スヴォボダ広場から駅までの直線道路をゆっくり歩いて、正午ちょっと前にバス・ターミナルに着きました。隣接する鉄道駅のほうは旧満鉄の駅なんじゃないかと思うほど白亜の立派な建物なのに人影はまばら、バス・ターミナルは駅前広場に面した遺蹟か廃墟のような外壁に囲まれた一角で、広場よりワンフロアぶん高いところにバス・プールと回転場、平屋の建物が設けられていて、こちらは多くの人でにぎわっています。ホテルのおねえさんがいうように、そして最近の中東欧めぐりで見ているように、圧倒的にバス>鉄道というのが実感としてわかります。それにしても、ソフィアは立派なステーションでしたし、ヴェリコ・タルノヴォもそれなりにどっしりした施設でしたが、ルセのターミナルはいかにも「田舎の待合室」という感じ。日本の地方に行くとこの規模の「ターミナル」けっこう見ますね。待合室に売店があって飲み物や新聞を売っている様子も、どことも同じ。何ならヒモをかけた駅弁とか陶器に入ったお茶も売っていそうな気配ながら、そんなのいまどき日本にも売っていないね。
ルセのバス・ターミナルで Букурещはブクレシュティ(ブカレスト)のブルガリア語表記 Отопениはオトペニ(アンリ・コアンダ)空港のこと
その小さな待合室の中に、やはり複数の運行会社の窓口というかブースが並んでいます。しかも各社とも案内表示とCMの境目が不明確なのに文字の洪水みたいになっていて、はっきりいえば不親切。EUの担当部門とかがもう少し指導したらいいのではないかと思います。おねえさんが取ってくれた予約票にはPegasusという運行会社名が入っているので、今度はすぐにわかりました。昨日は14時30分の便が出たあと、17時30分発にはまだ早かったのでブースが閉じていたのでしょう。窓口くらい一本化してもらえませんかね。そうすれば英語を話せる人が構内に1人いれば済むではないですか。東京でいえば、各社ばらばらだった長距離バスの集約を図って新宿高速バスターミナル(バスタ新宿)が昨2016年に開業しました。切符売り場も案内表示も乗り場も、運行会社にかかわらず統合されています。羽田空港行きがあることもあって、時間帯によっては外国人の利用者が非常に多い。各種の表示もよくできていて感心しました。ただ、池袋東口にこだわる西武系など十分に統合されているとはいえません。かつての日本の観光業界はもっとひどくて、鳥取砂丘など競合2社がターミナルまで別の場所に建てて対抗するという不親切さでしたし(現在は統合)、世界的に知られる厳島神社に向かうフェリーは現在も競合2社が別々の発着所で運航しています(隣接しているが)。最たるものはこれも世界的観光地である箱根で、小田急・箱根登山鉄道系と西武・伊豆箱根鉄道系がケーブルカー、路線バス、芦ノ湖の遊覧船にいたるまで別々に運行し、フリーきっぷも系列に限定するという身勝手ぶりでした。世にいう「箱根山戦争」の名残ではあったものの、モータリゼーションとグローバリゼーションの進行でさすがに敵対している場合ではないと悟ったのか、現在はかなり歩み寄りました。当然のことでしょう(西武のドン堤義明が失脚したタイミングもありました)。西欧にもこの種のことはあるのかもしれませんが、東欧はまだまだやね。日本の経験を踏まえても、成熟するには時間を要することは確かです。
そのペガサス社のブースに予約票を示し、ここでヴァリデーションすればよいのかと英語で訊ねると、すぐに対応してくれました。待合室の外を指さし、「プラットフォーム・フォー」だといいます。国境越え路線となれば対岸のルーマニア人だけでなくいろいろな民族・言語の人が利用するでしょうから、英語を話せるというよりはこういうときの要領のよいコミュニケーションを心得ているということでしょう。待合室の外で営業していた軽食スタンドで、ショーケースに入っている品を指さして頼むと、プレスして加熱してから手渡されました。イタリアのホットサンド、パニーニの変形で、なぜか具をはさむ箇所が2つに分かれています。あらびき豚肉とトマト、レタスなどが入っており、マヨネーズとケチャップは好きに使ってくださいとボディ・ランゲージで。2Lvとこれも安いですがなかなかボリュームがあり、移動前の昼食には十分でしょう。ブルガリア・レフはソフィア空港で250Lvをキャッシングしましたが、80Lvくらい使い余しました。半年前にクロアチア・クーナを使い余した際にも思ったように、またこの通貨を使える機会があればいいなという以上に、次回来るときにはユーロに統合されていてほしいなと思います。
12時30分ころ、待合室正面の4番ホームにペガサス社のマークをつけた2台のバスがやってきました。国境越えバスなので大型車両だと思い込んでいたら15人乗りくらいのバン。これで足りるくらいの流動だということでしょう。運転手に聞くと、「ブカレスト・シティ・サントロは後ろ、エアポートは前」とのこと。なるほど、現状ルセには空港がないので、最寄となると私もあす利用するブクレシュティのアンリ・コアンダ空港(別名オトペニ空港)になり、この便は国境越えだけでなく空港アクセスの役割も果たしているのか。センター(英国式の綴りでcentre)がかなり訛っているのがおもしろい。フランス語では(というかフランス語から英語に入った語彙です)英国と同じ綴りをサントル、イタリア語ではチェントロ(centro)で、「英語の正しい発音」なんてないと思ったほうが旅行はスムーズに進みます。ちなみにフランス語やイタリア語と同系列のルーマニア語ではツェントル(centru)。キャリーを後ろの車の荷台に積み込んでもらいましたが、乗客が車内に入れたのは出発直前の12時43分ころでした。ペガサス社のブースで対応してくれた女性社員が乗り込んできて、手許の乗客名簿をもとに「ミスター○○」などと出席点呼。どうも1人足りないらしく、金八の國井先生(茅島成美さん)みたいなキャラと顔立ちの現場責任者が露骨にイライラしています。そのへんを呼ばわっても当人は見つからなかったようで、2分くらい遅れて見切り発車となりました。
車は東、つまり下流側に向かってルセの郊外を走ります。これから渡るドナウ大橋(ブルガリア語Дунав Мост ルーマニア語Podul Prieteniei Giurgiu-Ruse 英語Danube Bridge)は市街地の3kmほど下流側に架かっています。さすがに国境だと何度も申しているように、ブルガリア・ルーマニア国境に架かる橋はこのほかに1本しかなく、まさに貴重な陸路になっています。1954年にソ連の支援で架けられたこの橋は、「友好橋」(Мост на дружбата / Podul
Prieteniei / Friendship Bridge)の名でも呼ばれます。全長2,223m、背の高い船が通過する際には中心部分を昇降できる可動橋で、単線非電化の鉄道の線路も付随するという、非常に重要な渡河地点になっているわけですね。橋の入口にはゲートがありますが、出入国検査場ではなく単なる料金所のようです。そのゲートを過ぎたところでなぜか車は停止。運転手が外に出て携帯電話で何やらやり取りしています。説明されたところで言語がわからないのでそのまま待っていたら、10分くらいしてから、別の車に乗ってきたらしい男が1人やってきて、運転手の指示で荷物を荷台に乗せ、当人も車内に乗り込んできました。こいつが点呼の際にいなかった1人のようですが、悪びれた様子は皆無(笑)。
ブルガリア側の料金所 貨物列車がゆっくりとルーマニア側に進んでいく
13時15分ころ橋を渡りはじめました。橋の進入口付近では鉄道の線路が並行していますが、途中で道路の真下に入り込み、二層構造で進むようです。国境の橋といえば2年前にデンマークとスウェーデンを結ぶオースレン橋を特急列車で通過しています。あちらは距離こそ長いものの(橋梁部分だけで7,845m)シェンゲン圏内の移動なので出入国管理はありませんでした。このドナウ大橋では何がどのように進むのか興味深いですが、まだパスポート提示などの指示はありません。片側2車線の橋上を、少しだけスピードを上げて走っていきます。
ドナウ大橋から下流側を望む 右がブルガリア領、左がルーマニア領
ルーマニア側の「河川敷」は木々で埋め尽くされている
昨日来の観察でわかったように川幅がかなり広く、ルーマニア側に入ると森林だか樹海の上をまたいで走るような感じになりました。橋ではなくボートやいかだなどで渡河し上陸を試みても、この分厚い森林に阻まれ、容易にはルーマニアに入れないのではないかと思います。社会主義時代には、ブルガリアは「モスクワの長女」と呼ばれるほどにソ連べったりで、ルーマニアは豊富な石油資源を背景にソ連にものをいうこともできそうな国でしたので、「友好橋」の名とは裏腹に両国の仲はあまりよくなかったのではないかと推察されます。5分ほどでドナウ大橋を渡り終え、道路全体が右折したところに検問所のようなものが見えました。ここでボーダー・コントロールがおこなわれる模様です。
車が検査場にさしかかったところでジン・キニスキー顔の運転手が乗客に呼びかけ、各自のパスポートを預かり、乗り込んできた検査官に渡しました。検査官は1人ずつ点呼し、パスポートの写真と照合しています。われわれが入試のときにやるみたいな厳格さです。彼はそのまま旅券の束をもって下車し、建物内へ消えました。7、8分してから先ほどの人とは別の係官が乗り込んできて、また名前を呼んでパスポートを返却します。見るとブルガリアの出国スタンプとルーマニアの入国スタンプがまったく別々のページに押されていました。この間の工程を想像しますと、まずブルガリア側の出国審査がおこなわれ、同国への入国記録(私でいえば8月26日のソフィア空港での記録)をチェックしてから出国スタンプを押印、この作業が終わるとルーマニア側の検査官に束を回して、今度は入国審査ということになります。いまは国際的にデジタル暗号化された管理システムが共有されているので、お尋ね者とかアヤシイ人の旅券は自動的にハネるはずです。よほどのことがなければ機械的に処理しているでしょうし、十数名のことなのでさほど難しくはないでしょうが、絶えずやってくる車にいちいち対応してるのだから大変な作業ではあるでしょうね。国境越えの「バス」が小さな車体のバンである事情としては、流動が少ないことのほかに、この作業における手間の問題とか、ドナウ大橋の通行料の問題などがあるに違いありません。
自動車での入国がわかるルーマニア(RO)の入国スタンプ(右) 左は翌日の出国時のもの
パスポートが返されたことを確認した運転手は、あらためて乗客の人数を数え、ルーマニアの原っぱの中をつらぬく道路に車を入れました。ジュルジュの市街地には寄らない模様です。しばらくはひたすら平らな田舎の道を進みますが、直線の一本道ということでもなく、日本の農村にも似た畑地や荒地をくねくね進むような道路で、対面通行の狭い道でした。いよいよ4泊5日を過ごしたブルガリア共和国を抜け出して、ルーマニア(România)に入ります。かつて私はルーマニア社会主義共和国(Republica Socialistă România)の名で記憶していましたが、1989年の革命で政体が変わったあとは共和国などの付されないただのルーマニアが国号です。第二次大戦後の1947年に王位を追われたミハイ1世(Mihai I)が革命後に名誉回復され、何かと政局が不安定なルーマニアに直接間接の影響力を保持しており、国内の政治勢力も折に触れて彼を担ぎますので、どこかに王政復古の余地を残したいという思いがあるのでしょう。元国王が首相になったブルガリアの例を紹介したように旧東側にはそういった国がいくつかありますし、オーストリア共和国でもハプスブルク家当主の地位をめぐっていまなお論争になるほどですが、ルーマニアの旧王家に対する親愛は度を越していると外野の私には見えます。ルーマニアはブルガリアとともにかつての枢軸国、つまりはナチス・ドイツとか大日本帝国のサイドで世界を相手に戦って敗れた側です。ミハイ1世は戦時中のファシズム政権に担がれたのか、むしろ主体的に立ち回ったのかどうもわかりにくいところがあり、そうした点もいくつかの中東欧諸国に共通する事情です。ただ、前王はかなり老齢になっているので、彼自身が王位に返り咲く可能性はほとんどないと思われます。
*ミハイ1世はこのあと2017年12月に滞在先のスイスで死去(96歳)。ブクレシュティでおこなわれた国民葬では数万人の市民が彼を見送りました。
繰り返すように、中東欧はバスばかりなのですが、さりとてハイウェイがあるわけでもなく、たいていは「下道」ばかりを走ります。今後の展望として、高速道路網を造ってEU内の物流と真に一体化するのがよいのか、環境負荷もあるのでむしろモーダル・シフトを考えて鉄道のインフラを強化し、長距離輸送を高速特急や現代化された貨物列車に負うようにするのか、注目したいところです。ドナウ大橋からブクレシュティ郊外までは約70kmを1時間ほど要しており、もったいないといえばもったいない。その間はほとんど起伏のない地形で、ところどころに小さな集落が見える程度で車窓にも変化がありません。ブルガリアのごつごつした山の中がなつかしく思えるほどに、こちらは単調。
やがて、突然にという感じで都市郊外とすぐにわかる地区に突入しました。首都ブクレシュティの市内に入ったに違いありません。団地群や大型スーパーなどおなじみの都市景観になっています。走行する道路も相当に立派になり、途中からはトラムが路面を走るエリアになりました。何となく郊外の様子は福岡に似た絵です。福岡がそうであるように、郊外の住宅街が延々つづき、なかなか市街地にたどり着きません。ルセからのバスは市街地の南に位置するアウトガラ・フィラレト(Autogara Filaret)に着くことがガイドブックに記されています。予約したホテルのある統一広場からは1kmもないようなので、徒歩またはトラムに乗ればいいかなと考えていました。ところが14時45分ころ、バスならぬバンは郊外のつづきみたいな一角の、普通の駐車場みたいなところに突如乗り入れました。運転手が「ブカレスト・シティ・サントロ!」と大きな声で車内に呼びかけます。どう見てもアウトガラ(バス・ターミナル)ではないが、シティ・センターなのかと確認すればそうだというし、ほぼ全員が下車するので、こちらも車を降りて荷物を請け出しました。
乗客たちは要領を心得ているのか、散り散りにどこかへ去っていきます。アウトガラに着くものだと思い込んでいた私としては、まずここがどこなのかを確認しなければなりません。「駐車場」の少し先に大きな交差点があり、そこに地下鉄駅の入口があったのは幸い。駅名を手許の路線図と照合すれば位置がわかる。お、Piaţa Uniriiとあります。これはめざしていた統一広場ではないか! とはいえ広場自体がけっこう広いので、そのどこにいるのかを周囲の建物や道路の様子から読み取らなければなりません。どうやら車を降ろされたのは長方形広場の南東の隅で、ホテルは対角線上の北西端に近いところです。緑の植え込みがきれいな広場を横切るのもよいが、周囲はかなりの交通量がある道路に囲まれているので、いったん地下鉄の駅構内にもぐり、駅づたいに反対側に向かいます。図らずしてソフィアのセルディカ駅(しつこいようだけど札幌の大通、名古屋の栄、福岡の天神)に相当する中心駅の様子を見ることができました。それにしても町の規模がソフィアより格段に大きく、まさしく私たちがよく知る「大都市」の景観です。ホテルはすぐに見つかりました。
ヨーロッパ・ロイヤル・ホテル・ブカレスト
予約したヨーロッパ・ロイヤル・ホテル・ブカレスト(Europa Royale Hotel Bucharest)は、統一広場の北辺に位置しており、にぎやかな歩行者専用道の側にエントランスがありました。スタンダード・ダブルのシングル使用というタイプを予約サイト経由€72(ジーニアス会員割引)で取ってあります。ブルガリアほどではないがルーマニアも物価が安いので、1泊€72となると相当にハイクラスの宿であると予想していました。西欧でその価格だと普通の普通、パリやロンドンならかなりチープな宿になってしまいますけどね。ルセが€36だったのでちょうど倍です。おお、ホールが吹き抜けになっていてゴージャスじゃないですか。レセプションに通ると、実にきちんとした身なりのホテルマンが応対し、チェックインを英語で進めてくれます。ただ、2階の部屋に通ろうとしたらカードキーが作動しません。おやと思ったところに清掃作業員の女性が通りかかったのでその旨を伝えると、彼女もごく普通の英語で受けてからマスターキーで部屋を開け、内線でレセプションに不具合を連絡してから、回復してくれました。部屋もバスルームも広く、お水のボトルが1本、ウェルカム・サービスでついています。これがあるのは一定のレベル以上のところですね。場所的には町のまさにど真ん中ですし、空港行きのバスも統一広場から出るようなので、申し分なし。
ヨーロッパ・ロイヤルのエントランス・ホール
15時40分ころ市内見学に出かけます。どこかの銀行のATMでキャッシングしようと思っていたので、ホテルのエントランスに機械があったのはありがたい。ルーマニアの通貨は新ルーマニア・レウ(leu)で、複数形はレイ(lei)。新とついているのはEU加盟を前にした2005年にデノミを実施し、旧レウ(ROL)からゼロを4つ削ったためです。通常はRONと略記されるのでここでもそうしましょう。日本の円や韓国のウォンも相当なインフレ通貨なので、たとえば100円を新1円にするようなデノミネーションをしてもよさそうですが、もうなじんでしまったからいいかというところでしょう。1泊だけですし翌31日は午前のうちに出発し、おそらく現金を使う機会もほとんどないだろうから、VISAで現金100 RONを引き出しました。紙幣1枚だけというのは何とも寒々とした感覚(笑)。しかも3000円くらいのものだしねえ。念のためユーロ紙幣を€30ばかり財布に入れておきます。ま、翌日の空港ではユーロも使えるだろうし、VISAがあれば市内でもとくに問題はないことでしょう。
ホテル周辺 ドゥンボビツァ川に面して、堂々たるスターバックス!
ルーマニアは私にとってEUの28加盟国のうち23番目の訪問国です。こうなったらさっさとコンプリートしてしまいたい! これまで初めて訪れた際の入国の仕方をまとめると、航空機で首都の空港からというのが9ヵ国(英国、アイルランド、ポルトガル、オーストリア、クロアチア、マルタ、デンマーク、ラトヴィア、ブルガリア)、航空機で首都以外の空港からというのが2ヵ国(フランス、スペイン)、鉄道で最初に首都に降り立ったケースが3ヵ国(ルクセンブルク、チェコ、スロヴェニア)、鉄道で首都以外が5ヵ国(ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スウェーデン)、船舶で首都からが2ヵ国(スロヴァキア、フィンランド)、バスで首都からというのが2ヵ国(エストニア、ルーマニア)です。初めのころパリを拠点として西欧への遠征だったのと、鉄道をやたらに選好していたことにより、傾向が偏っていました。いまでも鉄道に乗りたい気持ちには変わりないのですが、たびたび述べているように中東欧ではそうもいかないのと、こちらの嗜好が少し変化してきて航空や空港がかなり好きになってきているため、飛び道具で一直線というパターンが増えました。今回は1年前にラトヴィアのリーガからエストニアのタリンにバスで入ったのにつづく自動車での入国ですけれど、何しろバンでしたし、どうも裏口?からこそっとやってきた感がなくもありません。
ルーマニアの首都ブクレシュティ(București)は人口約180万人の大都市で、英語表記はBucharest。英語の発音ではビュカレストですが、日本人はローマ字読みしたのかドイツ語のBukarestに引っ張られたのかブカレストと呼ぶのが普通になっています。子どものころ熱中して読んだ世界地理の本にはブクレシュティとあり、その影響で私もそちらを優先していたこともあって、本稿でもブクレシュティ表記にしておきましょう。現地では英語を話しているので実際にはビュカレストといっています。
統一大通り
統一広場そばの一等地にはやたらに小ぎれいなスターバックスがあり、その向こうにはマクドナルドの巨大な看板が見えるなど、2017年夏のブクレシュティは日本の大都市ともさほど変わらぬ、いってみればよくある景観を見せています。広場の真ん中には大きな噴水があります。この噴水を取り込んで東西一直線に伸びる道路が統一大通り(Bulevard
Unirii)。ゆとりのある片側2車線で、上下線のあいだには等間隔で噴水を設けた何ともぜいたくな分離帯があります。歩道部分にもたっぷり余裕があり、木立の中を散策するような気分になります。ただ、一直線なので距離感がわかりにくいのですが、500m近く同じような景色の中をまっすぐ進むと少し飽きてきます。幾何学的なデザインを優先して人間の精神性を無視した造りであることは感覚としてよくわかる。両側の建物も、欧州の伝統的なスタイルではなくモダンな外観ではあるものの、政策的に規制されたのがありありとわかる、無機質でおもしろみのないものでそろえられているのです(北朝鮮に影響を受けたといわれます)。
どこに行ってもスタバやマックに出会って、げんなりすると同時に安心を覚えることがあります。ファストフードごときを普遍的と呼んでしまうのはしゃくだが、しかしグローバル・ブランドにはそうした説得力があり、それは何よりも人間の一般的な感覚とか生活性に根ざしているからでしょう。その統一広場を少し離れただけで、きわめて対照的な社会主義時代の無機質な建造物の世界に舞い込むというのは、いまとなっては痛快なコントラスト。しかしルーマニアないしブクレシュティの当局がこの地区を保全しているのは、痛快ではなく痛恨の思いを未来に申し送るために違いありません。
人民の館
統一大通りの西の突き当りにそびえるのが人民の館(Casa Poporului)と呼ぶ巨大な建造物。Casaはスペイン語と同じでhouse(英)、maison(仏)を意味します。正しくは議会宮殿(Palatul Parlamentului)といい、王宮や官公庁などの公的建造物ではワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ巨大なものです。社会主義国では「人民」が私たちの知っている意味とは別の次元で用いられていたという「冷戦文法」を当てはめてみれば、これが人民の館などでは絶対にないことはよくわかります。不気味なまでに威圧的で、すべてを睥睨(へいげい)するような表情すら見せているこの「館」を建てさせたのが、1965〜89年の長きにわたってルーマニアを独裁的に支配したニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)にほかなりません。冷戦世代、とくに冷戦終結の時期を実話で知る世代には決して忘れえぬ人物でしょう。1989年12月の革命のころ、チャウシェスクのばかばかしいまでの強権ぶりを示すものとしてこの建物がたびたび紹介されました。当時の私は、うわっ、とんでもないなと思ったくらいで、きっと1970年代の早い時期(東西対立が先鋭化し、社会主義諸国が最後の輝きを見せたころ)にこれが建造されたのだと思い込んでいました。ここを訪れてからあらためて調べてみると、着工されたのは1984年のことでした。この年号を見てある事象を思い出します。同年夏のロサンゼルス五輪は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を非難するアメリカや日本など西側諸国が4年前のモスクワ大会をボイコットした意趣返しとばかりに、ソ連・社会主義諸国がボイコットして(理由は前年秋の米軍のグレナダ侵攻)、またも片肺五輪になってしまったときでした。しかし一方で、サマランチIOC会長の路線転換により五輪の商業化がはじまった大会でもあり、開会式からして実に派手でショー的なものになり、中学生の私はびっくりしたのです。その開会式の入場行進に、東側でありながら参加したルーマニアの選手団が姿を見せると、大半が反ソ的・反共的であったはずのスタンドから割れんばかりの大きな拍手が送られました。当時は「赤旗」が拙宅に配達されていて私も毎朝読んでいたので(何という左傾した中学生 笑)、同じ社会主義国でもルーマニアはソ連に従順でなく独自路線をゆくことを知っていましたから、ああこういうことなのかと納得したのでした。ソ連の指導を嫌う日本共産党は、当時はチャウシェスクに高い評価を与えていたようにも思うのですが・・・。ともかく、1980年代のルーマニアとチャウシェスクは独自の道を突っ走りました。それゆえに、ルーマニアの社会はひどく傷つき、経済は滞り、民族問題が根深いところで胎動していたのです。文系の、それも思想史の先生がそんなことをいってもいけないのでしょうけれど、歴史というのは後知恵です。あとから考えれば明白なことでも、渦中にいる人たちには見えない、わからないことだらけなのが普通。ルーマニアの異常さに、当時の私はまったく気づきませんでした。遠い日本の中高生ですから、いくら社会科好きとはいえ気づけないのは当たり前なのかもしれませんが、「裸の王様」と化していた独裁者チャウシェスク自身も、そのような実態にまったく気づくことができていなかったのです。
PART7につづく
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