Athènes: les pentes d’histoire

PART2

 

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21日(水)は晴天。8時過ぎに朝食をとりにいくわけですが、会場として指示されていたのはありがちな0階ではなく最上階。エレベータが1つ下の階までしか行かないので不思議に思ったら、屋根裏に登るようならせん階段があって、Roof Gardenはこちらと記されています。なるほどペントハウスみたいな雰囲気の最上階が朝食会場になっており、かなり狭いですが採光がよくてとてもよい雰囲気です。食事はビュッフェ式イングリッシュ・スタイルで普通に美味しく、係の女性の応対もスマートでよいのだけど、何よりも大きな窓からアクロポリス、パルテノン神殿が見えるのがすごい。ホテルの立地する地区が、どちらかというと赤坂のような現代的景観であるため、その先に古代遺蹟というのは不思議な感じもします。

 
 
朝食会場からはパルテノン神殿を望める


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時ころ出動。きょうは狭義のアテネ市街(PART1に掲出した概略図の範囲)をゆるゆる歩こうと思います。気温予想が10度台の後半を示しているので、上っ張りを薄手のウインド・ブレーカーに替えました。それすら不要かもしれない。まずは座標ゼロのシンタグマ広場に出て、そこから前日とは違うルートで西に向かって坂道を下ります。前述のようにこの界隈は19世紀に道をまっすぐ敷きなおした関係で方向がわかりやすい。そこで、多少出入りしながら西に向かうことができます。前夜に歩いた目抜きのエルムー通りはきらきらの商業地でしたが、並行する道路沿いは、ショップなどもあるにはあるが全体に庶民的な住宅街のようです。


シンタグマ広場から見たリカヴィトスの丘

 
朝の日常


シンタグマ周辺を少し偵察すると、広場南側に空港行きバスの乗り場がありました。なるほど、やっぱり帰りはここからバスにしよう。このあたりにはコーヒーショップや、それを兼ねるようなファストフードのたぐいが目立ち、どこでも人々がモーニング・コーヒーを飲んでいる様子が見えます。パリだってそうですが、もともとコーヒーは中東の飲み物で、オスマン帝国から欧州にもたらされた文化ですよね。路線バスやトロリーバスもかなりの頻度で動いていて、そこは福岡の西鉄バス並みか。いまが出勤時間のようです。

 
 
シンタグマ広場西側は庶民的な地区 雑貨店やクリーニング店など、昭和っぽい雰囲気がおもしろい


下り坂の細い道はどこも生活感があって興味深い。目抜き通りの看板が英語などのラテン文字ばかりであるのに対し、裏通りは当然ながらギリシア文字があふれていて、実態があるということですね。まだ9時台ですが生活密着の商店はとっくに開店しており、活動がはじまっていました。いろいろ理屈をいっている私自身が、ギリシアとかアテネに現代の生活がちゃんと存在するということを実感として心得ていたかどうか怪しい(笑)。いや、ここは7080万人ほどの人口を抱える(狭義のアテネ市)ギリシア最大の都市です。みんな普通の日常を生きているさね。

前夜もその前を通過したミトロポレオス大聖堂前の広場に出てきました。南側から広場に入ったので、前夜は見られなかったアギオス・エレフテリオス教会Άγιος Ελευθέριος)の厳粛ながらもどこかかわいらしいフォルムがすぐに見えます。小ミトロポレオス(Μικρή Μητρόπολη / Little Metropolis)とも通称され、背中合わせの大聖堂のおまけみたいにも見えるけれど、大聖堂が近代ギリシア国家の手によって1840年代に創建されたのに対し、小ミトロポレオスはビザンツ後期(諸説あるようですがたぶん13世紀ころ)に建てられた中世の教会です。エレフテリオスはギリシア神話の主神ゼウスの娘で出産の神とされるエイレイテュイアのことで、どうやらもともとこの女神を祀る場所だったところに正教が教会を建てたということらしい。で、「独立」後のギリシア国家はわざわざその真横に正教の大聖堂を建設し、小教会を廃止しました。歴史や伝統の乗っ取り、権威の横取りというのが近代国家のならいではあるけれど、前述のような事情で「でっち上げられた」ギリシア国家にはとくにそうした演出が必要だったのでしょう。世界にとどろく古代アテネの名声の上に、正教の大主教座を重ねた大ミトロポレオスは、現在でも大統領就任式など国家的儀礼の場として用いられています。

 
ギリシア近代史を反映する、背中合わせの2教会 (左)ミトロポレオス大聖堂  (右)アギオス・エレフテリオス教会


大ミトロポレオスの建設を命じたのは近代国家の初代国王オソン1Όθων Α΄ 在位183362年)です。182129年のギリシア独立戦争については後述しますが、弱体化したとはいえ依然として世界的大帝国でイスラーム最強国家であったオスマン帝国に対し、一部のギリシア系の人々が反抗したところで、独立を成し遂げるというのは至難の業でした。ところがオスマン帝国を抑えて東欧・中東への影響力拡大を図りたい英国とフランス、最強の正教国家として南下を図りたいロシア帝国の思惑が一致して独立勢力を支援したため、大逆転で勝利を得ることになります。こうした経緯から、初めはギリシア系ロシア人でロシア帝国の外相を務めたこともあるカポディストリアス(Καποδίστριας)が大統領になり(在任182731年)、やがて彼の強引な手腕に反発するブルジョワ勢力などがこれを暗殺すると、ギリシアの不安定化を懸念した英仏露によってギリシアとはまったく縁のない人物が外から連れてこられ、王位に就きます。バイエルン王国の王子であったオットーに白羽の矢が建てられ、これを招いてオソン1世としたのでした。どうやらオソンはカトリック信仰を棄てなかったようですけれども、ギリシア統治には並々ならぬ野心を抱き、この地に正教の大聖堂を建てて新国家のシンボルにしようとしたらしい。

古代文明との連続性を最大の売りとしたギリシアでしたが、19世紀半ば以降になるとビザンツ時代が再評価され、ビザンツ帝国(正しくは「ローマ帝国」 3951453年)の栄光こそギリシアの本流であるということが歴史学の上でも主張されるようになりました(前掲『ギリシャ近現代史』、p.8)。大聖堂の図書室というか倉庫のような扱いになっていた小ミトロポレオスが独立した教会として復活するのが1863年で、ビザンツこそ大事だという歴史観の修正、あるいは気まぐれな過去の解釈による運命の変転でした。古代ギリシアというのはよく知られるように何十もの都市国家(ポリス)があるだけで統一国家などなく、ビザンツ帝国は最盛期にはバルカン半島南部からエジプト、レヴァント(地中海東岸)までを支配した広域国家で、いずれも近代のギリシアとはサイズも理念も合わないのですが、利用できるものは何でも利用したということでしょう。このビザンツ再評価は、依然として小国であるギリシアがやがて同帝国の領域を回復しコンスタンティノポリス(イスタンブール)に首都を置くのだというメガリ・イデアΜεγάλη Ιδέα 大ギリシア主義)となって、ギリシアを身の丈に合わない誇大妄想の拡張主義に走らせるもとになっていきます。

 
パンドロスウ通りは目覚め前


ここからは前夜と同じパンドロスウ通りをモナスティラキ広場まで進みます。ほとんどのお店は営業開始前。メトロのモナスティラキ駅はやはり通勤客などでにぎわっており、その周辺にも多くの人の姿がありました。そのすぐそばにあるのがハドリアヌスの図書館Βιβλιοθήκη του Αδριανού)なる遺蹟。古代遺蹟ではありますがいわゆる古典ギリシア期ではなく紀元後2世紀のローマ帝国時代のもので、同帝国の最盛期をなす五賢帝のひとりがハドリアヌス。ギリシア語風にはハドリアスとなります。イングランドとスコットランドの元の境界をなしていたハドリアヌスの長城(Hadrian’s Wall)にも名を残していますね。諸ポリスは紀元前4世紀後半に北方マケドニア王国(フィリッポス2世、アレクサンドロス大王父子)によって征服され、200年にわたってマケドニアの支配下に置かれたあと、紀元前1世紀にローマの領土となりました。征服されしギリシアは猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)、というホラティウスの言を、たしか高校の世界史で教わって興味深く思ったことを憶えています。法律や土木では不滅の業績を残したローマも、思想・文化面ではギリシアに敬意を表さざるをえなかったのでしょう。建築マニアで大帝国のあちこちに宮殿やインフラを築造したハドリアヌスが、文化の集積地としてここアテネに図書館を建てたというのはもっともなことです。それにしても、いわゆるギリシアではなくローマ遺蹟ではあります。順序が違うとは思うけど、入ってみましょう。

ここの見学だけだと€6ですが、アクロポリスを含む計8ヵ所で使える共通チケットを€30で売っており、それを購入することに。高いですけどアクロポリスは単品で€20しますので、3ヵ所見れば元が取れます。位置的には、いまいるハドリアヌス図書館→ローマン・アゴラと順に南下すると、その先にアクロポリスがありますので、通行手形みたいに使えます。ま、この図書館遺蹟に関しては柵内に入らなくてもその外側からだいたいの様子は見られます。近くまで行けるかどうかというくらいの話。

 共通チケット(1ヵ所目の使用後)

 
 ハドリアヌスの図書館


この遺蹟自体、数世紀にわたる更新の跡でもあるらしく、由緒書きによれば、ハドリアヌス帝によって建設された図書館本体は132134年ころの築造ですが、ゲルマン民族の大移動に際していったん壊され、5世紀に再建され、12世紀ころまでにはキリスト教会が建てられてその跡もあるのだと。せっかくチケットを買ったし、アテネ1発目の遺蹟見学なのだけど、古代史や考古学の教養があまりないので、残念ながらふ〜んとしか思えない(汗)。一部だけでも構造物の一部が残っているというのはたしかにすごいことなんですけどね。

つづいて、図書館遺蹟の2筋くらい南にあるローマン・アゴラΡωμαϊκή Αγορά)。アゴラというのは英語でいえばフォーラムで、イベントや集会(議会に近い)に用いられた公共の広場のこと。ソクラテスも活躍したアテネのアゴラが何より有名で、それはこの西のほうにあるのですが、ギリシアを征服したローマによって紀元前1世紀ころこの場所に移設され、新たなインフラが造られたとのことです。中でも紀元後1世紀の建造と伝えられる風の塔(Αέρηδες)はユニークで、風向計、水時計、日時計といった機能が内包されていたといいます。猛きローマをうんぬんという話でもわかるように、頭上にはローマ帝国とローマ法の支配を受け入れたアテネですが、ポリスとしての一定の自律はかなり後まで認められていて、古代オリンピックも後393年までつづけられました(年号でわかるでしょうか、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教化した関係で「異教」の祭りが禁じられたのです)。

 
 
ローマン・アゴラ


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ヵ所を立て続けに見学して、案の定、もうローマ時代はいいから早く古典ギリシアに連れていけ!という気分になってきます。このあたりの遺蹟というのは基本的に石積みの残骸ですので、それ自体がおもしろいわけではありません。こういうものにすぐ飽きる私は考古学者にはなれないでしょうね。ハドリアヌス図書館からも、ローマン・アゴラからも、アクロポリスがはっきり見えています。モナスティラキ広場あたりから見るよりも「崖の下」から見上げる感じがして、不気味な感じではあります。このあたりも実は普通の住宅街なのですが、観光客が日常的に行き来しますので、アクロポリスはこちらという表示はあちこちに掲出されています。ところどころに土産物屋などがあります。途中で古代ギリシア時代の、元祖のアゴラをかすめて登ります。こちらにもあとで足を運んでみましょう。昨日来、見ているように、アクロポリスは市街地のあちこちから見ることができるほどの「高台」であり、しかも市街地そのものが下り勾配になっているわけですから、ローマン・アゴラ付近からだとかなりの上り勾配になります。世界的なスポットへのアプローチにしてはずいぶん地味で、ツーリストの姿もあまりないのですが、かまわず登る。途中で出会った地元の人が「アクロポリスはこっちだよ」と親切に指さしてくれます。

 
アクロポリスに向け、歴史の急坂を登っていく


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分くらいかかって広いところに出ると、アクロポリスへの登り口が見え、そこからさらに登らなければならないのですが、岩盤みたいなところがあって人がその上を歩いているようだから、まずはそちらに登ってみましょう。途中まではステップが設けられていますが、その先は岩肌をよじ登る感じになるため、靴底が滑らないように細心の注意を払いながら、てっぺんへ。おお、上はかなり広がりがあって、大勢の人がいます。

 

 
天然の展望台からの見事な眺望 (上)古代アゴラとアテネ市内 (下左)ローマン・アゴラ、アテネ中心部方面 向こうにリカヴィトスの丘も
(下右)アクロポリスの遺蹟群は、ここからさらに急斜面を登った先にある


ここは天然の展望台になっているのですね。無料なので、アクロポリスの入場料を節約したい人はここから市内と丘の上を眺めるでもよいかもしれません(ここまで来たら、まあチケット買うでしょうけどね)。眼下に古代アゴラ。そしてアテネの町が見えます。地平線までずっと建物がつづいているように見えますので、アテネ首都圏はかなりの広がりをもっているのでしょう。こういう地形であれば突出して高いアクロポリスの丘に軍事拠点とか神殿をつくろうという発想は当然のものと思われます。ただ、建材をどこか別の場所で切り出して、それを運搬したわけですから大変なことで、そういうところは古代遺蹟のすごさだなと思う。

さあいよいよアクロポリス本体に登頂しましょう。受付で共通チケットをもぎらせてエリアに入ります。そこから先はかなり急な登り坂と階段。まず右下(南)側の谷底?に、イロド・アッティコス音楽堂(Ωδείο Ηρώδου του Αττικού)が見えます。観覧席が見事に残っているなと思うもののこれは20世紀の復元で、実際の遺蹟はガワの部分です。ただ当時も、アクロポリス南面のきつい傾斜をうまく利用して観やすい客席をつくったのは確からしい。とはいえこれもローマ時代(紀元後1世紀)の遺蹟です。それでもいいはずだけど、紀元後ではもう物足りなくなっている(勝手な話だ)。


イロド・アッティコス音楽堂 向こうはフィロパポスの丘


アクロポリスの頂への最終アプローチ


そこからさらにビル3階ぶんくらい登ると、いよいよ丘の頂に到達します。大理石の円柱がむき出しになっているため、手を触れないようにととくに厳重なお達しが掲げられていますね。昨今のSNS野郎や迷惑YouTuberの餌食になったら人類の損失です。みんな変なことするなよな。

アクロポリスの歴史を語るとそれだけでギリシア全史を語ることになるほどになります。古代史や考古学の素養がほとんどない私の手に負えるものではないので、要点の要点だけ申しますと、その地勢からかなり古い時代より防衛拠点ないし祭祀の場所として用いられてきたこの丘に、パルテノン神殿をはじめとする主要な建物が造られたのは紀元前5世紀、アテネ民主政の全盛期といわれるペリクレス時代のことでした。その少し前にはかのペルシア戦争があり、アクロポリスもペルシア帝国の攻撃を受けましたが最終的には撃退に成功しています。そういう「祖国防衛の記憶」みたいなものも、この場所をいっそう特別で神聖なものとしたのでしょう。前述のようにギリシア文化に格別の敬意を払ったローマ帝国の時代には、皇帝や有力者などによってさまざまな手が加えられ、また保全の活動もおこなわれたようですが、4世紀に帝国が分裂して東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の管轄下になると、アクロポリスもパルテノンもキリスト教化されてしまいます。なお、私たちはこの丘に建つパルテノンなどを「柱の残骸」の姿でしか知りませんが、歴史の大半においてはきちんとした壁や天井をもつ何らかの機能を有する「建物」であったことはいうまでもありません。それを想像するのは逆に難しいですね。15世紀にギリシア地域を併呑したオスマン帝国はパルテノンをモスクにしてしまいますが、あまり手を加えてはいません。欧州の人たちが古代ギリシア文明をリスペクトしていることをわかっていたらしく、17世紀後半のキリスト教同盟(ハプスブルク、ヴェネツィア、ポーランドなど)との全面戦争では女・子どもをここに退避させました。ここを攻撃することはないだろうという読みからです。しかし期待は裏切られ、ヴェネツィア軍は丘を総攻撃してパルテノンその他を大いに破壊してしまいます。ここが石だらけの「廃墟」になったのはそのときでした。

 
 
パルテノン神殿


これらの施設が「現役」性を失い、廃墟になってしまったことが、近代史を加速させた面はあります。オスマン帝国はカルロヴィッツの和約(1699年)でハンガリーを失陥し、欧州方面での外交的安定を第一とするようになったことから、18世紀になると欧州の文化人や政治家などが続々とアテネの「遺蹟」を訪れるようになります。そうしてもたらされた情報が、啓蒙時代、そしてそのあとに来るナショナリズムの時代にかけて、欧州文明の共通の祖である偉大な古代ギリシアを想起させることになりました。ギリシア人自身のナショナリズムではなく、英国人やフランス人の愛国心とそれが根ざすと(勝手に)考えたギリシア文明への思いこそが、この地にギリシアという近代国家を誕生させる原動力となります。ロマンティシズム恐ろしや。そして、英国の駐オスマン大使であった外交官エルギン伯がスルタンから公認を得たと称してパルテノンの彫刻群をごっそり剥ぎ取り、英国に持ち出してしまいました。エルギン・マーブル(Elgin Marbles)と呼ばれるこれらの彫刻群は、非難を浴びたエルギン伯が英政府に寄贈したことから大英博物館の展示品となり、現在も返還を求めるギリシアの要求をはねつけてロンドンにありつづけています。私もこれを見たことがあるのですが、パルテノンの柱などと同じ白い大理石なので、なるほどなと思っていました。ところが、現役だった当時の彫刻は塗色されていたらしいということがあとでわかります。白い文明というイメージを打ち出すため、近代の英国人が勝手に研磨してしまったものらしい。こうした「西欧」側の一方的な思いは、独立戦争やその後の国家建設の際も「こいつら勤勉じゃないからギリシア人ではない」「顔が中東っぽいぞ。ギリシア彫刻みたいな市民はいないのか」などと、非常に身勝手な判断をもたらしたといわれます。

パルテノン神殿はいまも修復作業中ですが、さあ、どれくらいのことをして、どれくらい保全することができるのでしょうか。ヴェネツィアの攻撃で崩壊してから300年ちょっとですが、それ以前の2000年以上にわたってこの地の歴史とともに歩んできた貴重な文化遺産を後世に伝えるというのは、よほど大変なことだといわざるをえません。

 

PART3につづく

 


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