ヴルシュマルティ広場から南に伸びるヴァーツィ通り(Váci
utca)周辺がブダペスト最大の商業地区。もちろん自動車の乗り入れが禁止された歩行者専用区画で、さほど広くない通りの両側にはブティックや宝飾店、飲食店、土産物店などが建ち並びます。おなじみ世界的銘柄のショップもたくさんあります。実際にはブダペスト市民の誰もそんなもの着ていないんだろうなというような民族衣装の人形などがさかんにディスプレイされている点をのぞけば、まあ欧州のどこにでもある大都会であり、何だったら新宿や渋谷のつづきのようでもあって、ハンガリーらしさはさほどありません。新宿だってそうだけど、看板の文字は当地の言語でなく英語が主ですしね。それにしてもこの中心商業地の規模は予想以上で、ブダペストはウィーンに匹敵するか、それ以上の規模の都市なのだろうと思えます。したがって私にとってはさほどめずらしくない標準的な都会の景観なのですが、道順が狂った関係で町なかをスキップし、ドナウ川沿いからいきなり中心商業地に入ったおかげで、このあと味わい深い展開になったのだから、テキトーでいい加減な町歩きもいいものです。あまりブダペストらしくない→ブダペストらしいという推移のほうが、絶対におもしろいですからね。
にぎわうヴァーツィ通り
前述したように2017年はいよいよEU加盟国コンプリートを期して中東欧のあちこちを回りました。首都ということでいうと、ザグレブ、リュブリャナ、ソフィア、ブクレシュティ(ブカレスト)、そして今回のブダペストに、既訪も含めればパリとウィーン。最初の3つは、日本でいえば中くらいの県庁所在地というくらいの規模で、のびやかでした。ブルガリアのソフィアはさすがに首都らしい重厚さがあったのですが、道幅がひろく建物の背が低いため空間的にゆったりとしていて、何となく田舎っぽさが抜けきれない感じです。それらに比べてもブダペストは格別に大きな都市のようです。考えてみれば、中東欧の「国々」ではナショナリズムが高揚した19世紀半ばにあらためて都市化が進められ、にわかに「首都」になったわけですけれど、ブダ(と)ペストは元から大都会だったのだから成り立ちがずいぶん違います。16世紀半ばから200年あまり、ハンガリー王国の首都はポジョニ(現ブラチスラヴァ)に置かれ、歴代国王の戴冠式もそちらでおこなわれました。ですからハプスブルク家当主でハンガリー女王だったマリア・テレジアもポジョニで戴冠し、そちらを好んで居住しています。ポジョニはブダ/ペストから上流すなわちウィーン方面に200km近くさかのぼったところに位置し、むしろウィーン郊外といってよいほどです。古い都市であるブダ/ペストが首都にならなかったのは、同一人物である神聖ローマ皇帝兼ハンガリー王の移動距離を短くするためと、もう1つはバルカン半島の奥深くまで勢力を広げ、ときにウィーンを脅かしたオスマン帝国に対する備えによるものと考えられます。ハンガリー一帯が広大な平原ですので、川沿いにそびえるブダ城の戦略的な重要性は大きく、こちらは長く軍事上の最前線という位置づけだったのでしょう。ブダに遷都されたのは1784年で、そのあとナポレオンの侵入を受けたポジョニは主要部分が破壊されてしまいましたから、きわどいところではありました。ナショナリズムという観点でいいますと、ポジョニ付近ではスロヴァキア語とスロヴァキア民族文化の復興が企図され、ブダペストは前述のようにハンガリー民族運動の一大拠点になっていきます。中東欧ではもともと民族や言語を地区別に塗り分けることなど不可能ですし、多様な人々が集まる大都市はとくにそうなのですが、ともかくもそういう流れになっていくのでした。
クリスマス仕様の町を抜けると、交通量の多いバイツィ・ジリンスキー通り まだ16時半にもなっていないが真っ暗・・・
だいたい南北に走っている目抜きのヴァーツィ通りに対し、直交する東西方向の道には中小の飲食店が展開していて、路上にテラス席を張り出しているところもあります。冬でもやるんですね。すっかり暗くなっているとはいえまだ16時ですから客の入りがよいはずもなく、ヒマそうな客引きが声をかけてくるものの本気ではない模様。ほとんど観光レストランの類で、写真つきメニューを見れば、グヤーシュ(Gulyás)やシュニッツェルなどのありがちな料理を載せています。グヤーシュは肉をパプリカで煮込んだシチューで、ハンガリー料理といえばコレといえる一点ものですが、今冬は自粛して汁ものを避けようかなと思っています。ちょうど5年前にチェコのプラハで食べていますし、民族料理を日替わりに出してくるパリの行きつけのレストランでも1年くらい前に食べたな。スロヴァキアのブラチスラヴァやクロアチアのザグレブでもメニューに載っていました。ウィーンの名物料理シュニッツェルも同様に中欧一帯でとてもポピュラー。同じようなものばかり食べるのはどうなのと思うものの、このあたりに何度も来ているからいえる生意気な言かもしれないし、横浜中華街だってたまに行くと広東とか四川の枠組を無視して炒飯に酢豚にエビチリというふうに「定番」だのみになる人が多いですもんね。
そのヨコ筋をじぐざぐ歩いて、デアーク・フェレンツ広場(Deák Ferenc tér)というゆとりのある空間に出ました。この東側は片側3車線のバイツィ・ジリンスキー通り(Bajcsy- Zsilinszky út)で、ペスト側の大動脈。中心市街地の歩車分離が進んでいる関係で自動車はこちらに集中し、かなりの交通量です。デアーク広場は市内各方面への主要道路が分かれる道路交通の要衝で、空港行きのバスもここを発着します。また市内に4路線ある地下鉄のうち3路線がここの地下駅に乗り入れています。
何となく裏道っぽいところに入り込む
横断歩道を渡って大通りの東側に出ました。ホテルのある東駅周辺まで直線で1kmちょっとくらいなので、それらしいところを歩きながらそちらに近づこうという算段です。都市の規模からして、夕食をとる店ならばどの地区にもありそうですし、さっきみたいに多少間違えたところで大まかな方向がわかっていれば大外れはしないだろうという楽観もあります。細かいルート、要チェックポイントをすべて事前に設計するタイプの旅行もあり、そういう人も実際に知っていますが、それがダメだというわけではありません。私の性格には合わないという話。私のように町歩きセンサーまかせの場合には、「あれ見逃した!」といった後悔は禁物で、テキトーに歩いたからこそ見られた景観があってラッキーというプラス思考が求められます。あ、とくに若い女性にはその方法を勧められませんのであしからず。残念ながら夜の町歩きにはジェンダーの壁が厳しくそびえています。
デアーク広場のすぐそばに、半円を描いて大通りを逸れる道があり、ずいぶんとクラシックな構えの店がいくつか見えたので、そちらに左折。その先でキラーイ通り(Király utca)という、さほど幅の広くない道につながっていました。いくつかのエスニック料理店などが見えたので興味が湧いたのと、こちらの道路に入り込んでいく歩行者がぱらぱらあったので、何となく流れがあるのかなと思って、足を踏み入れました。街灯が全体にしょぼいため明度が低いのだけど、雰囲気は東京でもよくある飲み屋街のテーストです。といっても16時半なんですけどね。その先に、何やら明るめのパサージュ(屋根つき商店街)の入口がありました。人の流れもそちらに折れていくので、当方も迷わずターン・ライト。
ゴジドゥ・ウドヴァル
そこはなかなか見事なパサージュで、200mはあろうかという狭い通路の両側に、レストランやカフェ、パブ、バーなどの飲食店がずらり並んでいます。レストランはイタリアンが目立ち、けっこう客の入りもあります。ただ、全体的には飲み屋街というべきで、若い人が多いのが興味深い。上もの自体が古いため、古い学校の廊下に模擬店を並べた文化祭のようにも見えるし、ガード下の飲み屋街(それもどちらかというと大阪の)の感じもします。大道芸なども派手にやっているし、客引きもたくさん。なかなかおもしろいところに紛れ込みました。あるレストランの客引きをしていた若いおねえさんは、「グヤーシュなどのハンガリー料理、ステーキにピザ、パスタなど、インターナショナルな料理を味わえます。お値段もリーズナブルでおすすめですよ」と、よどみのない英語で話してくれました。外国人観光客が来るところなのか地元民の集う場なのか判然としませんが、楽しいですね。あとでガイドブック(「地球の歩き方」の『ハンガリー』、ダイヤモンド・ビッグ社、2017年)を見てみると、巻頭グラビアに「グルメ&ナイトが充実 ユダヤ人街へ」としてこのパサージュのことが写真入りでミニ特集されているのに気づきました。このごろガイドブックはもっぱら地図として利用し、巻頭特集なんて旅の規格化そのものだからとスルーしてしまっています。パサージュの名はゴジドゥ・ウドヴァル(Gozsdu
Udvar)というらしい。もちろん、事前情報がなくて「紛れ込む」ほうがおもしろいので、予習なしについての反省は今回もありません。日が暮れるのが早いので、飲み屋街というのはいっそう魅力的ですが、昼を抜いていることもあってやっぱり食事のほうがいいんですよね。時間も早いので、ゴジドゥ・ウドヴァルをじっくり観察したあと、反対側の出口から抜け出しました。
ドブ通り
こちらはドブ通り(Dob utca)という何ともドブ臭い名の道で、実際には臭いはないものの先ほどの道に比べても街灯が少なくて、建物の半分から上は闇に紛れるような暗さです。ホテルを出て町歩きを開始したとき、いったん入り込みかけて思いなおしたユダヤ人街の真ん中にさしかかっているようです。歩行者はまばらで、たまに自動車が通ります。もちろん警戒はしておいたほうがいいけれど、ここは大丈夫だろうというカンが作動しています。ユダヤ人街といっても、現在そこにユダヤ人がたくさん住んでいるというわけではなく、第二次大戦前までの話。ペストは中世いらいユダヤ人に寛容な都市、というかユダヤ人がこの町の商業の発展に寄与したということらしく、欧州でも屈指の人口を抱えていました。ナチスによる迫害とその後のイスラエル建国によって彼らはハンガリーを離れ・・・
というありがちな話の前に、ハンガリー国家(国民?)自身がユダヤ排斥を指向した事実を押さえておかなくてはなりません。オーストリア・ハンガリー二重帝国が第一次大戦に敗れて解体されたのち、ハンガリーはマジャール人を中核とした小さな民族国家(ほぼ現在の国土)として新たな歩みを開始します。しかし大帝国の中核部分を担っていたハンガリー人たちは小国転落を受け入れがたく、ハプスブルク家の当主を再び担いで周辺地域を糾合しようという発想を捨てきれませんでした。両大戦間の政治史はややこしいので軸だけ述べますと、摂政ホルティ・ミクローシュ(Horthy Miklós 名義上はハプスブルク家当主が王となる「王国」だが戦勝国側が復位を認めなかったため、実質的な君主となった軍人)のもとで右傾化を強め、経済が安定しない中での議会制が過激な右派政党の台頭を招くというありがちな構図を経て、世界恐慌が厳しくなった1930年代にはユダヤ人排斥が本格化します。経済不振と社会分断がつづいたとき「こいつらのせいだ」というターゲットを決めつける勢力があったら、本当に警戒しなければならないというのが現代史の教訓。ホルティのハンガリー国家はいつの間にか右へ右へとひきずられ、ついにはナチスの支援によるファシズム勢力のクーデタが発生して、ホルティは国を追われました。この間、ハンガリー政府は日独伊三国同盟の側で世界大戦に参戦し、なまじファシスト政権が成立したばかりにソ連軍の直接の来襲を受け、そこで力尽きました。戦後、ソ連の庇護下で社会主義国家として歩んだことはいうまでもありません。
「飲み屋街」として機能する夜のユダヤ人街
ここユダヤ人街は、肝心のユダヤ人の多くがいなくなってしまったあと荒廃し、そののち自然発生的に若者らの集まる飲み屋街に変貌していったようです。都市再生計画によるのではなく「闇市由来」みたいな形成だったというのは興味深い。適当な道を右折したところに中型のスーパー(西欧でもおなじみのSPAR)がありました。荷物にはなるけれど、この先の道沿いに店がある保証はないため、ここでお水とビールを買っていこう。スティル・ウォーター(炭酸なしの水)は0.5Lで99 Fr、Dreherの缶ビール0.5Lは199 Frで、フォリントの相場がまったくわからない中での買い物なので安いのかどうかさっぱりわかりません。いま計算したらビールは80円くらいだからめっちゃ安いわけだ。ユーロ圏でも€1を切るケースはほとんど見かけないので、税制の問題かもしれません。この界隈には本当に飲食店が多く、種類も豊富なのですが、玄関が頑丈というのか中の様子がわからないところばかりで、ドアを押すのがためらわれます。もう一回りしてから夕食会場を決めようかなと思っていたら、トロリーバスの架線も見えるドハーニ通り(Dohány utca)に面した角地に、手書きメニューを掲げた店を見つけました。店の名前はBajor
Sarok Sörözo Étterem。表示はすべて英語で、Budapest
style steak with potato croquettesというのが一推しらしく写真が貼りつけられています。ブダペスト・スタイルのステーキって何? しかしなかなか魅力的なので入ってみることに。
店内はけっこうな広がりがありますが、普通の4人掛けテーブルがなく、バーカウンターのほかは円テーブル。それも片側は一続きの座席が取り囲む、スナックのテーブル席のような感じになっていました。大勢で来てわいわい楽しむ飲み屋の類ではないかと思われます。ただ「食事されますか」と英語で訊ねられ、イエスと答えたらその集団席に案内されたので、とくに居心地が悪いわけではありません。「英語のでよろしいですか」と確認の上で英語版のメニューをもってきてくれました。地区、従業員ともに外国人慣れしているようです。ビジネスマンなどは飲み屋街に繰り出すことが多いですしね。Beef Dishesというカテゴリを見ると、2つの料理にだけハンガリー国旗のアイコンがつけられていて、それらがハンガリー料理ということらしい。1つはBeef stew in red wine served with dumplingsで2,550 Fr。これはグヤーシュのことでしょうが、ダンプリングというのは肉団子とかニョッキ、スイトンなど、材料をこねて丸めた団子状の食べ物なので、見てみないと正体がわかりません。中華料理店では餃子を指すことが多いですしね。もう1つが表の看板にもあったブダペスト・スタイルで4,200 Fr。どちらも血圧にはよくないでしょうが、昼を抜いたことでもあり、まあ大丈夫。最初の直感どおりステーキをオーダーしました。飲み物はグラスの赤ワインを頼み、すぐに届いたのですが、場の雰囲気と、駆け足のブダペスト市街地めぐりお疲れさんの意味もあって、とりあえずビール(生小)を追加で注文。おなじみチェコのピルスナー・ウルケルの0.3Lが運ばれ、ぐびっとのどに通しました。
真っ暗ですが実はまだ17時半で、私の入店したあと急に客足が増えて、満席に近くなりました。バーカウンターでお待ちくださいと案内される人も。少し早めでよかったのかもしれません。Enjoy! と英語の定番的な作法で運ばれた料理は、何やらのソースをまとった肉の周囲を8個の小さなコロッケがとりまくという、ありそうだがこれまでに見たことのないデザイン。細かな衣をまとったコロッケが子どものお弁当に入っている冷凍もののアレのように見えるのが愉快です。なるほど、中身はポテトだけでバターの風味がほんのりします。肉のほうはたぶんサーロインで、150gくらいありそうな大きさ。厚みも1cmくらいあります。ラタトゥユのようなソースが、添えられるというより肉をコーティングしています。ハンガリーだけあってパプリカで色づけしてあります。肉はやわらかくて美味しい。ソースのほうにも牛レバーやグリーンピースなどの具が入っていてなかなか豪華です。日ごろ食事制限をかけているせいもあって、いささかボリューミーすぎる感じではありますが、旅先では多少の解放をお許しいただきましょう(血圧計を持参しています 汗)。料理が4,200 Fr、ビール330 Fr、グラスワイン560 Fr、食後のエスプレッソ300Frで、勘定書きは5,929 Fr。自分の頭ではあまり計算せず先方まかせにすることがほとんどなのですけれど、いまレシートを見ておや?と思う。どうやら外税らしいのはわかりますが、税率27%が979 Fr、18%が4,950 Frになっていて、食事のほうはいいけれど複式税率の飲み物が価格の合計だけで1000を超えるので計算が合いません。余計に取られているわけではないのですが、どうなっているのかな? それにしても27%とは強烈な税率で、ハンガリーは世界で最も消費税率の高い国として知られます。それにしてはあの缶ビールの安さ。すっかり満腹して、来るときに歩いた表通りのラーコーツィ通りに出れば、東駅までは道なりです。ウィーンで目覚めてブダペストで就寝。
12月28日(木)は残念ながら朝から雨模様です。傘をさしての町歩きは好きでないのですが仕方ありません。7時半ころ0階に降りて朝食。ランチも外食することにすると塩分過多が目に見えているため昼は抜きになりそうで、生野菜系統を多めに朝しっかり入れておこう。と思ったのに、ビュッフェにサラダ関係はなく、塩辛そうなソーセージやチーズ、オリーブなどがひたすら並んでいました。ハムなどと一緒にパンに載せるためのキュウリやトマトを食べておくことにしましょう。ホテルの朝食に関するかぎりドイツ式のようです。
8時半ころホテルを出て、すぐのところで階段を下り、東駅地下の市内交通の切符売り場に入ります。前日は券売機の操作が途中でわからなくなって乗り物を断念したのですが、長距離列車の発着するターミナルであれば対面販売があるに決まっており、ターミナルのそばに宿を取ってよかったことになります。銀行のような空間、カウンターがあり、銀行と同じ順番待ちカードを引いて(この方式が欧州では多くなりました)、わりとすぐに順番が回ってきました。ワン・デイ・チケットをというと女性係員は手慣れた感じで出してくれました。いまの時刻ではなく有効期日・時分が大きく印刷されています。あすの8時35分まで使えて1,650 Frということですか。650円くらいなので間接税の高さを思えば上々でしょう。改札機はなく、エスカレータに乗ってそのままホームに降りてきました。なるほど無改札であれば切符の効力を視認するしかなく、終わりの時刻が示されているわけですね。
メトロ4号線でブダ地区へ スタイリッシュだけどずいぶん小さな車両
ブダペストにメトロ(地下鉄)は4系統あります。ここ東駅(Keleti pályaudvar)に乗り入れるのはラインカラー赤のM2系統と緑のM4系統。私はこれからM4に乗って、ドナウ川対岸のブダ地区をめざします。ウィーンからの特急列車をケレンフォルド駅で降りる羽目になっていたら、このM4で市内に入っていたことでしょう。国鉄線が市内東側をぐるりと迂回して東駅に向かっているのに対し、地下を走るメトロは最短距離でつないでいます。M4は東駅が起点で、出発待ちの編成が停まっていました。カッコいいけどずいぶん細い車両で、実家の近くを走る福岡市営地下鉄の七隈線みたいです。首都のターミナル駅に乗り入れる路線がこの車両でよいということは、その程度の乗客流動ということなのでしょうか。自動の案内放送があり、表示板ともども英語もしっかりあって、メトロ、トラム、バスの乗り継ぎ案内も丁寧にやっているので好感をもてます。
ブダ地区に行こうと思った理由はさほどのものではありません。前日はペスト地区で終始したため、「対岸」に行ってみて、徐々に手前に戻ってくるほうがおもしろいかなと思ったくらいです。それと、ペスト側からドナウ越しにブダを眺めていたら、かなり急な崖が河岸に迫るような地形で、その河岸のわずかなスペースをトラムが行き来しているのが見えました。この地形ならば左右に折れるということなく、しばらく車窓からドナウ川を眺められそうです。M4で6駅、モーリツ・ジグモンド・クルテール(Móricz Zsigmond körter クルテールは広場の意味)駅で下車。地図を見たらここにいくつかのトラム路線が集まっているようなので好都合でした。住宅街に、日常のちょっとした用を足せるような商店も混じったような地区のようです。地下にあって方向感覚を得にくいメトロ駅の構内には、トラム各系統の乗り場への案内図が非常にわかりやすいかたちで掲示してありました。同じ経営なのだから当たり前だというかもしれませんが、東京を含めて、これができていないところはかなり多いです。
トラムの新型車両でドナウ右岸を北上 議事堂の建物が見える
変形五叉路になっているところがモーリツ・ジグムンド広場のようです。5方向すべてに線路が伸びていて、なるほどこれはきちんと案内しなければ混乱するね。ドナウ川沿いに北上するのは19系統と41系統。いかにも旧社会主義圏というような旧型車両を見送ったあとでやってきたわが19系統はイエローの流線型新型車両でした。欧州各地でよく見るようになったタイプです。低床式でほぼノーステップで乗り込むことができ、車内にも凹凸がまったくないのはすばらしい。既存トラムの大改造とJR郊外線のLRT(Light Rail
Transit 軽量軌道系交通=新式のトラム)化で注目される北陸・富山を5月に取材してきたのですが、ホームと車両のあいだの段差が厳しく、また車内もごつごつして、車いすやベビーカーでは使いにくい感じでした。ブダペストというか欧州のトラムで真っ平らの低床が可能なのは、車両と車両の接合部分に台車を据える連接車になっているためです。低床式は車輪の高さをどこで回収するかが問題になりますからね。都電荒川線(愛称は東京さくらトラム)は、車両は高床のままでスロープをつけたホームをかさ上げするという逆の発想でステップレスを実現しています。
低床なので、電車が走り出すと、道路面がすーっと後ろに流れていくのをかなり間近に見る感じになり、実際以上にスピード感があります。加速いいな。19系統はモーリツ広場から北東に進み、500mほど走ってドナウ河岸に出ました。左前方にはゲッレールトの丘が切り立っていて、例の手狭な河岸に滑り込むようになります。けっこうな雨降りなので川面が煙っています。欧州のあちらこちらでトラムを利用していますけれど、ここブダペストの路線網はとくに充実していそうで、マニア心をかき立てるな〜。電車はたちまち自由橋の下をくぐり、さらにはエルジェーベト橋をもアンダークロス。やがてセーチェーニ鎖橋が見えてきました。川沿いを電車で走っているかぎりでは、ペストとブダの違いはまったくわかりません。前日は鎖橋までしか行っていないので、その先の景観はお初。対岸にはハンガリー議会議事堂(Országház)のいかつい姿が見えます。二重帝国の中でハンガリー王国の存在感が増した1880年代に建設が開始され、20世紀に入って落成したもので、ゴシック様式を模して「国家の栄光」っぽさを演出したのがよくわかります。今日または明日、そばに立ってみることにしよう。さてどこまで乗りつづけようかなと思っていると、ドナウ川が2流に分かれてマルギット島(Margitsziget)という大きな中洲が見えたあたりで、線路は河岸を離れ、一筋内側の狭い道路を進むようになりました。ここから先がオーブダ地区。古ブダというくらいだから、歴史的にはこちらのほうが古いのです。ブダを通り越してオーブダまで来てしまいました。大型スーパーや公団住宅っぽい建物が建ち込む地区に入ったので、下車してみることにしました。
何となく降りたところはトラム、バスの結節点だった
ベチ通り/ヴルスヴァーリ通り(Bécsi út / Vörösvári út)と、交差する2本の道路名をスラッシュでつないだ名の電停でした。トラムの線路が分岐しているので少し回り込んでみると、ここを起点とする系統もあり、また路線バスの停留所もあって、いくつもの車両が視界に入りました。またまたマニア心をくすぐります。まだブダペストの地理をほとんど心得ておらず、路線図で電停名や地区名を示されたところで、ただでさえどう読むのかわからないハンガリー語の固有名詞など頭で整理できるはずもありません。ともかくも、オーブダより北に行ってしまうと面倒なので、ブダ方向に戻ることにして、南行きらしいトラム1系統に乗り込みました。一日乗車券をもっていると気楽でいいですね。雨なので、屋根のあるところといえば電車かバスになります。
行き止まりの終点構造になっているトラム1系統のベチ通り/ヴルスヴァーリ通り電停 進入してくる電車(前照灯をつけている左の車両)は高床の旧型車だった
あれ、渡っちゃうんだ!
まだ9時前なので町なかに行ってもお店などが開いているわけでもなく、もうしばらくトラムに乗りつづけることにしよう。さきほど19系統でドナウ左岸を走ってきて、オーブダ地区に入るときに内陸側に少しだけ入り込んだため、河岸と線路との対応関係がよくわからなくなっています。トップナンバー1系統はブダ地区を逆走するのだろうと何となく思い込んでいたら、走り出した電車はたちまちドナウ川に架かる橋(アールパード橋 Árpád híd)の上に躍り出て、そのままドナウ川の流れと垂直方向に、ペスト側へと進んでいきます。あれれ、これはペストに向かう路線だったか。午前中はブダ側を攻略して・・・と思っていたところですが、とくにアテがあるわけでもないので、流れに任せてそのまま適当なところまで行ってしまうことにしました。ようやく「地球の歩き方」を取り出して、地図と路線図を照らし合わせてみると、1系統はこのまま直進して市民公園(Városliget)という長方形の大きな公園の裏手をかすめる模様です。市民公園は、宿を取っている東駅付近のすぐ北に位置するので、ブダペスト中心部を囲む大きな正三角形の最後の一辺をたどって元に戻るようなイメージですね。市民公園から、前日歩いた都心方面へ向かうルートが新市街になっているようなので、そのあたりを歩くことにして、カチョー・ポングラーツ通り(Kacsóh Pongrác út)なる電停で下車。東京でいえば多摩地区の街道沿いのような雰囲気で、トラックなどがびゅんびゅん行き交っています。市民公園の北辺は一筋南なのでそちらに歩いてみると、赤いボディのトロリーバスが目の前を走り抜けていきました。前夜、夕食をとったユダヤ人街にもトロリーバスが走っていました。このあたりも同一地区で、トラムが市内全域を面的にカバーするのに対し、トロリーのほうはまさに都心と東駅、市民公園のあいだに密集して展開しています。観察してみると、トラムとの大きな違いは、停留所が普通のバスと同じように路肩にあって、停車する際に車体を路肩に寄せること。トラムは線路があるため、そのように膨らむことができませんが、トロリーバスは集電器さえ外れなければ左右に膨らんで走ることが可能なのですね。あとで絶対に乗ろう。
市民公園は広々としています。年末なので冬枯れなのは仕方ない。人口の池に小島が浮かび、何だかちょっとわざとらしいお城(ヴァイダフニャド城 Vajdahunyad vára)があります。スケートリンクもあって子どもたちが楽しそうに滑走中。ここにも大型の温泉施設がありますが残念ながらスルーです。
ブダペスト市民憩いの場、市民公園
この市民公園は1896年の建国1000年祭のメイン会場として整備されたものです。ハブスブルク皇帝のもと二重帝国の一部に組み込まれているとはいえ、19世紀末のハンガリーは、マジャール・ナショナリズムと社会の近代化というのがあいまって、自分たちが伝統に根ざした正統なる国家であるというプライドが大きく持ち上がっていたのだと思います。1000年ってこの上ないタイミングですもんね。京都の平安神宮が平安遷都1100年記念の内国博覧会に際してつくられ(祭神は桓武天皇)、伝統を核にして近代的な誇りを共有するためのものになったのと、タイミングやコンセプトが重なるかもしれません。ウィーンとブダペスト、東京と京都と考えるとよくわかります。繰り返しになりますが、もともとハイブリッド社会を大前提としていた中欧において、ナショナリズムが高揚してマジャール民族国家ということを強調するようになると、「それ以外」とされた民族や言語の立場が急に悪くなり、周縁化されます。欧州統合はそれを緩和するものであったはずですが、ある種の反作用として、かえって「それ以外」への冷淡な態度というのが大きくなってしまっているような2010年代。ハンガリーにはとくにそうした嫌な面が垣間見えます。それは後述しましょう。
私は裏口から公園に入り、内部をゆっくり歩いてから、最後にメイン・ゲートに出てきました。そこは英雄広場(Hősök tere)と呼ばれる場所で、中央に高さ35mの記念柱、それを取り囲むような1対の弧状の円柱があり、円柱のあいだに14体の人物像が見えます。記念柱に据えられているのは大天使ガブリエル。予告編的な活動をあちこちでなさる大天使さまですが、西暦1000年のクリスマスに教皇シルウェステル2世(Silvester
II フランス出身で初めて教皇となった人物)の夢枕に現れ、イシュトヴァーン1世にハンガリー王の王冠を授けるように告げたのが、この国の正統性を示す出来事とされます。キリストが生まれて満1000年というのはなかなかあるものではない。いつごろ、そうした伝承が制度に昇華されたのでしょうね。14体の像は王侯や芸術家などハンガリーの「英雄」たちです。いや〜ナショナリズム満載でよろしい。
英雄広場と、そこから延びるアンドラーシ通り
この英雄広場から中心部のデアーク広場方面に向けて、アンドラーシ通り(Andréssy út)という幅広のブールヴァール(並木大通り)がまっすぐに延び、ペスト地区はそれを中軸としてほぼ条里的に展開します。ユダヤ人地区や私が泊まっている付近もその一隅。アンドラーシというのはこの道路を中心とした都市計画を推進したハンガリー王国首相アンドラーシ・ジュラ(Andrássy Gyula)の名を採ったものです。彼の政治キャリアは19世紀ハンガリーの動向と見事にシンクロしていて興味深い。1848年の革命に加わり、敗れて亡命、帰国後は穏健派に転じてハプスブルク家と協調しながらマジャール系への妥協体制(アウスグライヒ)を実現させるという現実路線を貫きました。しかし他方では、スロヴァキア人など領内スラヴ民族のアウスグライヒを強く牽制し、マジャール・ナショナリズムが国家運営を独占できるよう尽力します。やがて彼の活動の舞台はウィーンに移り、二重帝国の外相として、ビスマルクが主宰したベルリン会議などに強く関与、バルカン問題における主役のひとりになっていきます。
アンドラーシ通りは、したがって近代の大政治家の名を採っているわけなのですが、共産党政権が成立した第二次大戦後はスターリン通り、ハンガリー動乱ののちには人民共和国通りと改称され、東欧革命を経て元のアンドラーシ通りに復したという経緯があります。片側3車線のゆとりのある道路で、歩道もずいぶん立派。ガイドブックによれば、この部分はかつて馬の専用道だったそうです。
PART3につづく
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