Voyage aux pays baltes et plus: Lettonie, Estonie et Finlande

PART4

 


PART3にもどる

 

早めの観察というのでバスが発着するレーンに行ってみると、そこそこの広さの回転場があって、簡素な屋根のついたプラットフォームがあります。ターミナルというほどの規模ではなく、ベンチのついたバスプールくらいのものでしょう。日差しが強いためかそこで出発を待つ人はあまり多くありません。乗り場も確認したし、私もいったん建物内に戻って待つことにしました。ホールの出発時刻表を見ると、ずいぶんいろいろな都市に路線を伸ばしていることがわかります。ラトヴィア語のABC順にいうと、ベルリン(ドイツ)、ベルン(スイス)、ボン(ドイツ)、チェルニウツィー(ウクライナ)、ドニプロ(旧名ドニプロペトロフシク ウクライナ)、ドルスキニンカイ(リトアニア)、ホメリ(ベラルーシ)、フロドナ(ベラルーシ)、カウナス(リトアニア)、キエフ(ウクライナ)、クライペダ(ドイツ語でメーメル リトアニア)、ケルン(ドイツ)、リヴィウ(ウクライナ)、モスクワ(ロシア)、ミンスク(ベラルーシ)、ナルヴァ(エストニア)、ノヴゴロド(ロシア)、オデッサ(ウクライナ)、パリ(フランス)、プスコフ(ロシア)、プラハ(チェコ)、ロッテルダム(オランダ)、サンクトペテルブルク(ロシア)、スモレンスク(ロシア)、ソフィア(ブルガリア)、シュトゥットガルト(ドイツ)、タリン(エストニア)、タルトゥ(エストニア)、トルスカヴェト(ウクライナ)、ウルム(ドイツ)、ワルシャワ(ポーランド)、ヴィリニュス(リトアニア)、ヴィーツェプスク(ベラルーシ)。さすがバルト三国の仲間どうし、タリンやヴィリニュスに向かう便は1時間に1本程度あって往来が盛んなのがわかります。ロシアのサンクトペテルブルク行きは毎日8便運行しているようだけど、うち6本は夜行便。タリンやタルトゥなどを経由して、早朝に着くらしい。タリンまで4時間半ということは直線を走ってその倍くらいはありそうなので、なるほど夜行になるわけね。それにしてはパリ(ラトヴィア語でParīze)行きが週2便あって、940分発、20時着という昼行便なのはびっくりです。ドイツやフランスではハイウェイ(アウトバーン)があるのでびゅんびゅん飛ばせるでしょうけど、バスで行くかなあ。LCC全盛の時代に対抗できるとすればすごいことではあります。

上に並べた地名のうち、いくつかは現地で見てピンと来ないものでした。ラトヴィア語に変換しているせいもあるけれど、私がそもそも東欧の地名に詳しくないこともあり、聞いても知らんところすらありました。航空や高速鉄道との違いをいえば、バスは地味な都市どうしでもそこそこの流動と需要があれば運行できるよさがあり、平原に都市が拡散している東欧の往来には向いているのかも。


  
リーガ・バスターミナル タリン、ヴィリニュスへの便が多いのは納得だがパリやシュトゥットガルトは果てしなく遠いぞ・・・


9
40分ころグレー塗色の大型バスが入ってきました。運行しているのはリュクス・エクスプレスLux Exress)で、エストニアを拠点にバルト三国とポーランド、ロシアに路線網を広げる会社のようです。2人乗車で、先発の運転士さんがチケットを改め、もう1人がトランクを開いて荷物を預かっています。私もキャリーバッグを預けると、5桁の数字を記した簡易なバッゲージ・タグをEチケットに貼ってくれました。運転士がこちらの顔を見て「タリン?」と確認。ネット予約の段階で座席も指定されています(自分で好きな場所を希望できました)。2列×2ですが隣席の客はなく、11つの座席もかなりゆとりがあります。乗客がおおかた乗り込んできたものの、定員の3分の1もいない感じです。若いカップルが乗ろうとしたら、チケットを事前に購入しないとだめだ、あっち(建物)の売り場ですぐに買ってきなさいと英語で指示されています。今日の乗り具合だと、その場で思い立っても隣国の首都にはすぐ行けちゃいますね。たった€14で。


リーガ→タリンのEチケット 右上の数字シールはバッゲージ・タグ(荷物預かり証)

 
タリン行きの大型バス


10
時ちょうどにプラットフォームを離れ、回転場を抜けて一般道に出ました。ラトヴィア語、エストニア語、英語、ロシア語による自動放送があります。実は欧州で長距離バスに乗るのは初めて。路線バスか、せいぜい空港アクセスバスくらいしか利用しません。どうしても鉄道優先なのでね。一部の空港バスはいい車両を使用しますが、それでもここまでしっかりした内装のバスは未経験です。20代のころは関西に行くのにも安くて1泊ぶんが浮く夜行バスを愛用していたのだけど(JRの「ドリーム」全盛期で他社がようやく追随しはじめたころ。のちの格安会員制バスではない)、30歳を過ぎてからおそらく1度も利用していません。高速バスもここのところないな〜。快適さという面ではなまじの列車よりよいことはわかっています。このバスはシートが身体を包み込むようにふかふかしていて気持ちいいですね。

リーガの町は大して広くないため、たちまち郊外に出て、さらには森林の中に突入しました。シートテレビでは飛行機と似たマップを見ることができるのですが、森林の中のまっすぐな一本道なのと、固有名詞をまったく知らないのとで、地図好きの私でも間が持ちません(笑)。両首都を結ぶ幹線道路ながら片側1車線の対面通行で、それほどスピードも出ていないと思う。何だか北海道の原野を走っているような気分になってきました。

 
国境を越えてエストニア領内へ(マップの青い曲線が国境) 係官が乗り込んできてパスポートをチェック


正午を回ったころバスは草っぱらの何もないところに停車しました。近づいてきた女性と運転士が何やら会話し、やがてその女性が乗り込んできて、パスポート・コントロールをする旨を告げました。ポリスの表示があるので国境警備隊の係官のようです。このチェックがあるのは乗車時に案内されていました。いま担当しているのはエストニア側の係官で、リーガ行きだとラトヴィア当局が担当するのでしょう。彼女ともう1人で乗客のパスポートを見ていきますが、さほどの数でないのですぐに終了します。バルト三国はシェンゲン圏なのだけれど、簡素な国境チェックはやっているわけね。これがシェンゲン圏外のロシアやベラルーシに向かう便だと、検印を伴う本式の国境検査があるのかもしれません。地続きなので入国しようと思えばどこからでもできそうですし、パスポートをちらっと目視したくらいでやばそうなやつを防ぐということにはならないので、「やっていますよ」というポーズの面が強いのでしょう。通路をはさんだ反対側の中年夫婦は係官とロシア語で会話していたようです。

そもそも四半世紀前まではリアルに「国内」だったんですよね。そこに国境線があらためて敷かれ、今度は別の国々とのあいだに「国境はあるし国も違うけど、国内みたいに自由に往来できます」という協定を結ぶことになりました。人間、どこかに線を引かなければ生きていけないのは確かのようです。要は、線の内側が均質であるとか、向こう側が異質であるという決めつけをしなければいいだけのこと。それが何よりしんどいのも、また事実です。

 
(左)車内でランチタイム  (右)パルヌでは休憩タイム


バスの真ん中あたり、私の座席の右後方にスペースがあり、狭いステップを降りたところにトイレが設けられています。そのステップの横にはホットドリンクのサービスがあり、インスタントコーヒーや紅茶は飲み放題。国境検査で停車しているあいだにコーヒーをもらってきて、リーガのコンビニで買ってきたサンドイッチで昼ごはんにしました。蒸し鶏をサワークリームではさんだサンドイッチは欧州ではポピュラーなもので、これもなかなか美味しい。国境の手前から森林もしくは草っぱらの一本道を走ってきたバスは、12時半ころ本線筋を折れてどこかの町の郊外みたいなエリアに入りました。ほどなくバスプールに停車。パルヌ(Parnu)だそうです。運転士が客席に振り返ってファイブ・ミニッツ・ストップと告げました。長距離バスにつきものの休憩タイムですが5分とは短いね。スモーカーさんたちはささっと喫煙所に向かいますが、当方とくに何もすることはなく、でも車内にいるのも何なので、地上に降りて背伸びしておきました。プールには56台のバスが停車中で、一時休憩だけでなくここを発着する便も含まれているのだと思われます。

乗客が車内に戻ったのを確認してから出発。再び本線筋に戻り、ほとんど何もないところの一本道を走ります。1405分ころVana- Pääskülaという停留所に停車しますが下車はなくすぐに発車しました。いま地図を見るとタリンの南西十数キロほどの町のようです。この停留所に到着する少し前に“Welcome to Tallinn”という看板が見えました。ほどなく明らかに首都郊外の景観に変わり、交通量も見るからに増えてきました。定刻1435分着のところ20分ころにタリン・バスターミナルに到着しました。バスでの国境越えもなかなかいいものですね。このターミナルは、リーガよりも本格的で、待合室ともども機能的に見えます。エストニアはラトヴィア以上に鉄道依存率が低い国だそうなので、バス路線というのが基幹的な交通インフラなのでしょう。4時間以上かかっているけれど、思ったほど退屈せず、ゆったりと移動できました。繰り返しますがこれで€14なら申し分ないです。


 
タリン・バスターミナルに到着


階下に預けていたキャリーバッグを請け出して、待合室を抜け、ターミナル外側を通る幹線道路まで歩きます。そういえばバスターミナルって、リーガやタリンのようにフラットな場所に設けるかぎりでは完全にバリアフリーですよね。キャリーバッグを引いているとありがたく思えます。地図とかガイドブックをテキトーにしか見ない私ですが、その都市に到着した直後の空港または鉄道駅からホテルまでの道筋は事前にしっかり調べておきます。今回だとバスターミナルからの道ということになります。「地球の歩き方」によればターミナルの玄関先を走るトラムが市街地に直行するらしいので、何よりじゃないですか。同じように長距離バスを降りて荷物を転がしている人たちと一緒に、ほどなくやってきた連接車に乗り込みます。もともとかなりの乗り具合なのに大荷物の人がかなり加わったので混雑がひどくなりました。ICカードをもっていれば車内のあちこちにある読み取り機にタッチするだけでよいのだけど、私は無札なので運転台のところまで行って現金€1.60を支払わなければなりません。でもこの車両は前ドアが運転台と離れており、低床車のため台車上の部分だけ高くなっていて、運転士のところに行くのが大変です。居合わせた欧米人の旅行者も同じ状況だったので、「かわりばんこに払いに行きましょう。荷物は見ておきます」と提案して、グッジョブな感じになりました。ここも慣れ親しんだユーロの国なので、その点は安心です。

 
タリン市街地に向かうトラム


エストニア共和国Eesti Vabariik)はバルト三国のいちばん北にあたる国で、ラトヴィアのところで述べたように1991年に「歌う革命」を経て独立しました。何しろロシアの「真横」にあるので、西欧化への指向性はどこよりも強く、また国家経営に失敗してソ連邦に吸収された悪夢の経験から学んで、自由や民主主義ということにこだわることで知られます。近年ではIT化の先進国としてその名を高めていて、かのスカイプ(Skype)も本来はエストニア・タリン発祥の企業でした。「ちゃんと国家を経営する」「経済を振興する」ことが最大の防衛力という考え方のようです。国の人口は130万人ほど、首都タリンTallinn)は40万人ほどです。2004年に欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)に加盟、2011年にはユーロ圏になりました。2004年のいわゆる東方拡大のときは、「え、EUはそこまで拡張しちゃうの!?」とびっくりしました。冒頭で述べたように、私の脳内の地図は冷戦時代のものを引きずっていて、ソ連から独立したことはわかっていてもそこが西欧と社会的に地続きになり、あまつさえ西側の軍事同盟であるNATOの一員になってしまうんだ、というのが驚きだったのです。ちなみにロシアのサンクトペテルブルクまでは約350km。新幹線が走れば1時間半で到達してしまう距離ですから、欧州の安全保障の観点からすれば、小国だがきわめて有用な位置だということになります。

4系統の電車に揺られること10分ちょっとでホテル真ん前の電停に到着。ガイドブックの地図には電停名が入っていないので、事前にグーグルマップで調べて書き込んでおきました。Vabaduse väljakという停留所だそうです。エストニア語はフィンランド語と同じ系列の言語で、ロシア語(印欧語族スラヴ語派東スラヴ語族)ともラトヴィア語(印欧語族バルト語派)ともまったく別の、ウラル語族フィン・ウラル語派に属します。私が教わったころはウラル・アルタイ語族とくくられて、何だったらモンゴル語や日本語とも親戚ですという説明でしたが、近年は別ものとして整理されるようになりました。まあ欧州全体からすればイレギュラーな非印欧語族であることは確かです。ラトヴィア語ですら綴りをどう読んだものかわからんのに、エストニア語はもう完全にお手上げ(汗)。Vabaduse väljakをグーグル翻訳にかけるとFreedom Squareと出ました。なるほど、交差点に面した広場の固有名詞ね。

 
 
ホテル・パレス かなりくたびれた建物だが内装は洗練されていて、窓からは自由広場とトームペアが見える


その自由広場の向かい側に、予約したホテル・パレスHotel Palace)が見えました。こちらは1泊朝食つき€89.10とちょっと高めのところをとっています。レセプションはさほど広くないですが清潔かつ機能的で、若いホテルマンたちもきびきび働いています。もとより英語でのやりとりはまったく問題なく、すぐに部屋に通りました。リーガのホテルが立派すぎたので比べては気の毒ですが、よく整っていて調度品のセンスもいいと思います。まあ日本のホテルもそうだけど、外国人に泊まってもらわなければ話にならないので、あまり個性的な内装だと困るというのはあり、このごろはどことも無国籍的になってしまった感はありますね。

タリンもまた旧市街(Vanalinn)がまるごと世界文化遺産に登録されています。地図を見るかぎりではリーガ旧市街よりさらに一回り小さなサイズです。少しだけ休憩して1540分ころ町歩きに出たのですが、町の小ささと日の長さを考えても、この日の残りだけでかなりの部分は見られるかなと。おおまかな旅程を立てる際に、バスで4時間半の移動をあえてこの日に設定したのは、欧州の日曜は店舗などがクローズになるところが多く、楽しみが減る可能性があるので、そこに移動をはめたのです(結果的には、タリンでそのような傾向はあまり強くなかった)。ホテル・パレスは旧市街の南縁にあります。電停の名にもなっていた自由広場の先に城壁があって、その向こうが本当の旧市街。そして旧市街全体の西側に小高い丘がありトームペアToompea)と呼ばれています。町全体を睥睨(へいげい)する場所ですので、古くからこの地の統治者が拠点としました。まずはそちらに登ってみることにしよう。

 
自由広場にあるモニュメント 「独立戦争」での勝利を記念している


自由広場には聖ヨハネ教会(Jaani Kirik)というわりに小さな教会があり、反対側にはコンクリート製のシンプルな記念柱が見えました。近づいてみるとエストニア語のほか英語、ロシア語、フィンランド語の由緒書きがあり独立戦争の勝利を記念する碑だということです。ここでいう独立戦争とは191820年のことで、第一次大戦後にドイツ軍、ロシアの白軍、そして赤軍(ボリシェヴィキ)を撃退して最初の独立を達成したときのもの。土台を含めてずいぶん新しいものに見えるので、冷戦終結後の真の独立後に造られたものかもしれません。

記念碑のすぐ裏側に、ちょっとしたハイキングコースのような丘への登り口があります。ホテルの窓から確認したように、トームペアはけっこう標高があるので登りは急坂になりますね。すぐ日本大使館がありあります。20人ほどの若い欧米人のツアーに、現地の女性ガイドが流暢な英語で何やら力説しています。1991年の「独立」にまつわる話で、ソ連の「不当」な支配へのルサンチマンがほとばしるようなガイド、というか演説に聞こえました。あらためて思うに、198991年に起こった一連の世界史的事件って、大学生だった(1988年入学)私はもともと世界への関心とか政治的志向があったので本当に注目していたし、周囲の友人ともしょっちゅうその議論をしていたのだけれど、日本の若者全体としてはどうだったのかなあ。教壇に立つようになって、学生・生徒の世界(というか「社会」)への関心が少なすぎるのを憂えたりもするのですが、自分たちのころもそうだったかもしれない。あれほど大きな変動が起こっていても、国内は空前のバブルに沸いていたし、大学生は誰より消費熱に駆られていたかもしれません。世界各地の悪戦苦闘の歴史を伝えたところで、「外国はいろいろ大変だということがわかりました。日本に生まれてよかったです」という感想で済ませる学生・生徒はかなりあります。教え方の問題だというのなら反省しなければなりません。でも、「日本」がそうした変動の局外にあると無邪気に信じて、無関心でいつづけるから、ダメになった(なっていく)んじゃないのかな?

 ネイツィトルン


坂を登りきる手前にキーク・イン・デ・キョクKiek in de Kök)とネイツィトルンNeitsitorn)という搭があります。前者は円筒形、後者は四角柱プラスとんがり屋根の石積みの搭で、権力者が拠った丘を防衛するための見張り台兼防御設備のようです。ラトヴィア北部からエストニアにかけての地域は、中世にはリヴォニア(Livonia)と呼ばれていました。ラトヴィアのところで述べたように、ローマ教皇インノケンティウス3世の後押しを受けたドイツ人勢力がこの地に入ってキリスト教化を進めますが、最北部の現エストニア地方の攻略は容易でなかったようです。ここまで来ると背後にはロシア系の諸勢力がありますし、ドイツ方面から来れば「地の果て」に近い感じもあったかもしれません。リヴォニアの帯剣騎士団はエストニア攻略のためデンマークの支援を求めたので、14世紀前半までデンマーク王がこの地の宗主権を保持しました。トームペアに最初に拠点を置いたのはデンマーク勢力でした。13世紀になってロシア系の勢力が後退しドイツ人の騎士団が勢力を伸ばしたのは、チンギス・ハーンとその後継者たちが率いるモンゴル帝国がロシアの大半を影響下に置いたためでもあります。すごいなモンゴル。16世紀に入ると、宗教改革で騎士団が世俗化したのと、モンゴルの支配を抜けたモスクワ大公国が急拡大したタイミングが重なって、エストニアにロシア人の手がいよいよ及ぶようになりました。16世紀のロシアといえば「雷帝」として有名なイヴァン4Иван IV “Грозный)です。この地がもともと誰のものだったかというような話は擱いて、客観情勢だけ見ると、エストニアの在地勢力が国家を形成しようとする前にドイツ人、デンマーク人、ロシア人がここを奪い合ったため、国家意識はずいぶん後まで育たなかったのだということ。16世紀後半には、衰弱したデンマークに代わってスウェーデンが勢力を伸ばし、やがてリヴォニアや現ラトヴィアを支配下に置きました。トームペアを拠点とする要衝タリンの統治者は、この時点でスウェーデンに代わっています。ただし在地領主の多くはドイツ人が占めました。この点はラトヴィアと途中まで共通しています。

一時は「バルト帝国」と呼べるほどの勢威を張ったスウェーデンは、18世紀初頭の北方戦争でロシアに敗れて急速に後退します。現在のエストニアの運命を決定づけたのは、北方戦争でたびたび危機に陥りながらも戦い抜いて勝利を導いたロシアのピョートル1Пётр I)でした。1721年のニススタット条約で現在のエストニアとラトヴィアをスウェーデンから割譲させ、ロシア帝国の支配領域に組み込みました。首都タリン(長くドイツ名のレヴァルRevalで呼ばれていた。ロシア語ではレーヴェリРевель)は戦争中の1710年にすでに占領されており、ピョートルはここを足場にバルト海への進出を本格化させ、勝利につなげたわけです。不凍港を執念で探すロシア近代の歩みが、すでにはじまっていました。


 
(上)トームペア城  (下)アレクサンドル・ネフスキー教会


坂を登りきったところに、さほど広くない道路をはさんでトームペア城Toompea Loss)とアレクサンドル・ネフスキー大聖堂Aleksander Nevski Katedraal)があります。前者はお城というより普通の建物で、現在はエストニア議会が入っています。壁がピンク色に塗られていて、ずいぶんカワイイ国会ですね。これに対して大聖堂のほうは、城を含め周囲の地味な雰囲気から隔絶した、コテコテのロシア様式で、ホイップ載せまくりのケーキみたいでもある。八端十字架(Eight-pointed Cross)があることからもわかるようにこれは正教会の寺院です。ロシアが1901年に完成させたものだそうで、この場所にこの建物を造るという行為自体に意味があったのでしょう。最後の皇帝ニコライ2世はそれからほどなく、日露戦争での敗北をきっかけに失速し、悲劇への道をたどっています。エストニア議会の真正面に正教会の建物があるということへの反発は多いと聞きます。内部もわりにコテコテしていて私の好みではありませんが、それよりも観光客がやたらに多いのにはびっくり。リーガではついに見かけなかった日本人も複数いました。おそらく、フィンランドのヘルシンキとフェリーで結ばれていて、何だったら日帰りも可能なため、ツーリストの呼び入れではタリンのほうが優勢なのでしょう。ひとりの日本人旅行者は「地球の歩き方」の北欧編を手にしていました。私も今回の旅行に持参していたのでホテルにて確認したら、「タリン旧市街へショートトリップ」という見開き2ページが挿入されていました。なるほどねえ。距離感としては、岡山の人が「フェリーに乗って高松にうどん食べにいこう」というくらいです(違うか)。

欧州各地でおなじみの、でもリーガでは目にしなかった中国人団体客もいるな。その横をすり抜けて住宅街の地味な道路を進むと、タリン大聖堂Toomkirik)の前に出ました。本来の名は聖母マリア大聖堂(Tallinna Neitsi Maarja Piiskoplik Toomkirik)だそうで、13世紀にデンマーク人が建てました。現在の建物は18世紀のものです。その間にルター派に改宗しているので、聖母マリアという名は少し居心地がよくありません。さきほどの正教会の聖堂と比べて、あまりにも地味で簡素。中に入っても、建築年代やプロテスタントであることもあってか、明るいけれど物々しくはなく、シンプルな美を感じました。


 
石畳の小径を歩いていくと・・・ タリン大聖堂

カテドラル=大聖堂というのは司教座の置かれた教会のことなので建物の規模は小さくてもかまわないのですが、「大」のイメージには少し遠い気がします。エストニア、そしてタリンの規模自体が反映されているといってよいかもしれませんね。この教会の尖塔(torn)は€5で登れるそうなので、チケットを買って、登ってみました。断面積の小さな搭にらせん階段が切ってあるため、ステップ一面が急なのに狭く、よそ見していては滑落してしまいそうです。誰も追いかけてこず、誰ともすれ違わないのでかなり孤独な作業(笑)。2年前にスイスのフリブールで、やはり教会の塔にこうしてぐるぐる登ったことがあります。ツーリストも多いタリンの、最古の教会なのにこんな過疎っていていいのかな?

 
 


たどり着いたのは屋根裏部屋みたいな空間で、大きな鐘もそこに置かれています。非常に残念なことに、採光は3面で旧市街側には窓がなく、世界遺産の町並本体を見下ろすことができません。それでもタリン港や明るい甍の波を眺めることができます。同じように教会の搭から町を眺めたリーガと比べると、やはりタリンは一回り小さい。そしてどことなく素朴さが感じられます。

「バルト三国」と一括して語りがちですけれど、いま森林や草地ばかりのエリアをバスで走り抜けてきて、表示されている綴り(言語)のまったく違うところにやってきてみると、ラトヴィアとエストニアは明らかに異質な空間です。首都だけ見ているので、本当はさらに多様なのかもしれません。今回リトアニアは訪れていませんが、きっと同様なのでしょう。前に述べたように、エストニアとラトヴィアは歴史の多くを共有しているが言語がまったく別。ラトヴィアとリトアニアは言語こそ近いものの歴史が違います。19世紀まで独自の国家を形成しなかったエストニアとラトヴィアに対して、リトアニアはポーランドと連合して、現在のウクライナやベラルーシにまで及ぶ大帝国を築いた時期もあります。エストニアとラトヴィアの主たる宗教はルター派で、リトアニアではカトリック。エストニアとラトヴィアの支配階層の言語はドイツ語だったのに対し、リトアニアではポーランド語でした。その後、さらなる大国の支配のもとでそれぞれにナショナル・アイデンティティを形成します。前述のように、ロシア→ソ連の多年にわたる支配の中で「ロシアではない何か」としてのアイデンティティの凝集性が高まり、言語や芸術の面でその意識が強まりました。それとは別に、ある種の被害者同盟としての「バルト三国」という連帯意識も生まれました。第一次大戦後の独立の過程でそれが強調されます。英国など西欧諸国に対して、一致して支援を求めるための手段でもありました。ソ連末期も同様です。ゴルバチョフのペレストロイカが火をつけたバルト三国の民族運動は、独ソ不可侵条約に際して三国のソ連への接収が密約されてから50年の1989823日、ここタリンからリーガを経てリトアニアの首都ヴィリニュスまで600kmに及ぶ「人間の鎖」として世界に発信されました。バルトの道the Baltic Way / Balti kett / Baltijas ceļš / Baltijos kelias)と呼ばれる静かな抵抗は、たしかに極東の島国に住む私にもかなりのインパクトを伴って届いていました。――前後関係を取り違えて、冷戦が終わってからバルト三国が動き出したと思い込んでいる人がいるとすればそれは誤り。一連の東欧民主化が劇的に進行するその前から、三国(のマジョリティ)は一致して動きはじめていたのです。ただ、現在の私たちもたぶんそうであるように、主権国家であれば注目するが「主権国家の一部」だとそれは反乱だの分離主義だのわがままだのと捉えてしまう弊はあったかもしれません。


こういう話をロシアの側で考えると、どのように捉えられるのだろう。どうせといっては何ですが当事者ではないのだから、争点や歴史そのものを複数の視点で捉えるようにするほうが、おもしろいし意味のあることです。私が「バルト三国」の悲劇と独立の正しさを力説しているように読めるのでしたら、筆力の不足です。この際ロシアにも行ってみたい。ソ連末期からその上空は何十回も飛んでいるのだけれど一度も着地したことがなく、そろそろという気もしています。EUの「最果て」まで来ると、とくにその感が強まるね。

 

PART5につづく

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。