Athènes: les pentes d’histoire

PART1

 

 


欧州の町ってきれいで素敵ですね。憧れます。――という反応が(ジェンダー的にはわりに女子学生から)あります。たしかに絵として、きれいで、素敵ですもん。事情通の私が、そんなことないよ、と言い返すわけでもなくて、実際にきれいなのだから仕方ない。さて、そのように、いかにも絵になる町並、昨今の風潮をからめていえばSNS映えするような欧州の町並というのは、たいていは旧市街(Old Town)と呼ばれるエリアです。ユネスコ世界遺産に町の景観が登録されている場合にはもちろん新たな手を加えてはいけないのですが、そうでなくても歴史的な景観を保全し、観光的価値を高めようとする努力として、旧市街に関しては開発や広告などについての規制がかかっていることが多いのです。で、私たちがよく知る現代的な都市景観というのはその旧市街の外側に広がっていて、そちらはかなり広域であることが多い。観光で訪れる場合、旧市街だけ見ればいいやという気分になるのも当然で、それでよいと私も思います。

日本を代表する――というより世界的な――歴史的都市である京都が、町の広がりゆえかもしれないけれど、現代的な景観とのあいだに明確な一線を引かなかったのがちょっぴり残念ではあります。各時代の痕跡が共存するところにこそ歴史の長さを体現しているのだ、といえばそうですけどね。それでいうと「世界の京都」とでもいうべき都市がギリシアの首都アテネΑθήνα ラテン文字転写Athína 英語Athens)です。古代文明の都市遺蹟といえばバビロンやペルセポリス、ギリシアでいえばミケーネなどもあるのですが、現代(現在)においても都市でありつづけ、かつ首都機能まで有しているとなれば、ダマスカス(シリア)、エルサレム(イスラエル)、そしてアテネくらいのものでしょう。遺憾ながらまだ中東には行ったことがなく、ダマスカスには大いに興味があるけど安全に行けるようになるのはいつなのだろうというところでもあります。「世界の京都」アテネを、20182月に初めて訪れました。意外に思われるのかどうか、アテネに旧市街はない。アテネの中心部に広がるのは新宿や渋谷と何ら変わらない、現代の商業文化そのものを反映した都市空間です。浅草とか大阪の新世界を思わせるような地区もあるのだけど、それだって近代都市の景観ですよね。アテネは、現代そのものの都市空間に、たまに紀元前の遺蹟が入り込んでいるという、あえていえばちぐはぐな都市です。遺蹟がアクセサリーとしてディスプレイされていると思えばよい。生活や商業の場である都市の本体に、歴史性はほとんど感じられません。ですから町並そのものを期待して行くとがっかりするかもしれないが、アテネに対するメインの期待はたぶん遺蹟そのものだろうから、いま述べたような特徴に気づくこともないかもしれませんね。

 
エーゲ海を見下ろしながらアテネ国際空港に着陸 出たぞギリシア文字!

 

2018220日(火)16時過ぎに、パリからのエーゲ航空機でアテネ・エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港Διεθνής Αερολιμένας Αθηνών "Ελευθέριος Βενιζέλος" / Athens International Airport "Elefthérios Venizélos")に降り立ちました。タイムゾーンはUTC+2ですからパリ(UTC+1の西欧標準時を採用)で使っていた時計を1時間進めます。所要約3時間。女性CAさんが鼻筋のすっと通った方だったので、うわっ、さすがギリシアのフラッグ・キャリア(国を代表する航空会社)だからギリシア美人を乗せてくれるんだな、などと一瞬思いかけたものの、周囲の乗客を見てもそういうタイプの顔立ちの人はほとんどありません。もちろんフランス人ばかり、外国人観光客ばかりという可能性もありうるけれど、フランスやパリはかなり古くからギリシアとの結びつきの強い地域ですので「ギリシア人」の流動もけっこうあるはず。そういえば、テレビに映る「ギリシア人」にギリシア彫刻みたいな人はほとんどなく、どちらかといえば中東寄りのような気もします。現代ギリシアの有名人で考えてみようと思っても、なぜか一人も思い出せません。知っているギリシア人の固有名詞って、ソクラテスとかピタゴラスとか、そのすべてが古代人。そういう人が多いと思う。

ギリシア共和国Ελληνική Δημοκρατία / Hellenic Republic)に来たのは初めてです。というより、2年半ほど前から欧州連合(EU)加盟国の完訪を期して「行ったことのない国」を重点的に回ることにしており、残り4となった2018年は各個撃破?で宿題を片づけようという、何だかノルマ消化のようなことになっています。専門の欄のトップには教育思想史と記載する文系の学者にして歴史が大好き、曲がりなりにも西欧文明に片足を突っ込んで商売してきた人のわりには、ギリシアを後回しにしたのは迂闊でした。狭義の「西欧」から遠いんですよね。それと、関心のある歴史上の時代に順位をつけるなら近代→初期近代(近世)→中世→古代となります。これは日本史も同じ。古代のロマン的なところにはあんまり萌えないんだよな〜。昨夏、一般的にはアジア側の国とされるトルコ共和国と国境を接するブルガリアを訪れたとき、パリから遠いな、欧州の端っこまで来たなと思ったものですが、ギリシアはさらにその先。欧州文明の母国みたいなところなのだけど、地理的には極端に「右下」です。古代にあってはむしろオリエントの「左上」で、いま考えているような欧州(Europe)という枠組が成立するのはイスラームの地中海制覇(78世紀)のあとのことでした。

 アテネ国際空港ターミナル

 
空港から市内へ、メトロで直行


アテネ国際空港はアテネの東郊20kmちょっとのところにあります。市内へは、JRに相当するギリシア鉄道(Οργανισμός Σιδηροδρόμων Ελλάδος)かその終端部に乗り入れているアテネ・メトロ(Μετρό Αθήνας)、もしくはバスの利用になります。メトロとバスはいずれも市内中心部で座標ゼロにあたるシンタグマ広場Πλατεία Συντάγματος)に直行し、予約した宿もその付近なので、ここは迷わずメトロ。オープン・ジョー(INOUTで異なる空港を指定した変形往復チケット)を好む私にしては帰りも同じ空港なので、そのときバスを使ってみようかな。出発ロビーが上階、到着が下階というありがちな構造で、道路をはさんだ向こう側にある鉄道駅にはそれぞれ通路があるのですが、下階からはいったん「外」に出て歩かされる上、エスカレータや動く歩道もストップしたままでした。国際空港としてこれはいかんな。窓口でシンタグマ・ステーションまでシングル(片道)1枚と告げるとすぐ発券されました。€10。あとで調べると、ギリシア鉄道でもメトロでも、市内までは一律運賃のようです。ホームは地上にあり、首都圏でいえば郊外の私鉄の駅みたいな小規模の駅なのですが、郊外とはいってもこの付近はかなり田舎らしく周囲には何もない感じ。そして吹きさらしのため風がぴゅーぴゅー来て寒い。朝まで滞在していたパリは厳冬なのでダウンを着てきているのだけど、南欧のギリシアとはかなり気温差があるようだったので、ウインド・ブレーカーの裏地を外したものももってきています。いまはダウンのままで、それでもけっこう寒いため、前のチャックを閉めました。ギリシア鉄道とメトロが同一ホームを共有するのですが、発着掲示板の固有名詞がギリシア文字だけのため、どちらがメトロなのかわからないまま。掲示してある時刻表と照らし合わせて、どうにかこっちかなと判断し、乗車後の車内掲示で再確認となります。ブルガリアのキリル文字にもだいぶ苦労しました。ラテン文字以外を使用する国・地域はとくに気をつけてもらいたいですね。外国人からすれば知らない文字列というのは絵か文様にしか見えず、情報としてインプットするのが困難なのです。五輪開催を控えるわが東京も、その視点で見るとかなりだめなほうだと思うので、改善してほしいな。

17時ころ出発するメトロに乗車。しばらく殺風景な郊外を走るのはブルガリアの首都ソフィアと同じ。途中でギリシア鉄道と分かれて地下線に入りました。直線距離では20kmそこそこなのに、路線がくねくねしているのと、中速の各駅停車なので、なかなか都心部に近づかずもどかしい。初めて東京を訪れる人が京急のエアポート急行に乗ってもそんな感じなんでしょうね(英語のアナウンスがほとんどない京急は早急に改善して!)。40分くらいでシンタグマ(Σύνταγμα)着。メトロ2路線、路線バス、トロリーバスの多くの系統の結節点であり、前述のように座標ゼロでもあって、札幌の大通、名古屋の栄、福岡の天神、ソフィアのセルディカ、ブクレシュティ(ブカレスト)の統一広場にあたります。そういう地点がある都市は交通の全体像を捉えやすくていいですね。構内はやはりかなり広い。ここではラテン文字の案内もきちんとあって、ストレートに広場をめざします。

 
(左)シンタグマ広場 足許にメトロ駅の出口がある  (右)ホテル付近(シンタグマ広場の北東側)


予約したホテル・ロゼンジHotel Lozengeは、シンタグマ広場から歩いて34分ほどの商業地にありました。ブランド・ショップの路面店やおしゃれなカフェなどが並ぶ、新興商業地の一角のようです。アテネは鉄道駅付近や本来の中心部であるオモニア広場(Πλατεία Ομονοίας)付近の治安が悪いことがあちこちで指摘されており、シンタグマ付近のほうがいいかなと考えて、予約サイト経由で3泊朝食込み€287.10にて予約。4つ星です。暮れのブダペストと、位置、グレード、ホテルの感じ(ブティック・ホテル)、相場がほとんど同じ。パリやロンドンに比べればかなり安いのはありがたいです。そして通貨がユーロなのもありがたい。ギリシア共和国がユーロを採用するときにしでかしたインチキが、2010年代の欧州に混乱を招く一因であったことを思えば、個人的なありがたみも吹き飛ぶのですが、その話はまたあとで。

レセプションが「帳場」ではなく上場企業の総合受付のようなトーンなのはさすがブティック・ホテルで、スタイリッシュやなあ。部屋は1階(日本式でいう2階)で、寝室・洗面所ともにかなり広く、そしてスタイリッシュ。場所のよさも加味してかなりお値打ちの感じがします。幅はほとんどないもののバルコニーがあって、町の様子が近くに見えるのもいいですね。

 
  
ロゼンジ・ホテル カラー写真なのにモノトーン!


まだ17時を回ったところなので、荷物を置いて町に出よう。アテネ市そのものはかなり広域ながら、見どころは中心部のかなり狭小なエリア(下の概略図の範囲)に凝縮されている模様です。幅2kmあるかどうかという範囲なので、基本的には徒歩でまかなえます。また、このエリアをとりまくように幅広の幹線道路が走っているので、方向を失ったところでその外側に出なければ迷わないという構造でもあります。空港でもらってきた無料のシティ・マップを見ると、このエリアの北部は縦横の道路がわりに直線的で条里的、プラカ地区(Πλάκα)はいわゆる旧市街ばりに縦横や東西南北がごちゃごちゃになった地区のようです。ただちにめざすスポットはないので、まずはシンタグマ広場から西に直線的なところを進み、どこかで晩ごはんを食べてくることにしましょう。いつもながら予習はそのへんどまりで、ほとんどしていません。3泊しますので、テキトーに歩いてもそれなりに回れるのではないかな。例のシティ・マップとカメラだけポケットに突っ込んで、手ぶらで外に出ました。


アテネ中心部の概略図 アクロポリスをのぞいて、全体に西(左)に向かって一方的な下り坂になっている


アテネは北緯37度。けさまで滞在していたパリが48度、東京が35度なので、2月の17時ころたそがれるというのは東京に近い感覚です。市内に入ってみるとほとんど寒さはなく、東京よりも暖かいかな。あ、入口のところで言語と呼称の問題について触れておきましょう。ギリシアの公用語はギリシア語で、通常はギリシア文字を用いて表記しますが、観光国でもあり、また近年のインターネット化の事情もあってラテン文字転写も多くみられます。駅を含め市内のほとんどの箇所にラテン文字が併記されているのは結構なことです。ギリシア文字を目にすると数学に苦しめられた中高生時代の悪夢がよみがえって・・・ というのはある(笑)。もとより、アルファとかシグマとか、個別の文字の読み方を知っていたところで綴られるともうわかりません。そしてギリシア語といっても、ソクラテスやプラトンなどの古典文人が表現に用いた古典ギリシア語、新約聖書のオリジナルが用いているコイネー(アレクサンドロス大王の東征以降に口語化されたギリシア語)ではなく、オスマン帝国中期に形成された現代ギリシア語のほうです。もちろんつながりはありますが、そのものではない。日本語だって中国語や英語だってそうした変化はありますが、ギリシアの場合はちょっとばかり注意が必要です。前述のように、ギリシアといえば古代文明というイメージが直感的に来て、それ以外はほとんどないというのが私たちの感覚。当人たちにとってそれが迷惑なのかといえばそこも微妙で、古典古代の栄光を最大の誇り、アイデンティティとして近代のギリシア国家が形成されており、近代国家に不可欠の国語の制定にあたっても、古典ギリシア語との連続性の強いカサレヴサ(Καθαρεύουσα / Katharevousa)が公式化されました。これは語彙、文法、用字法などが古典的かつ規範的で、一般に話されていた民衆語(デモティキ δημοτική / dimotiki)とはかなり違うものだったため、エリートをのぞけばまともに使用されず、ゆえに少数のエリートによる社会支配を正当化する仕掛けになってしまったものです。軍事政権崩壊後の1980年代になって、ようやくデモティキが国語化され、今日にいたりました。

国名を表すギリシアというのは日本語固有のものなので、これもどのようにすればよいか迷います。ギリシア共和国という正式国名はΕλληνική Δημοκρατίαで、エレニキ・デモクラティア。ヘレニズムなどというときのヘレニック(Hellenic ギリシア的)という形容詞は現代ギリシア語のエラダ(Ελλάδα)、古典ギリシア語のヘラス(Ἑλλάς)に由来します。これがどう変化したものか、古代ローマ帝国の言語であるラテン語ではグラエキア(Graecia)であり、日本には南蛮文化の時代にポルトガル語のグレシア(Grécia)を経由して入ったため、その名が早くに定着したものとされます。ネーデルラントやイングランドの国名がやはり同時期のポルトガル語に由来してオランダ、イギリスとなった事情と共通します。それにしても、エラダとか英語のグリース(Greece)、フランス語のグレース(Grèce)というのは、慣れていないと出てきませんね。旅行中は英語を話しているためグリースと発音しているのだけど、ここではどれを書いてもピンとこないのでギリシアとしておきましょう。首都アテネのほうもちょっと複雑で、古典ギリシア語ではアテーナイ(Ἀθῆναι)、カサレヴサではアシネ(Ἀθῆναι)、デモティキではアシナ(Ἀθήνα)。古典の翻訳者などはアテーナイという表記にこだわることがありますよね。現代の英語ではアーセンス(Athens)、フランス語ではアテヌ(Athènes)と、こちらは訛り程度の変形ですが「アテネ」はまたまた微妙。アテネ・フランセという語学学校の名はよく考えると何語なのか?と思ってしまいます。外国の地名を適切に表記するというのはなかなか大変なことだという、当たり前なのだがあまり共有されていない事実を確認した上で、これについてもアテネという日本語の慣用読みを採用することにしましょう。

   
 シンタグマ広場の噴水付近から議事堂を見る


さてシンタグマ広場にあらためて出てみると、中央に設置された噴水がライトアップされ、七色に変化する演出になっていてなかなかエモい。広場そのものは一辺が50mくらいの小さな正方形で、とくに何があるというわけではありませんが、交通の要衝であればそれ以上の何も要りませんね。広場の西に大きなマクドナルドがあり、その脇から商業的なメイン・ストリートであるエルムー通りΟδός Ερμού)がはじまります。すぐに下り勾配になります。上に掲げた概念図の範囲の大半は、左(西)に向かって一方的な下り勾配、それもけっこうな坂道だとお考えください。基点のシンタグマ広場にしてからが傾斜を有しています。

ホテルの周辺に目立ったのはブルガリやエルメスなどの高級ブランドでしたが、こちら目抜きのほうはH&MZARAのようなカジュアル・ブランドや、英国系の高級スーパー(百貨店に分類することもある)マークス&スペンサーといったありがちな看板ばかりです。この付近の写真を見せて「どこの都市でしょう」と問うてもおそらく正解は出てこないことでしょう。ギリシア文字の看板などほとんどなく、英語だらけだから。それは世界中の都市でも、新宿でも同じ。ここアテネの目抜きに古くささは少しもなく、ロンドンやパリよりも印象は現代的です。不思議だなあ。

 
アテネの目抜き通り、エルムー通り


左に折れる道をのぞくと教会の屋根が見えたので、そちらに行ってみました。ミトロポレオス大聖堂Καθεδρικός Ναός Ευαγγελισμού της Θεοτόκου 生神女福音大聖堂)のようです。思ったよりは小さな建物だけど、カテドラル=大聖堂というからには大主教座(カトリックの大司教座に相当)が置かれる、その都市の中心的な教会であるはず。ギリシアの宗教はもちろんギリシア正教です。このところバルト三国やフィンランド、ブルガリア、ルーマニアと正教とかかわりの深いところを歩いてきたので、ギリシアは本場やなあ、と一瞬思いかけますが違いますからね。正教は教会を国別に組織することになっていますが、そのトップにいるのはコンスタンディヌーポリ総主教Οικουμενικός Πατριάρχης Κωνσταντινουπόλεως / Ecumenical Patriarch of Constantinople)で、コンスタンティノープル、つまりはトルコ共和国のイスタンブールに拠ります。アテネがギリシアとかギリシア語世界、ギリシア文化の中心地であるというのは多分に虚構を含みます。長いことそれらの中心にあったのは、ビザンツ帝国時代のコンスタンティノポリス(ラテン語の呼び方)→オスマン帝国時代のイスタンブールでした。ギリシアなどという名の国家は19世紀にいたるまで歴史上一度も存在したことはなく、ビザンツ→オスマンという広域帝国の多様な文化の中に混じり込んだ存在であり、しかし両帝国においてもかなり主流をなしました。オスマン帝国の支配民族はトルコ人、主たる宗教はイスラーム、主流言語はトルコ語ですが、イスタンブールを含むバルカン半島側ではギリシア語がかなり広く用いられ、ギリシア正教がメイン宗教ですらあったのです。

このカテドラル付近が小さな広場になっています。そこから西につづくパンドロスウ通り(Πανδρόσου)にはフリー・マーケットで買い物をお楽しみくださいという横断幕が架けられていました。もう日が暮れてしまったのでフリマっぽさはないのですが、もう少し先のほうは浅草の仲見世とか鎌倉の小町通りのような土産物屋が並ぶ通りになっています。ごちゃごちゃした猥雑な感じがおもしろい。ギリシア・ヨーグルトの店などもあるけれど、スイーツにはあまり興味がありません。Tシャツ屋さんや靴屋さんの感じはアメ横っぽい。

 
 
ミトロポレオス大聖堂からさらに西へ ツーリスティックなエリア(と下り勾配)がつづく


いますぐ買うほどのものはないけれど、店先を眺めて歩くのは楽しい。このあたりもずっと下り坂です。大聖堂から300mほどでモナスティラキ広場Πλατεία Μοναστηρακίου)に出ました。メトロ13号線の交差するモナスティラキ駅が直下にあります。空港から乗ってきたのが3号線で、シンタグマの1つ先がモナスティラキ。つまり3号線はいま歩いてきたのとほぼ同じルートをたどって西に走ります。シンタグマを新宿とすればモナスティラキは新宿三丁目とでもいえるでしょうか。「中心の入口」に対する「中心の中心」。歩車分離がなされているため歩きやすいです。広場のさらに西側、南側などをひと回りしてみると、街灯が少なく店も多くが閉まっていてそちらは薄暗くなっていますが、あまり物騒な感じはありません。どこへ行ってもそれなりに歩行者があります。まだ18時前ですからね。そして「若者」の姿がやたらに多いのが興味深い。

 
モナスティラキ駅(右の写真)付近 アクロポリスの丘が当たり前のようにそびえている
中央のドームはツィスタラキス・モスク(イスラーム寺院)


先ほどから気になっていることがあります。パンドロスウ通りと直交する南北方向の小径を見通すと、その地点から急な上り勾配になっていて、その先に崖のように切り立ったステージがあって、見覚えのある遺蹟がライトアップされ、怪しく輝きます。モナスティラキ広場に立つとその全景が見えました。あれはアクロポリスの丘ἀκρόπολις)、そしてパルテノン神殿Παρθενών)にほかなりません。予習しないといってもおおまかな地図くらいは見ているのですが、地図だと立体感がないため、この距離感というのは現地に立って初めてわかりました。新宿三丁目の伊勢丹付近とか、渋谷のセンター街あたりに立って先を見ると、すぐ目の前に古代遺蹟がどーんとそびえていると思ってください。ちかっ!!!! というのが率直な感想です。もちろん、繁華街の真横に遺蹟を構築したのではなく、遺蹟の真横に都市を造ったのです。ギリシアの近現代史についてはなぜか以前から関心があり、20年くらい前からいろいろな本を読んでいたため、この現象の意味はよくわかります。ギリシアなどという国家は一度も存在しなかったと申しました。それなのに、フランス革命後のナショナリズムの高揚、そして高揚するナショナリズムの源流に共通の父祖たるギリシア文明をみた西欧諸国の連中が、オスマン帝国内で独立を画策していた(実は少数派だった)ギリシア系の活動家たちを焚きつけて独立に導いたのが近代のギリシア国家。

独立したギリシャ王国の初期のギリシャ人ナショナリストは、古代ギリシャ世界を崇拝し、それを自らのアイデンティティの源とした。彼らは、古代ギリシャ人の末裔としてのアイデンティティを強調したのである。古代と近代との結びつきは、王国の首都アテネの都市計画にも反映された。独立当時、アテネは、人口わずか一万二〇〇〇人の地方都市でしかなかった。一八三四年に、独立当初の首都ナフプリオンから遷都された理由は、ひとえにアテネが古代ギリシャの栄光をまとっていたからに他ならない。
(村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 独立戦争からユーロ危機まで』、中公新書、2012年、p.25

つまりは、かなり無理やりに構築したギリシア国家の正統性を古代文明に求め、西欧の人々が歴史の彼方に崇拝する「アテネ」を自分たちに引きつけて、わざわざ古代遺蹟の真横に首都を造ったというわけです。超一級の遺蹟と首都の繁華街が「隣接」しているのも、これほど著名な古い都市に旧市街が存在しない理由もそこに求められます。ただ、中東欧の帝国――ハプスブルク、ロシア、オスマン――に共通していたのは、民族や言語、宗教が地理的な区分を明確に伴っておらず、どこでもそれなりに混じり合っていたということ。つまりナショナリズムが高揚して国民国家をつくろうとしても、二次元的に切り分けるということがまず不可能だったということです。ですから1830年代にオスマンから「独立」したギリシア王国も、ギリシア系の人々やギリシア語話者たちのまとまりの上に構築されたわけではありません。

ギリシャ王国の人口は、オスマン帝国に住むギリシャ人の三分の一足らずに過ぎなかった。この事実からやがて数々の緊張が生じた。(略)キプロス島とクレタ島には、ギリシャ語を話す相当数のムスリム少数民族がいたが、エーゲ海の島々(一八三二年の時点で国土に含まれていた島はごく少数に過ぎなかった)に住んでいたのは、ほとんどすべてギリシャ人だった。さらに、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル、マルマラ海沿岸周辺、小アジア西部沿岸地域(スミルナを中心として)、カッパドキア、アナトリアの中心部にも多数のギリシャ人が住んでいた。これらの地域ではコンスタンティノープルを含めて、他の小アジア地域と同じように大半のギリシャ人がトルコ語を話していた。
(リチャード・クロッグ著、高久暁訳『ギリシャ近現代史』、新評論、1998年、pp.53-56


うーん、血統と言語と宗教が一致して国民とか民族になる、という発想がそもそも近代的で、西欧的なものなのだなあ。フランスを中心に西欧のそうした経緯を学んできて、日本人学生のシンプルすぎる感覚(島国だから均質、単一言語だから生きやすいetc.)をやっつけてきた私ですが、このところ視野を中東欧に広げてきて、フランス・西欧型はむしろ日本の感覚に近いのではないかとすら思うようになりました。2ヵ月前にはハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)の中心の一つブダペストを訪れ、主流民族の一つとされるハンガリーが言語的に孤立し、しかし周辺のスラヴォニアやスロヴァキアを帝国的に支配していた事情に思いをはせてみたところです。主と従、支配と被支配の構図がなかなか一発で理解できません。オスマン帝国になるとさらにややこしいかもしれません。昨夏訪れたブルガリアは帝国のど真ん中で、オスマン帝国関係の遺蹟ばかりなのに現在はキリスト教(正教)、スラヴ語(ブルガリア語)ばかり。他方、現在はトルコ共和国の領域に含まれるアナトリアには、古代ギリシア関係の遺蹟が多数あります。サンタクロースのモデルになった聖ニコラオス(Άγιος Νικόλαος 後34世紀)が「トルコにいた人だよ」と教わって、なまじ地理の知識のある小学生だったため、なぜなんだ?? と納得できなかったのを憶えています。

モナスティラキ広場から東に延びる道路の付近に、テラス席をたくさん並べた飲食店が展開しています。いくつかあるようですが、両側のかなりの部分はタナシスΘανάσης)という店らしい。西荻窪における戎(焼き鳥屋さん)みたいな感じでしょうか。ドア先に立っていたおやじさんと目が合ったので、何を食べられるのかと聞いたら「ケバブ」だといいます。初日の夕食にはうってつけなので、そのまま入店。生ビール(ラージ)を頼み、英語のメニューをあらためて見ると、店の名を冠したメイン商品らしきタナシス・ケバブ(Thanasis Kebap)が€8.80とあります。メイン・ディッシュで最安値なのが気になるけれど、一推しなのだからこちらが気を遣うこともないか。散文的な料理の説明によれば“4 juicy grilled kebabs with pita onions and roasted tomato”だと。

 


名物だからどんどん焼いているのでしょう、料理はすぐに運ばれました。ピタに巻かれているのを想像したら、巻き取るには大きすぎるケバブを4本、串刺しのまま載せて供されました。ケバブというのは中東系の肉料理で、日本でもこのごろ店や屋台が増えていますが大半はドネル・ケバブ(肉のかたまりを焼いて、焼けた外側から少しずつ削り取り、ピタやパンに包んだもの)。いま出されたのはシシ・ケバブという種類で、串に刺したひき肉を焼いたものですね。イスラーム圏では羊肉ですが、ギリシアやバルカン半島では豚肉が主。ギリシア系の人が多く住むフランスには本格的なギリシア料理の店だけでなく、サンドイッチ・グレッグと称するケバブの簡易食堂やテイクアウト店もたくさんあり、日本でこれほどメジャーになる前から私もパリでよく食べていました。安いからね(笑)。パリでもドネルが主流ですがシシもあります。ブルガリアの首都ソフィアでは、ブルガリア料理ですという触れ込みの皿を発注したら、シシ・ケバブが供されました。歴史的な経緯や文化的な文脈を考えれば、現在のトルコとギリシアとブルガリアのあいだにさほどの違いがないのは当然すぎることです。

これは予想以上にボリューミーで、肉だけで200gくらいはあったのではないかな。1串が20cmくらいはあります。トマトと生タマネギというのが絶妙の組み合わせ。ただ、とんがった感じが薄く、ソフィアのほうが強めの味でした。インパクトを好む人には物足りないかもしれません。塩分制限中の私にはありがたい。ビールも€3と安く、トータル€11.80でした。店内でそこまでの行程を確認した以外は地図を見ていません。「オスマン帝国時代のイスラーム的な、錯綜する曲がりくねった小道、モスク、公衆浴場、そしてビザンツ教会が、古代的ではない「よそもの」として取り壊され、直線的な碁盤目状の道路がつくられた。(略)視覚的にも、古代ギリシャ世界と新生ギリシャ国家のつながりが確認されていく」(前掲『物語 近現代ギリシャの歴史』、p.26)おかげで、直線的な道をたどれば宿まで帰れるわけね。国学と「からごころ」批判、神道の復権と廃仏毀釈など、うちの国も似た時期に似たようなことがあったといえるかもしれない。途中の小さなストアで晩酌用にワインとビールを購入したら計€14。水を買うのを忘れていたので別のキヨスクで購入したら1.5L€1でした。ワインはギリシア産の2010年もので、それにしては安く、全体に物価は安めでしょうか。

 

PART2につづく


*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=132円くらいでした。

<主な参考文献>
リチャード・ケロッグ著、高久暁訳『ギリシャ近現代史』、新評論、1998
桜井万里子編『ギリシア史』、山川出版社、2005
村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 独立戦争からユーロ危機まで』、中公新書、2012


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