最近の若い人の言葉遣い(オリジナルはたぶん松本人志)に「イタい」というのがあります。発言や動作が当人の意図にかかわらず周囲から冷笑されるような状況を指し、日常でもわりと使いでのある語彙。イタさを回避しようと汲々とする生徒・学生を見ていて気の毒になるし、そもそも善意とか無邪気な行為を一方的に嘲笑するような人にはなりたくないですけどね。人民の館を建てさせた時期、1980年代のニコラエ・チャウシェスクは、当時そのような用法があったとすればイタさのかぎりでしかありませんでした。他の社会主義国でもそうでしたが、チャウシェスクのルーマニアはとくに警察権力による監視のシステムがものすごくて、国の隅々まで統制していたことで知られます。部下や側近も互いに競わせ、自身に代われるような突出した存在をつくらなかった点でも典型的な独裁者でした。社会主義計画経済というのはそもそもチャレンジングで、この規模の国が1国でやれるものではないはずなのに、ソ連にたてついたりするものだから経済は破綻していきます。食糧と生活物資の不足がとくに深刻化しました。悪いことに、ソ連に反抗的だというので西側が甘やかした部分もあります。そうしているうちに独裁者は自分の国で何がどうなっているのかを認識できないようになっていきました。経済の破綻など報告すればその人物が処断されてしまいかねないからです。革命後に明らかになったところでは、チャウシェスクが視察する商店にだけあふれんばかりの商品を陳列し、彼が訪問する農村にだけまるまる太った家畜をかき集めて放牧したといいます。「チャウシェスク同志の善政のおかげです」という演出にほかなりません。そんな物語的なことがつい最近までおこなわれていたのがすごい、というかまことにイタい。増産のためには人口を増やすべきだという妄念にとりつかれたチャウシェスクは、離婚や人工妊娠中絶を禁止し、とにかく多産を奨励しました。1990年代にはそうして生まれ、捨てられた子どもたちがストリート・チルドレン化して社会問題になりました。また医療水準が悪化してエイズ罹患者が急増しました。それなのに、対外債務の削減を優先したため工業製品や農作物は輸出に振り向けられ、国内の物不足がさらに悪化して・・・
統一大通りの両側に衝立のように建つ無機質なビル 近年ではあえてここに入居するブティックやアトリエなどが増えて
新たな名所づくりがはじまっている 壁の落書きがこんなにも安らぎを与えるとは
本当は人民の館を見学したかったのだけれど、日に数回開催される1〜2時間のツアーに参加しなければならないので、今回は断念。それにしても統一大通りの両側には例の無機質な建物がびっしりと連なっていて、統一広場までの約500mの間に交差点は1つもありません。つまりはこの道を戻らざるをえないわけです(館のすぐ前から分かれる道はある)。なるほどぱっと見には美しいが、実際には機能性すらないというトマソン物件でした。人民が飢えているときに巨費を投じてこんなものを熱心に造ったのだから、返す返すもイタい。痛恨でしょう。民主主義国家ならば、くだらぬ権力を選んでしまった国民のせいなのかもしれませんが、社会主義国家の人民にそれを求めるのは酷ですし、社会主義でなくてもいったん暴走しはじめた権力はそういうことになってしまうのです。
ルーマニアについて語るべきことは、文化的なこと、地理的なことを含めて他にもいろいろあるはずですが、私たちの世代にとってはどうしてもあの独裁者の強烈なイメージが固着して、そればかりになってしまうのです。ごめんなさい。2007年にブルガリアとともにEU加盟を認められたものの、ルーマニアもまた経済状況やそれに対応する政策などの不備がもろもろ指摘され、「追試」を受け、さらには「宿題」を突きつけられて、これを果たさなければEUの一員として認めないからねと念を押されています。政情もEU域内では最も不安定ですし(それも一貫して)、治安の悪さはとくに有名。テロうんぬんではなく、そもそも治安が悪くて物騒だというのだから、経済不振というのは万病のもとなのですね。ただ、チャウシェスクに気を取られすぎてもいけません。すでに述べたように、19世紀の国家建設の事情がそもそも大国の思惑によるものでしたし、それから今日まで、自分たちの手で社会を安定させるという機会を十分に得られなかったところに、この地域の不幸があります。
統一広場付近 コカ・コーラやペプシの看板が載る建物が暗黒時代のものであるため、絵としてグロい?
この町の座標ゼロである統一広場にいったん戻り、あらためて市街地を歩くことにします。市域はかなり広く、中心市街地に限っても数キロの範囲に広がっていますので、今回は中心の中心だけ歩こうかな。南北方向の幹線道路であるブラティアヌ通り(Bulevard Brătianu)を北に向かいます。この道路は先(北)のほうでたびたび名を変えるのですが、面倒なので説明は省略。ただ、基本的には自動車の道路であり、商業地はその内側(西側)一帯です。銀座通りではなく昭和通りだと思えばよい。いったん外側を通って、逆時計回りに商業地を逆流してこようというプランなのです。ホテルのあるところが旧市街の南辺なので、そこを終点にすればいいと考えているわけね。率直にいってこの大通りの周辺は、西欧というよりは東京の都心にかなり近い景観です。あとで見る旧市街と違って景観規制がなされなかったのでしょう、現代的なビルがどんどん建てられ、ありがちな商店が入居して、人通りもかなりあります。
旧市街外側のブラティアヌ通り周辺 レンガ造りの建物は病院らしい オオカミの乳を飲む双子は古代ローマの始祖
ロムルスと弟レムスか?(ルーマニアは「ローマ人の国」の転訛) 古書の露店にはチャウシェスクの顔も(omagiuはオマージュの意)
ブラティアヌ通りを500mほど北上したところに大きな交差点があったので、そこを左折しました。すぐにブクレシュティ大学(Universitatea den Bucureşti)のクラシックな建物が見えます。ブルガリアの首都ソフィアでも大きな国立大学を見ていますね。同大学のサイトで沿革を見てみると、すでに17世紀にはオスマン帝国の統治下で高等教育機関がつくられており、独自の発展を見せたものが、19世紀に入ってあとから誕生したルーマニア国家により追認・制度化されて国立大学になったということのようです。1864年にアレクサンドル・クザ(Alexandru
Cuza)の勅令によってそれが果たされたので、まもなく創立150周年ということになります。クザはワラキアとモルダヴィアが合邦したときに初代君主に据えられた人物で、「公務よりもジャマイカのラム酒のほうが好きで、トランプ遊びばかりしている男」だったとか(前掲『バルカン』、pp.167-168)。オスマン帝国の宗主権がまだあったので当時の称号は公。このラム酒おじさんがクーデタで追放されたあと、1866年にフランスのナポレオン3世が後押しして、プロイセン王家の親戚筋にあたるドイツ人カールが迎えられ、カロル1世(Carol I)として王号を称しました。正式承認と主権確立(オスマンの宗主権廃止)は1878年のベルリン条約です。もともとドイツ人だったルーマニアの王家は前述のミハイ1世までの約70年間つづいたことになります。ブクレシュティ大学は第二次大戦後ソヴィエト・モデルへの従属を余儀なくされましたが革命後に新たな発展の道を歩みはじめた、ということです。高等教育大事よね。
ブクレシュティ大学 都心部の主力輸送機関はトロリーバスのようです
大学前を東西に走る道路にはトロリーバスが行き交っています。この南側にあたる旧市街には原則的に車両が乗り入れられないので、このあたりが路線の集まる枢要な停留所ということなのでしょう。道路名はエドガー・キネ通り(Strada Edgar Quinet)。19世紀フランスの文学者・政治家ですが、どちらかというとパリ・モンパルナス地区にある地下鉄の駅名の印象が強いかな。クレープ屋さんのたくさんあるところです。なぜキネの名がブクレシュティ中心部の道に冠されているのかは不明。この界隈は大学周辺だけあって落ち着きがあり、書店のディスプレイなどにも派手さがありません。19世紀後半にルーマニア国家が公式に独立したあと、首都ブクレシュティの近代化が図られました。旧市街は温存したまま、その外側、つまりいま歩いている大学付近から北側を、大胆な都市計画のもとに造り替えていったのです。規模はこちらが劣るものの、カタルーニャ(スペイン、と一応いっておこう)の首都バルセロナが、やはり同時期に旧市街を温存して外側の大改造をしています。パリの大改造も19世紀半ばのことで、ブクレシュティはその花の都パリを大いに模倣しました。この町を「東欧のパリ」と呼ぶことが現在でもあります。あちこち見てきているので、ブクレシュティがパリに近いかといわれると微妙な感じはしますが、都市の規模が想像よりずっと大きかったのは発見でした。
ヴィクトリエイ通り沿いの小スペースに、トルコ建国の父ケマル・アタテュルクの像
20世紀の偉人なのはよく知っているが、なぜブクレシュティに?
ブラティアヌ通りの2筋西を並行する南北の道がヴィクトリエイ通り(Calea Victoriei)。官公庁や美術館などの集まる地区です。上品なカフェとか、ノヴォテルなどの高級ホテルも見えます。統一広場からかれこれ2kmくらいは歩いてきたでしょうか、ぼちぼちかつての権力中枢が見えてきました。通りの西側に見える石造りのどっしりとした建物が共和国宮殿(Palatul
Regal)。現在はその一部が国立美術館(Muzeul
Naţional de Artă al României)になっていますが、チャウシェスク時代にはここが大統領府でした。このあたりの地下には専用のトンネルが縦横に張りめぐらされていたらしい。道路をはさんで向かい合うのがカロル1世大学図書館(Biblioteca
Centrală
Universitară Carol I)。その北側の、広場というにはかなり小さい区画が革命広場(Piaţa
Revoluţiei)です。1989年12月の革命の折に、民衆と権力側が激しく戦ったのがこの場所でした。そして図書館の南隣にあるのが旧共産党本部(Fostul
Comite Central al Partidului Comunist)です。
(左)共和国宮殿 (右)その向かいに建つ大学図書館 騎馬像は初代ルーマニア国王のカロル1世
1989年秋以降のいわゆる東欧民主化は、全体としてはソフト・ランディングといいますか、時代の大転換にもかかわらず大きな流血沙汰があまりみられないまま推移しました。ソ連・ゴルバチョフ政権のペレストロイカおよび新思考外交を受けて、社会主義圏を束ねていた強力な鎖がほどかれ、もともと自主管理労組が一定の力をもって共産党政権と対峙していたポーランドと、複数政党制を徐々に志向したハンガリーでまず平和裡に一党独裁の放棄と民主主義の復活が実現しました。西欧とじかに接するハンガリーの民主化は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)市民の西側への脱出の回路を提供することになり、これをきっかけに東ドイツのホーネッカー独裁体制が崩壊、11月9日には東西国境の解放が発表され、ベルリンの壁の崩壊となりました。翌10日に今朝まで滞在していたブルガリアでジフコフ独裁体制が崩壊。こちらは民衆の蜂起ではなく権力内部の闘争でジフコフが追い出されての政変でした。1週間後の17日にはチェコスロヴァキアで民衆が立ち上がって政権に一党独裁の放棄を飲ませることに成功しました。まさに軟着陸だというので、ビロード革命(Sametová revoluce / Velvet Revolution)という名が与えられています。ゴルバチョフは一切の介入を手控えました。ソ連軍が来ないということが、東欧の市民たちを勇気づけたのです。ソ連を中心とする他の社会主義圏とはむしろ対立していたユーゴスラヴィア、アルバニアのことはいったん置いておきましょう。11月末の段階で民主化の兆しがまったく見えないのはただ1ヵ所、ルーマニアのみでした。「うちはもともとソ連の子分ではないし、経済もまあまあだから(俺の目にはそのように見えるから)民主化なんぞまったく眼中にないわい」と、チャウシェスクはなおも強気でした。当然、世界はルーマニアを注視しています。もう独裁政権を保てるはずのない状況なのに、彼は真顔でした。12月3日、東欧諸国の一党独裁放棄という劇的かつ歴史的な大変革と、ルーマニアの不動ぶりを確認?した時点で、ブッシュ(父)米大統領とゴルバチョフがマルタ共和国で会談して、冷戦の終結を宣言します。ルーマニアはスルーされています。もつわけはないと、米ソ首脳も、そして日本のテレビの前にいる私たちも思っていました。ここが例外的に流血の惨事になってしまったのは、政権の頑迷な抵抗ゆえだったのでしょうか?
12月16日、ルーマニア西部の都市ティミショアラ(Timişoara)で、東欧民主化に刺激を受けた大規模な反政府運動が発生しました。ティミショアラはもとオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、ハンガリー語を話す住民が多いところですが、第一次大戦後の1919年にルーマニアに併合されました。ティミショアラの反乱は、共産党一党独裁への抵抗はもちろんですが、マイノリティの民族運動でもあったのです。チャウシェスク政権は血の弾圧でこれに応えました。警察隊は運動側に容赦なく発砲し、多数の死傷者を出します。これが首都ブクレシュティに飛び火しました。
旧共産党本部
今日は静かで私のほかに人の姿も見えません。1989年12月21日は、いま駐車場になっている共産党本部前の広場に数万人が集まって、かなりの熱気がみられました。これはティミショアラのような反政府暴動ではなく、チャウシェスクを支持し、礼賛する「動員」です。独裁国家や自称社会主義国ではしばしば見かける官製デモというむなしい(卑しい)ものにほかなりません。バルコニーにはチャウシェスクが出て、堂々たる演説をはじめました。政権はこの様子をテレビで中継しました。世界が注視しているのに何とバカなことをというのは後知恵です。周辺諸国が社会主義をやめてもウチは万全だということをむしろアピールしようとしたのでした。テレビってすごいなと思わせる機会が20世紀には何度かありましたけれども、このときのことはとくに印象深い。大きな声を張り上げてチャウシェスクをひたすら礼賛する群衆の中から、「人殺し!」という声が上がります。ティミショアラでの弾圧を非難するもので、その声自体が放送されたわけではないのですが、動員された群衆の明らかな変化というのはちゃんと映っていました。「そうだ、人殺しだ!」「いやお前たち何だ!」といった、もはやヤラセでも何でもない声が錯綜して数万人が大混乱に陥ります。いつものご追従に大いに満足げだった裸の王様は、自分を褒めたたえるために集まったはずの人たちがパニックに陥るのを見て震えだし、顔を引きつらせて狼狽しました。その表情をありありと映したのは、国営テレビ局員の中に眠っていた反骨精神だったのかもしれません。中継はそこでいったん強制終了となりました。独裁者が反乱に怯える様子を世界にさらすわけにはいかないのです。しかし私たちはわずか数時間後にニュースでしっかりそれを見ていました。何しろ全世界の目がここに向いているのです。
バルコニーを去ったあとの動きは、ずっと後になってわかったことです。チャウシェスクは国防相にティミショアラと同様の措置(発砲・弾圧)を指令しますが国防相はこれを拒絶、その数時間後に国防相が遺体で発見されました。国軍首脳はこれをチャウシェスクによる殺害と断じて離反を決意し、21日夜までに巨大化していた民衆勢力の側への支持を表明します。このため、1000人以上が落命し「血の一夜」と呼ばれた夜が明けると、共和国宮殿や共産党本部、そして革命広場周辺での民衆側と権力側の戦闘において、前者の優位が確定することになりました。チャウシェスクはヘリコプターで脱出しました。国営テレビ局もすでに民衆側に寝返っていますので、憐れな独裁者が逃げ出す様子もしっかり世界中に届けました。
1989年12月日の共産党本部(同建物に設置された案内板の写真より)
(上左)権力掌握まもない1968年のチャウシェスク(振り返っている背広の人物) (上右)民衆が雪崩を打ってバルコニーに迫る
(下左)共産党章をくり抜いた国旗を掲げる革命側の人物 (右)チャウシェスクはヘリコプターで脱出した
早めに帰省して福岡の実家でじっとテレビを見ていた私が、その次にチャウシェスクの姿を見たのは、25日夜のニュースでのことでした。情報が混乱していて、ニュースそのものの文字数はひどく少なかったと記憶しますが、映像は中庭のような場所に転がされた2つの遺体――銃殺されたチャウシェスク夫妻の姿をはっきりと映し出していました。もちろん裁判も即席で不当なものなのですが、独裁者が確実に死んでいるということを示さなければ長年にわたりこれを支えてきた側を収拾できなかったのでしょう。このあと混乱はひとまず収束し、救国戦線が事態をまとめることになります。
歴史の本の中にのみあると思っていた革命というのが、本当に起きてしまった。それを連続ドラマのようにずっと見せられていました。思い返しても、あの秋の社会系の授業は不思議な緊張と高揚感に満ちていました。教授たちは進行中の事態を自分なりに解釈しては今後の見通しを示し、学生もいいたいことをいっていました。しかし次の授業(翌週)になると現実の事態のほうが専門家や学生の見通しをはるかに超えて推移していました。私のライフ・プランニングもそれですっかり変わってしまいました。もちろん、これほどすごいことが世界で起きているのに、娯楽的消費にしか興味を示さない大学生はわんさかいました。学生だけでなくおとなたちも。日経平均株価が38,000円を超えて史上最高値をつけるのはこの1989年末のことです。経済大国ニッポンはもう無敵だ、永遠の繁栄だと、自分の手柄でもないのに歌い踊ってうかれていた人たちには、そのあとにやってくる「失われた20年」とグローバル化の中で置き去りにされてしまうことを、もちろん予見などできようはずもありません。
ブクレシュティ旧市街めぐり (上左)ヴィクトリエイ通り (上右)パサージュ・マッカ・ヴィッラクロス
(下左)ルーマニア国立銀行 (下右)飲食店街
今回ルーマニアの地方に出る機会がありませんでした。いまはどこをどう見ても普通の都会であるブクレシュティで、説明されなければ社会主義時代の痕跡は見えないのかもしれませんが、ここ数日ブルガリアで見てきたことを踏まえれば、首都はまあ別格なのだと考えてよいでしょう。EUコンプリートという謎の企画?がなければルーマニアにやってくることもなかったかもしれませんけれども、その分母28ヵ国をまもなく1つ減らすことになったのは、いうまでもなく英国の離脱決定(“Brexit”)です。英国の「欧州」への違和感とか不信感は以前からあるのですが、わりに直接的なきっかけになったといわれるのが、ルーマニアのEU加盟でこの国の人たちが安価な労働力として英国の工業地帯に入り込み、自分たちのコミュニティを構築し、雇用を奪っていったとされる件でした。ことの真偽を判断するほどの材料を私は持ち合わせていません。最近読んだばかりの本で、増田ユリヤさんがルーマニア人労働者などに取材している内容が興味深かったので、そちらをご参照ください(池上彰・増田ユリヤ『なぜ世界は“右傾化”するのか』、ポプラ新書、2017年)。フランスだとルーマニアよりブルガリアの人を多く見かけるし、ドイツであればなおさら中東欧各地から労働者が流入しています。バルカン半島そのものが火薬庫であった時代は終わりつつあるのでしょう。欧州統合がその火薬を全欧にまき散らしているという発想に陥るならば――その心理の奥には「貧しいやつらはずっとそのままでいろ、俺たちの豊かさを奪いにくるな」という怯えに似た感情がある――ブレグジットや排外主義勢力の台頭のような現象はまだしばらくつづくのかもしれません。もとより対岸の火事では、ない。
欧州域内の経済格差のおかげで、日本からフランスを経由してきた私がこの国の物価を安いと感じているのは確かです。ホテルのATMで引き出した現金はたった100
RONで、3000円足らず。まだ何も買っていないため、100 RON紙幣1枚のまんまです。300m四方ほどの狭義の旧市街に入り込むと、予想どおりにぎやかな商業地で、建物の感じもぐっと欧州っぽくなりました。いくつかの小径を歩いているうちさすがに疲れてきたので、どこかで一休み。国立銀行のどっしりした建物のそばに、オープン・テラスを張り出しているカフェがあったので、屋外ながら立派なシートに落ち着きました。のどが渇いたのでスパークリング・ウォーターを頼みました。これが9 RONで、いろいろなお札のおつりが来た(笑)。ブルガリアもルーマニアも紙幣優勢の国で、ブルガリアは5Lvから(2Lv紙幣もあるがコインが主流)、ルーマニアは1 RON以上が紙幣で、それぞれ300円くらいからお札を使うわけです。外観だけで入ってみたこのカフェ、ファン・ゴッホ(Van Gogh)という有名な店だったことをあとでガイドブックを読んで知りました。
旧市街の南半分は完全な飲食店街、要するにツーリスト向けの地区で、おもしろいといえばいえるし、つまらんといえばそうもいえます。18時を回ってパブタイムないしディナータイムに入ったため、屋外の席からお客が埋まり、けっこうにぎわっています。こういう地区ではおなじみの客引きも盛ん。そういうやり取りに耳を傾けるとたいてい英語ですね。このごろは浅草や鎌倉でもそうなっています。当然ながら、英米人が多いのではなく「ルーマニア語を話さない外来の人」が多いということです。ビジネスマンふうの人もけっこう見かけました。日本人の姿はほとんど見ていません。
(左)クルテア・ヴェケ教会 (右)王宮跡に建つヴラド3世の胸像
旧市街のいちばん南まで歩いていくと、クルテア・ヴェケ教会(Biserica Curtea Veche)があります。この町で最古のキリスト教会で、実はホテルの目の前。ぐるりと一周してきたことになります。どうせしばらく明るいので、部屋に戻らずこのまま夕食まで済ませてしまいましょう。ホテルの一筋裏手を西に少しだけ進んだところが王宮跡(Curtea
Veche)です。まさに遺蹟というか遺構という感じの場所を町のど真ん中に残しているのがおもしろい。その真ん中に、こちらをじっと見つめているような男の胸像があります。15世紀のワラキア公ヴラド3世(Vlad III Țepeș)。あだ名の「テペシュ」は「串刺し公」を意味します。ビザンツ皇帝バシレイオス2世ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)もすごいけど、こっちの異名も激烈! 15世紀といえばオスマン帝国の勢いが最も伸長した時期で、当然のことにドナウ流域の豊かなワラキアは狙われました。ヴラド3世は、これも勢力を伸ばそうと企てるハンガリー(ハプスブルク家の支配下に入るずっと前)とのあいだで駆け引きをしながら、もと同輩クラスの諸侯を従えて集権化を図り、オスマンに対抗します。相手がすごい。1453年に千年の都コンスタンティノープルを陥したメフメト2世です。圧倒的な兵力の差を知恵で補おうとゲリラ戦に打って出たヴラドは、たびたび夜襲をかけてオスマン軍を疲弊させました。ある夜、ヴラドは城からスルタンを誘い出してこれを側面から徹底的に叩きます。実はその間に別動隊をスルタンの出発したあとの城内に攻め込ませ、残留兵を皆殺しにしました。戦闘に疲れたメフメト2世が城に戻ると、そこにはおびただしい数のオスマン兵の死体。それも、多くは見せしめのため串刺しに・・・。さしもの大スルタン・メフメト2世もこれで戦意を喪失して、この折のワラキア占領を断念しました。ルーマニアと聞いて私たちが思い出す人物としては、チャウシェスクでなければ妖精ナディア・コマネチ(1970年代の女子体操選手で、五輪史上初の10点満点を記録した)、あるいはドラキュラ伯爵ということになりますか。吸血鬼の伝説は、ヴラド3世の串刺しのエピソードをモチーフに西欧で膨らませたものにほかなりません。ルーマニアでは当然ながら祖国防衛の英雄とされます。ここが、彼の宮殿の一つとされます。
串刺しの光景を見たからではなく、歩きつづけてこれ以上の運動に戦意が湧かないので、王宮跡近くの観光客向けのレストランに声をかけて、テラスに座りました。係のおねえさんが「クレジット・カードは使えません。ルーマニア・レイのキャッシュのみです」と席に着いてからいうのはダメだね。EU加盟国ながらユーロ未施行の立場であれば、ユーロでもカードでも銀聯でも使えるようにしておかなきゃ! ま、私のほうは91 RONの現金があるので問題ありません。写真メニューを見ても欧州のどこにでもあるような料理ばかりなので、少しでも特徴的なやつにしよう。このあたりはやはり豚肉が主なので、ポークの粒グリーン・ペッパー・ソース、フレンチ・フライ添え(Cotlet de porc cu sos de piper verde şi garmitură de
cortofi prăjiţi / Pork chops with green pepper grains sauce and French fries)で35 RON。前述したように、ルーマニア語は東欧では唯一のロマンス語なので、綴りがうっすらフランス語に近い。日本でカツレツと訛ったコートレット(côtellettes)らしい文字が見えるけれど、写真を見るかぎりはソテーでしょうね。ルーマニアのビールをくださいといったら、生ではなく0.5Lボトルが供されました。Menea
Iancuなる品で、少しだけ果実味のあるラガー。
運ばれた料理は写真とまったく同じでした。そりゃそうか。円盤状のけっこう厚い肉を焼いて、粒胡椒のソースとかがたっぷりかかっています。もっと胡椒テイストなのかと思ったらそれは粒だけで、ソース本体はほとんど「クリームシチュー」のような味わいでした。パリからソフィアへのエールフランス機内で、鶏肉のこんな料理が出たな。特段に美味しいということもないが、まあ普通の味で、値段からしてもこんなものでしょう。ただ、夏の欧州に来ると人々が行き交う明るいテラスで夕食をとれるのがうれしいですね。勘定を頼んだら、メニューに12 RONとあったビールがなぜか9掛けの10.80 RONになっていました。ハッピーアワーだったのかもしれません。旧市街をもう一回りして宿に戻ります。
8月31日(木)も8時ころに朝食。上等なホテルだけにダイニング(通常はレストラン)が立派なのは当然です。中国人ビジネスマンが何組かいますね。この日は14時10分発のジャーマンウイングス機でデュッセルドルフに発ち、4時間待ちで20時発の成田行きANAで帰国するスケジュールです。4時間だとドイツの地面に立つのは無理だな。空港まで1時間弱と聞いていますので、余裕をみて10時ころホテルを出ることにしましょう。とくに見たいスポットがあるわけでもないので、統一広場南側にあるらしい空港行きバスの乗り場と発車時刻を確認してから、今回は乗り試しできなかったトラムと地下鉄を見てくることにしよう。そのあと少しだけ旧市街の散策。もう地図は要らないね。
朝の統一広場周辺 (上右)トラムの回転場 (下左)地下鉄の統一広場駅 (下右)地下鉄駅構内のパン屋さん
ブクレシュティのトラムはソフィアと異なって市内中心部は走らず、基本的に郊外に向かって放射状に路線があります。統一広場の西側、例の悪趣味な統一大通りが出るところにいくつかの系統の起点があるのを昨日見ていました。ここの車両も運転台が「前」にしかついていないので、起点・終点ではラケット状のループをつくって方向を変えなければなりません。そのループが広場に接しています。円形のちょっとした植え込みの周囲に線路が敷かれ、続々と連接車両が入ってくるので、何だか遊園地の乗り物のようにも見えます。朝の8時台なので通勤客がまだ多いです。つづいて統一広場の真下にある地下鉄駅。昨日もちょこっと見ています。切符売り場などのあるフロアが全体に薄暗く、各種商店がテキトーに商売している感じもあいまって、一昔前の大阪市営地下鉄を思い出します。そういえばブクレシュティは、駅構内といわず町なかといわずやたらにパン屋さんのある町で、人々が立ち寄っては1個単位で買い求め、歩きながら食べるという様子が、まさに東欧のパリ。商品のラインアップもパリのような感じでした。朝の旧市街は何となくもったりしていて、隠居したらしいおっちゃんがカフェのテラスで新聞を読むとか、おばちゃんたちが集まって路上でタバコ吸っているとか、そのくらい。ソフィアからの地上移動をメインに旅程を立てた関係で、ルーマニア側はブクレシュティの賞味半日ほどになってしまったのがもったいなかったかな。また来ることもあるでしょう。それまでEU離脱とか落第とか、そんなことがないようにね!
予定どおり10時ころチェックアウトして、統一広場横から空港行きのバスに乗りました。乗り場に小さなブースがあり、チケットを売っているようです。空港までシングルといったら、何ちゃらカードをもっていますかと現物を示しながらお訊ね。なるほどICカードにチャージする方式ですか。もっていないといったら、そこに情報を入力して差し出しました。8.60 RONで、空港アクセスとしては相場どおりの運賃ですが、その内訳がわからないままです。いま手許にあるカードはActivというもので、調べたらこれは1回券でなく再チャージ可能なものだそう。荷物を引いて空港行きの片道くださいといっている客に対して高いほうの再チャージ券を売るのはどうかと思うけど、またおいでということなのでしょう(たぶん違う)。
バスに乗ってアンリ・コアンダ空港へ
ブクレシュティの空港アクセス・バスはあまりよろしくありませんでした。市内中心部から24時間、20〜40分間隔で直行するというのは立派だけど、荷物置き場などもない普通の路線バスの車体ですし、都心を抜け出したあとも街道筋の停留所に一つ一つ停まっていく、本当に普通の路線バスです。ハイウェイがないのは仕方ないにしても、ダイレクトの専用便を走らせれば40分くらいで着くはずなんだけどな。一般のお客が乗り降りしていますし、案内放送と前方の電光掲示板がルーマニア語だけ、大荷物の乗客が私のほかにないので、出発してすぐ心配になって、斜め後ろにいたOL風の女性に、これは空港行きですかと確認しました。「はい。アンリ・コアンダですよね?」
――イエス。「それならこのままずっと。えっと・・・」 ――The last stop? 「そうです。ラスト・ストップ。ずっと乗っていてください」。英語でのガイドに自信がない様子ながら、にこやかに答えてくれました。ラスト・ストップはターミナル・ビルの目前なので一目でわかりますが、彼女はわざわざ寄ってきて、「ここですよ」と教えてくれます。サンキュー。空港バスはやはり直行便にして、運賃高めでもいいから専用車両を充て、英語のできる運転士を乗せてほしい。切符もここだけは売り切りにして。「普通の地下鉄」によるアクセスだったソフィアとどっこいどっこいでしょうか。でも、線路に拘束される電車と違って、バスはどこに行くのだかよそ者にはわからんものね。
ルーマニア(およびブルガリア北部)の空の玄関口、ブクレシュティ・アンリ・コアンダ国際空港(Aeroportul
Internaţional Henri Coandă -Bucureşti)またの名をオトペニ空港(Aeroportul Otopeni)は、市内中心部から約16km北方に位置します。出発3時間前の11時ころターミナルに着いたら、前後の便はチェックインがはじまっているのに、わが4U9793便だけカウンター・ナンバーが示されていません。機材整備で遅れるとかいうのは、デュッセルドルフ空港内での退屈な待機もあるし、いつものことなので別にかまいませんが、荷物をとっとと預け入れたいんですよね。構内のカフェでカフェを飲みながら時間つぶしして、出発2時間前を過ぎたころようやくカウンターが開きました。ジャーマンウイングスはルフトハンザの子会社ユーロウイングスのフライト銘柄で、要はLCCですから地上スタッフの頭数に限りがあり、同じ陣容でいろいろな仕事を回しているに違いありません。カウンターの女性に「ファイナル・ディスティネーション(最終目的地)は?」と問われたので、Tokyo, Naritaと答えたら、「あー、それははるばるですねえ(very long wayをゆっくり発音)」 ――イエス、イエス。It is normal for meとはさすがにいわなかったが。
ジャーマンウイングスのA320機に乗って(デュッセルドルフ経由で)東京・成田へ帰ろう
アンリ・コアンダは予想以上に規模の大きな空港でした。出国審査を抜けると、免税店や飲食店がこれでもかと並び、延々つづいています。免税店の商品がすべてユーロ表示だけなのは興味深く、遠慮なくユーロ紙幣でお土産代を支払いました。飲食店はRON表示で、ユーロも使えるのですが手持ちの現金を吐き出そうという魂胆が先に来て、大きなサンドイッチは買えないが9 RONのクロワッサンなら買えるぞ、お水つきでという妙にちまちました計算を最後にしてしまいました。それでも1 RON紙幣が3枚残っています。使う機会はあるのかなあ。
西欧あちらこちらという総合タイトルを、11年前の当初方針を記憶するために残しています。ドナウ下流、バルカン半島までやってくるとどう詭弁を弄しても西欧とはいえないですね。このところ、欧州統合は大丈夫なのかねという記述が目立ってきていますが、ブルガリアやルーマニアでは、そもそもそれ以前に欧州統合の流れに組み込まれているんだろうかという疑問が浮かびます。欧州と言い表しているものの、歴史的にみれば西欧と東欧は基本的に別ジャンルで、かかわりが深まったのは帝国主義と2度の世界大戦くらいだったわけです。ビザンツとかオスマンとか、これまでの記事にはほとんど書いていない帝国がじゃんじゃん出てきましたしね。さすがにこの界隈は欧州旅行の入門者にはハードルが高く、私のような上級者(えへへ)向けではあるでしょうが、それでも平素のスタイルからさほど外れずに歩くことができるのだと実感できただけでもよかった。そのうち東欧もあちらこちらとか言い出しかねないので、そこはほどほどに。
夏の日のバルカン半島2017 おわり
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