Athènes: les pentes d’histoire

PART3

 

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パルテノンはかなり大きいものの、丘の上の広がりはさらにあり、周囲にも数々の遺蹟、遺物が見られます。いまこの丘に来るための唯一のゲートにあたるのがプロピュライアΠροπύλαια)。「前門」と直訳できます。アクロポリスの神聖性を維持するため、近づけるべきでない人物はここで排除しなければならず、ゲートそのものも神聖さを帯びて造られたのではないでしょうか。いま登ってきてわかったように、このすぐ手前までが急斜面なので、ここに頑丈な建物を造ってあれば防衛しやすいと思われます。建物としてもう1つ目立っているのはエレクテイオンΈρέχθειον)。伝説上の初代アテネ王エレクトニオス(Ἐριχθόνιος)を祀るものとされ、やはりアテネ最盛期の紀元前5世紀の建造といわれます。エレクトニオスまで行ってしまうと歴史ではなく神話の世界。とはいえ「歴史」にかかる部分でも紀元前2000年紀の前半まではゆうにさかのぼることができますので、私の想像力をはるかに超えてしまう。博士論文のテーマとして読み込んだ1890年代以降のフランスの歴史教科書は、紀元前1世紀、ローマのカエサルの侵攻を受けて防戦するガリアの物語からはじまります。それも、ガリア側に文字記録がないためローマ側の歴史(カエサルの「ガリア戦記」)を翻案するようなかたちで叙述するのがせいぜいでした。日本史も、縄文文化が優れていたとか何とかいっても歴史年代がはっきりするのは紀元後57年の奴国王への印綬授与(後漢の光武帝による)あたりからなのでフランスと大して違いません。ギリシア、オリエント、インド、中国あたりの歴史に取り組むには、私の脳内のスケール(尺)は短すぎますかね。

 
(左)プロピュライア  (右)エレクテイオン オスマン帝国時代にはハーレムに転用された


そんな私ですのでアクロポリスにいてもなお現代の生活場面のほうが気になります(汗)。プロピュライアの反対側、丘の東端にあたる部分に展望台が設けられ、五輪でおなじみのギリシア共和国の国旗が掲揚されています。ホテルの朝食会場からも見えました。先ほどの天然の展望台よりさらに高い場所にあるため、見晴らしは最高です。お天気も最高。気温もずいぶん上がってきているようで、山登りで体力を使ったためもあってか汗をかくほどです。遺蹟に面した土地にわざわざ近代国家の首都を建設したと述べましたが、それにしては、いやそれゆえになのか、アテネ市街の広がりは予想以上です。どこまでも途切れることなく建物がぎっしりと敷き詰められている感じがします。

ギリシアという国家は近代まで存在せず、ギリシア人やギリシア文化はビザンツ帝国やオスマン帝国の中に混じり込んでいたのだと申しました。それにしては、いまのギリシアにイスラームの影はほとんどみられませんし、トルコ共和国の正教徒はかなり少数派になりました。これは、第一次大戦後にたたかわれた希土戦争(Μικρασιατική Εκστρατεία / Greco-Turkish War 191922年)のあと結ばれたローザンヌ条約において、両地域の住民を交換することが決められ、実行されたためです。何百年、あるいは1000年以上にわたって代々居住していたはずのギリシアのムスリムはトルコ共和国へ、逆にアナトリアのキリスト教徒はギリシア王国へ強制的に送還されます。そのときの基準は宗教という1点だったため、改宗するのでなければ移転せよという無理筋の、強圧的なものでした。中東欧諸国、とりわけバルカン諸国の多くがいまなお苦しむ宗教アイデンティティの錯綜が、ギリシアとトルコに関してはこれで「解決」してしまいます。その代わり、家や財産を失ったアナトリアやイスタンブールの100万人を超えるキリスト教徒たちがギリシア領内に移住しましたので、雇用や教育の問題が混乱しましたし、彼らの多くがアテネに流入したため、アテネの市域が劇的に拡大し、都市問題になっていくことになります。

 
(左)アクロポリスの展望台  (右)ハドリアヌスの図書館(写真中央) 壁の向こうにパンドロスウ通りがある 手前の筒状はローマン・アゴラの時計塔


展望台からアテネ市街を見晴らす 正面奥にリカヴィトスの丘 その右下に見えるクリーム色の建物が議事堂で
シンタグマ広場はその前庭部分にあたる 赤屋根が密集する写真手前側がプラカ地区


アクロポリス北辺から北側を展望 東(右)から西に向けて一方的な下り坂になっている


丘の上をゆっくり2周してはるか紀元前に手を伸ばしたところで、再びプロピュライアをくぐって、今度は丘の南斜面に出てみました。こちらもかなりの急斜面。パルテノンその他を修繕するための大型重機をどうやって揚げたのだろうといまでも思うほどなのに、古典古代の人々は何をどうしたらこんな急坂を踏み越えて大きな建物を造れたのでしょうね。その間にも、防衛上の構造物や銅の鋳造所跡など興味深いものがあります。その先、坂を下ったところにディオニュソス劇場(Θέατρο του Διονύσου)。紀元前43世紀ころに悲劇や喜劇を上演し、ギリシア演劇の一大拠点となったところです。ここも共通チケットで入れるのですが、どうやらアクロポリスの有料エリアとは道がつながっていないようで、背後から眺めるだけにしました。有料エリアはかなり広いものの出入口は先ほどの1ヵ所のみらしい。私は、丘の東側(展望台の真下)を回り込んで反時計回りにぐるりと一周し、丘の西側にある出入口に戻りました。天然の展望台であいさつした若い日本人女性とまた出会って、元に戻るしかなさそうですよねなどと情報交換。彼女は音楽堂や劇場を訪ねたかったようなのですが、遠回りして反対側の入口に行かなければならないみたいです。遺蹟は保存、保全が最優先だから観光客の足場が悪いのは仕方ないのかな。

 
アクロポリスの丘の南斜面に、ディオニュソス劇場がある


古典古代(Classical Antiquity / Antiquité classique)というのは古代ギリシア・ローマの時代を指す用語です。古代という大くくりの時代区分の中でも「古典」を冠するのは、それがそののちの欧州文明の規範となり、底流になったと意識されているため。欧州文明という言い方がまた微妙で、本当は西欧文明というべきなのかもしれません。西欧あちらこちらという総合タイトルをもつこのシリーズも、最近は中東欧への遠征がメインになっていますが、歴史の本を読んでも、また現地を歩いてみても、西欧と東欧は異世界なのではないかと思うことが多くなりました。地理的には離れているはずの西欧が、ローマはともかくギリシアを強く意識したのは妙な感じもあるけれど、中世のキリスト教やゲルマン社会にも不思議なかたちで混じり込み、近代に入るといっそう「祖型」として強く意識されるようになりました。私は西欧思想史でもナショナリズムという近代的なところをメインに研究しますので、古典古代は利用される典拠という側面でしか扱わず、偉大な文明に対して申し訳ない気分はあります。日本でも研究の蓄積が膨大なので、いまさら私ごときが参入することも、何かいうべきこともありません。ただ、人間や社会の見方という面で古典古代はさまざまなサンプルを提示してくれますので、関連する本はたくさん読んでいます。

その古典古代はローマ帝国の変質(軍人皇帝期以降)と東西分裂をもって終焉し、地中海と欧州に中世が到来します。ゲルマン民族の進出に伴って西ローマ帝国が早々に滅亡したことは周知のとおりで、残された東ローマ帝国(たいていビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と称される)はその後1000年以上も命脈を保ちました。私たちの「世界史」は、近代の覇権を握った西欧側の都合に沿って記述され、学ばれてきましたので、ゲルマン人の建国したフランク王国のほうがメイン・ストリームで、ビザンツはついでに語られる程度でした(過去形でもないか)。カトリックが浸透した西欧では古代ローマの言語であるラテン語が書きことばとしてのリンガ・フランカ(lingua franca 普遍語)の地位を獲得したのに対し、ビザンツを核とする東欧圏ではギリシア語がリンガ・フランカとなります。15世紀にオスマン帝国がビザンツを倒してその地理的な範囲を乗っ取ったあとも、ギリシア語はキリスト教徒(正教徒)たちのリンガ・フランカでありつづけました。近世の大まかな構図を見ると、バルカン半島の諸民族はイスラームの在地領主と正教の宗教的権威によって統べられていました。そのためギリシア語やギリシア人は、トルコ語やムスリムと同様に「よそ者の支配階級」のような位置づけですらあったといいます(M.マゾワー著、井上廣美訳『バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』、中公新書、2017年)。半年前に、ギリシアの北に位置するブルガリアと、さらにその北のルーマニアを歩きました。いずれもビザンツ、オスマンの支配を受けた地域ですが、景観という面でこのギリシアと地続きの感じがほとんどありません。ブルガリアなどが社会主義圏だったという冷戦期の記憶がじゃましているのかもしれませんけどね。ギリシア北部のテッサロニキ(近代国家の建国時には領域に含まれなかった)あたりに行けば違うのかな? もっとも、そのあたりは古い概念でマケドニアに括られるはずで、国境を接するマケドニア共和国の国名をギリシアが徹底的に認めない(それはギリシアの地名だ!というので)原因にもなっています。ブルガリアとギリシアの共通点はといえば、例のケバブと、男性の顔立ち。ギリシア彫刻風の顔があまり見えず、両国ともトルコ人に近い人が多いという印象です。

 アクロポリス北斜面の道


登ってきたのと少しだけ道をずらしながらアクロポリスの北斜面を下りました。正午が近づいたためか、観光客の数がぐんと増え、それに声をかける土産物屋などもかなり多くなりました。身体的な都合で昼食は抜くことにしていますので、このまま進みましょう。ハドリアヌスの図書館から、昨日来まだ歩いていない西側方向に進むと、レストランや土産物屋が並ぶいかにもツーリスティックな通りに出ました。その先に古代アゴラΑρχαία Αγορά της Αθήνας)の入口が見えます。古代とあるのはローマン・アゴラと区別する必要から。先ほど天然の展望台から直下に見えたのがここで、あらためてその広さを実感します。歴史や哲学などの本に必ず登場する「広場」なのだけど、その言葉のイメージよりはかなり大きい。ポリス(都市国家)としてのアテネの心臓部であり、宗教施設や政治機関などがここに集中していました。裁判所も、議会もありました。議会といっても、アテネはよく知られるように直接民主主義ですので、市民の誰もが政治家であり議員となります。市民というのは女性・外人・子ども・奴隷以外ということですので、成人男子の自由民のうち3代以上アテネに居住するというような人が対象となり、実際の住民の約1割程度だったとされます。ともかく直接民主主義、全員が議員だったわけだから、相手を論理で打ち負かしたり自己の主張で多数派を形成したりするテクノロジーは必須で、そのために雄弁術やレトリックも発達し、ソフィスト(職業教師)が活躍し、のちの規範になるような哲学・思想が形成されたともいえます。

私がこのところ研究対象としている市民性教育(citizenship education / éducation à la citoyenneté)の分野では、西欧でも日本でも、このアテネに由来する政治参画ということが議論の軸になりすぎていて、市民(citizen / citoyen / Bürger)という概念の多様性、多面性が活かされていないなと思うことがしばしば。参照されるべき市民や市民性は古典古代よりも中世都市のそれではないかというのが私の仮説なのですが、論文にする前にこんなところで披歴してアイデアをもっていかれてもアレですので、もう書かない(笑)。ともかく、その分野を学んでいる人間としては、やっぱりアゴラは訪れてみませんとねえ。

 
 
古代アゴラ


アゴラが斜面にあるというのも初めて知りました。繰り返し述べているように、アテネ市街地全体が西に向かって下り勾配になっているのですが、それに加えてこのあたりはアクロポリス北斜面のつづきですので、アゴラそのものは北に向かって下り勾配になっています。その傾斜が緩まったあたりに議場などがあったらしい。いま残っているのはヘファイストス神殿(Ναός Ηφαίστου)のほかは礎石や柱の残骸など。それでも礎石部分がかなり残されているため、全容の把握は難しくないようです。なお、時代的にはアテネの最盛期よりもかなり後になりますが、ヘレニズム思想のひとつストア派(Στωικισμός / Stoicism)は、創始者のゼノンがアゴラ内の柱廊、ストア・ポイキレ(Ποικίλη στοά)で講義したことに由来して名づけられました。柱廊=ストアです。私などまったくストイックではないのだけどストア派の文章は好きで、けっこう影響を受けた部分があります。もっともセネカやマルクス・アウレリウスといった後期ストア派がほとんどですので、アゴラで教えていたゼノンの思想とはあまり結びつかないかもしれません。

ストアのひとつを20世紀に復元したのがアッタロスの柱廊(Στοά του Αττάλου)。古代遺蹟で完全に復元されたのはここだけだということです。石積みの残骸ばかり見ているので、1つくらいリアルな姿があってもいいな。青森の三内丸山や佐賀の吉野ヶ里のように度を越した想像で建物を造るのはまずいと思いますけどね。内部はミュージアムになっていて、アゴラで発掘された刀剣や陶器などが展示されています。なかなか興味深い。ミュージアム・ショップに無料のお手洗いまであるのは立派。

 
アッタロスの柱廊を復元したもの 内部は博物館になっている


古代ポリスとしてのアテネ(アテーナイ)は農業生産に向く土地が乏しく、ゆえに商業によって富を蓄え、国力を高めた国家でした。そのため紀元前5世紀半ば以降、アテネの覇権を嫌がる他のポリスなどの離反や、ペルシアによる策動、そして最大のライバル国家スパルタとの対決などによって国力が疲弊すると、しばしば食糧難に見舞われることになります。おもしろいのは、哲学・思想が深められ練り込まれていくのは国力が傾いた時期以降であるということ。ソクラテスが民衆代表の裁判官による裁決で死刑となったのは紀元前399年のことです。師と仰ぐソクラテスの弁明を目の当たりにしたプラトンは、市民による統治なんてウソくさいと考え、賢人による寡頭支配がいいのではないか、どこかに理想の国はないかなとあちこち放浪した末に、イデアなる空想の世界にたどり着きました。これが西洋思想の大いなる源流になったのは誰もが知るとおり。プラトンが創立したアカデメイア(Ἀκαδημεια)はアテネの郊外、森の中にありました。

プラトンの「ソクラテスの弁明」は若いころから何度も読んでいて、そのつど考えるところの多い作品です。世の中がいかれているのを特定の誰かのせいと決めつけ、そうなったら群衆が徹底して叩き、追い込んでいくという、昨今のネット・メディアの極端な衆愚性とも通じるところがあるような。


アゴラ遺蹟内を通過するメトロ1号線の電車


アテネは、ソクラテスを葬ったあとも迷走をつづけ、北方にフィリッポス2世率いるマケドニア王国が台頭すると、デモクラシーの弱点を露呈し、フィリッポスに迎合してどうにか生き延びようとする勢力とこれと決戦して伝統を固守しようとする勢力とに分断されてしまいます。前者には理念や理想、後者にはリアルな世界観がなく、いずれの側にもまともな指導者が現れにくい状況になっていました。紀元前338年、カイロネイアの戦い(アテネの北西100kmほど)でマケドニアに完敗したアテネはその軍門に下り、フィリッポスの息子であるアレクサンドロス大王の時代には軍事的にも財政的にもこれに従属を余儀なくされました。マケドニア時代にもかなりのアップダウンがあり、紀元前2世紀に同王国がローマによって滅ぼされると、アテネを含むギリシアの大半がローマ支配下に入ります。時を経て、キリスト教化が進行していく中で古典古代のギリシア色が薄められていくという話は前述したとおりです。

古典古代といいましたが、高校世界史の苦手な生徒(高校生の3分の2くらい?)はたいていオリエントと古典古代で力尽きてしまいます。カタカナ固有名詞の多さと相互関係の複雑さゆえだと思います。このほど学習指導要領が改訂され、30年ぶりに世界史の必修が外されて、日本史と外国史を合わせた近現代史中心の「歴史総合」が必修となります。グローバル化する時代に世界史を学ばなくてよいはずはなく、さりとて苦手なまま無理に食わせれば試験用に暗記して何も残らなくなるに違いありませんから、転換はやむをえないのかもしれない。ただ、古代ギリシア・ローマをやらなくていいのかという思いはどこかに残ります。エリート主義的な発想なんでしょうけどね。こういう時代なのだから、アニメ動画やゲームにでもすれば、おもしろくてたまらない素材になるに違いなく、紙の本を読ませて知識(というか単語)を呑み込ませるという考え方を改めるべきでしょう。

 
 
小さな土産物屋が並ぶアドリアノウ通り


さて、今度はアクロポリスの東側にあたるプラカ地区に足を踏み入れてみましょう。ハドリアノスの図書館の東側、カフェなどが並ぶあたりから、あまり広くない通りを道なりに進みます。これがアドリアノウ通り(Οδός Αδριανού)のようです。いつものようにあまり下調べをしないため、プラカ地区についても、曲線の細い道が織り成す商業地区というくらいにしか知りません。薄暗くてごちゃごちゃしているのかなと思ったら、案外開放的で、南欧らしい明るいカラーにあふれています。この道は円弧をなすように南東から南へと進路を変えていくのですが、アクロポリスの東斜面でもあるせいか、先(南)のほうに向かって緩やかな上り勾配になっています。両側にはトゥーリスティックなお店や小さなホテル、飲食店など。道路の狭さと曲線の具合以外にどこがといわれたら返せませんが、どこかマカオにも似ているような。あ、少しだけお土産買いましょう。どうせ大したものではないけれど、ギリシア文字が書かれているだけで萌えるんじゃない?(笑) 北隣のブルガリアとの違いをまた思いつきました。ここギリシアはユーロ圏なので、パリや西欧と同じような感覚でお財布を出せます。いいのか悪いのかは知らん。

 
(左)ハドリアノス門からアクロポリスを望む  (右)ローマ時代の浴場跡

  
古代ギリシアの三大悲劇作家 左からアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス


欧州の町歩きは石畳ふうのところだと思いのほか疲労がたまります。きょうはそれに加えてかなりアップダウンもあったので、14時を過ぎたころから足の疲れがけっこうひどくなりました。公共交通機関をいっさい使わず、ひたすら歩いていますしね。アドリアノウ通りを最後まで歩きとおし、少しだけ進むと、狭義の市街地の外縁をなすアマリアス通り(Λεωφόρος Βασιλίσσης Αμαλίας)に出ました。アマリアスというのは近代国家初代の王であるオソン1世の王妃アマリア・フリデリキ(Αμαλία Φρειδερίκη)のこと。彼女もドイツ系の貴族で、カトリックだった夫と違ってこの人はプロテスタントでした。正教を信仰しないドイツ人夫妻が統治するギリシア王国だったわけね。国際情勢の変化と、何より国王夫妻の評判の悪さも手伝って、オソン1世はその地位を保つことができず、1861年のクーデタで廃位されてギリシアを去りました。王妃の名がメイン・ストリートの1つに残されているのは彼女にとっては幸運。そのアマリアス通りに出たところに、どうにも薄っぺらい石積みのゲートが見えます。それこそマカオのランドマークであるサン・パウロ天主堂跡(聖保祿大教堂遺址)みたいに外ガワだけ残されているのか、それとも元からそうなのかは不明。これはハドリアノス門Πύλη του Αδριανού)と呼ばれる凱旋門の一種だそうです。ハドリアヌス帝はあちこちに名を残していていいですね。

道なりに歩けばホテルに戻れることは地図なしでもわかっています。狭義の市街地の外側を緩やかな円弧を描いて進みます。右(東)側の一帯は広大な緑地で、国際展示場や国立庭園などになっています。アマリアス通り自体は自動車交通のために拡張された現代的な道なのだけど、その路肩にもローマ浴場の跡といった遺蹟が普通にあって、そのつど立ち止まります。三大悲劇作家の胸像が建てられているのも興味深い。

 


ホテルに戻って、小休止ならぬ大休止。3時間ほど休みます。YouTube流しながらサーフィンないし昼寝という、最近お気に入りのスタイルで過ごしましょう。広い部屋なので居心地はすばらしい。18時ころ再出動して、夕食。シンタグマ広場を抜け市街地に向かうのですが、エルムー通りはショップばかりなのでこれと直交もしくは並行する道がねらい目かなと当たりをつけました。とくに何を食べたいというのもないですが、前夜がケバブだったから今回はシーフードかな。エルムー通りの2筋南を並行するミトポレオス通り(Οδός Μητροπόλεως)に、シックな構えのビル、その0階にレストランが見えました。Αθηναϊκόνという店で、こちらもずいぶんスタイリッシュ。表に掲出されているメニューをのぞくと、この国にしてはカジュアルより高めの設定ですが、望みどおりシーフードを食べることができそうです。そこに中年男性の店員が出てきて、当店はシーフードが自慢でいろいろな料理ができます、いかがですかと。まったく異存ないので中に通り、ミトポレオス通り側の窓際の席を勧められました。前菜はいいからメインの魚料理だけ取ろうかな。ギリシア語と英語が併記されているメニューを見ると、イワシ、マレット(ボラ)、カンパチ、サーモン、ギルトヘッド(ヨーロッパブダイ)などを焼いたり揚げたりしたものが載っています。各種魚のスープもあるようだけど、塩分規制があるため冬場の汁物は禁物。ツナ(マグロ)がおすすめですと聞いたので、Grilled Fresh Tuna filet (250- 300g) なる品をオーダーしました。グリルだから網焼きですね。飲み物はグラスの白ワイン。量はたっぷりあって、すっきりして普通に美味しい。

一般的なディナーにはまだ早いためかお客はさほどに入っていません。フロアには店員が男性ばかり56人いて、物腰はソフトなのですが、目配りがいまひとつでなかなかこちらと目が合わないなど難点もあります。まあヒマな時間だとそういうことになるのでしょう。

 


10
分ほどして運ばれたのは、網目のくっきりとついたマグロの切身に、生野菜サラダを何かに盛りつけたものを添えていて、これもなかなかおしゃれです。これで250グラムもあるのかなと多少疑問ですが、そもそも魚をそんなに食べることもなく、多ければよいというものでもありません。あ、でも、思ったより厚みがあるので、たしかに250以上はありそうですね。タルタルソースを添えてあるものの、下味もしくは調理中に振りかけた塩がけっこう強めなので、ここはレモンでいきましょう。中はレアで、「赤身マグロを焼いたやつ」を想像してもらうとそのとおりの味です。まあでも美味しくてフォークが進みますね。サラダは、ベビーリーフ、赤キャベツ、グリーンカール、キュウリがたくさん盛られており、フレンチ・ドレッシングがかかっています。土台は春巻きの皮をパリパリにしたようなもので、崩してまぶすと味わいが出ました。ゆっくり食べ終え、食後のエスプレッソもいただいて、1915分ころ店を出ます。勘定はマグロが€18.80、白ワイン€2.20、エスプレッソ€1.40で、いうほど高級でも高値でもありません。飲み物はかなり安い。最後におまけといって、ミント風味のするムースをもってきました。ごちそうさま。

 


腹ごなしにウィンドウ・ショッピングしながらエルムー通りの坂を登り、シンタグマ広場まで来ると、突然数百人規模の集会に出くわしました。旗や横断幕を掲げ、拡声器で何かを主張しているようですが、当然ギリシア語の音声も文字も理解できないのでそもそも何の集会なのかがわかりません。2010年代の欧州危機の発端となったギリシア通貨危機(2009年)のころには、この国の市民たちがこうしてデモする様子がたびたびメディアに報じられていました。もともと産業が振るわず公務員依存の強い国で、公務員系の労働組合がかなり力をもっています。古代とつなげていってはまずいのでしょうけれど、デーモス・クラチア(「民衆の力・体制」でdemocracyの語源)の母地ではありますからね。もとよりこわもての活動家が絶叫するわけでもなく、周囲には屋台などが出てデモの人たちも飲み食いしながらというところはあるようです。やっぱりここは古代史の中の世界ではなく、21世紀の人々が住むアテネであってね。

 

PART4につづく

 


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