Buda et Pest : la capitale de la Hongrie

PART3

 

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地図によればアンドラーシ通りはこのさき2kmくらいつづきそうですが、英雄広場に近い側は高級住宅街の趣で、しっとりとしていい感じではあるものの、景観がしばらく変わらないため気分がつづきません。この真下をメトロが走っているので、1駅くらい乗ってみることにしましょう。英雄広場駅の次のバイザ通り(Bajza utca)駅の階段を降りてみるわけですが、20段ほどのステップしかありません。まさに道路の皮一枚下を電車が走っていることになります。このため上下線を間違えずに階段を降りなければならない。階段の下にブルゾン様のユニフォームを着た駅員がいて、やってくる乗客の切符を改めています。ブダペストのメトロは無改札だと申しましたが、あちこちで観察したところでは、ホームに向かう階段・エスカレータの乗り口付近に駅員がいて同様のチェックをしているケースが多い。このM1系統は前述のような構造のためホーム上でのチェックになっているのでしょう。それにしても、改札機を導入すれば済むものをマンパワーに頼ろうとするのはいまどき妙で、雇用対策のたぐいかもしれません。

それにしても、このインフラ(路盤、トンネル、ホーム、天井や壁のしつらえ)の何とクラシックなことよ! きょう一番に利用したM4とは似ても似つかぬ絵で、同じ経営の路線とはとても思えません。生来の鉄道マニアであるため予備知識はあります。ブダペストは、1863年のロンドンに次いで世界で2番目に地下鉄を開業した都市(トルコのイスタンブールで1875年に地下ケーブルカーが開通している)。やはり建国1000年に合わせて1896年に開通しました。トンネル内にSLを走らせたロンドンに対し、初めから電化していて、世界初の地下鉄電車といってもいいわけです。そういえば少し前にテレビの「Youは何しに日本へ?」に、東京メトロにあこがれて車内アナウンスを完コピしているハンガリーの若者が登場し、彼の紹介としてブダペストのメトロに乗車する場面が流されて、ずいぶんクラシックだなあと感心したのを思い出しました。ああ、このM1だったわけね。けさM4に乗った時点では歴史のことは忘れていました。

 
 
メトロM1系統はありえんくらいにクラシック


それにしてもこの感じ、はっきりと記憶にあります。1927年にアジア初の地下鉄として開業した銀座線。2005年の民営化後は東京メトロ(社名は東京地下鉄)の運営になっていますが、上野〜浅草間の開業時には東京地下鉄道という民間の会社で、渋谷側から路線を建設した東急系の東京高速鉄道と戦時統合し、帝都高速度交通営団となって21世紀までつづきました。最近になって銀座線の車両が真っ黄色の塗色になりましたけれど、開業以来の古い車両のデザインをよみがえらせたものです。東京育ちの私にとってもなじみ深い路線で、デッド・セクション(電化区間を分ける箇所で、集電用のレールが途切れており電車は惰性走行する)にさしかかると車内の照明が消え、一瞬だけ非常灯がともるという「儀式」がありました。私より上の世代なら憶えていますよね。最もよく利用したのは渋谷〜外苑前間。神宮球場に、東京六大学やプロ野球の試合をよく観にいっていて、その際の定番でした。いまでも春秋には外苑前で降りて神宮に通いますし、トンネル内の柱の感じなどは往時のままではあるのですが、さすがにもろもろの仕様が現代風になっていますので、あのクラシックな雰囲気は薄れました。ブダペストのM1は、ですからすごいと思います。大げさにいえば近代の都市文明というのを視覚的に表象していますからね! ついうれしくなって列車を1本見送り、天井の低いホームのたたずまいをしばらく観察しました。萌える。

M1の車両はひときわ小さく、あの銀座線がずいぶん大きかったんだなあと思うほど。そうではあっても銀座線同様、メイン・ストリートを走る路線ゆえに利用客は多いらしく、車内はかなりの乗車率でした。2駅進んで、ヴョリョシュマルティ通り(Vörösmarty utca)駅で下車、再びアンドラーシ通りに出ました。周囲の雰囲気はずいぶん変化しており、店舗がつづく商業地区に入ったようです。いまあらためて地図を見れば、近くに作曲家リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)の旧居があって博物館として公開されているようですけれど、見つけたところで入ったかどうか。小学校の音楽室に掲出された作曲家の肖像の中にリストが含まれていて、人生で最初に覚えたハンガリー人の名であることは間違いありません。

 
オクトゴン かつての社会主義国も、グローバル化したというのかアジア経済にやられているというのか・・・


古いだけあってM1の駅間距離は300mになるかどうかというくらいのものです。少しだけ歩いたら、もう次の駅の降り口が見えました。オクトゴンOctogon)駅で、この地名はアンドラーシ通りとテレーズ通り(Teréz körút)の交差点を指します。テレーズ通りは、昨日の歩きはじめに迷い込んだブダペスト環状道路の一角をなす幹線道路で、トラムが走っています。オクタゴン交差点は交通の要衝といったところ。そろそろ昼近くなって、カフェやレストランなどの作業が忙しくなりかけているのが見受けられます。見上げると交差点に面してファーウェイ(华为)、サムスン、中国銀行、ロレックスの看板広告が。ロレックスがなければアジア勢に完全に包囲されるところでした(笑)。ファーウェイの看板の下にはスタバがあってすでにかなりにぎわっており、グローバル・ブランドの遍在性をあらためて見せつけられます。商業地区に入ったので町の様子を眺めながら進もうかとも思ったのですが、この先もランチ抜きで歩きつづける予定なのと、あっという間に終わってしまったクラシック・メトロに少し未練があったので、またM1に乗って都心方向に進むことにしました。物好きやね。オクトゴン駅から2駅、バイツィ・ジリンスキー通り(Bajcsy- Zsilinszky út)駅で下車。道路名についている固有名詞をいちいち追いかけていてはきりがないものの、バイツィは20世紀の政治家で、反ナチスの活動をつづけ、投獄されてそこで命を絶った人物。

バイツィ・ジリンスキー通り駅はデアーク広場に面しています。昨日来の、市の中心部にやってきました。このあたりは一通り歩いているので方向感覚はばっちりで、クリスマス・マーケットで最もにぎわうヴルシュマルティ広場を再訪。夕方だからにぎやかだったのではなく、正午前でも人があふれています。お土産の小物でもあればと思うものの、だいたいがわざとらしくて食指が動きません。ことのついでに、広場に面した立派なビルに入っている土産物店に入ってみました。「アメ横ビル」みたいな感じだと思えばよいでしょうか。

 
ヴルシュマルティ広場


これからブダ王宮のある山に「登山」するつもりなので、重たくないものがあれば買おう。やっぱりハンガリーといえばパプリカかな。さほど何かを欲しいわけではなく、ジャスト・ルッキング(だいたいいつもそう)のつもりで店内をゆっくり見ていたら、ハンガリー名産と知るトカイ・ワイン(Tokaj)の棚が見えました。もとよりいまここでボトルを買うつもりはなく、何気なく近づいてみたら、20代の兄さんが寄ってきてセールス・トークを開始します。これは何々、こちらはこういう品で・・・ と、隙を与えず5品ほど立て続けに紹介。こちらはテキトーに相槌を打っていたら、後ろから60代くらいのおじさんが現れました。兄さんは「彼はワインの専門家だから」とか何とかいって、謎のバトンタッチ。このおじさんが、兄さんを上回るハイペースでセールスを開始します。もちろん隙は与えません。ロック・オンした客は逃がさず、何か買わせるまでしゃべりつづけるつもりなのでしょうか。旅先ではしばしばそのようなことがあり、そんなことをされたら意地でも買わないけどね、というのが私のスタンスになります。それなりに流暢な英語を駆使するおじさんの話は、セールスというよりも講義になり、トカイ・ワインの由緒の話に突入。それによれば、モーツァルトもシューベルトもディドロも詩人の誰とかも、このワインを飲んで作品の着想を得たんだ、トカイ・ワインは別格さ、とか何とか。「ところであなたはトカイ・ワインを知っていましたか?」と聞くので、――Ah, something nice. と超絶いい加減な答えをしたら、「あなたはトカイ・ワインをよく知らない!」と断じ、さらに輪をかけて講義をつづけます。たまにこちらが何かいっても受け流し、ひたすら自分のしゃべりたいことをしゃべりつづけます。客が私でなくても、こんなので売れると本当に思っているのか? 78分聞いていてさすがに疲れたので、冷めた感じでIt is interesting. といったら、終わりました(笑)。

そのままドナウ河岸に出ました。前日歩いているのでこのあたりの方向感覚は心得ています。相変わらずトラムが速度を上げて疾走。鎖橋とブダ王宮一帯をまるごと視野に収めると、何とも絵になっていいですねえ。ツーリストらしき人たちがカメラやスマホでねらっているのもその絵です。一昨日はウィーンのドナウ河岸を散策しましたが、あちらは「都心」がドナウから少し離れたところ(右岸側に数キロ)に展開するのに対し、ここブダ/ペストはど真ん中を川が流れるので、町としてのこんもり感が両岸にある、あるようでない景観。8月に訪れたブルガリアのルセなど、町自体が小さく、川沿いは本当にのんびりしていましたし、対岸のルーマニア領は社会主義暗黒時代の名残なのか河岸林が分厚く、容易に近づけないような雰囲気をかもし出していました。長大河川ドナウ川に面した都市の規模としては、やはりここが最大なのでしょう。

 
よくわからん・・・


セーチェーニ鎖橋を徒歩で渡ります。対岸が目の前に見えている状態ながら、これが架橋される前はやっぱり「別の町」だったのでしょうね。見たところ歩道部分を歩いている人のほとんどはツーリストのようです。吊り橋というのはまあおなじみなのだけど、チェーンを用いた鎖橋というのは何とも重厚で、構造そのものを眺めながらの渡河ということになります。

 
 
セーチェーニ鎖橋を渡り、ブダ王宮の斜面を歩いて登る


橋を渡り切ったところが王宮のメイン・ゲートで、ケーブルカーの乗り場になっています。乗ってみたいとは思うのだけど、車両が小さすぎてキャパが不足しているらしく、切符売り場にかなり長い行列が伸びています。乗ったところで濡れた傘をもった人たちでぎゅうぎゅうなのはかなわんから、歩いて登りましょう。はっきりとした登山?ルートが見えていて、そちらに向かう人のほうがやはり多いのです。雨でなかったら乗ったかもしれない。急な斜面ではありますが、ジグザグに道が組まれているため、無理なく登ることはできます。まっすぐ登坂するケーブルカーの線路を橋で越えてさらに進み、10分ほどで頂上に着きました。ブダ王宮Budavári palota)といっているのは山の上に建つ一連の建物の集合体で、近代に入ってから火災や戦災でよろず焼け落ちてしまったため、社会主義時代に再建されたものです。山そのものはドナウ河岸に沿って1.5kmほどつづく細長いテーブル状のもので、平らになっている頂上部分に王宮や教会、貴族の邸宅などが造られて、中世には政治拠点となりました。もともと軍事拠点ではあったようですが、1241年にバトゥ(チンギス・ハーンの孫)の率いるモンゴル軍が来襲してハンガリー平原を制圧すると、現在のスロヴァキア国境付近にいたハンガリー王ベーラ4世(IV Béla)はこれを避けてザグレブ、さらにはアドリア海方面にまで拠点を移し、皇帝オゴデイ・ハーンの死の報を受けてモンゴル軍が退却したのち、この山上に拠を構え、城砦を構築しました。ことし2月にはクロアチアのザグレブを訪問し、やはりベーラ4世が造った拠点の跡を見ています。8月に訪れたブルガリアあたりの歴史とも大いに連動していて、なかなか中東欧はおもしろい。それ以前に都市化していたブダは現在のオーブダ、けさトラムに乗って下車したあたりで、新たにハンガリー王国の実質的な首都になったブダというのがいま立っている王宮付近ということになります。

 
斜面を登りきったところに国立美術館


対岸の平地から見上げてわかっていたように、王宮の丘はひたすら細長く連なっているので「縦走」するのはちょっとしんどい。どうやらメインとなる建物があるわけでもなく(近代に再構築された部分がほとんどなので)、丘の上は観光的な世界だと思いましたので、半分くらいのところまで歩けばいいかなと。それよりも、河岸から見上げればかなりの急勾配でしたので、その崖上から見渡す景観は実に見事でした。もとより見えているのはほとんどがペスト側です。なるほど、商業的中心となったペストを権力側の拠点であるこの丘から見下ろして「統治」するという構図だね。セーチェーニ鎖橋のフォルムの美しさは上から見てもよくわかります。雨はほとんどやんでいるとはいえ、どんよりとしたグレーの空。ドナウ川もグレーなので視界は完全にモノトーンですが、偏見込みで、それも中欧らしくていいじゃない。2018年の賀状はもう投函していますけれど、いただいたぶんの返信用には例年、年末の遠征の成果(写真)を盛り込むことにしていて、この絵を使うことにしましょう。4度目の年男ももうすぐ終わり。公私ともにとくに問題はなく順調、堅調な日々だったのに、自覚症状のない成人病(生活習慣病などという呼称は採りたくない)に見舞われ、秋以降は薬の副作用と食事制限によるストレスにひたすら悩まされました。いい景色を見て、来る年の幸運を祈ることにしよう。

丘の最南部をひと回りして先ほどの登頂地点に戻り、今度は北側のほうに歩いていきます。王をとりまく貴族や聖職者たちのエリア。細長い丘の幅はせいぜい200mくらいのもので、基本的にはタテ方向に伸びる3本の道に沿って小さな建物が整然と並びます。ですから王とか貴族のうんぬんというより昔の宿場町みたいな風情も感じられます。裏手に回ると、ブダの町を見渡せます。少し前に地盤工学の先生と仕事をご一緒したとき、ブダペストに何度かいらしたことがあるという先生からブダ側の美しさをうかがっていました。そうか、ブダ=政治都市という頭があるものだから、いま歩いている王宮のことしか考えていなかったけれど、こちらも単独で都市として成立するほどのものだったわけですね(前述のように、博多に対する「福岡」部分に相当?)。ハンガリー平原とはいうものの、ブダ側を見ると全体に傾斜のかかった地形で、遠方にはかなり高い山も見えます。マクロに捉えるなら、スロヴァキアとの国境を東に向かって流れていたドナウ川が、両岸の険しい地形に追い込まれるかたちで90度方向を変えて南流し、その地峡から抜け出したところにあるのがブダそしてペストです。こちら側を望めばそのような景観になるのは当然でしょう。

 
細長いテーブル状をした丘の「裏」、ブダ側の景観 大都市ながら落ち着いた雰囲気が見て取れる

 大統領官邸


崖の上の遊歩道をしばらく歩いてから、王宮の丘のセンターといえるマーチャーシュ教会Mátyás templom)のほうに進みます。この界隈は完全に観光地区で、レストランや土産物店などが並ぶエリア。13時になっていますがランチ抜きと決めているせいか、さほどに空腹ということでもなく、町歩きを続行します。ただ、朝から歩きっぱなしで下半身に疲労もあることなので、この先の展望台あたりで小休止、給水することにしよう。朝のうちは地下鉄やトラムなどを乗り継いでいましたが、そのあとひたすら歩きでしたからね。

 
 
(上)観光用に整備された道をたどってマーチャーシュ教会のほうへ (下)聖イシュトヴァーンの騎馬像と漁夫の砦、そこから見える議事堂


マーチャーシュ教会は王宮の丘のシンボルで、ブダのランドマークでもあります。とはいえ尖塔を備えたゴシック様式の建物は、19世紀に構築されたものを、第二次大戦で破壊されたのちに復元したものです。1617世紀、オスマン帝国の最盛期には、ブダはイスラーム圏のフロンティアであり、マーチャーシュ教会もモスクに転用されていたとのこと。やっぱり現在の地図だけで世界を眺めてはいけませんね。1683年、ハプスブルク領内にいたハンガリー人たちが反乱を起こしたのを好機とみたオスマン帝国は大軍を繰り出し、ブダも足場としてウィーン攻略に着手します(第二次ウィーン包囲)。しかし1529年の第一次包囲のときから格段に増強された中欧のキリスト教同盟軍に歯が立たず、内部の混乱などもあって潰走を余儀なくされました。1699年に結ばれたカルロヴィッツの和約で、オスマンはハンガリーなどを放棄、建国以来つづいた拡張についに終止符が打たれました。4ヵ月前に、バルカン半島中部への進出という飛躍の場となったブルガリアの古戦場(ヴェリコ・タルノヴォ)を訪れていますので、歴史と地理がつながって非常に感慨深いものがあります。カルロヴィッツ和約のあと現在のハンガリーのほぼ全域、スロヴァキア、クロアチア北部にハンガリー王国が再建され、原則的にはハプスブルク家の当主(神聖ローマ皇帝、オーストリア太守などを兼ねる)が王を兼任してその支配下に組み込みました。ハプスブルク帝国の多民族性というのは国民国家の時代になると足かせとなってしまうのだけど、その端緒ともいえるのが17世紀末の領域拡大でした。

教会前の広場はそのまま展望台につながっています。漁夫の砦Halászbástya)という、トリデにしてはほんわかした名を与えられたその区画は、実際には軍事要塞でもなんでもなくて、まさに展望台として19世紀に構築されたものです。ナショナリズムの高まる中で、歴史や伝統をその軸に据えて可視化しようとする権力は、欧州各地で教会をゴシックっぽく仕立てました。マーチャーシュ教会の再建もその一環で、その折に「砦」もセットで造られたとのこと。展望台として使用することはもちろんですが、むしろ対岸のペスト側から見上げたときの印象をよくしようとしたのでしょう。

 
漁夫の砦から見たドナウ川とブダペスト市街 上流側にマルギット橋、対岸に議事堂を望む


ナショナリズムと近代の造作というのは、ずっと私が関心をもってきた次元ですのでそれも興味深いのですが、歴史っぽい絵が見えれば「いいね」を押したくなるようなツーリストはその事情を知ってか知らずかカメラやスマホをフル稼働。展望台としてはきわめて優秀で、のんびりいい休憩になります。雨はやんだようだし風もないので、そこまで寒くはありません。13時半になったところで下山?することに。もちろん砦から見えている遊歩道を下っていくのでもよいですが、丘の上にはいくつかの系統の路線バスが乗り入れているので、マーチャーシュ教会前の三位一体広場(Szentháromság)から乗車することにします。一日乗車券の霊験あらたかなことで結構です。やってきた16系統は鎖橋を渡ってデアーク広場までなので、下山ついでにペスト中心部に戻ることにしよう。このあたりの段取りは朝から出たとこ勝負になっています。あとで調べると、16系統はブダ側を走ってきて王宮の丘に入り込み、終盤にドナウ川を渡ってデアーク広場へという路線で、要はペスト中心部とブダの各地区を結ぶ主要路線が、観光客の輸送も引き受けているということなのでしょう。そのせいか車内は超満員で、体の向きを変える余地もないほど。なぜか押し出されるように前方の座席に座れたので私はラッキーでしたが、そのぶん視線が低いので反対側の車窓は見られないですね。アジア的なお顔立ちに見えるシスターさんが隣にいらっしゃいます。バスは城壁の切れ目から外に出て、かなり急な勾配を下り、180度曲がる文字どおりのヘアピン・カーブを経て、鎖橋のたもとに下りてきました。この名橋、フォルムは芸術的であるものの車道部分の幅員があまりないので、現代の交通路としてはいまいちです。昨日来おなじみの景観の中を通り抜け、所要15分ほどでデアーク広場に到着。

そこから北側は前日も足を踏み入れていないエリアです。聖イシュトヴァーン大聖堂を通り越し、2ブロックほど進むと、自由広場Szabadság tér)という、長辺でも200mないほどの小さな方形の広場に出ました。広場の南側入口に柱廊をかたどったようなモニュメントが見えます。ハンガリー語は読めないものの、19443月の日付を読み取ることができます。人々が45センチくらいの石に1944という数字や文字を彫り込んで備えてあり、ハンガリー国旗に献花も。――ハンガリーは、戦間期の摂政(事実上の君主)ホルティ・ミクローシュのもとで一定の安定を得ましたが、世界恐慌期になると政治の右傾化やファシズムの台頭、そしてナチス・ドイツとの連携を指向する動きが強まりました。ヒトラーがヴェルサイユ体制(第一次大戦後の新秩序)を破壊する意図を明確にしたため、大帝国の中核を占める民族だったのに小国に転落している現状への不満を募らせたハンガリーの一部右派勢力はこれに便乗し、スロヴァキアやユーゴスラヴィアからの領土割譲をねらったのでした。しかしスターリングラードの戦い(1942年秋〜1943年初)を機にドイツ軍が戦線を下げ、逆にソ連軍の攻勢が強まると、ホルティは首相ら政権幹部の動きとは別に連合国側への秘密交渉を開始します。これが発覚し、ヒトラーはホルティの抹殺とハンガリーの属国化を決意。この意向を受けたハンガリーのファシストたちがクーデタを起こしてホルティを軟禁、ドイツ第三帝国が崩壊の道を歩みはじめるまさにその時期に、ハンガリーもそれとの一体化の道を選んでしまいました。19443月というのは、クーデタを支援するためにドイツ軍が来襲し、ブダペストを総攻撃したそのときのことです。抵抗して踏みつぶされた市民たちを慰霊するモニュメントが目の前にあります。命だけは助けられたホルティ・ミクローシュはドイツに送られ、戦後はポルトガルに亡命して1957年に死去しました。その評価はいまも大変難しく、議論の的になっています。

 

ハンガリー現代史を象徴する自由広場 (上左)19443月の戦いの慰霊碑 (上右)解放記念碑
(下)ロナルド・レーガン像 奥に議事堂も見える


和議の道を断たれ、枢軸陣営で最後まで戦うことになったハンガリーの降伏は19455月、つまりヒトラーの死亡(430日)後の、最後の最後までドイツに付き合ってしまったわけですが、そのころはファシスト政権が地方でわずかに抵抗するだけになっていました。1944年秋からソ連を中心とする連合国軍がブダペストを攻撃しており、19452月には首都を解放しています。戦後の新秩序を決める総選挙が実施されたものの、その民意は保留され、さほどの支持があったわけでもないハンガリー共産党を中心とする政権が樹立されました。ハンガリーを解放したのはほかならぬソ連軍であり、終戦後も大軍を駐留させていたため、ヒトラーに代わってスターリンがこの国の命運を握ることになったわけです。自由広場の北側の入口には、ハンガリー語だけでなくロシア語のキリル文字も併記された立派なモニュメントが見えます。そちらが解放記念碑、つまりはソ連による解放を称えるものです。

ここから東西冷戦の時代になります。冷戦期のハンガリーは東側の最前線、鉄のカーテンの真裏に位置しました。1946年、共産党以外の政治勢力がほとんど弾圧、排除され、ハンガリー人民共和国Magyar Népköztársaság)が成立。スターリンに迎合しすぎた戦後の共産党政権は、そのスターリンの死後、親分であるソ連自体が方向転換する中で行き場を失いかけました。新たにナジ・イムレNagy Imre)が首相に起用され、スターリン主義からの離脱、計画経済の緩和、複数政党制の復活といった、西側から見れば歓迎できる方向での改革に踏み切ります。しかしスターリン批判が起点だったとはいえ、社会主義秩序からの逸脱はモスクワの歓迎するところではなく、ナジは失脚に追い込まれました。その後の親ソ的な政権に対するハンガリー国民の不満は、195610月、大規模な反ソ暴動として爆発してしまいます。ソ連軍が投入され、市民とのあいだの戦闘もあり、ハンガリーとブダペストは大混乱に陥りました。ハンガリー当局は急きょナジ・イムレを首相に復権させて収拾を図りました。不利を悟ったソ連軍はハンガリーから引き揚げ、ナジは国連や西側の仲裁を期待しますが、そこは冷戦時代のことであり、彼やハンガリーの味方はついに現れませんでした。翌月、体勢を立てなおしたソ連軍が侵攻して万事休しました。ソ連の後押しでカーダール・ヤーノシュKádár János)が首相・党書記長の座に就き、東欧革命の1年前までの32年間にわたって社会主義独裁政権を率いることになります。身の安全を保証されたはずなのに逮捕されたナジ・イムレは、秘密裁判の末に処刑されました。

 
(左)ナジ・イムレ像  (右)1956年のハンガリー動乱(議事堂に掲出された写真)


年男48歳の私にとって、最初の20年はまるまる冷戦時代です。世界地図を日々眺め、大陸のことをあれこれ妄想していた少年時代は、したがって最も東西対立が先鋭化した時期でもありました。東西対立は半永久的なものだと信じていましたし、米ソ両陣営をひとまず固定的なものだと捉えた上で、その間の西側内部の矛盾、そして東側内部の矛盾という感じでちょこちょこエピソードを挿入するというのが「現代史」の語られ方だったのです。いつしか世界史大好きな高校生になり、その科目でのハイスコアを引っ提げて大学入試を突破しようとしていた1987年、世界史の教科書も私の脳内でも、そうした枠組が固定化されていました。東側内部の問題といえば、いま述べた1956年のハンガリー動乱1956-os forradalom / Hungarian Uprising of 1956)と、1968年のプラハの春が二大トピックで、社会主義政権と「労働組合」が対決し後者が抑圧されて「あれ?」と頭がこんがらがったポーランドの民主化運動(1980年)がそれにつづきます。ポーランドの件は私自身もリアルタイムのニュースで見ていたのですが(それゆえに「あれ?」と思った)、前二者は生まれる前なので完全なる歴史。ソ連軍が出てくると卓袱台返しのようにすべてリセットされてしまうんだよなあと、強烈な印象をもって本を読みました。

自由広場は、王宮からも対岸に見えた議事堂へのアプローチにもなっています。その途中で、まず出会うのは米大統領ロナルド・レーガンの像。冷戦終結の立役者だというのでここに設置されたのでしょうが、なぜゴルバチョフではないの? レーガンの在職期間(198189年)はまるまる私の中高生時代にあたるので、とりわけ印象の強い大統領なのですが、その1期目は「悪の帝国」と呼んだソ連との対決姿勢を誰よりも明確にし、新冷戦と呼ばれるような最後の対立の時期でした。ところが2期目の開始とほぼ同時にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)と新思考外交を掲げて、軍縮や経済の建てなおしを断行し、レーガンとの対話、東西対立の緩和に舵を切ります。東側の中では経済的に豊かで、工業化にもまずまず成功していたハンガリーは、ゴルバチョフの改革に歩を合わせるようにハードな社会主義路線からの軟着陸を指向するようになりました。計画経済や一党独裁の緩和を支持する勢力と、特権を維持しようとする勢力との対立の中でカーダール・ヤーノシュは失脚に追い込まれ(1988年)、ハンガリーは複数政党制の容認、共産党の優位性の否認、そしてハンガリー動乱やナジ・イムレの再評価など、たてつづけに民主化の道を進みました。19895月にはオーストリアとのあいだの国境の通行を自由化し、これを機に東ドイツの市民がハンガリー経由で西ドイツに脱出する「汎欧ピクニック」がはじまって、同年11月のベルリンの壁崩壊へとつづく激動の季節が到来します。レーガン像の少し先に、しゃれたコート姿で橋上に立つナジ・イムレの像がありました。

 
議事堂


朝方にブダ側を走るトラムの車窓から眺め、先ほどは王宮から見下ろした議事堂(Országház)の前に出ました。とはいっても、対岸から見えるのが正面であり、こちらは背面にあたります。伝統を擬装する近代の建築様式、ネオ・ゴシックも、背面はちょっとおとなしい感じ。議事堂の前庭はコッシュート・ラヨシュ広場(Kossuth Lajos tér)と呼ばれる整然とした空間で、ぴしっとした衛兵が歩いて警備していました。旧東側親ソ諸国の中では最も進んでいて西側に近い社会構造をもっていたハンガリーは、その意味では軟着陸に成功したといえます。夏に訪れたブルガリアやルーマニアと比べれば、感覚的にも明らかに「西欧のつづき」であり、西欧と一体になればいっそう発展することが望める地域でした。1999年にNATO2004年にはEUに加盟、2007年にはシェンゲン協定実施国となりあらゆる意味で欧州の一部、それもど真ん中に位置づけられるようになります。

ハンガリーという国に、私はさほど強い関心を抱いていたわけではなく、シンパシーも反感もとくにありませんでした。穏健な国なんだろうな、欧州統合のど真ん中にあるんだなという普通の印象をずっともっています。しかしその欧州統合が猛烈な逆風にさらされた2010年代、ハンガリーはむしろ逆風の発生源なのではないかという動きを見せるようになります。2010年代の危機というのは、欧州内部での加盟国間あるいは階層間の利害の対立、南欧諸国の財政悪化を直接のきっかけとする経済危機、そしてシリア難民の大量流入を直接のきっかけとして起こった排外主義勢力の台頭などから成り、相互に影響しながら深刻さを増しているものです。移民と難民では意味も数も論理も対応も異なるのに、排外主義勢力や一部のメディアはあえて両者を混同し、あるいは混同するように仕向け、難民だけでなく移民(EU外からの移入、加盟国間の移動の両方を含む)への反感を票そして議席数の獲得につなげました。経済がうまくいっているあいだは、人間はわりに寛容です。経済がおかしくなると不寛容になります。「あいつらのせいだ」というロジックにはまりやすくなります。2010年に政権を獲得したハンガリーのオルバーン・ヴィクトル(Orbán Viktor)は、ポピュリズム+排外主義+反民主主義で、2010年代の世界を象徴する人物のひとりと目されます。メディア規制や憲法裁判所の縮小など、行政権強化のためにはチェック機能をやっつけるという、これも2010年代的な対応も顕著。それでも、旧共産党の流れを引き既得権層とみられる社会党や、それと長く結びついてきた官僚、メディアなどへの不信感を背景として、オルバーンの人気は高水準を維持します。「移民は毒」と公言したり、「私たちを異端視するEUなんかより中国のほうがいい」と称してその経済支援を露骨に求めたりするオルバーン、そしてハンガリーの今後はどうなるのでしょうか。そのせいで、このところハンガリーの政治的イメージは私の中で相当に悪化しています。議事堂に念を送ってやろうかな。

 

PART4につづく


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。