Découvrir Lisbonne et l’Océan Atlantique

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フィゲイラ広場の電停には、地元の人と観光客がだいたい半々くらい電車を待っていました。フランス語を話す若いカップルが時刻表をのぞき込んで、お城に行くかどうするかなどと協議しています。もう13時半くらいなのですが、朝食をもりもり食べたためか空腹感はなく、ランチ省略でいいか。よほど腹が減ったらパン屋さんあたりで何か買えばいいわけですしね。

  さっそくの急勾配

トラム12系統の座席は発車と同時に埋まり、立ち客もあります。私は運転台すぐ後ろの「展望席」に陣取り前方観察。電車はすぐ急坂にとりつきました。低いモーター音と軌道を走る鉄輪の音があいまって何ともいい感じで、やっぱりトラムっていいなあ。さきほどはバイロ・アルトの高台と低地のあいだの勾配でしたが、今度は東側のアルファマ地区につらなる高台で、古代以来のお城があることからもわかるようにこちらのほうがより高い。石畳の道路の両側には45階建てくらいの古びたビルが並び、主に住居のようで生活感があります。地図で見てもどこに電停があるのか、どこがお城の入口なのか判然とせず、本命を通り過ぎて坂下に戻ってしまうのはかなわんから、「サオン・ジョルジェ城に行きたいのですが」と運転士に英語で声をかけると「ネクスト」とのお答え。おお質問してよかったね。オブリガード!

 
 小さな住居が密集する地区をのぞき込む
 テージョ川対岸にも町が


電車を降りたところはサンタ・ルジア展望台Miradouro de Santa Luzia)の前でした。アルファマの高台の南端部にあたり、テージョ川のほうに向かってテラスを張り出しています。ガラクタみたいなキーホルダーを手にしつこく話しかけてくるアフリカ系の兄ちゃん(複数)を振り切って進み、しばし町の様子を眺めました。リジュボーアは展望台だらけで、でも場所ごとに展望する景観に変化があるので飽きません。Alfamaという語感でピンと来るでしょうか。接頭辞Alがつくのはだいたいアラビア語起源で、中世にイスラムが切り開いて住み着いた地区のようです。イベリア半島がイスラム勢力の支配下にあったのはだいたい813世紀ころで、15世紀末にはイスラム系の君主はすべていなくなりました。ただ、中世のイスラムは(いや近世もそうだな)中国とならぶ世界文明の中心でしたので、ユーラシアのド田舎にすぎぬ西欧はむしろ彼らに学びました。ルネサンスや大航海も彼らとの深い交流と対立が生み出したムーヴメントにほかなりません。いまポルトガルのムスリム人口はさほどでもないそうですが、いわれてみれば中東っぽい雰囲気がなくもないですね(行ったことないけど 笑)。

 サオン・ジョルジェ城へのアプローチ


サオン・ジョルジェ城へは、電停付近から路地のような石畳の道を進みます。かなりの登り坂で、膝の悪い人にはきっと無理だな。お土産屋さんとか民宿みたいなホテルが並んでいるのはいかにも観光地っぽい。欧州の観光地付近でしばしば見かける路上パフォーマーは少なめで、ギターとサックス、あと変てこなおもちゃの実演販売がいたくらいでした。ようやくエントランスにたどり着いたものの、自動改札機にチケットを挿入せよとあります。あれ、切符売り場なんてあったかな? 1ブロックほど戻って(下って)、小ぎれいすぎて見逃していた売り場を見つけ、€7.50のチケットを購入。券面にはポルトガル語、英語、スペイン語の3言語でキャッチフレーズが書いてあり、英語のは“Discover the Castle of St.Jorge and delight yourself”だと。発見しましょうとも。楽しみますとも。まずはやっぱり展望。とりあえず市街地でいちばん高いところにあるので、これまで登ってきたあらゆる「高いところ」すら見下ろしてしまいます。

 
(左)テージョ川上流方向を望む  (右)コメルシオ広場が見える
 リベルダーデ通り方面
 バイシャ地区をはさんで、バイロ・アルト方面(真ん中にエレベータが見える)
 けさ登ったサオン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台
 425日橋

このシリーズでも現役・遺蹟のお城を何度か訪れてきました。印象深いのは大公宮として今も使われているモナコのお城と、暮れに訪れたばかりのプラハ城。ここサオン・ジョルジェ城を含めて、市街を眼下に一望できる抜群に高いところに位置しています。登るのに一苦労もふた苦労もするけれど、だからこそ城砦としての値打ちがあるわけですよね。あちこちにある由緒書きや資料館で学んだことを総合すると、ここに城砦が築かれた最初は紀元前だったらしい。イベリア半島の開発は早く、最初はいまのレバノンあたりにいたフェニキア人が船を操って半島の地中海側に定着、のちにそこを拠点としてローマとのポエニ戦争に突入するわけですが、フェニキアの影響で現地の人たちも政治的・商業的に覚醒し、このリジュボーアに目をつけて拠点を築いたようです。ポエニ戦争ののちローマが半島全域を版図に収めました。民族大移動の後は西ゴート人がポルトガルの支配者になります。そののち、アフリカ側から到来したイスラムが数世紀間の統治をおこないました。マジョリティは北アフリカのベルベル人だったようです。高校の世界史が苦手で仕方なかった人にとっては勘弁してほしいところでしょうし、世界史好きという少数民族(笑)にとっては「民族交代のど真ん中の話じゃん。意外性ないな〜」というところでしょう。もっとも、スペインを軸に歴史をみることは多々あれど、ポルトガルは意識の外に追いやっていることが多いかもしれませんね。前述したように、ポルトガルは大航海で飛躍した直後の16世紀末にスペインに吞み込まれます。そのころからサオン・ジョルジェ城は拠点機能を喪失し、荒廃していったらしい。逆にいえば紀元前から大航海時代までは長く交易の拠点リジュボーアの拠点であったのです。

 
 

城内はとくに順路というものが明確に設定されているわけでもなさそうだけど、観光客がぱらぱら歩いていく流れにだいたい乗っかっていきましょう。谷の向こう側、バイロ・アルト地区から見てわかっていたとおり、いちばん外側をめぐる城壁ががっしりしていて、近くで見ても頑丈そのものです。高さもあいまって、こりゃ真正面から攻撃しようという気にはなりませんわな。城郭の内部はほどよい平面で、いまは完全に「遺構」化しています。先生に引率された1クラスぶんくらいの小学生が出てきました。校外学習かな? 元気がありあまって通路をはみ出したり、奇声を上げたりといずこも同じ小学生ながら、「ハロー! みんな元気?」と声をかけると「イエース」とか何とか大きな声で答えてくれました。

 
 

城郭をぐるりと取り囲むのはいっそう高い壁。その壁の上は幅1mくらいの通路になっていて、ほとんどすべて歩いてよいことになっています。内側のガードが低すぎるので私などは多少おっかないのだけど、この際なので一周しましょう。往時は警護の兵士たちがこの上で夜通し見張っていたのでしょうね。どれが何時代のものなのか由緒書きを読んでもよくわかりませんけど、土台ががっしりしているのでメンテナンスしながら使われたものと想像されます。近世に入って機能を失ったというのは、スペインにやられてポルトガルの勢威が衰えたためというのもあるでしょうが、大砲や鉄砲などの飛び道具が戦争の主体になり、この種の城砦が意味を失ったことが大きいのではないかな。日本のお城も、ほかならぬポルトガル人によって火縄銃がもたらされたあとの戦国後期にその姿を大きく変えましたよね。それにしても凸凹やらアップダウンやら隘路やらがあって眺めも最高なのだから、子どもの遠足ないし校外学習にはたしかに最適かもしれません。私、東京の皇居東御苑(江戸城時代の本丸を中心とするエリア)が好きで年に何度か遊びにゆくのですが、あちらは平城ですので天守跡付近を含めてもさしてアップダウンがなく、広すぎることもあって子どもにはおもしろくないかもね。ごつごつした石組みの城砦って、見るだけで歴史に包まれているような感覚に見舞われます。

 
遺構を保全したエリア 紀元前〜イスラム期〜近世の遺構が重なり合っているそうです


お城は思っていたよりずっと広く、ゆっくり一周すると2時間はゆうにかかります。また、期待以上におもしろい。立派な資料館があり、このお城やリジュボーア周辺で発掘された遺物が展示されていて、英語の解説もしっかりしていました。平日だからか観光客がさほどに多くないのはありがたいです(日本人は古賀ひとりでしたが中国人は何組もいました)。歴史や遺蹟が好きな人なら存分に楽しめるスポットといえます。資料館に隣接して屋外カフェがあったのでエスプレッソ飲んで小休止。気づいてみたらもう16時ちかくで、日が西に傾き、リジュボーアの町並みとテージョ川をきらきら輝かせています。そろそろ下山するかな。来たときとは別の道があるようなので歩いていくと、民家のわきを通り抜ける細い路地で、なかなか愉快。リジュボーアはバイシャ地区をのぞいて直線の道路というのが皆無ですね。暗くなったら怖いかもしれない。アルファマ界隈はなかなかおもしろいと、ものの本によく紹介されているのですが、ちょっと今回は時間がないかもなー。リジュボーアの雰囲気というか空気感みたいなものはだいたいわかってきたので、次に来るときにはのんびりゆったりして、住宅街のレストランか何かで午後のワインというふうにしたい。


 
サオン・ジョルジェ城〜サンタ・ルジア展望台の裏ルート


さきほどのサンタ・ルジア展望台前に戻り、また12系統のトラムをつかまえました。時計回りで、今度はお城の南側(テージョ川側)を回り込んでバイシャ地区に下りましょう。あらためて、こんな旧型車両が急坂に張りついてよくも走れるもんだなあ。今回も運転台の真後ろに立って始終様子を見ていましたが、運転士さんはマスコンハンドルを小刻みに操作してブレーキの加減を調節しています。勾配だけでも大変なのに一般車両とか歩行者もけっこういるわけで、もはや職人芸!

 下り坂を行くトラム12系統


PART 5へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。