テーブル状の丘の上という感じのトームペアは長径300mくらいの楕円形をしています。搭の上から市内を見晴らしたタリン大聖堂はその真ん中へんにある。全体に狭い道が入り組んだ構造で、あまり開けた感じがしません。私は丘の南側から入って、アレクサンドル・ネフスキー教会→大聖堂と歩いてきたわけですが、その先をさらに進むと、土産物店や飲食店もセットになった展望台(Patkuli
Vaateplats)にたどり着きました。あまりに路地ふうの経路なので、これでいいのかなと思うものの、丘の上はあらゆる道がそんな様子なのね。ぱっと視界が開けたような展望台は、丘の北縁の崖上に造られていました。ちょっとしたステージを確保して鉄柵をめぐらせただけですが、視界がよく上々です。中国人ツアーが怒涛のごとく押し寄せて、すぐどこかへと去りました。観光バスにせかされているのでしょう。やっぱり個人旅行に限ります(ていうか団体旅行の経験ほとんどない)。


丘の上からタリン市街を展望 写真中央の尖塔は聖オレヴィステ教会
この展望台でトームペアの見学はおしまい。ここから下界、じゃなくて旧市街本体を回ります。世界遺産の旧市街はいまでもほぼ外周全体を城壁が囲んでいます。南北に長い洋梨型で、それでも長径1kmもあるかどうか。修学旅行だったら「グループごとに自由行動ね。ただし城壁の内側だけ」と指示していれば、数分おきにどこかの班と出会いそうだし、まあ安心なサイズではあります(勝手に外に出る中学生がきっといるはずで、それはまた別件)。展望台のところから崖下に階段で降りられるようになっています。中世にあっては堅牢なものだったんでしょうね。降りきったところに旧市街の西側の入口があります。洋梨型のちょうど左脇あたりです。


(下左)展望台を降りてきたところ(赤丸) 黒い線が城壁、その内側(右側)が旧市街 (下右)ボリス・エリツィン顕彰碑 どこかユーモラス?
城壁の外側はグリーンベルト(トーム公園
Toompark)になっていて、おそらくは近代に入って意図的に旧市街と外側とを隔絶させたのでしょう。崖下にロシア大統領だったボリス・エリツィンを顕彰するパネルが設けられていました。英語、エストニア語、そしてロシア語の3言語で簡単な説明がなされています。「1990〜91年のエストニア独立に際して平和裏の国家再建に大きな役割を果たした」ことを称えているということね。パネルの設置自体は2013年ということなので、最近になってまたロシアとのあいだが緊張してきているため、「そもそもロシアの初代が国家承認してくれたからこそなんだよ」という、一種の当てつけをしているのかもしれない。外交とか国際関係ってすごいですね。レーニンが民族自決を掲げたことがバルト三国の最初の独立を正統化する一つの根拠になったし、エリツィンが、おそらくはソ連共産党保守派を一掃して自身に権力を集中させるために、バルト三国の主権を承認したわけなのに、そういう「ご都合」が終わるとソ連やロシアは大国主義化する(ように見える)。
ここからライ通り(Lai)を歩いて旧市街の北端に向かいます。と、そういう意思が明確にあったわけではなくて、前述のように城壁に囲まれた狭い町なのでどう適当に歩いても問題はなかろうと、地図も見ないで感覚まかせで進んだだけでした。具体的な目的の場所があるわけでもないですからね。ライ通りは静かな石畳風の道路ですが、両側の建物の高さがそろえられているため、空間が幾何学的に見えてなかなかスタイリッシュ。観光客めあての土産物店やホテル、飲食店などがぱらぱら見えます。ちなみに意味は「広い通り」。

ライ通り
今朝までのリーガと違って晴天ではなくどんよりしているのは残念です。この旧市街のカラーには青空が合いそうだものね。途中、路地方向に多少じぐざぐしながら旧市街の北端まで行きました。このあと旧市街の南半分に移動したわけだけれど、結果からいえば北半分の静かな感じのほうが個人的には好きですね。

ひきつづきライ通り
大聖堂の搭の上からも、展望台からもよく見えた聖オレヴィステ教会(Oleviste Kirik)に入ってみました。非常に高い塔をもっていますが、床面積は大きくないらしく内陣はやや窮屈な感じに見えます。もともと12世紀ころデンマーク人たちが建設したのがはじまりらしく、教会の名はノルウェー王オラフ2世(Olaf II 列聖され聖オラフと呼ばれる)に由来します。実はこの塔にも€2で登れるのですが、さすがに今日はもういいや(笑)。いまこれを書きながらグーグルマップで自分の足跡を確認しているのですが、教会の真横にFormer KGB headquarters(元KGB司令部)なる文字があってびっくり。どうも100mを超すこの尖塔もKGBの無線通信に利用されていたようです。カーゲーベーと聞いてもいまの若い人は知らないかな? ソ連の国家保安委員会のことで、アメリカでいうところのCIAに相当する組織(汗)。ウラジーミル・プーチン現ロシア大統領はこの組織の出身で、東ドイツを拠点に活動していた時期があります。
聖オレヴィステ教会の内部
教会の北側には「三人姉妹」(Kolm Ōde)なる建物たちがあります。リーガ旧市街の「三人兄弟」と同趣旨で、なぜジェンダーが違うのかは不明ですが、たぶん雰囲気かな? ファサードがほとんど同じ形状・サイズで、リーガのよりもこちらのほうが血縁感?があるような。建てられたのは意外に古くて15世紀だといいます。ロシアが本格的に進出してくる前で、ドイツ人商人たちが自治的に都市を運営し、ハンザ同盟にも加入していたころですかね。私たちが「小京都」といわれるような町を訪れると、そんな景観が身近にあるわけでもないのに自分たちのルーツを見るような気になるのと同じで、西欧の人たちはこうした中・東欧の古い町並――いってしまうと、近代化から取り残された町並――にそのような感慨を覚えるのかもしれません。ただ、なまじ世界遺産などになってしまうと、原則的には手を加えずに次世代に引き継がなければいけないという保全義務が政府や自治体に課せられるので、経済振興にとってはあまり利がないということを知っておいたほうがよい。
「三人姉妹」

旧市街北門の「ふとっちょマルガレータ」
姉妹のすぐ北が旧市街の北門であるスール・ランナ門(Suur Rannavärav)です。現状は馬蹄形の穴というところですが、ずいぶんと直径の大きな円筒形の搭がくっついています。町そのものが城砦なので、ここは中でも重要な軍事施設なのでしょう。ただ、あだ名が「ふとっちょマルガレータ」(Paks Margareeta)と、軍事的なシリアスさから離れるものになっています。英語ではFat Margaretで、マルガレータというのはここが監獄だったときの寮母ならぬ獄母さんのことらしい。「オレ罪人だけどさ、おばちゃんの優しさが身に染みるよ〜」みたいな感じで慕われていたのかもしれないですが、死後数百年を経てもデブ呼ばわりされるとは、当人どう思っているのかね? 現在、内部は海洋博物館になっているそうです。タリン旧市街を見るのは実質的にこの日だけなので、ミュージアムの展示まで付き合っていられないのは残念です。
今度はピク通り(Pikk)を南に向かって進みます。ライ通りの一筋東を並行する道で、方向としては北端まで行って引き返すような感じになります。ここも静かな道で、散歩するにはうってつけ。小物屋さんなんかもあるので、こういうのが好きな人は多いはずです。トームペアのような観光「スポット」ではないためか団体客はおらず、アジア人の姿も見かけません。

ピク通り
ゆっくり歩いても15分ほどで、旧市街の中心であるラエコヤ広場(Raekoja Plats)に出ました。15世紀に建てられた元の市庁舎(Raekoda)にちなんだ名で、英語ではTown Hall Square。ほぼ正方形の広場からは四方八方に道路が伸びていて、まさにここが中心であることを思わせます。いつの間にか17時半になっていて、いい時間のためか大勢の人が広場に出ています。地元の人もけっこういるようだけどやっぱりツーリストらしき人が多いですね。周囲には飲食店のテラス。路上パフォーマンスなどもおこなわれていてにぎやかです。リーガやタリン(レヴァル)がその一員であったハンザ同盟は、バルト海を主な動線として結びついた自治都市の経済的・社会的・軍事的な同盟でした。中世の自治都市は東南アジアにも、日本にもみられますが(堺や博多)、近世または初期近代に入ると各地でより大きな権力の中に呑み込まれていきます。ロンドンやパリだってある時期までは自治都市であり、王国の首都としての機能とは別に市政がありました(フランス革命の初期には、パリ市の民衆がヴェルサイユの王権を制限してコントロールしようとした面があります)。西欧ではそうした自治の経験が、やがて国民国家の原理に統合されていくことになるのですが、中・東欧では国民国家ならぬ帝国(ロシア、オーストリア、オスマン)が形成され、さらには社会主義国家という枠が構築されたので、自治の経験は忘却される運命にありました。第一次大戦後に主権国家となったこれらの地域で、世界恐慌に耐えられずファシズム化したところが多いのも、民主主義の運用経験に乏しかったせいでもあります。
私の欧州遠征もいつしかEU加盟国コンプリート・ツアーの性格を帯びているようですが(崩壊を危惧して焦っているとか思わないで!お願いだから)、積み残している中にポーランドとハンガリーがあります。この両国にはいま、権威体制の復活ととられても仕方ないような政権ができて、反立憲主義的な態度を露骨に示しています。移民・難民問題の混乱が彼らの姿勢をむしろ支えてしまっている面が否めません。私が関心をもっている市民性教育(citizenship education)の分野では、もともと西側の政治・軍事同盟だった欧州評議会(Council of Europe 欧州連合とは別組織)が熱心に取り組んでいるのですが、民主主義を運用した経験の乏しい旧社会主義国をロシアの影響下から引きはがして「西欧」化することが主眼だと私は踏んでいました。教育というのは歩みが遅く効果がなかなか現れない。そして人を憎んだり属性ごと恨んだりすれば(そのように仕向ければ)その効果は速攻で現れます。


ラエコヤ広場と旧市庁舎
ラエコヤ広場の周辺、旧市街の南半分は完全な商業地、しかも観光に特化したそれなので、北半分の静かなたたずまいとはかなり違います。大都会で生まれ育って、田舎がだめで都会が好きだとか、ショッピングセンターが大好物だとかいっている私も、観光的なものはあまり得意ではないんですよね。まあしかし、せっかく来たのだからちゃんと見ておこう。日曜なのにお店が開いているのも観光地区だからこそでしょう。ラエコヤ広場の東側、一段低いところにあるヴェネ通り(Vene)はまさしく観光向けの食堂街です。ひとわたり歩いて引き返しました。今度は広場の南側のエリアを一回り。例によって地図を見ないままテキトーに歩いているため、方向感覚がときどきわからなくなります。ちょうど城壁がここだけ切れて存在しない一角に、煙突掃除のおじさんが走っている謎の像が見えました。ガイドブックを見てもとくに説明がないので、あとでネットを見たら、彼の服のボタンに触れると幸運がうんぬんと。そういうことは先に教えてくれよな! 子どものころ♪チムチムニー、チムチムチェリー〜 という歌を聞いて意味がさっぱりわからなかったおぼえがあります。日本には煙突掃除という仕事自体がまずないですからね。

(左)ヴェネ通り (右)煙突掃除の像
あまり感心しないなと思いながら観光地区をぐるぐる回って、ラエコヤ広場に戻ってきました。18時半になろうというところですが、このあたりで明るいうちに食事してから帰ろうかな。観光食堂というのは好きではありませんが、この界隈だとあまり選択の余地はないことでしょう。広場に面したMaikrahvというレストランがテラスを張り出しているので、そこに入ってみよう。初めての町で飲食店に入るとき、どきどきするという人が多いかもしれませんが、呼び込みを兼ねる店員さんと目が合ったときに、歓迎している感じがあるかどうかをまずは確かめましょう。当たり外れ、美味いまずいはもちろん大事ですが、歓迎されない雰囲気で何か食べても美味しくはありません。一人旅ならなおそうですね。ま、ここは観光食堂なのでむしろ向こうから目を合わせてきます(案外そうでもないところが少なくないのも事実)。テラスのテントには電熱線ストーブが懸かっていて、「こちらのほうが暖かいですよ」とその真下を勧められましたが、いくら北欧寄りの東欧といってもいまは8月下旬、まだ日の高い夕方ですからその必要はまったくありません。きっと本当に夏が短いのでしょう。
同じ齢くらいの店員さんが「お国はどちら」と訊ねてきます。ジャパンだというと、日本語で書かれた写真つきのメニューを渡しました。正確には、英語・日本語・中文繁体字・中文簡体字の4言語版です。こういうところがツーリスティックなんだってば(苦笑)。いまお店のサイトを見ても日本語版がありますもんね。本当は意味不明の現地語に触れたいんだけどなとか贅沢な不満を飲み込みながらメニューを見ると、一通りの料理ができるみたいです。中で、エストニアの国旗が添えられた(つまりエストニア名物の)料理に注目。英語ではTraditional Estonian Pork with herb potatoes, mustard sauce and
stewed sauerkraut with groatsとあります。こういう叙述調の料理名って初心者には親切。何ちゃらソースとか○○風(○○は地名)といわれてもわからんからね。日本語は、トラディショナルエストニアンローストポーク、ハーブポテト、蒸しザワークラウト(キャベツの漬物)とマスタードソース、とあります。メインの部分が直訳以前にカタカナ書きしただけ(笑)。せっかくのご厚意で日本語メニューをくれたのに何ですが、この際お店のサイトでエストニア語の料理名を調べるとTraditsiooniline Eesti seapraad ürdikartuli, sinepikastme ja
kapsagaとのことでした。英語よりもかなりすっきりしますね。€19.95と、昨夜の豚足の倍くらいしますが、観光価格というところでしょう。店員さんは「エストニアの豚肉は美味しいですよ」とか言い添えていました。


エストニアン・ポークの夕食 ここでも美味しい黒パンが添えられます
生ビールは50cLで€7.45とこれまた観光価格。ドイツの影響なのかバルト地域ではビールがポピュラーらしく、このA.Le Coqという銘柄もエストニアのものらしい。名前はフランス語(雄鶏)ですけどね。ごく普通のラガーだと思いますが、散歩のあとだけにごきゅんと飲めます。ややあって運ばれたエストニアン・ポークは、マスタードソースに浮かぶフライドポテトのそのまた上に載せられて供されました。普通に美味しいですが、たぶん写真を見て読者のみなさんが想像するとおりの味だと思います。思ったよりやわらかくて、ソースを絡めるとしっとりとしました。ポテトとザワークラウトとビールなんて、まさにドイツ式の組み合わせじゃんね。私、ウォッカというのは飲めなくもないのだけどあまりなじみがありません。ロシアはウォッカだと思うので、真横のエストニアあたりではどうなんだろうと思っていたけれど、レストランのメニューではビールやワインのほうが先に来ています。食事なのだから当たり前か。あるいは、ここはロシアとは文化が違う(といいたい)のか。前述のエリツィン大統領はアル中じゃないかと思うほどウォッカ好きで知られ、赤ら顔をさらすこともしばしばありました。解説者時代の土橋正幸さん(東映フライヤーズの元エース)がそっくりだったね。ポークの量はけっこうあるので、肉だけで腹いっぱいになってきます。が、ライ麦のパンがせっかく出ているのでこれも食べないと。食後のコーヒーは省略して、〆て€27.40。

ハルユ通り 写真右側は空襲の被害を伝えるため空き地のまま保全されている
ラエコヤ広場をもう一度ひと回りして町の風景を楽しんだあと、南にまっすぐ伸びるハルユ通り(Harju)を歩きます。片側に建物がない更地の箇所があり、3言語で書かれた解説板を読むと、1944年3月9日のタリン大空襲を記憶するための場所だということです。少なくとも市民554人が死亡し、20000人以上が一夜にして家を失ったとありました。このときここを爆撃したのはソ連軍です。おさらいしますと、1940年にバルト三国がソ連に接収されたあと、ドイツの東部戦線が拡大してこのあたりに及び、解放軍かと思ったら新たな占領軍だったという話でした。そのドイツを攻撃するため、公式見解として「自分の国の一部」であるはずのタリンを空爆するってすごいですね。土地はともかく住民のことは仲間だと思っていなかったのかもしれません。建物がないこともあって、この付近からはやけにロシア風のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂がよく見えます。そう、旧市街を数時間のうちにぐるりと一周してきました。ほんの少し進むとそこは自由広場。19時を過ぎたばかりでまだ明るいですが、早めに部屋に戻って、あとは動画見ながらワインという珠玉のひとときを。
PART6につづく
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