ウェールズ史の断絶を象徴する? カーディフ城
さてカーディフに来たからにはカーディフ城(Cardiff Castle / Castell Caerdydd)をのぞいてみることにしましょう。この町で最大の史蹟であり、長くウェールズ統治の拠点であったところと聞いています。ただ、先にオチをいってしまいますと、いろいろな時代の遺物がごちゃごちゃに混入しており、何の史蹟なのだかほとんど意味不明。順路に沿って進むと、最初に第二次大戦中の防空施設(城の城壁部分に兵士を隠した)があり、「戦争中はこんなに苦労したんだよ」という話に終始していて、そのあと古代ローマが造った城門の跡に19世紀に再建したという石造りの門、メインの建築物であるザ・キープ(The Keep 「キープ」は中世城郭の天守閣にあたる部分)は18世紀に発掘されたのを展示用に改修したもの、そして場違いすぎる城館は19世紀にこの城を入手したビュート侯爵家(前述した南ウェールズの鉄道・炭鉱王)が城主気取りでせっせと構築した金持ちの館。本物とニセモノとの境目がどうにもわからないお城です。カーディフ城の公式サイトでHistoryというところを読むと、一貫した歴史があって、現在の見どころとの関連もはっきりしているように書かれているのだけど、実際に見たところではそんな感じでもなく・・・。
カーディフ城の外周をとりまく城壁の内部は、第二次大戦中に兵士らの防空壕として使用された
初めてこの地に拠点を設けたのはネロ帝時代のローマ帝国でした。当初は辺境防衛の拠点として要塞を築いたようなのですが、ローマの支配地はその後イングランド北部まで拡大しましたので、軍事施設としては実質的に放棄されたようです。ローマが去ったあとの数世紀は顧みられなかったカーディフに、やがてノルマン人が到来し、ローマと同じように最前線の軍事拠点にしました。11〜13世紀ころのウェールズはケルト系の国家が覇権を争う状況にあり、11世紀にイングランドを征服したノルマン人(もともとフランスのノルマンディにいた勢力)はウェールズへの侵攻を開始します。しかしウェールズ諸勢力の抵抗はかなり強く、ノルマンの勝利というわけにはいきませんでした。ですからカーディフは常に緊張を伴う最前線であったのでしょう。13世紀に入ると、ウェールズ北部グウィネッズ(現在でもウェールズ語が多く話されている地域)の大名であったルウェリン・アプ・ヨーワース(Llywelyn ap Iorwerth)がケルト系の統合にほぼ成功してイングランド王家(アンジュー家、別名プランタジュネット家)と直接対峙する状況が生まれます。大ルウェリンが事故死したあとを継いだルウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffydd)は勢力拡大をねらって、イングランド王に敵対するシモン・ド・モンフォール(Simon de Monfort 英国議会史の文脈で必ず登場する人物でフランス系の貴族)と手を組むことになります。自国内の対立に手を焼いたイングランドのヘンリー3世は、小ルウェリンが自称したウェールズ公(Prince of Wales)の地位を承認しました。小ルウェリンは調子に乗ってシモン・ド・モンフォールの娘と結婚することにしたのですが、イングランドは花嫁を拉致して小ルウェリンに屈服と臣従を迫り、北部出身者による支配に不満をもっていた南ウェールズのケルト系勢力をそそのかして反乱に踏み切らせました。こうしてイングランドの術中にはまった小ルウェリンは1277年と1282年の戦争に敗れて死に、どうにか形式的に保ってきたウェールズ公国は滅亡しました。1301年、イングランドのエドワード1世は生まれたばかりの息子エドワード(のちの2世)にウェールズ公の地位を与えます。これ以降、ウェールズは民族的・文化的なアイデンティティを強く保持してイングランドへの同化を拒みつつも、政治的にはイングランドの一部となり、むしろ一体となってその繁栄を支える側に回りました。ウェールズ公すなわちプリンス・オブ・ウェールズの地位は、イングランド王(18世紀以降は連合王国の王)の皇太子を意味する称号となりました。ですから現在のプリンス・オブ・ウェールズはチャールズ皇太子です(亡くなったダイアナ妃はプリンセス・オブ・ウェールズ。皇太子が再婚されたカミラさんはその称号を継承していない)。
ザ・キープとその内部
城館(The House)と大広間
そのような歴史を踏まえてみると、なるほどここカーディフがウェールズの首都になっているのは、古来の中心だったからというより外側からウェールズを支配するためのゲートウェイであったからで(アイルランドのダブリンも似たような歴史的位置)、となるとわざとらしいほどにウェールズ語で表示する作法もどうなんだろうと思わなくもありません。「ウェールズの首都」に行ってみようかなと思いついたとき、予想以上にロンドンから近いなあと不思議に思ったのですが(事故とかがなければね 笑)、そういう場所だから拠点が築かれたというわけね。
いま文学とか芸術の話は脇において政治・経済にしぼると、ウェールズとしての固有の歴史は14世紀あたりで終わり、その後はイングランド史の一部のようになります。この城内に設けられた資料室では、近代(17〜20世紀)の戦争においてウェールズの兵士がいかに活躍したかという資料を並べて展示してありました。ウェールズ人がイングランド、のちには連合王国の兵士として高い評価を得ていた、という話。大英帝国の繁栄はウェールズ人が支えたのだという、(言い方は申し訳ないけど)屈折した誇りという感じですかね。町いちばんの見どころであるカーディフ城が、歴史の史蹟としてはぱっとしないというか、筋の見えにくいものになってしまっている原因は、まさにその歴史の中にあるということでしょう。――というのは、後で本を読んで考えたことであり、当日は「期待はずれの史蹟やなあ」という感想をもっただけでした。
日曜午後のカーディフ中心街
朝っぱらからよく歩いたのと、目覚めが早すぎていまごろ眠たくなってきたのとで、いったんホテルに戻って昼寝しようかなと。スーパーでワインなどを購入し、16時ちょっと前ころに宿に戻ったら、あれびっくり、まだ部屋の掃除が終わっていません。隣の部屋のドアが開いていて掃除機のうなる音が聞こえているので、レセプションまわりで30分も休んでいれば完了するのでしょうが、お金を払って権利を獲得しているのにそういう遠慮もなあ。そもそも連泊の部屋は、客がいつ戻ってもいいように早めにクリーニングしてもらわないと困ります(ホテル側からすれば、新たなチェックイン客のためにきれいな部屋を準備するほうが優先だというのかもしれませんが)。ま、そういうことなら仕方ない。ワインのボトルをそっと部屋に置いて、再び外に出ました。
またお城の近くまで歩き、繁華街の一隅にあったパブ(The Old Market Tavern)に入店。ビールでも飲んで読書しようかなと思ったわけですが、入口に掲出されたメニューに<Our
Famous Fish & Chips> なる表示が見えます。どこで有名なのかという突っ込みはそれとして、ブリテン界隈に来たなら1回は食べておきたいフィッシュ・アンド・チップス。いや、パブめしといえば他にもいろいろあることは承知しているのだけど、何かもうお約束的な感じです。₤11.75。ラガービール(タイトル失念
₤3.65)とともに発注してビールだけ先に好きな席にもってゆき、料理はあとから運んでくれます。「グリーンピースはマッシュになさいますか?」という問いがありました。ああ、マッシュというと、ずんだ餅のアンコみたいなあれね。細かい単語を聞き取れていないためマッシュにしないとどうなるのか承知しないまま、NOと答えておきました。なるほど、つぶさずにグリーンピースがそのまま塩茹でになって供されるわけね。でもこっちのほうが美味いと思う。
店内は明るめで、客層は老若男女さまざまです。子連れのファミリーもあれば、老夫婦がゆっくりとビールを飲んでいたり、女子大生ふうのおねえさんが勉強していたり。パブの雰囲気は時間帯と場所によってもずいぶんと違いますからね。運ばれてきたフィッシュ・アンド・チップスはやっぱりごっつくて、巨大な油のかたまりにも見えましたが、私がこれまでにブリテンとアイルランドで食べたものの中ではいちばん美味しかったような気がします。衣がぱりっとしているのがいいですね。こんな時間に満腹してしまっているため、夕食はもう不要となり、ホテルに戻って昼寝(夕寝?)してから、あらためてワインでも飲もう。時間の使い方がもったいないような気もしますが、何せ日が短く、夜になってできることなどそんなにはありません。
季節はずれの砂浜に憩う
案の定というか、不規則きわまるリズムで過ごしているため、12月29日(月)も4時前に目が覚めてしまいました。13時過ぎの列車でロンドンに戻って1泊、翌30日は夜のANA機で東京に戻りますので、もうリズムはどうでもいいという気もします。早朝ならぬ前夜のつづきみたいな時間に起き出してしまったため、タブレットをいじいじ。そういえば前日、カーディフ・ベイまでのバスを調べたとき、タリフ(運賃表)にはカーディフの他にBarryというエリアが示されていました。西隣の町らしく、カーディフのバス会社がセットで運行を請け負っているのでしょう。東京23区や川崎・横浜市内のバスは均一運賃ですが、都県境をまたぐ系統(五反田〜川崎駅間など)では3種類の運賃があって乗車時に自己申告することになっています。おそらくはそれと同じようなしくみなのでしょうね。そのバリーについて、持参した日本のガイドブックにはまったく記述がありません。ウィキペディア日本語版には記事がなく、英語版を開いてみたらseaside resortであり船のドックでも有名な町だといった説明があります。おお何だかおもしろそう。列車のトラブルでカーディフに来るのが遅れた関係で、行こうと思っていたスウォンジーがダメになってしまったことでもあり、どこか「カーディフ以外のところ」にも行ってみたい。すぐ隣だけどね。
朝のカーディフ中央駅
前日につづいて朝食の世話をしてくれた陽気なおばさんに「美味しかったよ。よいお年を!」てなあいさつをしたら、「まあうれしい。あなたのほうこそ、来年はきっと、とってもとってもすばらしい年になるわ!」と両手ジェスチュアつきで返ってきました。ぜひそうだといいな。チェックアウトしてからレセプションにキャリーバッグを預けます。あとの動きを考えても、駅前ホテルにしておいて本当によかった。さほど広くないコンコースにはすでに大きな荷物をもった人たちが集まってきています。年末やなあ。自動券売機があるので、VISAを挿入して切符を買ってみましょう。欧州の自動券売機では、希望する駅名をABC検索するタイプが多く、B, A, Rと綴っていくとバリー関連の候補が示されます。バリー、バリー・ドックス(Barry Docks)、バリー・アイランド(Barry Island)とあり、ここはまず中心とおぼしきバリーまでにしておこう。ウィキペディアを見たついでにグーグルマップでバリー界隈の位置関係を確認してみたら、バリーの町はさほど広くないようなので、何だったら歩いても移動できそう。バリー・アイランドというのが本線筋から海側に突き出した半島部分だということもわかっています。ということは支線だから、列車の便が多くないのではないかな? ₤3.20のシングル(片道)・チケットを手にし、発車時刻案内を見ても、はてどれがバリーに行くのかさっぱりわかりません。変なところに連れていかれても困るので、せっかく自動券売機を使ったのにあらためて切符売り場の窓口に出向き、中年女性の駅員さんに切符を見せ、「バリーに行きたいのですがどの列車に乗ればよいですか」と訊ねました。「次の列車は7番線。8時55分です。ナンバー・セブン」と答えは明快。お礼をいって自動改札に切符を通し、7番線へ。
月曜朝のプラットホームは静かで、あまり人もいません。あらためて表示を見ると、8時55分発はバリー・アイランド行きなので、わかっていればアイランドまでの切符にしておくんだったな。ま、ただ、もともと何かの目的や期待があるのではなく、たまたま知った地名を訪ねようというだけなので、変更不要。各ホームに列車が発着するたびにアナウンスがあるのですが、それがいちいちウェールズ語と英語のバイリンガルです。結局ウェールズ語の音声を聞いたのは、テレビの専用チャンネルと駅の放送だけでした。日本の鉄道でやっている日本語/英語の案内放送とは、同じ2言語でも意味合いがまったく異なります。それはそうと、JRの駅でしばしば出くわすのですが、日本語の自動放送が終わり英語に切り替わった瞬間に、駅員がマイクをもって地声で放送するという場面があります。毎週利用している上越新幹線の某駅など、ほぼ毎回それ。あのね、自分たちが海外に行ってどんな目に遭うか想像したらいいよ。その国の言語を知らない人にとって(たとえばドイツ語を話せない私がドイツに行ったとして)、かろうじてわかる英語のアナウンスというのが命綱になることだってあるのです。欧米人らしき客の姿が見えなくても、英語放送のほうを大事にしなければなりません(日本人客はむしろわかっているので)。英語放送は英語圏の人のためにあるのではない。日本語話者以外すべてに向けて発信していると心得てください。
やがて7番線に入線してきた列車は、外観・内装ともにかなりくたびれたディーゼルカー。4両の固定式クロスシート車両です。出発時刻になると、かつて日本中のあちこちに走っていたキハ58みたいなエンジン音を立てて動き出しました。薄汚れた車内の感じ、壁に掲出された路線地図、トイレまわりの様子など、往年のJNR(日本の国鉄)テーストですなあ。カーディフ郊外の町を抜けると、ごつごつした岩肌とか荒涼とした沼地みたいなところを走ります。バリー・ドックス駅に停車したあと、9時19分、バリー着。
バリー駅
バリー駅は見事に「田舎の駅」で、降りたのは私ひとりでした。この感じだと、バリーからカーディフに通勤する人は列車ではなく自家用車を使うでしょうね。ホームのすぐ先で、バリー・アイランドに向かう支線が分岐していて、乗ってきた列車はそちらに入っていきました。屋根のない跨線橋はいうところの歩道橋みたいなもので、日本のローカル線でもよく見かけるタイプです。かつては線路を横断する構内踏切が主だったのが、無人化などの影響でかえってバリアフル化したやつね。小さな駅舎には駅員さんの影も見えたので、ここは無人ではないのかな。しかし小さな駅です。何しろこの地区の地図をもっていません。それなのに駅前には観光地図や市街地の地図がない。見渡してもお店などがまったく見当たりません。人通りもゼロ。本当に北海道とか東北のローカル駅に朝はやく降り立った気分になりました。となると、最悪の場合はここに引き返すことにして、極力「曲がらない」という方針で歩けばいいかな。かつてさかんに国内旅行していたときに身につけた作法で、時間を決めて道なりに歩き、次の展開が何もなければ同じ道を引き返すのです。「きっと○○があるはずだ」という思い込みは、初めての土地では通用しませんからね。
(左)バリー駅付近の住宅地 (右)バリー駅 手前右側にカーブする線路がバリー・アイランドに向かう支線
駅は「田舎の駅」そのものですが、過疎地ということではなくて、線路の背後にある高台には住宅がむしろ密集しています。カーディフ郊外のベッドタウンの役割も担っているかもしれません。それにしてもまったく人気(ヒトケ)がなくて閑静。お天気は抜群によいです。駅舎は山側にあるのですが、しばらく進むと線路を渡り越して海側に出られました。観光地らしいバリー・アイランドにいきなり向かうのも何だけど、「町」らしきものがないようなので、それでいいか。線路を越えてすぐのところに海岸。小さな展望公園になっているようです。もちろん無人ですが、ようやく観光地図があったので、方向とか距離感を確認します。ハーバー通り(Harbour Road)という海沿いの道路を道なりに進めば、おそらく15分くらいでアイランドに着けるかな。この一帯は干潟で、例の支線の背後も土地利用されていないようなので、もしかすると本当にアイランド(島)だったのが地続きになったのかもしれません。
前日に初めて知った、何の由来も由緒も知らない地名のところを歩くというのもなかなかいいものです。このところの欧州ツアーが首都めぐりみたいになっていたのを、どこかで反省していました(カーディフも「首都」だけど)。9時半といえばもう活動時間だと思うのに、町は眠っています。ハーバー通りをたまに車が走るけど、それ以外はジョギングの兄さんと本格的な自転車に乗ったおじさんとすれ違っただけ。
(左)バリー付近の地形 (右)半島の付け根付近からアイランド方向を見通す
風はほとんど吹いていないので寒さも感じません。海沿いの道路をゆっくりと歩きます。バリー・アイランドを江ノ島に見立てると、いま歩いているところは片瀬西浜にあたり、もう少し西(歩きはじめた地点より先)に進んだところに海水浴場とかリゾート的な店舗があるようです。もっともいまは真冬なので閑散としているでしょうね。10分くらいで建物のあるゾーンに入りました。バリー・アイランド駅が見えます。ハーバー通りは線路と完全に並行しており、途中でバリー方面への列車とすれ違いました。構内に入ってみるとここは完全に無人駅のようで、改札はなく自動券売機が備えつけられていました。夏場には駅員が配置されて観光客をさばくのかな?
そもそもはバスを調べていてバリーの存在を知ったので、カーディフへの帰路はバスを利用するつもりです。ネットの時刻表では所要1時間くらいだったのでちょうどいいですね。駅前のバス停でタイムテーブルを確認したら30分間隔でカーディフへの便があり、直前に走り去った9時48分の次は10時18分。季節はずれの海岸だから30分もあれば十分で、もし足りなくてもその30分後を待てばよいです。このへんの住民なのか、80歳くらいの上品なおばあさんが通りかかり、「今朝はとっても寒いわね」と声をかけてきました。「そうですね。ベリー・コールド」とオウム返しに答えたものの、前述のように個人的にはさほど寒さを感じていません。当方は厳冬の中国東北地方にも耐えた「満州ダウンコート」、おばあさんもかなり頑丈そうなコートを着ています。
バリー・アイランド駅
ここに来るまで、シー・リゾートというキーワード以外の情報は何もありません。駅を背に進むと、海岸はわずかに200mくらい先にありました。駐車場、いずこも閉まっている飲食店や土産物店、そして日常感覚から少し離れた色づかいなど、昭和の海水浴場みたいな風情です。私は子どものころカナヅチで(いまはバタフライ以外ならできる)海とかプールが大嫌いだったため、海水浴に行った回数こそわずかなのですが、季節限定の観光地というのの記憶は強くあります。ですので何となく既視感がある。長いこと欧州には年1回、2月の訪問というパターンでしたので、冬場のビーチというのもけっこう方々で見てきました。6年前にイタリアのヴェンティミリア、4年前はオランダのスヘフェニンヘン、昨年はフランスのル・アーヴル。夏になったら賑わうのかなと想像をめぐらせることしかできませんでした。そういえば日本国内のビーチというのも、夏冬を問わず長いこと行っていないね。
屋台の飲食店がなぜか1軒だけ開いていた砂浜の手前まで行くと、大きな看板が立てられ、2012 Beach
Awards / Gwobrau Traethau 2012と書かれています。どうやら、ウィットモア湾(Witmore Bay / Bae Witmore)というここが、2012年度ビーチ選手権で最優秀賞を獲ったということらしい。どの範囲で、誰が、何のために、何を評価する大会なのかさっぱり不明ながら、どうやらナンバーワンの海辺にやってきてしまったようです。それはそれはご同慶。砂浜を評価するものさしというのを私はもっていないですけど、海岸のカーブとかそれに囲まれた「湾」の広さなどはたしかに手ごろな感じで、いい景色には違いありません。九十九里浜みたいにひたすら横長の砂浜(つまり外海に面した海岸)を好む人もいるでしょうが、岩に仕切られた湾内に砂が堆積したビーチのほうが絵としてしっくりくるんですよね。西伊豆の雲見あたりを思い出すな〜。
せっかくなので砂浜に下りてみました。バリー駅周辺でも、ここまでのアプローチでもほとんど人と出会いませんでしたが、海岸には思った以上の人がいて、朝の散策とか、愛犬とのフリスビーとか。すこし海水を舐めてみたけど、太平洋との味の違いは不明でした。海の家的なカフェが2軒ばかり開いていて、中高年の数名がのんびりしています。雰囲気から察するに、近在のリタイアさんが車で来ているのではないかな? 年末にもなってブリテンの知らない海岸を歩くことに客観的な値打ちがあるのかは存じませんが、主観的にはかなり満足でいうことがありません。2年前に初めてクリスマス休暇の外遊に出てみたらクセになり、今回で3年連続ということになりました。年内の仕事が終わってただちに出てしまうため、大掃除とかもろもろの取り換えといった年末の作業をサボったままです。スポーツハイライトとかニュースハイライト、大相撲この一年などの年末番組もずいぶん見ていないな。でも、やっぱり欧州はいいです。
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