地図を見ると、いま歩いてきた旧市街の外側にあたるリーガ新市街は、おおむね北西方向に流れるダウガヴァ川を基準とした条里的なタテヨコの構造をもっているようです。20世紀に入ってから整備された都市にはこのパターンが多いですね。一日乗車券もあるので、トラムなどの公共交通機関も利用しながらそちらもぐるっと一回りしましょう。
どうやらSteak Houseの音訳らしい ラトヴィアではこの種の表現が多くみられます
自由記念碑
バステイカイニャ公園
ホテル・ローマのすぐ前に自由記念碑があるのは、けさ確認したとおりです。朝早かったのでジョギングする人がぱらぱらある程度だったのが、午後に入っているためかなりの人がいます。ピルセータス運河の前後はバステイカイニャ公園(Bastejkaina
parks)として整備されています。運河に沿って帯状になっているため散策のしがいがありそうですね。とはいえこちらは歩きっぱなしなので、そろそろ乗り物を使いたいです。公園の外側に沿ってライニャ通り(Raina bulvāris)が通っていて、ドイツ大使館やフランス大使館が見えます。このあたりがビジネスの中心街で、ソ連時代にはもろもろの統治の拠点でもあったらしい。旧市街の輪郭そのものを往くのはトラムで、もう一筋外のライニャ通りにはトロリーバスが走ります。まずはこれに乗ろうかな。
ライニャ通りを走るトロリーバス 右はフランス大使館
けっこうな頻度でやってくるトロリーバスをつかまえ、リーガ中央駅(Centrālā Stacija)まで行ってみました。トロリーバスというのは、バスなのだけどディーゼルエンジンで走るのではなく、路面電車と同じように架線から電気を受け取って走るもの。日本の制度では無軌条電車と称してバスではなく鉄道の仲間で、かつては東京や横浜にも路線網をもっていましたが、現在は黒部ダム付近の地下バスだけが該当します(環境に負荷をかけないため排気ガスを出さないトロリーバスが選択されている)。欧州では何度か利用したことがあり、スイスの首都ベルンのやつは快適な乗り心地でした。半年前に訪れたフランスのナンシーでは、車体の両端につけられたゴムタイヤとは別に、中央に車輪があって1本だけの鉄製レールに乗って走る変形トラムを見つけてエキサイト?しました。郊外部ではレールを外れて完全なトロリーバスとして走行する2 ways仕様で大いに感心したものの、故障が多くて他の都市で採用されなかった由。旧社会主義圏ではトロリーバスが盛んだと聞いたことがあり、これからそういう国を多くめぐるはずなので楽しみです。これまで見た欧州のトロリーバスは2両併結が多かったのですが、リーガのは単行で、われわれが知る普通のバスにポール(集電のためのツノ)が生えている感じ。車内に入るとバスそのものです。中央駅までは停留所にして2、3くらいなのであっという間に着いてしまいました。
生来の鉄ちゃんとしては残念なことに、今回はラトヴィア国鉄(Latvijas dzelzceļš)を利用する機会なし。ロシアと同じ1,524mm幅の広軌を採用している、というか、もともとロシア帝国〜ソヴィエト連邦が敷設して管理してきた鉄道です(日本の新幹線は1,435mmの標準軌、在来線は1,067mmの狭軌)。駅構内だけでも見ておきましょう。モダンな造りですが、コンコースは首都のターミナルとしてはさほどの大きさではなく、東京なら郊外の拠点駅くらいのものです。
リーガ中央駅構内
構内を歩いてみると、Double Coffeeというチェーン店らしきカフェがありました。茶を一服するかと思って席に着くと、おや、アルコールもありますね。ボーイさんに手渡されたメニューとは別に、各テーブルに置かれているポップみたいな商品案内にあった生ビールを発注。Piebalgasという銘柄で、あとで調べるとラトヴィアのトップ・ブランドのようです。んん、ドイツ・バイエルンのヴァイツェンに少し寄った味わいかな。しっかりとした麦の風味が口内に残っていい感じです。首都のターミナル構内で生ビール飲んで€1.90とは夢のような世界じゃん!
少しのんびりして15時半くらいに駅を後にしました。駅前の停留所からまたトロリーバスに乗って、クリスヤーナ・バロアナ通り(Krisjāņa Barona iela)でトラム11系統をつかまえました。とくに当てがあるわけではないけれど、車窓を見て、市街地が切れない範囲でテキトーに降りてみることにします。3両連接の低床車両で、このところ欧州各都市で普通に見られるタイプですね。トロリーバスもそうですが、車内に入ったらeタロンス(ICカード)をタッチして情報を読み取らせます。トロリーバスと違って、鉄のレールに鉄の車輪が乗っかって走る感覚がお尻の下から伝わってくるので、乗り鉄としては萌えないはずがありません。思いのほか加速がいいので、すいーっという感じで車窓が横に流れるのがいいねええ。
リーガのトラム 電停は路肩にある道路標識みたいな看板で見つける!
11系統の走るバロアナ通りは複線の線路の外側にかろうじて1車線あるかどうかという広くない道ですが、小型の店舗などが建ち並んでなかなかにぎやかです。新市街とはいってもけっこう生活感がありますね。電車は途中で直角に左折しました。自由記念碑のところからまっすぐ伸びているブリーヴィーバス通り(Brīvības
iela)と交差する地点で下車すると、その名もブリーヴィーバス通りという電停でした。とくに何があるというわけでもなく、トラムとトロリーバスが行き交う様子が楽しいばかりです。トロリーバスで引き返そうかなと思ったら、トロリーならぬ普通のバス(ただし2両連接)がやってきました。首都の中心部だけあってかなりの頻度で公共交通機関が動いており、うれしい。しかも満員に近い状態です。リーガに地下鉄はなく、トラム、トロリーバス、バスの路線網が市内交通を担っているのです。バスもなかなか快適で、直線道路をすいすいと走って、たちまち自由記念碑の前にやってきました。ここで下車。新市街といっているけれど、中心業務地区(CBD)の感じはあまりありません。旧市街にそれなりのセンター機能があり、国も都市もさほどの規模ではないので、それで足りるのでしょう。
架線の下を走る普通の(ディーゼル)バスにも乗ってみよう!
タクシーの運転手がいっていたダイヴァーシティ(多様性)の問題については、昨日来あまり感じることができません。私の耳にはラトヴィア語とロシア語の違いはよくわかりませんし、乗り物の中でもおしゃべりしている人がほとんどいないのです。これがフランス人だったら誰彼かまわず話しかけて妙に盛り上がったりするのだけど、リーガの人たちは静謐を好むのか、そういう国民性なのか。あ、いや、国民性などという括りで本当によいのかどうか。ラトヴィアの国語はラトヴィア語のみであり、ロシア語は外国語扱いです。歴史的な因縁があるにしても、1991年までは完全無欠の国語だったはずなので、そこまで意趣返ししてよいのかな? 独立後、国籍法が制定されてラトヴィア語の能力も国民たる要件に含まれるようになったこともあり、ロシア(語)系の人々には国籍を取得しない人も少なくありませんでした。これって非常に難しい、そして世界各地によくある問題です。境界線(国境)をどのように引くかでマジョリティとマイノリティが逆転します。ソ連という大きな枠組のもとではマイノリティだったラトヴィア語の話者は、ラトヴィア共和国の独立とともにマジョリティとなり、「こっち(多数派)に合わせろよな」という態度を無意識にとるようになります。アイルランドでは宗教(カトリック/国教会)が問題になりましたが、ラトヴィアでは言語。両者に共通するのは、近代に入るまで実質的な意味で1つの国家であった経験をもたないという点です。1つの民族が1つの国家を形成するなどという国民国家(nation-state)なる概念が、属性による短絡や決めつけや差別や自尊心の拡大を助長した面は否めません。戦間期の独立当時にウルマニスがとった態度にもその原型が見えます。
連合王国(英国)における北アイルランドやスコットランド、スペインにおけるカタルーニャやバスクなど、この種の問題は国民国家発祥の地である欧州でも(欧州でこそ)顕著ですけれど、国家の外側にさらに実態をもつ枠組=欧州連合を設定することで、それを緩和し、相対化してきました。EUの中では「ドイツ人」や「フランス人」だって単体ではマジョリティにはなれないのです。いろいろと難しいことであるのを承知の上で、だからこそ私も欧州統合にある種の希望を見出してきました。ことし2016年が悪い意味での転換点にならないことを切に願います。EU加盟に希望を見出したバルト三国からすれば、英仏独などの「大国」が動揺しまくっているのは何だかねえというところか。
占領博物館 ドイツ(第三帝国)とソ連が同じく「侵略者」としてカラーリングされている
さきほど少しだけ歩いたライニャ通りを北に進むと、旧アメリカ大使館がありました。現在はラトヴィア占領博物館(Latvijas Okupācijas muzejs)の仮展示場になっています。見ていきたいところですが閉館時間が迫っており断念。ここでいう占領というのは1940〜91年のことで、基本的にはソ連邦、そして第二次大戦中のナチス・ドイツということです。1991年の出来事を私もラトヴィアの「独立」と表現していますけれども、ラトヴィア共和国の公式の立場は、1918年に独立した国家が法的に持続していたのであり、1940〜91年は不当に占領されていただけで、1991年は「独立」ではなく「本来のあり方の回復」であるというものです。アメリカが1940年のソ連邦による接収を承認せず、その後もずっと承認しない立場でしたので、それが1つの論拠になっています。いま世界には20くらいの未承認国家(実質的に主権国家なのだが国際社会から承認されず、地図にも載らない国)があります。ロシアがらみのものが最も多い。そのことを指摘すると学生・生徒の中から「日本政府の立場とかじゃなくてリアルな実情を反映した地図をつくってもらいたい」といった声が上がるのですが、本当にそんなことをしたら(とくに東アジアに関して)炎上するぞ。
アール・ヌーヴォーの建物を見学(アルベルタ通り)
問題の?ロシア大使館のそばでトロリーバスをつかまえ、停留所3つぶんくらい前進しました。建築の分野では、リーガといえばユーゲントシュティール(Jugendstil)で知られているそうなのです。フランス語でいえばアール・ヌーヴォーで、20世紀に入ったころ世界的なブームになったものです。芸術方面にはまったく無知でお恥ずかしいのですが、曲線を組み合わせてごにょごにょさせたやつね、というくらいの理解。せっかくなので見に行きましょう。アルベルタ通り(Albera iela)という200mほどの直線道路が中心で、なるほど個性的なファサードがこれでもかと並んでいます。こういうのって建てるのもメンテナンスもコスト高なんだよね〜。複数の団体客がガイドに案内されて見学に来ています。周囲にはしゃれた土産物店やカフェなどもあって、旧市街と並ぶ観光スポットとして盛り上げようとしているらしい。
町並それ自体が見どころだというのは、よいことだと思います。特定のスポットや施設でなく景観が大事になるので、維持管理も振興も大変ではありますね。わが東京はそういう町づくりのセンスが全体によろしくなく、今後の課題になることでしょう。不本意な占領や空襲などに耐えたリーガは、古いものを守るということの意味をわれわれ以上に知っているのかもしれません。
(左)コテコテのアール・ヌーヴォーだわな (右)ユーゲントシュティール地区の一隅、エリザベテス通り(Elizabetes iela)
トロリーバスに乗って旧市街に引き返し、いったんホテルの部屋に戻って休憩。今日もよく歩いたねえ。公式サイトによれば、ホテル・ローマは1926年に創業されたが第二次大戦で破壊され、1987年に再築が構想され1992年に落成したと。リーガ初の5つ星ホテルであると誇らしげに書かれています。道理でただならぬ風格だと思ったわけです。もしかすると社会主義時代の外国人賓客用の宿舎だったのかなと想像しましたが、独立(解放)前後に意気揚々とリスタートしたものだったわけですね。
18時半ころこちらもリスタートし、旧市街の町歩きをしながら夕食の会場を物色。朝いちばんに歩いたあたりに飲食店が並んでいたし、石畳風の路地にもいろいろあったので、それらしいところを見つけましょう。サマータイム+高緯度なのでまだまだ明るいのが助かります。何だかんだで小一時間くらい歩いたのですが、アウデーユ通りにテラス席を出しているNiklāvsというレストラン(綴りはrestorāns)に声をかけて、テラスに座りました。ひざ掛けのブランケットが用意されていますが暑くも涼しくもありません。テラスのテーブルは半分ほど埋まり、英語で話しているグループ、何語だかわからない人もあって興味深い。注文を取りにきたポニーテールのおねえさんがアイドル並みにかわいい。で、英語メニューをもらっていろいろ検討した結果、ラトヴィア名物らしい豚のナックル(膝関節の界隈の肉)料理を試してみることに。ラトヴィア語の料理名はKrāsnī cepts cūkas stilbiņš sinepju marinādē pildīts ar
sautētiem kāpostiemでもとより意味不明。ラトヴィア語の属するバルト系や、チェコ語などスラヴ系の言語を種類の少ないラテン文字で表そうとするとどうしてもアクセント記号に頼ることになり、外国人には高い壁になります(汗)。英語ではOven baked pork knucle in a mustard marinade and filled with
steamed cabbage, creamed potatoes with hemp seed butter, whipped horseradish
and beetroot, and Latvian country greenery(creamed以降は「副題」で、ラトヴィア語のほうにもあるのですが省略しました)。おねえさんによればフルサイズが€16、ハーフが€10とのこと。ハーフってどれくらいですかと訊ねると、「これくらいかな」と手で示したサイズがかなりでかい。いやいやハーフで結構です。あと生ビール。
リーガでのディナー ラトヴィア名物の豚足?を豪快に食べる
英語が百パー通じるのがありがたいなと思う間もなく生ビールが運ばれました。きょう3杯目だね。飲み口がちょっとフルーティーだけどノドの奥でびしっと辛口が響く、なかなか男前の味でした。ナックルはオーヴン焼きということなのでけっこう時間がかかります。先にパンが来ていたので、料理に響かない程度に食べよう。お、小麦のパンとライ麦の黒パンだ。短絡でごめんなさい、黒パンというのが私にはソ連のイメージなんですよね。バルト地域でも黒パンが好まれると聞いていました。小学生のころライ麦の黒パンは美味しいという本の記述を読んで、母に頼んで買ってきてもらったのだけど酸っぱすぎてひとつも美味しくなく、外国かぶれの言だったのかなと子どもながらに思っていました(放映中の朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルになった大橋鎭子さんの著書。大橋さんはフランス・欧州通で、いま思えばそちら方面の刺激をかなりくれた人でした)。リーガの黒パンを口にしてみると、これが何ともいい! ああこれが本物の味なのか。甘くて酸っぱくて塩気もあって、ちょっと喩えようがない味ではあります。間がもたずにビールが空いてしまったので、グラスの赤ワインを発注して待つと、最初のオーダーから20分ほどでようやくナックルが運ばれました。ハーフというけどやはり巨大で、ザワークラウトの上にどんと鎮座しています。たっぷりのマッシュ・ポテト。ナイフを入れると何の抵抗もなくほろほろ崩れます。しっとりして実に美味しい。いわゆる豚足なのでゼラチン質の部分もかなりあり、そこもとろとろになっていていい味なのです。これでフルサイズだったらどれほどでかいのかね。マスタード・ソース、ホースラディッシュ(西洋わさび)と2種類のソースがあり、マッシュにまぶして食べてもよいので、味を替えれば飽きることもありません。最高だなラトヴィア。食後にエスプレッソを頼んで、20時半ころごちそうさま。料理と飲み物で込み込み€19.30とは信じられません。比べてもいかんけど、パリあたりで同じボリュームの食事を同じレベルの飲食店で食べれば倍近くは取られます。ユーロだから簡単に比較しちゃいますね。ようやく暗くなってきた旧市街を歩いて、上機嫌でホテルに戻りました。
8月28日(日)は6時半ころ起床。中央駅裏のバスターミナルを10時ちょうどに発車する長距離バスでエストニアのタリンに向かうことにしており、荷物のパッキングを終えてから朝のリーガを散歩して、ラトヴィア編の〆にしよう。今日もさわやかでいい天気です。旧市街の構造はだいたいわかったし、そもそもかなり狭い範囲なので地図なし手ぶらで問題なく歩けます。日曜の早い時間ですから人影はほとんどありません。おっとそうだ、きのう展望台から見下ろしただけのダウガヴァ川に行ってみましょう。ブラックヘッド会館の先を進むとすぐ河岸。アクメンス橋(Akmens Tilts)が左岸側と結び、トラムの線路も敷設されて電車が走っています。のびやかでいい景観ですね。
人影のほとんどない朝のリーガ旧市街
2泊した5つ星ホテルをチェックアウトしてバスターミナル(Autoosta)に向かいます。トラムに乗ってもよいけど時間はたっぷりあるし、陽気もいいので徒歩ね。昨日もラトヴィア鉄道の中央駅に行ったので心得ていますが、駅前を線路と並行して走る1月13日通り(13 janvāra iela)はかなり幅広で、歩行者は地下道を通って反対側に行かなければなりません。前日と違ってキャリーバッグを引いているためこういうときは面倒ですね。鉄道のガードをくぐった先にバスターミナルがすぐ見えました。九州地方によくある立体型のターミナル(最近できたバスタ新宿もそうですね)ではなく、平地型のようです。建物の向こう側に専用レーンがある模様。
リーガ・バスターミナル
建物に入るとすぐに発券カウンターがあります。軽食堂を兼ねたカフェがあり、その先の区画は一昔前の田舎の国鉄駅みたいな待合室。「まもなく○○行き普通列車の改札です」などというアナウンスが本当に聞こえてきそうな雰囲気だね。1時間半も早く来たのは、ターミナルの観察をしたかったのと、欧州の交通というのは何があるかわからないので用心のためです。初めての土地では慎重に行動するほうがよい。タリン行きのチケットはすでにインターネットで予約し、紙に印刷して持参していますので発券は不要。出発案内板を見ると、タリンのほかロシアのカリーニングラード(KaĮiningrada / Калининград)、リトアニアの首都ヴィリニュス(ViĮņa /
Vilnius)への便が見えます。いずれもかなりの頻度で出ている模様。なるほどカリーニングラードもバルト三国の「並び」ですもんね。
欧州の地図を見て気づくことがあればいってごらんと促すと、ここにロシアの飛び地があることを、わりと多くの学生・生徒が発見します。明らかに異様な位置関係ですからね。私が「発見」したのは地図少年だった昔ですが、その当時はまるごとソ連なのでさほどに気になりませんでした。しかし1991年に三国が独立するとカリーニングラード州は孤立し、少なくとも3度国境をまたがないかぎり陸路でロシア本土には行けない場所になってしまいました。もともとここは例のドイツ騎士団領に由来するプロイセン公国(のち王国)の本土で、カリーニングラードの旧名はケーニヒスベルク(Königsberg)です。ここを領有したベルリンのブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)は、侯爵よりも位の高い王号を名乗って、国まるごとプロイセンと称しました。これが19世紀にドイツ統一の核になったことは周知のとおり。第一次大戦でドイツが敗れるとこの付近はポーランド領(通称「ポーランド回廊」)によってドイツ本土と切り離された飛び地になりますが、ヒトラーの侵略で「回復」されました。が、再びの敗戦でドイツは最終的に、ある意味で「発祥の地」といえるこの土地を手放さざるをえなくなります。東プロイセンの南半分は、ソ連に領土を削られて不満をもっていたポーランドに与えられ、ケーニヒスベルクを含む北半分がソ連領になったわけです。今回、バルト三国の中でリトアニアだけ訪れておらず、ポーランドも未訪なのでこれらはいずれセットで行ってみたい。となると、その道筋にあるケーニヒスベルク改めカリーニングラードも見られるかもしれません。冷戦終結後はさんざん荒廃したと聞いていましたが、プーチンの奥さんの出身地ということもあってかこのところ経済振興が盛んで、かなり活性化していると聞きます。ロシアがここを手放さないのは、かのバルティック艦隊の拠点だからです。私の教育史関係の授業では、ジャン-ジャック・ルソーの「エミール」にかかわるエピソードとして、それを読んで衝撃を受けたイマニュエル・カントが己の傲慢さを自覚して真の道徳へと「コペルニクス的転回」を果たし、日課の散歩を忘れて町の人を心配させたうんぬんという話を紹介しています。近代思想史上の大きな画期をなすカント哲学は、彼が一生住んだケーニヒスベルク、現在のロシア領カリーニングラードで生まれました。
バルト三国とロシアの位置関係 三国は北からエストニア、ラトヴィア、リトアニア
カリーニングラードはロシアの飛び地であり、最低2ヵ国を経由しないとロシア本土に行き着けない
地図出典 http://sekaichizu.jp/
それにしても、鉄道に乗りたいはずの私がなぜバスでの国境越えなのかというと、端的にいえばリーガとタリンを直結する路線がないためです。まあ、ないことはなくて、ヴァルガ(ラトヴィア語でValga エストニア語でヴァルカValka)を迂回すれば行けるし、国境の町ヴァルガにも興味があるのですが、かなりの大回りになり便も少ないのです。これは、旧ソ連の鉄道網がモスクワを中心として放射状に整備されたことによります。バルト三国の首都や、カリーニングラード、ベラルーシのミンスクなどからはモスクワに向けてほぼ最短距離で線路が敷かれています。そのためロシア以外の国どうしの移動は、バスということになる。バルト地域以外でも東欧圏は長距離バスでの移動が普通らしく、広義の乗り物マニアとして私もたまには利用してみなければね。高速道路がなくすべて「下道」経由で、タリンまで4時間半を要します。しかしネットで購入したチケットは片道€14と激安。いうても300km近くはあるからな〜。欧州の旅行記をネット上に記している同好の士は無数にいるもののバルト地域の日本語情報はさすがにあまり多くありません。ただ、そうした先達の中にはこの両首都間をバス移動したと報告している方があり、いずれも乗り心地や運賃などを高評価していました。楽しみ。
PART4につづく
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