首都の目抜き通りにしては小規模で、われわれの感覚ではローカル都市並みなのだけれど、でもシャッターが閉まっているなんてことはなくて大いににぎわっています。観光地区と違って生活のにおいがぷんぷんするのがいいですね。建物のあいだとか中を通り抜けていくパサージュや小径もいくつかあります。日用雑貨や下着、中高年向けっぽいカジュアルウェア、カバンや靴、缶詰めなどを売るバラックふうのお店が建ち並んでいて、大きな犬を連れたおばちゃんが店員に声をかけながら通り過ぎました。この雰囲気なら演歌のカセットテープも売っていそうな、昭和の下町みたいなゾーンです。といって若者がいないわけでもなく、表通りにはむしろ若い人のほうが多い。賃貸物件を掲出している不動産屋が何軒かあるのか見えました。スロヴァキア語だけでなく英語の表記もあるのがおもしろい。大学関係を中心に若い層の流動があるようです。
ブラチスラヴァには大学が6校あり、大学生の数は6万人を超えます。(略)ブラチスラヴァの立地の良さ、充実した基幹設備、住民の教育水準の高さは、外国の投資家の注目を集めており、スロヴァキア国内経済の急成長の一因でもあります。(『ブラチスラヴァ 絵入りガイド』、p.3)


新市街目抜きのオブコドナー通り(ファスト産業はやっぱりここにもあるんだね)
あとで述べますが、ブラチスラヴァは中世から初期近代にかけて、ハンガリー王国の文化的中心でした。そうした伝統と、ウィーン・プラハ・ブダペストといった大都市からの距離の近さもあいまって、いま高等教育をテコにしたルネサンス(再興)をめざそうとする動きがあるのでしょうね。歴史が交錯し、支配民族が入れ替わり、たびたび悲運に見舞われてきたという経緯は、裏返せばそれだけ多くの文化と接触してきたハイブリッドさの源になっているわけですから、学術の場としてこれほどふさわしいことはありません。スロヴァキア語に加えてドイツ語やハンガリー語(と英語?)を話せるバイリンガル、トリリンガル、マルチリンガルの人が多いというのも、教育や学術においては非常に有利な条件です。「外国は1つの国の中に複数の言語があって大変だ。気の毒だ」などと信じて疑わず、それを突き崩すような授業のあとのレビューにさえ、「日本人でよかったです」なんて書いてくる学生が少なくないんですよね。ある時期(国民国家が強固だった時期)まではそれがエンジンだったが、いま(グローバル化の時代)はそれがブレーキになっているということなのだけど、国内に閉じこもっていては気づくまいな。
教育・学術をテコにするというのは、うまくいけば、のちのちかなりの成果を見込める事業でもあります。欧州域内の移動が自由化されているため、留学というのも私たちの感覚よりハードルが低いと思うのですが、ともかく自分の母国から離れたところで学んだ人は、そのあと帰国したり別の国に移ったりしても、学んだ地への思いは強くもちつづけることでしょう。そのような「思い」の線を太くしていくことで、ビジネスチャンスが広がり、その地域への関心が深まっていきます。
にぎわうオブコドナー通り 正面にブラチスラヴァ城が見える
ときどき路地に入り込んだりしながら歩いていたら、いつの間にか正午を回っていました。この付近にも古めかしい郷土料理店みたいなものは見られますし、中華料理もあるし、もちろんマクドナルドもあります。歩道にもテラス席を張り出したトラットリア(イタリア料理店)をのぞいたら、若い地元客でにぎわっていたので、ここでランチにしよう。イタめしなんて中華と同じくらい世界中どこにでもあるのだけど、スロヴァキアの首都で食するというのが何だかネタみたいでいいじゃないですか。本日の日替わりメニュー4種が掲出されており、表はスロヴァキア語ながら裏には英語もあって親切。親切というより、この町で商売するときには英語はデフォルトになりかかっているということなのでしょう。2番の“Rissoto con
salsicia”をチョイス。何だかわからんけどリゾットなんでしょう(笑)。レモンの薄切りが入った飲用水のポットが各テーブルに置かれているし、お飲み物はと訊ねられなかったけれど、ここまで来た記念?に生ビールを1杯注文。ごく普通のピルスナーながら、初めての町で飲むビールはいつも美味いねえ。
イタめし食うべ!

最初にスープが運ばれました。バターでタマネギを炒めてから牛乳などでのばしたやつだな。子どものころ、パン食のときなんかに母がこういうのをつくってくれたことがあり、なつかしい味。リゾットはけっこう量があって、パルミジャーノがたっぷりかかっています。いうまでもなく濃厚な味つけ。刻まれた肉はパンチェッタかなと思ったのですが、salsiciaというのをいま調べたらsausageのことだそうで、ソーセージの一種ということか。お米はアルデンテ。デザートに、安物のクリスマスケーキみたいな味のケーキまで運ばれました。ケーキはともかくスープやリゾットは普通に美味く、欧州(パリ)に着いてから7日目なのだけど日常を取り戻したような気分にもなりました。これでお値段は€5.90、ビールは€1.10で、素敵な物価水準ですね!(同じユーロだからこそ他都市と比較できるわけです) 観光客がほいほいやってくるというわけでもなかろうに、複数の店員さんと何ら問題なく英語でコミュニケーションできましたし、客あしらいもスマートで、アウェイな気にならないのがよかったです。ごちそうさま。
オブコドナー通りから、大学構内のような遊歩道に入り、そのまま歩くと、複合商業ビルのようなものが見えました。西欧の各都市で見るようなものよりもふた回りくらい古いタイプの感じで、私が子どものころの東急沿線にはこの手のビルがけっこうありました。買いたくなるような物品はとくになく、地下のわかりにくいところにあった無料のお手洗いを借りて、おしまい。ビルの反対側に出てくると、そこは大統領官邸もある行政地区のようでした。ここはまたのちほど。

さあいよいよ、最大の見どころであるブラチスラヴァ城に行こう。大統領官邸の前の道路をそのまま道なりに進めばお城の登り口に到達することが地図でわかります。さきほど歩いた旧市街を外側で取り囲むような道を歩いていることになります。郊外の幹線道路のおもむきで、これ自体はとくにおもしろいものではありません。やがてお城の「すそ」が見えてきました。ブラチスラヴァに着く直前に船の窓から確認していたので、お城がかなり高いところにあることはわかっています。これまで経験したところでは、モナコの大公宮、チェコのプラハ城、リジュボーア(リスボン)のサオン・ジョルジェ城あたりが「急坂の上にあるお城」でした。いずれもてっぺんからの景色が最高で、それはすなわち軍事上きわめて重要な拠点であったということを意味します。2月のリジュボーアでは、急坂をトラムが駆け上がるというまさかの光景を目にしましたが、ここブラチスラヴァでは、タクシーをとるのでなければ自力で登るしかありません。

英語も付記された案内板 ミハエル門とお城の中間にいるわけですね
お城へ通じる急坂
私が歩いているのは、お城の北側(ドナウ川の反対側)の斜面。反時計回りにぐるっとすそを回って、メインゲートに向かう道です。その途中はいわば表参道みたいなもので、レストラン、カフェ、お土産屋さん、宿屋さんなどが(ぎっしりではなく)ぽつぽつありました。湿気がさほどないとはいえ、9月上旬の晴れの日ですから、急坂を登ればけっこう汗も出てきます。登りはじめてから15分くらいで頂上、というかお城の門にたどり着きました。いまはスロヴァキア国立博物館が管理しています。

ブラチスラヴァ城
ブラチスラヴァ城(Bratislavský hrad)は、四角い建物の四隅に尖塔がついていることから「ひっくり返したテーブル」ともいわれます(ある日本人は「ひっくり返した将棋盤」と表現していて、そちらのほうが当たっている気がする)。ドナウ川の川面からは85mの高さにあるそうで、攻略するのはなかなか大変そうですね。正門のところにあった由緒書きによれば、おそらく13世紀ころの建造と考えられています。もともとはスラヴ系の勢力が要塞を構築していたらしいのですが、10世紀にハンガリー人の勢力に敗れ、以降はハンガリーの拠点として発展しました。11世紀には神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が2度にわたって包囲したものの陥すことはできませんでした。1241年には天地を揺るがす大事件が発生します。ユーラシアのはるか東から長駆してきたバトゥ(チンギス・ハーンの孫)ひきいるモンゴル帝国軍がハンガリーを攻略し、国王ベーラ4世はイタリアに逃亡して、この地域の大半がモンゴルの支配下に入ったのです。ハンガリーの残存勢力は難攻不落のブラチスラヴァ城に入って抵抗をつづけました。執拗な攻撃に落城も時間の問題と思われましたが、モンゴル軍は翌春になって突如包囲を解き、ハンガリーを放棄してウクライナ方面に撤退しました。皇帝オゴタイ・ハーン急逝の報を受けての引き上げでした。モンゴル来襲にまつわるエピソードは東欧の各地に残されていますが、ブラチスラヴァは最後まで町を守り抜いた稀有な例となりました。私の実家がある福岡平野がモンゴル軍の襲来を受けて「神風」に救われる、約30年前の出来事でした。
ブラチスラヴァに最初の繁栄をもたらしたのは、神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王を兼ねたジギスムンド(在位1387〜1437年)のときのことです。ヤン・フス派の宗教改革の影響などで荒廃したハンガリー一帯にあって、都市の自治的特権を認め、商業促進政策を採ることでこの町の優位が定まったのです。イタリア・ルネサンスを移入して学術文化の面でも大いに発展しました。しかし前述したように、1526年、スレイマン1世治下の最盛期のオスマン帝国軍がハンガリーに侵攻し、国王ラヨシュ2世敗死という事態にいたりました。このときもハンガリー貴族たちはブラチスラヴァ城に入って抵抗しました。結果的に隣国オーストリアの世襲君主であったハプスブルク家をハンガリー王に担いだ経緯についても前に触れました。神聖ローマ皇帝はローマ教皇とかなり密接な地位ですので、イスラムのスルタン(しかもカリフの権威をも継承していた)に対抗するには、まあやむをえない選択だったのでしょう。1536年、この地はブダに代わってハンガリー王国の首都に選定されます。「スロヴァキア」という現代の国家の枠組をもとに考えるとややこしくなります。ハンガリーに吸収されたブラチスラヴァは、親分であるハンガリーがオーストリアと共同君主をいただくことになったため、ウィーンとの近さもあって、ハプスブルク朝にとって重要な「第二の都」になっていったということね。なお、ここまで便宜上ブラチスラヴァという現在の都市名をそのまま使ってきましたが、ドイツ語ではプレスブルクで、実は第一次大戦まで公式にはそちらの名が使用されていたのです。

ブラチスラヴァ城から(左)下流側(ブダペスト方面) (右)上流側(ウィーン方面)を展望する
ブラチスラヴァの第2の繁栄は、ハンガリー女王(兼オーストリア大公 兼ボヘミア国王 兼神聖ローマ皇帝皇后)であるかのマリア・テレジア(在位1740〜80年)によってもたらされました。どうやらマリテレさんはウィーンよりもこのブラチスラヴァで過ごすことを好んだようです。彼女がウィーンからここへやってくると、宮廷がそのままごそっと移動してくるわけですから、お城も急に華やかになったものと想像されます。当然ながらお金もじゃんじゃん落としてくれるわけで、結果的にブラチスラヴァとかハンガリー王国の発展に寄与していたといえそうです。しかし、あとを継いだ息子のヨーゼフ2世はハンガリー王国の首都をブダに戻しました(1783年)。さらに1809年にはナポレオン率いるフランス軍の猛攻を受け、町が占領される憂き目を見ます。その2年後には兵士たちの失火が原因で城は焼け落ちてしまいました(城の復元は第二次大戦後)。ハプスブルクの第二の都は、そのハプスブルク家の凋落と歩を合わせるように、近代という切ない時代の中で埋没していくことになるのです。
それにしても、スロヴァキアのネーション意識というのはどのように維持されたのか。どのようなアイデンティティに依拠するのか。領域なんてもとよりないし、言語的にも自立していない。一度もまともな独立国であった時期はなかったのです。ハイブリッド混成国家であったハプスブルク帝国は、ゆえに民族や言語の多様性とその共存を前提に国家原理を打ち立てなければなりませんでした。多様なものが共生するという、今日いわれるような理想国家ではありません。あくまで封建的な統制が基本です。帝国の法や支配構造がたくみに構築されていたにすぎません(明治期の日本で「国語」を構築した功労者、上田万年はオーストリア・ハンガリー帝国の言語政策の研究成果を下敷きにしました)。それでも、その後に訪れる「国民国家」チェコスロヴァキアの時代、さらにはソ連の傘下での社会主義共和国の時代よりは、はるかに寛容であったのではないか。チェコとの統合を経験したのちにナチスの画策による「独立」があって、さらにそのあと社会主義化という試練に見舞われました。真の意味では初めて「独立」を達成したいま、EUあるいはグローバリゼーションという大枠の中でどのようなアイデンティティを描こうとしているのでしょうか。

来たときとは反対側、お城の南斜面にとりついた道を歩いて下ることにします。こちらのほうが観光ルートとしてはメインらしく、細い石畳の坂道がくねくね曲がりながらつづいていくのがおもしろい。ところどころにくたびれた飲食店があるのは、プラハ城の界隈と似ていますね。当然ながら下りのほうが所要時間は短くなります。ものの10分もしないうちにふもとに降りてきました。次のターゲットはすぐ近くの聖マルティン大聖堂(Dóm sv. Marina)ですが、どこかでお茶していこうかね。大聖堂の南側を通り越せば、けさ通った旧市街のやや西側。歩行者専用道の両側には飲食店のテラス席が広がっていました。そのうちの1軒のテラスに座り、ビールといいかけて、白ワインを注文。例のガイドブックによれば、ジギスムンド時代からブラチスラヴァはワインの出荷地として繁栄したそうだから、すこし舐めておきませんとね(強引!)。きわめて個人的なことなのでどなたも興味をもたれないこととは思いますが、2013年になっていくつか大きな変化が身の上に起こりました。日々の晩酌のスタートが、サッポロ黒ラベルではなく甲類焼酎のレモン炭酸割りに変わりました。その次のメインドリンクは、それまで100%赤ワインだったのが、赤白半分ずつになりました。ついでのことに、やたらとお刺身を食べるようになりました。なぜだか自分でもよくわかりません。なぜでしょう。ともかく白ワインを頼むことが不自然でなくなりました。これは1杯€1.70。


一息ついて、あらためて聖マルティン大聖堂に行ってみました。旧市街の町並みに溶け込んでいて、尖塔がなければ目立たないかもしれません。手前で参拝するだけなら無料のようですが、内陣を拝観したいので€2.50を支払って中へ。思ったより小さな建物で、奥行きもさほどには感じられません。ただ非常に静寂で、祈りの場とは本来そうでなければならないなと思う。『ブラチスラヴァ 絵入りガイド』によれば(pp.19-23)、13世紀にお城から独立した際にロマネスク様式で建てられ、15世紀にゴシック様式で再建、18世紀にごてごてしたゴシックの装飾や調度品などが一層されてバロック式に改変されたとのこと。西洋建築史のストリームをなぞるような歩みを経てきたわけですね。カトリック寺院といえば、どこでも王権と結びつき、その正統性を支えるものとして機能してきました。ブラチスラヴァは、本来は商業都市として発展しましたが、前述のように16世紀以降はハンガリー王国の首都になって王権がこちらに移動しましたので、教会は都市のものであると同時に王権のものにもなります。ハンガリー王の戴冠式は、1563年から1830年まで計19回にわたってこの場所でおこなわれました。

(左)大聖堂の内部 (右)聖マルティンと物乞いの騎馬像(ドネル作、1733〜35年)
聖マルティンというのは4世紀ころの人で、パンノニア出身といいますからハンガリーとかこの辺の出だったのでしょう。ローマ帝国の兵士として北仏のアミアンに出張した折に、寒さにふるえる物乞いに出会い、着ていたマントを半分に裂いて与えました。その夜、心優しい兵士の夢に現れたのは、あの半身のマントをまとったイエス・キリストだった――という奇蹟をきっかけに聖職者の道を歩み、欧州で最初の聖人に列せられるほどの功績を残しました。フランス国家の守護聖人でもあります。聖堂の中には、そのエピソードを表現した彫刻が置かれていました。
クリスチャンではないので作法はよく心得ていません。教会を訪れる際には、建物の雰囲気に気持ちをなじませてから、魂の救済と世界の平和という抽象的なことを念じることにしています。ここはいい雰囲気だなと感心していつもの祈りに入ろうとしたら、通路をはさんだ場所に座っていた女性に声をかけられました。年齢は30代後半くらいに見えます。ひとりで座って前を見つめていたので、最初は熱心な信者さんかなと思っていたのだけど、「どちらからお見えですか」と英語でいうので、日本からですと答えたら、自分は名古屋大学の○○さん(誰?)と関係があります、日本からのお客さんなら案内してあげます、ほら、来てくださいと、起立を促します。これは途上国の有名観光地などに出現する押し売りガイドかなと思ったのだけど、さしあたり「会話」の延長だし、拝観料を払った寺院の内部にいるので、そこそこで切り上げればいいかな。ガイドらしきものがはじまると、まあしゃべるしゃべる。普通のトークになると英語がときどき不調になるので、要は決まった部分を暗誦するように話しているのでしょう。「ここから先は私がいるから特別に見られるんですよ。どうぞ、写真をお撮りください」みたいな怪しい話も出てきます。落ち着いて鑑賞するゆとりもないまま、カモーンと親指で招かれて次の見どころへ移るという感じで、内容はおもしろいもののそろそろ脱出しなければ。「残念ながらあまり時間がありません。もう十分です。ありがとう」といったら、最後に1つだけといってミニ宝物館のようなところへ連れて行き、また延々と講釈をはじめます。よし、奥の手を使おう。時間がないといっているのだ、自分の都合だけでこれ以上話さないでくれと、語気を強めたフランス語でいってみました。こいつは手に合わんなと思わせればいいわけなので。「わかりました。これで終わりにします。旧市街のほうはごらんになりましたか。旧市街にも見どころがたくさんあります。ご案内しますのでついてきてください」――どこまでもがんばる人だね(笑)。両手を前で横に振る西欧式の「拒絶」を示して、どうにか撃退に成功しました。そのままあのペースに巻き込まれていたら、どんな請求書がついてくるんでしょうね。それにしても、町を代表する観光スポットで、拝観料まで徴収しているのに、明らかに無法と思われる人物を泳がせているのは問題だと思う。何とかしてね。
自称ガイドの話でおもしろかったのは、彼女はチェコ人だったということ。スロヴァキア人の夫と結婚してこちらに移ってきたが、もともとチェコスロヴァキア人同士だったわけで、とくに国際結婚という感覚ではなかったらしい。「チェコとスロヴァキアの言語はほとんど同じです。全部通じます。スロヴァキアが好きです。でも私はチェコが好きです。プラハはすばらしい都市です」と、話の後半は趣旨がうっすらズレていきました。本当はこんな地方都市みたいなところじゃなく大都会の人なのよというプライドみたいなものが、潜在的にあったのかな?
|