Athènes: les pentes d’histoire

PART6

 

PART5にもどる


15
時半ころホテルに戻りました。1ヵ所の見学を急いでいるつもりはないのだけれど、客観的にはかなり速足かもね。ホテル周辺はおしゃれなショッピング街&飲食店街で、ホテル・ロゼンジの0階にもきれいなカフェがあります。部屋に通る前にビール1杯飲んでいこう。アルファという、忘れがちだけど実はギリシアっぽい銘柄の小瓶が運ばれました。ケバブ店で供された生ビールもこの銘柄でした。€3.50と、4つ星ホテルのカフェにしてはありえんくらい安いのですが(パリで同じ設定なら€10くらいとりそうな気がする)、部屋代にチャージしてもらいましょう。ビールは普通のラガー。小瓶1本には不釣り合いなほどの量のおつまみまで出してもらいましたが、こんな休憩タイムに塩分を取りすぎては元も子もないので控えめにしておきます。部屋と同じWi-Fiコードが通じるので、いまどきのダメな人と同じように、タブレットを取り出していじいじ。

 


17
時半ころ再起動します。到着した日と同じように、町の中心をひと回りして夕食ということにしましょう。もうすっかりなじんだシンタグマ広場を通り抜けて目抜きのエルムー通りに入り、下り勾配を直進。一昨日も昨日も途中で左折してミトロポレオス大聖堂のほうに行ったので、今回はそのまま進んで、地元の人たちの商業エリアを見ることにしました。おしゃれな路面店が並んでいるのでチョコ屋さんないかなときょろきょろするのですが、不思議にないですね。シンタグマ寄りのところに1軒あるにはありますが、お土産にするにはごっついかたまりか、駄菓子風のものしかありません。お茶とかコーヒーでもいいのだけれど、チョコって欧州のお土産としては説得力があり、荷物の隙間に入れて運ぶにも好適なのです。ま、パリのようにどの町内にもショコラチエ(チョコ屋さん)があるというほうがイレギュラーだし、南欧に来てチョコというのも本来どうかというのはあります。お土産はあすの朝また探すことにしましょう。

派手派手のメイン・ストリートを進むと、なぜか道の真ん中に小さな教会があります。小ミトロポレオスも小さいが、こちらも負けじとミニサイズで、場所がら仮設のアトラクションのようにも見えますが、パナギア・カプニカレア教会(Εκκλησία της Παναγίας Καπνικαρέας)という由緒ある建物。11世紀中ごろの建築と思われます。前後にZARAH&Mがあり、全体にそのようなグローバル・トーンですので場違いな感じしかしませんが、場違いなのはあとからやってきて近代都市を造ったほうです。

 
 


もう1つおもしろかったのは、その教会あたりから北に1ブロックほど入ると、布屋さんばかりがずらりと並ぶゾーンになっていること。靴屋さんなどもありますが大半は布を商っているようです。和服でいえば「反物」が店の内外にたくさん並べられていて、問屋なのか小売りなのかはよくわかりません。そんなに需要あるもんかな? そういえば、行ったことはまだありませんが中東では町なかでたくさん布を売っているイメージがあり、そちら寄りの文化なのでしょうか。それとも既製服を買うという習慣がかなり後までなくて、衣食住の衣は自分たちで材料からこさえるのが普通だったのか。メイン・ストリートはいまどきのグローバル・カジュアル文化だが一筋裏手になると地域の独自性があらわれるというのは興味深い。そういう都市は多いですよね。

「昔のアテネ」を知る人の話や書いたものによれば、2000年あたりを境にアテネの雰囲気が大きく変わったといいます。背景にグローバル化、欧州統合があり、より直接的には2004年の五輪開催があるのは間違いないでしょう。生活様式のすべてが現代化されているわけではないことは、ここ数日の観察でわかっています。それでいいじゃないですかね。アクロポリスから見渡してわかったように、都市としての広がりはかなりあるものの、イチゲンの観光客が歩くような狭義の市街はかなり狭く、私も3日間、同じようなところをうろうろしています。サイズといい斜面の感じといい、ときどき出会う歴史の跡といい、奈良の市街地に少し似ているかな。

 


さて夕食。何を食べたいというほどのことはないのですが、ギリシアに4日間もいてムサカを口にしないのもなというので、伝統料理店がいいかな。とはいえ、そういうところは観光レストランになりがちで、注意が必要ではあります。町たんけんを兼ねて中心部をぐるぐる歩いたのだけど、センサーの調子がよくなくてどこもピンときません。ムサカしばりをかけてしまったのがまずかったかな〜。結局それで40分くらい費やしてしまいました。モナスティラキ広場を中心とした界隈はそのおかげでだいたいわかりましたが、ごはんはどうしよう。で、観光レストランの中でもまともそうだったKotiliという店に声をかけてはいりました。アゴラに向かう道の、飲食店が並んでいる一角にあります。いまあらためてグーグルとかトリップアドバイザーの投稿を読むと、観光レストランにありがちな不平不満があふれているので、事前に読まなくてよかった(笑)。私もさほど丁重にもてなされたわけではないが、文句をたれるほどのこともありませんでした。ガラス張りの温室みたいな造りで、ほとんどのテーブルが埋まり、どこかが空くとすぐ別のグループが導かれてやってくるというにぎやかさです。大半がツーリストのようで、これもいま気づいたのですが「地球の歩き方」にも載っていました(汗)。

 


初志貫徹でムサカ(μουσακάς)とグラスの赤ワインを注文。ギリシアのグラスワインは180mLが基本らしく、たっぷりでいいやね。ただし私の感触では酸味が強すぎて味わいがなく、ボルドーの安いやつみたいな味がします。店内では音楽の生演奏。ギター1本で歌うおじさんシンガーが熱演しています。ギターはうまいけど歌はいまいち。つづいて若い男女が肩を組んで、前後に数歩ずつ行ったり来たりする変なダンスを披露します。衣装でなくシャツにジーンズといったカジュアルな服装のままだし、そういうものなのか2人ともまったく無表情のままで、はたしてショーとして客に見せるものなのかどうかというところです。おひねりを要求されることはありませんでした。隣席にいる東南アジア系の4人家族は、てんこ盛りのシーフード(揚げ物)を前に大きな声を上げてエキサイトし、SNS用なのか写真を撮りまくり、さらには店員を呼んでみんなで記念撮影。

運ばれたムサカは思いのほか大きくて分厚い。「ギリシア文明の長女」を自認するフランスにはギリシア系の人が多く、とくに私がいつも滞在している左岸のカルチェ・ラタンはギリシア料理店がやたらに多いことで有名です。そのため以前はちょいちょい世話になっていました。ムサカも何度か食べたな。この店のムサカは、ミートソース、ポテト、ナス、クリーミーなソース、チーズを重ね焼きにしたもので(重ねないスタイルもある)、ちょっと甘いけど普通に美味しい。ゆるゆるなのでナイフを入れるとすぐ崩れ、口の中で再統合しなければなりません。飼われているのかゲストか、ネコが入ってきて各テーブルの下を動き回ります。かわいいけど衛生的には問題で、日本なら当局に怒られるよ。ムサカ€8.30、ワイン€3.50で、テーブル・チャージのつもりなのかペットボトルの水代€2も請求されていました。計€13.80。勘定したあとでミント味のアイスが出されました。そういえば滞在中タラモを一度も食べていません。ギリシア・ヨーグルトのほうは興味なし。デイリー・チケットをもっていたことを思い出して、モナスティラキからシンタグマまでメトロ3号線を1駅だけ利用しました。

 


2
23日(金)は、1430分発のルフトハンザ機でフランクフルトに向かうことになっています。アプローチなどなどの余裕をみて10時半くらいにホテルを出ればいいかな。で、早起きして荷物をまとめ、8時過ぎに最後の町歩きに出ました。あちこちを見るほどの時間はないので、何度も行き来したエルムー通りの前後を歩くだけにしよう。勝手知った感じで坂道を下り、町なかへ。ミトロポレオス大聖堂では10人ほどの信者さんが集まってお祈り中です。司祭数名が朗々と歌っているのは不思議な場面で、そういうのは初めて見ました。昨夜歩いた布屋さんゾーン、ケバブを食べた食堂のあたりもまだ半分眠りの中で、開店準備もはじまっていません。スタバを含む西欧系のカフェは開いていて、きょうも新聞を読む人たちが憩っていました。

 
 
目覚めきっていない朝のアテネ市街


建物の隙間からアクロポリスが見えるのにも慣れてきました。ここで生まれ育って、たとえばパリとかロンドンなんかに移り住んだ人は、こういう景観を目にすると「ああアテネに帰ってきたな」とか思うのでしょうか。「アテネ高等学校校歌」なんていうのがあったなら、「ああ尊きアクロポリス 悠久の時を受けし我ら」みたいな歌詞になるのでしょう。無事にお土産も購入できて、ぼちぼちと宿に戻りました。当初の心づもりのまま、シンタグマ広場に発着するバスで空港に向かうことにしましょう。10時半ころチェックアウトし、シンタグマへ。

 シンタグマ広場と議事堂


アテネ市街の座標ゼロ、議事堂の前庭としても機能するこのシンタグマ広場が凄惨な現場になったのは、1944123日のことでした。第一次大戦後に民族自決の美名のもとで独立した中東欧の国々がそろってファシズム化した1930年代、国家の成立基盤そのものはそれらと大して違わないギリシアにも同様のことが起きる可能性はありましたが、政権そのものがファッショ化することを避けられた一方で、枢軸国イタリアついでドイツの侵攻を受け、全土を占領されてしまいます。イタリアのムッソリーニは「ヒトラーに鮮やかな勝利を見せつけようと躍起になり、手のかからない相手(とムッソリーニは考えた)として」(前掲『ギリシャ近現代史』、p.120)攻撃するのですが、思いのほかてこずり、結局ドイツ軍が主力となって攻め取りました。枢軸国は農作物を徹底的に徴発したため、ギリシアは飢餓の危機すら迎えてしまいます。しかしドイツ・イタリアの占領をよしとしない人たちがレジスタンスを起こし、それは予想以上に広がって、山間部を中心に被占領地域の解放にも成功します。ギリシアと深い関係があり(「製造主」でもあったから)、国王と亡命政府を受け入れている英国は、中東・アフリカ方面への勢力拡張をねらうドイツの野心をくじくため、ギリシアの解放をめざしました。そのため当初はレジスタンスの主勢力であった民族解放戦線(EAM: Εθηνικό Απελευθερωτικό Μέτωπο)へのテコ入れもおこなったのですが、EAMはソ連の息のかかった共産党組織だったため、途中から手を引き、対抗勢力に肩入れします。EAMの戦闘員が共産主義者だったというよりは、そこに属するのが祖国解放への近道だったからということなのですが、英国の心変わりはギリシア人同士の遺恨に直結しました。中には対独協力勢力の戦闘部隊に宗旨替えしてEAMを攻撃する人も出てきます。1944年秋にドイツ軍がギリシア、バルカン半島から撤退すると、ギリシア内戦(Ελληνικός Εμφύλιος Πόλεμος)に向かう悲劇のレールが待っていました。

EAMはとにかく強かったのですが、途中からはしごを外され、のちにはソ連やユーゴスラヴィアの支援も失って孤立、1949年までに降伏を余儀なくされました。中国内戦と似て、実は「戦後」の冷戦開幕に向けた攻防がはじまっていたわけですけれど、あちらとは逆に共産党勢力が行き場を失うことになります。右傾化した政府に煽られた白色テロが非転向の人々を襲いました。家族の分断もあちこちでみられたそうです。これも中国のケースと同様に、大戦終結時には両勢力が連携して政府を担う可能性もあったのですが、戦時中の対独抵抗を主に担った誇りをもつEAMは一方的な武装解除を受け入れられず、デモを組織して大衆的なはたらきかけを試みようとしました。それが前述のシンタグマ広場での事件(十二月事件)につながります。このときの死者は数十人〜数百人。それが内戦の実質的なはじまりでした。


シンタグマ広場〜空港間のバスX95系統(シンタグマ広場にて)


中国内戦に危機感をもったアメリカが、占領政策を転換して日本の早期独立を促し「反共の防波堤」にしようとした194849年ころの話はよく知られます。同じ時期のギリシアは、同じく反共の防波堤ではあったけれども、東西のフロンティアというより東側の地中海への出口にフタをするという地政学上の位置によって、さらに重要な役割を課されました。トルーマン・ドクトリン(1947年)がその直接の契機となりました。冷戦時代に育った私の世代は、社会科でそのあたりをかなり学んでいて、冷戦初期の重要な出来事として「ドクトリン」を暗記したものです。ギリシアの共産化を徹底的に阻止する、それなのに英国が戦争に疲弊しているからアメリカが直接対応してもいいぞ、という趣旨の宣言でした。現任のドナルド・トランプが変なことを言い出すまでは、アメリカは「世界の警察官」として、よくも悪くも世界のあちこちにちょっかいを出してきたわけですが、その端緒となった出来事でもありました。

そのあとのギリシア国家の歩みは、もう本当にどうしようもない。――建国以来まともだったことがあるのかといえば一度もありませんけどね。政党相互の対立、政府と国王の対立、軍部と国王の対立とあって、1967年には軍事独裁政権が成立し、擬古典的な言語であるカサレヴサの強要やミニスカートの禁止など、くだらなすぎる政策を連発して世界のひんしゅくを買いました。あげくに「義兄弟」国であるキプロスの問題に介入しようとして政権が自壊、ようやく民主主義の時代が訪れて、1981年に欧州共同体(EC)への加盟が実現します。自分たちの国がおかしなことになるのは自分たちの責任といえなくもありませんが、別の国であるはずのキプロスは1974年のこの事件を経て決定的に分裂し、南北に分断されて今日にいたります(北半分を北キプロス・トルコ共和国を自称する「国家」が実効支配)。なんと迷惑な。EU加盟国コンプリートなどという妙な企画を立て、その関係でギリシアにもやってきたわけですが、加盟国であるキプロスにも近いうちに足を運ぶつもりでいます。ギリシア独裁政権の滑稽な自爆劇についてはその折にでも紹介しましょう。本当に、あきれるほどしょうもないのです。

 
アテネ・エレフテリオス・ヴェニゼロス空港


シンタグマ広場から空港行きのバスはX95系統。乗り場に面して宝くじ売り場のようなボックスがあってチケットを売っていました。片道€6。見たところは普通の連接バスですが、昨夏ルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)で利用した空港行きバスとは違ってアクセス専用のようです。ただし途中数ヵ所の停留所で空港に向かうお客を乗せました。制服姿のCAさんたちも途中から乗り込みました。寮でもあるのかもしれません。車両は普通の路線バスと同じなので乗り心地はいまいちながら、1時間弱でアテネ・エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港ターミナルに到着。来たときに利用したメトロとどちらがよいかとなるとちょっと判断に迷います。メトロもシンタグマに乗り入れていますからね。

この日はフランクフルトに1泊して、あす午前のANAで東京に向かいます。ANA羽田便に向けてのフランクフルト前泊は何度目かで、今夜はきっといつもと同じような行動をとるのでしょう。ぽかぽかと妙に暖かいアテネで数日過ごしたので、西欧内陸部のあの独特の寒さがこたえそうです。チェックイン・カウンターに荷物を預け、「フランクフルトでいったん請け出します」と告げておくのを忘れずに。

 
空港ターミナル・ビルには「ギリシアの玄関口」にふさわしく古代遺物の展示がある そして空港名にもなっているヴェニゼロスのコーナーも・・・


そういえば最近、インとアウトが同じ空港というのはめずらしいかもしれません。前述したように地上を別の交通手段で移動して帰りは別の空港からというオープン・ジョーのチケットをとることが多くなっていました。昨2017年でいうと、クロアチアのザグレブ、ブルガリアのソフィア、オーストリアのウィーン空港がインのみ、スロヴェニアのリュブリャナ、ルーマニアのブクレシュティ、ハンガリーのブダペスト空港がアウトのみの利用。到着ロビーというのはたいてい殺風景で狭く、こちらもさっさと通り抜けてしまいますが、出発のほうは広々としていてお店などもたくさんあり、空港のイメージがだいぶ違ってきますからね。アテネ空港は予想以上に大きくて、表示されている便数もかなり多いので少し驚きました。大陸の一部ではあるけれどバルカン半島のどん詰まりだし、他の主要都市とは隔絶した「孤島」みたいな場所でもあるため、航空便の利用が他を圧しているに違いありません。同じEU加盟国でも北隣のブルガリアはシェンゲン圏入りを保留されていますし、マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国とは例の件で仲よくもしにくい。トルコも歴史的にアレだし。というように、近隣に「とても仲よし」の国もなさそう。

それ以上に、ギリシアの孤立は自ら招いたものでもあります。私、「○○国はバカだ!」などと国家(国)をまるごと批判、非難することは基本的にしませんし、この西欧あちらこちらでも滞在中の国や地域の事情や風土に寄り添って、なるべくそちらの側からものをいおうという態度でやってきています。そのスタンスは今回も変えたくはないのだけれど、19世紀の独立以降のほとんどをディスり、ダメ扱いしてきたのは間違いありません。直接的には、2009年のユーロ危機がユーロ圏、ひいてはEU全体の経済を動揺させたこと、そしてその一件が順調だった欧州統合が逆風にさらされる2010年代の悪夢のきっかけになったことについて、申したいことが山ほどあるのです。何やってるんだギリシア。1974年の軍事政権崩壊を受けてようやく民主化したと思ったら、今度は各政党勢力が国民を甘やかすような政策の安売りを繰り返し、産業を育成できないまま公務員体質、公共事業体質を慢性化させました。そうやって財政赤字が累積、それはユーロ加入の要件に満たなかったため政府ぐるみで数字をごまかすというとんでもない手法を採ってしまいます。学力別にクラス分けするどこかの進学校で、上のクラスに入りたいためにカンニングしてまんまと成功、しかし不正がばれ、本人が叱られるのは仕方ないがその学校自体の信用を失墜させて大いに足を引っ張る、というようなことになってしまいました。何やってるんだギリシア。


ルフトハンザのエアバスA321で、フランクフルト経由で東京・羽田へ帰ろう (フランクフルト空港)


国民国家とかナショナル・アイデンティティ形成の問題に関心をもち、現地に行ってもその視点で町を歩き、眺めてきました。そのかぎりでいえば、近代ギリシア国家は「国民国家とかナショナル・アイデンティティ形成」のダメな部分をひたすら寄せ集めてつくられ、推移してきたようなもので、興味・関心(感心?)を通り越してげんなりするばかり。ああ。――でも、こういうことです。近代ギリシア国家がダメダメになったのは、そしてそれで許されてきたのは、当人たちの体質の問題以前に、国際情勢ゆえでした。この国が甘やかされた機会が3回あったと私は考えています。(1)ギリシアこそ自分たちの文化のルーツ、祖先であると信じた西欧とくに英国・フランスの人たちが、彼ら自身の社会の内部からは出てこないようなパワーを外から注入して独立に導いたこと。(2)冷戦開始にあたってその地政学的な位置を重視した西側諸国とくにアメリカが、軍事・経済両面での支援を徹底的におこなったこと。趣旨をかんがみれば、脆弱な民主主義よりも安定的な独裁政権のほうがありがたいとすらいえたわけで、そうした外圧がもたらしたスカスカの反共主義みたいなものは、やっぱり古典古代以外にアイデンティティを見出せませんでした。(3)1980年代以降、とりわけ冷戦終結後の1990年代以降は、欧州統合というプログラムが具体化し、EUのご本家たる西欧はギリシアを不可欠のピースとして手厚く扱いました。前身のEC加盟時(1981年)はまだ東西対立がつづいていたころで、加盟国でギリシアだけが「東」にありました。妙ですよね。旧社会主義圏をも巻き込んで欧州が一体化されるとなると、ギリシアが欧州なのか、実はオリエントなのかといった問題はどこかに消え去り、欧州共通のご先祖としていっそうもてはやされることになります。誤解を恐れずにいえば、ギリシアが入らないEU、ユーロ圏という選択肢はありませんでした。どんなに弱くても(失敬)東京大学の加わらない東京六大学野球なんてありえない、というのに相似しています。それでわかってくれます?(笑)

古典古代のギリシア哲学とか演劇、あるいは歴史書などが2000年以上を隔てた現在も愛され、熟読され、参照されるのは、そこに現れる人間や社会のありようというのがあまりにヒューマンだから、ではないかと考えることがあります。紀元前のことだから現れ方はプリミティヴでときにシンプルなのだけど、ゆえに人間や社会のよさやダメさをシンプルに読み取ることができます。いま去ろうとしている現実のギリシア国家やそこに登場する数々のギリシア人たちって、人間や社会のよさやダメさをわからせてくれるために遣わされたのかな? ――という感想は、ドイツ人クルーの操る機内に乗り込んでから思うことにしましょう。神々の怒りに触れるのは私でも怖いので。

アテネ 歴史の坂道 おわり

西欧あちらこちら にもどる

 


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 に帰属します。