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どこかでコーヒーでも飲むかなと思って歩いているものの、探すときにかぎっていいカフェがないのはいつもと同じ。教皇宮殿の見学を明日まわしにしているため、この日はとくに目的があるわけでもなく、ただぶらぶらしています。宿が町外れの駅横なので、いったん戻って休憩して、また市街地に来るというのは逆に疲れそうです。もう少し時間を稼いでから、どこかで晩ごはんを食べてホテルに帰るというのがベターでしょう。石畳の旧市街を2周くらいして、時計台広場に戻ってきました。クリスマス・マーケットはナイター仕様になっています。依然として多くの人でにぎわっていますね。
ペルピニャン同様に道路名は2言語併記(フランス語/オック語)
日が暮れてクリマっぽくなってきた!
前述のように、フランスではディナータイムがやたら遅いので、18時台というのはちょっとアレなんですが、国際的な観光地でいろいろな人が来ているし、さほど違和感があるということにはなりますまい。パリでも、レストランでなくブラッスリーなら普通に夕方でも肉食べている人いるし。で、裏道に入ったり路地をのぞいたりしてみたものの、これという飲食店には出会えませんでした。あとから考えると、どうも旧市街の向こう(東)側がよかったように思えましたが、このときはカンがはたらきませんでした。結局、レピュブリック通りを駅のほうに戻ってきて、例のインフォメーションの斜め前あたりにあった食堂に入りました。シーフード系が売りらしく、その種の店でよくみられるように、カキなどの魚介類をさばくコーナーを道路側からのぞけるようになっています(手打ちそばのデモンストレーションみたいなものです)。店内に案内されると、前の席に座っていた初老のおっちゃんはムール貝のバケツ盛りをしゃぶりながらビールを飲んでいます。あれは9月にパリで食べたからいいや。といって、牛肉は昨夜食べたしなあ。本格レストランではなく軽食もとれるブラッスリーなので、パスタ&ラヴィオリ(Pâtes & Ravioles)の欄から選ぼうかな。サン・ジャン・アン・ロワイヤン風ラヴィオリのグラタン、エクルヴィス入り(Gratin de ravioles Saint Jean en Royan aux écrevisses)というやつにしてみよう。私がこの手のものをフランスで食べるのはめずらしい。エクルヴィスというのは食用ザリガニの一種ですね。生ビールを頼んだらクローネンブール1664が来ました。おー、フランスっぽい。
ディナー
早い時間ながらそこそこにお客はいます。後ろの席は50代くらいのマダムで、店員とのやりとりを聞くかぎりではフランス人ではなく、英語圏の人でもなさそう。英語で話しているのだけどネイティヴっぽくない話し方なのです。前の席のおっちゃんはかなり酔いが進んでいて、ワインをもってきてくれとか、何がどうだとか、いちいち店員を呼び止めてはからみます。支払の段になったら財布からお札を出すのにも手許がおぼつかないというありさま。いちいち付き合っている店員さんもエライですね。欧州では、ぐでぐでに酔っ払うおっちゃんを見かける機会があまりありません。よほどしゃんとしているか、人種的にアルコールに強いか、やばそうな客に対して酒類を売らないのか、われわれが行かないような飲み屋でみんな泥酔しているかのどれかでしょう。
私のグラタンは一辺20cmくらいありそうな耐熱皿に入ってやってきました。濃厚で美味いけれど、濃厚すぎてのどの奥がつらくなってきます(笑)。グラスの赤ワインを追加して、ゆっくり味わうことにしよう。付け合わせをフライドポテトでなくグリーンサラダにしておいてよかった。グラタン€16.80、ビール€3.70、ワイン€4.20で〆て€24.70。19時半ころホテルに戻り、読書したりごろごろしたり。カルフールでChâteauneuf du
Pape(教皇の新しいシャトー?)という赤ワインのハーフボトルを買ってきています。ブルゴーニュが近いためかピノ・ノワール系統のワインで、ハーフ€8.17だったから日本でフルボトルを買えば3000円くらいかな? 個人的にはもう少し渋くてもよいけれど、地元の産ということなので美味しくいただきました。
12月28日(土)はどうやら雨。テレビニュースの天気予報で土曜朝は全仏的に雨となっていたので、残念ですが仕方ない。午前中は教皇宮殿の見学のつもりなのでまだいいですが、強く降るとか、長々と降るのは勘弁してほしいです。7時30分ころ、レセプション横に行って朝食。ここもフランスなので基本的にはコンチネンタルですが、飲み物を含めてすべてセルフサービスなのはライプチヒのイビスと同じですね。ただ、この程度の内容で€9.50というのは高すぎます。思えば、おかずがもりもりついてくるドイツ方面の朝食はよかったなあ。
9時ころチェックアウトし、例によってキャリーバッグをレセプションに預けると、引換券をくれました。これが正解ですよね。まずは隣の中央駅に行き、切符売り場で午後のマルセイユ行きを手配します。中央駅構内で注文したのだから、まさか「新アヴィニョン」からのTGVの切符が来ることはないよなと思っていたら、14時20分くらいの在来線の便が提示されました。うーん、もうちょっと早いやつがいいかな。英語で発注したのだけど、つい「アヴォン」(avant もっと前)とフランス語で。窓口のおねえさんは、13時44分はいかがですかと次の候補を示します。それ、それにしましょう。マルセイユ着が14時54分なので所要70分ですか。運賃は€20.30でした。教皇宮殿とサン・ベネゼ橋を午前中ゆっくり見学することができます。
アヴィニョン教皇宮殿
何度目かのレピュブリック通りを北進して教皇宮殿(Palais des Papes)にやってきました。開門は9時30分とのことで、数分待ちます。ドイツ語を話す中高年のグループが先に来て待っていました。入場料€13、オーディオガイドが€2。このチケットでサン・ベネゼ橋にも入場することができます。
見学コースは、建て増しなどで複雑に入り組んだ建物を、円を2回描くようなルートで回ります。まずは教皇と枢機卿が会議をするところ、来客を謁見する部屋、宝物を隠した部屋への入口などなど。石造りの建物で天井が高く、当然ながら暗い(いまは電灯ですが中世にはロウソクだったはずなのでさらに暗かったことだろう)。冬場だからなおさらそう感じられるのでしょうが、こんなところに人が住んで、仕事をしていたとするなら、かなり寒かったのではないでしょうかね。時代が古いからというのもあるけれど、内部を見ても廃墟に近いイメージなのです。どうやら、16世紀あたりを最後に実質的には打ち捨てられ、監獄や兵舎として用いられ、20世紀に入ってようやく修復され文化遺産としての価値を見出すようになったとのことです。中世後期ってかなり昔ですもんね〜。日本の場合はたいてい木造建築なので、そのものが残っていることはほとんどありません。石造りの堅牢な建物があるだけでもありがたいわけです。
見学コースはなかなか上手に設定されています。建物と建物のジョイント部分が妙に狭かったり、段差が急だったりするのが昔っぽい。オーディオガイドの解説がなかなかよくできていて、1部屋ではなく展示物1件ごとにちゃんとした解説があるので、なかなか前に進めません(笑)。入場時に出会ったドイツ語の団体さんとは、終始先になり後になってコースをたどっています。見ていると、全員が同時通訳機みたいなレシーバーを耳に引っかけており、ガイドさんが小型マイクで説明して電波を飛ばしているようです。館内の表示はフランス語と英語、ときどきスペイン語(カスティーリャ語)です。個人的に、勉強した総量の関係で、歴史に関してはフランス語のほうがいいな。
大食堂 当然のことに作法はやかましく、毒見役が何人も控えていたとか 右は調理場跡
グラン・シャペル(大チャペル)
全般に、教皇(庁)というのはすごい、というトーンで展示されています。でも、そもそも何であったかを振り返りますと、そもそも教皇の権威が低下してしまったからこそフランス王に従属するような立場に置かれ、ローマを離れてアヴィニョンにやってきたわけですから、ここは栄光の跡ではなく、まさしく「捕囚」の跡です。捕囚の期間は1308〜77年の約80年間。これ以上長引いていたら、もうローマに戻ることはなかったのではないかと思われます。80年といえば、教皇も枢機卿も下々の坊さんたちも、みなローマ時代の記憶がないわけだし、基本的にはフランス王の世話になっているわけだから、ローマ復帰を願う気持ちがあるとすれば、代々受け継いできた怨念とか、フランスの態度への反発とか、そういうものではないかと思います。この間、1337年には、そのフランス王国の王位継承をめぐって(本当はフランドルの利権をめぐって)イングランド軍が北仏に侵入し、いわゆる英仏百年戦争がはじまりました(〜1453年)。アヴィニョンは教皇領であってフランスではありませんでしたが、フランスは棟つづきの大家さんみたいな存在ですから、人ごとではありません。南仏方面にも戦争の影響が現れはじめました。西欧のあちらこちらで、封建領主どうしの権利関係、力関係が再編成を迫られていた時期でした。従来はそれらに対して超越的な地位にあるはずだった教皇も、ひとりのアクターとして振る舞わざるをえません。1377年、グレゴリウス11世(Gregorius XI この人もフランス人)はアヴィニョンを去って、教皇庁をローマに復帰させることを決断します。しかし、この教皇はその翌年に亡くなってしまいました。
新教皇の選出は、古来コンクラーヴェ(conclave)にておこないます。最も近いところでは2013年3月に現教皇フランシスコ1世(「1世」をつけるかどうかは論者によって意見が分かれます)の選出にかかわって実施されました。かなり時間をかけ、枢機卿による選挙が秘密裏におこなわれるわけですが、グレゴリウス11世の後任として選出されたのはナポリ人のウルバヌス6世(Urbanus VI)でした。ようやく教皇を取り戻したローマの雰囲気は反フランスに満ちており、何としてもイタリア出身者をという強い期待がウルバヌスの登極を後押ししたのです。これに不満をもつフランス系の枢機卿らはローマを脱出し、対立教皇クレメンス7世(Clemens VII)を擁立してアヴィニョンの教皇庁を復活させます。百年戦争の裏番組(オモテかな?)で、落ち目の教皇庁どうしが正統性を争っていたわけですねえ。アヴィニョンの教皇を支持したのはフランスのほか、スコットランド、ナポリ王国、バルセロナ、アラゴン、カスティーリャ、ポルトガル。ローマ側に立ったのは神聖ローマ皇帝、イングランドなど。南北朝時代の日本と同じで、基本的には「敵の敵は味方」的な行動原理に沿っています。おっと、イベリア半島関係が顔を出していますね。教会大分裂の当時、バルセロナ・アラゴン・シチリアは同君連合のもとで最盛期を迎えていました。このあとアヴィニョンの教皇は、後ろ盾だったはずのフランス王と対立して追いつめられ、一時はローマを含めて3人の教皇が対立するという訳のわからん展開になり、1415年にようやくローマに一本化されました。廃位された最後のアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世(Benedictus XIII)は、この地を追われ、バルセロナ伯の庇護を受けてバレンシアに亡命しました。
コンクラーヴェののち、選出された新教皇はこの窓から姿を現した
30年ちかく前、前述の青木裕司先生は、英仏独などではなく地中海を軸に歴史を捉えるとダイナミックでおもしろい、という趣旨の話を聞かせてくれました。でもそのころは、その意味を実感できませんでした。私の思考回路が「いまの国境」という枠組を乗り越えられなかったせいだと思います。ずいぶん長い時間をかけて、国民国家の毒を抜いてきました。実際にこのあたりに足を運んで、軸をずらして欧州を眺めるという作業をいましております。
2時間弱をかけて教皇宮殿の内部を見終えました。このくらいの時間から入場してくる人が増えています。ミュージアムではないながらミュージアムショップ?もあって、けっこう充実しています。さあ次は、宮殿の北側にあるサン・ベネゼ橋(Pont Saint-Bénézet)を見に行こう。階段を下り、路地みたいな狭い道路を何度か折れて城壁の門を抜けるのですが、案内板がしっかり整備されているので迷うことはありません。その途中にお土産屋さんもいくつかありました。城壁の門をくぐるとすぐローヌ川(Le Rhône)の河岸。この川が流れ出すスイスのジュネーヴと、流域最大の都市であるリヨンには行ったことがあって、川の様子も見ています。初めて欧州にやってきた1991年2月には、マルセイユからグルノーブルまで鉄道で北上したのだけど、けっこう長い時間この川沿いに走った記憶があります。欧州の川は幅が広くて水量たっぷりやな〜、噂どおりやな〜と感心したものな〜。
サン・ベネゼ橋
橋のたもとに小さな建物があり、そこが入場口になっていました。教皇宮殿の半券についているバーコードをかざすとゲートが開くしくみになっています。ここであらためて日本語のオーディオガイドを借ります(料金は込み)。橋の由緒に関する説明がやたらに長く、こちらのペースに合わん(苦笑)。雨が降ったり降らなかったりなのだけれど、折り傘を開けば風で吹き飛ばされそうなので、ちょっとがまんして、差さずに歩こう。この橋は17世紀以降に洪水などで崩落してしまい、いまは左岸側の途中まででストップしています。観光用に保全しているだけで、橋としての機能はまったくありません。でも、世界的にみても10本の指には入るくらいの著名な橋ですよね。
オーディオガイドの解説を斜め聞きしたところによれば、時は12世紀、羊飼いの青年が神託を受けて架橋をこころざし、この手の話の定番どおり、周囲の無理解や誹謗中傷を受けながらもそれを乗り越え、ついに完成に導いたということらしい。彼は教会によって列聖され、聖ベネゼとなった由です。伝説はともかく、この場所に橋を架けることで対岸のフランス領ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン(Villeneuve lez Avignon)との往来が可能になりました。のちにフィリップ4世「美麗王」はヴィルヌーヴに要塞を築き、教皇庁を監視すると同時に、南仏侵略の足場を固めました。
橋の正面に教皇宮殿
橋はいくつかのアーチをつらねた構造になっています。途中の橋脚部分には階下に降りる階段があり、そこに小さな教会があります。幅は3mもなく、馬は通れるけど馬車は無理なんじゃないかなというところ。世界のウンチクばなしみたいなやつで、「民謡の歌詞とはうらはらにアヴィニョンの橋の上には踊れるほどのスペースはない」というのがあります。ま、たしかに日舞なら何とかなるけど輪になって踊るのは厳しいかもね。オーディオガイドもそのあたりはフォローしていて、元来はローヌ川の中洲で、つまり橋の下で(sous le Pont)人々が踊っていたのに、なぜか歌詞では橋の上(sur le Pont)になってしまったと説明していました。橋の下で踊るというのが絵的に見えにくいというのはあったかもしれませんね。
ローヌ川
行き止まりになっている先端部分まで進んだときには、幸い雨がやんでいました。22年前に感じたローヌ川の第一印象は変わらず、ゆったり、ひろびろでいいですね。中国人の観光客数人がその場を去ったあと、今度は欧州人の家族らしき3人連れがやってきました。若いお父さんと3歳くらいの娘、そして娘のおばあちゃんらしきトリオです。50代くらいと見えるおばあちゃんが「さあ、やるわよ」などと孫に話しかけます。頬をゆるめてその様子を見ていたら、「ムッシュ、ご一緒にいかがですか?」と声がかかりました。ははあ、あれをやるんだな。それは喜んで!(Avec Plaisir!) ――ということで、4人で手をつないで、ゆっくり時計回りにぐるぐる。
Sur le pont d’Avignon, アヴィニョンの橋の上で
L’on y danse, l’on y danse, 踊ろうよ、踊ろうよ
Sur le pont d’Avignon アヴィニョンの橋の上で
L’on y danse tout en rond. 輪になって踊ろう
こちらはフランス語の歌詞を知らないので、歌っているのはもっぱらおばあちゃん。孫娘はにこにこしながら3人の顔を見上げていました。きっとあれですね、幼稚園かどこかでこの歌を教わって家族の前で披露してみせたら、「じゃあ今度そこに行って踊ってみようか」みたいな話になったのでしょう。輪になってぐるぐる回るだけの動作を踊りというのかどうかは知りませんが、かのアヴィニョンの橋の上で踊っちゃったよ! じぇじぇじぇ!! (もう古い)
どちらからいらしたのですかとマダムから英語で訊ねられたので、日本からですとフランス語で答えました。若いパパが「私は2回、日本に行ったことがあります。とてもすばらしい経験でした」とにこり。「うちの娘はトトロが大好きなんですよ! ねえ○○(娘の名前)、このムッシュはトトロの国から来たんだってよ!」――そう、おじさんはトトロの森の近くに住んでいるんだよ。娘はもじもじしておばあちゃんの背後に回ってしまいました。遺憾ながら宮崎アニメなど1つも見たことがないし、森の近くにというのもかなり上げ底ながら(実在する「トトロの森」は狭山丘陵あたり)、アヴィニョン基準で見れば「近く」で間違いないよね。「ではムッシュ、よいご旅行を」――そちらさまも。ありがとう。
来たときと少し違う道を通ってまた教皇宮殿前に戻り、すぐ南の時計台広場に面したカフェのテラス席(冬場はガラスで覆われ電気ストーブがつく)に着きました。雨まじりで少し寒いので、暖をとっておきましょう。前後左右のお客はみな観光客らしく、スペイン語とか英語を話しています。中のテーブル席ゾーンはレストランらしく、ランチの準備で店員さんたちが行ったり来たり。
そのあと、前日もうろうろした旧市街を少しだけ歩きました。小さなスーパーでミネラルウォーターを購入。0.75リットルで€0.36と安い。外国を旅行するときには、その都市の水を普通に飲めるかどうかが定かでないため、たいていペットボトルを買って持ち歩くことになります。駅とか観光施設の売店で買うと0.5リットルで€2とかもっと高いですから、スーパーとか何でも屋さんを見かけたときに購入しておくことを勧めますよ。レピュブリック通りに戻って駅方向へぼちぼち歩いていたら、歩道に面したパン屋さんがありました。お、好物のキッシュ・ロレーヌ(€3)があるぞ。直径15cmくらいある大きなものだったので、これを歩き食いして昼食に替えよう。レンジでチンしてもらい、道路を歩きながらぱくぱく。キッシュといえば、日本ではパン屋さんではなく洋風惣菜屋さんで扱うことが多いのですが、フランスではパン屋の定番です。腹だまりもいいんですよね。
13時15分ころホテルに戻り、預けてあった荷物を請け出しました。列車に乗って、さようならをいうまでが都市観光ですからね、というバルセロナの教訓はそれとして、アヴィニョンはなかなかいいところでした。インフォメーションがホテルの予約を扱わないというので出鼻をくじかれたものの、それ以外は人あたりもよくて、全般にホスピタリティを感じます。滝川クリステルの例のスピーチでは、オモテナシの部分ばかりが繰り返し流されるものの、実際にはフランス語(IOCの第一公用語)での見事なものでした。国際公約?したからには、わが東京も海外からのお客様を本当にオモテナシしなくてはねえ。オリンピックがあるからというのではなく、真にグローバルな都市になろうというのなら、世界中の都市のいいところを学んで、ダメなところも学んで、住民とともに町づくりをしていきましょうよ。イチゲンの観光客にとって居心地のいい町というのは、住民にとってもいい町に違いないのだから! 13時44分発のマルセイユ行きに乗るべく、アヴィニョン中央駅の構内に向かいます。大きな荷物をもった人が、コンコースにも待合室にもたくさんいます。さあ、いよいよマルセイユ。
アヴィニョン中央駅 これから乗るマルセイユ行きは、右の壁のさらに向こう側から出ます
PART 9へつづく
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