Découvrir Lisbonne et l’Océan Atlantique

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カスカイス行きのバスは1217分。岬での持ち時間は1時間ちょっとですけど十分すぎるくらいです。いったんバス停横の案内所に引き返し、観光案内などのいろいろな掲示物を眺めてみれば、ここはシントラ市の一部だということがわかりました。案内所も同市の運営らしい。機会があればシントラ本体にも行ってみなくちゃね。車で来たらしい中年の夫婦が「フランス語を話していただけますか」とカウンターに訊ねると、男性職員さんが「ウィ」。どうやら噂に聞いた最西端到達証明書を購入するようです。見ていると、思った以上に大きくて立派な用紙で、€10.81と不思議な端数のついた金額ながら良心的な値段だと思う。証明書を手ににこにこしながら退室する2人を見送って、職員さんにMoi aussi.(私にも)とフランス語で発注しました。これだけもらっても困るので€1.08の大封筒もね。A4より大きくてB4より小さいサイズです。

 

私の名前の部分が凝った字体で手書きされ、Koga Tsuyoshiさんが・・・のシントラ市ロカ岬に到達されたことを証明します。と読めるポルトガル語が表面に(この程度ならフランス語からの想像でだいたいわかる)。裏面は、スペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、日本語、アラビア語、中国語。世界的観光地だけにご苦労なことです。中国語はなぜかタイトルが簡体字、本文が繁体字と簡体字のミックスで、おや〜と思うものの、どこにでも現れる中国人観光客をいまのところ見かけないので需要は多くないのかな?(きっとあれですよね、一時期まで「どこに行ってもジャパニーズがいやがる」とか思われていたんでしょうね) 上で・・・と略した部分は「ロカ岬」と同格の形容詞節で、日本語の証明によれば「ここは、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し、「陸尽き、海はじまる」と詠われ、新世界を求め、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの信仰心と冒険魂が、今に尚、脈打つところです」。たしかにカラベラ船を繰り出したのはリジュボーア港であって断崖絶壁のここじゃないものね。出帆した彼らが岬を振り返ることはあったのかな? ともかくも信仰心と冒険魂を携えたポルトガルの航海者たちが回りまわって16世紀の日本列島に現れ、さまざまな影響を遺したことは確かで、一応の敬意は表しておくことにしよう。一応というのは、15世紀後半のポルトガル人の動きこそ、その後数百年にわたる西欧人による世界侵略の第一歩だったからです。発見と侵略は同じことを意味する別の表現です。

バスの時間が近づきました。名残惜しいけど出発しましょう。ここまでリジュボーアの都心から片道1時間ちょっとで来られるのだからいいですね。バス停前のベンチでは、証明書を書いてくれた案内所の職員さんと、中日の和田みたいな顔立ちのおっちゃんが談笑しています(中日の和田みたいなポルトガル人はいっぱいいます)。先ほどはありがとうございました、すばらしい眺めで感激しました、みたいな内容をフランス語でいったつもりなんだけど伝わったかな?

バスは少し遅れて1223分ころやってきました。来たときと同じ道を引き返しますが、右側通行の欧州大陸ですからカーブの崖側を走るわけで、またまたおっかない。おっかないと思いつつも景色を見なければ損しちゃうというコスト感覚?もあるため、目を見開いておきました。そのうち海際から離れます。

 カスカイス港

カスカイスに戻ってきました。ここは小さな漁港だったのが金持ちのリゾート地に化けたところだそうで、せっかくだから散策してみますかね。駅前から海辺へ行くらしい緩い下り坂を歩くと、まさしくリゾート地という感じの白亜の建物が並び、高級ブティックやもっともらしいカフェなどが建っています。私の趣味ではないですけど、まあつまらなくもありません。海辺には立派なリゾートホテルもあります。観光レストランとかスーベニアショップ(お土産屋さんというよりこっちの表現かな)もたくさん。歩いている人もテラスでごはん食べている人も大半がサングラスをした白人だというのが場所柄なんでしょうか。いい店があれば昼食をとってもいいなと思って何軒かのぞいたものの、見るからにダメな観光レストランだし、客引きのいるところは嫌だしで回避。昨日は結局ランチをとらないまま歩きつづけたので、場合によっては今日もパン1個くらいでいいか。

 
 

と思って駅に戻りかけたら、かなり駅に近い側の小さな通りに面して小さなレストランがありました。黒板メニューを見たらarroz de polvo 6.00€とあるではないですか。丸暗記したポルトガル料理の主要メニューに従って直訳すればタコライスだ。タコライスといっても沖縄のあれではなく、文字どおりタコのライス。そうそう、これ食べてみたかったんですよね。店員の兄さんに声をかけたら、表のテラス席に案内されました。もう気温は156度くらいになっていて、外でもコートは不要なくらいです。繰り返すけど、一昨日まで厳冬のパリだったのがウソみたいです。

 
 ランチにタコライス


飲み物は、これも試してみたかったヴィーニョ・ヴェルデ(Vinho verde)を。直訳すれば緑ワインで、ポルトガルで非常にポピュラーなカジュアル・ドリンクらしい。うっすら緑がかった白ワインという感じですが飲み口はとても軽く、あとで調べるとアルコール度数はビール並みだそうです。でも美味しい。タコライスならぬアローシュ・デ・ポルヴォが運ばれてきました。長粒米と細切れにしたタコをトマトソースで煮込んだリゾットで、タイ料理みたいな香菜のかけらが散らされています。スプーンでなくフォークで食べるんだね。タコのダシとトマト味がよくマッチして、これは美味しい。お米がアルデンテなのもいいですね。ぐちゃぐちゃのリゾットって私には意味がわかりません。これは日本人なら好きな味ですよ。

隣席の30代くらいの夫婦は英語を話しています。奥さんはステーキですが井上陽水に似た旦那さんはイワシの焼いたやつが2本載ったお皿と格闘中。焼きイワシがよく食されるとは聞いていましたが、初夏くらいと思っていたので意外に思います。和食店で見かける「焼き魚」そのものですな。もちろんお箸ではなくナイフとフォークで、お醤油ではなくレモンとかオリーブオイルで食べます。焼き魚のにおいっていいなあ(普段は東京でも肉ばかり食べているくせにね)。私がタコライスを食べ終えてビッカ(bica エスプレッソのこと)に移ったころ、夫婦のメインディッシュも終わり、旦那さんが「デザートにチーズを頼んでワインもう1本飲んじゃおうか」と奥さんに持ちかけています。1本といってもハーフボトルだったので物足りなかったのでしょう。店員さんは「チーズプレートというのはないですけどドイツの朝食みたいなセットならできますよ」と。ややあって、たしかに見慣れたジャーマン・ブレークファストのセット、薄切りのハムとチーズにバゲットが添えられて出てきました。デザートにチーズとワインってフランス人じゃあるまいし、さっぱりしたイワシのあとでよくそんなもの食うね。当方の会計は、緑ワインが€1.40、ビッカが€0.85で〆て€8.25。やたらに物価の高いパリから来てみると、ポルトガルはパラダイスですね! 気候は温暖だし物価は安いし治安はいいし。

  カスカイス駅

のんびり昼食タイムを過ごして14時前にカスカイス駅に戻りました。リジュボーアまでの便は毎時34本ほどあって充実しています。最初は、帰路にベレン(Belém)で下車してその地区を歩こうかと思っていましたが、リュックに入らないでっかい封筒(証明書)をもっているので市内に直行してホテルに置いてきてしまおう。そういえば往復切符も購入済みでしたね。ベレンは、リジュボーア都心からは425日橋をくぐった西側(大西洋側)にある地区で、世界遺産のジェロニモス修道院Mosteiro dos Jerónimos)が有名なところです。例のエッグタルト、パステル・デ・ナタはこの修道院が発祥。どうやら、リジュボーアというかポルトガルにはきっと再来するだろうという予感がありますので、次回いろいろと見学したいですね。

 発見のモニュメント


ベレン駅のすぐテージョ川側にあるのが発見のモニュメントPadrão dos Descobrimentos)。行きがけに車窓から見えたので、下車できない代わりに帰路もよく見ておきましょう。前述したように発見と侵略は同義語ではありますが、まあそれはそれとして、1516世紀の「輝かしき」世界進出の事績を讃える記念碑です。カラベラ船を模した碑の先頭にいるのはジョアン1世の子エンリケ(Infante Dom Henrique 13941460年)。父とともにレコンキスタの最終局面で活躍、イスラム勢力をポルトガルから逐い、つづいてその根拠地の攻略と海外交易の開拓をめざして自らパトロンとなった船をアフリカの大西洋岸に繰り出した人物です。この活動は彼の死後にバルトロメウ・ディアスの喜望峰到達、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓へとつながっていくわけで、ポルトガルの「最盛期」を現出したきっかけを成したと考えられているわけですね。このためInfante de Navegador(英語はthe Navigator)の愛称を付して呼ぶのが通例となり、日本ではエンリケ航海王子の名で世界史の教科書にも太文字で出演なさっています。モニュメントには他に世界一周未遂?のマガリャインス(マゼラン)、ブラジルを植民地化するきっかけをつくったカブラル、そして日本史の教科書にもご出演のフランシスコ・ザヴィエルも掘り込まれている模様。

カイス・ド・ソドレ駅からメトロでホテルに戻り、証明書その他を部屋に置いて、また都心に出てきました。青メトロのマルケス・デ・ポンバル〜バイシャ・シアード間はすっかりサンダル代わりになり、迷うことなくスムーズに動けるようになっています。午後最初のねらいはケーブルカーの3つある路線のうち積み残していたビッカ線。高台のバイロ・アルト地区とさきほど利用したカイス・ド・ソドレ駅の裏手あたりを結ぶ路線で、「リスボンのケーブルカー」として取り上げられるのはたいていこの線です。バイシャ・シアード駅を降りて長いエスカレータでシアード地区に出て、カモンイス広場のすこし先にある上の駅をめざしました。

 ビッカ線 奥はテージョ川
 

最初に乗ったラウラ線は住宅街、次に乗ったグロリア線は展望台に着きましたが、この上の駅はカモンイス広場からつづく商店街の一隅で、金曜午後とあって大勢の人が歩いています。到着したケーブルカーからもざくざく降りてきました。車体を観察してみると前2路線との違いは明らか。ラウラ・グロリア両線の車両は普通のトラムのボディを傾斜のある台車に載せたもので、車内に入ってしまえば床は平らでトラムと変わりありません。そのぶん坂下側からは上体を反らして無理しているように見えます。ここビッカ線のは日本各地でよく見るタイプのケーブルカーで、車体そのものが階段状になっており、傾斜をもっています。車体はかなり小ぶり。上の駅から線路を見下ろせばけっこうな下り坂で、そうであればこそケーブルカー(鋼索車両)が必要なのでしょう。いずれの路線も基本的には道路兼用の「路面電車」ですから、歩行者はもちろん一般車両もほいほい乗り入れてきます。車両を観察するうちに福祉車両らしいバンが登ってきて電車のすぐ後ろに停まりました。サイドブレーキ磨耗しないかね。何ごとかと思っていたら、駅のすぐそばのアパートに足の悪いおばあさんを送ってきた模様です。帰りはといえば曲がり角のあるところまでバックですすーっと下がっていくわけで、手慣れたもんだなあ。

全長300mくらいのこの線路沿いに建つのは大半が一般住宅(アパート)です。よく「洗濯物がぶら下がっている」なんていう表現をしますが、比喩でなくガチで下がっています。それもあちこちで。日本のケーブルカーの多くは単線式ですれ違う箇所のみ分岐機で複線にふくらませてありますけれど、リジュボーアのは複線式で、ただしすれ違う箇所以外は変形ガントレットみたいに線路を重ねて単線のように見えます。往来というか上下するケーブルカーを写真に収めながら下の駅まで歩いて下り、それから実際に乗って上に戻るとしましょう。すれ違い部分が撮影のベストポイントに違いなく、スマートな欧米人のお兄さんも本格的なカメラを構えて待っていました。住人らしい中学生くらいと小学生高学年くらいの少年ふたりが路上サッカーに興じています。さすがラテン系だけに見事な腕前じゃなくて脚前で、何より急勾配のため下手をすればボールが大きく転がっていくだろうにそうさせないのがすごい。私が子どものころは狭い路地みたいなところで数名だけの野球をよくやっていましたが、最近は道路で遊ばせてくれないですよね。――しかし、なかなか電車が下りてきません。もう30分も待っているのに。夕方にもなっていないので頻度が落ちるということはないはずなのになあ。サッカー少年付近から下はさらに傾斜がきつくなります。その斜面を80歳は過ぎているであろうおばあさんが歩いて登ってきました。手足とも震える状態で、もちろん非常にスローモー。ステッキももたずに大丈夫かいなと思っていると、交差点を渡ったあと線路面から路肩の歩道への数センチの段差を越えられないらしく、立ち止まって足踏みしている。すぐ駆け寄って手を取って歩道に乗せてあげましたが、このさき大丈夫かね。ケーブルカー乗ればいいのに。

  かなりの急傾斜を下って、下の駅へ
 生活感たっぷり


結局、45分くらいは線路上でうろうろしたような気がしますが一向に動く気配はなく、そうなると何かの事情で運休になったに違いありません。線路道を歩いて下の駅まで行くことにしました。下の駅から数十メートルだけは専用軌道で、そこは裏の路地を歩くことになります。その裏の道はアパートがぎっしり建ち込んだ日当たりの悪い階段。パリなど「西欧」の大都市にもこういう景観がないわけではないけれど、中心市街地のすぐそばにはさすがにないですよねえ。下の駅には、上りにアテンドするべき女性乗務員さんが待機していましたが新聞を読んだりしていて電車が動くふうはありません。観光客が来て何やら訊ねると、首を振って「動きませんよ」みたいなことをいっている(らしい)。何だか事情はわかりませんが、そうなら仕方ないので、明日の午前中にリトライしよう。下の駅付近からバイシャ地区に抜けるルートは昨夜、レストランを探してうろうろしていたときに通っています。トラム15系統が来たので乗りました。コメルシオ広場からバイシャに入り、ワインを買ったあたりをかすめて、昨日お城に行くとき12系統に乗車したフィゲイラ広場まで進みます。15系統ははやりの2連接LRTですーっとスマートに走ります。

 焼き栗屋さん(ロシオ広場)
 


あれこれしているうちに夕方になりつつあります。ウィンドウ・ショッピングでもしながら無駄歩きをしようかな。ロシオ広場からバイシャに戻り、オウロ通り(Rua do Ouro)のちょっと下町っぽい商店街をのぞきます。昭和の洋品店みたいな構えの香水屋さんを見てみたら、ひいきの品が日本のドンキホーテ価格(笑)。もっと安いならともかく東京でも同額で買えるなら荷物を増やすことでもないか。香水は国内持ち込み制限があり2オンスを超えると課税申告が必要になりますしね。2006年にオーデコロン発祥の地ケルンを訪れた際に「香水屋さんなんて入るの初めてだよ〜」(ドイツの旅)とかウブなことをいっていたはずが、このごろはじゃぶじゃぶ使っていてJK(女子高生)たちに今日のはいいとか悪いとかさんざんいわれています。そういえばケルンの元祖オーデコロン4711にその名もポーチュガル(Portugal)という品があり、柑橘系のさわやかな感じが好きでよく週末に使っています。日本ではあまり見かけないやつなのですが、国名をつけられているだけに?ここの店頭にはちゃんと出ていました。そのそばにおなじみH&Mがある。そうだ、パンツ買おう。パンツじゃなくてンツ。日数を数え間違えたのか下着の枚数が1つだけ足りず、このままだと使いまわしというヒドいことになってしまう!(しかも機中1泊があるので正味2日も!) ファストファッションのショップはどことも同じようなもので、気楽といえば気楽ですがおもしろくはありません。2枚セット€14.95の品をレジにもっていくと、前に並んでいる若いカップルが男性もののあれやこれや15品くらい購入するらしく、しかも「あれはないんですか」みたいな問い合わせもあって進まん。Tシャツとか靴下みたいな日用品も彼女さんペースなんだね(笑)。ようやく会計して表に出ようとしたら防犯ブザーに引っかかり、警備員に連れ戻されてしまいます。レシートはあるのだからまったく問題はなく、要はレジ係がタグを外し忘れたということでした。係のおねえさんもあのカップルにいらいらして仕事のリズムが狂ったらしい。

シアードに移って(登って)お店眺めを続行するつもりだったので、空いていればと思ってサンタ・ジュスタのエレベータ乗り場をのぞいたら大混雑。さんざん待ってぎゅーぎゅー詰めのエレベータというのはかなわないから回避ね。バイシャ・シアード駅のエスカレータを使うのが最もラクですが、ショッピングセンターのアルマゼンス・ド・シアードを通り抜けていくことにしました。スポーツショップとかカジュアルショップなどのフロアをエスカレータで普通に上っていくと、シアードの高台側に出ます。ここは昨日来てお手洗いを借りたところでした。

  路上パフォーマンス

日の暮れかけたシアードには老若男女、というより若めの男女がわんさか繰り出していました。テラスはコーヒーやワインを飲む人でぎっしり。Paris em Lisboa(リジュボーアのパリ?)という明るい布屋さんがあったので入ってみました。ランチョンみたいなのならお土産としていいですし、軽くて薄い(笑)。かなりの種類があって色・柄とも多様なのが楽しいですね。「同期入社」で4年間本当にお世話になった同僚というか上司のH教授には品のあるシックなやつを、若いお嬢さんたち(誰?)には華やかなやつを選んで。レジのおねえさんにプレゼント包装を頼み、「中身の違いがわかるようにしてくれますか」といったら目印をつけてくれ、「こちらは若い女性へのプレゼントですね」とにやにや。オフ・コース(汗)。オブリガードです。

PART 7へつづく

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