Les Balkans 2017: la Bulgarie et la Roumanie

PART4

 

PART3にもどる


サモヴォドスカ・チャルシャを抜けてメイン・ストリートを道なりに進みます。けっこうな下り坂。観光地とはいえ、小さなホテルなどがたまに見えるほかは一般の住宅です。建物の切れ目などから蛇行するヤントラ川の対岸がときどき見え、どこを見ても急斜面に家々が張りついている感じなので、よくぞこのような地形に町をつくったものだと思います。近現代史博物館の入口案内もあるのだけど、月曜休館なのがわかっているのでスルー。その先にヴェリコ・タルノヴォ大聖堂(生神女誕生大聖堂 Катедрален храм “Свето Рождество Богородично”)がありました。あとで述べるようにこの町は第二次ブルガリア帝国の首都だったため、その興隆と同時にブルガリア正教の中心都市となり、帝国の瓦解とともにそれは失われました。ブルガリア正教の正式な復活は、オスマン帝国からの「解放」を果たした1870年代のことです。このカテドラルはそれ以前の1844年に建設され、現在の建物はバルカン半島がリアル火薬庫と化した1913年のことでした。今日のところは静かで人影もなく、火薬のにおいはどこにもありません。

 
(左)静かな坂道を下って歩く  (右)ヴェリコ・タルノヴォ大聖堂


アップダウンがあると平面上の距離の感覚が薄れてきます。けっこう歩いたと思うのにまだ先があるのかな。勾配が緩みフラットになったあたりで、急に視界が開けました。正面にこんもりした「山」、そしてそのサミットに尖塔を備えた石造りの建物が見えます。「山」全体が堅牢な石垣に囲まれ、見るからに中世のお城。それも、西欧で見るものとはかなり違い、むしろ日本の戦国時代の城郭を思わせる立体的な造りに見えます。ここがこの町で最大の見どころであるツァレヴェッツの丘Царевец)。ここに入ろう、というか登りましょう。丘に向かって手前左にチケット売り場があります。6Lvのチケットを購入すると、おばさま係員がWhere are you from?と訊ねてきました。――アイム・フロム・ジャパン。とくに感想とかコメントはないようですが、ここはこの国では一線級の観光スポットなので、外国人観光客がかなり来るものと思われます。見た目でわかるわけでもないし、どの国の人が来ているという感触は得ておきたいのかな。お水のペットボトルがなかったのでゲート右の小さな土産物屋で求めると2Lvでした。中国人の小グループが店内を占めています。中国人旅行者を見ると観光スポットに来たなと思ってしまうね。はるばるブルガリアまでご苦労なことです(人のことはいえない)。お城のゲートに向かう石畳のスロープの入口付近にチケット・コントロールがあり、おじさんが券面を改めていました。どことなく駐車場の係の人みたいに見える。

 
ツァレヴェッツの丘とその「城下町」 チケット売り場2階のテラスからは複雑な地形を望める
斜面に見える家々は「対岸」ではなく地続き ヤントラ川が写真のかなり下のほうを流れてきている


サマータイムの16時を回ったころなので、西日というほどではないのですが、強めの日差しが石畳に食い込んでいます。素朴な構造とはいえ、ずいぶんしっかりした石垣で、どういう手順でどのように造ったのだろうと思います。見張り台を兼ねたメイン・ゲートをくぐると、さらに登り坂。けっこうな斜度だし、道幅も広くないので、攻めるほうはかなり大変なはず。大砲や鉄砲など火器のない時代には、せいぜい弓矢での射撃か投石器での攻撃でしょうし、基本的には白兵戦だと思うので、こういう造りだと攻め手が何万人いてもタテに長く伸びてしまい、先頭の兵士を各個攻撃されればそこから先に進めません。いや見事な構造です。

第一次ブルガリア帝国を滅亡させたビザンツ帝国は、バシレイオス2世ブルガロクトノスの半世紀に及ぶ統治が終わると、後継者に恵まれず、中央の求心力が衰えました。有力家門(貴族)や地方勢力が台頭し、軍事行動や皇帝らの散財によってバシレイオスが積み上げた国の資産もたちまち失われます。自律性を失っていたブルガリアでも、ビザンツ統治への不信と独立(とくに正教会の)への機運が高まりました。ビザンツ皇帝イサキオス2世アンゲロス(Ιδαάκιος Β·Άϒϒελος)には、ブルガリアとの対決を権威回復の足場にしようとしたふしがあり、12世紀末に両者は大激突をみました。1185年、イサキオス2世の結婚にかかる費用を調達するための臨時課税が発令されると、その軽減を求めるブルガリアの代表たちは請願に及びますが、拒絶されるだけでなく公衆の面前で殴られるという屈辱を味わいます。殴られた人物が担ぎ上げられ、大規模な反乱が起こりました。かなり広範囲にわたる戦闘がおこなわれた末、1187年にペタル4世(Петър IV)を君主とする国家の独立が承認されました。君主号はやはりツァールでしたので皇帝と表現するのがよく、ここに第二次ブルガリア帝国Второ българско царство)が発足しました。ペタル4世の地元であったここタルノヴォに都が置かれます。あらためて年号を確認すると、源頼朝が守護・地頭の設置を認められ武家政権を創業したのとまったく同時期のことですね。鎌倉幕府は、その「独立」を否認しようとする京都朝廷を返り討ちにして(承久の乱)最盛期に向かったわけですが、ブルガリア帝国もビザンツのたびたびの介入をはねのけてむしろ勢力を拡大させました。鎌倉で御家人相互の争いが激しくなり、北条氏がその中から抜け出たころ、動揺するブルガリアを救ったのは国際情勢でした。1204年、ヴェネツィアに主導された第4回十字軍は、エルサレム攻略をめざすはずが方向転換してコンスタンティノープルを落とし、ビザンツ帝国を一時乗っ取ります(ラテン帝国 Imperium Romaniae)。その背後にあって東欧での勢力伸長をねらったローマ教皇インノケンティウス3世(世界史の教科書に必ず出てくる「教皇は太陽、皇帝は月」の人)は、ブルガリア皇帝カロヤンКалоян)をこの地域の君主として承認しました。東アジアでいう「冊封」みたいなものですが、ほかならぬ教皇による授権なのでこれは「本物の皇帝」になったことを意味するのだとカロヤンは吹聴し、ブルガリア帝国の勢威を高めることに成功。そして、教皇の支持を受ける一方では、カトリックの強要に反発するビザンツ貴族たちと結んでラテン帝国を圧迫し、これを撃破しました。なかなかやりおるよな。カトリックと正教会の分裂が決定的になり、またビザンツ帝国が実質的に消滅した時期でもあって、ブルガリアの勢力は、セルビアからドナウ川下流域のワラキア(現在のルーマニア南部)、ギリシア北部にまで拡大しました。

 
 
攻めるに難く、守るに易し


日本の鎌倉幕府は、モンゴル帝国の襲来(1274年、1281年)によって苦境に立たされ、1333年に滅亡しました。同時期に発足したブルガリア帝国のほうは少しだけ長生きしますが、1314世紀にはやはり国際情勢に翻弄されて、その体力を奪われていきます。まず、日本よりも30年以上早くモンゴル帝国との接触がありました。13世紀後半には、南ロシアに展開したモンゴルの一派、キプチャク・ハン国の宗主権の下に組み込まれてしまいます。14世紀初めにようやくその状況を抜け出し、復活していたビザンツ帝国にちょっかいを出す(またもビザンツ皇帝になろうとした)などしていたのですが、小アジアに誕生した新興国家オスマン朝がバルカン半島に進出してくると、その大攻勢の前にブルガリアは防戦一方となり、ついに1393年のタルノヴォ攻囲戦を迎えました。いま登っている城郭こそがその決戦の舞台となったところです。

オスマン朝が隆盛に向かうきっかけをつくったのが第4代スルタンのバヤズィット1I. Beyazıt)。1389年の帝位継承をめぐって帝室内で骨肉の争いがあり、首都のアドリアノープルやアナトリア(現在のトルコ領)方面で混乱が生じたため、ビザンツ帝国やブルガリア帝国はこれを好機とみて対決姿勢をとりました。しかしバヤズィットは、ハンガリーと組んで蜂起したブルガリアの軍勢をタルノヴォに押し戻し、大軍でこれを囲んだのでした。

 


攻囲戦は3ヵ月に及んだものの、衆寡敵せず、ついに降伏しました。これだけ堅牢な都市だと、攻囲するオスマン軍を外側から同盟軍が攻めるのも難しいでしょうね。首都陥落ののちもブルガリア皇帝はドナウ右岸のニコポリス(現ブルガリア領ニコポル)に逃れてなお抵抗しましたが、オスマン朝は1396年同地での一大決戦で、神聖ローマ皇帝を含む欧州連合軍を撃破して、バルカン半島の大半を制圧することに成功しました。オスマン史でいうと栄光の大勝利、東欧史から見るとキリスト教世界の防衛線の崩壊ということなのでしょうが、ともかくこれが、19世紀につづくオスマン支配の本格的なはじまりということになったわけです。ただバヤズィット1世は、兵士たちを働かせすぎて消耗させたせいか、はるか東から現れたティムールを侮り、1402年のアンカラの戦いで大敗して捕虜となり、そのまま死亡しています。オスマン朝が千年の都コンスタンティノープルを陥落させていよいよ帝国化するのは1453年のことです。

けっこうな勾配を、スロープと石段でひたすら登ります。つど振り返って、進撃してくるオスマン軍の様子を思い浮かべました。時代は60年くらいずれるけれども、楠木正成が鎌倉幕府の大軍を引きつけて戦ったのもこういう急峻な山城でしたね。「登頂」を前にベンチに腰かけて一呼吸。飲み物の自販機を備えた休憩所みたいなのをつくってあるのはとても親切で、家族連れなど数組が滞留していました。よし、もう一登り。

 
 


現在この丘のサミットには大主教区教会Патриаршеската Катедрала Св. БЪзнесение Господне)があります。近づいてみると、搭の上に展望台があるようで、エレベータ利用おとな2Lvと表示されていました。展望料金でなくエレベータ料金なのがおもしろい。薄暗いホールに20歳そこそこの若い女性が座っていました。展望台に行きたいのですがと英語で話しかけたら、「それでは2レヴァです」ときれいな英語が返ってきます。――Just now, here? 「イエス」。チケットとかではなく、立ち合いのおねえさんに現金を手渡して契約成立というのは近ごろなかなか見ない感じではあります。学生アルバイトのように見えるおねえさんは料金徴収係とエレベータ・ガールを兼ねているらしく、自身も乗り込んで昇降機を作動させました。表に出てみると、断面ほぼ正方形の搭の周囲にバルコニー状の部分が設けられていて、監視・攻撃用のはざまが切り取られていました。1辺あたり10mもないほどなのでかなり窮屈なのですが、そもそも見張り台だからこんなものだよね。いやしかし、一段とすばらしい眺望です。昨春はドイツのハイデルベルク、昨夏はラトヴィアのリーガとエストニアのタリン、今春はスロヴェニアのリュブリャナで、教会やお城からの展望というのをやってみました。どれもよかったけど、ここヴェリコ・タルノヴォは別格。都市の展望台と山登りでの眺望を合わせたような、不思議な景観です。おねえさんは私の退出を待っていてくれたらしく、「次のお客様が見えたのでいったん降ります。ここにまだいらっしゃいますか?」と声がしました。もちろんイエス。もう少し味わいたいよね。


ツァレヴェッツの頂からヴェリコ・タルノヴォの市街を望む 今宵の宿は写真中央奥の方向にある


英語を話すカップルがエレベータで搭上にやってきました。軽く目であいさつ。私など軟弱なので、ここに3ヵ月も籠城して戦闘の緊張状態を保つなんて絶対に無理だな。安田講堂すら維持できそうにない(笑)。日本の世界史の教科書に載っているのはニコポリスの戦いのほうですが、オスマン帝国が弱体化したあとの近代のブルガリア人にとっては、抵抗の都となったタルノヴォこそ民族のよりどころとなる地になりました。ナショナリズムを支える集合的記憶(フランス語でmémore collective)というやつです。だからこそ19世紀後半の「解放」後の建国もこの都市でということになったのでした。ちなみにタルノヴォ攻囲戦の少し前、1389年には、ブルガリアの西隣セルビアがバヤズィット1世の父であるムラト1世の軍勢に敗れ、以後600年にわたってオスマン帝国の統治を受けることになりました。その戦場は、こちらも高校世界史に登場する地名、コソヴォにほかなりません。そのため私の頭の中でコソヴォといえば、ああオスマンのあれねという14世紀の歴史的地名でしかなかったのですが、1990年代に入ってから新たな「火薬庫」としてリアルタイムのニュースで接する政治的地名になろうとは。NATOが空爆までおこなって、アルバニア人が多数を占めるコソヴォをセルビアから切り離し「独立」させたのは2008年のことです。セルビア人にとってコソヴォは、ブルガリア人にとってのタルノヴォとまったく同じ意味をもちます。その地を切り取られるというのは、セルビアのナショナリズムにとってはありえないことなのでしょう。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはともかくコソヴォ共和国(国連五大国のうちいまもロシアと中国が未承認の不完全独立)を訪れることは、しばらくはないと思います。

15分くらい展望台にいて、眺めを存分に堪能しました。エレベータに戻り、とても、とてもすばらしい眺望ですねと話したら、サンキューといってはにかみます。「どちらからいらっしゃいましたか?」 ――日本からです。「ああ、日本とこことではずいぶん違いますよね!」 ――ええ、まあ。私にとってはいい経験になりましたよ。東京在住の、しかも欧州通のはずの私から見てもブルガリアの古都ははるか遠いところなのに、その逆はどれほどの心理的距離になるのでしょうね。

 
(左)帰りは別の道を歩いてみた ツァレヴェッツの丘の全容が見て取れる (右)ホテルそばの道路上でミニ写真展がおこなわれていた 冬もよさそう!


大主教区教会の内部はごく普通の造りで、とくに見るべきものもありませんでしたが、この丘そのものが何よりの見どころでした。最近は大物観光地というのをあまり好まないのですが、久しぶりにエキサイトしました。欧州ばなれした景観とかいったら怒られるでしょうね。欧州中心主義(ユーロセントリズム)というのがしばしば槍玉にあがりますが、フランス屋の私も含めて西欧中心主義というバイアスがかかっています。東欧も、バルカンも欧州です。そういえば、帝国主義時代のドイツは3B政策(ベルリン−ビザンティウム−バグダッド)を採ってバルカン半島を自らの経済圏に組み込もうとしましたが、そのころようやく鉄道が敷かれて、どうにか移動の足が確保されたのだそうです。もともとバルカン半島での主要な運搬手段はラクダであり、遅いところでは20世紀に入ってもなおラバを使用していたらしく、何と欧州ばなれ、じゃなくて西欧ばなれした世界なんだ!

一○○年前も、オスマン帝国は日没後の移動の安全を保証できなかった。もちろん、昼間でも旅行者を守れなかった地域もある。「私たちの安否を気遣っていたパシャは、私たちがシュムラ経由でバルカンを通るという計画を聞き入れようとしなかった。そこでは強盗や暗殺が起きていたからだ」と、フォン・ティーツは一八三六年に書いている。「だが、トゥルノヴォを通っていくようにと勧めてくれた。そこのほうが不便だが、はるかに安全だった」。そして海上でも、旅行者は海賊に襲われる恐れがあった。地中海では一五世紀から一九世紀初めまで、政治的対立と混乱のせいで私掠船や海賊船が出没していた。エーゲ海の海賊は、一八三九年にオスマン帝国とギリシャの共同行動によって一掃されるまで、長く地域の脅威だった。/オスマン帝国はこの事態にうまく対処できていた。こうした無法者や反逆者や山賊との交渉に慣れており、相手が強力すぎたり神出鬼没だったりして処罰も殺害もできない場合は、大目に見て政府の任務に就かせることも多かった。一九世紀と二○世紀に近代国家が誕生してはじめて――近代国家は武力行使の独占権をあくまで維持しようとする点、および自国の国民を意のままに動員しようと目論む点からも定義できる――国家の威信に抗う者たちが危険視されるようになったのである。
(前掲『バルカン』、pp.44-45

無法者や山賊が社会秩序の中に組み込まれていたというのもすごいけど、なるほど普遍帝国であるオスマンはそういう社会構造も巧みにコントロールして広域を統治していたわけだなあ。旧首都であるタルノヴォ(文中ではトゥルノヴォ)は長く地域の拠点だったので、ウラではなくオモテの統治機構が作用する場所で、ゆえに安全だったのでしょうね。

 
 ハーフ・ボードの夕食


湾曲するヤントラ川に囲まれた細長い「半島」部分を歩いてこのお城まで来ましたので、基本的には同じルートを戻るよりありません。明日の朝にはヴェリコ・タルノヴォを出発するので、実質的な活動時間は数時間しかなく、しかも単純な往復に終わりましたが、満足度は非常に高く、バスに乗ってここまでやってきてよかったなと思います。観光客の数もさほどではなく、静かです。ホテルに戻って小休止し、20時に0階へ下りてディナー。案内されたのはレストランというほど広さのない区画で、他に客は一人もありません。どこでも好きなところへというけど、狭くて薄暗い食堂に好きなところもないわねえ。案内してくれたのはホール係らしい若い女性で、英語はあまり上手ではなく、愛想もいまいち。飲み物はと聞かれたので、生ビール(draght beer)はありますかと聞いたら、ビンになりますということだったのでそいつを頼みました。ああ、パリでもおなじみの、ベルギーのステラ・アルトワですね。食事の注文を聞かないので、ハーフ・ボードの料理はあてがいぶちなのでしょう。ビールを一口飲んだあたりでさっそく前菜が運ばれました。トマト、キュウリ、オリーブの実、ゆで卵に、カッテージみたいなチーズがたくさん入ったサラダです。あとで「地球の歩き方」を見たら、ショプスカ・サラダ(Шопска СаЛата)というポピュラーな品らしい。適度にチーズの酸味があって美味しいが、サラダにしてはとにかく大盛りで、これだけでお腹がふくれそう。つづいてメインはごく普通のチキン・ソテーでした。とくに工夫もなさそうな塩味で、予想どおりの味がします。千葉工大新習志野食堂2階の250円のやつのほうが美味しいかも(笑)。マッシュ・ポテトがかわいらしく3つに小分けされてポーションされているのが唯一の特色で、これをまぶして食べると少しだけ深みが出ました。デザートは小さなエクレアが6つ。これはまさしく普通のエクレアでした。変哲とかないのかね。

チキンが運ばれたタイミングでグラスの赤ワインを追加したら、これは別勘定で、おねえさんが15Lvを請求しました。え、いま? 普通のホテルならサインして部屋代にチャージするところですが、即時の現金決済を求められ、まあいいかと現金払いしました。ハーフ・ボードの食事は、前菜・主菜・デザートにワンドリンクということなのね。レストランには途中まで私ひとりでしたが、さっきからエントランス付近でうろうろしていたごっつい男2人が入ってきて斜め前の席に着き、おねえさんと何やらやりとり。片方はスキンヘッド、もう片方は短髪の軍人ふうです。ショプスカ・サラダが2人の前に運ばれましたが手をつけるでもなく、せっせとPCワークをつづけます。何者だろう? 食事の内容はともかく、二食つき€55ならば安価すぎて申し訳ないほどなので、無愛想は勘弁してあげましょう。というか、ブルガリア人の塩対応はソフィア到着いらいたびたび経験して、ネタが増えておもしろいなくらいに思っています。ごちそうさま。

 
プレミア・ホテルの朝食 レセプションの前に、元大関琴欧州の記念写真が飾られていました オーナーが後援者らしい


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29日(火)の朝は、今回の遠征で初めてどんより空になりました。ヴェリコ・タルノヴォ駅から列車でルーマニア国境の町ルセに移動する予定です。前述のように、国鉄のオンライン操作がどうにもうまくいかず、チケットの手配はあきらめて現地で直接購入することにしました。ちょっと前まで西欧でもそうしていたのだから、こちらの感覚がIT化しすぎているのかもしれません。それでも国鉄のサイトで列車時刻と乗り継ぎ情報は入手することができました。ヴェリコ・タルノヴォを1015分発の列車で、隣町らしいゴルナ・オリャホヴィッツァ(Горна Оряховица 1035分着)まで行き、そこで1115分発の列車に乗り換えて、ルセが1341分着。地図で見るとルセまで100kmもなさそうなのだけど、車両やインフラもあまり近代化されていないと思いますので、まあそのくらいはかかるかな。鉄道のヴェリコ・タルノヴォ駅は、ホテルのある町の中心部からかなり南に外れたところにあります。前日ソフィアからのバスを降りたアフトガーラ・ユクからさらに南、ヤントラ川を渡ったところにあり、道のりで1.5kmくらいで歩けないこともないですが、あのガタガタ道を歩くのもしんどいのでタクシーを呼ぶことにしました。ホテルのレセプションに車の手配を頼みます。ブルガリアは、ガイドブックにも各種のサイトにも、とにかくタクシーが信用できない国だと書かれています。合法タクシーですらインチキをすることがあるし、とにかく違法タクシーが多くて見た目も変わらないため、下手に乗ってはいけませんということのようです。ソフィアでは町のあちこちに客待ちのタクシーの列を見ましたし、実際に何度も「乗らないか」と声をかけられましたが、おそらくその多くがインチキなのでしょう。ただヴェリコ・タルノヴォのような田舎町で違法タクシーが儲けられるとも思いません。一流?ホテルの紹介ならまず問題ないでしょう。

車に乗ってしまえば駅まで10分くらいとみましたが、外国では何が起こるかわからないので余裕をもって915分ころ出発。黄色いタクシーはどこも迂回せず(当たり前だ)駅につけてくれました。たしか4.20Lvとかそんなものだったので、5Lv紙幣を渡して残りは心づけにとってもらいます。それにしても予想以上に小さな駅で、クリーム色の外観こそきれいですが、切符売り場と待合室の他には何もない、最小限の機能しかないようです。駅前に商店ひとつ見当たりません。最近行ったところでは、スロヴェニアのクラーニュ駅や英国ウェールズのバリー駅なんかが、この程度の規模でした。日本国内の鉄道を乗り歩いていたころにはしばしばこういう駅を利用したものですが、JRならまず無人駅になるところ、ヴェリコ・タルノヴォ駅には窓口内の事務室に少なくとも2名の女性駅員の姿が見えます。

 
 
ブルガリア国鉄ヴェリコ・タルノヴォ駅 およそ「主要駅」にはなりえない田舎の小駅でした(Чакалняは待合室の意味)


オープンになっていない駅窓口を「刑務所の面会型」などと呼ぶことがありますが、それにしても小さな木枠の引き戸を開いて駅員さんとコミュニケーション。プリントアウトしてきた旅程表を示しつつ、ルセまでのシングル・チケットを1枚ほしいと英語で頼むと、「ルセ?」と聞き返したあと、こちらの顔を見て、Late(遅れています)と。英語をあまり話せないらしく、手近なメモ紙を破って、変更後の時刻を書きつけました。これによると当駅発が1113分と約1時間遅くなり、ゴルナ・オリャホヴィッツァでの待ち時間が1時間半ほどあって、ルセ到着が17時とあります。いくら何でも17時であるはずはなく、ファイブ・ピーエム?と聞いてみても意味をわかってもらえないようなので、列車内かゴルナで新しい情報を入手することにしましょう。手書きの文字って民族ごとに書きグセがあるので、なかなか読めないことがあるんですよね。切符は名刺大の、レシートみたいに薄っぺらなものが出力されました。運賃は7.40Lv

何が起こるかわからないので余裕をもって、当初出発予定時刻の45分前に着いたところ、たしかに何かが起こり、発車が1時間遅れになりましたので、何もない駅で約2時間も過ごさなければならなくなりました。まあそんなこともあるさ。同じ列車に乗るつもりだったらしい23組の人があとから来て、窓口で同じ説明を受け、あきらめたのかバスに切り替えたのかすぐに立ち去ります。そのあと20代の白人バッグパッカーがやってきて、大柄な体を曲げて小さな窓口に話しかけ、同じ説明を受けていました。彼はそれでも「鉄道派」のようで、少し離れた場所に座ってPCを取り出し、何やらの作業を開始しています。女性駅員は私にも彼に対しても、「1時間(遅れ)」を「ワン・チャス」と表現していました。チャスなんて単位は初めて耳にしたものの、英語のくだけた表現でもあるのかなと思って、あとからGoogleさまに聞いてみたら、hourにあたるブルガリア語(час)のようです。用事が済むとすぐに小さな窓を閉めます。いつの時代やねん。


都市移動のためキャリーバッグを携行しているのと、雨がぱらぱら降り出したので、ひまつぶしに散策というわけにもいかず、待合室で本を読んだり、線路の様子を眺めたりしながら時間つぶし。兄さん持参のPCは別にしておよそデジタルなものは何もない空間で、ますます昭和の旅行の感じがしてきました。駅員が情報確認する際にも、コンピュータ端末ではなく電話を使用しています。そのうち、線路側の扉を開けていかにも怪しい中年男が入ってきました。当方の顔を見るなり「ジャパン? コンニチワ」と声をかけてきます。自称45歳で、文法と発音がかなりでたらめな英語で臆せず話しかけてくるので、ますます怪しい(笑)。どうやってブルガリアに来たのかとか、ここはコトーシュ(琴欧州)の出身地だぞとかいろいろいうのだけど、こちらが話し、答えていることの半分くらいしか理解していない感じだね。ふところから変なカードを取り出して、見てくれと。日本語の小説みたいな文章の一片のようですが文脈がないので意味不明。しかも登場人物がテオドールなどと妙にこちらに寄っています。何を話したいのか解しかねていると、次は古銭を3つ見せ、「この25km先で俺が掘ったものだ。マイ・ホビー・イズ・コレクト・コイン」といいます。そこはto不定詞か動名詞にしないと英語の先生に怒られるよ。で、案の定、You have Japanese coins?といってきました。ないよと答えたら会話はそこで終了し、バッグパッカー兄さんのところに移動して、また同じようなやりとりを開始。兄さんはフランス人のようです。やれやれ。

と、まだ11時になるかならないかなのですが、電気機関車の引く列車がホームに入線してきました。女性駅員が窓口のガラスをカンカンと叩き、あれに乗れと指さします。まじか! 急いでキャリーバッグを提げ、ホームへ。駅舎真横ではなくもう一筋向こうの線路に入線していますが、跨線橋があるわけでもなく、路面電車並みに低いホームがあるだけなので、ひょいと飛び越えて列車に近づきました。ただ、そのぶんものすごく高い位置にドアがあります。まずキャリーを押し上げてから、ほぼ垂直のステップをよじ登るようにしてデッキに入りました。列車は雨の中、すぐに動き出します。待ち時間が長すぎて無警戒でした。「約1時間の遅れ」ならともかく、「1113分発に変更」というリアルな数字は何だったのか。

 


客車はかなりくたびれたコンパートメント車。乗り込んですぐのところに恰幅のよい女性車掌がいたので、駅で書いてもらった新しい乗り継ぎ予定を見せ、This train is OK?と聞いてみます。到着が遅れ、遅れるはずが少し早まるなどぐらぐらしていて、駅の情報そのものが正確でない可能性があるからです。ところが車掌は怒り口調のような強い発声で、何とかかんとかブルガリア語でいうばかりで意味がわからない。切符のほうは認めて検札しましたので、たぶん間違っていないのだろうと判断しました。「チェンジ、ゴルナ」みたいなことを叫んでいます。ゴルナ(・オリャホヴィッツァ)での乗り換えは承知しているので、Gorna, this train OK?と訊ねてみましたがこれも通じません。何を怒ることがあるのかねと思うほど不機嫌な顔のまま、車掌は立ち去りました。それにしても、ドアは自動ではなく手開け式のようで、開放したまま走り出していました。デッキに持ち上げたキャリーバッグは無事でしたが、向きによっては転がり落ちていたかもしれない。あぶな! トンネルを抜け、曲流するヤントラ川を2度渡り越したあたりで再び車掌が現れ、「ゴルナ、トレス、×▲☆○☆」とか何とか怒鳴ります。「この外人、話が通じないのよとばかり、国鉄とは関係のなさそうなおじさんを連れてきて、何やら話し合い当方を説得するような感じでいってくるのだけど、チェンジ、ゴルナ、トレスしか聞き取れず、わかりませんという態度を示すと、あきらめて去りました。ブルガリアに来るのならブルガリア語の基礎くらい心得てから来いよといわれればそれまでですが、それにしても天下の欧州連合加盟国の、ローカル列車とはいえ国鉄の車掌さんなのだから、中1レベルの英語はわかってほしいな〜。

1120分ころゴルナ・オリャホヴィッツァ駅に到着。地図を見ると南北と東西の幹線が交差するジャンクションで、鉄道の要衝のようです。地下通路を通ってコンコースに出てみると、駅というより市役所のホールみたいな色気のない空間でした。でも広い。ブルガリア国鉄の情報は当てにならない感じですし、そもそもコミュニケーションがままならないため適切な判断のためには複数の経路で情報を入手しなければなりません。電光掲示板を見ようとしたら、先ほどの女性車掌が通りかかり、「トレス!!」とまた怒鳴る。それがわからんから文字情報を見てるんじゃんよ。ヴェリコ・タルノヴォ駅員の書きつけた1312分というのは見当たらないのですが、Русеを経由する便が当駅1255分着、1310分発となっています。キリル文字は依然として読めませんが、ルセというくらいの単純な綴りならどうにかなりますし、鉄道駅の発車案内板に2つの時刻が並べばarrivaldepartureに決まっていますよね。しかし念には念を入れて、もう一度ホームに行き、男性駅員(もしくは乗務員)にルセに行きたいのだがと聞くと、この人も英語を解しません。すると、そばにいた人のよさそうな一般のおじさんが、どこに行くのかと英語で聞いてくれました。――ルセに行きたいのです。「わかった。ジャスト・モーメント!(英語の表現を一生懸命ひねり出そうとしている様子) どこから来た? チャイニーズ?」 ――フロム・ジャパン。「オー、ジャパン。ジャスト・モーメント! I don’t speak English. My friend… ――ノー・プロブレム! おじさんは親切に情報提供してくれようとしたのだけど、それ以上の英語が出てこないということらしい。英語を話す友人がいるのでというニュアンスをにじませたのでしょうが、男性駅員が戻ってきて、小さな紙に13:00と数字を書いて示し、いまいるホームを指さしました。――ワン・ピーエム、ヒア? 駅員が大きくうなずいたので、これで確定ということにしよう。たぶん案内板の1310が正解なのでしょうが、早めに来ていれば大丈夫のはず。ブルガリア人はイエスで首を振りノーでうなずくのだという知識をすっかり忘れていましたが、いまさらながらあれはどういう意味だったのかな?

 
ゴルナ・オリャホヴィッツァ駅

たかだか鉄道を乗り継ぐだけで難儀なことではあります。でも、東欧旅行は一筋縄ではいかないつもりで来ていますし、ネタが増えていいなとすら思っています。英語が通じず、現地の言語ばかりか文字を読めずにきょろきょろするというのも欧州ではこれまでにない経験。トレスの意味が最後までわからずじまいです。Googleさまにお訊ねすると、ブルガリア語の13тринадесе、ラテン文字に転写するとtrinadesetなので、このあたりを聞き取れなかったのかもしれません。フランス語で13時はtreize heures(トレズール)だけど、まさかね。ラテン語の13tredecimで、いずれもここから派生しているのでしょう。日常生活とか旅行では数字って大事です。現地の人は何気なくさらっと情報を出すのだけど、そのぶん母語話者以外には肝心の部分を聞き取れないことがままあります。フランス語で何時というときにはheure(s)を使いますが、英語のhourと同じでhは発音しない文字なので、単体では発音されなかった前の数字の末尾字とアンシェヌマンまたはリエゾンを起こし連音として発音されます。そのため2時(deux heures)と12時(douze heures)がどちらもドゥーズールに聞こえてしまう。もとより発音は異なり、後者は唇を突き出して発音するのですが、日本人が直感的に聞き分けるのは困難で、私も苦手なので、このごろはあえて英語に直してTwo PM?と問い返すとか、正午だと思えばmidi(英語のnoon)という別の語で聞いてみるというふうに慎重を期しています。日本国内にいて外国人に情報提供する機会も増えてきているので、勉強になります。

ともかく1時間半ほどの待ち時間があります。待合室の奥に思いのほかしっかりした売店があり、パンやサンドイッチ、飲み物やスナック類など一通りあります。日本のパン屋さんがトレー式のセルフ・サービスになったのは1980年前後だったように記憶しますが、それでもガラスケースに収められた品をオーダーして取ってもらうタイプもずいぶん後まで残りました。あの昭和のガラスケースに、ラップで包まれた「調理パン」みたいな品が並んでいて、なつかしくてうれしい。大きなホットドッグを求めたら0.90Lvで、値段もかなり安いですね。1人勤務の売店の若いおねえさんは、今日ここまでのいろいろなやりとりがウソのように見事な英語を話します。社会主義時代の外国語といえばロシア語だったはずですし、そもそも教育機会がどれほどあったのかも微妙なので、世代によって隔絶していたとしても無理はありません。ま、日本のローカル線に乗って英語がどれだけ通じるのかといわれると、それも心もとないですが、でもOKとか数字くらいは誰でもいえるんじゃないかねえ。

 クレーン・ゲームがなぜかぽつんとある


表にはそれなりに建物も見えて、ヴェリコ・タルノヴォよりは大きな町なのかもしれません。少なくとも駅前は。今度はいつ列車が動くといわれてもいいように、ホットドッグは車内に持ち込むことにして、しばらくコンコースのベンチで待ちます。今日はこればっかりね。発車案内板では正午発予定のメズドラ(МезДра)行きが10分遅れるという表示が出ており、そのとおり1210分にいちばん手前のホームから列車が汽笛を鳴らして出発していきました。さっきまでここにいたお客の大半がその列車に乗っていき、コンコースはがらんとします。そこに、ホームで出会ったおじさんが現れ、自分のスマホを手渡して、英語のできる友人とつながったから話してくれと。いや、もう解決しちゃったんだけどな(笑)。――ハロー。「ハロー、君が乗る列車は、トゥエルヴ・フィフティだ。OK?」 え? 1250分というのはどこにもない数字。まあでも先ほど確認した情報を優先すればいいや。――I see. Thank you very much! ご友人に替わりますね。・・・どうも電話の向こうのおじさんも、さほど英語を話せるということでもなく、あ〜とかえ〜とか引っかかりながら一生懸命話してくれた様子です。1250分というのは、時刻情報を取り損ねたのか、数字の英語表現が狂ったのでしょう。

おじさんは電話を切ってから、英語を話せなくて残念だと2回ほどいい、非常に初歩的な英語でどうにか話しかけてきます。「ネクスト・タイム、ブルガリア、I help you」と手ぶりを交えて。――それはどうもご親切にありがとう。またお会いしたいです(I am looking forward to seeng you again.)。いうても私の英語力だって大したことはないので、全体に中学校英語の例文みたくなっているね(汗)。手渡してくれたメモ紙には、ゲオルギ(Georgi)さんというらしいおじさんのメールアドレス、フェイスブックとスカイプのアカウントが記されていました。ブルガリアにまた来ることはあるかもしれませんが、ゴルナ・オリャホヴィッツァはどうだろうねえ。いったん去ったかと思ったら、どこからか包みをもってきて、「これは私の家でつくっているものです。列車内で食べてください」と、マスカットのような色のブドウをくれました。これはこれは、何もかもご親切に。そういう雰囲気なので、前のベンチにずっと座っていた80歳くらいのおばあさんも、これを食べなんせとばかりに、買い物袋から真っ赤なトマトを取り出してこちらに手渡そうとします。さすがにトマトをもらっても困るので、お心だけいただくという表情で応えておきました。塩対応は人によるということですね。当たり前か。

 

PART5につづ

 


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