Fragments historiques dans les régions marginales franco-espagnoles

PART6 ペルピニャン旧市街めぐり

 

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27日は金曜日。日本の企業社会では御用納めの日ですね。バルセロナ発パリ行きのTGVでやってきたペルピニャン駅前の宿は、その名もパリ・バルセロナ。いずれの「首都」の喧騒ともかけ離れた地方都市の安宿です。この日の動きを検討するため、昨夜町に出る前に駅に立ち寄ってポケットサイズの折りたたみ式時刻表を何種類か入手してきました。欧州のローカル列車はたいていこの方式でタイムテーブルを無料配布しています。ただ、A駅→B駅間(ウラが逆方向)というふうに主要方面別になっているため、総合的に旅程を考える際にはちょっと大変。今シーズンはどういうわけか『トーマスクック ヨーロッパ時刻表』の冬版が出ないなあと思っていたら、夏版で廃刊になったとのこと。版元のトーマスクック(英国にある、旅行会社の元祖)が出版業務をやめてしまったらしいですが、いくらIT化、スマホ化の時代とはいえ総合時刻表がなければ欧州の鉄道旅行は困難になるぞ(と思っていたら、元の編集者らが独立して復活を期するというニュースを帰国後に知りました。いろいろ困難でしょうががんばってほしい)。今回はバルセロナからマルセイユまでほぼ一直線の東向き、それも幹線を往く予定なので、駅のポケットサイズで十分ではあります。さて、その時刻表を見てみたら、ペルピニャンからモンペリエ(Montpellier)まで約2時間、ニーム(Nîmes)まで2時間半、アヴィニョンまで3時間というところです。この区間はTGVではなく在来線のローカル急行列車(TER: Transport express régional)なのでさほどの高速は期待できませんね。あす28日夜はマルセイユの宿をとっていますから、今夜はその間のどこかで1泊すればよい。うーん、決め手があるようなないような。大学都市モンペリエは教育の専門家としては興味があるし、古代ローマの植民市だったニームもいいなあ。アヴィニョンとかアルルはマルセイユに接近しすぎるし、これからの移動が長くなりすぎて散策の時間が減っちゃうかもなあ。

列車の本数なども含めてあれこれ考えて、結局アヴィニョンに直行することにしました。これも私にしてはコテコテの観光地ながら、一度は見てみたいところなので。心のどこかに、まだ恐れのようなものがあって、カタルーニャ界隈を早く脱出して遠ざかりたいという思いがあったのかもしれません。アヴィニョンに行くTER1118分、その次が1318分です。夕方着だと、前夜と同じようにあまり身動きをとれなくなりますので、1118分にしよう。となると、せっかくやってきたペルピニャンを午前中の3時間ほどで切り上げることになってしまい申し訳なく、また残念なのですが、こういうときもあります。

  ホテル・パリ・バルセロナ


まだ暗い7時半ころ0階に降りました。レセプションが無人だと思ったら、その向かい側にある応接間みたいなダイニングルームでムッシュがノートPCで何か作業していました。朝食をとりたいのですがと声をかけると、好きなテーブルに着いてくださいと。テーブルや部屋の調度品がやたらにアンティークなので、本当に応接室なのではないかと思いましたが、朝食はここでいただけるようです。お飲み物はと訊かれたのでカフェオレをリクエスト。フランスの朝食でカフェオレ以外のものを飲んだことないかもしれません。フランスのホテルはたいてい素泊まり料金で、朝食は別枠です。ここのは€6。クロワッサン、タルティーヌと、オレンジジュース、カフェオレの典型的なコンチネンタル・ブレークファストで、おおやっぱりフランスに来たんだね。久しぶりに口にするクロワッサンはなかなか美味でした。荷物を整理して845分ころチェックアウト。ホテルのサイトから予約したのですが、通常ならただちに当方のアドレスに確認メールが自動送信されるところ、ここのは「あなたのメッセージは送信されました」と出るだけでした。おそらく十分にシステム化されていないのか。で、やはりというか、ムッシュは近年すっかり見かけなくなった手書きの領収書に数字を記入していきます。カーボン複写もないのか〜。宿泊€54、朝食€6に滞在税(シティタックス)€0.8で込み込み€60.80。死守?したクレジットカードで無事に支払いました。宛名がKOJAになっているのは、コガを伝える際にカー・オー・ジェー・アーと1文字ずついったのが、Gの発音がよろしくなかったせいでしょう。英語とフランス語では、カタカナにしたときGJの表記が入れ替わり、それぞれジェーとジーになるのだけど、発音は微妙に違います(語学を習いはじめのころよく直されました)。ま、実害はありません。ちなみにイタリア語ではJaponGiappone(ジアポーネ)になるなどGJの互換性はけっこうあります。

 手書きの領収書ひさしぶり!


キャリーバッグをレセプションに預けて、ペルピニャンの見学に出かけよう。前夜、夕食をとりに出かけた感触では、市の中心部まで徒歩15分というところですから、アプローチぶんを考慮すれば、1045分くらいまでに市街地の散策を切り上げれば列車に間に合いますね。朝イチは町がまだ半分眠っているので、大都市に行っても活気のようなものは感じられません。田舎の町ならなおさらでしょう。そこは仕方ない。前夜と同じように、駅と中心市街地をむすぶジェネラル・シャルル・ド・ゴール通りをまっすぐ歩きます。今朝も歩行者、自動車ともにあまりなく、この一帯は静かなところです。道の両側に植えられたヤシ系の樹は「南」っぽさを演出しようとしているのかな。

  ド・ゴール通り(正面はペルピニャン駅)

 
バサ運河沿いに、クリスマス・マーケットの跡 ホットワイン(vin chaud)、クレープは定番なんですね


夕食をとったレストランのもう少し先で右に折れると、バサ運河la Bassa)に出ました。旧市街はこの対岸です。ベルギーに本拠のあるハンバーガー・チェーンのクイックが「町の入口」みたいなところにあり、その先の運河の両岸にはぱらぱらと飲食店などがみられるようになりました。朝なのでカフェだけが営業中。運河の北岸には三角屋根のクリスマス・マーケット小屋がびっしりと建っていました。もとより営業しているところは1つもなく、27日だからもう終わったあとかもしれない。1年前はドイツとチェコで体験しましたが、日が落ちてからのクリマってキラキラしてとてもいい景観ですよね。ここは水路沿いなので、灯りが一列に並んで水面に映ってきれいなのではないかしら。カキ(huitres)と書かれた看板のクリマも見かけました。

クリマの途切れたところに、大手デパートのギャルリー・ラファイエット(Galeries Lafayette)がありました。フランスじゅうの都市という都市にありやがるな。運河をはさんだ反対側に、レンガ造りのもったりとした建物が見えます。楼閣というのか見張り台というのか、要は城壁に囲まれていた中世都市のゲートないしエントランスにあたるものでしょう。カスティエ門Le Castillet)と呼ばれる建造物です。由緒書きによれば、1619世紀には監獄の役割をも果たしていたとのこと。バルセロナもそうでしたけど、初期近代に入ると町の城壁が商業や交通のじゃまになってきて、用途が変わったのではないでしょうか。あるいは、中世にはかなり自律的な権力(封建諸侯)が分立していたのに対し、初期近代では中央(パリ)の王権が強大化したため、大きな城門の使命にも変更が加えられたということかもしれません。

  カスティエ門


その由緒は、門のすぐそばに絵入りで説明してありました。市当局が観光資源を大切にして、立派な案内板を設置していることがよくわかります。市内あちこちに設けられた案内板は、どこでもフランス語、英語、カタルーニャ語、カスティーリャ語(スペイン語)の4言語が併記してありました。カタルーニャとの国境地帯だからというのもあるけれど、このあたりにはカタルーニャ語を母語にしている人もかなりいるそうです。完全にフランス領になったのは1659年のことで、それまではあれこれ出入りはあったものの基本的にはバルセロナ伯(兼アラゴン王)の統治下にありました。本当に「すぐそこ」ですからね。

そもそもバルセロナ伯を叙爵して配置したのは、かのシャルルマーニュ(Charlesmagne 「世界史」の教科書ではカール大帝 在位768814年)です。フランク王国の支配領域を拡大して800年にローマ皇帝の位に就いた人物ですが、彼の属するカロリング家が強大化して、やがて主家であったメロヴィング家からフランク王位を簒奪するきっかけとなったのは、祖父シャルル・マルテル(Charles Martell)がピレネーを越えて侵入したイスラム勢力を打ち破った軍事的成功(732年 トゥール・ポワチエ間の戦い)でした。シャルルマーニュは「西ローマ帝国」をとりまく対抗勢力との戦争に連勝しました。家の隆盛の契機をなしたイスラムとの戦いはとくに重要で、778年以降カタルーニャ方面への遠征をおこない、後ウマイヤ朝のイスラム軍を押し戻して、795年にバルセロナ伯領を置いたのです。話はまたバルセロナに戻ってしまうのですが、カトリック圏の普遍帝国であるフランク=西ローマ帝国の辺境防衛拠点であったバルセロナと、長くイスラム圏に属していたカスティーリャとでは言語だけでなく文化的風土や歴史的アイデンティティが異なるのは当然のことといえます。その後、カロリング朝が断絶してパリにカペー朝が立つと、バルセロナ伯はなし崩し的に自立して独立勢力となり、ジャウマ1世のもとで繁栄の基礎を築いたという話は前述したとおり。当時は、婚姻などを通じてモンペリエ伯領も掌中にありました。鉄道で通ってきてわかりましたけれど、ピレネー山脈があるとはいっても海岸沿いは低地に決まっていますし、当時の主要交通路はむしろ海路だったわけですから、そこにはバリアーがあるわけでもありません。イスラム勢力が制海権をもっているあいだはそれがネックでしたが、1229年にジャウマ1世がバレアレス諸島をイスラムから奪ってからは「ひとつづきの海」が実現。これを足場に、カタルーニャは地中海帝国へと発展していくのです。位置からしてペルピニャンはカタルーニャ以外の何ものでもないですよね。なおカタルーニャ語ではペルピニャ(Perpinyà)といいます。

 
 
カスティエ門の由緒書き  (左上から)フランス語、英語、カタルーニャ語、カスティーリャ語 英語はともかくラテン系3言語を対比してみてね


バサ運河を離れて、旧市街の内部に入り込むことにしましょう。石畳ふうの小径、曲がりくねった道路、シックすぎる色合いの建物など、欧州の古い都市の旧市街らしい景観です。カスティエ門の近くは、わりに上等そうなブティックとか時計店、靴店なんかが並ぶショッピング・ゾーンになっています。まだ9時半にもなっていないので、早いところでホウキを手にした店員さんが店の前を掃除して開店準備をはじめているというくらい。物騒な感じもしないのだけど昨日の今日なので警戒レベルはかなり上がっています(苦笑)。それにしても道路がぐねぐねしていたため、いま地図を見返してみてもどこを歩いたのかがはっきり思い出せません。「商店街」が途切れそうになったら引き返したり、同じようなところをなぞったりした記憶はあります。バルセロナの旧市街もそうでしたが、あそこまで薄暗くはないです。

 
  ペルピニャン旧市街


旧市街を越えたところにあるマジョルカ王の宮殿(Palais des Rois de Majorque)というのが大きな見どころであることは承知していますが、時間の関係でそこまでは行けません。もともと「町歩き」派なので、朝の散策はしっかり満喫しよう。マジョルカというのは、カタルーニャ沖にあるバレアレス諸島の島で、何で大陸側のこんなところに宮殿がと思いますが、13世紀後半からの一時期、バレアレス諸島とこの付近をバルセロナ伯領から形式的に分離してマジョルカ王国が建てられ、その都になったのでした。中世の封建領主の相続って、何度聞いてもパターンを認識できないほど複雑で、ときに兄弟で所領を分け合ったり、庶子のために分領したりしたので、支配者と国の名前がころころ変わることがあるのです。

ペルピニャンを含む現フランス最南部が、カタルーニャ(バルセロナ伯領+アラゴン王国)の手を離れ、フランスの主権下に移動したのは、前述のように17世紀前半のことです。歴史というより公民の授業でおなじみのウェストファリア条約(1648年)を憶えているでしょうか。国家主権/主権国家という概念を相互承認した非常に画期的なものですが、これはカトリック vs プロテスタントの最終局面である三十年戦争(161848年)の講和条約でした。三十年戦争は、新旧両派のイデオロギー闘争に加えて、台頭しつつあったフランス・ブルボン家と、オーストリア・スペインその他を支配する欧州の名門・ハプスブルク家の覇権争いという性格を帯びたものでもありましたから、フランスはカトリックなのにプロテスタント側について戦いました。スペイン(このときはまだカスティーリャ・バレンシア・アラゴン・バルセロナ・ポルトガルその他の同君連合)の君主はアブスブルゴすなわちハプスブルク家ですから、フランスとは敵同士ということになります。しかし、フランスの侵攻に備えて前線にあたるカタルーニャに軍を配備したスペイン(実際にはカスティーリャ)は、戦費調達のためカタルーニャから搾取しまくり、あまつさえ軍紀を乱して乱暴狼藉を繰り返しました。これに怒ったカタルーニャのジャナラリタ(議会)はフランスと組んでカスティーリャから独立することを決め、カスティーリャとの戦争に突入します(収穫人戦争 Guerra dels Segadors 164059年)。カタルーニャは、この戦争には勝利しました。しかし、事後に待っていたのは、ともに戦ったフランスがその「支援料」とばかりにピレネー以北の領土を接収するという決定(ピレネー条約)だったのです。古くからバルセロナ方面と一体であったこの地は、それ以来フランスの一部となって今日にいたります。フランスは現在でも、欧州諸国の中では言語多様性に冷淡な国でありつづけています。地方言語を尊重するとうたってみたところで、唯一の公用語であるフランス語の絶対性を維持した上でのこと。何だかね。

 
フランス語・カタルーニャ語が併記される道路標示 (左)「鉄の手」通り  (右)アルザス-ロレーヌ通り  固有名詞の綴りも変えて(意訳して)しまうんですね


そもそも「フランス」当局の南部地方に対する方針というのは、中世後期いらいずっと苛酷でした。13世紀にはキリスト教の異端とされたアルビジョワ派(カタリ派)の殲滅を意図して、南部地方を執拗に攻撃し、そののち王領に併合していきます。あとから歴史を鳥瞰すると、下り坂のローマ教皇と上り坂のフランス王権とが交錯するタイミングで、南部地方が狙われてしまったということになるかもしれません。ところで、ペルピニャンからマルセイユにかけての地中海は、内陸に向かって円弧状にえぐれるような海岸線をもっていて、リオン湾(Golfe du Lion)と呼ばれます。この大半が、14世紀半ばまではバルセロナ伯(兼アラゴン王)の統治下にありました。このうちモンペリエ伯領は1349年に支配権がフランスへと移りました。それと前後して、西地中海一帯にあの黒死病(ペスト)が大流行して、人口が半減する地域すらみられました。活力を失っていく南部地方を、「フランス」は容赦なく接収し、現代につづく中央集権国家としての道を歩みはじめることになったのでした。

歩いていると、サン・ジャン大聖堂Cathédrale Saint Jean)の前に出ました。旧市街のどん詰まりみたいな位置にあるんですね。由緒書きによると、14世紀にマジョルカ王が建設に着手して17世紀にようやく完成したということですから、その間にこの地の支配者もずいぶん変転したことになりますね。中に入ってみると、おお、これはゴシック様式。カトリック教会らしくていいじゃないですか。

  サン・ジャン大聖堂


大聖堂から1ブロックほど進むと、ごちゃごちゃぐねぐねした旧市街ではもはやなく、整然と区画された住宅街でした。ホテルとか役所関係がぽつぽつあります。早足で歩いたためか、まだ10時前。もう一回りするくらいの余裕はあります。限定された時間での町歩きなら、本当は午前ではなく午後のほうが、町の活気などの面でいいんだけどね。そろそろ店舗も開いてきましたし、人通りもそこそこ増えてきました。バサ運河を、さきほど歩いてきたほうへ引き返し、これもショッピング街らしきバール通り(Rue de la Barre)に入り込みました。ここも道幅が狭くてくねっています。ショコラチエ(チョコ屋さん)とか小物屋さんもあるので、お土産を買おうかなと思うものの、リュックが重たくなるのも嫌なのでウィンドウ・ショッピングにとどめました。総合スーパーのモノプリ(Monoprix)があるのを見ると、ああフランスなんやねと感じますです。

 
(左)東ピレネー県庁(RFは「フランス共和国」のこと) (右)ペルピニャンが生んだ偉人、物理学者フランソワ・アラゴ(17861853年)の像

 H&Mの開店を待つ人たちがいるぞ


このへんはなかなか味わいのある地区なので、もう一度来る機会があればじっくり歩いてみたい。そのうち共和国広場Place de la République / Plaça de la Repúlica)なる方形の広場に出ました。野菜や果物の屋台が立ち、午前中なのに結構な数のお客が取り囲んでいます。広場の周囲には雑貨店、飲食店などもあり、ここが市内の商業的中心といえるでしょう。これもフランスじゅうどこでも見かけるワインショップのニコラ(Nicola)もあるね。成田→フランクフルトの機内で見た映画「大統領の料理人」(Haute Cuisine 2012年 ミッテラン仏大統領の官邸料理人だった女性の物語)はなかなかおもしろかったですが、若い男性の助手ニコラ君が「だからワインは得意」とか何とかのギャグ?をいっていたような。

広場をぐるりと一回りして、そろそろ小休止とお手洗い。角にあったル・プティ・モカ(Le Petit Moka)というカフェ兼ブラッスリーに入り込むと、テラスを含めてほとんどのテーブルが埋まる盛況ぶりです。ここも「カタルーニャ」だし、同じように朝食とは別に午前の外食というのをやるのかな? ペット連れ込み可というカフェはめずらしくなく、隣席の夫婦が連れていた大きな犬はおとなしく床に寝そべっていて、ときどき他のお客から頭をなでられて、面倒くさそうにしていました。カフェ(エスプレッソ)は€1.20

 
共和国広場 メリーゴーラウンド前の移動販売車はお肉屋さんです

 


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時半になったので、ぼちぼち駅に向かって引き返そう。せっかくなので別の道をたどって戻ります。途中に、またまた全仏チェーンのパン屋さん、ポール(Paul)がありました。パリだと主要道路はもちろん地下鉄構内にもたくさんあり、何だったら神楽坂はじめ東京のあちこちにもありますよね。普段は名もない?町のパン屋さんを愛好するところですが、何となくフランスっぽさを思い出したので、ここでサンドイッチ(フランス式のバゲットサンド)を1本買っておきました。€3.90也。これから列車に3時間乗って、アヴィニョン着が1420分だから、車内でサンドイッチというのが最も妥当なところでしょう。今回は国際(くにぎわ)をめぐって、中央集権とか国民国家の発想から解放された視点をと考えているのに、「パリとおんなじ!」とかいって内心喜んでいるのだから私も大したことないねえ。

昨日来4回目のド・ゴール通りを通り抜け、ペルピニャン駅に戻ってきました。ここは中央駅ではなく、本当に「ペルピニャン駅」(Gare de Perpignan)です。平屋の駅舎はリニューアル工事中らしく、向かって左側の乗降口と右側の切符売り場(espace de vente)が分断されています。一足早く完成したらしい、小ぎれいな切符売り場に入り、カウンターの若い女性にアヴィニョン行きのチケットを発注。複雑な切符なら、用心のために紙に書いて渡すほうがいいですが、列車1本ぶんの片道なので口頭で十分です。今回はフランス語ですけど、おそらく主要駅の切符売り場なら英語も通じることでしょう。運賃は€37.10。「1118分発です。乗車前に必ずコンポステ(composter)してください」と。コンポステというのは、チケットを改札機に通して刻印するという動詞です。これを怠ると€30だったかの罰金を徴収される由。

 駅を背にして見たホテル・パリ・バルセロナ

 チケットに英語表記がないのは遺憾ながら、日本も似たようなものか


荷物を預けてあるホテルは切符売り場から徒歩15秒なので、慌てることもありません。今朝のムッシュがまだひとりでダイニングにいて、相変わらずPCをいじくっていました。きっと仕事ではなく趣味ないしヒマつぶしだな。町を歩いてなかなかおもしろかったので今度また来ますと、社交辞令かたがた伝えると、ホテルの名刺の裏に自分の名前を書いて、「私はフェイスブックで、カタルーニャの美しい風景などを発信しています。よかったら見てみてください」。ということは、PCに向かってひたすら「文通」していたのかな? 帰国後に見てみたら、ほぼ全編イタリア語で書いてありました。ということは、ジミーさんはイタリア人ないしイタリア系なのか。「いまからアヴィニョンに行きます」「おおアヴィニョン、あそこも古い町で、教皇の遺蹟など、おもしろいところがたくさんあります。ボン・ヴォワイヤージュ」。――いかにも駅前旅館という風情の安宿ではありますが、家具・調度品や壁にかけられた絵画などのセンスはなかなかで、やりとりにも温かみがあります。ちょうど1年前の1227日に世話になったドイツ・ニュルンベルクの安宿を思い出しました。

 

PART 7へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。