Chypre :
un pays divisé inconnu ("deux pays" divisés?)
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PART2 |
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19世紀半ばの情勢は、ギリシア独立でかなりのダメージを負ったオスマン帝国に英国とフランスが肩入れし、南下を図るロシアと対決する構図でした。オスマンからの完全自立をもくろむムハンマド・アリー朝のエジプトがこれに絡みました。英国は、完全植民地化しつつあったインドへのルートを確保し、中東に勢力を拡大するため、オスマン帝国やエジプトをたくみに操り、東地中海に足場を築いていきます。ドイツのビスマルクが仲介役となってバルカン半島の勢力を確定させた1878年のベルリン条約で、ついに英国はキプロスの統治権を獲得しました。オスマン帝国の宗主権を認めたまま実質的な支配領域としたわけです。この時期の「オスマン帝国の宗主権」というのは有名無実化される決まり?になっていて、ルーマニアもボスニアも、やがて質流れでもするかのように奪われていきます。第一次大戦の勃発(1914年)と同時に英国はその宗主権を否認してキプロスに軍隊を侵攻させ、完全併合を宣言しますが、実質的な英領化はもっと前にはじまっていたことになります。新たな主人である英国は、あちこちでやらかしたのと同じように、住民をギリシア系、トルコ系というふうに色分けして対応しました。なんなら対立を煽っておいて仲裁するくらいのことを繰り返します。古代ローマから学んだ分割統治(divide and rule)というやつです。ギリシア系のナショナリズムは、前述のように「本国」たるギリシア王国への併合を求めるものなのでこれは困る。だから英国の支配層は、「マイノリティだけどトルコ系もいるんだぞ」と強調して、トルコ系に対しても「もっと主張しなよ」とけしかけました。中東欧やバルカン半島のあちこちで見てきたような話が、この小さな島でもはじまろうとしています。 同じ道を引き返すのでは芸がないので、だいたいの方向だけを押さえながら南に向かいます。とはいえ道路が直線ではなく、交差点もことごとく変形十字または丁字なので、たまに地図を見返さなければおかしな方向に進みかねません。景観は欧州ばなれしているが、セキュリティ上の問題はどこにも感じられず、のんびりして平和そのもの。晴天で温暖、いうことありません。4年前のこの時期に北アイルランドを訪れた際には、「そんなところに行って大丈夫なの?」という質問というかご心配を何件かいただきました。「北」がつけば「紛争」という連想になるのが、社会科の常識ではあります。いま歩いている旧英領の島国だって、教科書の同じ単元に紛争地域として登場するはずで、それにしてはそうした連想の声は聞きませんでした。古賀がよく知らん場所にひとりでのこのこ出かけていくということが知られてしまい、いまさら心配してくれなかったのだろうとは思いますが、キプロス紛争と聞いても「ずいぶん前に終わった、過去の話」としてしか認識されていない可能性は非常に高い。朝鮮戦争が1953年に「休戦」したままの状態で法的にはまだ継続しているというのと実はだいたい同じです。なるほど、韓国に行っても大丈夫ですかという心配は、たしかにないですよね(別の意味ではありそうだけど、聞かないことにします。キプロス行きに先立つ数ヵ月間に2回も韓国に行きました。なんなら翌月も行く!)。
大通りというのがなさそうなこの町で、かろうじて対面通行2車線の道路に出ました。ホテル前から西に向かう道でしょう。何らかの公共の建物みたいなものがあり、そこに右手を高く掲げる聖職者の像。見るとマカリオスの名が刻まれています。ああ、これはマカリオス3世(Μακάριος Γ 1913〜77年)ですね。キプロス生まれのマカリオスは少年時代に修道院に入り、アテネ大学などで学んだあと、ここラルナカの主教になります。1950年には若くしてキプロス大主教の座に。正教は基本的に国家別の教会組織を営むことになっていて、イスタンブールにいる全地総主教からは独立することになっています。ヴァチカンの教皇とのあいだに世界的なヒエラルキーがあるカトリックとはそこが異なります。マカリオスが生まれたころはすでに実質的に英領でしたので、彼は初めから「キプロス正教」の聖職者でした。人望と指導力のあるマカリオスは、英国の統治を離れてギリシアへの併合をめざす島のマジョリティ、ギリシア系のシンボルになっていきます。その求心力を強く警戒した英国はマカリオスを英領セーシェルに追放、しかし逆にギリシア系ナショナリズムの勢いを煽る結果になってしまいました。しかもギリシア系の運動が高揚しすぎたことに危機感をもったマイノリティのトルコ系も、地位の保全や、さらにはキプロスとしての独立を要求する動きを見せるようになり、英国はコントロールを失いました。1956年、英国はエジプトとイスラエルの紛争(スエズ動乱)に介入しますが外交的に大失敗し、同盟国アメリカの勧めもあって(ソ連と対決する中で得策ではない!)、スエズ以東からの撤兵を宣言するにいたります。キプロスは軍事拠点としてぜひとも維持したかったけれど、自らハンドリングしそこねたこともあってこれを断念。ギリシア併合派からキプロス独立派に転向していたマカリオス3世を戻して、彼の指導する独立国家を建て、そのもとで軍事基地を維持する方針に転換しました。のちにヴェトナム戦争に行きづまったアメリカが沖縄を返還し、その後も基地の権利を手放さないのと似たような事情です。 1960年、キプロス共和国は主権国家としての独立を果たしました。マカリオス3世は初代大統領に就任し、トルコ系の副大統領とともに新国家の経営にあたります。熱烈な併合派だったマカリオスが独立容認に転じたのは、やはり冷戦下の国際情勢ゆえでした。ギリシアは戦前からの混乱を収拾できずに国力が疲弊しているし、トルコは軍に強力な力をもたせているがそれが不安定要因にもなっています。米英からすればギリシアとトルコの安定は、ソ連を封じ込めるために不可欠のことでした。それなのにこの両国はずっと仲が悪い。キプロスにおける両住民の争いが「親会社」同士の紛争に発展するのはまずいのです。賢明なマカリオスはそうした情勢を読んで、当面はギリシア系の併合熱を冷ましながらバランスをとっていくしか道がないと考えたのでしょう。「バランスをとる」とは、しかしなかなか難しいもので、トルコ系にしてみれば「権利保障はまだまだ不十分」だとなるし、ギリシア系は「トルコ系は2割にもならないのだから過大な配慮は要らない。それなら俺たちの暮らしを保障しろ」となります。独立国家とはいえ国軍を完成できなかったことから、島内には英軍、ギリシア軍、トルコ軍が駐留していました。度重なるテロや暴力行為が限界を超えたと判断した国連は、1964年に平和維持軍(PKF)を派兵し、一応の収拾をみました。 マカリオスの像が立っている地点から南に伸びる道が、どうやらラルナカのメイン・ストリートのようです。海岸道路は観光客向けのリゾート・エリア、こちらは日常生活の場ということなのでしょうか。いわゆる路面店ばかりで商店街感が強いのはどちらも同じです。洋服屋さんに帽子屋さんなど、なんだかなつかしいな。その商店街の一角に間口の狭い書店を発見。私、本と本屋は飲食(店)以上に好きかもしれない人なのですが、言語の限界というのがありますので旅先では見物する程度というのが普通です。この書店も看板にギリシア文字が見えるので、やっぱりのぞくだけかなと思って近づいたら、店先に積んである雑誌はみな英語のもの。ギリシア語の本もあるのでしょうが、書店を利用するような層は英語メディアに触れることができるのかもしれず、英語の書籍を期待して中に入ってみました。昭和時代の、町の本屋さんそのものという雰囲気で、メガネをかけたおじさん店主がヒマそうにしています。ハロー。本が好きとはいってもペーパーバックスの小説など読むつもりはなく、適当に背表紙を見ていくと、ツーリズム関係に結構なスペースをとっていました。そうだ、キプロスのガイドブックを買おう。「地球の歩き方」は前述のようにギリシア編のついでのような分量でしたし、パリでフランス語のガイドブックを探したときもキプロスとして独立したものは見当たりませんでした。見つけられなかったのは、日曜日で、シャンゼリゼのあまり大きくない書店くらいしか開いていなかったせいでもあります。さすがキプロスに来ただけあって、何種類もありますよ! で、世界で最も売れているアメリカのロンリー・プラネット(Cyprus, Lonely Planet Global, 2018)を手に取り、即購入。€20.99でした。キプロスだけで290ページもあるボリュームがすてき。いま記しているキプロス・ヒストリーは、旅先で、そして帰国後にこのガイドを読んで参考にしている点がかなりあります。 冷戦が最もピークになった時期、キプロスは英国とアメリカにとって、ソ連の動向をモニターするうえで戦略的な価値が高かった。マカリオスは政治的非同盟のポジションをさぐりはじめたが、それにより共産主義者ではないかと疑いをもたれることになった。米英両国はキューバ危機の再現を恐れ、早期の介入の必要を考えるようになった。(ibid., p.236 古賀抄訳) PKFの指揮官は地図上で、首都レフコシア、ついでキプロス全島にグリーン・ライン(Green Line)と呼ぶ線を書き込みます。これはあくまで管理のための表現だったのですが、トルコ系の人たちはその架空のラインの北に向けて退避するようになりました。冷戦もありますし、中東は目の前ですので、一触即発という危機感は常にありました。少数派のトルコ系にとっては死活問題です。ただでさえ少ないのに、同胞が去ってしまえばさらに濃度は下がって、超マイノリティになってしまう。――そのようなアイデンティティ・クライシスは、現代世界で最も厄介なものにほかなりません。マカリオスはギリシア系の沸騰を避ける目的もあって、併合の方針をいっさいもたないことを宣言し、引用にあるように中立・非同盟路線に舵を切ります。冷戦時代の記憶のある方なら直感的におわかりのように、非同盟というのは「西側と一線を画す」ということにほかならず、米英との手切れを半ば意味していました。彼が旋回してしまった直接の原因は、1967年にギリシアで軍事政権ができたことです。男の長髪や女のミニスカートを法律で禁止し、漢文読み下しみたいな擬古典言語(カサレヴサ)を強要するなど、アナクロニズム全開のどうしようもない政権でしたが、地域の安定のためには民主主義よりも軍事独裁を指向するというアメリカの都合がまかりとおったのです。キプロスで併合派が勢いを強めれば、あの最悪の国家がこの島のあるじになる。それは避けなければならない。かくてマカリオス3世はソ連に接近、ついに「地中海のカストロ」「赤いナマグサ坊主」とみなされるようになっていきます。
ラルナカの見どころは、地中海とキティオン、そして聖ラザロ教会(Ιερός Ναός Αγίου Λαζάρου)とのことです。昨夜もこの近くまで歩いていって、ライトアップされた美しい建物を眺めています。本屋さんのあるメイン・ストリートを南に進んでいくと、教会に裏手から接近するかたちになりました。正午が近づいているためか、飲食店のテラス席に数名のグループが着いて、なにやら談笑するといった光景がみられます。
教会に隣接してビザンティン博物館(Saint Lazaros Byzantine Museum)。入館料は€1です。博物館というほどの広さはなく、寺院の宝物館という程度でしょう。ビザンティン(ビザンツ)の名がついているものの展示のほとんどは17世紀以降、とくに19世紀のもので、ギリシア・ナショナリズムのもとでがんばって収集されたものかもしれません。下階には各種の装飾品や聖具など、上階には聖人の肖像画が展示されていました。美術には詳しくないながら、肖像の描かれ方からしてこれらも初期近代あたりではないかと思います。
海岸沿いに整えられたヤシ並木が途絶えるあたりにラルナカ要塞(Κάστρο Λάρνακας)があります。海に面した要塞とはめずらしいのではないか。入場料€2.50で、きょうは何かとちょこちょこ納めているね。規模は小さいががっしりした造りで、おそらく港湾を防衛するための砦(とりで)だったと思われます。ギリシア語を含めて説明板がほとんどなく、その場で由緒などを知れないのは実にもったいない。この要塞はもともとビザンツ帝国が構築したもので、中世後期のキプロス王国(Βασίλειον τῆς Κύπρου)の時期に増強されたものです。キプロス王国というのは第3回十字軍に参戦したイングランド王リチャード1世「獅子心王」(Richard I “the Lionheart”)がビザンツから奪取したキプロス島を、十字軍国家であるエルサレム王国に譲渡して成立した小国。のちヴェネツィアの勢力下に入り、1489年には完全にヴェネツィアの領土となって滅亡しました。16世紀後半にヴェネツィアを破ったオスマンはキプロス島を占領し、このラルナカ要塞を修築してひきつづき軍事拠点としたようです。紀元前からギリシア系の人たちが多く住むということはわかりますが、カトリック系のエルサレム王国やヴェネツィア共和国、イスラームのオスマン帝国の統治下でどのようにして正教ギリシア人が多数派でありつづけたのかという経緯が、ちょっとわかりにくいところはありますね。要塞の一角には小さな展示スペースがあり、中世の刀剣類や鏡などが展示されていました。
これでラルナカの見どころはだいたい見たと思うので、じわじわ歩いていったんホテルに戻りましょう。その途中で海岸沿いのバス停に立ち寄り、あす午前のレフコシア行きの時刻を確認します。海岸道路は南に向かう一方通行で、空港からのバスもいったん折り返して南向き(左側通行なので海側)に停車しました。同じところからキプロス島内各地へのバス路線があるようで、時刻表が何枚も掲出されています。平日午前のレフコシア行きは5時50分、5時55分、6時、6時30分、6時40分、7時15分、7時30分となぜか朝早い時間帯にたくさんあり、そのあと8時、9時、10時、11時、12時と1時間刻みになります。所要1時間くらいと聞いていますので、11時か12時の便にしましょう。ホテルと同じ建物の0階になんでも屋さんのような商店があり、ブレイク用に缶ビール1本購入。代金を支払い、店を出て建物を回り込みレセプションに通ったら、店員の女性がホテルマンと談笑していました。壁のドアがさっきの店につながっているのか。しっかりしたホテルなのに構造が田舎の旅館みたいです。テラスのテーブルにビールを持ち出してなかなか優雅なブレイク・タイムとなりました。
旧英領らしくフィッシュ&チップス、ギリシア系の島らしくケバブやムサカなどがメニューに見えます。まずは生ビールを発注。Draught Beer (1 Pint) 50 cl とあり、旧英領だからなのかパイントという単位が記されているのでしょうが、50センチリットルというメートル法の表示とは計算が合いません(英国の1パイントは56.7センチリットル)。0.5Lを1 pintと表示する怪しい換算は、やはり旧英領のリゾート・アイランドであるマルタでも見ており、そういうものなのだと心得ています。€3。料理はフィッシュならぬイカ&チップス(Kalamari with chips €10)にしてみました。そして、店のお母さんに28ヵ国完訪の記念写真をお願いしました。ここんちの旧宗主国である英国が離脱条件をめぐってEU側ともめているため、あとしばらくは28という数字が有効のようで、一瞬の達成ということにならずに済むみたいです。
2月20日(水)も好天に恵まれました。レフコシア到着が早すぎてもチェックインできるかどうかわからないので、11時の便でゆったり出発することにしよう。ラルナカ2泊というのは、夕方に着いたことを込みで考えてもかなり余裕のある旅程です。率直にいって、ぜひ来たほうがいいよと日本の人に勧めるほどではなく、何があるわけでもないけれど、のんびり地中海を眺めるというぜいたくがあってもいいと思います。多少下世話な話をしますと、ラルナカというかキプロス全体で、トイレット・ペーパーを水洗トイレに流すのはNGです。第三諸国関係でしばしば耳にする話で、下水管が細くて詰まりやすいからですね。韓国もそういう時期が長かったらしく、ソウルあたりでも町なかのトイレでそのような表示を見かけますし、習慣や惰性を考慮して、いまは流しても問題のないはずのホテルのトイレにも箱が置いてあります。 キプロスの水洗トイレにペーパー流すのは禁止
アヤ・ナパ行きに少し遅れてレフコシア行きがやってきました。アヤ・ナパ行きが観光バス仕様の車体だったのに対して、わがほうは路線バスと大差のない、かなりくたびれたボディ。列をなして並ぶという日本人みたいな習慣は当然ないので、そのあたりにいた人たちが前乗りのドアに向かってわさっと集まりました。30人くらいいそうで、座れるかな? |
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