Mon voyage en Europe occidentale après «une» pause :
Belgique et Flandre
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PART1 |
再起動、リスタート、リハビリ、休眠解除・・・ なんと表現すればよいものか、2020年2月25日にウィーン国際空港を離陸したのを最後に3年半ものあいだ国内に閉じ込められていたのが、ようやく禍が晴れて、国境の向こうに飛ぶことができるようになりました。たいていの人にとって3年半ぶりの海外旅行なんて普通か、もっと短い間隔に感じるのかもしれませんが、その間の社会的な何やかんやと、それに由来するストレスなんかもありましたので、余計に久しぶり感が強いです。ともかく、おめでとうございます私。ごく閉じた対象にだけ公開しているSNSを1つだけやっていて(メタのインスタではないほう)、思い出と称して過去の同月日の写真がフィードに出てくるのですが、この3年は自分の過去の投稿を見て、嘆息するしかありませんでした。いや最高ですね欧州。後述するように、禍の前と比べると諸条件が悪化していて大変ではあるのだけれど、ともかく来ることができて率直にうれしく、楽しいです。私のフィールドはやはりここです。 2023年8月9日(水)の午前11時ころ、パリ北駅(Paris- Gare du Nord)にやってきました。フランスの首都パリには方面別に6つのターミナル駅があります。ここ北駅は、フランス北部、ベルギー、オランダ、ドイツのケルンなどに向かう列車の起点で、海底トンネル経由でロンドンに向かうユーロスターも発着します。ここを訪れた回数は、ただの見学や乗り換えを含めれば数えきれないほどですが、長距離便の利用のために来たということであれば、2012年2月に母とユーロスターに乗ったとき以来なので11年ぶり。西欧あちらこちらの初期には、パリから鉄道で行けるようなところを回って、またパリに戻るというツアーがつづいていました。2013年以降は飛び道具(航空便)を利用して遠方の国に行ってしまうのが主になりましたので、鉄道での遠征機会が減りました。今回はここ北駅を12時22分に出発するタリス(Thalys)9439便でブリュッセルに向かいます。慣れているわりに早く来すぎではないかといわれそうで、そのとおりではありますが、欧州(外国)では物事が予定どおりに進まないことがしばしばあり、余裕をもちすぎるくらいのほうが安全です。しばらくブランクが空いたことでもあり、用心して早出してきたわけです。駅まで行ってみたら乗車予定の便がキャンセル、なんてことも何度かありました。この旅行からの帰国時のことになりますが、パリの常宿を出てシャルル・ド・ゴール空港までかなり余裕をみたつもりが、鉄道のトラブルで中途半端な乗り換えとバス代行を指示され、パリの交通に精通しているからそれでもなんとかなったものの、不慣れな人とか場所であればパニックになったかもしれません。 一連の感染症対策がおおかた終了して通常モードになった2023年初夏以降に、東京には「訪日観光客」の姿が急に増えています。世界的な観光都市パリはそれ以上でした。北駅の待合スペースにスーツケースを並べて待機する多様な民族・言語の人たちの様子も、とてもなつかしい気がします。ターミナル駅らしい「人間たちのかたまり」が絵になります。ひところの流行語でいうなら「密」そのもの。もちろんもう誰もマスクをしていないので、個人的にはうれしくなりました。このところ高校公民の教科書の執筆に加わっていて、パンデミックのさなかの2021年前半に補訂した部分に、禍のもとでの用語集みたいなものを入れたのですが、そこに「ソーシャル・ディスタンス」の項を書いたんですよね。ご存じかどうか、教科書には検定と採択とでそれぞれ1年ずつの時間がかかるため、締め切りが実質的に2年前になります。その教科書の供用開始が今春(2023年4月)なので、ディスタンスってなんだよと自分で突っ込む始末。もちろん失敗しちゃったということではなくて、そのズレもまた現代社会を学ぶ意味だと捉えてほしいなと。 発車番線がかなり直前にならないと判明しないのはいつものこと。とはいえタリスやTGVの車両がいるホームには、頭端部に改札が設けられているので、だいたいそのあたりというのはわかります。以前は、出入国審査を伴うユーロスターだけが別扱いで、タリスやTGVなどシェンゲン圏内*に向かう列車は改札も何もなく乗車できたのだけど、いまはチケットのQRを自動改札機に読み取らせるとゲートが開くという、空港の搭乗口のようなしくみになっています。ゆるゆるだったEUの移動管理も、一連のテロ事案やパンデミックを経て、それなりに厳格になりつつあります。ETIAS(European Travel
Information and Authorisation System 欧州旅行情報・認証システム)という、アメリカのESTAと同趣旨の事前登録システムがもうすぐはじまります。面倒が増えたとしても、これはこれでよいのだろうと思います。わが9439便は9番線だということが12時05分ころモニターに表示され、改札前で待っていた大勢の人がぞろぞろ移動。8両+8両の長大編成(しかもタリスやTGVはプッシュ&プル方式**のため運転駆動車がその他につく)で、前のほうがアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)行き9339便、後ろがブリュッセル南駅行き9439便で、考え方としては異なる列車をつなげて運行するかたちです。要するにブリュッセルおよびそこから乗り換えてベルギー各地方に向かう人と、アントウェルペン以北の北部ベルギーおよびオランダに向かう人とを管理上分離してしまうわけね。ブリュッセルまではノンストップのため、私を含めた後ろ8両の乗客は全員、ブリュッセルまで同道する仲間ということになります。 フランスの新幹線TGV(Train à Grande Vitesse 直訳すると「超速い列車」)はパリを拠点として放射線状に路線網を伸ばしていますが、ベルギー、オランダ、ドイツ北西部に向かう北駅発着路線に関しては、当初からタリスという別ブランドで運行しています。ベルギーは国土の北半分でオランダ語、南半分でフランス語が話され、両地域の対立と葛藤を緩和することがいまも国政の要諦になっています。フランス語を掲げた列車が、ブリュッセルはともかくアントウェルペンあたりに入ってくると無用な刺激を与えかねず、それならばと、いかなる言語でもない「ふんいき語」のThalysを採用、車体もTGVのブルーとは異なりワインレッドの塗色を採用したのでした。 ユーロスター兼用車? 欧州の、新幹線に相当する高速列車ということでいえば2019年8月にイタリアのローマからフィレンツェまで、フレッチャロッサを利用して、快適さに満足して以来です。フランス国内を走るのは2016年2月のTGV乗車が最後でした(このときはパリ東駅 Gare de l’Estを発着)。この10年ばかり鉄道ファン→航空ファンへの軸足移動がかなりあって、テツのほうにはご無沙汰がちなのは申し訳ないことです。国内で新幹線のぞみを利用する際には、最近ではほぼ毎回グリーン車なので、今回も1等のEチケットを事前購入して、プリントアウトしたものを持参しています。スマホでもいいのだけれど通信エラーなどがあれば大変ですからね。指定の2号車ドアは荷物の積み込みでふさがっていたため、隣の3号車ドアに立っていた女性車掌にQRコードをあらためて読み取ってもらい、車内へ。いつものワインレッドの車体ながら、なぜか側面にユーロスターのロゴと意匠が描かれています。私の知識だとユーロスター用の車両はベルギー直通用を含めて英国側の保有だったように思うのですが、その間合い運用なのかな? パリ→ブリュッセル間の所要時間は1時間22分で、1等(Comfort)で€99。円安の関係で相場感が狂っていますけれども、まあ高くはないと思っています。車内は1列+2列、欧州では当たり前の、回転もリクライニングもしない座席ですね。オンライン発券システムの精度は以前よりも向上していて、どちら向きというような細かな座席指定も可能になっていました。当然ながら進行方向向きの1人掛けをとってあります。1時間20分といえば、ひかりで東京〜浜松と同じくらい。2ヵ月前の出張帰りに、浜松からグリーン車で帰京していますが、そのくらいなのですね。パリから見れば、ブリュッセルは隣国の首都ではあるが、余裕で日帰り圏です。この日の2号車は4分の1くらいの乗車率。 欧州では発車遅れがむしろ普通ではありますが、わが列車は12時22分の定刻に、がしゃんとドア・ステップを収納する音がして、静かに滑り出しました。北駅からしばらくのあいだは、空港と市内の行き帰りに利用するRER(高速郊外鉄道網)B線と同じところを走るので、車窓に見覚えがあります。発車3分後に早くも車掌の肉声アナウンスが。フランス語→オランダ語→英語を1人でこなしています。そこから15分くらいで、北フランスにありがちな、広大な小麦畑と牛が放牧されたエリアからなる、酪農だか混合農業だかの景観に突入しました。日本の新幹線が高架線を旨とするのに対し、フランスは、平野部ではほとんどが地平を走りますので、体感速度は思った以上に速いです。半年後に敦賀〜金沢間がカットされてしまう北陸本線の特急列車(サンダーバード&しらさぎ)なんかも地平ばかりだからスピード感あるものね。
到着も13時44分の定刻でした。ベルギー王国(フランス語Royaume de Belgique/オランダ語Koninkrijk België/ドイツ語Königreich Belgien)の首都ブリュッセル(Bruxelles / Brussel / Brüssel)にやってきました。西欧あちらこちらの実質2作目で訪れたのが2007年2月ですから、16年半ぶりということですか。読み返してみると、若いし、情報量と文字数が少ないねええ(いまは文字数の無駄遣い)。ベルギーそのものは2004年2月に初めて足を踏み入れています。初訪国であった英国は別にして、フランスから国境を越えて別の国に行くという経験が初めてだったので、わくわく、どきどきしました。そのとき訪れたのはアントウェルペン(Antwerpen これはオランダ語の表現で、フランス語ではアンヴェールAnvers、英語ではアントワープAntwerp)とヘント(オランダ語Gent フランス語ガンGand 英語ゲントGhent)の2都市で、なぜか首都ブリュッセルをスルーしています。2007年のときもブリュッセルには宿泊せず数時間だけ滞在でした。今回は2泊を予約していて、要は「海外(フランス以外)デビュー」の原点に立ち戻って、鉄道で隣国に向かい、町歩きするということにしたわけです。 ブリュッセル南駅(Bruxelles-Midi / Brussel-Zuid)は首都のターミナル駅の一つで、このタリスなどが発着するため長距離列車においては最大の拠点となっている駅です。中心市街地の南縁に位置します。同様に、北縁にはブリュッセル北駅(Bruxelles-Nord / Brussel-Noord)があって、パリなど西欧の大都市ではおなじみの方面別ターミナルを形成していましたが、1950年代に都心の地下に南北連絡線が建設され、スルー構造になりました。タリスは北駅も通りますが停車せず、ブリュッセルでの乗降は南駅に集約しています。
前述のように長大編成の後ろ半分はブリュッセル南駅止まりなので、乗客が全員降りて、キャリーなどを転がして長いホームを出口に進みます。アムステルダム行きの編成との解結作業はまだのようで、しばらく停車しているのでしょう。線路は高架上にあり、エスカレータでワンフロアぶん降りたところに、待合スペースとしてたくさんのイスが並んでいて、各種売店が囲んでいます。ああ記憶がよみがえってきました。このフロアは、2007年のベルギー訪問時ではなく2010年2月にドイツのケルンからパリに向かう途中に、不本意にも何時間が過ごした場所でした。直通のタリスに乗ったのに、車両故障とかでブリュッセル打ち切りとなり、振替輸送の便が出るまでここのベンチに座って新しい情報を待ちつづけたんだったな。場を離れると肝心のことを聞き逃す恐れがあるので、売れ残っていたサンドイッチをかじりながら身構えていたのだと記憶します。パリに着いたのは深夜でした。 きょうは目的と予定があってこの駅に来たわけなので、とくに遺恨?はありません。さて予約した宿は中心市街地の北のほう、どちらかといえば北駅に近い地区にあります。以前の私であればおそらくプレメトロ(prémétro 地下を走るトラム)で市街地を通り抜けることを選んだのでしょうが、直前まで迷って、タクシー利用にしました。南駅周辺は治安が悪く、荷物をもった旅行者が被害に遭うという悪評があります。そんなことをいったらパリ北駅もそうだし、欧州の各都市でもっとやばそうなターミナル駅も利用しているのだけれど、地図を見ても宿の周辺がややこしそうなのも手伝って、タクシーに決めました。乗り場の案内に沿って歩くと駅西口に控えめのタクシー・プールがありました。中東系とおぼしき若い運転手に、カード決済ができることを確認し、ホテルの予約票を見せて乗り込みます。「ワタシそのホテル知ってるよ」、I know this hotel.という簡単な構文なのだけど発音がごつごつしています。もちろん私も人のことをいえた立場ではありません。ブリュッセルはフランス語とオランダ語の併用地域で、マジョリティはフランス語ですから、フランス語で話してもかまわないのですが、契約や手続きの関係はなるべく英語でやり取りするようにしています。 ホテルまでの道筋を、事前にガイドブックの地図やグーグルマップで予習してありましたが、タクシーがトンネルに入ったあたりで方向感覚を失い、あとは運転手まかせに。トラム(路面電車)の線路の上を走っているものの、あの地図のどのあたりなのだろうと、さっぱりわからないまま進みました。10分くらい走ったところで運転手が左側の建物を指して「あ、このホテルですね」といい、こちらは右側通行ですからハンドルを切って反対車線に突っ込むように車を停めました。勘定は€14とほぼ予想した線。10時過ぎにパリの常宿を出てからちょうど4時間、なんのトラブルもなくブリュッセルのホテルに着きました。実にスムーズな移動で、いつもこうありたいものです。予約サイトで探して2泊を予約していたベストウエスタン・ホテル・ロワイヤル・サントル(Best Western Hotel Royal Centre)は、ややくたびれたオフィス・ビルみたいな構えで、さほどの規模はない様子です。あとで内部の構造などを観察してみて、もしかするとオフィス・ビルを転用したのかもしれないと思いました。ベストウエスタンはアメリカに本拠のあるビジネスホテルのグローバル・チェーンで、だいたい3つ星程度のクラスを展開しています。これまでに何度も世話になっており、ベストウエスタンが立地する地区は治安がよいという定評もあります。 レセプションに若い男性スタッフがいて、英語でやり取り。すでにお部屋の準備ができていますのでどうぞと、早めのチェックインを認められました。2泊素泊まりで込み込み€213.50。これも円安の関係でわかりにくくなっているものの、首都の都心部にしては安めでしょうね。部屋は8階(日本式でいうと9階)の802号室だと指示され、最上階に行ってみると、801〜803の3室しかありません。客室は妙に細長く、バスルームからベッドまで、ゆうに2室分くらいの距離があり、しかし壁と窓のあいだは廊下程度の幅。最上階にはバルコニーもあって、客室から直接出られるようになっており、おそらくフロア面積が小さいため客室のレイアウトが変な形になっているのでしょう。ただ備品やアメニティなどは申し分なく、快適に過ごすことができそうです。 小休止して15時ころ出動。今回ブリュッセルの町歩きに充てるのはこの日と翌10日の、約1日半の予定です。15時過ぎだと当日の持ち時間がさほどないように思われるかもしれませんが、8月上旬のこのあたりは、高緯度に加えて夏時間を採用していることもあり(冬は日本と時差8時間だが夏は7時間)、21時半くらいまでふつうに「昼」です。西欧屈指の大都市ではあるものの、ぜひこれは見たいというようなスポットもそれほどないため、いつもしているように、中心市街地やその周辺の住宅地を歩いて、町の景観を観察するという楽しみに費やすことにしましょう。4年半前にEU加盟国(当時は28ヵ国)の完訪を達成し、首都に関してもスペインのマドリードをのぞいてすべて訪れていますけれど、初期の散策はもう20年近く前なので方針も精度も違っています。初心者ということもあって流儀が定まらなかった初期の訪問地を再訪し、いまの流儀でじっくり見ようということです。そう、いろいろな都市に行きましたよとはいっていても、たいていは一度きりですし、20年のラグがありますので、大半は「第一印象」のまま語りつづけています。やむをえないことながら、授業とか、こういう記事のようなアウトプットの際には気をつけておこう。
ホテルの外に出てみたのはよいのですが、駅から自力で歩いてきたわけではないので、現在地と他の地区との位置関係があいまいなままです。レセプションに一枚もののシティ・マップがあったのでいただいてきました。事前のおおまかな予習をもとに、こっちかなと思う方向に歩きはじめてみても、道路の構成などが予想と違って、方向を見失いました。逆方向かもしれない、とにかく目印になって地図上の位置を確定しやすいメトロ駅を探そうと思って、逆方向に1ブロック歩いたら、やたらに緑化した幅広の道路と直交していました。中心部(Centrium)はこちらという標識の矢印が、どうも私の感覚とは逆向きで、それに従えばいま私は都心とは逆方向に歩いていることになってしまいます。ターミナル駅周辺と違って、落ち着いたビジネス・ビル街で地図を見ながらきょろきょろしてもさほど危険ではないでしょうが、それでもそういう仕草はなるべく見せないほうがいい。大きな交差点に面して金融機関らしい立派なビルがあるので、その陰で落ち着いて地図を確認しようと思ったら、そこにメトロ駅の入口がありました。ボタニック/クルイトテュイン(Botanique / Kruidtuin)駅で、だとするとホテル最寄りと認識していた駅ではありますが、位置関係が予想とまったく違います。でも交差点に表示された道路名称と手許の地図を突き合せれば、私の認識が完全に間違っていたと判断するほかなく、これで見通しが立ったので、ひとまず安心して歩きはじめることになりました。どうも私は予習の段階で、グーグルマップに表示されたベストウエスタンの位置を確認したつもりが、同系列の別のホテルを見てしまったらしい。似たような場所に複数出店するという例もなくはないのですが、固有名詞の確認を怠っていました。あらためてホテルでもらった地図を見ると、ホテル・ロワイヤル・サントルが本当にある地点にうっすらとマークの跡が見えます。デスクに置かれていたマップは何十枚も重ねられていたので、おそらくホテルマンが「いまいる場所はここですよ」と、前の客(1枚上のマップをもらった人)に説明してペンでXを書き込んだ跡が下のマップにも残ったのでしょう。いや私としたことが初心者さながらのミスで面目ありません。初心者みたいなミスというよりは、慣れすぎていてチェックがいい加減になっていた結果ということなのでしょう。南駅からプレメトロに乗っていたら見当違いの方向に歩いて、別のホテルにたどり着いてしまっていたはずで、暑い中を荷物引きながら右往左往したに違いありません。タクシーを取ったのは結果的に大正解でしたね・・・。 ホテルの位置を心得ないというポカのため、いったん都心とは逆方向に出ました。なるほど目の前に見えている緑地が、メトロの駅名にもなっている植物園(Botanique / Kruidtuin)ですか。2言語併記を徹底しているため駅名も2種類あるわけですが、人名や古い地名など狭義の固有名詞であれば綴りのズレくらいに収まります。たとえば都市名自体がそうで、フランス語のブリュクセル(Bruxelles)、オランダ語のブリュッセル(Brussel)という程度の違い*。しかし「植物園」みたいな一般名詞だとまるで違ってくることがあるわけですね。Botaniqueはそもそも「植物の」という形容詞なので、これが形容する被修飾語が省略されています。他方オランダ語の植物園はtuinで、形容詞のkruidは「ハーブの」ということらしい。意味まで違っているのは、種々のいきさつによるものなのでしょう。 ブリュッセル中心市街地の概念図 *SNCB(国鉄)は南駅より北側で地下を走る。 この植物園前から広い道路の歩道を、西に向かってメトロ1駅ぶん進みます。緩やかな下り坂。つまりはホテルのあるあたりが丘の上の稜線部分になっていて、都心部との高低差が結構あるということです。このあとの観察で、ブリュッセルの町なかにはかなりの勾配や起伏があるということがよくわかりました。欧州の古い都市は中世に造られ、城壁で囲んでその範囲を明確にしました。いま歩いている幅広の道路はかつての城壁の北縁に沿ったものらしい。いまはビジネス地区になっているようで、東京都港区のどこかだといっても疑われにくいような、よくある景観です。欧州の大都市の新市街はおおむねこんな感じ。1駅ぶんといいましたが500mくらいしかなく、ロジエ(Rogier)駅の入口が見えるところに来ました。そこから左折するヌーヴ通り(Rue Neuve / Nieuwstraat)をのぞき込むと、すぐマクドナルドの看板が見えました。だとすると、かなり商業的に重要なストリートだということが直感的にわかります。ここを歩いて、旧市街の中心に向かうことにします。水曜の午後という中途半端な時間帯だと思うのに、ずいぶんと歩行者が多く、老若男女にかかわらずいろいろな人がいます。通りの真ん中に日なたと日かげの境目があるため、多くの歩行者が日かげに寄って歩き、人口密度の差が出ています。デパートもあるし、H&M、ZARA、C&Aといったおなじみのファスト・ファッションも結構な規模の路面店を構えています。20年前にはフランス各都市のいいポジションにたいていマクドナルドと張り合うように出店していたのに、いつの間にかほとんど見かけなくなったQuickというハンバーガー・チェーンの店も見かけました。ベルギーが本拠だとは聞いていたが、なぜパリから消えてしまったのだろう? ヌーヴ通りの南端で方形の広場に出ました。ユニクロなどの入っている商業ビルの向かいに、王立モネ劇場(Théatre Royal de la Monnais)の白亜の建物が見えます。18世紀に建てられた、オペラなどを上演する劇場です。フランス語のmonnaisはmoney(お金、貨幣)のことですがMを大文字にして定冠詞をつけると造幣局を意味します。パリの造幣局はセーヌ河畔の学士院のそばにあり、見知ったところですけれど、ブリュッセルでは「造幣局劇場」という不思議なネーミングになっているのですね。あとで調べたら、劇場になる前に造幣局があったから、とのこと。晴天のもと穏やかな空気に包まれているモネ劇場ですが、1830年の8月には人々の熱狂とエネルギーがここから噴き出して、やがてブリュッセルを飛び越えてベルギー(ネーデルラント南部)全土に波及しました。8月25日、モネ劇場ではナポリの革命を主題にしたオーベールの人気作「ポルティチの物言わぬ娘」を上演していました。劇中歌の“Amour sacré de la patrie”(祖国への聖なる愛)に刺激された、もしくは刺激されたテイで煽動された愛国派の観客たちは、声を上げながら市中に飛び出し、多くの市民を巻き込んでデモンストレーションを展開し、政府関係のオフィスなどを次々と占拠しました。ネーデルラント南部は、宗教改革でプロテスタントになった北部とは異なり、カトリックの信仰を保ったこともあって、長くスペイン(ハプスブルク家→ブルボン家)の宗主権のもとにありましたが、ナポレオン失脚後のウィーン会議で北部との合併が決められ、1815年以降はネーデルラント王国すなわち「オランダ」の一部に組み込まれていました。しかしプロテスタントの新たな統治者に対する反発と、フランス語話者にとってはマイノリティであることの不満が募り、発火直前のところまでふくらんでいたようです。世界史の教科書的には、保守反動・正統主義のメッテルニヒ路線のもとで自由主義とナショナリズムが弾圧されたが、むしろそれらを求める動きが各地で膨張した、というふうに説明されています。1830年7月27〜29日にパリで起こった反体制暴動(「栄光の三日間」。のちに七月革命の名で呼ばれる)は、フランスと領域を接し、信仰や言語が共通するネーデルラント南部にもその盛り上がりが伝播しました。モネ劇場での愛国歌が本当に着火のきっかけになったのかどうかはわかりませんけれど、8月25日に独立革命がはじまったことは間違いありません。これによりウィーン体制が動揺するわけですが、各国は自らの足許に影響が及ばないように手出しを控え、結果的にベルギーのオランダからの切り離しを容認することになります。 日本の「世界史」では、フランス大革命と二月革命(ウィーンなどでは三月革命)という派手な出来事にはさまれた七月革命には、どうにも地味な印象があります。その影響として「ベルギーの独立」しかないというのも地味に見える要因なのですが、当のベルギーにとってはこれほど大きな出来事はないはずで、おそらく同国の歴史教育では明治維新級の特大トピックとして教えられているのでしょう。このときドイツ南部の領邦国家ザクセン・コーブルク公国の王子レオポルト・ゲオルクが、とくに縁のなかったベルギーの初代国王に招かれ、即位しています(レオポルド1世 Léopold 1er)。フランス語話者のベルギー人たちはフランス七月王政のルイ・フィリップの王子を望んだのですが、それだとオランダ語話者との統合が困難になるというので、いずれとも無関係のドイツ人が、英国政府の仲介によって落下傘的に舞い降りたということです。この王家の話はまた後述しましょう。 王立モネ劇場 ヌーヴ通りはおそらく「外国人観光客」ではなくブリュッセル市民ないしベルギー人の買い物エリアなのだと思います。対してその南側、旧市街の中核部分は、コテコテのトゥーリスティックな(観光向けの)エリアと思われます。スーヴェニア・ショップのたぐいが目立ってきました。観光客と地元民を見分ける明確なワザはないですが、まあだいたいわかりますよね。アジア系の人があまり見えないのは、もともとそうなのか、グローバルな観光移動がまだ回復していないためなのか。ゼロ年代から欧州各都市を歩いてきた経験でいえば、禍の前まで、日本人旅行者はどこでも一定数は見かけるがさほどではなく、目立つのはなんといっても中国人の団体旅行でした。その姿がまったく見えないので、逆に違和感もあります。訪日団体旅行が解禁されるというニュースに接したばかりなので、欧米に向けても同じような現象がみられるかもしれません。日本からの旅行に関しては、現にここを歩いている私が実感しているように、ウソみたいな円安(2019年8月に€1=120円くらいだったのがいまは157円 涙)、原油価格の高騰(より直接的には、航空運賃に付加される燃油サーチャージの高騰)、世界的な物価上昇、日本経済の相変わらずの低迷(つまりは相対的な円の購買力の低下)と、何もいいことがなく、そこにウクライナ戦争の関係でロシア上空を飛行することができずに欧州が時間的にも遠くなってしまいました。西欧あちらこちらを長くご愛読くださっている方ならばお気づきのように、今回いつもと行動や消費の傾向が違うということはありませんし、むしろテーマへのこだわりが少なく散策重視に見えると思いますが、率直にいって、パリ滞在を含む今回の旅程全体の経費は禍の前と比べると2倍程度に跳ね上がっています。それ以前からの習慣ないし経験がなければ私も欧州に来ようとは思わなかったかもしれません。 まあしかし下を向いてもはじまらないし、世界が再起動を期している中でもありますので、前に進もう。さて「日本人観光客」に人気のある欧州の国・都市といって、ベルギーやブリュッセルが上位に出てくることはないかもしれません。ツアー旅行の広告を見ると、たいていはオランダないしフランスとセットになっています。ANAがブリュッセル便を就航させたときには滞在や経由を促す流れがあったようではあるが、その後どうなったんでしょうね。いいところですし、西欧らしさも存分にあるので、読者のみなさまもぜひ。ブリュッセル観光の中心といったら旧市街の大広場ですので、ともかくもそこをめざしましょう。
すでに建物越しに尖塔などが見えているので、めざす広場の方向はすぐわかります。1ブロック南東に進むと、そこに大広場がありました。現地語ではグラン・プラス/フローテ・マルクト(Grand-Place / Grote Markt)で、いずれも大きな広場の意味。広場そのものが観光名所になるというのは、あるようでそんなには多くないと思いますし、それがその町の最大の見どころだというのはやはり特異なことでしょう。長方形のさほど広くない広場の四辺は、隙間なく建てられたクラシックな建築物で囲まれ、広場が大きな水槽の底みたいになっているというのが特徴的。建物は、市庁舎をのぞけばかつてのギルド関係、商業関係のものばかりで、いずれも300年くらいの歴史をもっています。似たようなコンセプトでいえば、5年前のいまごろに訪れたワルシャワの旧市街広場がありますね。 2007年には、ブリュッセル中央駅から歩いてきて、このグラン・プラスをひとまわりして引き返しています。この場所を紹介する際に必ず引用される、「世界で最も美しい広場」というヴィクトル・ユゴーの評を引きつつ、「私はそうは思わなかったな。やっぱり雨がちらほら降っています」と、1行でまとめてしまっています(西欧三都市はやあるき)。記憶の中でも、なんだか薄暗い、しっけていてくすんだ空間という感じだったのだけど、雨降りの冬場だったのと、私自身のキャリアが浅くて物事をフラットに捉えるセンスを十分に持ち合わせなかったのが原因だったのでしょう。2023年夏のグラン・プラスは威風堂々としており、メジャー観光地でありながらわざとらしさがない、居心地のよい空間に思えます。晴天もプラス要因でしょうか。 広場の中央部分は何かのイベントがおこなわれるようでその準備中。周囲には、広場に面した飲食店のテラス席が軒を連ねていて、どこもほぼ満席のようです。私の欧州歩きは、かつては冬場だけだったのが、2010年代には2月・8月・12月の年3回が定着して、8月の回にはこのような「外飲み」の風景がおなじみになっています。業者にとっても稼ぎ時でしょうし、日本より回復は早かったとはいえ2020年以降の異常事態にあっては観光客もほとんど来ない状況だったと思われますので、なおさら張り切っているのではないでしょうか。中国人の姿はありませんが、団体旅行の人たちは何組も来ています。昨今はガイドさんが解説する声をブルートゥースで拾って聴く方式が主流になっているため、以前に比べると静かになりました。そのぶんガイドさんの案内のおこぼれにあずかるのも困難になっています。それでも耳を傾けてみると、スペイン語の声がいくつかあったようです。スペイン本国かららしき人たちもあればラテンアメリカの人たちの姿もあります。スペインは長いことベルギーの宗主国でしたね。 あす10日もブリュッセル市内をぐるぐる歩くつもりなので、きっとまたグラン・プラスには来ることでしょう。町歩きの座標ゼロみたいな使い方?ができます。当地のぜひものとしてはもう1ヵ所、小便小僧(Manneken Pis)も見ておきましょう。ここも2007年に来たところです。旧市街は条里構造になっていないため方向感覚が狂いそうではありますが、ところどころに主要スポットの方向と所要時間を記した標識があるので助かります。グラン・プラスの2ブロックほど南に、有名な像がありました。 しばしば「世界三大がっかり」なんていわれたりもしますが、何にせよ三大ナントカに入るのだからご同慶。町なかのアクセサリーとして、各種の人型造形物を置くのは世界のあちこちにみられることで(偶像崇拝禁止のイスラーム圏では、みられないのでしょうか?)、インドではヒンドゥー関係の像をたくさん見ましたし、日本のお地蔵さんだって外来の人が見ればユニークで興味深い対象ですよね。この小便小僧は、近代に入ってから各種メディアでいろいろな物語を盛り込まれて、本人?の意思を超えたところで世界的に有名になってしまった感があります。だけど、どうなんだろう。最近の日本の若者は、小便小僧というゼネラルな造形のことは知っていても、その本家がベルギーの首都にあるという知識をもっているのでしょうか? ――2007年にここを訪れた際にも、写真を撮る人はたくさんいました(もちろん私も)が、16年経って変わったことといえば、たいていの人の撮影機がカメラからスマホに代わったことと、自撮りしておそらくSNSにアップしそうな人ばかりになったこと、でしょうかね。 |
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=157円くらいでした。
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