Buda et Pest : la capitale de la Hongrie

PART1

 

 

まだ世界史に手を染める前、世界地図が大好きだった小学生のころの話です。親に買ってもらったおとな用の上等な地図帳の欧州のページには半透明のシートが重ねられていて、第一次大戦前の国境と現在のものとを重ね合わせて見られるようになっていました。「イギリス」や「フランス」は現在(1970年代の末ころ)と変わらないけど中東欧はずいぶん変化したんだなあというのが子どもの目にも明らかでした。ドイツすごかったんだな。いまは東西に分かれちゃっているけど。トルコ(オスマン帝国)ってばかでかかったんだな。おや、オーストリア・ハンガリー帝国というのがあるぞ。オーストリアとハンガリーって、たしかに隣り合ってはいるけれど、どっちも小さな国だし、どっちも横長だから、単純につないだらさらに長細い国土になっちゃうね。でもシートに描かれた帝国の領土は前後左右にかなり広がっているようです。そもそもオーストリアとハンガリーをセットで考えたことなんてないよ。ハンガリーは社会主義国だからソ連の子分だし、オーストリアは、この「永世中立国」っていうのがわからないけど東西どっちでもないっていう意味らしいので、それがつながっているなんてねえ。現在の国境を前提にものごとを見てもはじまらないよ、国の範囲なんて歴史的に相対的なものだぞと、小学生の自分に教えてあげてもきっと理解してはくれないことでしょう。オーストリア・ハンガリー二重帝国(ハンガリー語Osztrák-Magyar Monarchia ドイツ語Österreichisch-Ungarische Monarchie)というのはかつてたしかに存在しました。それどころか、中世後期いらいの欧州最大の名門であり、保守本流であり、強国でもあって、ほんのちょっと時代の推移とズレていたがために第一次大戦の敗戦とともにあっけなく崩壊してしまったハプスブルク帝国の最終形態なのでした。

だからというのではないが、ハンガリーの首都ブダペストに向けて、今回はオーストリアの首都ウィーンから列車で向かうことにしよう。二重帝国(1867年以降の形態)はハプスブルク帝国を二分割してオーストリア帝国+ハンガリー王国とし、それぞれ内政については別々で君主と軍事・外交は共通というものでした。双方の君主を兼ねるハプスブルク家の当主やその取り巻きは両都市間を何度も陸上移動したことでしょうから、そのあたりの距離感を知れてよいのではないですかね。二重帝国化を決断した皇帝で、68年ものあいだ位にあって帝国そのものというべき存在だったのがフランツ・ヨーゼフ1世(在位18481916年)で、その皇后といえば文学や芝居の題材としてしばしば取り上げられるエルージャベト(ハンガリー語Erzsébet ドイツ語Elisabeth ドイツ語読みだとエリーザベトだが日本の記述ではしばしば長音記号の位置が後ろにずれます)です。シシィ(Sisi)の呼び名でも知られます。彼女は姑と不仲になり、夫の皇帝ともうまくいかなくなって、何かに導かれるようにハンガリーを頻繁に訪れるようになり、その地を愛しました。名門帝室に不可欠だった学問や教養を嫌い、ゆえに自由人として文学化される人なのですが、なぜかハンガリー語の学習だけは徹底的におこなって完璧にマスターし、そのためハンガリーの人たちに大変敬愛されたそうです。シシィはブダペストに馬車で移動したのだろうか、ドナウ川の船かしら。非業の死を迎えた1898年ころには鉄道も開通していただろうから、列車に乗ったかもしれませんね。


 
ウィーン中央駅からレイルジェットで出発!


2017
1227日(水)、ウィーン中央駅(Wien Hauptbahnhof)を942分に発車するレイルジェットRailjet49便でブダペストに向かいます。レイルジェットはオーストリア連邦鉄道(ÖBB)がチェコ鉄道と共同運行する高速列車で、まあ新幹線のようなものではありますが、オーストリアにも周辺国にも高速専用線というのがほとんどありませんので、在来線のスーパー特急だと考えるほうが正確です。高速化だけでなく車両のハイグレード化もおこなって、1等・2等のほかに最上級のビジネスクラスを設けたのも画期的でした。ブダペストまでは約2時間半。生来の鉄道マニアだったのにこのところの欧州行脚で航空ファンになりつつあり、飛べるならば飛んでしまおうという感じになってきて、本命の国を鉄道でめざすという機会が減ってきました。出入国審査のないシェンゲン圏内ではあっても、陸路国境を越えるほうが感覚的に「来たな〜」となるのは確かでしょう。

この便のチケットと座席予約(RJは全席指定)はしばらく前に日本の業者にネットで注文しました。いつものようにÖBBのサイトからオンライン予約を試みたのですが、なぜか手持ちのクレジット・カードが「これはダメです」とばかりにリジェクトされ、ハンガリー国鉄のほうはしくみが複雑すぎて意味がわからず、ドイツ鉄道やフランス国鉄で試みてもうまくいきませんでした。1等で10600円とのことだったからそちらを指定し、他に予約手数料と送料で3000円。日本の新幹線に比べればずっと安いし、ご商売なのでプラス3000円はやむをえないものの、券面を見ると座席予約込みで€71.80(当時の相場で9500円くらい)となっていますので自力でやれないのはちょっと悔しい。そして、それ以上の問題があることに車内で気づくのです。


レイルジェットのチケット(座席指定券は別) この業者はフランス国鉄SNCF経由で発券しているようです


発車10分ほど前にRJの編成が入線してきました。ホームが低いので車高がずいぶん高く見えます。この便はオーストリア中部のインスブルックから来て、ウィーンを経由し、ブダペスト東駅まで。やはりウィーンでけっこうな乗客が入れ替わります。ウィーンは長く方面別にターミナルが分かれていましたが、10年ほど前にこの中央駅を造るため線形と付近のインフラを大改修しました。20139月に利用した折には未完成で一部のみ使用という段階でしたが、かなり立派なターミナルが完成していました。キャリーを引きながらだと動きにくいので、前日ここに来て駅構内のあちこちを見学しています。中央駅は欧州にありがちな行き止まり式ではなくスルー構造で、そのためインスブルック〜ウィーン、ウィーン〜ブダペストという本来は別の系統を1本にまとめ、効率化を図ることができているわけです。1等車は1列+2列、フットレストとヘッドレストのついた革張りの座席で、シートピッチはゆったりとしています。2年前に乗ったドイツ鉄道ICE1等車とほぼ同じだね。私は1列側で、残念なことに進行方向逆向きでした。欧州の特急列車とは長年付き合っており、そういうものだと半ばあきらめています。

 
  RJ1等車の内部 ずいぶん本格的な料理をデリバリーしてくれるらしい


定刻の942分に発車。私のいる126号車は78割の乗車率で、50分ころさっそく女性車掌が検札に現れました。座席は思ったよりもロースペックで、背ずりが固定され座面のみ前に出るタイプのリクライニング(とはいわないか)、しかもストッパーのない簡易リクライニング式です。日本では国鉄時代を最後になくなったやつじゃん。ビジネスを試してみればよかったかなあ。出発して10分ほどで車窓は田園風景に変わりました。在来線ゆえ集落の真ん中を高速で突っ走っており、北陸本線の特急なんかを思い出します。シートにはレストラン・カーのメニューが差し込まれていて、ときどき回ってくる係にオーダーすれば座席までデリバリーしてくれるしくみ。これもICEで見たのと同じです。サンドイッチとかオードブルのたぐいだけかと思ったら、けっこうまともな料理も載っていて、しかも市中とほとんど相場が違わないのは立派。その昔の新幹線の食堂車なんて相場の2倍は取られましたからね。ただ残念なことに、高血圧が「症」のレベルに達してしまい9月末から塩分規制をかけられているため、むやみな飲み食いができません。ハンガリーの料理も塩辛いのではと予想しており、昼は回避したほうが安全です。ほどなくキャリーを引いた中年男がするどい視線で車内を見まわし、ルーマニアに帰りたいので€10ずつ寄付をくれないかと英語で声をかけて回ります。乗客はオール無視。このまま資金集めしながら陸路東に向かうのかね。ほとんどの乗客は、団体で乗っている人たちを含めてスマホに視線を落としています。斜め後ろにいる、英語を話す若いカップルはスマホをせず適度な会話をしていて、これが正しいと思う。旅行とか移動も変わりましたね。航空会社がいよいよ本格的に機内Wi-Fiを標準装備するようですけれど、愚かなことではあります。

1025分ころヘジェシュハロム(Hegyeshalom)に停車。人口数千人の小さな村だそうですが、国境を越えたハンガリー側の駅なので、かつては出入国審査がおこなわれていました。そうした運用上の関係でいまも特急停車駅になっているのでしょう。ÖBBの女性車掌が下車し、ホームを歩いて去りました。ヘジェシュハロム発車後、自動放送がハンガリー語→ドイツ語→英語の順に変わります。1035分ころ、今度はハンガリー国鉄の男性車掌が現れて検札。こういうのは一本化できると思いますけどね。ハンガリー領内は地図で見るとおり平原ばかりで、車窓にあまり変化がありません。ほとんどが畑地です。52分ころジェール(Győr)に停車。ここで1等車の座席がほぼ埋まりました。RJはハンガリー国内の移動にもかなり有効みたいです。放送のハンガリー語にも、Ő(右上がりのアクサンが2つついている!)のような文字にもなじみがありません。ハンガリー語は欧州の大半の言語が属する印欧語族とはまったく別系統、ウラル語族フィン・ウゴル語派に属し、現在の話者がいる範囲とハンガリーの国土がほぼ重なります(かつてハプスブルク領だったルーマニア西部などにも話者がいる)。よく知られるのは日本語や韓国語と同じく人名を姓→名の順で示すということ。かつては「古代のフン族→ハンガリーか?」「フン族って匈奴か?」「だから日本語とも遠い親戚か?」などと考えられていましたが、現在の学問では「そうではない」ということになっています。

 車窓ずっとこんな感じ


新幹線など日本の大半の特急車両では、この列車は○号、次は何駅といった文字表示は客室とデッキを仕切るドアの上部に設けられています。車両の両端なので真ん中へんの乗客は視力によっては案内を見にくい。欧州の車両の中には、客室内の通路の天井ところどころにモニターをぶら下げるタイプがあって、非常に見やすいです。これは取り入れてもよいと思う。私の視線の先にもモニターがあり、どう発音したものかわからないハンガリー語の地名が続々出てきます。それをぼうっと見ていたときふと気づきました。私のチケットと指定券に記された下車駅はBudapest- Kelenfoeとなっていますが、この列車の最終目的地はBudapest- Keleti。ハンガリー語を読めないままKだからそうなんだろうと思い込んで確認を怠っていましたけど、ガイドブックに載っている市域全体図を見るとケレンフェルド駅(綴りはKelenföld)というのが市の南縁にあり、東駅は事前に調査したようにペストの中心部に面しています。荷物を引きずって動きたくなかったので東駅(Keleti)のすぐそばのホテルを予約したというのに、手前で降ろされてはかなわん。どう考えても指定券をもってケレンフェルドで乗って東駅で降りる客も、それを改める車掌もいないとは思いますが(改札はありませんし)、不法なことをすれば数倍の罰金を取られるのが欧州の鉄道なので、やっぱり車掌に聞いてみよう。と思ったら車掌はあれきり現れません。隣の車両にオープンな車掌室があり、この切符で終点のケレティまで行くことはできるのかと訊ねたら、ノー・プロブレムと。ま、常識的にはこの切符は「ブダペスト市内ゆき」という扱いでしょうな。JRさんなら赤羽〜上野間の利用でも乗り込んだ客を見つけたら特急券拝見とやってくるでしょうが、ここは欧州。

それにしても、予約入力画面では都市名(Vienna / Budapest)しか入力しておらず、ブダペストの何駅というのは選択の余地がなく向こうが出してくるままだったので、なぜそういう設定になっていたのかわかりません。後日あらためて同様の操作をしてみたら、便により東駅発着とケレンフェルド発着の設定が混じり、この49便はやはりケレンフェルドしか選べませんでした。プログラムのミスないしバグでなければ、ケレンフェルドまでなら安くなるような枠があるのか? ネット販売の業者さんなので電話して問い合わせることもできないままです。ときどき世話になり、さほど不満のない会社なので、こういうところはちゃんとしてほしいです。(もちろん手抜きせずちゃんと券面を改めましょう 汗)

 
ブダペスト東駅


正午を回ったころ車窓にはビルが見えはじめました。1209分にくだんのケレンフェルド駅に停車。駅構内は広々として留置線や側線がいくつも見えます。周囲は分譲地のような戸建て住宅が目立ちます。ここはブダ地区の南にあたり、地下鉄も通じているので、住んでいる場所によってはこちらのほうが便利なのでしょう。東武特急の北千住みたいなもんですかね。その先は急に都市の景観になり、ドナウ川を鉄橋で渡ってペスト側に入ると急カーブで向きを180度変えるように走り、1219分にブダペスト東駅Budapest Keleti pályaudvar)着。Uをひっくり返したような、ずいぶんスマートなドーム駅舎です。おなじみ行き止まり式の構造ながら、線路は4本しかないらしく建物が窮屈。でも採光がよく、ことのほか明るいのがいいですね。欧州はどこともターミナル駅の雑踏というのが最も警戒すべき場所なのでそのように配慮しながら、駅舎の外に出ました。

さあブダペストBudapest)にやってきました。よく知られるように、ブダとペスト(ハンガリー語の発音ではペシュト)が合併してブダペストになっていて、東駅はペスト側に属します。いうまでもなくこの国はハンガリー。当地の言語であるハンガリー語の国名はマジャロリサークMagyarország)という、まるで違うもので、ハンガリー(Hungary)は英語の呼称です。ポーランドとポルスカ、フィンランドとスオミー、ジャパンとニホンみたいな関係だと思いましょう。地図少年だった小学生時代に覚えた国名はハンガリー人民共和国でしたが、ハンガリー共和国を経て、2012年に政体を表す部分がとれてただのハンガリーになりました。共和国なんですけどね。私にとっては欧州連合加盟28ヵ国のうち24ヵ国目の訪問地で、2017年は一気に5ヵ国を稼ぎました。だんだん小学生のスタンプラリーみたいになってきたぞ。

 ブダペスト東駅


ホテルはすぐに見つかりました。駅前の道路を1ブロックだけ進んだところにあるロイヤル・パーク・ブティック・ホテルRoyal Park Bouthique Hotel)を、例によってブッキングドットコムで押さえました。3€293.22とユーロ建てだと中途半端な数字なので現地通貨建てなのかと思ったら、それでも91,297 Frと妙な端数があります。うーん。1€100弱というのは私にしては高めで、場所の利便性と、最近は少々高くてもグレードの高いところに泊まろうという発想になっていることによります。1ヵ月前の予約時に決済してしまっているので気楽。4つ星です。チェックインは済んだのに、レセプションの女性が「お部屋の準備にもう少しかかりますので5分ほどここでお待ちください」と。12時半なのでチェックインさせてくれるだけありがたい。2階の部屋に通るとかなり広々としていて、ブティック・ホテルの名のとおり調度品などもスタイリッシュでいいではないですか。バスもついていました。それはいいのだけど、手を洗ったらタオルがありません。レセプションに降りてその旨を告げると、「いえ、タオルはあります。バスルームに入って後ろを振り向いてください。壁に掛けてあります」と。あれ、そうだったかなと思って部屋に戻っても、やはりタオルはありません。あらためて頼もうと思ったら男性ホテルマンに代わっており、「それは失礼しました」とすぐに対応してくれました。タオル一式を運んできたルームメイク係の若い女性は、「あら、他にもないものがあります」といって、洗面台のグラス、シャンプーやソープ、バスマットをもってきます。なるほど、私が早く来たのであわてて整えたため半端なところで終わってしまったのね。いまどき当たり前だけど、どの従業員もきちんとした英語を話しているのは立派です。

 
  
ロイヤル・パーク・ブティック・ホテル


さあ荷物を置いてさっそく町なかに出よう。13時ちょっと前ですが、何しろ昼の時間がいちばん短い季節で、16時ころには完全に日没してしまいます。夜は夜のおもしろさがあるけれど、初めての町は明るいうちにだいたいの感じをつかんでおきたいですよね。まずはキャッシング。東駅構内のATMVISAを差し込んで、25,000フォリント(Fr)を引き出しました。旧社会主義国の中ではチェコとともに最も開けた国という印象があり、地理的にも西側に近いのに、なぜか両国ともユーロ導入にいたっていません。カード会社の明細を確認するとこのときのレートは1フォリント=0.437円で、年利17.94%を加えて11,111円でした。EU加盟国めぐりはこのところ非ユーロ圏への遠征がつづきます。チェコ(チェック・コルナ)、デンマーク(デンマーク・クローネ)、スウェーデン(スウェーデン・クローナ)、クロアチア(クーナ)、ブルガリア(レフ)、ルーマニア(新ルーマニア・レイ)と小出しにキャッシングして使い、相場感がなくてとまどうこともしばしば。しかしこの間に利用した中国人民元、香港ドル、マカオ・パタカを含めて日本円よりサイズが大きいものばかりで、逆に100円=43円といった面倒な計算を伴うものは未経験。韓国ウォンもそうですが、数字がでかくなりそうだな。

東駅の周辺は、ターミナル付近にありがちな場末っぽい雰囲気もありながら、わりに明るく、カジュアルな感じもあります。市の中心部まで歩いて距離感をつかもうと、裏通りにあたるユダヤ人街(Zsidónegyed)を抜けていこうかなと思ったのですが、少し入りかけて若干の躊躇が。どの建物もうらぶれて、表通りのような明るさがありません。そのぶん生活感はあります。うーん、いまさらびびるわけではないが、予備知識がほとんどないのでまずは表通りから進むことにしよう。駅前からまっすぐ進むラーコーツィ通り(Rákóczi út)を歩きます。しばらくはビジネス街のようなところでおもしろみはありません。地下鉄で1駅ぶん進んだところに大きな交差点があります。横断歩道がなく、地下鉄駅を取り込んだ地下通路で反対側に渡らなくてはならないのですが、どうやらそのときに方向を90度間違えたらしい。地下の店舗とか地下鉄路線図などを見ながらだったので幻惑されたか? 気づかないまま表に出て、ヨージェフ通り(József körút)に入り込んでいたようです。元の道には走っていなかったトラム(路面電車)が行き交っており、もちろん大好物なので写真をばしばし撮っていたのに、景観の連続性という当たり前のことに思いがいたらなかったのは町歩き派としては減点だね。あらかじめ地図を見て、だいたいこれくらい歩けばこういう地点に出るという見通しを立てているのに、どうも違うみたいだと気づいて、別の地下鉄駅に達したところで地図を取り出しました。

 
(左)ブダペスト東駅の正面 (右)ラーコーツィ通り

 
 
予定になかったヨージェフ通りだが、エスニックな店舗がいろいろあって興味深い

東駅はその名のとおり中心部から見ればほぼ真東にあります。ですから駅前通りを西に向かえばよかったのに、先ほどの交差点で南に折れてしまいました。このヨージェフ通りの固有名詞は、大通りを意味するút(ウート)ではなくkörút(クルート)という語が用いられていて、これは環状道路の意味。中心部の外側を取り囲む「大環状線」の一部をなすようです。ということはこのまま道なりに進んでも中心部からどんどん離れてしまいます。コルヴィン・ネゲド(Corvin-negyed)という地下鉄駅の付近は、いろいろな店舗や大きめのショッピング・ビルなどもあるのですが都心というより郊外の中心区画に似た景観で、このあたりで修正しなければ。別に目的があるわけではないけど、明るいうちに中心部に入りたいのです。地下鉄に乗ってしまおうかと思い、自動券売機を英語のパネルにして動かしてみたのですが、途中から入力が途切れてしまいうまくいきません。有人窓口も見当たらないので、ここでの乗車は断念し、地上を歩くことにしました。地下鉄の拠点でもある東駅で24時間券を購入しておけばあれこれの保険になってよかったなと反省したものの、いまさらなので、今日は徒歩の日ということにしよう。

環状道路と直交するユッリョーイ通り(Üllőí út)に折れて北西に進みます。当初の見通しに対し、正三角形の残り2辺を経由するような大回りになりました。ただコルヴィン・ネゲド付近にはアール・ヌーヴォー風の建物がいくつか寄り添っているなど興味深いところもあります。基本的には住宅と小型オフィスがつらなる地区のようで、あれこれ見られておもしろいとは思う。

 
自由橋付近


しばらく歩いて、また大きな交差点に出ました。中心部はそのまま直進だけど、暗くなる前に、まずはドナウ河畔に出てしまいましょう。トラムも行き交う道を折れると、鉄橋のトラスが見えてきました。市場や大学などおもしろそうなものもあるのですが、明るいうちにという気持ちが歩くスピードに直結します。おおドナウ川(ハンガリー語ではドゥナ川 Duna)。久しぶり!ということはなくて、前の日にウィーン市内で眺めたばかりです。より下流にあたるブダペストのほうが川幅が狭いというのはおもしろい。4ヵ月前にブルガリア・ルーマニア国境のドナウ川を小型バスで渡っています。ここから1000kmほど下流側のはずで、その間にセルビアの首都ベオグラードなどを経由します。9ヵ月前に訪れたクロアチアとスロヴェニアも支流の流域ですので、2017年はこの大河の流域をずっと歩いていたことになりますね。宮本輝の『ドナウの旅人』がヒットしたころ(1980年代)はまだ冷戦期で、読んでもピンとこなかったし、中東欧にさほどの関心もありませんでした。河川って不思議なもので、どこから流れてきたのだろう、どこへ流れてゆくのだろうという想像は、地図で確認すればわかるじゃんという理性を超えて響く気がします。不詳わたくし総合的な学習の時間の黎明期に、河川を主題とした学習の総合的な価値について提唱したパイオニアのひとりなのですが(『中学・高校版「総合的な学習の時間」教材研究―素材をどう生かすか―』、学文社、2006年(共著)を参照)、このほど法令が変わって教員免許取得のために総合的な学習の時間の指導法という科目の設置が必要となり、もちろん私が担当しますので、あらためて教材化の視点を整理しておこうかなと思います。2001年に最初の成果を発表したときに取材したのは東京の神田川で、ドナウ川とはずいぶんスケールが違う!

目の前に架かるトラス橋はサバッチャーグ橋(Szabadság híd)。サバッチャーグはfreedomのことですので意訳して自由橋と呼びましょう。ブダとペストを結ぶ重要な道路橋として1896年に開通、式典に招かれた当時の国王を記念してフランツ・ヨージェフ橋と名づけられました。対岸にはぽっこりした急斜面の小山が見えています。これがゲッレールトの丘(Gellért- hegy)で、ブダ王宮を防衛するための天然の要害になっていますね。フランツ・ヨージェフ橋は19451月、ドイツ軍がハンガリー占領の継続を断念して撤退する際に、ヒトラーの命で爆破されました。戦後に復旧された際に自由橋の名が与えられています。何てことしやがるんだナチスは。パリから撤退する際にもヒトラーは同様の命令を出して、しかし現場の司令官の判断(命令違反)によって歴史ある数々の名橋が救われています。

  
(左)ゲッレールトの丘 (中)上流方向を望む エルージャベト橋越しにブダ王宮 (右)エルージャベト橋とゲッレールトの丘

ドナウ川の左岸、北が上の地図でいえば右側の河畔をべたべた歩きます。対岸のゲッレールトの丘は岩肌が剥き出しで荒々しい感じ。灰色がかった冬の川面と不気味にシンクロします。こちら左岸側にはいくつか船着き場が見えます。ウィーン〜ブラチスラヴァ〜ブダペストを結ぶドナウ航路の船はここに接岸。ライン下りも、前述の宮本輝が描いたドナウ下りというのにもあまり興味はありませんでしたが、同じ川のいろいろなポイントを眺めてきて、時間があればそういうのもいいのかなと思うようになりました。ただ、水面レベルからだと町の様子というのがあんがい見えないんですよね。自由橋から800mほどで次のエルージャベト橋Erzsébet híd)に到達。こちらはきわめて現代的なつり橋で、主柱、橋桁、ケーブルがすべて白一色に塗られています。シシィことエルージャベト王妃のイメージを出そうとしたのでしょうか(芝居はともかく歴史上の彼女に清楚なイメージはないけど 汗)。こちらも自由橋と同時に爆破され、なぜか長いこと再建されなかったのですが、1964年にようやく現在の橋が架かりました。この前後の橋と異なり、戦前の姿を復元することなく、シンプルかつスマートなデザインが採用されています。ガチガチの社会主義政権だった時代なので、王政時代の記憶の復元ということに執着しなかったのか、財政的な問題だったのか。

ゲッレールトの丘のふもとには、いくつか温泉施設(Gyógyfürdő)があります。ブダペストといえば温泉というくらいの話もあるので、ぜひ入浴したいところではあるのですが、前述のとおり血圧の病になって通院加療・服薬という事態になってしまっているため断念。平素は普通に入浴するわけだからたぶん大丈夫なのですが、温泉は一段ハードルが高いですし、万一にも海外の風呂場でぶっ倒れたりしたら目も当てられないので、自制することにしました。画竜点睛を欠くきらいはあるが仕方ない。


ドナウ左岸を走るトラム

エルージャベト橋をくぐると、対岸にブダ王宮Budavári palota)が見えてきます。あす訪れることにしましょう。ゲッレールトの丘といい、ブダ側は思ったよりも起伏があって、絶壁が河岸に迫っているようでもあります。おそらくは地質上の境目に沿ってドナウ川が流れ下っており、その地形を生かして王宮を築いたという順序なのだと思います。趣味的なことをいえば、ブダ側の河岸のわずかな平面にトラムが走っているのが萌えます。対してこちらペスト側は、私が歩いている河岸の遊歩道より2mくらい高いところに電車が走っています。盛り土の築堤ではなく低めの鉄橋のようなものを構築して線路を載せており、電車が通過するときにガランガランとまさに鉄橋を渡る際の大きな音を立てるのが興味深い。道路上を走る併用軌道ではないため、50km/hかそれ以上の速度でぶっ飛ばしていくのも見慣れぬ光景です。これもあす乗ろう。

 ブダ王宮

  
ブダペストのシンボル セーチェーニ鎖橋


エルージャベト橋より上流の左岸側は観光船の乗り場がつづいて絵的に少しやかましい感じ。トラムの鉄橋?の向こう側がペストの中心部のはずですが、河岸からはその様子が見えません。ペストを歩きながらブダばかりを見ています。15時が近づき、いよいよ日が傾いてきたこともあって、歩くスピードがさらに速まりました。エルージャベト橋から900mほどで、セーチェーニ鎖橋Széchenyi Lánchíd)に着きました。何といってもこれがブダペスト(あるいはハンガリー)を象徴する絵! ブダとペストを初めて結んだ橋にほかなりません。鎖橋というのはつり橋の一種で、ケーブル部分にチェーンを用いる工法。セーチェーニというのは架橋を提唱したハンガリー貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンの名に由来します。あ、名と書きましたが、ハンガリー語では日本語と同じく姓→名の順ですので、セーチェーニは苗字のほうです。

ものの本によれば1842年に着工され1849年に完成しました。高校世界史レベルの知識がある人なら「やばそうな時期やん!」と直感的に思っていただけるでしょうか。1848年、フランス二月革命が全欧に飛び火して、各地の自由主義とナショナリズムを煽りに煽りました。ハンガリーの革命は中でも早く、パリの革命から2週間ほどで民衆の蜂起を迎えました。当時のハンガリー王国の首都はポジョニ(Pozsony ドイツ語でプレスブルクPressburg)にありました。現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァです。商業都市ペストのブルジョワを中心とした急進派がハンガリー革命の推進者となりました。19世紀のハンガリー人といえばまず名の挙がるフランツ・リスト(Franz Liszt 「ハンガリー狂詩曲」などで知られる音楽家)で、ちょうど彼が活躍したのがハンガリーの「国民文化」が強く意識され、ナショナリズムが高揚した時期にあたります。リスト自身はドイツ語を母語とし(ハンガリー式の名はリスト・フェレンツ Liszt Ferencz)、のちにパリで活躍してフランス語を主に話したが、ハンガリー語はほとんど話せなかったといいます。意外でも何でもなく、中東欧の民族・言語とはそういうもので、ハプスブルクはそもそもが多民族・多言語・多宗教の帝国であり、その下位に位置するハンガリー王国とて内部は多様でした。都がスロヴァキアの現首都にあったということでもそれはわかります。しかしこれも時代というのか、急進派はハンガリー語の公用語化(他言語の排除)など「ハンガリー化」に固執したため国内の非ハンガリー民族の離反を招き、そこをウィーン政府につけ込まれて、革命は屈服させられました。ペストの鎮圧に赴いたのはハンガリー王国内クロアチアの軍人イェラチッチ(Jelačić)。9ヵ月前に訪れたクロアチアの首都ザグレブの中心に、彼の名を冠した広場があったのを思い出します。オーストリアでも革命が起こって、ウィーン体制の主導者メッテルニヒが亡命し、ひとまず秩序は回復されたもののナショナリズム推進の流れはいっそう強まりました。フランツ・ヨージェフ/ヨーゼフ1世の即位もこのときです(以上、岩崎周一『ハプスブルク帝国』、講談社現代新書、2017年を主に参照)。建設中のセーチェーニ鎖橋もオーストリア軍によって破壊されかかりましたが、頑丈な主要部分は無事に残りました。

 
(左)セーチェーニ鎖橋を上流・ペスト側から見たところ (右)この橋を設計した英国人技師ウィリアム・クラーク


真下まで来てみると、鎖橋の重厚感は想像以上でした。ここはさすがにランドマークでもあり、ナチスに破壊された中央部分も戦後すぐに往時のまま復元されています。いますぐ渡って対岸に行きたいところではあるけれど、あすを期することにして、しばしペスト側から眺めました。周囲にはさまざまな言語を話すツーリストたちがいて、インスタ映えしそうな?写真の撮影に励んでいます。それは当方も同じ。

鎖橋によって常時接続されたブダとペスト、そしてブダ北方のオーブダ(Óbuda 「古いブダ」地区)は、二重帝国成立から5年後の1872年に合併してブダペスト市が正式に発足しました。それから第一次大戦までの約半世紀がブダペストの黄金時代とされます。ハンガリーの「正史」によれば、896年にアールパード(Árpád)がこの付近に定着し、ハンガリー平原を治める君主(称号はジュラ gyula)となったのが同国のはじまり。国家創業の主であるアールパードはヴォルガ川付近にいたマジャール人集団の首長で、黒海北岸を経てバルカン半島に侵入、9世紀後半に第一次ブルガリア帝国を攻撃しますが撃退されました(ブルガリア帝国を構成したブルガールも、ロシア南部からやってきてバルカン半島に定着した先輩でした)。このためねらいを西方に切り替え、ハンガリー平原に入ったものとされます(井上浩一・栗生沢孟夫『ビザンツとスラヴ』、中公文庫、2009年を参照)。東から突然?やってきた軍事集団マジャールに対抗すべくカロリング朝フランク王国が設定したのがオストマルク辺境伯領(Marcha orientalis)で、これがのちにオーストリアに発展したとされます。中世後期以降の歴史は後述しますが、ナショナリズム高揚の延長上に成立した19世紀後半のハンガリー王国が、896年という年をあらためてクローズ・アップし、1896年には建国1000周年を祝うイベントがいろいろおこなわれました。自由橋の前身であるフランツ・ヨージェフ橋の開通もその一環です。これも後述するように、欧州大陸で初の地下鉄が開業したのもそのときでした。(以上、ブダペスト市公式サイト“history”の項を主に参照)

 セーチェーニ鎖橋東詰


橋一本で歴史が変わるほどではないものの、いちいち舟を手配して渡っていたことを考えると、いつでも対岸に行けるという気楽さが「ブダペスト」の一体感をつくっていったに違いありません。まったく同じように、河川の西側に政治都市(黒田氏の居城を中心とした福岡地区)、東側に経済都市(博多地区)が並存した福岡市では、いまも若干の対抗意識が残り、夏の風物詩である博多祇園山笠は博多地区の独占物で、私も高校時代に住んでいた福岡地区の人は眺めることしかできません(しかも「集団山見せ」といって福岡地区に見せびらかしにくる行事がある)。「武家町のもんには触れさせん」というところでしょうかね。ほぼ同じ時期に合併したブダペストはどうなのだろう。ブダないしペスト固有のアイデンティティってあるのだろうか。その点で「ブダペスト」という連合地名にしたのはよかったですね。日本の大合併のように、大きな市の名前だけを残すとか、外側の名をつけて中和するとか(いわき市、さいたま市、伊豆市など)、誇大妄想的な名をつけるとか(西東京市、四国中央市、南九州市など)、一文字ずつつなげて意味不明にするとか(昭和+拝島→昭島市、大森+蒲田→大田区、谷津+久々田+鷺沼→津田沼など)、歴史に対する冒涜じゃないかと思うことすらあります。福岡+博多もいまなら福岡市で合意することはなかったと思う。ま、ブダペストも当初は無理やり感があってしっくりこなかったのではないかと想像しますが、欧州の一般的な地名に即しても標準的な音節数なので、定着は早かったのでは?

 
ズリーニ通りのクリスマス・マーケット 通りの奥に聖イシュトヴァーン大聖堂がある


さて、いよいよ日暮れの気配がするので、ドナウ川の景観はあすまた眺めるとして、ペストの中心街に移動しよう。鎖橋のペスト側はセーチェーニ・イシュトヴァーン広場(Széchenyi Istvan tér)と呼ぶロータリーになっています。その東側ににぎやかそうな道が見えるのでのぞいてみると、聖イシュトヴァーン大聖堂Szent István-bazilika)へ向かう参道のようなズリーニ通り(Zrínyi utsa)でした。この季節ですのでクリスマス・マーケットが出てきらきらしています。ただ、メインの繁華街はこれより4ブロックほど南(川と並行して下流側)に進んだあたりなので、そちらに転進してみました。裏道のようなところをしばらく歩くと、突然に明るくなって、がやがやという人の声がしてきました。一辺100mもないほどの小さな方形の空間に、クリスマス・マーケットが密集し、その周囲と隙間に厚着した人たちがたくさん集まっています。15時半にして黄昏となれば、こういう文化になるのは当然ですよね。ここはヴルシュマルティ広場Vörösmarty tér)。観光客らしい人の姿もかなりあるけれど、多くは地元の人のように見えます。クリマは、小物や土産物、ホットワインなどを売る店のほか、お花見どきに仮設される大型屋台みたいな飲食店もいくつかあって、この時間すでに満席に近い状態。でっかいソーセージとか煮込み料理みたいなものを紙皿で提供しているようで、みなさんハフハフいいながら召し上がっています。気温は5度前後に下がっているはずで、地元の人は気合あるな〜。

 
  ヴルシュマルティ広場


もとより、フォトジェニックな観光スポットよりこういう日常的な都市空間が大好きなので、スリにだけ気をつけて、さらにペストの中心部を歩くことにします。昼食抜きなので腹が減らぬでもないですが、何しろまだ15時台なので、いくら何でも早すぎます。とはいえ、それらしいものに出会えるなら何か食べてもいいなと、そこは柔軟に。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい100フォリント=43円くらい、1ユーロ=132円くらいでした。

 


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