Mon voyage en Europe occidentale après «une» pause :
Belgique et Flandre
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PART2 |
旧市街探検をほどほどで切り上げて、いったん中央駅に向かい、そこを通り越してブリュッセル公園(Parc de Bruxelles / Park van Brussel)に足を向けます。前回も間違いなく訪れたスポットですけれども、位置関係や途中の様子などの記憶はすっかり抜け落ちています。西欧あちらこちらのシリーズを愛読してくださっている方から、ディテールや時刻までよく覚えているのですねといわれることがありますが、メモがわりに写真を撮りまくっているのでそのデータから時刻は再現できますし、地図と照らして自分の動線も確認することができます(むしろ歩いているときにはいい加減だったりする)。そして「メモ」のほうも、飲食店に座った折などに、ちゃんと書いています。お気に入りはフランスの業者がつくっている手のひらサイズのメモ帳で、パリに行くたびに数冊を購入し、海外遠征だけでなく学会・研究会などでのノート、そして野球観戦のときの取材メモにも使っています。成人病をやってしまってから行っていないですが横浜中華街を毎週訪れていたときにも取材メモにしていました。重宝していたのに、この3年半で新規購入できなかったため残り1冊未満とストックが切れかけており、この2日前に晴れてパリにて購入できました。このベルギー編では2019年に購入した最後の1冊を使用しています。そのような習慣ないしルーティーンを確立する前だった2007年の遠征時には、本当に記憶だけを頼りにこのような記事を書いており、ゆえに記述もあっさりしていましたし、ディテールが甘かったりしました。各国各都市を歩いていても、こまかな位置関係や地形などの詳細は記憶から抜けるのが普通で、私もそうです。覚えていられるのは、写真やメモをもとにこのシリーズの記事を書いて、時系列のストーリーを再現しているおかげです。 そんなわけで中央駅とブリュッセル公園の位置関係や経路については、ほとんど初めての感じです。旧市街から中央駅に向けて、思っていた以上の登り勾配ですし、駅の反対(東)側に抜けるとさらに勾配がきつくなりました。宿泊しているホテルが稜線の上にあり、そこから旧市街に下ってきたと前述しました。いま再びその崖の上をめざして斜面をよじのぼる感じです。途中で大聖堂の立派な伽藍が見え隠れしますが、あす訪問することにしましょう。中央駅は路線バスの拠点らしく、待機場所から駅前にやってきたバスが次々にお客を吸い込んで、坂の上の各所に向かって出発していきます。退勤の時間帯でしょうか。 坂を登りきったところにトラムの線路と電停がありました。電停名はParc / Parkで「公園」。同じところにメトロ同名駅の入口もありました。中央駅から1駅で、距離にして500mくらいのものでしょうが、定期券やサブスク的な切符を保有している人ならばエレベータ代わりに使えるかもしれません。ブリュッセル公園はもともと貴族のプライベートな狩猟場だったところで、18世紀後半に都市拡張の一環として計画的に整備され、独立後に市民の憩いの場となりました。都市名そのものを名乗る公園というのはめずらしいですよね。直線的なアレー(allé)を鋭角的につなげて基軸線とする設計はフランス風です。アレーには趣旨不明のユーモラスなキャラクターの像がずらりと並んでいました。一時的な展示物なのか恒常的なものなのかは不明。アレー以外のところはほとんど樹に覆われていて、格好の日かげになっており、カフェやベンチで市民が憩っています。家族連れも多い。そういえば前回は雨が降っていて地面がぬかるみ、歩く距離をセーブしたのだったか。ここは長方形をしていて、長辺が600mくらいあるかなり広い公園のようです。日かげを選びながら、ゆっくりと歩いてみました。 公園の南辺側の門を抜けると、そこに王宮(Palais Royal de Bruxelles / Koninklijk Paleis van Brussel)があります。ここは国王の住居ではなく公務のための場所。ナショナルな儀式・祝典などがおこなわれる場でもあります。正面ホール部分のファサードを改修中のようです。中央のドーム状に国旗が掲揚されていれば国王がベルギー国内にいらっしゃる印だということですけれど、旗の姿はなく、国王は公務で外国におられるのか、スイスあたりに避暑に行かれているのか、あるいは17時を過ぎたので降納したのか。現在の君主は独立から数えて7代目のフィリップ国王(Philippe / Filip)。1960年の生まれだそうなので63歳です。前回、2007年にここを訪れたときにはまだ先代のアルベール2世(Albert II)が在位中でした。2013年に生前退位し現国王に譲位されています。英国の王室などと比べればベネルクスの君主家の情報やニュースというのは私たちにあまり入ってきませんが、日本の皇室との関係も深く、2019年にいまの陛下が即位された折には、フィリップ国王とマティルド王妃が即位の礼に出席なさっていますし、皇太子時代にも何度か来日されています。私の印象に残っているのは先々代のボードワン1世(Baudoin Ier de Belgique / Baudewijn van België)です。ベルギー領だった現在のコンゴ民主共和国(旧称ザイール)の独立にあたっていろいろ悶着のあった歴史的な人物でしたし、1989年2月におこなわれた昭和天皇の大喪の礼にも参列され、外交慣例によって参列者の最上位に位置づけられました(「陛下」で呼ばれる国王級>「殿下」で呼ばれる公・侯爵級>大統領などの国家元首>首相など・・・ といった順で、同位の中では在位・在職年数の長さによる)。1993年にボードワン1世が亡くなると、子がなかったため弟のアルベール2世が即位し、あとで触れる言語圏のあいだの対立に腐心されました。前国王アルベール2世は、明らかに旧世代の価値観・倫理観をもっていた兄王と異なってリベラルで寛容な姿勢を見せ、冷戦終結後、欧州統合に向かう変わり目の時期に、君主としての役割を大いに果たされています。ただシャイで力量に疑問符をつけられていた後継者フィリップ王子の行く末が心配だったようで、一種の君主修行を積ませようというのも譲位の理由であったとされます。マティルド王妃はベルギー生まれで初めて王妃となられた方。ということは、歴代の君主は他国出身の女性と婚姻されていたわけで、さすが欧州ですね。 ベネルクスと一括されることが多く、また自らもそのようなアイデンティティをもっているベルギー、オランダ(ネーデルラント)、ルクセンブルクはいずれも立憲君主制国家で、日本でいえば皇居に相当する王宮(ルクセンブルクは大公宮)はみな拝見したことがあります。警備がコテコテしていないのがうらやましい。オランダのベアトリクス前女王(退位され「王女」に戻られたがご健在)は町なかに自転車で出かけられることで知られていましたし、北欧の話になりますが警護をつけずに外出する理由を問われたノルウェーのオラヴ5世(1991年崩御)が「私には400万人(全国民)の護衛がついているから」とおっしゃるなど、このややこしい時代に世襲君主としての信頼を得ていることには頭が下がります。ベルギー王家を含め、ナチスの侵略などの国難に際して抵抗のシンボルとして国民にメッセージを発しつづけ、その紐帯であったという歴史も信頼の基になっているのでしょう。 王宮のすぐ西側にロワイヤル広場/コーニンク広場(Place Royale / Koningsplein)があります。フランスの様式を取り入れて、ブリュッセル公園、現在の王宮などと一体的に整備されたものらしい。中心に聖ヤコブ教会(Église Saint-Jacques-sur-Coudenberg / Sint-Jacob-op-Koudenbergkerk)、その前には第1回十字軍の主将でエルサレム王国の初代であるフランス貴族ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon 1060-1100)の騎馬像があります。フランス語圏ではあってもブリュッセルがフランス領になったことは一度もなく、ゴドフロワとの縁が何であるのかは存じません。そこから中央駅のほうに、また急坂を下ろうかと思って歩き出したら、自動車の通る道路は当然のことに傾斜をなるべく緩めるべく崖を斜めに下るようになっているが、歩行者は階段状の公園を歩き下って旧市街方向に抜けられることがわかりました。眺望もすばらしいので、ここを歩いていくことにしよう。(いま2007年の写真フォルダを見てみたら、ロワイヤル広場付近からこの公園を通り抜けて、どうやらその途中のカフェでビールを飲んでいたらしい。やはりすっかり忘れています) あらためて、こうして歩いて+見ると、都市ブリュッセルは19世紀後半以降に再設計され、かなり計画的に造りなおされてこんにちの規模になっているのだということがわかります。西欧の都市は全般に小規模のところが多く、前近代すなわち日本でいえば江戸時代あたりの構えを基本的に残しているところが多いのですけれど、パリやベルリン、ウィーン、バルセロナなどは規模において大きいだけでなく、もともとの旧市街をも再編しながら、近代都市として計画されたという経緯があります。ブリュッセルに関する知識はほとんどありませんが、たぶんその例のひとつなのでしょう。起伏に富んだ地形を巧みに取り込んで構成されています。高台から自分の住む町を俯瞰してみて、その景観がすばらしいということになると、それは誇りやアイデンティティの源泉になります。あまり関係ないかもしれないけれども、私は東京23区の中でも標高の高いところに住んでいて、絶妙な角度で、10キロくらい離れているスカイツリーの頭が見えて、そのつどうれしくなります。江戸→東京もアップダウンがかなりある町ですので、なんだかシンパシーを覚えますね。 18時近くなっているので、そろそろ晩ごはん。このところ自宅でも外食でも17時台の夕食が普通になっているので、個人的にはちょっと遅いくらいです。こちらは「晩」がいつなのかというくらいなので、ホテルへの帰路も明るくて結構ですね。旧市街の細い路地に入り込み、それらしいところを歩いて、飲食店が並ぶエリアに達しました。観光食堂(観光客を主たる対象とする飲食店)というのはあまり好きではなく、前回もこのあたりでぱっとしない食事をしたと思うのですが、まあいいやということにしておきます。イロ・サクレ(ilot Sacré アイの大文字とエルの小文字がわかりにくいのでアイも小文字で書いています)地区というのだそうで、アジア系なども含めてさまざまな料理店が軒を連ねています。Le Pêcheur(意味は「漁師」)なるこぎれいなレストランが、猫の額みたいな前庭にいくつかのテラス席を設けており、名物のムール貝をプロモーション価格で供するとしていたので、目が合った店員に案内を乞うて、道路に面したテラスの一隅に座りました。プロモの内容は、Moules (marinière) + Fritesで€17.90というもの。この時期のベルギーといえばムール貝なので、滞在中に一度は食べておきたい。パリでも夏の滞在時には何度か食べたことがあります。マリニエールというのは直訳的には船乗り風という意味ですが、白ワイン蒸しのこと。ベルギーでもフランスでも、鍋ごと供し、なぜかフリットが添えられます。ついでのことに、フランスであってもこの料理にはワインではなくビールが普通。フリット(frites)は、揚げる(frier)という動詞の過去分詞から派生したもので、本来はpommes fritesつまり「揚げられたジャガイモ」なのですが、修飾語の部分だけが独立して、和製英語でいうフライドポテトを意味するようになりました。ドイツでもFritesです(英語はchips、米語はFrench Fries)。日本の若い世代には被修飾語だけ独立させて「ポテト」と呼ぶ人が多いのだが、ジャガイモの料理って他にいくらでもあると思うんだけどな。それはそうと、フリットとムール貝が合うとは思えないのに、このセットがどこでもデフォルトです。フリットの発祥の地をめぐってはベルギー説とオランダ説があり、いずれの国にも専門店があるほどで、まあ本家を主張してご利益があるほどの食品でもありますまい。飲み物は、日本でもおなじみ、ベルギー銘柄のヒューガルデン(Hoegaarden)をラージ(0.5L)で発注しました。 しばらく待っているあいだに観察していると、テラスはすぐに満席に。このあと19時以降がやはり夕食のコアタイムなのでしょう。隣席に案内された英語を話すカップルは、私と同じプロモを2つオーダーしましたが、「これはプロモ商品なのでおひとりだけです」といわれていて、不満げではあったが他の何かを注文していました。別のカップルは5分くらいメニューを見て、何もいわずに席を立っていきました。ま、観光食堂とはそういうものでしょう。少し離れたところに日本人のマダム2人がいて、料理の提供の順番を飛ばされたらしく店員に苦情を入れたら、店側がやけに愛想よく謝罪したうえで、ビールか何かをサービスしている様子でした。当方はさほど歓迎されている感じもないものの、こういう場所ではフランス語オンリーで通すことにしています。そこいらの旅行者と一緒にするなということね(いや一緒だが)。運ばれたムール貝は想定したとおりの味と量で、まずまず満足しました。冬場のカニ鍋なんかと同じで、たぶん連れがいたとしても無言で貝をつっつくことになるのでしょうね。
この時点ではホテルの位置をそもそも間違えていた事実にたどりつけておらず、まだもやもやしていたのですが、チェックインした宿がロワイヤル通りに面していることは間違いないので、そこに向かって歩いていくことにします。当初の心づもりよりも都心寄りでよかった。ホテル名がロワイヤル・サントル(Royale Centre)といっているわけだから、(王宮のそばを通る)ロワイヤル通り沿いの都心という意味であるのは、考えればわかるよね! さきほど中央駅裏手の坂道を登ってブリュッセル公園を訪れましたが、要はその前を走っている道路がロワイヤル通りで、そこから徒歩10分くらいのものなのです。中央駅とホテルのあいだには、フランス系小型スーパーのカルフール・エクスプレスが3店舗もありました。パブ・タイムのワインとビール、お水を購入して宿に戻りました。
8月10日(木)もいい天気のようです。予約サイトに提示されたプランに朝食つきはなく、2泊素泊まりで押さえました。フランスにもそういうところが多く、朝食は現地で別払いということですね。1食€15と案内されており、ホテルの規模に対してはちょっと高めのような気がしますが、まあいいでしょう。最近の遠征では、昼食を抜くのが標準になっていて、そのぶん朝食はばっちり食べておこうということにしています。レセプション横のダイニングにビュッフェがあり、この区画の責任者らしい初老の男性スタッフに部屋番号を告げて、料理を選びます。料金体系はフランス式に近くても朝食スタイルは英国式で、スクランブル・エッグにはビーンズ(白いんげん)を煮たやつをかけていただきます。これをおいしいと思ったことはないのだけど、そういうものだと考えておきましょう。旧型のトースターの使い方がわからずにまごついていたら、居合わせた女性客が親切に教えてくれました。メルシー。 9時半ころ出動します。きょう具体的に見たいものは、大聖堂とEU地区だけで、あとは何か見られればいいやといういつもの町歩き。ただ昨9日はずっと徒歩でしたので、市内交通の一日乗車券を購入して、大好きな乗り物にたくさん乗りたいと考えています。ロワイヤル通りをブリュッセル公園のほうに歩きはじめると、すぐのところにコングレ記念柱(Colonne du Congrès / Congreskolom)があります。そういえばホテルのすぐ横(ですから記念柱もすぐそば)にある電停名がコングレ駅でした。Congrèsというのは英語ではCongress、要するに議会のことなのでしょう*。柱には1830年9月、1831年7月と2つの年月日が刻まれており、由緒書きによれば、独立後に開かれた第1議会を記念して1850年代に建てられたモニュメントということらしい。国家としての独立の記憶を共有し、国民統合を可視化するためのものといえそうです。周囲には第一次・第二次の両世界大戦における無名戦士を追悼する銘板などもあって情報過多ですが、ナショナル・メモリアルな場ということでよいと思います。
きのうブリュッセル公園のスタート地点としたメトロとトラムのパルク(Parc / Park)駅のところで東に折れると、法律通り(Rue de la Loi / Wetstraat)というカタそうな名の道路で、そこにベルギー王国の立法府にあたる連邦議会(Parlement fédéral belge / Federaal Parlement van België /
Föderales Parlament von Belgien)の議事堂があります。上院(Sénat / Senaat / Senat)、下院(Chambre des
Représentants / Kamer van Volksvertegenwoordigers / Abgeordnetenkammer)の二院制で、どちらもこの建物にあるらしい。現地の作法に従ってここまで2言語併記できたのに、急に3つ目の言語を入れているのは、王国全体の話となるとフランス語、オランダ語のほかにドイツ語も国家公用語として指定されているためです。第一次大戦の結果、ドイツからの領土割譲があって、ドイツ語話者が多い地域がベルギー領に編入され、のちにドイツ語も公用語になったというわけです。国家レベルでは伝統的にフランス語が優先的に使用され、石炭が重要資源だった時期にはフランス語圏が経済的にも優位でしたが、20世紀を迎えるころから重化学工業の発展したオランダ語圏が逆転、人口でも経済力でも優勢になっています。イタリアなどと同様に(日本でも、まあそうですね)先進地域で吸い上げた税金を、経済的にぱっとしない地域や斜陽産業の多い地域に再分配するという構図が、アイデンティティの衝突と結びついて、しばしば「言語戦争」とも呼ばれる深刻な対立を生みました。1993年には3つの言語共同体(オランダ語共同体 Vlaamse Gemeenschap/フランス語共同体 Communauté française/ドイツ語話者共同体 Deutschsprachige
Gemeinschaft)そして首都ブリュッセルの4地域が分立する連邦制に移行しました。内政はほぼ完全に言語共同体が担当し、政府・首相も議会などもそれぞれにあります。 2002年の日韓W杯予選リーグで日本代表が最初に対戦した相手がベルギー代表でした。ふと、代表選手はどの言語でコミュニケーションするのだろうと思ったものです。かつてはフランス語ができないとまずい、というようなことだったそうですが、考えればわかるように、昨今の欧州各国リーグはそもそも多様な言語が共存しているため、代表クラスの選手であれば2、3の言語は日常的に話せるわけです(職業分野にかかわる内容であればとくに)。元日本代表の川島永嗣選手は、ゴールキーパーというポジションもあるため複数言語を流暢に話すことで知られますが、ベルギーでのプレーが長かったことも関係しているかもしれません。
言語で対立するくらいなら、それぞれ隣接する国(オランダとフランス)に分かれて合流しちゃえば?というのは安直かつ無礼な発想。私が考えるに、ナショナル・アイデンティティの三要素は順不同で言語・宗教・歴史です。一般には歴史ではなく民族とすることが多いのですが、それだと言語や宗教との境界がむしろ見えなくなります。ベルギーの北半分はたしかにオランダ語話者がメジャーな地域ですが、北隣のネーデルラント王国(オランダ)でプロテスタントが主流なのに対してベルギーはカトリック。宗教のアイデンティティが強く作用します。ベルギーの南半分はたしかにフランス語話者がメジャーな地域ですが、南隣のフランスとは、フランク王国が分裂して以降、歴史的に「同じ国」であった経験がありません。現フランス領のブルゴーニュとは長く同じ国家に属しましたが、むしろこれはフランスに「もっていかれた」のであり、現在のベルギー一帯は初期近代にはハプスブルク帝国の勢力圏に収まり、文化的・法的には中欧と地続きになっています。世界史を学ぶ高校生がたいてい困惑する、神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V 在位1519〜56年)は、同時にスペイン国王カルロス1世(Carlos I 1516〜56年)でもある。なんていわれただけで意味不明(笑)。歴史オタクの私なんかはそういう意味不明に萌えます(大笑)。でもこの人はドイツ語もスペイン語もあまり上手ではなかったようで、母語であり終生の第一言語はフランス語でした。彼は現ベルギーのヘントで生まれ、このあたりで育ちました。フランス語ではシャルル・カン(Charles-Quint)と呼ばれます。いまのベネルクスが、小国にしてしかも多言語であるというのは、いってみれば欧州のあり方そのものを凝縮して受け継いできた結果といえます。 議事堂から徒歩5分くらいで、大きな教会建築の裏手に出ます。きのうも上り下りした、中央駅と崖上のブリュッセル公園をつなぐ坂道を、今回は下りました。当然ながらファサードは南向きになっており、私がアプローチした東からの道だと、堂舎の横というか裏手にまず着いてしまいます。表参道ならぬメイン・アプローチをたどるのが初心者の筋ではありましょうが、ここもまた急な傾斜の途中にあり、メイン・アプローチ自体がかなりの段差を伴いますので、順序を逆にする無礼をお許しいただくことにしました。聖ミカエル・グデューラ大聖堂(Cathédrale des Saints Michel et Gudule /
Kathedraal van Sint-Michiel en Sint-Goedele)です。 ブリュッセルにカテドラル(大聖堂)があったかな?と、失礼なことを一瞬思いかけましたが、カトリックの信仰篤い地域であれば大司教座は当然置かれることでしょう(ただし大司教座への正式昇格は1962年)。教会の建設は11世紀から本格化し、完成をみたのは16世紀に入ってからですが、ということはキリスト教(カトリック)の社会的位置やこの地域のステータスなどもその間にずいぶん変わったのではないかと思います。教会の原型がつくられたのはさらに早くて、8〜9世紀ころだったそうです。日本の奈良時代にあたる751年に、ピピン3世がメロヴィング朝から王位を簒奪してカロリング朝を開いており、その息子にあたるシャルルマーニュ(カール1世)の時代にカロリング・ルネサンスが開花する・・・ と世界史の教科書で説明されている、そのへんの時代ということか。カロリング朝フランク王国は9世紀に2度の分裂を経て、こんにちのドイツとフランスの原型を生んだ母体でありますが、本来的にはその結節点であり回廊部分にあたるいまのベルギー付近は最重要の地域でした。宗教的な意味でも拠点化を図ろうとしたのでしょう。いま見ている大聖堂の造りはゴシックそのものなのだけれど、長い時間をかけて造られているため、当初のロマネスク様式の傾向もみられるのだそうです(建築系を内包する創造工学部の先生なのですが、ド素人ですみません 汗)。教会名のミカエル(フランス語読みすればミシェル、英語だとマイケル)は聖書に登場する大天使で、聖人に列せられているグデューラ(Saint Gudula)というのはメロヴィング時代の6〜7世紀の修道女で、大天使ミカエルとともにブリュッセルの守護聖人にされたとのこと。 ゴシックのカトリック建築にしては採光が非常によくて、あたたかくやわらかな雰囲気が満ちているように感じられます。この20年ほど心の拠りどころにしてきた、ゴシック建築の代表格であるパリのノートルダム大聖堂が、周知のように2019年4月に火災に見舞われて再建途上にあります。この3日前の朝にも、いつもの作法でノートルダムにごあいさつにいきましたが、まだ堂内に入ることはできません。2024年中の再開ということなので、次回訪問時ももしかすると内陣での拝観はかなわないかな。それもありますので、ブリュッセルの大聖堂の内部をゆっくり歩いて、その様子を見ることができたのは幸せでした。 前述したように、ベルギーという国家は、2言語間の厳しい対立と、他方ではカトリックの信仰という共通点が併存して成り立っています。世襲王家とカトリック教会の役割というのは、想像以上に大きなものがあるのでしょう。現在の国王ご夫妻は、年齢が一回り以上離れており、マティルド王妃は私よりも若いのですが、4人のお子さんがいらっしゃいます。ベルギー王国の王位継承は性別によらず出生順になりますので、第一子で長女のエリザベート殿下が、このままいけば次期の君主になります。やはり王位継承予定者が女性であるスウェーデンもそうですが、ベルギーの歴代君主にも女王はまだいません。連合王国(英国)の王位継承予定者は、歴史的経緯によりウェールズ公(Prince of Wales)という君主号が付与されます。ベルギーでは、これも歴史的経緯によりブラバント公(duc de Brabant / hertogen van Brabant)という中世の君主号が、王太子の称号となります。エリザベート殿下は女性ですので、フランス語でDuchesse de Brabant、オランダ語ではHertogin van Brabant。オランダ語に関する知識はほとんどないのですが、公爵の性別が変わると綴りの1文字だけ変わるんですね。昨年、70年以上にわたって英女王を務められたエリザベス2世が亡くなられ、チャールズ3世が新国王に即位されて、国歌の歌詞がQueenからKing、HerからHisに代わるという事象がありました。当たり前ではありますが、なにしろ超長期の在位でしたので、私などはまだピンと来ないままです。ベルギーの王室に強い関心があったわけではないものの、今回ブリュッセルを再訪して、関係する場をいくつか見ましたので、今後は親しみをもってニュースに接するようになる気がします。
10時半ころ中央駅に行って、国鉄ではなくメトロ(フル規格の地下鉄)の乗り場へ。手許の地図によればメトロは4系統あり、中央駅に来るのは1系統と5系統ですが、都心の東西を貫く部分は線路を共用していて、東郊の行先が分かれるということのようです。ひとまず分岐するより手前のシューマン(Schuman)まで乗ることにしているので、方向さえ間違えなければどの列車でもかまわないはず。自動券売機にクレジット・カードを差し込んで24時間券を購入しました。パリと同様に、市内交通の運賃体系が一元化されているため、プレメトロ、トラム、バスも利用可能です。改札機がないのはいくつかの都市で見たのと同じで、とくにめずらしさはありません。ベルリンとかリヨンもそうだったかな。ただ、安全確保とか人の流れの管理という点では欧州各地もさすがに強化する流れがあるらしく、空港の出入国審査がやけに厳重になりましたし、紹介したようにTGVの乗り場にも改札機が設けられるようになりました。「ちゃんと管理している」ということがグローバルな安心感を生んで、より多くの人やモノを呼び込むということであれば、悪いことではありません。 グラン・プラスの副駅名がついた中央駅駅(Gare Centrale / Centraal Station)から東行きに乗車。この日は何度かこの路線を利用しましたが、昭和テーストな古い車両もあれば、ぴかぴかの最新型もあって、車両の統一性がなくてかえっておもしろい。座席の仕様などもいろいろあります。4駅目がシューマンです。ここは欧州連合関係の施設が集まる地区なので、ぜひ見学しようと思っていました。ところが長いエスカレータを上がってみると、自動改札があります。おや、改札があるほうが普通だったのか。そのようなところまで統一性がなくていいのかねと思いながらチケットをかざしましたが、エラーが出ます。何度かやってみても同じ。完全なる無人改札で、係員がいるわけでもないので、いったんホームに降りて反対側の出口に行ってみましたが状況はまったく同じでした。どういうこと? もしかすると、中央駅駅で改札がないと思ったのは勘違いで、あそこは降車客だけが通る一方通行の出口で、入口は別にあって改札を通らなければならなかったのかもしれない。そちらのほうが自然です。広く新しい空間ではあるものの無人のシューマン駅でうろうろしていても埒が明かないので、いったん中央駅駅に戻りました。が、やはり改札はないようです。階段の降り口にICチップを反応させるための機械があるのでタッチしてみたら、すでにヴァリデーションされていますとの表示。最初は買ったときに刻印されるのでしょうか。だとすればシューマン駅の改札に反応しないのはおかしいですね。用心のため、すぐ引き返せるように1駅先の、例のパーク/パルク駅まで乗って、ご丁寧にもいったんそこで下車してみることにしました。しかしパーク駅も無人駅で、しかも改札機がない仕様! 都心部の、少なくとも中央駅駅と隣のパーク駅のあいだは無賃乗車できてしまうではないですか(ま、欧州は信用乗車が基本ですが)。これでは試したことになりません。パーク駅の機械にチケットを当てても、すでにヴァリデーション済みとの表示が出ます。仕方ないので、またシューマン駅まで行って、あらためてタッチしてみることにしました。やはり動かなかったのですが、今度は居合わせたお兄さんが、「ムッシュ、ここにチケットを当てるのです」と教えてくれ、アクリルのゲートが開きました。サンキュー。なるほど、何かのスイッチ(押しボタン)にしか見えなかったコイン大の赤い突起がタッチ・ポイントだったわけか。なんとなくこれまでの国内外での経験から、タッチ先は色の変わっているフラットな部分だと思い込んでいました。4駅分を無用に1往復半して40分くらいロスしていますけれども、特段にどこに行かなければという当てがあるわけでもないので、別にいいことにしましょう。同道者のない一人旅は気楽でいいですね。 シューマンという、いかにも人名的な駅名は、もちろん人名にちなみます。欧州統合の提唱者ロベール・シューマン(Robert Schuman 1886〜1963年)に由来。第二次大戦後にフランスの外相などを務めた政治家ですが、母がルクセンブルク人で、ロベールはロレーヌ地方で育ちましたがその当時はドイツ第二帝国の統治下にありました。ドイツ式の教育を受け、ルクセンブルク語(言語学的には高地ドイツ語の方言)とドイツ語が母語で、フランス語にはドイツ語訛りがあったそうです。仏独の融和と共存という彼の理想は、同じく欧州統合の父と呼ばれるジャン・モネらと共鳴し合い、二次の世界大戦で運命共同体となることを悟ったベネルクスのリアルな政治意識と結合して、現在の欧州連合のルーツである欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立につながりました。
シューマン駅の改札を無事に抜け出して地上に出ると、REPowerEU(EUに再び力を)という力強いロゴが掲げられたビルがありました。これが欧州委員会(Commission européenne
/ Europese Commissie / European Commission)の本部ビルのようです。日本人にはなかなか理解しがたい部分が多いのですが、欧州連合(Union européenne
/ Europese Unie / European Union)というのは単なる国家の寄り合いではなく、それ自体が国家のような機能と仕様をもつものであり、いってみれば国家の外側にもう一つ国家があるようなかたちになっています。「国際社会」にあっては通常、主権国家より上位のもの、その外側の権威はないのだとされますけれども、EUは例外で、主権の一部をEUに委譲する合意がなされていて、EU法と呼ぶ法は、国内法と同じように国家だけでなく個人や法人を直接的に拘束します(国際法は国家のみを拘束する、というのが、最近はわりと漂流しがちではあるが近代の常識的な枠組だった)。立法・行政・司法にあたる機関もあれば、中央銀行もあります。行政府(内閣)に相当するのが、この欧州委員会。欧州委員長はEUの首相であり、欧州委員は閣僚です。日本の制度になぞらえていえば、財務大臣とか経済産業大臣などが閣僚で、彼らは財務省、経済産業省といった省庁の長となり、それぞれ多くのテクノクラート(官僚)を抱えているわけですが、欧州委員が率いる総局(Directorate-General)が省庁に相当します。もちろん欧州委員もユーロクラート(欧州官僚)も多国籍ですけれど、出身国の利害を反映してはならず、「欧州の人」として振る舞います。 通りをはさんだ向かい側にあるのがユストゥス・リプシウス(Justus Lipsius)なる建物で、こちらはEUの立法府上院に相当する欧州連合理事会(Conseil de l'Union Européenne / Raad van
de Europese Unie / Council of the European Union 通常はラテン語のConsiliumで呼ぶことが多い)の拠点。合衆国の上院議員が州の代表として立法に参画し、州の規模にかかわらず各州2名が選出され対等な権限が割り当てられているのと似て、理事会には27の加盟国が対等な権限で参画します。農業政策であれば各国の農業関係閣僚(農相)が「上院議員」になるイメージ。他方、下院に相当する欧州議会(Parlement européen / Europees Parlement
/ European Parliament)は、加盟国ではなく欧州市民の代議士が集まる議院であり、議席は人口比例で配分されます*。所在はブリュッセルではなくフランスのストラスブール。なお司法府にあたる欧州司法裁判所はルクセンブルク、欧州中央銀行はドイツのフランクフルトにあり、EUは全体として本部機能(≒首都)が分散しています。
というようなことを、社会科系の授業でもたびたび話題にしていますが、話が複雑になるのと、どうしても制度呼称ばかりになってしまうこともあって、関心が高まるというところまでもっていけないのが私の力量不足。日本の社会科教育は、日本の内と外とを明確に分けすぎていて、生徒の視野が国境の外側に向かいにくいんですよね。国家の外側にもう一つ国家が、という事象を学ぶことが、日本人にとって意味があるのかという学習動機の部分でつまずくことが多くなります。私の回答はわりとはっきりしていて、欧州連合、欧州統合はグローバル(化)の実験場であり実見場です。主権国家・国際社会という17世紀いらいの秩序が動揺しかかっているいま、それを維持しつつクロス・ボーダーな人やモノや資本や情報の往来を可能にするための方法とか、国家を越えた問題への強制力を伴う対応の可能性とか、そういうものを欧州は目に見えるかたちでやってくれています。もちろん明だけでなく暗の部分も見えてきます。私はこの前日、フランスからベルギーに、ノーラッチ(検問なし)でやってきましたし、このあとまたノーラッチでフランスに戻って出国します。私のパスポートには、電子情報も含め、ベルギー領内に入ったことは記録されません。出入国審査の除去を定めたシェンゲン協定のなせるわざですけれど、そういうしくみだからこそ、国内の移動と同じに、ノータッチ、ノーラッチで移動できます。だから、人やモノがどんどん移動して社会や経済や文化が活性化するし、だから感染症のウィルスやテロリストもどんどん移動します。そういうことです。 |
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