Chypre : un pays divisé inconnu ("deux pays" divisés?)


Map: Kythrea Press and Information Office

PART1

 

 


研究室にも自宅にも置いて愛用している『新詳高等地図』(帝国書院 高校地理の「教科書」扱いで検定を受けている)では「アジア」のうちに区分され、日本外務省の国別データでは「欧州」の一角という扱いを受けている国。西欧あちらこちらという総合タイトルでありながら、ここのところ中東欧や南欧への遠征がつづいていて、今回はいよいよ、そもそも欧州であるかどうかも怪しいエリアに到達します。地理的区分なんて便宜的なものです。自分の立っているところが中心だというカーナビ目線が実は正しく、客観的な座標上に位置づけて中心だの周縁だのというほうが間違っています。それでいえば、いま向かっている国がアジアと欧州の境目にあるということ自体は、まあそういうこともあるよねというレベルの話です。ただ、アジアと欧州を区切る何らかのラインというのが、その小さな島国の真ん中を横切っているとしたら、どういうことになるだろう?

2019218日(月)、いつも欧州での拠点にしているパリを朝方飛び立って、ミュンヘンでルフトハンザLH1760便に乗り継ぎ、そこから所要3時間ちょっと。キプロス共和国(ギリシア語Κυπριακή Δημοκρατία トルコ語Kıbrıs Cumhuriyeti 英語Republic of Cyprus)の空の玄関口、ラルナカ国際空港Διεθνές Aεροδρόμιο Λάρνακας / Larnaka International Airport)にやってきました。先にいっておきますと、この国の公用語はギリシア語・トルコ語という日本人にはなじみの薄いもので、とくにギリシア語は文字まで異なるため困惑するように思われるかもしれませんが、口頭でのやりとりも文字表示も観光国ギリシア以上に英語ベースですので、まったく問題はありません。1960年まで英領だったこともあり、フランスなどよりもはるかに英語度が高い世界です。まあしかしパリから来るとやけに遠いのは確かで、9時発の便だったためカルチェ・ラタンの常宿を出たのが5時半。夜が明けぬうちにシャルル・ド・ゴール空港第1ターミナルに着いてチェックインしたのだけれど、ミュンヘン行きルフトハンザLH2227便は出発が30分も遅れ、所定の時間でも45分乗り継ぎとぎりぎりだったところ、本当のダッシュになってしまいました。お手洗いに寄ることも、コーヒーを飲むこともできないままLH1760をめざしますが、そうだ、フランスとドイツはシェンゲン圏だけれどもキプロスは圏外のためミュンヘン空港で出国手続きをしなくてはなりません。テロの問題が大きくなってからドイツの出入国審査は以前の形式的なものを改めて英国に近いリアルなインタビューに変わっており、EU域内に入ったのはいつか、これからどこに行くのかなど細々と訊ねられます。ラルナカ行きのエプロンがすぐ近くだったのは幸い。搭乗口めがけて走ると、何人かが同走しています。ルフトハンザの地上係員が「ラルナカですか、お急ぎください」とボーディング・ブリッジに誘導してくれました。この調子だと乗ることはできても荷物は追いつかず、あとの便でホテルに送られてくるのではないかと思ったら、ラルナカでちゃんと請け出せました。ルフトハンザでは、半年前にポーランドのグダンスクからミュンヘンで乗り継いでパリに向かった際、最初の便が遅れてミュンヘンで2時間後の便に振り替えられています。独仏間ならばその後に何便も飛んでいるが、キプロスに向かう便はたぶんこれだけなので、旅客も荷物もとにかくコネクトさせてしまおうという仕事っぷりなのでしょう。

 

島の南海岸をなぞるように、ラルナカ国際空港に進入する

 

エアバスA321の右側窓席で3時間。アルプスを越え、バルカン半島上空を通り抜け、エーゲ海らしき海とアナトリア半島を眼下に見ながら進みます。かつての地図少年にとって「実写版」はとても楽しいものです。欧州ではおおむね片道3時間を超えると機内食がつくことになっていて、マカロニグラタンふうの食事が途中で運ばれました。逆にいうと「国際線」でも短時間であればサンドイッチやクッキー程度です。私もそういうケースに出会うことが多いのですが、キプロスはさすがに遠方。アジアかもしれないエリアですものね。恒例の機長のアナウンスでは「○○、△△、そしてトルコの上空を通ってラルナカに向かいます」と経路を伝えてくれていました。さあ、ここが複雑なおとなの事情。トルコはもともとドイツとの関係が深く、なんだったら有数の親日国でもあるので、私たちがトルコの上空を使わせてもらうことにさほどの問題はないと思うかもしれません。しかし、トルコとキプロス共和国とのあいだに国交はなく、厳しく対立する関係にあります。ドイツの航空会社であれば、そこは難なく飛び越えていけるということなのでしょうか。機体はいったんキプロス島を越えて地中海上に出てから、機首を反転させて、海岸沿いにある空港に着陸します。東側から滑走路に進入したため、海岸線に展開するラルナカの市街をわりと間近に見ることができました。

入国審査を通過し、無事に運ばれたキャリーバッグを請け出してゲートを抜けると、予想したとおりの中規模のターミナルです。ラルナカ市内へは路線バス425番という情報を予習しています。到着フロアは0階ですが、路線バスやタクシーは1階部分とつながった高架道路上から出るらしいのでそちらへ(貸切バスや自家用車は0階)。首都レフコシア(ニコシア)に直行するらしいバスや、おそらくネットで予約するタイプの乗り合いタクシーなどがいくつか過ぎ去り、やってきた425系統はごくごく普通の、変哲も何もないバスでした。運賃は€1.50。キプロスはシェンゲン圏外ですがユーロ圏です。しかし日本人にとっては違和感のないことに、左側通行です。ついでのことに電源プラグの形状は、EUの標準である丸型2つ穴のCタイプではなく角形3つ穴、英国式のBFタイプ。もうおわかりのように、基本の仕様が旧宗主国である英国のそれに準じているわけです。BFタイプ&左側通行というのは、やはり英領だった歴史をもつアイルランド、マルタ、そして香港でも経験しています。

 
 
空港からラルナカ市内へは路線バスで約20

 

旅のおともは今回も「地球の歩き方」(ダイヤモンド・ビッグ社)。ただしキプロス編などというものはなくて、『ギリシアとエーゲ海の島々&キプロス』に少しだけ集録。実際には「とエーゲ海の島々」が中フォント、「&キプロス」は小フォントで、載せる巻が見当たらなかったからここに押し込んだ感もなくはありません。このガイドブックでキプロスのページを見ると、ゼネラル・インフォメーションにつづいて示されるのがラルナカ(ギリシア語Λάρνακα トルコ語Larnaka 英語Larnaca)です。「キプロスの首都はレフコシア(ニコシア)だが、旅行者がキプロスへやってきて初めに足を踏み入れるのは多くの場合ラルナカとなる(パフォスの場合もある)。そのまま各地へと飛び立ってしまう人もいるが、ラルナカは単なるトランジットの町ではない」(2018年刊の改訂24版 p.351)。そのように勧められたこともあって、私は首都レフコシアへの直行をやめて、まずはラルナカ市内に2泊することにしました。語感がもう「春中」とか「丸中」みたいな感じで、どことなく欧州ばなれしています。とはいえ、キプロスの都市名などレフコシア以外に知っていたわけではありません。いざ行こうと思って調査を開始してから、キプロス共和国の国際空港がラルナカにあることを知ったという程度です。この国は、後述する経緯により首都に空港が存在しないという妙な状態がつづいています。かつてはあったのだが、使えなくなったため破棄されて、ラルナカにあった英軍基地を大改造して国際空港に仕立てたのでした。もっとも、ラルナカ空港からレフコシアのバス・ターミナルまでは40分程度だそうなので、よくある首都の国際空港(成田を含む)よりはマシといえなくもありません。四国の半分程度のサイズの島国ですので、相対的にはやはり遠いですけどね。

市内までの道中、およそ高い建物らしきものがなく、また道路も狭いうえになかなか直線にはならない感じで、市街地が近づくと一方通行らしきくねった道に突っ込んでいきます。うーん、行ったことはないけど景観を見せられてここは中東だといわれたら信じるかもしれない。手許の地図と車窓の景観を見比べてはいるものの、道が直線ではないこともあってなかなか現在地を追跡できません。地図のほうはどうしても直線化して描きますからね(下の概念図など極端にそうしている。私のデザイン・センスの限界です 汗)。北上していたバスは市街地の途中で二度つづけて直角に右折し、海岸線の道路を逆向きに南下して、やがて停車しました。車内アナウンスなどはないので、運転士さんにThis is City Centre? (発音には反映されないが、いちおう英国式の綴り)と聞いてみたら、イエスと。降りてみると、海岸道路にはリゾート・マンションや、マックやスタバなどのありがちな店舗などが並んでいて、リゾート感しかありません。この都市というか島には鉄道がありませんので、バスの停留所の立地はとても重要です。どうやら、外国人旅行者が最も集まりやすいリゾート地区に停まったようです。


ラルナカ市街の概念図

 

予約していたフランジオルジオ・ホテルFrangiorgio Hotel)は停留所から徒歩5分くらいのところにありました。例によってブッキングドットコムの世話になっており、ジーニアス割引で2泊朝食つき€93.60と激安。ま、本当に激安なのかどうかはこの国の相場全般を見てみないとわかりません。今風のマンションみたいな造りで、レセプションまわりもシックで清潔。部屋に通ると、かなり広くて快適なうえに全面採光になっていて、たそがれどきを迎えつつあるラルナカ市内を一望できました。部屋の造りもマンションっぽいので、時期が来たら転換できるようにしているのかもしれません。これなら1€93だったとしても文句はないところです。幸先よし。

 

 
フランジオルジオ・ホテル

 

17時ころ外に出ました。けさまで滞在したパリから時計を1時間進めています(UTC+2で、日本との冬の時差は7時間)。日が沈みかけているので、まずは海岸に出て、サンセットを眺めることにしましょう。ラルナカには23日で、おそらくあす1日あればだいたいのところは見て回れる規模なので、きょうのところは海岸線を少し歩いて夕食ということでよかろうね。ホテルはすっきりしているけど、周囲の建物はけっこうくたびれていて、言い方はアレながら発展から取り残された日本の地方都市にありがちな雰囲気。ラルナカないしキプロスの実際がどうなのかはよく存じません。ラルナカ自体は人口数万人程度の小都市ですので、さきほどバスで通り抜けた南北方向の道路(北に向かって一方通行)も、華やかなショッピング・ストリートというのではなく「商店街」感がたっぷりです。住宅街との境界もほとんどありません。バスを降りた海岸道路にあらためて立つと、道路は南に向かって一方通行の1車線ですが、両側の歩道がやけに広く、ヤシの樹が配置されています。南欧のリゾート都市の造りはだいたいこのようなセンスになるな。ここラルナカも欧州各地から人々が集まる避寒地として知られます。ただ、2015年暮れに訪れたマルタと比べると格が落ちるらしく、小金持ち層が家族連れで訪れるようなイメージ。毎年、家族で軽井沢に行くのが恒例なのよ〜という感じの層でしょうかね。ですから海岸沿いのショップに高級ブランドは見当たらず、飲食店もファストフードやファミレス風がほとんどです。

お、地中海を見つめる男の立像。ストア派の創始者キティオンのゼノン(Ζήνων ὁ Κιτιεύς 前352255年 生没年には諸説あるようで、これは台座に刻まれていた数字)のようです。ちょうど1年前にアテネのアゴラを訪れていますが、彼がアゴラの柱廊(ストア)で講義したことからストア派、ストイックという語が生まれました。不勉強でキプロス出身だったとは知りませんでした。キプロスの民族は紀元前からかなり混交しており、ゼノンのオリジンが何であったのかははっきりしません。乗っていた船が事故に遭い、たまたまアテネに流れ着いて、そこで哲学に出会ったとされています。

  ゼノン像

 

ヤシ並木は砂浜に面しています。さほどの幅はなく、すぐそこに地中海。海面は深い藍色で、空の色との境目がそろそろあいまいになってくる時間帯です。パリではダウンコートでしたが、キプロスはかなり温暖だということでしたので、薄いウィンド・ブレーカーも持参しているけれど、この気温ならばジャケットだけで大丈夫でしょう。ラルナカは北緯3455分で、東京とほぼ同緯度。もちろん気温は緯度によってのみ決まるのではなく海流や季節風によるところが大きくて、冬のキプロスやギリシアは東京よりずっと温暖です。だから避寒地なんですね。

初めて海外に出た大学3年生のとき、ロンドンから南仏ニースに飛び、そこで1泊しました。記憶もあまりはっきりしないのですが、ニースも典型的な避寒観光都市なので、最初に見たフランスの景観もこんな感じだったような気がする。ニースの西に位置するカンヌもまあ似たようなものです。ただラルナカは実に小ぢんまりしていて、歩いている人の数も大したことはありません。聞こえてくるのはほとんど英語、のような気がします。穏やかな地中海の向こう側、対岸200kmくらいのところにレバノンがあり、その両隣はイスラエルとシリア。ガザ地区とかヨルダン川西岸といった、ニュースでおなじみの物騒な地域もここからほど近いところにあります。シリアなどはいま絶望の中にあるのではないか。そうした距離感の中にいるのだと思っても、なかなかピンときません。「中東」のイメージからはかなり遠い、お気楽なビーチに立っています。

 
 
たそがれのラルナカ(下左写真の奥に見える尖塔は聖ラザロ教会)

 

歩道と砂浜を行きつ戻りつしながら南へ。ラルナカ要塞の手前を右折して、いったん海岸を離れ、聖ラザロ教会を望みながらそのあたりの路地をじぐざぐ歩きました。やはり幅広の道はなくて、江戸時代の町並を保全する地区みたいな感じもあります。レストランの客引きが何軒かあったのですが、ありがちなしつこさもなくて、観光地っぽさもどことなく中途半端。また海岸道路に戻ってきて、スタバなどの並びに見えたレストラン、To Apxontikon / Το Αρχοντικόνに入ってみました。外観も内装もどことなくコロニアル。ディナー・タイムがはじまりかけているらしく、次々にお客が入ってきます。料理を発注して、飲み物はビールをオーダー。英語のメニューのビールの欄には、おなじみデンマークのカールスバーグとKEOなる品の2種類が載っており、どちらも63clとあるので大びんのようです。端数のつけ方が日本と似ていますね。KEOというのは初見なので店員さんに訊ねたら、サイプラス(キプロス)・ビアとのこと。じゃあそれにしよう。「大きいですよ」と店員さん。だってこれより小さなサイズないじゃん。しかも大びん1本なんて居酒屋では普通(笑)。グラス・ビアならばそのあとワインを追加するところだけど、大びんだとそれだけで腹いっぱいになるため、ワインは部屋飲みに先送りします。ひとりで乾杯して、はるばる東地中海の島国に上陸した記念とします。味は普通のラガー。

乾杯という気分なのはきわめて個人的な事情です。キプロス共和国に来たことで、欧州連合(European Union: EU)加盟28ヵ国の完訪を達成しました。マルタを訪れたあたりから、これはコンプリートできるのではと思うようになり、2016年夏以降に未訪国を重点的に回るようにして、昨2018年暮れにリトアニアを訪れたところでマジック1?となっていました。2月のキプロス行きは当然織り込んでいたため、10月の早い段階でチケットを確保しています。あちこち旅する人にとってはEU完訪などどうということはないでしょうし、若いバッグパッカーにもはるか及ばない実績ですが、40代に入ってから本格的に回るようになったわりには上々の成果ではないかと自分では思っています。何より「社会の先生」としてはネタ的にいいじゃないですか。最初に足をつけたEU加盟国は1991年の英国で(当時は欧州共同体 EC)、以来28年。その英国がEUをいよいよ抜けるという話になっているのが歳月を・・・ ということでもないか。以降、訪問順にいうとフランス、ベルギー、ドイツ、オランダ、ルクセンブルク、イタリア、チェコ、ポルトガル、オーストリア、スロヴァキア、スペイン、アイルランド、デンマーク、スウェーデン、マルタ、ラトヴィア、エストニア、フィンランド、クロアチア、スロヴェニア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ギリシア、ポーランド、リトアニア、そしてキプロス。こんな自己満足企画をやってもとくに褒められることはないが、この企画がなければ足を向けなかっただろう国や地域というのは確実にあります。キプロスもその一つでした。ここに来ることになるとはね。

 

 

メニューに載っている料理は高くても€15しなくて、かなり相場が安いことがわかります。いつも滞在しているパリは物価が突出して高いのだけど、ドイツやベネルクスでもきちんと着席しての食事は料理単体で€15前後になるのが普通で、飲み物などを加えると€20はまず超えます。1桁ユーロで食事しようとすれば、サンドイッチを買うとか、ファストフードや総菜のイートインくらいしか考えられません。ブルガリアなどもかなり物価が安いなと思いましたが、ここキプロスは通貨が同じであるためシンプルに比較できてしまいます。さて料理はOn the Charcoal(炭火焼のことで、グリル台のイラストが添えられていた)とFrom the Pot(フライパン料理?)の2カテゴリに整理されています。後者はギリシア語ふうの料理名が多く、もちろん英語の散文で説明されているので概要はわかります。たいていはピタ・サンドかパスタ、肉料理。いっぽう炭火焼のほうは、料理の仕方が明らかだからか主に素材が記されています。ポーク・ケバブ、チキン・ケバブ、ラム・ケバブ、シェフターリ(sheftalies)、チキン・フィレ、ビーフ・レバー、伝統的なポークのムピテキ(mpifteki)のクミン風味、ジャンボ・ポーク・チョップ、ラム・チョップ。お守り代わりにリュックの底に沈めている小さな英和辞典に民族料理が載っているはずもなく、ここでググるのも嫌なので、シェフターリとムピテキはわかりませんでした。いまグーグル様に聞いてみたら、シェフターリはキプロスのソーセージで、腸詰にする代わりに豚の網脂を使用するもの、ムピテキは焼きトンのたぐいでギリシア料理だそうです。そうと知っていればシェフターリを頼んだかもしれず、英語の説明がこちらに添えられていなかったのは残念。このときはレバーを食べる気まんまんでした。尿酸値が高めなのでレバーはなるべく食べなさんなということになっていますが、月イチくらいは食べたいですよね。全品サイド・ディッシュとしてローステッド・ポテト、フレンチ・フライ(いうところのフライドポテト)、ライス、ブルグル(小麦の一種で中東あたりの主食)から選ぶことができ、ローステッド・ポテトにしてみました。

 


運ばれたレバーはかなりでかいのが2枚。香辛料が利いていますが下味をつけている感じはありません。レモンの風味とよく合って美味しいな。焼肉屋さんでは、禁止になる前からレバ刺しではなく焼きレバー派でした。フランスでも何度か食べたことがありますが、いちばん記憶にあるのはドイツのベルリンで食べた煮込み風のレバー。ビールとレバーって最強の組み合わせだよね。場所柄なのかピタが添えられています。よく見ると、おいなりさんの油揚げみたいに袋状になっており、ここにおかず(レバー)を挟み込んで食するというもののようです。試しにやってみたらもちろん美味しかったが、なんとなく肉をそのまま切って食べるほうがいいような気がしたので、ピタはそれ単体で。欧州ではたいてい食後にエスプレッソを頼むことにしており、あらためてメニューを見ると、サイプラス・コーヒーまたはインスタント・コーヒーの2種類でいずれも€2と。よくわからん選択肢ながらここはサイプラス一択でしょう。「お砂糖を入れますか?」とあらかじめ聞かれました。おそらくトルコ・コーヒーなのでしょう。エスプレッソと同じサイズの器に入ったコーヒーは、たしかに一口なめてみると粉と液体が未分離でこのまま流し込むわけにはいきません。沈澱を待ちます。もともと中東の物産だったコーヒーはこのようにして上澄みを飲むものだったが、近代の西欧でフィルターとかサイフォンが主流になったのでしたね。砂糖入りの場合は砂糖ごとあらかじめ混ぜてから沈澱させるやり方だったと思います。トルコとサイプラスのあいだに違いがあるのかどうかは知りませんが、たぶん基本は同じでしょう。トルコ式と名乗らせたくない事情があるのかどうかも、ひとまず知らないということにしておきます。お水が添えられたのでかなり濃いのかなと思ったら、さほどでもありません。フランスのエスプレッソよりも薄い(イタリアのエスプレッソは死ぬほど濃い)。焼きレバー€10.50、ビール大びん€3.50、コーヒー€2でトータル€16は相当に安い感じがします。

レストランの裏手の路地にミニ・マーケットという看板を掲げた小さな何でも屋さんがあるのを来るときに確認しており、そこでパブ・タイムの燃料を購入。€5台のがほとんどの赤ワインの中から€8を超えるボトルを手にしたらKEOと書いてあります。レストランで飲んだビールと同じだ。そのKEOの缶ビール0.5L、ミネラル・ウォーター1.5Lと一緒にレジにもっていったら、中東系の顔立ちの初老おじさんが「これ(ワイン)はKEOでベリーグッド、こっち(ビール)もKEOKEOKEOKEOはとてもいいよ」と力説。国産品を箱推しする精神のようですばらしい(笑)。ワイン€8.30、ビール€1.20、水€0.90で、トータル€10.40。レシートは上段に英語、下段にギリシア語で同じ内容を記してあります。摘要がいまいち不明確ですが添えられている数字はおそらく消費税率で、ビールと水は5%、ワインは19%となっていて、おなじみの複式税率ですが、ビールが必需品扱いになっているようなのは不思議。ゆとりのあるホテルの部屋でゆっくりとKEOをいただきました。ワインは南部の主要都市レメソス(Λεμεσός 英語ではリマソールLimassol)の産だそうです。ちなみにキプロスはワイン発祥地の一つと目されています。誰が考えたのか知らないけど、古代の人たちありがとね。

 

  


2
19日(火)は朝から晴天。朝食会場は最上階とのことで、行ってみると展望ダイニングでした。とくに何が見えるというわけではないが、北の地平線方向には裸の(樹の生えていない)テーブル上の地形がつらなっており、興味深い。あす向かう首都レフコシアはあの向こう側のはずです。朝食は予想どおりにブリティッシュ・スタイルで、焼きトマトにビーンズ(白いんげん)、そしてトースト。トーストの味が微妙なところまで旧宗主国をなぞらなくてもいいのに。食事制限の関係で旅先ではランチ抜きを標準にしていて、きょうもそのようにするつもりです。朝はしっかり食べておきましょう。

きょう最初のお目当てはキティオンΚίτιον / Kition)。ホテルから北にゆっくり歩いて15分ほどのところにある、古代都市の遺蹟です。そこまでの経路も狭い道がくねっていて、都市計画などという概念とはおよそ無縁の住宅街です。アスファルトのメンテナンスがなっていなくて路面がガタガタなのはブルガリアと一緒。本当は、その道筋にあるラルナカ考古学博物館も見学してみたかったのだけど、臨時休館とのことで残念でした。パリの市街地などでは一戸建ての住宅というのが規制されて建てられませんので、戸建てと集合住宅が無造作に?あらわれるラルナカの景観はなかなかおもしろい。私が子どものころの、東京郊外の住宅地もこんな感じだったな。

 


キティオンは遺蹟公園として公開されていますが、その区画の手前にも結構な規模で発掘している区画がありました。東地中海の有力な都市国家だったようなので、面的な広がりもそれなりにあるものと思われます。本体部分は€2.50の入場料で見学できますが、雰囲気だけでよければ柵の外側から眺めても様子はつかめます。ま、ケチるほどの金額ではありません。チケット売り場を兼ねた建物に係の男性がいて、どちらからですかと訊ねられたのでジャパンというと、「ふうん」だと。逆の立場で「キプロスから来ました」といわれたらたしかに「ふうん」だな(笑)。

お断りしておきますと、私はどうも古代史というのが不得意で、考古学はさらにダメ。古代遺蹟を見学して説明を読むと、その場では「ふうん」となるのだけど、頭に入ったためしがありません。古代地中海文明の遺蹟なんて、見る人が見たらおもしろくてたまらないんでしょうねきっと。いや私もその場ではおもしろがっているのですが、それをストーリー化するほどの知恵がないということでお許しください。この遺蹟に掲げられていた「キティオンの歴史」(もちろん英語版を読んでいる)によれば、キティオンはフェニキア人によって紀元前1300年ころ建設された都市とのこと。フェニキア人の故地はいまのレバノンあたりですのですぐ目の前ではありますが、キプロス島の支配をもくろんだ直接の理由は、この島に産する銅鉱石を手に入れるためでした。キティオン遺蹟には製銅所の跡らしきものも見えます。融点の違いを利用して鉱物から金属を鋳出するというのは誰が考えたんでしょうね。すごいな〜。銅は英語でcopper、そのもとはラテン語のcuprumで、それが元素記号Cuのもとにもなっているわけですが、cuprumはキプロスに由来する呼び方とされます。考古学は苦手だけど、理科(とくに化学)の教員の育成は本務でもあるので、科(化)学史の素養をつけておきなさいよと学生たちにはいっておこう。ある意味ここは「化学」の揺籃の地ですよね。

 
 
キティオン遺蹟

 

この遺蹟では、紀元前1300300年ころとかなり長期にわたる生活・生産の跡が層に表出しているそうです。フェニキア人たちが最初に営んだ都市は「海の民族」(Sea Peoples 古代史を知っている人は「出た!」っていうだろうね)にやられていったん破壊され、前1200年ころ再建。神殿や製銅所などがみられるそうです。前1050年ころこの都市はいったん破棄され、前850年ころに再建されました。再建したのはフェニキアの都市ティルスの人たちで、このときキティオンの都市名が与えられた模様。前800年ころ火災に遭ったがまもなく再建。前707669年アッシリア帝国の支配下に入る。前570545年にはエジプト王国の支配下に。このエジプト王国は、一時期アッシリアに統合されたあと独立したものです。リュディア、ミディア、新バビロニアなどと並立した時代ですね(苦手とかいいながら世界史の試験はほぼ満点だったもんね^^)。前545332年、アケメネス朝ペルシア帝国の支配。ただ、この間もキティオンそれ自体はフェニキア人のポリスでした。それが最終的に失われるのは前312年。アレクサンドロス大王の侵攻に際してはペルシア側に立って戦ったものの敗れ、大王の死後に自立したプトレマイオス朝エジプトに攻略されて、フェニキア人の王がついに殺害され、都市も破壊されました。遺蹟の説明書きにしては非常にわかりやすい年表式の解説で、ありがたいです。


二宮書店版 デジタル世界地図「ヨーロッパ」より(一部)

 

冒頭で、自分の立っているところがあくまで中心であり、地図上で端に見えるからといって周縁などと呼ぶのは間違っていると指摘しました。パリからは相当に遠くて「周縁への旅」を実際に意識しましたし、標準的な日本人の視野からはおそらく漏れる国というか島だろうと思います。でも、あらためて地図を見て、そこに古代文明の分布を重ねてみれば、エジプト、メソポタミア、フェニキア、ヒッタイト、スキタイ、そしてギリシアといった古代世界のメジャー・リーガーたちから等距離に位置する、文明の交差路、周縁どころか「ど真ん中」じゃないですか! アジアとか欧州といった概念をあとからはめるのではなく、キプロスはキプロスなのだということで、よいでしょう。突き抜けるような青空の下で遺蹟を眺めているうちに、そんな気になってきました。ところで、トルコ系の住民がいるのは地図を見ればわかるが、けっこう離れたギリシアに由来する住民がマジョリティであるというのはどうして?という疑問が普通に思い浮かびます。答えはわりに易しくて、いま「トルコ」になっている小アジア(アナトリア)は歴史的にはずっとギリシア文化圏で、「中世ギリシア帝国」とも呼びうるビザンツ帝国(3951453年)が15世紀に滅亡し、トルコ系のオスマン帝国(1299?1922年)が支配者になってからも、ギリシア系とはずっと混住、混交していたのです。いまみたいに、アジア側=トルコ=イスラーム、欧州側=ギリシア=ギリシア正教 というふうに純化されたのは第一次世界大戦後のこと。ですからキプロスは、ギリシア文化圏のすぐ隣に長く存在したことになります。滅亡100周年を前に、オスマン関連のブームが起こりはじめているようで、私もそこには強い関心があります。今日につづくバルカン半島や中東の混迷は、オスマンの弱体化と英仏露の容喙にこそ主因がありますよね。第一次大戦で敵側に回ったオスマンからキプロスを強奪したのは、この手の話で必ず出てくる英国でした。1914年のことです。

 

PART2につづく


*本稿では「北キプロス・トルコ共和国」をはじめとして、日本政府が承認しないいくつかの「国家」の名称を記しています。これは実態に即した判断であり、かつ本稿の記述意図により正確に沿うためのものであって、日本をはじめとする各国政府の公式見解に対して支持または不支持を表明するものではありません。
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=125円くらい、1トルコリラ=21円くらいでした。

 


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