ナショナル・アイデンティティ形成の研究というのが私のライフワークの一つです。独立国として1920年に歩みはじめたラトヴィアは、いうところの国民統合を進める上で大きな障壁を初めから抱えていました。国民統合には国語の制定と普及が不可欠ですが、もともと農民はラトヴィア語またはリーヴ語(エストニア語に近い)、リーガの商工業者と農村の地主階層はバルト・ドイツ語を話しており、法律や行政の言語はドイツ語でした。19世紀後半、リーガはロシア帝国の重要な港湾として工業化が進み、ロシア人が流入したほか、ロシア帝国内の各地域から労働者がここに押し寄せました。母語が別にあったとしても彼ら新住民の共通語はロシア語でしたし、アレクサンドル3世(在位1881〜94年)の代になるとドイツ語に替えてロシア語を制度的な公用語にする政策が採られました。アイデンティティの重要な指標である言語にしてからがそのように多様で多層的なものでした。戦間期ラトヴィアの指導者ウルマニスはラトヴィア語の国語化を急いだのですが、国土全体で6割程度、リーガに関しては4割前後の話者しかいない言語だったため国語とするには脆弱すぎたようです。
そもそもバルト三国の独立は、ロシアに革命が起こって第一次大戦から離脱したあとの国際政治の中で果たされたもので、共産主義の拡大を阻止しようとする英仏などの思惑がそれを支持させたものです。元来が非常に不安定かつ軟弱な地盤の上にあったといえるでしょう。世界恐慌の影響で主力取引先だった英国が不振に陥ると、三国はソ連との結びつきをどうしても頼らざるをえなくなります。そして、当事者たちの知らぬところでその運命は定められていました。1939年8月、世界を驚愕させた(日本の平沼内閣をも吹き飛ばした)独ソ不可侵条約が調印されます。ヒトラーとスターリンは、独ソにはさまれた地域の分割を秘密裏に取り決めました。ドイツ人が入植して基礎をつくり、ロシアの手に渡って発展してきたバルト三国は両勢力のフロンティアで、双方ともぜひ手に入れたい地域でした。おおむねリトアニアはドイツの、ラトヴィアとエストニアはソ連の「担当地域」ということになりました(モロトフ-リッベントロップ秘密協定)。
「赤軍の侵攻 ラトヴィア 1940年6月17〜21日」
1939年9〜10月にかけて、ソ連は三国に相互援助条約の調印を要求しました。軍事同盟といえば対等なそれを想起させますが、実際にはソ連軍を三国に駐留させるということにほかなりません。すでに第二次世界大戦の火ぶたは落とされており、ポーランドが独ソ両国の侵攻を受けてはかなく国家消滅に追い込まれています。頼みの英仏がドイツ越しにバルト地域を何とかしてくれるというのは非常に困難でしたが、それでもソ連の要求を受け入れて時間を稼ぎ、そのあいだに国際世論の良心を期待するしかなかったのです。領土割譲を含むソ連の過酷な要求を撥ねつけたフィンランド(ここも革命までロシア帝国の支配下にあった)に対しては、すでにソ連軍が侵攻して冬戦争(第一次ソ・フィン戦争)がはじまっています。ソ連軍駐留を拒めば同じ運命が待っていることでしょう。1940年5月、ついに西部戦線が開かれ、ドイツ軍がフランスに侵攻し、6月22日にはフランスを降伏させます。これでバルト三国の悲運は確定してしまいました。パリ陥落と前後して、ソ連のモロトフ外相は三国それぞれに覚書を発し、親ソ政権への組み換えを要求しました。最初にリトアニアが、つづいてラトヴィア、エストニアが恫喝にさらされ、「8時間以内にこれを飲んで組閣しなければ軍事侵攻する」旨を突きつけられて万事休したのです。6月17日、ラトヴィアとエストニアは要求を受け入れました。ソ連軍が無抵抗のバルト地域を占領します。こののちソ連がしたことは、共産党以外の政党を禁止して政治家を追放し、共産党ばかりの議会を招集させて、「私たちをソヴィエト連邦に加入させてください」と決議させるという強引な行為でした(*)。1940年8月3日にリトアニアが、4日にラトヴィアが、5日にはエストニアがソヴィエト連邦の一共和国としてその一部に編入されることになりました。私が子どものころに学んだ欧州の地図は、それ以降の情勢が反映されたものにほかなりません。ラジオを通じて冷静に行動するよう国民に伝えたウルマニスはソ連軍に拘束され、大戦中に収容所で病死しました。
*日本人には、ソ連とかロシアを歴史的に断罪することにはさほど躊躇がないような傾向があります。しかし反対勢力をつぶしたあとで「そちらの仲間にさせてください」と決議させる手法は1910年に日本がやらかしたことでもあります。また進行中の話と同時期には、「満州国」なる未承認国家を抱えていたことも忘れるべきではありません。
1941年6月、ヒトラーはバルバロッサ作戦を発動してソ連と開戦、東部戦線を一気に東へ押し出しました。このときバルト三国もドイツの占領下に入ります。よくある話で、解放軍到来かという期待はたちまち破れ、君臨するのが共産党ではなくナチスに代わっただけでした。新たな占領者たちはその服従心を試すかのように、バルト地域でのユダヤ人収容と他地域からの移送を担わせました。リーガの強制収容所でも数万人のユダヤ人が生命を奪われています。バルト地域とホロコーストの関係については、隣国リトアニアでソ連占領の直前(1940年上期)に日本政府の指示に反して「命のビザ」を発給しつづけた外交官・杉原千畝の業績が知られています。大学学部の偉大な大先輩にあたる方ですので、私もその事績を追ってみたいと思っていますが、文字にするのはいずれリトアニアを訪れた際にしましょう。
(上)戦禍で破壊されたリーガ (下)捕虜となった日本軍兵士がラトヴィア兵に贈った日章旗の寄せ書き
1943〜44年にソ連軍は大反転してドイツを西に追いやり、失地を完全に回復しました。バルト三国にはこの機会に再独立をめざす地下運動もあったのですが、まとまりと勢いを欠き、ソ連が再接収するのをみすみす許しています。この軍事博物館には朱の鮮やかな日章旗が飾られ、異彩を放っていました。武運長久を祈るとして日本人兵士とおぼしき人たちの署名が記されています。これはサハリンでソ連軍の捕虜になった日本軍の兵士たちが、親切に接してくれたラトヴィア人兵士が離任する際に贈ったものだそうです。日本人たちが、その人物を大国に飲み込まれて祖国を失ったラトヴィア人と知っていたのか、単に敵国ソ連の親切な人と思ったのかは存じません。「ソ連」といっても多様だったのですよね。当たり前なのだけど、平時でも、そして戦時にはなおさら、それが当たり前には見えなくなります。
ラトヴィアとリーガは第二次大戦後もソ連の重要な工業地域として発展しました。冷戦時代に入りましたので、バルト地域は軍事上も重要な位置を占めることになります。三国がかつて独立したのはソ連の共産主義を食い止めたいという西側の思惑あってのことでしたが、戦後は逆に東側の橋頭保としての役割を担うことになったわけです。時を経て1985年、軍拡と官僚主義の硬直化で財政難に陥ったソ連を救うべく、ミハイル・ゴルバチョフ(Mиxaил Горбачёв)が最高指導者の地位に就きました。その若さとスマートさに、高校生だった私も強烈な印象を受けたものです。翌年に起こったチェルノブイリ原子力発電所の重大な事故をきっかけにグラスノスチ(情報公開)を進めてこれがペレストロイカ(改革)の基本軸の一つになるわけですが、ラトヴィアの人々は原発事故を機に環境問題に目覚め、ダウガヴァ川のダム建設中止を訴える運動を起こします。ゴルバチョフでなければそうした市民運動などすぐにつぶしていたことでしょう。歴史の偶然もあって、戦後のバルト地域で初めて住民の連帯と主体的な運動が発生しました。ただ、ラトヴィア共産党はモスクワに最も忠実な党でもあり、支配階層がロシア人だったこともあって(1980年代の最高指導者はラトヴィア語をまったく話しませんでした)、ラトヴィア内部での対立が先鋭化したということもできます。
(上)ラトヴィア独立へのムーヴメント(1991年) (下)冷戦終結とバルト三国独立のきっかけをつくったゴルバチョフ
1987年以降になると市民の自発的な運動はもはや当たり前におこなわれるようになりました。遠く九州の高校生だった私は、ようやくバルト三国がソ連の中で異質な存在であることを知るようになります。おそらくは西側メディアがそうした自然な溶解を促すように仕向けたことも作用しているのでしょう。バルト地域では、環境保護運動に加え、カレンダー運動と呼ばれる歴史的記念日を祝う集会が頻繁におこなわれるようになりました。また、もともとは体制を支える文化運動の一環だったはずの合唱祭が、演目をバルト各国の民族音楽に替えることで、反モスクワの静かな決起集会へと転じていきます。やがて戦後初の自由選挙が実施され、バルト三国の最高会議はいずれも独立派が主導権を握ることになりました。この間、ムーヴメントの主導権は親モスクワ勢力と独立派の対立がつづいたラトヴィアから、独立派の結集が速かったリトアニアに移動しています。リトアニアの政治運動体であるサユディスやその指導者ランズベルギス(のち最高会議議長)の名前は、連日日本のニュースでも報じられました。
そのころ私は東京の大学生になっていました。子どものころから歴史が大好きだったので高校の世界史か日本史の教員になろうと考えて歴史学を専攻していたのですが、ゴルバチョフの登場をきっかけにはじまった1989年の東欧民主化を目の当たりにして、これは過去ではなく現在と未来を学ばなければならないのではと考えなおし、まだほとんど手をつけていなかった歴史学をうっちゃって、教育学への転向を決めています。歴史も不思議だけど個人のライフ・ヒストリーというのもなかなか不思議なもので、回りまわって「歴史教育の歴史」を研究するようになり、主たる対象であったフランスへのたびたびの訪問がきっかけとなっていつしか欧州各国をうろついて、このようにその地域の歴史をつづっています。
1991年8月19日、福岡の両親が一時的な転勤で大阪に引っ越すことになり、その手伝いのため福岡に滞在して、さあ大阪まで同道しようかねというので乗り込んだタクシーのラジオから、驚くべきニュースが流れました。休暇中のゴルバチョフが軟禁され、ソ連共産党の保守派がクーデタで実権を掌握したというのです。ゴルビーのしていることは、ソ連を救いたいという当人の思惑をはるかに超えて、実際にはソヴィエト連邦や共産党の足場を自ら掘り崩すようなものでしたから、いつかこのようなことが起こるだろうという予感は誰にもあったはずです。しかし、共産党のお家芸でもあったこのような奪権闘争こそ、ゴルバチョフの改革で過去に押しやられたものでした。連邦の最大構成国でありゴルバチョフとの対立から自立傾向を強めていたロシア共和国では、大統領ボリス・エリツィン(Борис
Ельцин)がゴルバチョフ救出とモスクワの事態収拾を呼びかけて市民とともに起ち、保守派の野望を早々にくじきました。ゴルバチョフは無事に帰還しましたが、この失態でもはやその政治生命は絶たれ、ソ連共産党も一挙に解党されました。これ以降、エリツィンが主導して連邦構成の各共和国のリーダーたちが動き、同年末にはソヴィエト連邦が解体され、あとに12の共和国が主権国家として現れることになります。
バルト三国がどうなっていたのかというと、それより早く、1990年から1991年初頭にかけて「独立」が宣言されていました。ゴルバチョフは介入と懐柔の両面作戦で臨みましたが、1991年1月にソ連軍を投入してリトアニアの放送局を襲撃する事件を起こして失敗、ついでラトヴィアでも特殊部隊を投入しての介入にしくじって、バルト地域ではこの時点ですでにオワコン化していたのです。8月クーデタに際しては、急速な独立に不安を抱いていたラトヴィアのロシア人の思いを引き受けるかのように、ラトヴィア保守派がモスクワのクーデタを「支持」する声明を出して独立派を一時的に排除しますが、本体のクーデタ失敗とともにこちらも倒されました。かろうじて生存していた「ソ連邦」全体の主導権を握ったエリツィンのロシアは、リトアニア、ラトヴィア、エストニアの独立を承認、この動きに世界中が呼応して、三国は1940年以来の主権を回復することになったのです。
これはまったく余談ながら、私が初めて海外旅行に出かけたのは、バルト三国と湾岸危機が連日世界のトップニュースだった1991年2月のことで、香港で乗り換えロンドンに向かいました。冷戦期には飛べなかったソ連の上空をえんえん飛んで感慨深く思ったものです。航路からさほど遠くないところにあるバルト三国のことも頭をよぎりました。しかしその折は、自分が欧州の専門家になることも、こうしてその現場に足を踏み入れることもまったく予期しないことでした。
旧城壁とスウェーデン門
11時ころ博物館を辞去して再び市街へ。かつては、いま「旧市街」と呼んでいる区域よりもワンサイズ小さな範囲だった時期があったらしく、博物館のところから北西に旧城壁が残っています。レンガ積みの立派な壁。博物館は火薬搭の跡なので、このあたりが海側からの攻撃に対する防御拠点だったのかもしれません。城壁の外側にヤコブ兵舎(Jēkaba Kazarmas)の跡が並行してあり、そこにはショップなどが入っています。お昼ちかくになったので観光客らしき姿も増えてきました。城壁に開いたU字型の孔はスウェーデン門(Zbiedru Vārti)。欧州のあちこちの城壁で見るように、監視台がセットになっています。17世紀後半にスウェーデンの勢力がバルト海全域に拡張した時期、リーガもその支配下に置かれたのですが、そのころの建造物だそうです。スウェーデン兵との禁じられた恋をとがめられた地元の娘がこの城壁内に塗り込められたせいで、夜になるとすすり泣く声が聞こえるとか何とか。
聖ヤコブ教会
ポルトガル人の団体の横をすり抜けて石畳を歩き、聖ヤコブ教会(Sv.Jēkaba Katedrāle)へ。ちょっとカワイイ建物で、床面は少し掘り込まれています。この教会の鐘は不貞の女性が通ると自動的に鳴り出すそうで、ゆえに女性たちが反発して取り外し、長く鐘のない状態がつづいたのだそうです。男の不貞はいいんだ(笑)。リーガ旧市街は狭い範囲にとにかく教会がたくさんあって、どれにも由緒やエピソードがあります。真のランドマークってどれなんだろう? 前述したように、もともとリーガはカトリック勢力の北方への拡張の一環(「北の十字軍」)として建設されたのですが、この地に定着したドイツ騎士団はのちに世俗化し、ルター派プロテスタントに改宗しています。このため現在ではプロテスタントの信仰が優勢。ただ古い教会はカトリックのものが多いです。信仰や教義の中身を論評する立場にはありませんので純粋に建物の雰囲気だけをいえば、カトリックのほうが重厚感と立体感があって、ゆえに厳粛な場であるということを感じやすいかもしれない。
このあたりは住宅街の路地みたいな地区。聖ヤコブ教会の一筋南にあるのが「三人兄弟」(Trĭs BrāĮi)と称する3棟の邸宅です。とくに変哲のない住宅に見えるけれど、右が15世紀、真ん中と左が17世紀に建てられた古い住宅だそう。屋根の形状がいずれも特徴的で、何だかイギリスパンを焼いたみたいな感じね。
「三人兄弟」 その前で路上演奏していた男性グループに観光客が「ハッピー・バースデー」をリクエストして大盛り上がり♪
そのままふらふらと1ブロック進んだら、また広場(ドゥアマ広場 Doma Laukums=大聖堂広場)がありました。あとから地図で確認すると、朝から歩いてきた市庁舎やリーヴ広場にほど近く、要するに似たような場所をぐるぐる回っているだけなのです。さすが旧市街だけあって道がぐねぐねしており、東西南北の感覚が狂ってきます。この広場は本当にのびやかで、お天気もあいまっていい気分。昨日まで滞在していたパリが信じられない酷暑(連日の猛暑日)だったのが、ここリーガでは20度とかそんなものなので何の不快感もありません。公共空間のためか広場全体に無料Wi-Fiが通じています。いい齢をして何だけどラトヴィアなうをやっちゃおう。広場の名前にもなっているリーガ大聖堂(Rīgas
Doms)はかなりどっしりとした、スケールの大きな建物。13世紀に「北の十字軍」を率いてこの地に拠点を築いたアルベルト司教が建てたもので、増改築を繰り返しながら今日にいたっています。歴史の途中でルター派に改宗して、いまはプロテスタントの教会。
この大聖堂のパイプオルガンをバックに、第二次大戦中の1944年に初演されたのがカンカータ「主よ、あなたの大地は燃えている!」(Dievs, tava zeme deg!)。ソ連に呑み込まれ、ナチスに翻弄されたラトヴィアの受難を主題にしたもので、ソ連が復帰してからは当然のことに上演禁止となりました。しかしゴルバチョフ時代に入り、エストニアではじまった合唱をテコにした民衆の集会で民族音楽が歌われるようになると、ついにこの曲も復活します。ついには1万人規模の合唱になったそうで、想像するに魂が震えるような響きになったことでしょう。バルト三国のソ連邦からの独立が「歌う革命」(Singing Revolution)と呼ばれるのもうなずけます。
大聖堂のそばで昼食 新ジャガは?
きょうのところは穏やかで静かな大聖堂広場に、いくつかの飲食店がテントつきのテラスを出しています。13 Kresli(13の椅子)というカフェまたは軽食堂があり、写真つきのメニューを見たら手ごろだったので、テラスの一角に落ち着いて昼食としよう。Salāti ar «Rīgas šprotēm» un jaunajiem kartupeĮiemという料理が€7.80。サラダは外来語だからわかる、というか、写真があるし英語とロシア語が添えられているのでまあわかります。キリル文字は放っておいて英語のほうはSalad with «Rigas sprats» and new potatoesだそうで、リーガ・ニシンと新ジャガのサラダってことですね。いい陽気なので生ビールも飲んじゃおう。Rigensisという銘柄の50cLが€3.50とすばらしく安い。さっそく運ばれたビールを飲むと、ちょっとだけフルーティーな味がするものの味の土台はラガー。美味です。両サイドのテーブルはいずれも夫婦のようですが、話している言語が異なり、私には何語だか判別不能。スラヴ美人のウェイトレスさんとは英語でやり取りしていて、当方と同じツーリストなのでしょう。ややあってサラダの皿が運ばれました。メインのニシンは小ぶりで、スモーク臭が強く、もとより濃い味です。グリーンカールのような野菜とオリーブ、トマト、それにルッコラかな。あれ? 料理名についている新ジャガが見えません。看板に偽りがあります。ニシンは北海からバルト海にかけての大事なたんぱく源で、こいつをめぐって世界史が動いたなどと同僚の教授が本に書いています。ニシンといえばソーラン節で、♪やーれんソーラン、ソーレン、中国、ネパール、インド、タイタイ というくだらない替え歌を思い出し、この町に来てソ連はないわなと反省しました。まだ酔っぱらってはいません(笑)。
いまあらためてラトヴィア語の料理名を見てみると、potatoesはkartupeĮiemなんですね。グーグル翻訳によれば単数形の表記はkartupelisで、ドイツ語のKartoffelにかなり近い。周知のようにジャガイモは新大陸由来の作物で、16世紀以降にエルベ川以東のドイツ化(と再版農奴制の強まり)の中で中・東欧に広まっていきます。ジャガイモの単語もドイツから入ったに違いありません。
ティルゴニュ通り
大聖堂広場をあとに、飲食店やショップが軒を連ねるティルゴニュ通り(Tirgoņu iela)を抜けて、午前の早い段階で一度来ていた聖ペーテラ(ペテロ)寺院の前に戻ってきました。旧市街をだいたい一周してきたこともあり、ここの展望台に登って町を眺めてみよう。伽藍の内部だけ参観するのは無料ですが搭に登るのは€5のチケットが必要。まずは思いのほか広くない本陣に入っていつものように静かに祈ってから、狭い階段で2フロアくらい登ります。エレベータがそこから出ているのです。もともとらせん階段だけだったに違いない細い搭に通したわけだからエレベータは小型で窮屈ですね。多国籍と思われるツーリストさんたちと同乗することになりました。
リーガのシンボル聖ペーテラ寺院 現在はルター派の教会になっている
展望台は搭のまわりの本当に小さなスペースに設けられています。規模はかなり違いますがエッフェル塔と同じでガラスのない「鳥かご」ですので、風があたって気持ちいい。日ごろの心がけのためかすばらしいお天気なので、赤褐色が目立つリーガ旧市街のクラシックな町並とダウガヴァ川、そして空の青さが見事な絵を描いています。こりゃ世界遺産にしたくなるのもわかります(世界文化遺産そのものが欧州の都市文化あたりを基準に策定されている感は否めないのですが、当方の趣味とは一致します)。聖ペーテラ寺院は大聖堂と同じく13世紀のドイツ人入植直後に創建され、何度か建てなおされて、現在のは18世紀に完成しました。展望台の高さは70mほどで、当時としては格別の高さだったはずです。よく造ったねえ。大阪・通天閣の展望台が87mなのであれよりは低いけれど、通天閣同様、これくらいの高さが「町を見ている」実感があります。エッフェル塔くらいになると空中から別世界に視線を投げている感じだものね。高所恐怖症だとかいいながら最近は高いところがあれば迷わず登ってしまう私。ただ、肝心の東京スカイツリーは未訪のままです。
聖ペーテラ寺院の展望台からリーガ大聖堂方向を見る 左下の白い建物が市庁舎
(上左)リーガ中央駅方向 (上右)けさ歩いてきたアウデーユ通り (下左)ダウガヴァ川
(下右)新市街方面 中央に自由記念碑、その下の白い屋根の建物が泊まっているホテル
70mの高さからでも地平線がきれいに見えます。タクシーの運転手がいっていたとおりフラットな国なんですね(国土の最高地点は標高312mで、スカイツリーの半分にも満たない)。かなり小さなリーガ旧市街の外側に新市街が広がっていくのがよくわかりますが、それでも視界に入る範囲で森林が展開していて、自然に抱かれた都市であるなと。
その平原を流れてきたダウガヴァ川の水源は、地図を見るとヴォルガ川やドニエプル川の源流とかなり近接しています。いずれもロシアの首都モスクワからあまり遠くない地点で、このあたりが大平原なのでさしたる高低差のないところを、ヴォルガは南東に流れてカスピ海に、ドニエプルは南に流れて黒海に、ダウガヴァ川はいったんベラルーシ領内に入ってから北西に向きを変えてこのリーガの先でバルト海に注ぎます。地図少年だったころはこういう内陸水路を目で追いかけるのが好きだったな〜。いまのようにネット地図なんてありませんので、手持ちの地図帳に食いついたわけです。ダウガヴァ川は古来よりロシア方面との重要な交通輸送路だったわけで、恵みの川でもあり、また恨みの川でもあったかもしれない。お隣のベラルーシ共和国は、旧ソ連諸国の中ではロシアに親和的で(ベラルーシ語を国語にしていますがラトヴィア以上にロシア語の母語話者が多い)、ルカシェンコ大統領がもう20年以上も権威体制を維持し「欧州最後の独裁者」と呼ばれています。なまじ?民主化したウクライナがさんざんな目に遭っているのを尻目に、権威体制ゆえの安定感があるのですが、いつまでつづきますかね。私の欧州ツアーも、EU加盟国の次はロシアやベラルーシに向かうのだろうか。
ブラックヘッド会館付近から聖ペーテラ寺院の尖塔を仰ぐ
リーガのシンボル、世界文化遺産といったところで、小さな国の首都のこと、観光客の数もさほどではありません。これからラトヴィアに行きますといったらパリの常宿の若旦那が「それはまた遠くまで」とかいっていました。「西欧」の人たちにとっても、観光の優先順位はいまのところあまり高くないはずで、私のようなヘヴィー・リピーターが「そろそろ行ってみるかな」と足を運ぶのでしょう。欧州各地からとおぼしきツーリストの姿はちらほら見かけますがアジア人はほとんどいない。日本国内からまっすぐここに来ようとすれば、フランクフルト(ANAなどスターアライアンス系)またはヘルシンキ(JALなどワンワールド系)での乗り継ぎになります。初心者が申すのも何ですけど、いいところだからぜひおいでください。英語とユーロとWi-Fiが普通に使えます。物価も安い。
リーヴ広場に面した「猫の家」(Kaķu Māja)
ドイツ人ギルドへの加盟を断られたラトヴィア商人が「ケツをまくる」意味で載せたのだと
午前中に歩いた道をなるべく避けながら、再び旧市街の南半分に足を踏み入れました。ショッピングセンターものぞいてみたけど、規模はかなり小さく、とくに食指が動きません。欧州のSCではよくあるように、0階に食品スーパーがあったので、寝酒用のビール、ワイン、それにいちおう夏場なので携帯用のミネラル・ウォーターを調達。またまたリーヴ広場を経由して、いったんホテルに戻りましたが、14時過ぎなのにまだ部屋の清掃が終わっていません。買ったばかりのボトルを置いて再び外に出ました。さあこれから新市街も歩いてみることにしましょう。
PART3につづく
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