Buda
et Pest : la capitale de la Hongrie
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まだ世界史に手を染める前、世界地図が大好きだった小学生のころの話です。親に買ってもらったおとな用の上等な地図帳の欧州のページには半透明のシートが重ねられていて、第一次大戦前の国境と現在のものとを重ね合わせて見られるようになっていました。「イギリス」や「フランス」は現在(1970年代の末ころ)と変わらないけど中東欧はずいぶん変化したんだなあというのが子どもの目にも明らかでした。ドイツすごかったんだな。いまは東西に分かれちゃっているけど。トルコ(オスマン帝国)ってばかでかかったんだな。おや、オーストリア・ハンガリー帝国というのがあるぞ。オーストリアとハンガリーって、たしかに隣り合ってはいるけれど、どっちも小さな国だし、どっちも横長だから、単純につないだらさらに長細い国土になっちゃうね。でもシートに描かれた帝国の領土は前後左右にかなり広がっているようです。そもそもオーストリアとハンガリーをセットで考えたことなんてないよ。ハンガリーは社会主義国だからソ連の子分だし、オーストリアは、この「永世中立国」っていうのがわからないけど東西どっちでもないっていう意味らしいので、それがつながっているなんてねえ。現在の国境を前提にものごとを見てもはじまらないよ、国の範囲なんて歴史的に相対的なものだぞと、小学生の自分に教えてあげてもきっと理解してはくれないことでしょう。オーストリア・ハンガリー二重帝国(ハンガリー語Osztrák-Magyar Monarchia ドイツ語Österreichisch-Ungarische Monarchie)というのはかつてたしかに存在しました。それどころか、中世後期いらいの欧州最大の名門であり、保守本流であり、強国でもあって、ほんのちょっと時代の推移とズレていたがために第一次大戦の敗戦とともにあっけなく崩壊してしまったハプスブルク帝国の最終形態なのでした。 だからというのではないが、ハンガリーの首都ブダペストに向けて、今回はオーストリアの首都ウィーンから列車で向かうことにしよう。二重帝国(1867年以降の形態)はハプスブルク帝国を二分割してオーストリア帝国+ハンガリー王国とし、それぞれ内政については別々で君主と軍事・外交は共通というものでした。双方の君主を兼ねるハプスブルク家の当主やその取り巻きは両都市間を何度も陸上移動したことでしょうから、そのあたりの距離感を知れてよいのではないですかね。二重帝国化を決断した皇帝で、68年ものあいだ位にあって帝国そのものというべき存在だったのがフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848〜1916年)で、その皇后といえば文学や芝居の題材としてしばしば取り上げられるエルージャベト(ハンガリー語Erzsébet ドイツ語Elisabeth ドイツ語読みだとエリーザベトだが日本の記述ではしばしば長音記号の位置が後ろにずれます)です。シシィ(Sisi)の呼び名でも知られます。彼女は姑と不仲になり、夫の皇帝ともうまくいかなくなって、何かに導かれるようにハンガリーを頻繁に訪れるようになり、その地を愛しました。名門帝室に不可欠だった学問や教養を嫌い、ゆえに自由人として文学化される人なのですが、なぜかハンガリー語の学習だけは徹底的におこなって完璧にマスターし、そのためハンガリーの人たちに大変敬愛されたそうです。シシィはブダペストに馬車で移動したのだろうか、ドナウ川の船かしら。非業の死を迎えた1898年ころには鉄道も開通していただろうから、列車に乗ったかもしれませんね。
この便のチケットと座席予約(RJは全席指定)はしばらく前に日本の業者にネットで注文しました。いつものようにÖBBのサイトからオンライン予約を試みたのですが、なぜか手持ちのクレジット・カードが「これはダメです」とばかりにリジェクトされ、ハンガリー国鉄のほうはしくみが複雑すぎて意味がわからず、ドイツ鉄道やフランス国鉄で試みてもうまくいきませんでした。1等で10600円とのことだったからそちらを指定し、他に予約手数料と送料で3000円。日本の新幹線に比べればずっと安いし、ご商売なのでプラス3000円はやむをえないものの、券面を見ると座席予約込みで€71.80(当時の相場で9500円くらい)となっていますので自力でやれないのはちょっと悔しい。そして、それ以上の問題があることに車内で気づくのです。
10時25分ころヘジェシュハロム(Hegyeshalom)に停車。人口数千人の小さな村だそうですが、国境を越えたハンガリー側の駅なので、かつては出入国審査がおこなわれていました。そうした運用上の関係でいまも特急停車駅になっているのでしょう。ÖBBの女性車掌が下車し、ホームを歩いて去りました。ヘジェシュハロム発車後、自動放送がハンガリー語→ドイツ語→英語の順に変わります。10時35分ころ、今度はハンガリー国鉄の男性車掌が現れて検札。こういうのは一本化できると思いますけどね。ハンガリー領内は地図で見るとおり平原ばかりで、車窓にあまり変化がありません。ほとんどが畑地です。52分ころジェール(Győr)に停車。ここで1等車の座席がほぼ埋まりました。RJはハンガリー国内の移動にもかなり有効みたいです。放送のハンガリー語にも、Ő(右上がりのアクサンが2つついている!)のような文字にもなじみがありません。ハンガリー語は欧州の大半の言語が属する印欧語族とはまったく別系統、ウラル語族フィン・ウゴル語派に属し、現在の話者がいる範囲とハンガリーの国土がほぼ重なります(かつてハプスブルク領だったルーマニア西部などにも話者がいる)。よく知られるのは日本語や韓国語と同じく人名を姓→名の順で示すということ。かつては「古代のフン族→ハンガリーか?」「フン族って匈奴か?」「だから日本語とも遠い親戚か?」などと考えられていましたが、現在の学問では「そうではない」ということになっています。 車窓ずっとこんな感じ
それにしても、予約入力画面では都市名(Vienna / Budapest)しか入力しておらず、ブダペストの何駅というのは選択の余地がなく向こうが出してくるままだったので、なぜそういう設定になっていたのかわかりません。後日あらためて同様の操作をしてみたら、便により東駅発着とケレンフェルド発着の設定が混じり、この49便はやはりケレンフェルドしか選べませんでした。プログラムのミスないしバグでなければ、ケレンフェルドまでなら安くなるような枠があるのか? ネット販売の業者さんなので電話して問い合わせることもできないままです。ときどき世話になり、さほど不満のない会社なので、こういうところはちゃんとしてほしいです。(もちろん手抜きせずちゃんと券面を改めましょう 汗)
さあブダペスト(Budapest)にやってきました。よく知られるように、ブダとペスト(ハンガリー語の発音ではペシュト)が合併してブダペストになっていて、東駅はペスト側に属します。いうまでもなくこの国はハンガリー。当地の言語であるハンガリー語の国名はマジャロリサーク(Magyarország)という、まるで違うもので、ハンガリー(Hungary)は英語の呼称です。ポーランドとポルスカ、フィンランドとスオミー、ジャパンとニホンみたいな関係だと思いましょう。地図少年だった小学生時代に覚えた国名はハンガリー人民共和国でしたが、ハンガリー共和国を経て、2012年に政体を表す部分がとれてただのハンガリーになりました。共和国なんですけどね。私にとっては欧州連合加盟28ヵ国のうち24ヵ国目の訪問地で、2017年は一気に5ヵ国を稼ぎました。だんだん小学生のスタンプラリーみたいになってきたぞ。 ブダペスト東駅
東駅の周辺は、ターミナル付近にありがちな場末っぽい雰囲気もありながら、わりに明るく、カジュアルな感じもあります。市の中心部まで歩いて距離感をつかもうと、裏通りにあたるユダヤ人街(Zsidónegyed)を抜けていこうかなと思ったのですが、少し入りかけて若干の躊躇が。どの建物もうらぶれて、表通りのような明るさがありません。そのぶん生活感はあります。うーん、いまさらびびるわけではないが、予備知識がほとんどないのでまずは表通りから進むことにしよう。駅前からまっすぐ進むラーコーツィ通り(Rákóczi út)を歩きます。しばらくはビジネス街のようなところでおもしろみはありません。地下鉄で1駅ぶん進んだところに大きな交差点があります。横断歩道がなく、地下鉄駅を取り込んだ地下通路で反対側に渡らなくてはならないのですが、どうやらそのときに方向を90度間違えたらしい。地下の店舗とか地下鉄路線図などを見ながらだったので幻惑されたか? 気づかないまま表に出て、ヨージェフ通り(József körút)に入り込んでいたようです。元の道には走っていなかったトラム(路面電車)が行き交っており、もちろん大好物なので写真をばしばし撮っていたのに、景観の連続性という当たり前のことに思いがいたらなかったのは町歩き派としては減点だね。あらかじめ地図を見て、だいたいこれくらい歩けばこういう地点に出るという見通しを立てているのに、どうも違うみたいだと気づいて、別の地下鉄駅に達したところで地図を取り出しました。 東駅はその名のとおり中心部から見ればほぼ真東にあります。ですから駅前通りを西に向かえばよかったのに、先ほどの交差点で南に折れてしまいました。このヨージェフ通りの固有名詞は、大通りを意味するút(ウート)ではなくkörút(クルート)という語が用いられていて、これは環状道路の意味。中心部の外側を取り囲む「大環状線」の一部をなすようです。ということはこのまま道なりに進んでも中心部からどんどん離れてしまいます。コルヴィン・ネゲド(Corvin-negyed)という地下鉄駅の付近は、いろいろな店舗や大きめのショッピング・ビルなどもあるのですが都心というより郊外の中心区画に似た景観で、このあたりで修正しなければ。別に目的があるわけではないけど、明るいうちに中心部に入りたいのです。地下鉄に乗ってしまおうかと思い、自動券売機を英語のパネルにして動かしてみたのですが、途中から入力が途切れてしまいうまくいきません。有人窓口も見当たらないので、ここでの乗車は断念し、地上を歩くことにしました。地下鉄の拠点でもある東駅で24時間券を購入しておけばあれこれの保険になってよかったなと反省したものの、いまさらなので、今日は徒歩の日ということにしよう。 環状道路と直交するユッリョーイ通り(Üllőí út)に折れて北西に進みます。当初の見通しに対し、正三角形の残り2辺を経由するような大回りになりました。ただコルヴィン・ネゲド付近にはアール・ヌーヴォー風の建物がいくつか寄り添っているなど興味深いところもあります。基本的には住宅と小型オフィスがつらなる地区のようで、あれこれ見られておもしろいとは思う。
目の前に架かるトラス橋はサバッチャーグ橋(Szabadság híd)。サバッチャーグはfreedomのことですので意訳して自由橋と呼びましょう。ブダとペストを結ぶ重要な道路橋として1896年に開通、式典に招かれた当時の国王を記念してフランツ・ヨージェフ橋と名づけられました。対岸にはぽっこりした急斜面の小山が見えています。これがゲッレールトの丘(Gellért- hegy)で、ブダ王宮を防衛するための天然の要害になっていますね。フランツ・ヨージェフ橋は1945年1月、ドイツ軍がハンガリー占領の継続を断念して撤退する際に、ヒトラーの命で爆破されました。戦後に復旧された際に自由橋の名が与えられています。何てことしやがるんだナチスは。パリから撤退する際にもヒトラーは同様の命令を出して、しかし現場の司令官の判断(命令違反)によって歴史ある数々の名橋が救われています。 ドナウ川の左岸、北が上の地図でいえば右側の河畔をべたべた歩きます。対岸のゲッレールトの丘は岩肌が剥き出しで荒々しい感じ。灰色がかった冬の川面と不気味にシンクロします。こちら左岸側にはいくつか船着き場が見えます。ウィーン〜ブラチスラヴァ〜ブダペストを結ぶドナウ航路の船はここに接岸。ライン下りも、前述の宮本輝が描いたドナウ下りというのにもあまり興味はありませんでしたが、同じ川のいろいろなポイントを眺めてきて、時間があればそういうのもいいのかなと思うようになりました。ただ、水面レベルからだと町の様子というのがあんがい見えないんですよね。自由橋から800mほどで次のエルージャベト橋(Erzsébet híd)に到達。こちらはきわめて現代的なつり橋で、主柱、橋桁、ケーブルがすべて白一色に塗られています。シシィことエルージャベト王妃のイメージを出そうとしたのでしょうか(芝居はともかく歴史上の彼女に清楚なイメージはないけど 汗)。こちらも自由橋と同時に爆破され、なぜか長いこと再建されなかったのですが、1964年にようやく現在の橋が架かりました。この前後の橋と異なり、戦前の姿を復元することなく、シンプルかつスマートなデザインが採用されています。ガチガチの社会主義政権だった時代なので、王政時代の記憶の復元ということに執着しなかったのか、財政的な問題だったのか。 ゲッレールトの丘のふもとには、いくつか温泉施設(Gyógyfürdő)があります。ブダペストといえば温泉というくらいの話もあるので、ぜひ入浴したいところではあるのですが、前述のとおり血圧の病になって通院加療・服薬という事態になってしまっているため断念。平素は普通に入浴するわけだからたぶん大丈夫なのですが、温泉は一段ハードルが高いですし、万一にも海外の風呂場でぶっ倒れたりしたら目も当てられないので、自制することにしました。画竜点睛を欠くきらいはあるが仕方ない。
エルージャベト橋をくぐると、対岸にブダ王宮(Budavári palota)が見えてきます。あす訪れることにしましょう。ゲッレールトの丘といい、ブダ側は思ったよりも起伏があって、絶壁が河岸に迫っているようでもあります。おそらくは地質上の境目に沿ってドナウ川が流れ下っており、その地形を生かして王宮を築いたという順序なのだと思います。趣味的なことをいえば、ブダ側の河岸のわずかな平面にトラムが走っているのが萌えます。対してこちらペスト側は、私が歩いている河岸の遊歩道より2mくらい高いところに電車が走っています。盛り土の築堤ではなく低めの鉄橋のようなものを構築して線路を載せており、電車が通過するときにガランガランとまさに鉄橋を渡る際の大きな音を立てるのが興味深い。道路上を走る併用軌道ではないため、50km/hかそれ以上の速度でぶっ飛ばしていくのも見慣れぬ光景です。これもあす乗ろう。 ブダ王宮
ものの本によれば1842年に着工され1849年に完成しました。高校世界史レベルの知識がある人なら「やばそうな時期やん!」と直感的に思っていただけるでしょうか。1848年、フランス二月革命が全欧に飛び火して、各地の自由主義とナショナリズムを煽りに煽りました。ハンガリーの革命は中でも早く、パリの革命から2週間ほどで民衆の蜂起を迎えました。当時のハンガリー王国の首都はポジョニ(Pozsony ドイツ語でプレスブルクPressburg)にありました。現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァです。商業都市ペストのブルジョワを中心とした急進派がハンガリー革命の推進者となりました。19世紀のハンガリー人といえばまず名の挙がるフランツ・リスト(Franz Liszt 「ハンガリー狂詩曲」などで知られる音楽家)で、ちょうど彼が活躍したのがハンガリーの「国民文化」が強く意識され、ナショナリズムが高揚した時期にあたります。リスト自身はドイツ語を母語とし(ハンガリー式の名はリスト・フェレンツ Liszt Ferencz)、のちにパリで活躍してフランス語を主に話したが、ハンガリー語はほとんど話せなかったといいます。意外でも何でもなく、中東欧の民族・言語とはそういうもので、ハプスブルクはそもそもが多民族・多言語・多宗教の帝国であり、その下位に位置するハンガリー王国とて内部は多様でした。都がスロヴァキアの現首都にあったということでもそれはわかります。しかしこれも時代というのか、急進派はハンガリー語の公用語化(他言語の排除)など「ハンガリー化」に固執したため国内の非ハンガリー民族の離反を招き、そこをウィーン政府につけ込まれて、革命は屈服させられました。ペストの鎮圧に赴いたのはハンガリー王国内クロアチアの軍人イェラチッチ(Jelačić)。9ヵ月前に訪れたクロアチアの首都ザグレブの中心に、彼の名を冠した広場があったのを思い出します。オーストリアでも革命が起こって、ウィーン体制の主導者メッテルニヒが亡命し、ひとまず秩序は回復されたもののナショナリズム推進の流れはいっそう強まりました。フランツ・ヨージェフ/ヨーゼフ1世の即位もこのときです(以上、岩崎周一『ハプスブルク帝国』、講談社現代新書、2017年を主に参照)。建設中のセーチェーニ鎖橋もオーストリア軍によって破壊されかかりましたが、頑丈な主要部分は無事に残りました。
鎖橋によって常時接続されたブダとペスト、そしてブダ北方のオーブダ(Óbuda 「古いブダ」地区)は、二重帝国成立から5年後の1872年に合併してブダペスト市が正式に発足しました。それから第一次大戦までの約半世紀がブダペストの黄金時代とされます。ハンガリーの「正史」によれば、896年にアールパード(Árpád)がこの付近に定着し、ハンガリー平原を治める君主(称号はジュラ gyula)となったのが同国のはじまり。国家創業の主であるアールパードはヴォルガ川付近にいたマジャール人集団の首長で、黒海北岸を経てバルカン半島に侵入、9世紀後半に第一次ブルガリア帝国を攻撃しますが撃退されました(ブルガリア帝国を構成したブルガールも、ロシア南部からやってきてバルカン半島に定着した先輩でした)。このためねらいを西方に切り替え、ハンガリー平原に入ったものとされます(井上浩一・栗生沢孟夫『ビザンツとスラヴ』、中公文庫、2009年を参照)。東から突然?やってきた軍事集団マジャールに対抗すべくカロリング朝フランク王国が設定したのがオストマルク辺境伯領(Marcha orientalis)で、これがのちにオーストリアに発展したとされます。中世後期以降の歴史は後述しますが、ナショナリズム高揚の延長上に成立した19世紀後半のハンガリー王国が、896年という年をあらためてクローズ・アップし、1896年には建国1000周年を祝うイベントがいろいろおこなわれました。自由橋の前身であるフランツ・ヨージェフ橋の開通もその一環です。これも後述するように、欧州大陸で初の地下鉄が開業したのもそのときでした。(以上、ブダペスト市公式サイト“history”の項を主に参照) セーチェーニ鎖橋東詰
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古賀 毅
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