Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

PART7 教皇庁の町アヴィニョンで

 

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手許の切符にあるコンポステ(改札刻印)の跡を見ると、機械に通したのは1103分となっています。ちょっと早く来すぎたかな。アヴィニョン行きの編成はもう入線していたので、中でゆっくりすることにします。在来線の急行列車でよく見るタイプの、2ドア、デッキつきの車両でした。電気機関車の牽引する客車(車両自体に動力装置がない)ですね。欧州の列車は特急の1等車からローカル便までことごとく固定クロスシートを採用していて、座席の半数は進行方向と逆向きになります。もうそういうものだと思うしかありません。まだ1両に34人しか乗っていなかったので、進行方向の2人座席を確保しました。出発間際に少し増えたものの、結局ペルピニャンでは12人程度、途中駅で出入りがあって、最後までそんなものでした。

 


定刻の1118分に発車。すぐにアナウンスがはじまり、日本と同じように途中停車駅と時刻が案内されます。もちろんというかフランス語オンリー。かつては乗り鉄だったので、同じ列車に45時間乗りとおすなんて普通だったのですが、こちらの体質がのぞみ化してきたのか、ローカル列車に長時間揺られるなんてこともめったになくなりました。盆暮れに福岡へ帰省する際にはのぞみを利用することがあるものの、5時間で福岡まで行けるなら乗るさ。欧州では、20092月にパリ→トリノ(北部イタリア)を6時間かけたのが最長で、高規格の高速列車がこれだけ普遍化している欧州で在来線列車に延々(といっても3時間だけど)乗るという機会は少なくなりました。1年前にプラハ→レーゲンスブルクを約4時間かけて乗っていますけどね。乗り鉄といえば、いまの若い読者は知るまいけれど、かつて国鉄・JRに周遊券という制度がありました。たとえば北海道ワイド周遊券だと、東京から北海道までの行き帰りと道内全線の20日間乗り放題がついて、たしか学割で3万円弱くらいでした。アプローチでは急行(いまはこの種別自体がJRでは絶滅寸前です)を付加料金なしで利用できましたし、道内では特急自由席にも乗り放題でした。飛行機のLCC(ローコスト・キャリア)なんてなかった時代ではあるけれど、若者の旅行といえば周遊券だったもんなあ。で、1991年の夏、道北でおこなわれていた合宿に後から合流するために、友人のK藤君と青森行きの夜行急行「八甲田」の座席で約12時間、青函トンネル経由で函館に正午ころ着き、特急「北斗」を長万部で乗り捨てて、そこから延々と函館本線の倶知安経由で余市をめざしたのです(優等列車は登別・苫小牧経由の「海線」を通り、本来の本線筋である「山線」はディーゼルカーのローカル列車ばかりでした)。家を出てから最初の宿泊地までほぼ24時間かかる旅で、そのころまではそんなの普通でしたよ。いまなら夜通し何か飲んでいると思うけれど、そのころはアルコールとほとんど無縁の生活をしていました。高校時代からの世界史好きは、大学生になってK藤との時間無制限の歴史トークでさらに鍛えられました。「山線」の車内でもヒストリックな話ばかりだったように記憶します。そんな友人が、3ヵ月くらい前に、ひっそりと逝ってしまった。無念といったらないです。

 
 PAULで買った生ハムのサンドイッチ(美味)


進行左手(陸側)の車窓にはピレネー山脈の高嶺が見えます。右手はリオン湾。昨日通過してきたイベリア半島の付け根あたりが海越しに見えています。そのうち左手に石灰岩質の山肌が迫り、かと思うと湿地帯みたいなところに出て湖沼の水面を飛んでいるような走りにもなります。この湿地帯はしばらくつづきました。そういえばフランス南西部の地図なんて拡大して眺めたことはなく、何となく普通の海岸線がだらだらつづくのかと思っていたら、意外に変化があるんですね。撮り鉄だったら水面に映る姿ともども写すところでしょう。正午ころナルボンヌ(Narbonne)に停車。「トゥールーズ、カルカソンヌ方面はお乗り換えです」と案内がありました。ペルピニャンよりは大きな町らしく、大きな教会が見えます。乗り降りはあまりないのかなと思っていたら、くたびれた車内に不似合いな美人が乗ってきました。荷物をもって車内まで見送りに来たおっさんとキス&ハグ。お父さんだと信じよう(笑)。

76414列車はこのさきベジエ(Béziers)、アグド(Agde)、セット(Sète)、フロンティニャン(Frontignan)とリオン湾沿いの小都市に立ち寄ります。地図好きなのにほとんど記憶にない地名ばかりで申し訳ない。あとで調べると、いずれも味わいのあるところらしいので、機会があればこのへんをゆっくり歩いてみたいですね。私たちが「南仏」というときには、マルセイユから東側の、カンヌ、ニース、モナコ方面までを指すことがほとんどです。そちらは知られた観光地がたくさんあります。いま列車で通り抜けている南西部はガイドブックの記事もほとんどなく、寂しい。マニアックなエリアもけっこうカバーする「地球の歩き方」に『南仏プロヴァンスとコート・ダジュール&モナコ』という巻があり、手にとってみたら、まったくもってマルセイユ以東限定でした。「フランス」はただでさえ見どころの7割以上が首都パリにあるといわれる集権国家なので、時間的距離のかかるこのあたりは日本人観光客の意識から最も遠いエリアなのでしょうか。

1310分ころモンペリエ・サン・ロック(Montpellier Saint Roch)駅に停車。ここまでとは比べものにならぬほどモダンで立派な駅です。このあとユダヤ人が入植してつくったとされるリュネル(Lunel)、ローマ水道橋で知られるニーム(Nîmes)に停車。ペルピニャンからここまでがラングドック-ルシヨン(Languedoc-Roussion)地域圏です。地域圏(région)というのは市町村(commune)、県(département)の上位にある地方自治体で、日本は2層だけどフランスは3層なのです。ラングドックはもともとLangue d’Ocつまりオック語を話す地域ということであり、19世紀以降にパリなどのオイル語(Oil)が標準フランス語として徹底されていく中で追いやられていった地方言語が地名になっています。オック(oc)は現代フランス語のウィ(oui 英語のyes)を意味する語。

 


ニームの次のタラスコン(Tarascon)からプロヴァンス-アルプ-コート・ダジュール(Provence-Alpes-Côte d'Azur)地域圏に入ります。ここが日本人のイメージする「南仏」ですね。2009年の旅行ではイタリア側から入って、モナコ→カンヌ→マルセイユとたどりました。1991年に初めて欧州に来たときにもニース→マルセイユの鉄道旅をしています。コート・ダジュールはイタリア語ではリヴィエラ(Riviera)。この旅行から帰国してすぐ、「冬のリヴィエラ」(1982 森進一)の作曲者、大瀧詠一さんの訃報に接しています。5年前にリヴィエラをたどったときには、車窓を見ながらこの曲が脳内をぐるぐる回っていました。合掌。

1420分にアヴィニョン中央駅Avignon Centre)に着きました。前の座席に座っていたマダムが、「アヴィニョンでTGVに乗り換えるんだけどどうすれば」と検札に来た車掌に訊ねたら、「ナヴェット(Navette 連絡バスのこと)でアヴィニョンTGV駅に行ってください。案内表示を見ればバス停の場所はすぐにわかると思います」と案内していました。そういえばTGVは高速専用線の「新アヴィニョン」みたいなところに停まったなと思い出します。形容詞Centraleではなく名詞のCentreが付された中央駅は、まあまあの規模でした。ホームの雰囲気やコンコースの感じで昭和の国鉄駅を思い出します。2011年にシャンパーニュのランス(Reims)を訪れた際も、駅名がCentreなのでなぜだろうと思ったのだけど、郊外にあるTGV駅に対して市中心部(シティ・センター)という意味合いなのだと考えました。フランス国鉄SNCFの管轄もラングドック-ルシヨンからプロヴァンス-アルプ-コート・ダジュールに移っていて、ローカル列車の車体がオレンジからブルー基調に変わりました。コート・ダジュールって「紺碧海岸」の意味ですからね。

 
(左)アヴィニョン中央駅  (右)駅を背に歩くとすぐ城門(レピュブリック門)がある

 ツーリスト・インフォメーション


さて、まずはホテルを確保しよう。ガイドブックによれば、ツーリスト・インフォメーション(観光案内所)が駅から徒歩5分くらいの、中心市街地に向かう途中にあって好都合です。天気がよく、荷物を引いて歩いているとうっすら汗ばんでくるくらい。アヴィニョンはプロヴァンスを代表する観光都市なので、町の入口からして華やぎのようなものがありますね。駅を背にまっすぐ伸びるジャン・ジョレス通り(Cours Jean Jaurès)が目抜きという、方向オンチにはもってこいのレイアウトです。ところがインフォメーションのカウンターで今夜の宿をと頼んだら、40代くらいの女性職員は「ブッキング(予約)なさりたいのですか? ここではブッキングはいたしません」と意外なお答え。ああん?? ホテルの手配をしない観光案内所なんて実在するのか? なーんて、5年前にイタリアのジェノヴァで同じことがありました。ま、そういうこともあるんじゃろ。マダムは気の毒に思ったらしく、「いくらくらいの宿をお探しですか」と訊いてきました。€6070くらいですねといったら、観光案内を盛り込んだ日本語版のシティマップをくれ、「それなら、すぐそばのこの通りに3軒くらいあります。いらしてみてはどうですか」と提案。それはどうも、メルシー。

で、インフォメーションのすぐ南側(駅側)の細い道路に行ってみたら、名前の挙がったホテルはいずれもしょぼすぎて、痛々しい。タリフ(料金表)を見れば€45とかそんなものです。インフォメーションも予約業務をやっていないせいか相場を心得ていないのかもしれません。ちょっと嫌だったし、界隈にはいくつかホテルがありそうだったので、転戦しよう。来るときに見かけた中規模のホテルをのぞいたら€753つ星で、声をかけてみてもいいかなと思ったら、そのそばから20人くらいの騒々しい中国人の団体が入ってきました。こりゃダメだ。嫌中言説がキライすぎて一時期は媚中派よばわりされたほどなのに不思議な感性(苦笑)。そのちょっと先の小ぎれいなホテルも€75だったけど、こちらは「今夜は満室です。すみません」と。さっきの安宿しかないのかなあと思いかけて、ふと駅を降りた直後の絵を思い出しました。駅のすぐ隣にイビス(Ibis)があった! そのときは「このチェーンホテルは欧州どこへ行ってもありやがるな」と思ったのだけど、あそこなら大規模だろうから部屋数は十分にあるだろうし、内容も料金も一定なので、このまま荷物を引きずってうろうろするよりいいな!

 中央駅のすぐ隣(写真左)にホテルがある
  鏡の横にヘア兼ボディソープのでっかいチューブというのがイビスのスタイル!


そういえば、昨年12月にドイツのライプチヒで、ツーリスト・インフォメーションがまさかの冬休みで、そのそばにあったイビスに声をかけて泊まるということがありました。今回、出発前に見たテレビ東京の「土曜スペシャル」では、タレントが欧州をトラックのヒッチハイクでつないでパリをめざすというおもしろい企画があり、渡辺裕之がフランスのどこかでイビスに泊まっていました。よりによって無個性のファスト・ホテルみたいなイビスを選ぶなんてと思ったものの、逆に仕込みではなさそうだなと思いなおしました。まさか翌週、自分が泊まるとは(笑)。レセプションには若い女性のスタッフがいました。交渉ごとは英語のほうがいいかな。Do you have a room this night? それこそ前年のライプチヒでtonighttwo nithtsと解されて2泊ぶんの料金をとられかけたので、用心のためthis nightといっています。――Yes,sir. 本日の料金は1€66、シティ・タックスが€1.10、朝食は€9.50ですがよろしいですか? それならまったく問題ありませんので即決。支払は今がいいですか、チェックアウト時にしますかと問われたので、今すぐを選びます。何とかミクスのせいで円安がじわじわ進んでいて、めったなことがなければ今日より明日のレートが悪くなっているに違いない。3階の部屋は清潔で広く、料金に照らしてきわめて優秀。ていうか、イビスには何度か世話になっているけど、本当にどこに行ってもコンセプトが徹底されていて、気味悪いほど内装がどことも同じです。ときどきマクドナルドに行きたくなるのと同じで、チェーンホテルもたまにはいいか。

さあ町歩き。まだ15時なので、さほど広くないと思われる市街地をぐるりと一周するくらいの時間がありそうです。インフォメーションでもらったシティマップには、観光スポットの情報やおすすめの散策コースなどが見事なレイアウトで盛られています。「教皇庁の町アヴィニョン」と題するト書き部分にはこうあります。

5000年以上の長い歴史を持つアヴィニョンの地は、立地条件の良さで、様々な文化、経済の交流が盛んな場所となりました。カヴァル族の都として、フォカイア人の港として、ローマ時代にはナルボンヌ地区で最も豊かな町として存在したが、それら恵まれた条件は12世紀にかの有名な橋の建設により更に強化し、14世紀には比類ない運命を与えられました。教皇庁が遷って来て、西洋キリスト教の首都としての地位を得、著しい変動を経て、あたりは都市の様相をおびることになったのです。(「ようこそアヴィニョンへ そしてヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンへ」)

翻訳ソフトを使ったかなという感じはしますが、まあ内容はわかりますよね。「世界史」の教科書では中世後期に突然あらわれるアヴィニョンAvignon)にも、当然ながら前史があります。上記で、分詞構文みたいな部分にカヴァル族とかフォカイア人といった聞き慣れない集団の名前が出てきます。ここは、ジュネーヴ付近のレマン湖から流れ出すローヌ川の下流域にあたり、東西・南北の交通路の結節点だったようです。カヴァル(Cavares)は紀元前にいたケルト系の民族で、考古学的な痕跡を残しているらしい。フォカイア(Phocaea)は古代ギリシアのイオニア植民市の1つで、本拠地は現在トルコ領になっているエーゲ海東岸。マルセイユ(ギリシア時代にはマッサリア)を建設した人たちです。ローマ帝国の支配を経て、5世紀には相次いで侵入したゲルマン系民族によって荒廃させられました。10世紀に西フランク(=フランス)の王位を継承したカペー朝は、ペルピニャンのところで触れたように、異端討伐などをテコに南部地方への支配拡大を図り、アルビジョワ派などを徹底的につぶしました。アヴィニョンも地味ながら半自立的な都市だったのが、異端側を支持したため、フランスによって城壁を破壊され軍門に下りました。その後「比類ない」存在になったのは事実ですが、その話はのちほど。

 
(左)レピュブリック通り  (右)レピュブリック通りのフナック


ホテルのレセプションの女性は、アヴィニョンは初めてですかと訊ね、これをどうぞと同じシティマップをくれました。こちらは英語版。「この道路をまっすぐ15分くらい歩くと、町でいちばんにぎやかなところに出ます。クリスマス・マーケットも出ていておもしろいですよ。で、ここが教皇庁」と、丁寧な英語で説明してくれます。とってもありがとう。おすすめに従って直進します。インフォメーションのあるジャン・ジョレス通りはいつの間にかレピュブリック通りRue de la République)と名が変わっています。訳せば「共和国通り」で、フランスじゅうどこの都市にもたいていある道路名称。なるほど、さまざまな商店が並び、狭い歩道には人があふれています。若い人が目立つのはうれしいですね。お、マクドナルドだ。お、H&Mだ。ファストだファスト(笑)。おお、カルフール(大手スーパー)もあるぞ。帰りにワイン買っていくかな。カルフールの隣に、大手メディアショップのフナック(Fnac)があったので入ってみます。フランスで書籍、CD、ゲームソフト、AV機器などを買うならここだなあ。バルセロナにもあったけどクリスマスで休み、ペルピニャンのは見ている時間がありませんでした。ここアヴィニョンのフナックは0階と1階にけっこう広めの売り場があり、まっすぐ歩けないほどお客がいます。マンガ(Manga)には興味がないのでスルーし、教育関係の書籍を見てみたら、ほとんどがバカロレア(Baccalauréat 大学入学資格試験)の問題集でした。たしかに「教育関係」ではあるけど今から大学受験するのはツライです。でも、出版されたばかりの教育史の本を見つけて、購入することにしました。観光旅行ないしヴァカンスなのに、こういうところでちゃんとお仕事をしているところがエライですね(当然か)。

 
クリスマス・マーケットにはホットワインがつきもの(右)

 時計台広場に面した市役所


さらに進むと、にぎやかですよとホテルウーマンがいっていた時計台広場Place de L’Horlage)に出ました。南北に長い方形の広場で、三角屋根のクリマがぎっしり並んで営業しており、大いににぎわっています。道幅といい売られているものといい、浅草の仲見世を思い出します。ところどころで路肩の飲食店がテラスを出して営業しているのは、バルセロナのランブラス通りと同じ。そういえば、フランスにいることは確かなのだけど、パリなどとは町の景観がずいぶん違います。もちろん第二帝政期の都市改造でやたらに道幅を広げ空間を確保したパリは例外的なのですが、これまで歩いた北部フランスの都市ともやっぱり違うような気がします。

駅前からまっすぐに伸びている目抜き通りはこの時計台広場で行き止まりです。その先で歩行者だけが通れる道を通って、教皇宮殿Palais des Papes)前の広場に出ました。おおここか。石造りの壁に西日があたってあたたかい色味を出していますね。内部は明日の午前に見学するつもりでいますけど、外から見るかぎりでも、何というか一貫性のない建物。宮殿と称するだけにゴテゴテしていますが、あとからあとから建て増ししたのを見て取れます。そういえば、欧州に来るとキリスト教の寺院(カテドラル、バシリカ、チャーチなどなど)というのがどこでも見どころになっていて、私もよくおじゃまするのですが、宮殿というのを見る機会はそんなにないですね〜。しかも、王侯の宮殿というのではなく、ローマ教皇が主人というわけだから。

 
(左)教皇宮殿に向かう道  (右)観光用のトレインバスが坂道を登る

 アヴィニョン教皇宮殿


ここアヴィニョンがフランス領になるのは、18世紀の大革命期のことです。中世にはプロヴァンス伯領(カペー家の分家)でした。文化的にはイタリアの影響が強い地域だったと思われますが、すでに述べたように異端討伐のあと破壊されてしまったので、13世紀にはすっかり田舎に転落してしまいました。ところが14世紀に入ってすぐに、ここを「都市」としてよみがえらせる全欧的な異変が生じます。十字軍の相次ぐ失敗などでその権威を消耗させていたローマ・カトリック教会では、教皇ボニファティウス8世(Bonifatius VIII 在位12941302年)がラディカルなまでの教皇至上主義を唱えて復権をめざしていました。いっぽう王権の拡大にひた走るカペー朝フランスのフィリップ4世「美麗王」(Philipe IV, le Bel 在位12851314年)は、フランドルでの戦争にかかる戦費を調達するために、国内の教会に初めて課税することを決めます。こちらは教皇の権威が失墜していることを見透かした上での強硬策でした。フィリップはこれを正統化するため、パリのノートルダム寺院に各身分の代表者を招集して、フランス初の身分制議会である三部会(les États généraux)を開き、自らの措置に対する同意を取りつけたのです。教皇は激怒し、フィリップに破門を宣告しますが、かつての神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(教皇グレゴリウス7世の破門を解除するため「カノッサの屈辱」に及んだ)などとは異なり、「そんなの怖くないも〜ん。だいたい、この教皇さんこそオカシイんじゃないの?」と決めつけて、公会議で告発しようとまで言い出す始末。ついにはイタリアのアナーニに腹心を送り込んで教皇を急襲させ、退位を強要するという所業に出ます(1302 アナーニ事件)。教皇は支持者らによって危ういところを救出されたものの、まもなく「憤死」しました。1305年、フィリップ4世はフランス出身のボルドー大司教を教皇クレメンス5世(Clemens V 在位13051314年)として擁立し、枢機卿(教皇の閣僚にあたる)にもフランス系を送り込みます。こうしてローマ・カトリック教会はフランス王国の軍門に下り、教皇庁をローマからここアヴィニョンに遷すことになったのです。以降、1377年に教皇庁がローマに戻るまでの期間を「アヴィニョン捕囚」captivité avignonnaise)と呼びます。また、ローマの教皇を認めない勢力が旧都アヴィニョンに再び教皇を擁立したため、ひきつづき1417年までは(2派のうちの片割れですが)ここに教皇がいました(教会大分裂または大シスマ Grand Schisme d’Occident)。

観光案内には「教皇庁の町」とあるものの、要は「落ち目になってここに連れてこられた教皇庁」の町だということです。でも、キリスト教圏において教皇(日本のメディアでは「法王」と呼ぶことが多い)というのは今でも大変な権威ですので、歴史の一時期ではあってもその聖座(Sancta Sedes / Saint-Siège)があったという事実には非常に重いものがあります。そういえば、同じ14世紀の日本は天皇家が2統に分かれて争う南北朝時代でしたね。ことの性質はかなり異なりますが、封建社会の転換点にあって、正統性とか権威というのを誰がどう担保するのかが問われたということでは共通しているのでしょう。このところ日本もずいぶん右傾化が進み、ロクに歴史を学んでいないくせに右翼みたいな歴史観を語る若いもんが増えていますが、なぜだか南朝が正統であるとか、吉野など南朝の遺蹟を巡礼しようといった話にならないのは底が浅い証拠。水戸黄門さんの爪の垢でも飲んだらいかが。

  教皇宮殿の裏手あたり


今度は教皇宮殿の横をすり抜けて、東側の地区に出ます。さきほどの目抜き、レピュブリック通りは近代に入って(とくに鉄道駅との関係で)造られた道路であることが地図を見ても明らかです。ペルピニャンのド・ゴール通りと同じコンセプトですね。しかし、その東側一帯は石畳の小径が複雑に入り組んだ本物の旧市街。とくにその中心部は歩行者専用の区画(zone piétonne)になっていて、散歩するのにはいい条件です。いってしまえば観光用なんですけどね。バルセロナ旧市街のように、建物が高く人通りがなくて薄暗く物騒ということはなく、全般に明るく、かなり多くの人が歩いています。どちらかというとザ・観光地みたいなところは不得意なのですが(とかいうわりにはパリ大好きだよね!)、アヴィニョンは何となく居やすくて、違和感がありません。3時間かけてやってきた甲斐もあろうというものです。

 サン・ピエール教会に飛行機雲みっけ

 
  アヴィニョン旧市街のあれこれ


それからしばらく旧市街をぐるぐる。どこに行くというアテはないし、時間の制約もないのでいいのですが、これと思った方向に歩いていたらいつの間にか元に戻っているというようなことが2回ほどありました。これだけ道が斜めに切り込まれていると自慢のナヴィゲーション・マップが正常に作動しないらしい。美味しそうなお菓子屋さんとか、こじゃれた小物屋さんなんかもあるので、ショッピング好きの女性にはおすすめできる町だと思います。

 

PART 8へつづく

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