Athènes: les pentes d’histoire

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22日(木)もすがすがしい晴天。南欧ですなあ。この日は9時半ころ、ホテルから徒歩5分ほどのビジネス街にある国立歴史博物館Εθνικό Ιστορικό Μουσείο)の見学からスタート。ギリシアの、アテネの歴史博物館と聞けば普通の人は古典古代を連想するのでしょうが、ここの展示は近代国家としてのギリシアに特化されています。わざわざギリシアを訪れる日本人観光客はあまり関心をもたないでしょうけれど、私の関心の核はもちろんこちら。入館料は€3ととても安くてすばらしい。展示物を撮影してよいかと訊ねたら、フラッシュを使わなければいいですよということでした。これもありがたいですね。ほぼ同じ時間に、2グループほどの小学生が先生に引率されてやってきました。歴史の勉強なのでしょう。高学年の児童だと思いますが、マナーがよく、質問したりメモを取ったりと学習態度もよくて感心します。

 
国立歴史博物館 独立戦争の英雄コロコトロニスの騎馬像が出迎える


繰り返し述べているように、19世紀にいたるまでギリシアなる国家は一度たりとも存在したことはありません。博物館の展示は1453年のビザンツ帝国滅亡からはじまるのですが、オスマン統治下の時代についてはわりに抑制的です。そのころ近代的な意味での民族意識というのは発生していませんし、寛容で多様性を旨とするオスマン帝国ではギリシア人の存在が脅かされることもそれほどにはなかったのです。ペロポネソス半島ではムスリム官僚と結びついた正教徒の地主層がエリートとしてむしろ有利な立場にいましたし、バルカン半島ではギリシア人とギリシア語、そしてギリシア正教が他の民族に対して優越的、支配的ですらありました。もちろん異教徒に従属しているというもどかしさはあったでしょうし、戦争や重税といったタイミングで不満が募るということもあるのですが、江戸時代の幕藩権力に対する抵抗を思えば、自民族の支配を受けていても同じはずだということがわかります。18世紀半ばを過ぎるとオスマン帝国そのものがゆるやかに下降局面に入り、支配構造、とくに特権とプライドを保持するイェニチェリ集団(スルタン直属の常備兵。初めはキリスト教の子どもを徴発して編成したが、のちに世襲化・特権化して腐敗)に対する反発が帝国の各地で起こっていたのは確かでした。これも前述したように、「ギリシア人」の居住する範囲は思いのほか広く、首都イスタンブールはもちろんのこと、現在のギリシア南部、アナトリアのエーゲ海沿岸(とくに現トルコ共和国のイズミルとなっているスミルナはギリシア人都市として有名)、黒海沿岸(南岸のみならず北岸にも)、バルカン半島などにありました。ただ、面的に広がっていたのではなく飛び飛びだったところが、ナショナリズム噴出の経緯を独特のものにしました。

ギリシア人に民族意識を吹き込んだのはフランス革命(178999年)でした。オスマンとフランスは長年の友好国だったこともあり、ギリシア系の中にもパリなどに留学あるいは商売で駐在する者がありました。自由・平等、そしてナショナリズムを鼓吹する大革命にかぶれた人たちの中に、オスマンの「くびき」から祖国を解放して新国家を打ち立てようとする動きがいくつか現れます。その先駆者のひとりとして、リガス・ヴェレスティンリス(Ρήγας Βελεστινλής)が挙げられます。彼自身はフランスにいたわけではないようですが、ウィーンに滞在して革命思想に触れ、人権宣言や各種の啓蒙書をギリシア語に翻訳し、自ら愛国的な詩を発表して、ギリシア民族の糾合を呼びかけます。めざすはビザンツ帝国の復興。しかしそれは革命フランスのように共和政体であるべきだとされました(前掲『ギリシャ近現代史』、p.27)。ギリシア語による啓蒙と武装蜂起により、まあいってしまえばフランス革命の混乱に便乗して新国家を樹立しようという企ては、無謀かつ粗雑なものだったといえます。彼は仲間に裏切られて当局に引き渡され、1798年に処刑されました。しかしその未熟な革命計画が、多数とはいえないまでも、少なくはないギリシア人たちの精神に着火したことは間違いありません。


リガス・ヴェレスティンリスがウィーンで出版した「ギリシア」の地図(1797年)
ギリシア人が居住する地域および歴史的に居住していた地域の全体をあらわす画期的なもの


ギリシア国家樹立に向けた動きのいくつかは、ロシア帝国内で起こりました。ロシアは18世紀に黒海北岸に進出してオスマンを圧迫しはじめていましたが、そのあたりでは伝統的にギリシア系の商人たちが活躍していました。ロシアは正教の国ですので、信仰を同じくする新たな大国が救い主になってくれるのではという思惑も民族主義者たちに芽生えました。ロシアはこのあと実際にギリシアの独立、国家経営に大きな役割を果たしていくのですが、それは信仰ゆえではなく勢力拡大(南下政策)ゆえだったといって間違いありません。むしろ正教よりもスラヴ民族の自立と連帯(汎スラヴ主義)ということに注力していきます。解放されたがり?のギリシア人には違う見え方をしていた、ということでしょう。同じころ、西欧では別のムーヴメントが起こっていました。ナショナリズムと、それと結び合って高まるロマンティシズムです。とくに英国では、急進的な革命に突っ走るフランスへの反発も手伝い、産業革命を経て発展する自国への肯定的なイメージがふくらんでいきます。おもしろいことに、英国もフランスも自分たちの文化的な祖先はギリシアだと考えています。外野である日本人の目には、地理的にも歴史的にも関係ないじゃんというふうに映るのだけれど、現在もなおそういう傾向はあります。大西洋を隔てたアメリカの白人社会にすらそういう面があります。そうして、ギリシアやギリシア人とは直接関係のないところでギリシア熱に取りつかれ、それを振りまいた人物こそ、英国の詩人バイロン卿George Gordon Byron, “the Lord Byron”)にほかなりません。

ナポレオンの最盛期にギリシアを含む地中海地方を旅したバイロンは、1812年に「チャイルド・ハロルドの遍歴」(Childe Harold's Pilgrimage)を著し、ギリシア愛を高々にうたいました。西欧の人たちに、文化的な祖先であるギリシアへの憧憬を呼び覚ますだけでなく、異教徒オスマンに不当にも抑圧されている(と彼らが解釈した)現状をどうにかしようという運動に火をつけたのでした。西欧文明への肯定感がイスラームへの不信感、さらには差別意識につながっていく点は、昨今の情勢を考える上でも見逃せません。

 バイロン卿(国立歴史博物館)

 

Fair Greece! sad relic of departed Worth!
Immortal, though no more; though fallen, great!
Who now shall lead thy scattered children forth,
And long accustomed bondage uncreate?
Not such thy sons who whilome did await,
The helpless warriors of a willing doom,
In bleak Thermopylæ's sepulchral strait—
Oh! who that gallant spirit shall resume,
Leap from Eurotas' banks, and call thee from the tomb?
(ウィキソース英語版より)

この部分の冒頭で美しきギリシア!と讃えていますが、2行目では「滅んでもなお不滅で偉大!」といっています。バイロンが見ているのは古代の残影にほかなりません。そして34行目、散り散りになった子どもたちを導いて、長年にわたる呪縛を解いてやるのは誰なのか?と問いかけます。テルモピュレーは紀元前480年、スパルタを中心とするポリス連合軍がペルシア帝国の大軍を食い止めた激戦、ユータロスはそのスパルタの故地。古代ギリシアといえば自由の原点です。自由を生き、自由を守るために戦った古代ギリシアをうたうことで、不自由(bondage 緊縛)という状況に置かれている(と彼が信じている)いまのギリシア人の姿を嘆いているわけです。ロマンティシズムってそういうものだといえばそうだけど、ひたすら情に訴えるのはやばいですね。インターネット上を飛び交う情報の非対称性(日本人は日本語のサイトばかり見て同質性の高い見解に疑問をもたなくなるし、そうでないと主張すれば感情的に叩かれる)もやばいけど、200年前は情報量そのものがものすごく少なかったはずで、ちょっと教養のある知識人などはコロッとやられてしまうのでしょう。

 
(左)独立戦争の英雄のひとりマルコス・ボッツァリスの墓を訪れたバイロン卿 (右)独立戦争で用いられた武器


鳴呼 ダンテの鬼才なく バイロン、ハイネの熱なきも
石を抱きて野に叫ぶ 芭蕉の寂を我は知る

というのは大学生時代に高歌放吟していた「早稲田野人の歌」の一節。ナショナリズムに身を寄せる気はさらさらありませんが、バイロンよりは芭蕉をとるなやっぱり(笑)。世界史の教科書的には、1820年代というのは保守本流ガチガチの秩序が維持された(「正統主義」)ウィーン体制の時代であると同時に、ナショナリズムやロマンティシズムが勃興した時代ということになっていて、前者の古さを批判的に論じるほど後者のよさが感じられるような文脈にどうしてもなります。いや〜どうなんでしょうかね。歴史は歴史ですから、事実を押さえて、先に進みましょう。

18213月、ロシア軍の高級将校だったアレクサンドロス・イプシランディス(Αλέξανδρος Υψηλάντης)の率いる小さな部隊がロシアとモルダヴィア(当時はオスマン帝国の属国)の国境を越えて進軍をはじめた時点で、ギリシア独立戦争Ελληνική Επανάσταση του / Greek War of Independence ギリシア語では「ギリシア革命」)の幕が落とされました。イプシランディスは、未発に終わったリガス・ヴェレスティンリスの蜂起に強い影響を受けて結成された秘密結社、友愛協会(フィリキ・エテリア Φιλική Εταιρεία)のリーダー。当初はセルビアやブルガリアの民族主義団体と連携して一斉蜂起する計画でしたが、バルカンの諸民族にとっては長くギリシア人こそが抑圧の主体だったこともあって賛同はなく、やむなくギリシア人のみの蜂起ということになったのです。これと連動するかのようにペロポネソス半島で暴動が散発的に起こり、オスマン当局は鎮圧に向かいましたが、反乱が地理的に分散して起こったことと、もともと海上輸送を担っていたギリシア人勢力がエーゲ海でたちまち制海権を得たこともあって、帝国軍はいきなり劣勢に立たされました。きっかけとなったイプシランディス軍自体は早い段階で鎮圧され瓦解しましたが、各地の反乱は止まりません。おそらく民族主義的な動きというよりは、この機に乗じて自立を企てた在地勢力とか、むしろ防衛的に立ち上がった勢力などが入り混じっていたのでしょう。イスタンブールにいるギリシア正教のトップ(カトリックのローマ教皇に相当する)、全地総主教グレゴリオス5世(Πατριάρχης Γρηγόριος Ε΄)は、フィリキ・エテリアの蜂起を激しく非難し、大恩あるオスマン帝国スルタンへの重大な背信行為であるとして破門状を出しました。当時のギリシア人において最も「保守的」な態度をとったわけですが、そこが近代というやつで、宗教的な権威を民族的な感情が追い越していく瞬間であったようです。破門状の効果もなく暴動や蜂起はやまず、総主教は逮捕され、処刑されました。総主教が独立勢力を煽動したという疑いをもったイスタンブールのムスリムたちはこれを機に反正教の動きを見せ、教会などに対する破壊行為に及びます。しかしギリシア正教トップの殉難は、西欧において衝撃的な出来事と受け取られ、今度は彼らの反イスラーム感情を煽り立てました。総主教はギリシア革命最初の殉難者として扱われ、遺体はのちにアテネのミトロポレオス大聖堂に葬られました。

 グレゴリオス5世(国立歴史博物館)


散発的で、あまり計画的とはいえない反乱でしたので、一定の成果があったとしても「独立」にはほど遠い状態でした。介入、支援を期待したロシア帝国は動かず、英国政府も様子見を決め込んでいました。膠着状態を打ち破ったのはまたしてもバイロン卿。18241月、バイロンは義勇兵を組織してギリシアに上陸し、オスマン帝国との戦闘に加わります。彼自身は急な病気のため3ヵ月後に死亡するのですが、西欧にギリシア愛を巻き起こした張本人の参戦は今度も西欧諸国の人々の目をこの地に惹きつけました。義勇兵が続々とギリシアに向かいます。ロシアではウィーン体制維持、安定志向だった皇帝アレクサンドル1世が死去して好戦的なニコライ1世が即位、英国でも商業的利権の拡大をめざすブルジョワたちに衝き動かされるように、ウェリントン首相率いる政府が介入の方向に舵を切りました。ロシアと英国が互いを牽制しながらギリシアへの関与を強めると、フランスも遅れじとこれに加わりました。

国の中心部からさほど遠くないギリシアでの騒擾がやまないため、オスマン帝国はもはやなりふりかまっていられず、建前上は臣下にあたるはずのエジプト総督ムハンマド・アリー(محمد علي باشا / Muḥammad ʿAlī エジプト近代国家の初代国王とみなされる人物)、イブラーヒム・パシャ(ابراہیم پاشا / Ibrahim Pasza)の父子に救援を依頼しました。直接にはロシアへの対抗と思われます。当時、中東最強の国家になりつつあり、海軍力にも優れたエジプト(建前上はオスマン帝国の属州だけど・・・)の参戦で、独立勢力はまたも劣勢に立たされましたが、このことが英仏露3国が参戦する直接のきっかけをつくりました。こうして18271027日、ペロポネソス半島南西、ナヴァリノ湾での決戦を迎えます。

 ナヴァリノの海戦

 
(左)ナヴァリノ海戦に際し独立軍の軍艦に掲げられた十字架旗 (右)軍艦アガメムノン号の船首装飾


オスマン帝国のスルタンはともかく、ナポレオン侵略時の混乱に乗じてエジプトで自立したムハンマド・アリーはもともと親英的なスタンスでしたので、軍事衝突を回避しながら駆け引きをつづけ、スルタンに対する優位を確保しようと考えていたようです。しかし戦争というのは現場の勢いで起こってしまうこともあります。ささいな銃撃をきっかけに、英仏露3国連合艦隊は停泊中のオスマン・エジプト連合艦隊と全面交戦し、その軍艦のほとんどを破壊する圧勝を果たしました。世界史の教科書にも載っているナヴァリノの海戦Ναυμαχία του Ναυαρίνου / Battle of Navarino)ではありますが、「あれ?」と思ったほうがよいです。交戦国は英国・フランス・ロシアとオスマン・エジプト。ギリシア人の独立勢力は実質的に陸から眺めるしかありませんでした。オスマン艦隊壊滅の報はギリシア各地をめぐり、先の見えない情勢に希望を失いかけていた人々に歓喜をもたらしました。ロシア外相を経験したカポディストリアスがギリシア国家の大統領に選出されたのはこのあとです。英仏軍がギリシア各地を制圧し、ロシア軍はオスマン帝国との全面戦争(露土戦争 182829年)で完勝して、ついにオスマン帝国はギリシアの自治権承認を呑まされました。この時点ではオスマン帝国の宗主権の下での不完全な独立でしたが、ことの経緯からロシアの影響力が増大、これを不満に思う英仏がさらに介入して、1830年のロンドン議定書で主権国家としてのギリシアの独立が確定します。英国の、少なくともウェリントンあたりの本音は、弱体化した広域帝国(オスマン)が建前上は上位にいてくれるほうが好都合だということだったのですけれど、ほかならぬ英国人が点じた独立の火は予想をはるかに上回る大きさと速さで広がり、わずか10年ほどでギリシア国家の成立というまさかの結果を呼び込んだのです。

英仏は、ロシア出身で同国の影響下にあると思われたカポディストリアスの政権を好まず、ロンドン議定書において利害関係国の王位継承権と無縁の人物を連れてきて王とすることを決めました。そう、新生国家ギリシアの運命は完全に列強が握っていました。バイエルン王の子であるオソン1世が迎えられたのはこのときのことです。当初はドイツ(神聖ローマ帝国)のザクセン・コーブルク・ザールフェルト公家のレオポルトに白羽の矢が建てられ、当人もその気になったのですが、ギリシア情勢の悪化などから即位を辞退しました。このへんの欧州情勢を追っていくとこんがらがりますが、レオポルトはその直後に起きた革命でオランダから独立したベルギーの初代国王に迎えられます。この王家は現在のフィリップ国王まで代々つづいています。

 
(左)オソン1世  (右)ギリシアに上陸したオソン1世を歓迎するギリシアの人々

 
(左)ゲオルギオス1世  (右)独立時の領土はかなり限定的だった(黒い部分) R.クロッグ『ギリシャ近現代史』、p.35 より


オソン1世は母国であるバイエルンから家臣と軍隊を連れて乗り込んでおり、しばらくのあいだギリシア王国の政治は彼らによっておこなわれました。外来の落下傘君主で、ギリシアの宗教や習慣にもさほど関心を示さなかったこともあり、オソンの人気は高くなかったようです。1843年、バイエルン軍が撤退すると、クーデタが起こりオソンは憲法制定を呑まされます。その後も反議会的な動きをしばしば見せた初代国王は、1862年のクーデタで最終的に政治生命を失い、バイエルンに戻って死にました。後継者選びはやはり列強の手にゆだねられ、ギリシア人の多くは英国ヴィクトリア女王の王子を望んだようですが、一方の利害関係者を擁立するのはまずいということで避けられ、最終的にロシアの同意も得てデンマーク王クリスチャンセン9世の次男ゲオルクが迎えられて、ギリシア正教に改宗の上で即位し、ゲオルギオス1Γεώργιος Α΄ της Ελλάδας)となりました。欧州の王族の系図というのは私も苦手で、いちいち覚えるつもりもありませんが、紆余曲折を経て1973年に最終的に廃止されたギリシアの王家グリュックスブルク家は、本家がデンマーク、その分家筋がノルウェーの王家として現存しています。なおゲオルギオス1世の孫(四男の子)としてギリシアに生まれたのが、英女王エリザベス2世の夫君であるエディンバラ公フィリップ殿下です。第一次大戦後の混乱の中でギリシアを離れて英海軍に入隊し、英国籍を得たのち第二次大戦後にエリザベス王女と結婚してチャールズ皇太子らの父となりました。「ご発言」がしばしばネットをにぎわせる御仁で、ある時代までの欧州王族ならではの言動というか行動様式なんだろうなと思うことがあります。1975年に来日された折には国道1号線の歩道から小さな国旗を振って「歓迎」した私ですが、女王はともかく王配のお顔までは憶えていません・・・。

ゲオルギオス1世はオソンの失敗によく学んだようで、ギリシア語を習得し、母国などの介入を防いで、ギリシアの国家的自立の先頭に立ちました。再度の露土戦争(1877年)でオスマン帝国が敗れると、ビスマルクの調停によるベルリン会議(1878年)など教科書でもおなじみの経緯があって、ギリシアの領土も北に拡大します。1896年には第1回近代五輪(Jeux olympiques de 1896 / Ολυμπιακοί Αγώνες)をアテネで開催して、近代国家としての発展ぶりを世界に発信しました。しかしその翌年には希土戦争(Ελληνοτουρκικός πόλεμος του 1897)を起こし、クレタ島およびマケドニアの「回収」を試みますが返り討ちに遭って惨敗するなど、小国ゆえにか安定を得るまでにはいたりません。コンスタンティノープルを奪還し、ギリシア人の住むところをすべて糾合したいという例のメガリ・イデアなる妄想ばかりがふくらんでいきました。

 
(上)ギリシア王国の議会  (下2枚)歴史博物館内に再現された当時の議場


オスマン帝国で1908年に青年トルコ革命が起きると、同国の宗主権下にあった地域のバランスが崩れ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナをオーストリア(ハプスブルク)帝国が併合、ブルガリア公国はロシアの影響下に完全独立を宣言、クレタ島はギリシア王国への編入を宣言します。この折のクレタ島獲得には失敗したものの、余波として、ギリシア国内の混乱を収拾して国家経営にあたれる人材や党派が払底してしまったこと、クレタ島におけるギリシア編入派の指導者であったエレフテリオス・ヴェニゼロスΕλευθέριος Βενιζέλος)の政治的手腕が本土の側でも注目されるようになったことが挙げられます。はたしてヴェニゼロスは1910年、空洞化しかけたギリシア王国の首相として迎え入れられました。従来の各党派からニュートラルであったことがプラスに作用しました。日本での知名度はあまり高くありませんが、ヴェルサイユ講和会議を含めて外交の舞台で大いに活躍した、欧州政治のメジャー・リーガーのひとりです。

 
戦間期ギリシアの大立者エレフテリオス・ヴェニゼロス(国立歴史博物館)


ヴェニゼロスの生涯とか政治的経歴を追うとそれだけで1冊の本になるほどですので、1933年まで断続的に計12年間も政権を率いたこと(議院内閣制なので基本的には選挙でえらばれている)、国王や王党派と激しく対立してヴェニゼロス派×反ヴェニゼロス勢力という分断を惹き起こしたこと、最後はクーデタに失敗してパリに亡命し客死したことにまずは言及しておきましょう。そうした長期政権を可能にした1つの要因というか経緯として、メガリ・イデアを推進する立場から第一次大戦終了後の対オスマン戦争を仕掛けておきながら、選挙に敗れて野党に転落している時期に王党派がその戦争を継続し、大失敗して、結果的にヴェニゼロスの復活を呼び込んだという事情があります。自分の致命的失態になるはずのことが敵方の没落を招いたわけなので、かなり幸運だったともいえます。ヴェニゼロスの率いるギリシアは2次にわたるバルカン戦争(Βαλκανικός Πόλεμος / Balkan War 191213年)に参戦し、現在は第2の都市となっているテッサロニキ(オスマン帝国の要地で、歴史的にはユダヤ人が多数を占めた)を含むエーゲ海北岸を獲得したほか、クレタ島の併合にも成功しました。

ただしこの折に、ギリシア人が「故地」だと言い張るマケドニア全域を「回収」することはできませんでした。テッサロニキ付近は併合できたものの、マケドニア地方の大部分はセルビア王国にもっていかれます。第一次大戦後にセルビアが中心となって形成したユーゴスラヴィア王国も当然この地方を領有し、それは第二次大戦後の社会主義共和国にも引き継がれ、1990年代の混乱や紛争を経て主権国家として独立するわけですが、領土はともかくマケドニア(Μακεδονία)という地名はギリシアのものだというギリシア側の強硬な(はた迷惑な)主張のために主権国家の国名としては認められないということになってしまいます。旧ユーゴ南部のあの地域が長いこと「マケドニア」であることは自他ともに認めていて、誇大妄想をまだ引きずっているのかという感じなのですが、NATOEUの先輩加盟国ですので無下にもできず、国際社会は困ってしまいました。国連加盟時には暫定呼称としてマケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国(the Former Yugoslav Republic of Macedonia)が使用されています。最近、両国政府のあいだで旧ユーゴ共和国が「北マケドニア」と名乗ることで合意され、当の「北マケドニア」側はこれで妥協する可能性が高いようですが、ギリシアの議会がこれを認めるかどうかは微妙な情勢です
*マケドニア側につづいてギリシア議会でも20191月に政府方針への同意が採択され、「北マケドニア共和国」が正式にスタートする見込みに。通貨・金融危機に加えて難民問題に直面するギリシアはEUの支援に頼らざるをえず、EUがその立場を利用?して合意を促したのではないかと思います。未加盟のバルカン諸国におけるEUの態度はこのところずっとそんな感じ。

 朝日新聞(2019126日付朝刊)


ケマル・アタテュルク像(なぜかルーマニアのブクレシュティにあった・・・)


第一次大戦後、オスマン帝国をどのように「解体」するのかは戦勝国側の意向にゆだねられました。このあたりに利害をもっていたロシア帝国は、英仏と同盟を結んでいましたがロシア革命が起き、レーニンの共産党政権が成立して、こうした外交の舞台からいったん脱落しています。ヴェニゼロスは分不相応ともいえる領土要求を突きつけました。すべてを得られたわけではないが、しかしアナトリア西部など、それこそ分不相応に大きな領域の統治を認められます。コンスタンティノープルをオスマン帝国から切り離して国際連盟が管理するという案が有力だったことも、ギリシアには追い風でした。そこは正教の全地大主教もいる都市であり、ビザンツ帝国の都でもあって、ギリシア人がかなり力をもっていたところでもあったからです。ところがギリシアは、メガリ・イデア実現に前のめりになりすぎたためか、取り返しのつかない失敗をおかしました。ギリシアの暫定統治が認められたスミルナ(現イズミル)は、イオニアと呼ばれた紀元前からギリシア文明の1つの中心で、オスマン帝国末期のこのころも住民の67割はギリシア系の正教徒でした。この地の統治をゆだねられたギリシア軍は19195月、スミルナに上陸します。ついに念願の地の一部を得たという高揚感によるものなのか、戦争とはそうしたものなのか、ギリシア軍は暴走し、イスラームの人たちを虐殺し、占領地域外にも入り込んで村々を焼き払いました。オスマン当局が瀕死の状態になっているあいだに実効支配を既成事実化させようという、ヴェニゼロスの意図があったのかどうかはわかりません。アテネの政府は暴走を止めようとしましたが現地の事情にひきずられ、ギリシア軍はアナトリアの奥深くに入り込んでしまいます。

1920年春、第一次大戦で活躍した軍人ムスタファ・ケマルが権力の奪取を宣言し、アンカラにトルコ共和国政府を樹立しました。「トルコの父」と呼ばれるケマル・アタテュルクKemal Atatürk)にほかなりません。普遍帝国であったオスマン帝国を廃して民族国家トルコ共和国をつくるという流れなのですが、ギリシアによる「わが国の蹂躙」という事態がケマルにとって追い風になりました。弱体化したイスタンブールのオスマン政府ではなく、新たなナショナリズムに燃えるアンカラのトルコ軍は強く、ギリシア軍を押し返し、ついには19229月、スミルナを制圧しました。調子に乗って無駄に欲張ったばかりに、コンスタンティノープル奪還どころか、ギリシア人主体の都市でありそこだけは確保できたはずのスミルナも失陥してしまったギリシア。意趣返しとばかりにギリシア系、正教徒への弾圧や虐殺がつづき、スミルナそのものも大火災で炎上して灰燼に帰しました。ケマルの決起とトルコ軍の進撃もあって政権を失っていたヴェニゼロスは、王党派が継承して挫折してしまった拡張政策の責任をとるのではなく、自ら政権に返り咲いて、やがてケマル・アタテュルクとのあいだで妥協し、百万単位での住民交換というかなり暴力的な手段で事態を決着させました。トルコ領内のギリシア人がギリシア王国に、ギリシア領内のトルコ人がトルコ共和国に移送されました。以前に述べたように、その際の目印はただ1つ、宗教。正教徒はギリシア人、イスラームはトルコ人ということになって(させられて)、長く住み慣れた家を失い、強制的に移動させられます。たしかに、これで民族的多様性がもたらすリスクは相当に低くなりましたが、新「ギリシア人」の定着や同化にあたっては厄介な問題も残されました。


セーヴル条約(1920年)時点でのギリシア王国 対岸のスミルナ(イズミル)付近のほか現トルコ領のバルカン半島
先端部まで統治が及ぶことになっていた 一方でロードス島はイタリア領となり、ギリシア帰属は第二次大戦後である
この段階では、ヴェニゼロスをギリシアの女神が祝福しているように見えるのだが・・・


国立歴史博物館の展示は非常に充実しており、すべての展示物に英語の解説も付されていました。タイトルだけでなく散文の説明もきちんと英訳されているのは立派。これがないと外国人には意味や文脈がまったくわかりませんからね。さて、これ以前に何冊か本を読んで近代ギリシアの歴史をある程度心得ている私が見るのと、知識のない人が見るのとでどれほど印象が違ってくるのでしょうね。そして、基本的には自国の歴史を肯定的、好意的に見るはずのギリシア人たちにとってはどうなのだろう。ヴェニゼロス派と反ヴェニゼロス勢力の対立は尾を引き、そのあとはナチス・ドイツの占領に対する態度をめぐる対立、共産党と反共勢力による内戦、時代遅れまるだしの軍事政権(196774年)と、どこまでも安定しない歴史がつづきましたので、私たちが思うほどには歴史的自己肯定感が高くない可能性はあります。

日本人を含む世界中の人たちがその国名を承知し、なんなら国のイメージをも共有して、かなりのリスペクトをもって見ている国ギリシア。しかし日本人を含む世界中の人たちが意識し、イメージするものの大半は、古典古代のポリスの話でした。19世紀に歴史の彼方から召喚されて突如よみがえった近代のギリシア国家について関心をもつ人は、なかなかいないのではないでしょうか。オリンピックの開会式で、いつでもトップで入場する選手団は、まぎれもなく「現代」のギリシアの人たちなのですが・・・。

 

PART5につづく

 


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