共和国広場から何度目かの旧市街に入ると、午前中に青果市が立っていたポワ・ピュブリック広場へと下っていく道でした。18時になろうとしている時間帯で、もうにぎやかさはなく、お店もクローズするところが目立ってきました。地方都市って一気に暗くなりますもんね。明日も今日と同じように午前中にヴァンヌを出てナントに向かう予定ですが、ヴァンヌに関してはもうだいたいのところを歩いたので、明朝に少しお散歩するくらいで十分でしょう。とくに何があるというわけではないけど、いい町。
黄昏のヴァンヌ市内
例のモノプリでワインを購入して、いったん部屋に戻りました。ランチにかっちり肉を食べたので夜は軽くてもいいわけで、モノプリやその周囲にお持ち帰り惣菜みたいなのがあればそれでもよかったのですが、ピンと来るものはありません。となるとやはり外食か。そういえば先ほど歩いたフォンテーヌ通りには中華料理店もあったな、目先が変わっていいかなと思います。ためしにブラウザを開いてVannes chinois(ヴァンヌ 中華)で検索してみたら、フランス版の食べログみたいなサイトがいくつか出てきて、その多くでよいスコアをとっていたのがそことは別の中華料理店でした。宿から歩いても10分かからないところらしいので、そっちに行ってみましょう。飲食店をそうやって探して、実際に行ってみるというのは初めての体験。そういうのこそデフォルトだというデジタル世代の多くとは違って、外れもかなり含まれ、「正解」はたぶんその外側にあるということを十分に心得てはいます。
牢獄門から東に入り込んだようなところに、そのLe Dragon d’Orはありました。「黄金の虎」とは何ともカッコいい。初代タイガーマスク(アニメでなく実写版のプロレスラーのほう)に対して古舘伊知郎がそういう形容をしていたのを思い出します。漢字表記はそのまんまに金龍飯店でした。先客が1組いるものの店員がいません。2分くらい待っていると、寺西勇(タイガーからの連想。たぶん知らないでしょうから画像検索してくださいな)みたいな髪型と顔立ちの中年の華僑男性が現れ、窓際の席へと案内しました。ヴァンヌのような地方の小都市にも中華料理店はたいていあります。すごいもんですね。
ここ1年ばかりの横浜通いで、中国語の表記を含めてかなり中華料理を見る目が養われたぞという自負?をもってメニューを開いてみたら、あらら、フランス語オンリー! 漢字を併記していないというのは初めて見たかもしれません。フランス料理店の多くでみられるように、料理名に○○風とか書かれてしまうと意味不明になってしまいますが、こういうエスニック系だと散文的な説明になっているので、初歩的なフランス語のスキルがあれば読み取れます。で、私の言語スキルが間違っていないのであれば、掲出されているメニューの大半がタイ料理(笑)。カレーと書いてあるのがずいぶんあるし。いや、もともとフランスの中華はタイまたはベトナムとの混合が多く、そのこと自体にびっくりはしないのだけれど、純粋に中華だなと思えるものがほとんどないというのはやっぱりすごいです。残念ながらタイ料理のよしあしを見分ける能力はないのと、中華をと決めて出てきたので中華っぽいものを食べたいのとで、数少ないチャイニーズを選ぶことにしよう。前菜は揚げワンタン(Raviolis frits)€6、主菜は「エビの部」から、エビとキノコ・タケノコ炒め(Crévette aux champignons et bambous)€9だな。それと中華の定番、青島ビール(€4.50)を。横浜を含むあちこちの中華料理店で少なからぬ華僑の男性店員が無愛想というかあまり微笑まないのには慣れていて、ここもそうなんですよね。にこりともしないで「ライスは要りませんか」と訊ねるので、不要の旨を伝えました。「白いごはんがないと私だめなの〜」なんていう日本人が多いですけど、私なくても平気だし、フランスあたりで出てくる「白いごはん」は美味くないに決まっているので回避よ回避。横浜だって、ランチに添えられる白いごはんが美味しかったケースは数えるほどしかなかったもんなあ。
先客は20代くらいの会社の同僚みたいな3人さん(男性2人に女性1人)。やはり青島ビールを飲みつつ、生春巻をレタスで包んで美味しそうに食べています。あれはベトナム風か。テレビでは、日本なら昭和40年代くらいのテーストの歌謡番組が流れていて、スパンコールの衣装をまとった歌手がよくわからん歌をうたっています。店の見た目は中華なのに料理は東南エイジアなんだね。おそらくはコックさんがASEAN方面の人なのだと思う。食べログのスコアが高かったということは(操作でなければ)地元ではそれでよいということだろうから、まあいいんじゃないですか。まずワンタンが運ばれます。形状も甘酸っぱいタレも東南アジア風で、それは想定内。パリ初心者だったころに仲よくなって何度か訪れた常宿近くの中華料理店(かなり前になくなった)でも、まったく同じ料理が供されていました。フランス語表記は「揚げられたラヴィオリ」ですけどね。ビールに合うねえ。メインは、バナメイエビ、キクラゲ、マッシュルーム、タケノコ、タマネギを醤油味で炒めたもの。オイスターソースを使いすぎのようでちょっとにおいます。味はまあ普通、というか横浜なら偏差値45くらいだな。青島ビール2本で腹いっぱいになりました。宿に戻ってテレビのニュースを見ていたら、南仏方面で雨が降りすぎて川の水量が増えて危険だという話と、欧州チャンピオンズリーグでASモナコがアーセナルを3対1で撃破したというのでスタジオ大騒ぎ。お疲れさまです。
コネタブル搭
明けて2月26日(木)はくもり。今のところね。ナントに向かう列車は11時30分発なので、朝食はカットして、もう少しだけ市内を散策することにします。昨日は主に城壁に囲まれた旧市街内部を歩いたのですが、その東側にマルレ川が突き当たり、城壁に沿うようにしてガンベッタ広場付近に出てくることが地図からわかります。本当は順序が逆で、マルレ川の流路を天然のお堀として生かして城壁を造ったのでしょう。いまはマルレ川と城壁の間に芝生緑地をしつらえてあり、城壁庭園(Jardin des Remparts)という名が与えられていました。散歩している人もほとんどなく、清掃作業員の方が黙々とゴミ箱を片づけておられました。外側から見ると、城壁の中=旧市街は見るからにこんもりした高台になっているのですね。そのままマルレ川に沿って、昨日訪れたレジャー港を一回りし、サン-ヴァンサン門から「入城」しました。数軒の魚屋さんが営業しています。小物市が出ていたあたりを東に入ると、コネタブル搭(Tour du Connétable)がありました。東側からの侵入に備えた軍事拠点で、15世紀くらいの建物だそうです。朝の旧市街はひっそりというよりどんよりとした空気。カフェでコーヒーでも、と思ったものの、それらしいお店が開いている感じもありません。
小さな旧市街をおそらく3周半くらいしたので、もう大満足です。10時くらいで散策は打ち上げ、ホテルに戻りました。荷物を整理してチェックアウトを頼むと、最初に応対してくれたムッシュ(おそらく宿の主人)が、「日本の方ですか? ああ、フランス語を話されるんですね」と。――まあこの程度であれば。見るからに「外国人観光客」だから全編英語でというのは、ホテルとしてはおそらく正しい対応でしょう。ときにクールジャパン、大量に押し寄せる「外国人観光客」に英語で対応できているのかな?
来たときとは逆に坂道を登って、まる1日ぶりにSNCFヴァンヌ駅に来ました。まずは切符を買いましょう。売り場のカウンターで50代くらいの男性職員さんに、I’d
like to…といいかけたら、とたんに表情を曇らせて「ノーノー、エイゴダメ!」(Non Anglais!)と両手を顔の前でばたばたとさせます。少なからぬ日本人が、フランス人はフランス語への誇りをつよく抱いているので英語で話しかけたら怒る(or 対応しない)、という話をもっともらしくしますけれど、その昔ならともかく現在ではそんなことはない、都市伝説に近いのだというのが私の実感。私自身がそれなりにフランス語を話すせいかもしれませんけどね。このおじさんの反応は、ですからちょっとめずらしいように思います。英語ダメとかいっても、「ナントまで1枚」くらいのもので、「文」にすらなっていないレベルだと思うのですが、怒っているのではなく「自分は無理だから隣の(若い)係にいってくれ」という感じなのです。いまどきねえ。それならと、あえてゆっくりのフランス語で「ナントまで片道1枚、くださいな」といいなおしました。おじさんはほっとしたように椅子に座りなおし、機械をいじって発券してくれます。€23.30。
ヴァンヌ駅構内 昨25日発売のシャルリー・エブド紙が最前面の扱いで売られています(風刺画は加工しました)
まだ30分くらいあるので、構内の簡易カフェでカフェ・クレム(€1.65)。エスプレッソとミルクが別の容器に入っているのはいいとしても、ミルクが冷たいままで、混ぜればまずいに決まっています。これもいまどきめずらしくダメなやり方だな。ナント行きは11時30分発です。入線してきたのは昨日と同じ、青い流線型のIC仕様の電車。ていうより、昨日カンペールから乗ってきた便じゃんね。ブルターニュ半島の付け根に位置するナントまでは1時間20分。途中のルドンで、パリから来たときのルートと分かれて南をめざします。12時50分の定刻にナント着。今回ここまでに利用したカンペール、ブレスト、ヴァンヌの各駅とは比べものにならないほど「立派な駅」でした。
ナント駅
ここでは駅のすぐそばの宿をブックしています。駅前を線路と並行して通っているスターリングラード通り(Boulevard Stalingrad)を渡ってわずかに1ブロック、予約したホテル・キリヤード・ナント中央駅(Hôtel Kyriad Nantes Centre Gare)が見えました。すぐにチェックインできるとのことで、指示された部屋に通ってみたら、いやこのクラス(3つ星)にしては相当にいい部屋です。キリヤードはルーヴルというフランスのホテルチェーンのミドルクラスなのですが、駅前の好立地だし、予約サイトの割引とはいえ込み込み€65.55とかなり安いので、あまり期待していませんでした。何より部屋が明るくて広く、調度品もしっかりしています。このへんはチェーンホテルならではですね。シャワーだけでなくバスタブもついていて、しかもバスルームが清潔で広い。パリでこの内容なら€200近くになってしまうことでしょう。最近泊まったところでは、昨年8月のバーゼル、12月のロンドンでほぼこのクラスでしたが、両者ともバスはついていなかったし、価格が倍くらいしました。時と場によることは承知しているので過去を悔いているのではなく、今回はあたりだなと喜んでいるわけです。
ホテル・キリヤード
あす27日は14時05分発のパリ行きTGVをとっているので、持ち時間はほぼ24時間。ブルターニュ巡礼の最後をゆっくりと過ごせそうです。とはいってもここナント(Nantes)を「ブルターニュの都市」といってよいのかどうかはかなり微妙。地理的には、一にも二にもロワール川(La Loire)の河口から少しだけ遡ったところにある大西洋への窓口です。ロワール川といえば、ブロワとかアンボワーズなど中世の城郭都市がつらなる古城エリアで、個人的にはジャンヌ・ダルクのからみで中流域のオルレアンを2度ほど訪れたことがあります。となると、セーヌ川沿いのパリとは水脈が異なるものの、一山越えたところのお隣ゾーンになるかもしれない。しかし歴史的にみれば、このナントこそがブルターニュの首都(都というほどの規模が当時なかったとすれば首邑くらいかな)でした。カンペールもヴァンヌも、ナントに拠るブルターニュ公(Duc de Bretagne)の支配を長く受けていたというわけです。ブルターニュ継承戦争(1341〜64年)は、英仏百年戦争と連動した公の地位をめぐる争いでしたが、フランス王が支援したジャン4世がフランスの封建的臣下になることを余儀なくされ、ついで15世紀後半にはブルターニュ公直系として唯一残された少女、アンヌ・ド・ブルターニュ(Anne
de Bretagne)が継承した公領の保全を図るためフランス王シャルル8世との結婚を承諾しました。当時の社会制度からすると夫婦は別人格ですので、この時点でブルターニュ公国がフランス王のものになったわけではありません。しかしシャルル8世が男子後継者を残さずに死ぬと、傍系から入ってヴァロワ朝を継いだルイ12世は、王妃と強引に離婚して未亡人となっていたアンヌと再婚します。あからさまなブルターニュねらいですけれども、アンヌ女公に他の選択肢はありません。フランス王妃としての役割がいっそう強まり、ナントを中心とするブルターニュの統治はフランス王の手に移っていきました。まあその間にもいろいろあり、それこそがブルターニュ人の集合的記憶なのだけど、ともあれブルターニュ公領はフランスへの実質的な編入に追い込まれました。時のフランス王は、イタリア戦争の一方の当事者であるフランソワ1世(敵は神聖ローマ皇帝カール5世)。フランソワ1世の王妃クロードはアンヌ・ド・ブルターニュの娘なので、双方の血統が合流したということになります。
そのように、ナントがブルターニュの中心であったことは間違いないのですが、フランス革命に際して行政区画(州)としてのブルターニュは廃止されました。旧弊を嫌った大革命は地方を機械的に区切って統治することをめざしたのです。そして1941年には対独協力のヴィシー政府によって、ナントのペイ-ド-ラ-ロワール(Pays-de-la-Loire)県への編入が決められ、ブルターニュからは完全に切り離されました。地図で見れば半島の付け根というよりも本体側にあるため、そうした経緯を知らない人にとってはナントがブルターニュの一部という感覚はもちにくいかもしれませんね。
トラム・ルネサンスの先駆けとなったナントのトラム
ホテルを出て、トラムも走っている目の前の道を駅と逆の都心方向に歩くと、3分ほどで次の電停が見えました。その名もデュッシュス・アンヌ- シャトー・デ・デュック・ド・ブルターニュ(Duchesse Anne- Château des Duc de Bretagne)。訳すと「アンヌ女公-ブルターニュ公の城」。最後の城主たるアンヌの名が堂々と冠されています。お城は歴史博物館になっているようなので、明朝の見学にしましょう。まずは電停のホーム上にある券売機にVISAを挿入して一日乗車券(Ticket
24h €4.60)を購入。日で区切るのではなく滞在中ずっと使えるものなのでうれしいですね。電車の運行間隔は短いらしく、1本見送ったと思ったらすぐに次のやつがやってきました。あちこちでよく見る流線型の連接車です。いま欧州ではトラム・ルネサンスと称する流れができつつあり、中心市街地と郊外とを結ぶライトレールを都市再生の軸に据えようというムーヴメントが広がっています。フランスはとくにそうで、パリが市の周縁部に4路線を展開していますし、私がこれまでに見たところにかぎっても、オルレアン、ディジョン、ランス、ル・アーヴル、ストラスブール、そして2日前のブレストが、近年になってトラムを復活ないし新設しました。ナントは1985年にトラムを復活させ、ルネサンスの嚆矢となった都市でもあります。2つ目のコメルス(Commerce)で下車。道路とトラムの地図で見るところ縦横の幹線がクロスする地点のようで、福岡なら天神、札幌なら大通、名古屋なら栄にあたる座標ゼロと見ました(ナントはそれらほど大きな都市ではありませんが)。降りてみればたしかに交通量も多く座標ゼロっぽい。コメルスは英語読みすればコマースで「商業」。わっかりやすい地名だね〜。
もう14時になろうとしていて、さほど空腹でもないのだけど、何か食べておこうかな。フラットな歩道部分がやたらに広くなっている電停のすぐ前に、持ち帰り用のサンドイッチをたくさん並べたカフェが見えました。フランスで軽いランチを取ろうとすると、ファストフードでもないかぎりはこのサンドイッチになります。バゲットを縦に切り開いて具をはさんだやつね。工事中の奥歯はだいぶよくなってきているものの、若いころと違ってごっつりしたバゲットをかじる気が起こらず、パニーニにしました。イタリア風のサンドイッチでフランスのサンド屋さんならたいていどこにでも置いてあります。ツナ入り(Panini Thon)が€3.80。ナマのときは表面が白く、プレス機にはさんで焼くと香ばしく焦げ目がつきます。味はもう「ピザトースト」そのもの。こいつをかじりながら、にぎやかそうな道路に入り込みました。小雨が降ってきましたね。
(左)オルレアン大通り (右)ロワイヤル広場
衣類や靴などの上品な路面店が並ぶオルレアン通り(Rue d’Orléans)はすぐに終わり、楕円形の片側を壁で塞がれたような(銃弾型? イギリスパン型?)不思議な形状のロワイヤル広場(Place Royale)に出ます。真ん中に立派な噴水が。カンペールやヴァンヌは、建物の感じが独特で、いってしまえば田舎っぽかったのですが、ナントの中心部は洗練された都会の装いです。各地でよく見る旧市街ではなく、街路が整然と走る新市街のように見えます。そのぶん猥雑さとか人間くささが感じられないので(上品なブティックばかりあるのもあって)、いまのところ都市としてのおもしろみを見出せずにいます。中途半端な時間帯でもあり、夕方を過ぎれば人通りも増えて印象が変わってくるのでしょう。
ロワイヤル広場を通り抜け、オルレアン通りの延長線上を行くとクレビヨン通り(Rue Crébillon)の緩い上り坂。さきほど乗ってきたトラムの線路の一筋北側を並行している感じになります。少しだけ進むと、ガイドブックに紹介されていたパサージュ・ポムレ(Passage Pommeraye)の入口が見えました。パサージュというのは屋根つき商店街のこと。たいていは大きな道路と垂直に交わります。2ヵ月前に訪れたウェールズのカーディフは、町の中心にこれでもかというほどパサージュが構築されていて、たいていは雨に濡れずに歩ける感じでした。ただしウェールズでの表記はアーケード(Arcade)。パサージュ・ポムレに入ってみると、すぐに下り階段になっています。フランスで唯一の三層構造だそうで、いま入り込んだところが坂道を登った先だったので、「下の町」との高低差を利用してこのような造りになっているのですね。白亜ふうの円柱にことごとく彫刻が施してあるなど、19世紀に典型的な「古典様式」(コテコテの装飾をほどこしてクラシック風に見せるやり方)だねえ。瀬戸物屋さんとか古切手屋さんのウィンドウがあるのはあちこちのパサージュと同じ。あまり感心しなかったので、もう一度「上の町」に戻って、町の様子を眺めながら歩くことにします。
クレビヨン通りとパサージュ・ポムレ
PART7 につづく
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