその架空のラインの北に向けて退避するようになりました。冷戦もありますし、中東は目の前ですので、一触即発という危機感は常にありました。少数派のトルコ系にとっては死活問題です。ただでさえ少ないのに、同胞が去ってしまえばさらに濃度は下がって、超マイノリティになってしまう。――そのようなアイデンティティ・クライシスは、現代世界で最も厄介なものにほかなりません。マカリオスはギリシア系の沸騰を避ける目的もあって、併合の方針をいっさいもたないことを宣言し、引用にあるように中立・非同盟路線に舵を切ります。冷戦時代の記憶のある方なら直感的におわかりのように、非同盟というのは「西側と一線を画す」ということにほかならず、米英との手切れを半ば意味していました。彼が旋回してしまった直接の原因は、1967年にギリシアで軍事政権ができたことです。男の長髪や女のミニスカートを法律で禁止し、漢文読み下しみたいな擬古典言語(カサレヴサ)を強要するなど、アナクロニズム全開のどうしようもない政権でしたが、地域の安定のためには民主主義よりも軍事独裁を指向するというアメリカの都合がまかりとおったのです。キプロスで併合派が勢いを強めれば、あの最悪の国家がこの島のあるじになる。それは避けなければならない。かくてマカリオス3世はソ連に接近、ついに「地中海のカストロ」「赤いナマグサ坊主」とみなされるようになっていきます。


1974
年夏、ということは私はもう幼稚園児になっていたころですが、事態は急転回します。一度もそこの支配を受けたことがないのに「併合してほしい」と不思議な情熱を燃え上がらせる人たちと、そんなことをされてはマイノリティの行き場がなくなると焦る少数派の人たち、そしてマカリオス3世を支持して中立・独立のキプロスを継続させようとする人たちの三つ巴が、いよいよこじれてしまいました。この島はいつだって、きわめてローカルな争いを繰り返しているだけなのに、そこに帝国とか宗主国とか列強とか近隣の国とか、国際情勢に運命を決められてきました。――オチを知っている人にはいまさらですし、調べればすぐわかるのでもったいぶることでもありませんが、キプロス紛争とそれがもたらした分断の現実については、レフコシアを訪れたところであらためて紹介することにします。

ラルナカの見どころは、地中海とキティオン、そして聖ラザロ教会Ιερός Ναός Αγίου Λαζάρου)とのことです。昨夜もこの近くまで歩いていって、ライトアップされた美しい建物を眺めています。本屋さんのあるメイン・ストリートを南に進んでいくと、教会に裏手から接近するかたちになりました。正午が近づいているためか、飲食店のテラス席に数名のグループが着いて、なにやら談笑するといった光景がみられます。

 
聖ラザロ教会 聖なる場であるため肌を露出することは禁止で、赤い布を借りて覆う決まりになっている


これは渋くて見事な教会です。9世紀後半の建立だそうで、日本でいえば遣唐使をハクシに戻したころでしょうか。東地中海の普遍帝国であったビザンツ帝国(東ローマ帝国)がイスラーム帝国との抗争に敗れていったん衰微し、そのあと復活してきますが、そのころにあたります。重いドアを押して中に入ってみると、石積みアーチの素朴な造りで、さほどの広さはなく、太い柱のほぼ全面に聖画(イコン)が掲げられています。何人かの信者さんがいて、堂内をゆっくり歩いて回り、聖画に触れたりキスしたりしながら祈りを繰り返していました。東アジアの道教にもそのような祈りの作法がありますね。聖ラザロは新約聖書に登場する人物で、その死を悼んだキリストによって生命を復活する場面で知られます。キリストの奇蹟を人々が実見して信仰を確信するきっかけとなった一方で、彼を警戒する側はいよいよ憎悪を募らせることになる、というストーリーでした。英語でラザルス、フランス語読みだとラザールで、パリの主要駅のひとつサン・ラザール(Saint Lazare)駅の名は聖ラザロに由来します。復活したラザロは海を渡ってキプロスに到来し、この地の初代主教になったとされます。その墓所に建てられたのが聖ラザロ教会。

教会に隣接してビザンティン博物館(Saint Lazaros Byzantine Museum)。入館料は€1です。博物館というほどの広さはなく、寺院の宝物館という程度でしょう。ビザンティン(ビザンツ)の名がついているものの展示のほとんどは17世紀以降、とくに19世紀のもので、ギリシア・ナショナリズムのもとでがんばって収集されたものかもしれません。下階には各種の装飾品や聖具など、上階には聖人の肖像画が展示されていました。美術には詳しくないながら、肖像の描かれ方からしてこれらも初期近代あたりではないかと思います。

 
海に面した「要塞」


きょう初めて海岸に出ました。空は青く地中海も青い。水天髣髴青一髪(水と天の青色があたかも髪の毛一本で仕切られているようだ by 頼山陽)。ラルナカ付近の海岸は、さほど広くないビーチと、レジャー・ポート、地中海そのものを眺めるための簡易突堤など、いろいろな要素を突っ込みすぎている感じはしますが、散策するにはいいところです。2月なのにこれだけ温暖であれば避寒に訪れたくもなることでしょう。ラルナカ付近の海岸線は南北方向に走っていますので、この青い海の向こう側はおそらくシリアのタルトゥース(طرطوس Tartus)あたりでしょう。直線距離で200kmあるかどうかというところ。シリアの首都ダマスカスは、地中海から見ればレバノンの「裏」に隠れたような位置にあり、海岸に面した領土としてはタルトゥース港が同国で最も重要な都市ですが、周知のようにシリアは内戦の渦中にあり、タルトゥースにはロシア海軍が展開してバッシャール・アサド政権側を支援しています。そうした対岸の騒乱が本当にあるのかと思わせるほど、ラルナカの海岸は穏やかでのんびりしています。

海岸沿いに整えられたヤシ並木が途絶えるあたりにラルナカ要塞(Κάστρο Λάρνακας)があります。海に面した要塞とはめずらしいのではないか。入場料€2.50で、きょうは何かとちょこちょこ納めているね。規模は小さいががっしりした造りで、おそらく港湾を防衛するための砦(とりで)だったと思われます。ギリシア語を含めて説明板がほとんどなく、その場で由緒などを知れないのは実にもったいない。この要塞はもともとビザンツ帝国が構築したもので、中世後期のキプロス王国(Βασίλειον τῆς Κύπρου)の時期に増強されたものです。キプロス王国というのは第3回十字軍に参戦したイングランド王リチャード1世「獅子心王」(Richard I “the Lionheart”)がビザンツから奪取したキプロス島を、十字軍国家であるエルサレム王国に譲渡して成立した小国。のちヴェネツィアの勢力下に入り、1489年には完全にヴェネツィアの領土となって滅亡しました。16世紀後半にヴェネツィアを破ったオスマンはキプロス島を占領し、このラルナカ要塞を修築してひきつづき軍事拠点としたようです。紀元前からギリシア系の人たちが多く住むということはわかりますが、カトリック系のエルサレム王国やヴェネツィア共和国、イスラームのオスマン帝国の統治下でどのようにして正教ギリシア人が多数派でありつづけたのかという経緯が、ちょっとわかりにくいところはありますね。要塞の一角には小さな展示スペースがあり、中世の刀剣類や鏡などが展示されていました。

 
 
地中海を眺めながら歩く


要塞の南側の海岸は砂浜ではなく、コンクリートのプロムナードがしつらえられていました。周囲の建物の雰囲気を含めて、なんとなく外房あたりにいるような気がしてきます。民家に交じって観光客向けの飲食店がぽつぽつ見えますが、率直にいってやぼったく、ふた昔前くらいの地方の海岸を見るようです。表示がだいたい英語なのはおもしろい。どこかの壁にボンカレーのホーロー看板でもかかっているのではないかな。空港からバスで来たときに通った住宅街の狭い道にも足を踏み入れて、そのあたりをしばし散策。意外に自動車の交通量があり、道が曲がりくねっているわりに信号や横断歩道がないので歩行者は要注意です。

これでラルナカの見どころはだいたい見たと思うので、じわじわ歩いていったんホテルに戻りましょう。その途中で海岸沿いのバス停に立ち寄り、あす午前のレフコシア行きの時刻を確認します。海岸道路は南に向かう一方通行で、空港からのバスもいったん折り返して南向き(左側通行なので海側)に停車しました。同じところからキプロス島内各地へのバス路線があるようで、時刻表が何枚も掲出されています。平日午前のレフコシア行きは550分、555分、6時、630分、640分、715分、730分となぜか朝早い時間帯にたくさんあり、そのあと8時、9時、10時、11時、12時と1時間刻みになります。所要1時間くらいと聞いていますので、11時か12時の便にしましょう。ホテルと同じ建物の0階になんでも屋さんのような商店があり、ブレイク用に缶ビール1本購入。代金を支払い、店を出て建物を回り込みレセプションに通ったら、店員の女性がホテルマンと談笑していました。壁のドアがさっきの店につながっているのか。しっかりしたホテルなのに構造が田舎の旅館みたいです。テラスのテーブルにビールを持ち出してなかなか優雅なブレイク・タイムとなりました。

 


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時ころ再起動して外に出ます。きょうも暖かいので上っぱりは不要でしょう。何度目かの海岸をべたべた歩くと、前夜と同じようにヴィジターらしき人たちがやはりべた歩きしています。地元の兄ちゃんたちもいますし、全体に客層は若めかな。17時半ころにはかなり暗くなってきました。地中海と空の色はダーク・ブルーに転じています。サンセットもいいですね。ライトアップされた聖ラザロ教会を眺めてから、夕食会場を探してそのあたりをひと回りしますが、どれもぱっとしません。観光客向けの安直な飲食店ばかりなのでね。まあ、ここはそういう町なので致し方ないでしょう。また海岸に戻って、Navy Marineと看板を掲げたガラス張りの食堂に入ってみました。ここも観光食堂のようですが時間が早いせいか、奥の席でビールを飲んでいるおじさんが1人いるだけです。その人もどうやら身内に近い人らしい。お父さん、お母さん、おじいちゃんの家族経営らしく、4歳くらいの娘が店内を自由気ままに歩いています。

旧英領らしくフィッシュ&チップス、ギリシア系の島らしくケバブやムサカなどがメニューに見えます。まずは生ビールを発注。Draught Beer (1 Pint) 50 cl とあり、旧英領だからなのかパイントという単位が記されているのでしょうが、50センチリットルというメートル法の表示とは計算が合いません(英国の1パイントは56.7センチリットル)。0.5L1 pintと表示する怪しい換算は、やはり旧英領のリゾート・アイランドであるマルタでも見ており、そういうものなのだと心得ています。€3。料理はフィッシュならぬイカ&チップス(Kalamari with chips €10)にしてみました。そして、店のお母さんに28ヵ国完訪の記念写真をお願いしました。ここんちの旧宗主国である英国が離脱条件をめぐってEU側ともめているため、あとしばらくは28という数字が有効のようで、一瞬の達成ということにならずに済むみたいです。

 


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センチくらいある大きな皿に載せられて出てきたのは、とくに変哲もないイカリングとフライドポテト、それに刻んだ生タマネギ、レタス、トマト。例によって袋状のピタもあるので、イカ&チップスも野菜と一緒に包んで食べるのがキプロスの流儀なのでしょう。やってみたらそれなりに美味しいが、ビールのアテとしては揚げ物そのままのほうがいいので、あとはフォークでばくばく。イカは想像するとおりの味で、衣は小麦粉だけでパン粉を用いていないようです。近所のスーパーで売っているイカの揚げ物もうまいが、これは揚げたてだからさらに美味しいね。ばくばく。日本では居酒屋とかビアホールのおつまみであって、これがメインのおかずになることはないだろうけどね。

220日(水)も好天に恵まれました。レフコシア到着が早すぎてもチェックインできるかどうかわからないので、11時の便でゆったり出発することにしよう。ラルナカ2泊というのは、夕方に着いたことを込みで考えてもかなり余裕のある旅程です。率直にいって、ぜひ来たほうがいいよと日本の人に勧めるほどではなく、何があるわけでもないけれど、のんびり地中海を眺めるというぜいたくがあってもいいと思います。多少下世話な話をしますと、ラルナカというかキプロス全体で、トイレット・ペーパーを水洗トイレに流すのはNGです。第三諸国関係でしばしば耳にする話で、下水管が細くて詰まりやすいからですね。韓国もそういう時期が長かったらしく、ソウルあたりでも町なかのトイレでそのような表示を見かけますし、習慣や惰性を考慮して、いまは流しても問題のないはずのホテルのトイレにも箱が置いてあります。

 
キプロスの出土品(パリ ルーヴル美術館 217日) (左)前98世紀ころの壺 (右)ラルナカ付近で出土した前5世紀ころの彫像

 キプロスの水洗トイレにペーパー流すのは禁止

 


市街地というほどでもない町なかの構造は心得たので、2時間くらいかけてゆっくり散策。聖ラザロ教会と地中海には、あらためてごあいさつしておきます。1030分ころチェックアウトし、キャリーを引いて海岸沿いのバス停にやってきました。電光案内板にニコシア(Nicosia レフコシアの英名)行きの表示が出ていますので間違いありません。各方面に向かうバスがやってきて、そのあたりで待っていた人たちがわさっと乗り込んでいきます。バッグパッカー風の若者もいるので、運転手またはブローカーがタクシーの乗り合いにしないかと営業をかけている様子も見受けられました。話に乗った人はいなかった模様。前日に近くのタクシー業者の表示を見たら、レフコシアまで€45、レメソスまで€55、パフォスまで€100とありました。目安なのか定額料金があるのかは不明。この国の物価に照らせばタクシーはちょっと高めかもしれません。いまから乗るバスだと、レフコシアまで€4です。約1時間でその運賃なので、こちらはかなり安いように思います。


同時刻発のアヤ・ナパ(Αγία Νάπα)行きが先に来て、それなりの乗客を乗せて出発しました。アヤ・ナパは南国系ビーチ・リゾートの町で、ここから東に30kmくらい行ったところにあります。キプロス共和国が実効支配するエリアの東端に近いのですが、その途中にデケリア(Δεκέλεια)という区画があって、キプロス共和国ではなく英国がいまも主権を設定しています。英軍基地がある関係で1960年の共和国独立後も主権を手放さなかった地区。ほかに島南部のアクロティリ(Ακρωτήρι)もあって同様の性格をもっており、合わせて英主権基地領域アクロティリ・デケリアSovereign Base Areas of Akrotiri and Dhekelia)と呼びます。こういう区画の国際法的な地位は個別に違っていて、在日米軍の基地は地位協定等にもとづいてアメリカ側の都合が優先されることもあるが主権はあくまで日本、「敵国」キューバの国内にあることで知られる米軍のグアンタナモ基地は永久租借の状態で、どこに主権があるのかさっぱりわからない地区です。インド洋のディエゴガルシア島は英国が主権をもち、米軍にまるごと貸与している島。戦略上の拠点というのはえてしてそのように「運用」で処理されがちですし、「島」であることが多いですね。ここキプロスは、したがって2つの国家に分断されているというだけでなく、南北どちらでもない英領(ともいえないのかな?)の区域まであるということ。自称イスラム国(IS)掃討作戦に際しては、アクロティリの空軍基地が空爆機の出撃拠点として使われました。

アヤ・ナパ行きに少し遅れてレフコシア行きがやってきました。アヤ・ナパ行きが観光バス仕様の車体だったのに対して、わがほうは路線バスと大差のない、かなりくたびれたボディ。列をなして並ぶという日本人みたいな習慣は当然ないので、そのあたりにいた人たちが前乗りのドアに向かってわさっと集まりました。30人くらいいそうで、座れるかな?

 

PART3につづく

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。