さすがに12時50分情報は信じていないものの、やっぱり早めにホームに出ようと、12時45分ころ腰を上げました。階下にお手洗いがあり、無料のようなのでありがたいけれど、WCだけラテン文字で男・女らしき部分がキリル文字、サインはないし人は出てこないし中の様子はわからないしで、向かい合った1対のどちらが男性用なのかさっぱりわからん。「地球の歩き方」の用語集を見ても、「トイレ」はあるけどオス・メスは書かれていませんでした。人の気配がないので、思い切って片方に入り中を見やると、幸運にも男性用。こんなところで軽犯罪に問われても困ります。黒(or青)と赤、ズボンとスカートのピクトグラムはジェンダー的に問題があるのかもしれませんが、こういう時代なので日本も含めて早くユニヴァーサル化されたものを導入したいですね。
これはどちら用なのか?(Мъжеはmanのこと)
この駅にはコンコースに直結したホームのほか、島式2面のホームがあり、これから乗車する列車はいちばん外側の6番線に入ります。そのほか車両留置線などが数本あって、構内はかなり広い。何となく売店のあるあたりのベンチに腰かけていたら、例のおじさん(ゲオルギさん)が駅舎側のホームから線路に飛び降り、あいだのホームに登ってまた降りと、日本ではまずありえない(欧州ではたまに見る)線路横断をしてこちらにやってきました。ホームがとにかく低いですからね。何やらよくわからないことをいって、ホームの後ろのほうを指さし、こちらの行動を促します。もう面倒くさくなってきたのと、もしかしたら怪しい動きなのかもという疑いも多少あって、ノーノーといったら、「ついてきて! ルセはあっち!」というようなことを強めの口調でいいます。もしかすると編成が短くて、この位置はかなりずれているといいたいのかもしれません。どうやらそのとおりのようです。「ここです。ここにいれば大丈夫」という地点まで案内?されました。反対側の5番線に留置されている回送車両を見ると、イスタンブール→カプクレ→スタラ・ザゴラ→ゴルナ・オリャホヴィッツァ→ルセ→ブクレシュティという、非常に魅力的なサボ(サイドボードを短縮した鉄道用語)が掲出されています。空港でなく、こんな地方の地味な鉄道駅でイスタンブールなんていう文字を見ると感慨深いねえ。思わずカメラを向けたら、ゲオルギさんはノーと止めようとします。これに乗るのだと勘違いしているように受け取られたらしい。ただ、すぐに関心をもった対象の撮影だということに気づいたのか、自分のスマホをまた取り出してSLの動画を見せ、機関助手の男性を指して「マイ・フレンド」と。フレンドというのは先ほどの方ですかと訊ねても通じていない模様で、脈絡があるんだかないんだか。
ゴルナ・オリャホヴィッツァ駅 回送列車に掲出されたイスタンブール→ブクレシュティのサボは、国際列車だけあってラテン文字表示
13時05分ころ、電気機関車に引かれた列車が入線しました。なるほど客車4両の短い編成ではありますが、おじさんの指定した場所から2両ぶんくらい戻ることに。「大丈夫、大丈夫」とにやにやしながら、またそちらに誘導しました。最後尾の車両に乗ろうとしたら、「これはジーメンスのやつだからダメだ」みたいなことをいいます。ジーメンス(Siemens 日本法人はシーメンス)はドイツ発祥の電気・電子工業の世界的企業で、鉄道の分野では世界最初の電車を製造したメーカーとして知られます。電車(electric car)というのは電力を取り込んで自力走行する鉄道車両のこと。近ごろの人たちが「鉄道」「車両」「列車」であれば何でもデンシャと呼ぶので、鉄道マニアは違和感を禁じえません。いま入線してきたのは、電気機関車の引く客車列車(客車というのは自力走行できず、機関車に牽引してもらう車両)ですが、ジーメンスは客車も製造しているのね。それにしてもゲオルギさん、妙なこだわりがあるのはいいとしても、出会ったばかりの外国人にそれを共有させようというのはなかなかすごいです。もしかすると、鉄道好きでずっと駅構内をうろうろしていて、いろいろな人に世話を焼くのが生きがいなのかもしれません。別れ際まで「英語を話せないのです」と繰り返し、「ロシア語か、ドイツ語ならば少しだけ話せるのですが」といっていました。スパシーバ、ダンケシェーン。どうもありがとう、さようなら!
ジーメンスではないらしい車両に乗り込むと、欧州でしばしば出会うタイプの2列×2のクロスシート車で、多少古びているようですが内装をリフォームした跡が見えます。ごくごく普通の車両ながら、向かい合わせの4人席を独占できたのでいうことありません。各ボックスに1人か2人程度の乗車率なのです。予定より遅れて13時15分ころ発車しました。
ホットドッグをかじりつつ車窓を楽しみましょう。バルカン山脈から北上してドナウ川流域の平場(ルーマニア平原)に出ていく地形のため、下り勾配なのが見て取れます。小麦畑やヒマワリ畑、牧草地などの中、単線の線路をひたすら往く感じです。線路の両側に、けっこう立派な防風林ないし防雪林が植えられています。1つ先の駅(集落)まで10km以上は離れていそうで、さすが大陸やなあ。人によって好みはあるだろうけど、バスよりずっとゆとりがあるし、レールのジョイント音が心地よく旅情をそそり、鉄道のほうがやっぱりいいなあ。そういえば子どものころ母の実家(現
福岡県うきは市)を訪ねるときに、国鉄久大本線というどこからどう見てもローカルな非電化単線をディーゼルカー(デンシャではないよ)や客車列車に乗って往くのが大好きでした。都会育ちなのでごくたまにその機会があるのが妙にうれしかったのです。ガキのころから渋い鉄道マニアだったわけね。ところがある時期から西鉄バス利用ばかりになり、親たちは並行して走る鉄道に見向きもしなくなります。あとから思えば国鉄は、1975年のスト権奪還スト、1976年の運賃の大幅値上げ(石油危機後とはいえ一挙50%上げ!)のあと信頼を失い、ひたすら転落の道を進み、他方でモータリゼーションが進行していくという時期でした。運賃は高いし本数はどんどん間引かれるし、駅が町はずれにあって祖父の家まで歩くと遠いしというので、一般の感覚だと当然バス利用になるわけです。鉄道と自動車とを距離や役割によってうまく棲み分けさせる総合交通政策がもしあればとも思いますが、詮なきことでしょう。ことに九州は西鉄一派のバス王国で、都市間移動から路線バスまで、けっこうな距離でもバスを使うのが普通だという感覚のある土地です。新幹線開業で少しは変化があったのでしょうか。
ルセ駅
15時05分ころルセ駅着。ヴェリコ・タルノヴォ駅員の手書き文字は17でなく15ということだったに違いありません(いまだにそのようには読めないが)。駅の規模はゴルナより大きめで、吹き抜けをもつ石造りの立派な駅舎でした。こういうのも「古きよき鉄道の」となってしまわないよう、経営努力してもらいたいものです。
今回の遠征、ブルガリア最後の宿泊地であるルセ(Русе)にやってきました。ルーマニア国境の町として知られています。というか、どこで越境するかと考えてちょっと調べたらこの地名が出てきたのであり、それまでは往年の地図少年も知るところではありませんでした。日本語で書かれた旅行記ブログなどでこの町の様子が紹介されているのをいくつか読みましたが、越境そのものに力点が置かれるものが大半で、ルセがどういう町なのかという情報はほとんど見かけません。こちらは予習控えめで、現地であれこれ発見するのを何より楽しみにする旅人ですので、それでいいのです。いずれルセを訪れようとネットを突っついたら私のこのページに出会い、詳しすぎて迷惑ですという人が出てくるかもしれませんが、これが出てくるまで突っつくような人はたぶん迷惑がらないと思う(笑)。欧州でもけっこうマイナーなところ(都市/スポット)を紹介した私の記事がGoogleさまの日本語検索で上位に紹介されるケースはちょいちょいあるようです。みなさま、確定情報はくれぐれもご自身で。
ここでもやはり鉄道駅は中心部から遠く、地図によればまっすぐ進むだけながら2km弱はありそうです。ただルセではバス・ターミナルも中心部から遠くて、鉄道駅の真横にありました。そのアフトガーラ・ユク(南ターミナル)にまず寄って、明日の国境越えの可能性をさぐることにします。小さな待合室に、ソフィアと同じように各社のブースや窓口があり、どれがブクレシュティ行きなのやらまるでわかりません。総合時刻表みたいなのがあり、ブクレシュティらしきキリル文字を見つけましたが、運行会社や運賃がはっきりしない。近くに座っていた男性(お手洗いの集金係)に聞いてみても、私にはわからんですといわれてしまいました。大半のブースは窓を閉ざしています。ここはいったん中心部のホテルに入って、ネットの英語情報をもう一度突っついてみることにしよう。駅前からバスがあるようなので15分ほど待っていたのですが現れる気配がありません。キリル文字だけの電光案内板は、希望の系統番号と、さらに15分くらい先の時刻を示しているので、これは当分来ないということだと判断して、徒歩に切り替えました。南北に伸びるボリソヴァ通り(Улица Борисова)をひたすらまっすぐ歩きます。ここも歩道のタイルがガタガタで、キャリーをしばしば持ち上げなければならない状態でした。町のつくりは美しいのに、インフラのメンテナンスはよろしくありません。乗るかもしれなかったバスが私を追い抜いていったのは行程の終盤で、歩いて正解だったように思いますが、けっこう汗ばんできました。
しっかり20分以上かかって、町の中心であるスヴォボダ広場(Площад Свобода)に出ました。よく整ったきれいな広場ですけれど、そこに面して予約したホテルがあるので、観察は後に回そう。ドナウ・プラザ・ホテル(Dunav Plaza Hotel / Хотел Дунав Плаза)は、立派な建物ですがホテルというよりは役所か病院のような外観で、中心広場の真横なのに1泊朝食つき€36で予約しています。本当に物価が安い。20代と見える美人のおねえさんがレセプションにいて、実にきれいで流暢な英語を話します。パスポートの提示を求められ、取り出そうとしたら、そこにはさんでいたルセまでの鉄道チケットがひらひら出てきました。「え、トレインでいらっしゃったんですか! バスじゃなくて? もう、はっきりいってトレインを使うっていうのは信じられないことです!」と、手のひらを上に向けて首をすくめる例のポーズ(欧米か!)。ディスられているのかもしれないけど、Sっぽい感じもカワイくていいじゃないですか。日本人旅行者にいわせれば、貴国のほうこそアンビリーバボーなことが多いよん。
ドナウ・プラザ・ホテル
無機質で妙に直線的なのは建物の内部も同じで、本当に病棟か公団住宅の廊下を歩いているみたいです。ただ客室はかなりスタイリッシュ。広い部屋にダブルベッドが置かれ、調度品や水まわりもハイセンスでした。とっとと市内見学に出たい気持ちを抑え、タブレットをWi-Fiにつないで、明日の国境越えに関する情報収集をしよう。何ごともインターネットでしか情報を得られない昨今の軟弱な人たちと違って、こちらはアナログ時代に自力プランニングで鍛えた身、だからこそネットでも海外でも確実な情報を得られるのだ。――と威張りたいところだけど、この種のしくみがまだ十分にオンライン化されていないブルガリアでは当方のセンスをもってしても突破できない場面が多々あります。要は、交通機関の運行会社がいろいろあって、各社がそれぞれのやり方でネットに情報を掲出しており、そうした複数の情報を統合する機能が整っておらず、さらには英語化もかなり不十分ということです。タイムテーブルだけ掲出して英語での予約方法がわからんというサイトもありました。前述したように、日本人の先達が国境越えの経験を報告してくれているものを複数読んでいたため、鉄道便がそれなりにあるのかと思いきや、ルセ16時10分発、ブクレシュティ18時58分着という夕方の1本だけ。これではあまりに遅く(lateとslowの両方で)、ブクレシュティの見学がほとんどできなくなります。ブクレシュティには1泊して、翌31日の14時10分発の便で帰国の途につくことにしており、最終日の市内見学が可能な時間はせいぜい2時間程度。サマータイムで日没が遅いぶんを含めても、30日はなるべく早い時間に国境を越えてブクレシュティに入っておきたいわけです。バスの情報もいろいろ出てくるものの確定的なものが見当たりません。ルセの対岸、ルーマニア領のジュルジュ(Giurgiu)からは鉄道、バスともにブクレシュティ行きがそれなりに出ているようなので、まずドナウ川を渡ってジュルジュに向かうほうが現実的かもしれない。
ここは地元の人のほうが確かだろうと考えて、レセプションに行き、係の男性にジュルジュまでの行き方を質問すると、ちょっと待ってといって、例の美人のおねえさんを呼んできました。交通事情の知識と英語力を信頼してのことと思われます。「ジュルジュですか? バスはなかったと思います。ときどきタクシーで行かれる方がいます。ここに泊まってルーマニア側を見たいという方にはタクシーを呼んでさしあげることがあるのです。たしか100Lvとかだったと思いますが、それは往復だったからですかね」。うん、万一のときにはタクシーでもやむをえない気がしてきました。ブルガリアのタクシーが帰りにルーマニアの客を乗せて賃走することはできないでしょうから、往復ぶん請求される可能性もあります。おねえさんは気を回して、「ジュルジュに行きたいのですか? ブカレスト(ブクレシュティ)ではなくて?」と問いました。――私が本当に行きたいのはブカレストです。明日じゅうにブカレストに入らないと、明後日の飛行機に乗れません。「ジュルジュはどうでもいいのですね? ブカレストですよね? だったらバスがあるんじゃないかしら。調べてみましょうか?」と、PCでネット検索し、「ルセからブカレストまで直行するバスがあります。手配しましょうか?」。――イエス、プリーズ。「(かちゃかちゃかちゃとネットを操作)あなたのお名前とメール・アドレスはホテル予約時のものでいいですか? それと、クレジット・カードを貸してください。・・・取れました! おお、最後の1席みたいですよ!!」 ――オー・グレイト! You
made a good job!! まったくもってGJなことで、おねえさんに深謝です。プリンタで打ち出してくれた予約票は大半がキリル文字で、数字以外は相変わらず読み取れないながら、ルセとブクレシュティという地名は解読できるので、12時45分発の便が予約でき、運賃は19.80Lvとかなりリーズナブルであることがわかります。ブクレシュティ着は14時30分で、これも申し分なし。ペガサスというバス会社のようで、先ほどターミナルの時刻表で見た便のようだけど、そこには英語情報がなく詰められませんでしたし、自分で検索したときにその社名も引っかからなかった気がします。いまあらためて同社のサイトを見ると、ちゃんと英語版もありオンライン予約できるので、こちらの探索が甘かったということでしょう。おねえさんは「いい結果が出てよかったですね。いや、さっき鉄道の切符を見たときには、列車で動くなんてクレージーなことだと思いましたよ。やっぱりバスです」と、相変わらずSっぽいですけど、いい仕事をしてくれました。鉄道マニア(直訳すれば偏執狂 近年のポリティカル・コレクトネスでは医学的な病名に訳すでしょうが、この語が比喩的に導入されたときはまさに「狂」のニュアンスでした)などという種族の存在はなおさら認めてくれないでしょうね。
ルセのメイン・ストリート、アレクサンドロフスカ通り
これで翌日の動きがようやく確定し、17時過ぎにルセ見学に出かけました。日の長い夏場は町歩き可能な時間が長くてやはりありがたい。ホテルが面しているスヴォボダ広場の北辺を貫通するようにして南西〜北東に伸びるアレクサンドロフスカ通り(Улица Александровска)がメイン・ストリートのようなので、まずは北東側に歩いてみます。ここはタイル張りの歩行者専用道で、両側には飲食店、衣料品店など各種の店舗が軒を連ねており、けっこうにぎやか。家族連れなど歩行者もかなりあります。ルセは人口規模でブルガリア第5の都市で、ドナウ川に面した交通の要衝であることから、ローマ帝国もオスマン帝国もここに拠点を構築しました。1878年のブルガリア国家「解放」後は、首都ソフィアや旧都タルノヴォが山の中にあるのに対しこのルセが平原の大河沿いにあることから、一種の「玄関口」として機能したようです。目抜き通りは予想以上に垢抜けていて、明るい雰囲気でした。
例によって、どこを見たいという当てがあるわけでもないので、しばらく道なりに歩き、適当なところで左折してみました。目抜き通りはドナウ川に並行していて、どこかで左折して300mくらい歩けば河岸に出ることがわかっているからです。あまりよさそうな道ではないので引き返し、別のルートをとることにしましたが、途中に大型スーパーがあったのでしばし見学。店内の様子も商品もよく知るスーパーそのものでした。お水が切れかかっていたので、スティル・ウォーター1本だけ買っていこう(1.28Lv)。目抜きに戻ってもう1ブロック進んだところがわりと大きめの交差点で、これを左折して河岸のほうに向かいます。中規模の総合病院や、立派な外観なのにどうやら閉鎖されたらしいショッピング・センターの横を通り抜け、河岸道路に出ました。川面からはけっこう高い位置にあるものの、びっちり植樹されていて肝心のドナウ川に近づくことができません。南東すなわち上流側に戻るような感じで河岸道路を300mほど進んだところに河岸林の切れ目がありました。
歩いてきた道の1つ川側に、地図上にも見える単線の線路がありました。おそらく船舶輸送や川沿いの工業地区とのかかわりが深い貨物線でしょう。電化されているし、レールがぴかぴか光っています(「現役」である証拠)。それを渡ったところが本当の河岸。観光客なのか地元の人なのか、思ったよりも多くの人が川べりに出ていました。
ドナウ川の本流を眺めるのは4年ぶりです。2013年9月にオーストリアのウィーンを訪れ、そこからドナウ川を往く船でスロヴァキアのブラチスラヴァに向かいました。ことしの2月にはクロアチアとスロヴェニアを訪れており、いずれもドナウ川流域で、そこに降った雨が最終的にドナウ川にそそぐのですけれど、本流はもう少し北側を流れてくるのでした。いま立っているルセ付近は、河口までまだ300kmばかりを残しているものの、全長2,850kmの長大河川の中では「下流域」といって間違いないでしょう。首都ソフィアもヴェリコ・タルノヴォも、ドナウ川支流に沿って立地しています。欧州の火薬庫は、ほぼ丸ごとドナウ川流域ということなのですね。それだけ長い距離をゆっくり流れ下ってくるわけなので水量は豊富です。対岸のルーマニア側はこちらとは比較にならないほど分厚い河岸林で覆いつくされていて、向こうの様子がまったく見えません。んん、いかにも「国境」だね。それにしても、最近は3台のカメラ(遠景用、接写用、タブレット)を使い分ける三刀流で、ここでは当然のことに3台で何十枚も撮影しているわけですけれど、社会主義時代だったら国境にカメラを向けただけで身柄を拘束されているに違いありません。そして現状、川をはさんで向き合う両国はEU加盟国ですがシェンゲン圏ではなく、それぞれ入国審査の必要な昔ながらの「国境」を維持しています。簡単には越えさせないぞという意思を感じるような対岸の「森」を見るにつけ、おねえさんのアシストでようやく国境越えの足を得たという苦労も無理からぬことだなと思います。
国境のドナウ川 対岸はルーマニア領
西欧から輸入されたナショナリズムに支えられた諸民族が、将来の国家の領土、そして国民をめぐって互いに熾烈な争いを展開した。ネイションとしての自覚を持たなかった正教キリスト教徒住民も、民族主義者たちの圧力の下、いずれかのネイションとしての意識の選択を迫られた。そして、選択したナショナル・アイデンティティを保持せざるを得ない状況におかれた彼らは、やがて民族対立の争いに巻き込まれてゆく。列強は国益にかなう民族をそれぞれに支援したため、敵・味方の関係は状況次第で変わった。
(前掲『バルカン』 村田奈々子氏による解題、pp.268-269)
ビザンツは公式には「ローマ帝国」で住民の意識も「ローマ人」でしたし(ただし7世紀以降の公用語はギリシア語)、支配階層がイスラームであるオスマン帝国の時代にもキリスト教徒たちは「ローマ人」と呼ばれ、またそのように自覚していました。言語の違いはアイデンティティの支えにはなっていません。バルカン半島というか、南東欧の大半の地域に「国境」はなく、どこへ行っても純粋な民族集団などというのは存在しませんでした。フランス革命が近代のもろもろを発見し、それをナポレオンが侵略の手土産にして欧州大陸にばらまき、さらにはナポレオン失脚前後の混乱に乗じて、ロシア帝国が黒海沿岸からバルカン半島、地中海への進出をうかがう状況になったとき、このあたりに「境」がかなり人為的に引かれ、それがしばしば動いて、西欧的概念であるネーション(国民)が悲劇的な宿命とともに固着していくことになります。「日本は島国だし単一民族国家なので」というエクスキューズを掲げて、そうした事情への無理解を正当化しようとする日本人にしばしば出会いますが、島国である英国やインドネシアを見て同じことがいえるのかというのもありますし、近代国家(明治政府)確立前後における「周縁」部、すなわち北海道や南西諸島のことをどこまで念頭に置いているのかなと思います。
いま私たちが知っている(そして現に私が直接見ている)ブルガリアとルーマニアは、主流の信仰こそ正教で共通していますが、言語も文字も異なります(ブルガリア語は南スラヴ語の一派でキリル文字、ルーマニア語はロマンス語の一派でラテン文字)。このドナウ下流域のルーマニア平原には14世紀以降にワラキア公国があり、オスマン帝国を宗主国としてその辺境をなす位置を占めました。19世紀に入り、ロシアが南下してしばしばオスマンと戦い、徐々にこれを圧迫すると、ワラキアとその東に位置するモルダヴィア(主流民族はルーマニア人)はロシア・オスマンの衝突地帯ないし緩衝地帯になります。どちらが勢力を拡大しても困る西欧列強は、1853〜56年のクリミア戦争でロシアが敗退するとこの地域に積極的に介入して、オスマン帝国の宗主権をあいまいにしたままワラキア・モルダヴィア両公国の実質的な合同と、国家としての一定の自律性を取り決めました。1859年のことで、これがルーマニアの母体となった国家です。イタリア語やフランス語と同じラテン語の系統であるルーマニア語が、新生ルーマニアの統合の指標になりました。ただし現在のルーマニア国土の左上(北西)、カルパチア山脈とトランシルヴァニア山脈に画された広大な部分は、オーストリア・ハンガリー帝国のうちハンガリー王国に属し、ハンガリー系やドイツ系の住民が半数近くを占めました。これがルーマニア領になるのは第一次大戦後のことで、いまでもハンガリー語話者が多く、ルーマニアのアイデンティティ形成を難しくする要因になっています。またモルダヴィアはのちにルーマニアから切り離されてソ連に接収され、1991年に再独立するのですが、ルーマニア語を話す多数派と、国の東部にあって一度もルーマニア統治下に属したことのないロシア語話者の対立がはじまり、後者は沿ドニエストル共和国なる未承認国家をつくって分離してしまっています(日本の地図を見てもその事実は見えません)。モルダヴィア改めモルドヴァ共和国は、沿ドニエストルの分離後も親EU路線の可否をめぐって常に国内が割れ、難しい国家運営をつづけています。ルーマニアとの再統合やEU加盟があるのかどうか。なお2004年に日本でも愉快な線描アニメ動画とともにヒットした「恋のマイアヒ」はモルドヴァのグループO-Zoneの曲で、「飲ま飲まイェイ」と聞こえていた歌詞はルーマニア語。
河口まで300kmほどを残してこの川幅というのは日本ではなかなか見ない規模ですが、これが前近代あるいは近代の人々にとって、どれほどの障害物であったのか、なかったのか。この向こう岸は別の世界で、国や民族や言語が異なるのだという感覚を自然に得られるほどの川幅だったのかどうか。仏独国境のライン川でもそのようなことを考えたことがあるものの、21世紀にいたるまで火薬庫でありつづけるバルカン半島では、余計にその疑問が脳内をめぐります。一般的にはドナウ川以南がバルカン半島とされ、ルーマニアは域外なのですが、「バルカン諸国」というときにはカウントされることがあります。少なくとも旧ワラキア公国からモルドヴァにかけては「バルカンのつづき」と考えるほうが、歴史的・地理的なまとまりを理解しやすくなるように思います。国民国家は「想像の共同体」(the Imagined Community ベネディクト・アンダーソンの著作から)だそうですが、なるほど心理的・精神的なボーダーというのが周囲を取り囲み、その中で均質性とか一体感といった神話が想像(創造)されていったのでしょう。翌日のドナウ越えの手配がならず、ブルガリア領内に留め置かれるのではというプレッシャーがもしあったならば、その感はさらに深くなっていたかもね。
どうやら私は中心部を北に外れて、ドナウ河岸をぐるっと回ってきたようです。スヴォボダ広場から直接河岸に出ていれば、そこが川と国境を望む公園になっていて、ホテルや飲食店もそのあたりにあるのでした。上流に向かって河岸を歩いてきて、その付近に出てきました。18時半になって、ようやく日が傾き、上流方面の地平線に落ちていこうとしています。でもまだ2時間くらいは明るいんですよね。この日は鉄道での移動と列車待ちが長く、歩いた距離こそ大したことはなかったものの、「作業量」という意味ではかなりエネルギーを使いました。前述のようにヴェリコ・タルノヴォ以降は現地で手配という方針にしたのですが、東欧はまだまだシステムが十分でなく、外国人旅行者・訪問者への対応がハードとソフトの両面で発展途上のようなのと、そこに旧式?の国境が横たわっているのとで、思っていた以上に移動の困難がありました。これは欧州初心者には無理だなあ。ことばが通じないとか切符を取れないといったこと自体をおもしろがる余裕が私にはあります。いやおもしろい。
スヴォボダ広場付近に戻り、先ほどとは反対の西側界隈をぐるり一回り。こちらもよくある商店街で、そろそろ店じまいの準備というところです。いつまでも明るいため、町のあちこちで子どもたちが元気に遊んでいてほほえましい。子どもたちが元気な国には未来があります。そろそろ夕食をというのでレストランを物色しましたが、なかなかそれらしいところが見つかりません。結局、スヴォボダ広場に面して仮設のビニールハウス式テラスを設けていた店に声をかけて、ハウスに入りました。Кралска Закускаという店のようで、いまGoogle翻訳にかけてみたらRoyal
Breakfastとのこと。メニューには英語も添えられていて、やはり西欧の感覚からすれば3分の1といった相場でしょうか。ブルガリア伝統料理、牛・豚・鶏・ソーセージなど各種の肉料理も見えますが、ソフィアのホテルで出会った大先輩が「ルセにいらしたら川魚料理をぜひ召し上がってください」とおっしゃっていたので、ここは魚にするかな。要はグリルで焼いただけのシンプルな焼き魚のようで、ナマズ、コイ、ブリーク(コイの仲間らしい)、スカッド(アジの仲間らしい)、トラウト、バス、サーモン・フィレ、イカなど種類もいろいろあります(英語でいわれてもわからんものが半数以上!)。フィレ(切身)とあるサーモンとイカのほかは尾頭つきということでしょうかね。ここはドナウ川名産でもあるトラウト、日本でいうところのマスをいってみよう。250g、8.99Lvだそうです。飲み物はメニューに写真が載っていたЖиво Ливоなる生ビール(2.59Lv)をオーダーしました。これは炭酸の少ないエールで、いい味ですっと胃に落ちます。
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ルセは首都ソフィアから直線距離で300kmほどしか離れていないのですが、あいだに別の都市を挟んだのと、かなりのアップダウンがあったためか、はるばるやってきたという感じがします。町の雰囲気もかなり違う。ほんの4、5年前まで東欧をめぐろうなどという考えはほとんどなかったので、いまブルガリアの地方都市にいるのが不思議な気もするね。魚はなかなか運ばれてきません。おそらく大きな魚を丸ごとオーヴンに入れてじっくり焼くため、時間がかかるのだろうと思います。15分ほどして運ばれたのは、やはりかなり大きな尾頭つきでした。間がもたないので同じビールの追加を頼みます。さあ食べよう。背中が下、腹が上になっているのは妙な感じですが、実は日本料理でも「海腹川背」といって川魚はそのように並べるのが本式。実際にそう置かれたらびっくりしちゃいそうですけどね。中年になったら肉より魚、アイドルより演歌が好きになるよと若いころにずいぶんいわれたものの、48の年男を迎えてもなお肉とアイドルのほうが好きなので、時代の推移ということにしておきましょう。それでも魚の食べ方はわれながら上手なほうだと思います。これでお箸があれば無敵だけど、これほどのサイズであればナイフとフォークでも余裕。魚食い民族の血が騒ぐてなもんです(笑)。基本的には、背骨に沿ってナイフを入れて全体の4分の1を切り取り、そこから食べていけばいいわけです。内臓をくりぬいたところに串切りのレモンを詰めて焼き、くさみをとっているらしい。白身でしっとりしており、塩もきつくなくて美味しいな。サケもマスも本来は白身なんですよね。ま、「魚の塩焼き」なので特段の特色があるわけではなく、目をつぶって食べなさいといわれたら東京の居酒屋にいるのと変わりないはずです。ビールがあればなおさら。というわけで、おっちゃんの晩酌みたいな夕食になりました。請求されたとおりに現金決済しましたが、いまレシートを見るとビール2杯のはずが1杯、単価も3.59Lvになっていて、何かと混乱したのかサービスなのかは不明です。トラウト8.99と合わせて12.80Lvとなりました。やっすー。
腹ごなしに広場の周辺をもう一回り。率直にいって全体に1970年代くらいの町づくりのセンスで、広場や道路がやけに直線的すぎますし、建物も多くは無個性でおもしろみがありません。色も形もでたらめなアジアの住民だからといわれそうだけど、直接には西欧と比べてそのように思うわけです。それを「社会主義のせい」といってしまってよいのかとなると、多少の躊躇もあります。
スヴォボダ広場
前日は昼前後に少し雨に降られましたが、移動中で実害はありませんでした。8月30日(水)はまたも好天でありがたい。8時ころ0階に降りて朝食をとりました。いいホテルではあるものの格式でいえばビジネスだと思っていたら、ダイニングはずいぶん立派で、それこそ旧式の建物のパーティー・ルームみたいな感じ。位置を考えても、社会主義時代の共産党関係の建物だったのではないかと思えてきます。レセプション絶賛ご協力のおかげで、この日は駅横のバス・ターミナルを12時45分に出るバスでブクレシュティに移動できることになりました。余裕を見ても、11時30分ころにホテルを出れば大丈夫でしょう。小さなルセの町に見どころがいろいろあるわけでもありませんが、ドナウ川ももう少し眺めたいし、それを含めて午前は少し散策しましょう。あと数時間のうちにブルガリアを出国するので、最後のブルガリアをじっくり味わおう、などという殊勝なことではなく、ブルガリア・レフの現金をなるべく使ってしまいたい。無理かな。
スヴォボダ広場から西に、古びた住宅地の中を10分ほど歩くと税関(Морската Админстрация
/ Maritime Administration)がありました。表から見ると稼働している様子はなく、係官なのか数名の男性がヒマそうに背伸びするだけ。税関があるということは、ルセ港に国の玄関としての機能がそれなりにあるということではあります。大がかりなものを荷揚げできるような桟橋は見当たりませんが、むしろこちらから係官が出向いて船内をあらためるのでしょう。ここまで来るとEU加盟国といいつつ、その制度が完全には実施されていませんので、従前の国家のあり方が堅持されています。ただルーマニアともどももう少し経済が上向いたらシェンゲン圏に入らなくてはならない約束ですから、そのころにはドナウ川を介した物資の往来もさらに増えることでしょう。少しシビアなことをいうと、ドナウ川が最終的に注ぎ込む黒海は、軍事大国であるロシアと、ロシアが接収したクリミア半島(日本を含む「国際社会」の地図ではウクライナ領)があり、実質的なロシアの属領である自称アブハジア共和国(日本を含む「国際社会」の地図ではジョージア領)や、ロシアと仲の悪いウクライナとジョージア、ロシアと仲がよいのか悪いのかどうにもわからないトルコが取り囲む火薬湖みたいなところです。ブルガリア・ルーマニアの欧州への帰属が明確になればなるほど、この付近は欧州南東のフロンティアとして、重要な防衛拠点になっていくに違いありません。ちょうど1年前に訪れたバルト三国のエストニアあたりもそうでした。冷戦世代にとってはブルガリアやルーマニア、バルト三国がNATOの一員であるというだけで感慨深いというか、考え込んでしまうというか。
(左)税関 (右)税関のそばのドナウ川(上流方向を望む)
それにしてもこの国は道路のメンテナンスがどうにもできていない
税関の南側一帯はやはり住宅街で、商店らしきものもほとんど見えません。平日の午前中ということもあって人影もほとんどない。さしたる目的もないので遠回りしながら町を歩いてみました。いつしかスヴォボダ広場に戻ってきたので、いま一度アレクサンドロフスカ通りに進みます。「ブルガリアのお土産」というのを買ってもいいかなと思うものの、たまに見えるスーヴェニア・ショップは、日本でいえばキーホルダーとか手拭とかマグカップとかどうでもいい民芸品(たいてい中国製だったりする)ばかり売るようなもので、いまどきこれはないよなと思うような感じなのです。ショコラチエ(チョコ屋さん)があればいいのに、それも見当たりません。ソフィアに着いたその夜にローズ関係を購入しておいてよかったです。こうなったら遠征恒例の自分用のネクタイをどこかで買おう。アレクサンドロフスカ通りの小さな紳士服店をのぞくと、デザイン、仕上げともいまいちながら、品数は豊富にぶら下がっています。予算はありますがさすがに2本買う気にはなれず、24.90Lvのものを1本だけ購入しました。タグを見るとMade in Turkey(トルコ製)とありました。
ルセは国境越えの足場を借りたような滞在になってしまいましたが、「地球の歩き方」のト書きには「旅行者は国境の町として通過してしまうことが多いが、『バルカンではなくヨーロッパに属する町』と呼ばれる雰囲気に、途中下車して浸ってみるのもいいだろう」(『ブルガリア/ルーマニア』、ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、p.133)とあるくらいなので、そもそもそういう設定なのかもしれない(汗)。ただの途中下車ではなく1泊しましたしね。11時前にホテルに戻り、11時20分ころにチェックアウトして、バス・ターミナルに向かいました。今回はバスを端から当てにせず、20分かけてガタガタの歩道をまた歩きました。
PART6につづく
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