11時前に博物館を辞去して、徒歩3分ほどのシンタグマ広場に移動。アテネ市街地はだいたいのところが狭い区画にぎゅっと集約されているので旅行者にはありがたいです。そのため前日はオール徒歩で市内をめぐりましたが、きょうの午後はメトロに乗って少し遠出することにしましょう。広場の真横に位置するシンタグマ駅は拠点駅だけあって構内が広々としています。自動券売機でデイリー・チケット(一日乗車券)を購入。各種の公共交通機関に使えて24時間€4.50とはかなり安い。IC化してなお日付で区切るアホ設定のパリの一日乗車券Mobilisは、ついに€7.50まで上がってしまいましたからね。1回乗車€1.90とのバランスもアレなので最近は徒歩まかせにすることが多くなっています。アテネの1回乗車は€1.40で「単価」がさほどに違うわけではなく、しかも5日間チケットだと€9と激安。もっともまる5日間いたところで市内をぐるぐる動くようなことはなく、むしろ郊外とかエーゲ海に出るでしょうから、€9チケットを買う機会はなかなか訪れそうにありません。名刺大の紙の切符を手にして自動改札を入りました。電子情報が内蔵されていますが、サイトを見ると年内にプラスティック・スマートカードに転換すると予告されていました。例示が「ロンドンのオイスター・カードに類似している」とあったのはおもしろい。英語版サイトだからそれでよいと思ったのかどうか、プラスティック式はあちこちで導入されているし、英語サイトの読者=英国人ではないと思うけどな。

デイリー・チケット あらためて券面を見ると利用可能な交通機関が絵で示してありカワイイ
レンタサイクル(シェアサイクルか?)にも使えるのですね
アテネのメトロは全3路線。中心部を貫通して南北方向に走る1号線は、もともと私鉄の郊外鉄道として19世紀に建設されたものがメトロ化されたもので、厳密にはいまでも別会社の運行です。利用者にとっては鉄道の所有・運行がどの社であってもかまわないわけで、社が違うから運賃を打ち切ります、システムも変わりますという日本のしくみが世界標準からズレているということです(けしからんといっているわけではなく、日本にはそれ相応の事情があるのですが、外国人には理解困難だということを申しています)。2号線と、空港から乗ってきた3号線は1990年代以降に新設された路線で、2004年の夏季五輪開催に向けて急ピッチで整備されたものでもあります。かつての東京をはじめとして、五輪ホストをテコにして都市を改造しようという動機は世界共通。アテネの場合は、掘ればたいてい遺蹟が出てくるというので建設中から話題になっていました。ギリシアは1974年に軍事政権が崩壊し、1981年には欧州共同体(EC)に加盟、ECが1992年に欧州連合(EU)に発展的継承されてからは「欧州の一員」としてのプライドをもって現代化を進めてきたのですが、内戦や軍事政権で疲弊した社会を回復させるための措置であったはずの再分配的な社会政策や補助金のバラマキが常態化し、産業の現代化(いまどきは国際競争力の強化)を怠って公共事業や社会保障にぶら下がる構造が定着してしまいました。公務員が主力産業?という、自由世界にはありえない構造になっていますし、競争のない、悪い意味での公務員体質が社会全体を覆っていると伝えられます。あろうことか公務員ポストの分配までおこなわれるとか。外信でギリシア関係のニュースが伝わるときにはたいていそうしたクズな話題であるため、なんだかなあと毎度思います。そう考えると、公共交通の運賃がひどく安いというのを手放しで褒めてはいけないのかもしれませんね。政府が赤字を抱え込んだまま関係部門も含めてそこで多くの人を雇用しているに違いないので。新自由主義は大嫌いだけど、ギリシアの現実を見ると「民間でできることは民間で」やれ、と小泉純一郎の名(迷)セリフを投げつけたくもなります。


(上)シンタグマ駅からメトロを利用 (下左)3号線シンタグマ駅 (下右)1号線モナスティラキ駅
シンタグマからメトロ3号線で1駅、一昨日と昨日は徒歩で訪れたモナスティラキまで進み、そこで1号線に乗り換えます。南(海側)の終点であるピレウスをめざしましょう。前述のような経緯から、1号線はメトロに編入されているとはいえ本来的に「私鉄」で、地下を走る区間はあまりありません。モナスティラキ駅も半ば地上に顔を出した、丸ノ内線の四谷とか茗荷谷あたりの感じに似ています。列車はすぐに来て、乗り込んだもののなかなか動かず、構内と車内のアナウンスが何やかんやと激しくまくしたてています。周囲が平然としてスルーしている様子なのでとくに問題はないのでしょう。まあ切れ目なくぺらぺらしゃべるもので、よく他者をバルバロイ*(βάρβαροι)呼ばわりしたものだな。あ、それは古代の話で、現代ギリシアと系譜上のつながりはないのかな?
*バルバロイは野蛮(barbarian)の語源。異言語が「バルバルバル」と聞こえたから、という説がある。
出発した電車は、前日訪れたアゴラ内の掘割を進みます。遺蹟と一体化した鉄道っておもしろいですね。使用している車両が1970年代の日本の私鉄みたいなやつだし、車窓から見える景観も東京や大阪の郊外とよく似た雰囲気なので、EUの一角にいる感じはしなくなってきました。モナスティラキから7駅、20分ちょっとで終点のピレウスに到着。ここも私鉄の終点にふさわしく、行き止まり構造のホームを採光式のドーム天井が覆っていてしゃれています。

メトロ1号線ピレウス駅
ピレウス(Πειραιάς)はアテネの南西10kmほどのところにある港湾都市。典型的な都市の外港とされます。東京に対する横浜、大阪の神戸、ソウルの仁川、北京の天津、パースのフリマントル、サンチアゴのバルパライソ、マンチェスターのリヴァプール、パリのル・アーヴル・・・
といった外港と比べると、アテネ本体との近さが特徴。アテネ(アテーナイ)が覇権を確立する以前、紀元前6世紀まではアテネが位置するアッティカ半島の東側の港が利用されていたのですが、このピレウスが港湾として開発され、やがてアテネとのあいだを結ぶ城壁が完成して実質的にも「ひとつづきの町」になりました。都市間を結ぶ城壁というのは意外な感じがしますが、両都市それぞれを囲む城壁を延長してつなげ、壁にはさまれた連絡道路を通したということです。のちにスパルタやローマが壁を破壊しました。地図少年だったので、首都のすぐそばに別の都市があり、主要航路がすべてそこを出入りしているという図にすぐ目が止まりました。当時はピレエフスと表現していたように思います。アテネの衰亡とともにピレウスも忘れられていたのですが、近代ギリシア国家はこの都市の再建にも力を入れ、20世紀初めには欧州屈指の港湾としてよみがえりました。よろずダメダメのギリシアが海運国家としては名を成していられるのも、ピレウス港の存在ゆえといえるでしょう。最近ではパナマやリベリアにお株を奪われた感のある「船籍」で、かつてはギリシア船籍というのが目立っていましたよね。ギリシア系アメリカ人で「世界の歌姫」となったマリア・カラスや、J.F.ケネディ未亡人との関係が有名な大富豪アリストテレス・オナシス(Αριστοτέλης Ωνάσης)はギリシア海運を代表する人物で、1922年のスミルナ(イズミル)失陥を機に裸一貫からたたき上げた立志伝中のギリシア人です。
ツーリストにとってのピレウスは、エーゲ海の島々に向かう船の乗り場というイメージが強く、町そのものへの関心はあまりないかもしれません。今回、船に乗るほどの余裕はなく、冬場のクルーズというのも気乗りしないので、アテネ市内と違った町も見てみたい、それなら子どものころから知っているところに、というくらいの動機でやってきました。

ピレウス港 モスクらしきドームが見える 右奥のはげ山も南欧っぽい
メトロ駅周辺に広場はなく、雑然としていて、これも関西私鉄の駅周辺を思わせます。すぐに大通りがあり、そこを横断すると港。メインの港湾であるグレート・ハーバー(Great Harbour)は陸地に深く入り込むように展開していて、いま立っているのはそのいちばん奥にあたります。周囲の地形から推測すると「天然の良港」には違いないのでしょうが、おそらく近代になってからかなり掘り込み、大型船の発着に対応するインフラとして再構築されたのでしょう。いくつもの大型船が停泊しており、多くは旅客船のようですが、アテネ寄りのこのあたりが旅客船用のターミナルとなっているに違いありません。方面別に乗り場を分けるバス・ターミナルと発想やレイアウトは近いのですが、何しろ大型の船ばかりですのでスケールははるかに大きく、大きな荷物をもって乗り場をめざすのは大変だろうから、そういう人はアテネ市内からタクシーで直行するのでしょうね。


ピレウス港には多くの船が停泊中 カーフェリーも口を開けて出航を待っている
それにしてもオープンな港で、歩行者が岸壁をうろうろするのに何の障害もありません。天気がよく無風、2月下旬とは思えない陽気で、海べりを散歩するにはもってこい。鉄道マニアとして生まれついた私は、路線バスや路面電車、最近では航空マニアにもなりかかっていて、公共の乗り物というのがとにかく大好き。男の子が一定の割合でハマる自動車にはまったく関心がなく、運転しようと思ったことすらないため、原理も車種もさっぱりわかりません。公共交通については車両だけでなくインフラやシステムにも興味があり、何より実際に利用したいと思う乗り鉄なのです。ただ船というのはあまり視野に入っていませんでした。日常生活でも、旅行先でも船を利用する機会がほとんどないせいだと思われます。乗ってみればなかなかおもしろいことを、最近の船旅(フィンランド湾や香港・マカオ間で利用)で心得ています。エーゲ海といえば「クルーズ」とすぐ連想できるほどなので、いずれピレウスから何らかの船便に乗ってみたいなとは思います。このごろは、中東とくにシリア情勢の悪化を受けて難民が小さな船でEU加盟国に上陸することが増えており、さまざまな問題を惹起しています。中東から見ていちばん手前にあるギリシアは、海岸線が複雑で島も多いことから「上陸」されることも多くなり、どうしたものかと苦慮しているようです。世界に開かれた海、ということは、裏返せばそういうことでもあります。

ピレウス港付近の日常
このピレウスのすぐ西、大陸にへばりつくような位置にある(ただし地続きではない)のがサラミス島(Σαλαμίνα)。いまはピクニックなどのレジャーで知られる場所ですが、ペルシア戦争の趨勢を決した紀元前480年のサラミス海戦(Ναυμαχία της
Σαλαμίνας)の舞台としてあまりに有名です。アテネとピレウスをつなぐ前述の城壁を建設し、ピレウスの整備に努めた政治家テミストクレス(Θεμιστοκλής)は、陸戦を主張する意見を退けて海上での決戦を企図、半ば謀略のようなかたちでペルシア艦隊をこのあたりの狭い水面に招き込み、激戦ののちこれを撃退しました。なかなかの人物だとは思うのですが、人類最初の本格的な歴史書とされるヘロドトスの「歴史」に主要人物として描かれたおかげで広く名を遺したともいえそうです。ピレウス市内にはテミストクレス広場という固有名詞もあります。まあ、ここでも古代の記憶ですよね。(サラミスとかマゼランと聞くと某アニメしか思い出せないという人は社会科的にけしからんけれども、おそらくギリシアに来ることはないでしょう 笑)
地図を見るかぎりでは、メトロ駅とかハーバーの奥あたりは町はずれの場末で、ピレウスの都市機能はもう少し南東に進んだあたりにあるようです。でも、いいかな。昼ごはんを食べるというのならそちらにも足を伸ばしてみることでしょうが、きょうも昼抜きの予定。それよりも、ピレウスの次の駅(1つアテネ側)から出て海沿いを走るというトラムに乗りたい。いずれまた、来るときがあるのかどうかは定かでありませんが、駅の近くをもう一回りして引き上げることにしました。カーフェリーの着く岸壁のすぐ近くに市場が見えます。欧州のあちこちの都市で見るような露天市場ではなく、建物が割り当てられた常設市場のようです。正午を回ったあたりですが、けっこうにぎわっていて、魚や肉をごそっと大量買いする人の姿も見えました。業務用でしょうか。


ピレウスの市場 タコ、オリーブというのがギリシアらしいところ
ということで、滞在50分ほどでピレウスを切り上げて次の場所というか乗り物をめざします。アテネにトラムが走っているというイメージはなかったのですが、ガイドブックを見ると海岸線に沿って1本と、そこから分岐してシンタグマ広場に向かう路線があって、逆T字をなしています。ということは、古くからある路線ではなく、欧州トラム・ルネサンスと呼ばれる近年の動向の中で新設されたものではないかな?と予想できます。パリが典型ですけれど、最近になって敷かれた路線は都心部で完結するのでなく、メトロなどが行き届かない郊外に展開することが多いからです。どこともモータリゼーションが進んでいますが、そのぶん自分で運転できない「交通弱者」が置き去りにされる恐れがあり、高齢化の進展はとくにその格差を広げる要因になってしまいます。駅間が短く段差も少ないトラムは、環境負荷の小ささも手伝って実は未来志向の乗り物なのではないかという感覚が共有されるようになってきました。
これは後知恵です。いまあらためてアテネ公共交通のサイトでその歴史を確認すると、アテネ市内のトラムは1882年に開業、1960年に全廃されました。これはメーター・ゲージ(軌間が1mのもの 標準軌は1.453m、JR在来線などは狭軌の1.067m)というなかなかめずらしいものだったので、残しておけばマニア垂涎だったのでしょうが、1960年といえばどこでもモータリゼーションの関係でトラムが邪魔もの扱いされているころですから、急拡大した都市であればそういう運命も仕方ないところです。メトロ1号線を経営するアテネ・ピレウス電気鉄道(Σιδηρόδρομοι Αθηνών- Πειραιώς)がピレウスからサラミス方面の海岸線沿いに私鉄トラムを運行していたのですが(こちらは標準軌)、これも1977年に全廃されています。ところが2004年、装いも新たにトラムが首都を走りはじめました。年号で想像できるとおり、同年の夏季五輪に伴う都市改造の一環として新たに敷設されたものです。実際に現地を歩いているときにはそうした情報がなかったので、きっと新しいんだろうなという予想だけを携えていました。

(左)メトロ1号線ピレウス駅 (右)同 ファリロ駅
先ほどの1号線ピレウス駅から1駅戻り、ファリロ(Φάληρο)駅へ。ずいぶんすっきりしたホームで、メタリックな大屋根を載せた駅舎も特徴的です。これは郊外再開発の拠点として造られ、ショッピング・センターや娯楽施設などを併設するようなプロジェクトなのではないかな? トラムがピレウスではなくここを起終点にしているのは中途半端ですが、延伸の計画の有無はともかく、新興開発地区までの路線をまずは確保したかったといえそうです。
乗換案内に沿って進むと、広い道路をアンダークロスして反対側に出なければならず、さらにそこから線路沿いに200mくらい歩かされました。せっかく路線を新設したのであればメトロやバスとノーステップで乗り換えられるように造ればいいものを、知恵のないことだなあ。とくに、地上を我が物顔で往来する自動車に遠慮して歩行者が歩道橋や地下通路を歩かされるというのは、このごろの都市計画では嫌われます。トラムはノーステップが売りなのにね。このごろ旧社会主義圏をしばしば訪れるようになっていますが、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーにそういう傾向がみられました。かつての東京だってそうだったですよね。私が子どものころの東京が「歩道橋」などという非人間的なものの全盛期ではなかったかしら?
こんなところを歩いていいの?
そうやってたどり着いた電停は、始発駅のはずなのになぜか中間駅の体裁で、反対側のホームにも電車を待つ人がいます。電停名はネオ・ファリロ(Νέο Φάληρο)とあり、どうやら起終点であるΣ.Ε.Φ電停(ラテン文字にすればS.E.F.で、なんとかスタジアムという固有名詞の略号らしい)への道を見落として1駅先に来てしまったらしい。あらら。とはいえΣ.Ε.Φ電停がステップ・フリーであるとも思えないので、先の感想はイキにしておいてください。ギリシアくんだりまで来て乗りつぶし癖を発動するつもりはなく、トラムに乗れればよいので、もったいないとか失敗したということでもありません。
すぐにやってきた車両はやはり最近流行の流線型連接車でした。欧州のあちらこちらで何度も体験しています。2ヵ月前に訪れたハンガリーのブダペストは社会主義時代からひきつづいてのトラム王国(帝国?)で、でたらめなくらい頻繁に行き交っていましたが、旧型車両がかなり更新されてこのタイプに置き換えられていました。1年前に行ったクロアチアのザグレブでも、旧型車両に混じってこの手の流線型電車が走っていました。ボンバルディアなどの大手メーカー製が多いと思うのですけれど、欧州というか世界のあちこちから大量発注があるので、基本的な設計を規格化しておけば製造コストを大幅に引き下げられます。車両メーカーと鉄道側の利害が一致して、それはよいのですが、個性や味わいは犠牲になりますね。JR東日本と東急車輛が大量製造しているE231系がいい例です。あれを好きだという鉄道ファンがいたら逆に変人ではないかな(鉄道ファンという人種が変人なのではないかな、という疑問は受け付けません 笑)。東急、相鉄、都営地下鉄などの車両に基本設計が流用されているので、最近の電車はどこでも似たようなものね〜というあなたの直感は、たぶん当たっています。


トラムの内部と外観 窮屈なのにロングシート部分を設けているのは、座席の下に車輪を入れてホームを低床に保つためだろう
とはいえ、いまさら旧型風のごっつい車両を製造してくれというのも無理な要求で、低コスト化そのものは歓迎すべきところでしょう。平日昼下がりの時間帯ですが、だいたいの座席は埋まっています。窓が大きくて採光がよいのも感心。新設軌道なので揺れもなく乗り心地は上々です。基本的に道路面でなく専用軌道を走るようで、海岸線の道路の外(海)側に、芝生ベースの専用軌道が設けられていました。グリーン・ベルト的な役割も果たしていて、町の景観の向上にも寄与しているのではないでしょうか。いまトラムで走っているのは、エーゲ海に突き出したアッティカ半島(Αττική)の西海岸部分です。線路はかなり先のほうまで延びていて、アポロ海岸(Ακτη Απολλων)と呼ばれる高級リゾートに向かうのですが、一本道なのでそこまで行って戻るのは面倒。どこか海が見えるところで適当に下りて引き返そう。まあ海沿いを走るのでどこでも見えるんですけどね。逆T字をなす路線の結節点であるバティス(Μπάτης)でいったん下車。

バティス電停付近の海岸 右の写真で手前に見える対岸がピレウス付近、奥に見えるのがサラミス島
海を見ようというありがちな趣味はほとんどなく、またひたすら海沿いを走るというめずらしいトラムであることもあって、下車したところで特段の感激はありません(汗)。砂浜がつづいていて、屋台や舞台の足場などが見えますので、どうやら夏は海水浴場になるらしい。これほど都心から近いところで海水浴できるのはいいですね。日本人だったら納涼大花火大会とかやってしまいそう。水質も悪くないようです。海パン一丁で水浴している中年のおじさんがひとり。いくら何でも南欧でも、海に入れば寒いだろ〜。このあたりはサロニコス湾(Σαρωνικός κόλπος)の最も奥まったところなので海の広がりを見渡すというよりは、半島や島の影を目で追うような感じになります。サロニコス湾という固有名詞は頭に入っていませんでしたけれども、古代ギリシア史の本を読んでいるときに思い浮かべる地図(海岸線)はだいたいこのあたり。アッティカ半島とペロポネソス半島に囲まれた区画がサロニコス湾で、アテネとスパルタ、宿命のライバルがこの海をはさんで対峙していたということになるわけですね。
もう1ヵ所くらいどこかでと思って、海岸線を往くトラムで先に進み、ゼフィロス(Ζέφυρος)電停で下車。車内から眺めてここかなと思っただけで、とくに意味はありません。小さな入江になっていて、波もなく穏やかな海を望めます。プライベート・ビーチをもっているらしいレストランなどもあるようです。いまはシーズン・オフでしょうね。誰もいない冬の海ですが、せっかくなので砂浜に下りて、水際まで行ってみました。テミストクレスはペルシア艦隊をこのあたりからサラミス海峡に引きずり込んだはずで、実際にどこでどのように戦ったのかな? そのペルシア戦争で陸上の戦いの転機になったのは有名なマラトンの戦い(Μάχη του
Μαραθώνα)で、アッティカ半島の反対側の付け根付近でのことです。あらためて地図を見るとアテネは防衛に適した半島の内側に位置しているのですね。

穏やかなサロニコス湾
ギリシアといっても神話でも古典演劇でも哲学でもなく、ダメダメな近代国家の足跡のほうに関心を抱いている私が「美しきエーゲ海」などに惹かれるはずはもとよりなく、どこでも見られるような海の景色を眺めてひとまず満足。ただ、このトラムにはまた乗ってみたいです。町なかの車窓をダイレクトに見ながら移動できるのがトラムの醍醐味だけど、これほど海岸を走ると、水平線もいいなという気分になってきます。スマートな新型LRT(Light Rail
Transit 軽量軌道系交通)車両が、絵としても乗り心地の面でもこのあたりの景観にマッチするような。超絶どうでもいい話をしますと、1970年代に子ども時代を過ごした私たちの世代は、ギリシアというと♪Wind is blowing from the Aegean〜 と歌うジュディ・オングの「魅せられて」(1979年)を、近代のギリシア人たちが恋焦がれたコンスタンティノープルといえば庄野真代の「飛んでイスタンブール」(1978年)をたぶん思い出す。あれって日本の一般人がそろそろ海外旅行に行きはじめるころのセンスなんだろうな〜。「風はエーゲ海から吹いてくる」ってどんなやねん。
ゼフィロス電停に戻って、T字のタテ棒に入る5系統の電車に乗り込みました。€4.50のデイリー・チケットを存分に活用しています。海岸線を離れて半島内部に入ると、予想どおりアップダウンのかなりある路面を走ります。思った以上に時間を要し、終点まで40分くらいかかりましたが、町の様子を見られたので退屈しませんでした。先ほどメトロ1号線でたどったアテネの西部は、雑然とした下町風の感じもありましたが、トラムの走る南部はわりに上品な住宅街ではないかと思われます。新型車両なので、英語を含めた車内アナウンスや表示はとてもよくできていますけれど、どうやら終点であるはずのシンタグマではなく、その手前で運転打ち切りのようです。昨日少しばかり観察したところでは、たしかにアマリアス通りから緑地のほうに折れるトラムの軌道が見えたのですが、電車が走っている様子がなく、また一部が工事中でした。開通していないのか、開通したけれども一部区間運休なのかは不明。ま、そういうことであれば仕方ありません。路線図ではシンタグマの2つ手前にあたるレフォロス・ヴォウリアグメニス(Λεωφόρος Βουλιαμένης)で下車。市街地のすぐ手前とは思えない、のんびりした住宅街の一角というところです。

中途半端なところで降ろされ、アクロポリスの裏側を横目に歩く・・・
たっぷり2駅ぶん歩かされます。しかも一方的な登り坂。アテネは本当に坂の町だな〜。地元の人しか行かないような飲食店とか小さな町工場みたいなのもあって、アテネの日常を垣間見ることができておもしろい徒歩区間ではありました。やがて左前方にアクロポリスが見えてきます。「裏」から見上げるのは、真下からの眺めをのぞけば初めて。やっぱり突出して高いんだねと思うのと同時に、3000年都市を歩いているのだという現実をようやく思い出しました。実は、この先で訪ねようとしているのは、そうした古代と近代との奇妙な融合を見せる場所です。勾配が少し緩やかになったあたりを右に折れると、めあてのパナティナイコ・スタジアム(Παναθηναϊκό Στάδιο)が見えてきました。入場料€5。
ここは、1896年の第1回近代オリンピック・アテネ大会のメイン会場であり、2004年の第28回大会でも再びメイン会場として使用されたスタジアムです。ルーツをたどればポリス時代のパナテナイア祭(Παναθήναια)のおこなわれた空間。汎アテネ、つまりはオール・アテネ祭ということですね。ただ、これまで述べてきたことでおわかりと思いますが、その後は単なる遺蹟であり、廃墟でした。近代五輪というのが多分に虚構を含む、いかにも近代的な胡散くささをもった催し物ですので、いってみればクーベルタンらが構想した西欧的な虚構と、近代ギリシア国家が自己都合で構築した虚構とが重なり合う場、ということになりますか。



パナティナイコ競技場
スタジアムは、現在の一般的な陸上競技場よりワンサイズ小さな一周330mのトラックと、総大理石づくりのスタンドから成ります。入場券を買えば隅々まで見ることができますが、思いのほかでかいので、まあほどほどに(笑)。トラックは直線部分が長く、カーブがあまりに急なので、ここで短距離走をすると転倒者が続出しそう。スタンドも思った以上に急角度で、往年の川崎球場みたいです。1896(明治29)年の記憶はさすがにありませんが、2004年大会はかなり見ています。私、ある時期まではオリンピックが大好きで、可能なかぎり中継を見るというほどでしたが、このアテネ大会あたりが曲がり角で急速に興味を失っていったように思います。ロサンゼルス大会(1984年)以降の商業五輪化の動きがいよいよヤバいレベルになってしまったのと、情報を伝えるメディアが日本チーム、日本人選手に極端に偏ってしまい、中継のトーンもやたらに愛国的になって気持ちが悪いというのが直接の原因。したがって、地元・東京で開かれる2020年大会とか、準地元・パリで開催予定の2024年大会なんて、もうやめてほしいくらいです(涙)。そういう、おそらく例外的な私のセンスは置いておいて、2004年のアテネ大会は「日本人選手の活躍」で大いに沸きました。いまの30代以上にとっては、北島康介、谷亮子、鈴木桂治といった金メダリストの名を聞けば、あああの大会かと記憶がよみがえることでしょう。レスリングの吉田沙保里、伊調馨の連覇記録もこのときにはじまりました。NHKの実況アナが「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」と、自局の五輪ソングのタイトルをあざとく織り込んだ体操団体も有名になりました。展開を予想できないからこそスポーツ観戦はおもしろいのに予定稿を読み上げてどうする。そうだ、オールプロで臨んだのに長嶋茂雄が病気で倒れて中畑清が引き受けざるをえなかった野球は、ほとんどすべて見たんじゃなかったかな(銅メダル)。
そして女子マラソン。有名になりかけのころから高橋尚子の大ファンだったので、彼女が予選で落ちてしまったこともあって集中力と関心が下がっていたのですが(苦笑)、本大会では26歳の野口みずきが首位を譲らないままトップでゴールし金メダルを獲得。マラソン競技のゴールはこのパナティナイコ・スタジアムでした。そんなわけで、Qちゃんだったらな〜と思いながら漠然と画面を見ていたせいか、この競技場の印象は皆無!

ブランデンブルク門がデザインされた、1936年ベルリン大会のポスター
「前畑がんばれ」や西田・大江の「友情のメダル」でも知られるが、「民族の祭典」の異名のもとで
勃興期のナチス・ドイツ最大のプロパガンダになったことが歴史的には重要
スタンドの一角に、バックヤードに抜けるようなトンネルが設けられています。その奥はちょっとしたギャラリーというか展示室になっていて、歴代オリンピックのポスターや聖火のトーチ、メダルなどを見ることができます。私の記憶にかろうじてあるのは1972年のミュンヘン大会で、より明瞭に憶えているのは次の1976年モントリオール大会。塚原光男が月面宙返りを繰り出して金メダルを獲得したときのことです。1980年モスクワ大会は日本を含む西側がボイコットしたため8年も待たされました。私が五輪好きになったのはその反動だったのかもしれません。
この西欧あちらこちらで迷惑なくらいに強調してきたように、私の学問的な関心の中心は近代国家とナショナル・アイデンティティ形成であって、近代とかナショナリズムをかなり批判的に捉える立場です。オリンピックなんて最たるものでしょう。「日本人としてなんだ」「反日的だ」などという妄言は論外として、「みんなが楽しんでいるのに水を差すのか」といった苦情も、ぜひやめてほしいなあ。国民的祭事か何か知らないが、批判も反対もなくみんなが同調してめでたい、めでたいと騒いだ先に何があるのかは歴史が証明しています。遠い昔の歴史だけでなく、長野冬季大会やアテネ大会の競技場が「遺蹟」化している現状も見ませんとねえ。ただ、ネタとしては最高におもしろいので、パナティナイコに来てみたという次第です。
PART6につづく
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