Verss les capitales de Habsbourg…

PART5 古くて新しい、もう1つの都

 

 

ひきつづきすばらしい晴天に恵まれた96日、金曜日は、もう1つのハプスブルクの都、ブラチスラヴァBratislava)へのエクスカーションです。船便は予約しているものの、飛行機の場合以上に前座の作法がわからないので、すこし余裕をもって出かけることにしよう。朝8時過ぎに、到着した日に確認しておいたシュヴェーデンプラッツの船着場へ向かいました。ちょうど通勤時間帯のようで、Uバーンもトラムもかなり込んでいます。船着場といってしまうと、その昔の「○○の渡し」みたいな素朴なものを思い浮かべてしまいますが、要は日の出とか浅草・吾妻橋の水上バス乗り場と同じようなものだと思えばよい。地上部分(堤防の上)に上等なペントハウスみたいな「駅舎」があって、そこでチケットなどを扱い、時間が来れば川面の乗り場に向かうという方式のようです。これから乗ろうとしているのは、ウィーンとブラチスラヴァを1時間15分でむすぶツイン・シティ・ライナーTwin City Liner)という路線。ツイン・シティ(双子都市)という語の含意についてはのちほどお話しすることにしましょう。

この船に乗ってブラチスラヴァに行こうという発想は私のものではありません。ドイツ・オーストリア(最近は中欧各国も)の歴史教育・公民教育研究の第一人者である近藤孝弘先生(早稲田大学)とは、研究方面そっちのけで欧州のどこがいいなんていう話題でお話させていただくのですが、チェコ(プラハ)に行ってきましたよといったら、「チェコよりもスロヴァキアのほうがおもしろいですよ。ウィーンから船で行けばすぐだし」というご提案。冷戦世代の私のイメージでは、1993年までチェコスロヴァキアという1つの国だったわけだから両者は東西に直列つなぎになっていて、オーストリアより「上」という感覚でした。あらためて地図を見れば、チェコとスロヴァキアはみたいな位置関係になっているんですね。そのズレたところに、ウィーンのあるオーストリア東部がはまっているということです。中年の冷戦アタマでは、オーストリアは永世中立国ながら「西側のつづき」の感覚であり、他方のスロヴァキアは明確に「東側」で、鉄のカーテンを越えて日帰りで行くという発想はなかなか生まれません。私としたことが、反省。また、鉄道移動が専門で船便のことも想定していなかったなあ。ものの本を読むと予約が必要と書いてあり、当日券を買えるのかどうか不明だったため(たぶん買える)、8月下旬に運航会社のサイトで9時発の便を予約しました。ブラチスラヴァ線の他にもドナウ川クルーズなど観光路線をもっているらしく、観光ガイドを含めて英語での案内が充実していたものの、ブッキングのページはなぜかドイツ語オンリー。間違ってはいけないので、独和辞典でチェックしたあと、ブラウザの翻訳機能を使って乗り越えました。この稿を書きながらあらためてチェックすると、上記のツイン・シティ・ライナーそのもののサイトであれば英語でもブッキングできたみたい(汗)。指定席なら€35ですが自由席だと€30。ま、自由席でいいか。EチケットのようなしっかりとしたPDFファイルが添付されてきたので、印刷したものをカウンターに示すと、あらためて下のようなチケットが発券されました。


 ドナウ運河の船着場


乗り場はあちらですと指すほうへ進むと、もう改札がはじまっています。ところがチケットを改めた係のおじさんは「お客様は9時の便でございますね。いま改札しているのは830分の便でございます」と。そうか、朝イチのつもりでいたけどもう1本早いやつがあるわけね。ということは改札は出発20分前ということか。まだ30分ちかく余裕があるので、いったん地上?に戻って、電停そばにあったパン屋さんのイートインコーナーでカフェオレをとって小休止。

あらためて835分ころ乗り場に行くと、例の男性が、もう少々お待ちくださいと。ややあって、隅田川の水上バスを一回り大きくしたようなボディに乗船を許されました。幅広で、けっこう立派なシートが3-4-3列に配されています。最前面のヨコ3列ほどが指定席の模様。私は前方も望めそうな左側窓席に入りました。せっかく乗るのなら窓際がいいですよね。845分ころにはほぼ満席に。中高年というか、フルムーンふうの「高齢者」が大半で、そのようなキャンペーンでもやっているのか、団体客が入っているのかもしれません。船内アナウンスはドイツ語→スロヴァキア語→英語の順で、そのあとなぜか若いお嬢さんが登場して、スロヴァキア語で生声アナウンス。

 ドナウ川本流との合流地点

9時定刻に船は動きました。船や飛行機は左舷を接岸することになっているため、停泊しているときは上流側を向いていました。窮屈な運河ですがたくみな切り返しで方向転換すると、大都会の一隅に掘られた水路をじわじわと進みはじめます。周囲にビルなどが少なくなって郊外の雰囲気になった910分ころ、突然エンジン音が大きくなって、スピードを上げました。速度制限エリアを抜けたのかもしれません。ドナウ運河はドナウ川本流の1kmくらい西側に本流と並行して掘られた水路で、前後で本流と接続しています。つまりは市中心部に近いところの水運の便を図るべく、バイパスを造ったということですね。これのおかげで都心から直接、隣国の首都に向かうことができます。船はほどなく本流との合流地点にさしかかり、さらに速度を上げました。何となくドナウ川クルーズのイメージで、ゆるゆる走るのかと思っていたけど、1時間ちょっとでブラチスラヴァに行くならたしかにハイスピードは必須です。その様子をちょこっとだけどうぞ


 

実はドナウ川(ドイツ語:Donau、スロヴァキア語:Dunaj、英仏語:Danube)を見るのは初めて。全長約2900kmの長大河川で、ドイツ南部に水源があり、国でいえばオーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアと流れ下って黒海に注ぎ込みます。古代から内陸交通の大動脈であっただけでなく、ゲルマン民族などの「蛮族」からローマ帝国を防衛するためのフロントラインでもありました。日本最長の信濃川が367kmなのでだいたいそのスケールがわかるでしょうか。欧州の河川はどことも水量たっぷり、川幅いっぱいに流れています。総合的な学習の時間のネタに困ったら河川ものをやりましょうと本に書いたこともあるのですが、ドナウ川だったら学習がいくらでも広がりそうですねえ。

  いろいろな船舶が走る
 この付近はオーストリア(右)・スロヴァキア(左)の国境 前方にブラチスラヴァ城が見えてきた


私にとっての最初のイメージは、ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」でした。ウィンナー・ワルツの傑作ですね。その川がさまざまな歴史や物語の舞台になってきたことも知っていました。ただ、冷戦の時代には、これはほとんど「東側の川」でした。西欧を流れるライン川と違って、霧の向こう側を流れる川であり、かなりの偏見込みで開発が進まず中世さながらの田園を貫流しているのではないかと思っていました。実際にはそんなことはありません。社会主義圏の各国はむしろ強引なまでの工業化を推し進め、それはだいたいにおいてドナウ流域が中心でした(古代の防衛拠点が近代国家の首都へと成長したケースが多く、どの国でも流域が産業の心臓部にあたったため)。

とはいえ、いまツイン・シティ・ライナーが走っているオーストリア最東部は田園ないし森林です。河岸にときどき住居らしきものや、お城?が見えたりするのだけど、本当に何もないところに広い川だけがあるという感じです。時間帯の関係もあるでしょうけど、ライン川に比べると航行する船舶もあまり多くありません。河川は右側通航です。私たちの船も右側、というよりかなり右岸に近いところを進んでいます。約1時間ほどで両岸の森林がいっそう濃くなってきたなと思ったら、ドナウ川は左に大きくカーブしました。このあたりからオーストリア・スロヴァキアの国境であるというアナウンスが入りました。川面の中間付近にブイが浮かべられており、それが両国の国境ということらしい。やがて船はその「国境」を越えてスロヴァキア側に入りました。欧州を旅行していると、そのうち国境を越えること自体にはさほどの感慨を覚えなくなります。でも考えてみれば、別の「国」に日帰りで行こうとしているわけだし、それが旧社会主義国だというわけだから、地図大好き少年だった子どものころには考えもしなかったことをしているわけですね〜。

  オソブニー桟橋

左岸に、この首都のランドマーク、ブラチスラヴァ城が見えると、船旅はまもなく終わりです。ほぼ定刻に、ブラチスラヴァのオソブニー桟橋(Osobný pristav)に着岸しました。本当に、急に「町」が開けた感じです。さてブラチスラヴァについては、日本のガイドブックなどにはあまり情報がありません。チェコのプラハは大人気だけどスロヴァキアに行きたいという人の話はほとんど聞きませんものね。多くの日本人の視野に、残念ながら今のところこの国や首都のことは入っていないようです。「地球の歩き方」には、『ウィーンとオーストリア』というのとは別に『チェコ ポーランド スロヴァキア』という本があります。国が2つに分かれたら優先順位も下がってしまうのね。前述のように、チェコよりもオーストリアと「地続き」で足を向けやすいし、どちらかといえばハンガリーのブダペストあたりをセットにすれば周遊コースとして余裕で成立しそうなのだけど、そのようにもなっていません。入れるところがなかったのでチェコの本に組み込んだのかな。こうなったら本場?の欧州でガイドブックを買おうと、数日前、パリの大型書店フナックで探してみました。ところがここでもチェコとセットになっているようなものばかり。ブラチスラヴァ単体のものはなく、スロヴァキア1国を取り上げたガイドを1つだけ見つけて、購入しました。Petit Futéというメジャーなシリーズの1冊。なぜかブラチスラヴァの記述はそれほど多くなくて、カントリーサイドに力点が置かれています。この国を旅しようというフランス人は、中欧ののどかな田園に行きたいのかもしれません。前書きにはこうありました。

ようこそスロヴァキアへ! スロヴェニア? チェコスロヴァキア? ノン、ノン。スロヴァキアですよ。この小さな国の名は本当に混同されやすい。この新しい国は、独立国としての誇りを日に日に強めてきました。この国は、ハンガリーの軍事的支配下にあり、のちにはソヴィエトのくびきのもと、チェコとの対等ではないパートナー関係の中で約40年を過ごしました。混乱と悲痛の中欧史は、豊かな人々と悲劇的な人々の混成を生んできました。スロヴァキア人たちはその中にあって、タトラ山脈とダニューブ川に厳格に区切られた自分たちの国土に生きるスロヴァキア人としての意識を守りつづけました。1993年、いわゆる「ビロード離婚」を経て、チェコと分離し、ついにスロヴァキアとしての歴史を歩みはじめたのです。
Slovaquie, PEFC, 2012, p.1

今でこそスロヴェニア(かつてユーゴスラヴィアの構成国だった)と混同する人もいるようですが、われわれより上の世代にとってはやはりチェコスロヴァキアという国名が頭に染みついていて、その片割れという感覚です。チェコスロヴァキアだった当時も、その国を短縮して「チェコ」と呼んでいましたので、これが連立国名であることをそもそも知らない人も多かったのではないでしょうか。東欧諸国は1989年に相次いで民主化され、ソ連のくびきから解放されて、自由への道を歩みはじめました。しかしチェコスロヴァキアでは、「結婚」が対等でないと思っていたスロヴァキアの側が、それまで抑え込んできた感情(ナショナリズム)を爆発させ、ただちに独立への動きをはじめるのです。かくして1993年、チェコ(正しくはチェック共和国)とスロヴァキアの分離が合意されました。1989年の民主化が、大規模な流血を見ずに達成されたことでビロード革命と呼ばれたのに対して、この分離もまずは平和裏に進んだということで「ビロード離婚」と呼ばれます。

 桟橋付近
 フヴィエズドスラヴォヴォ広場


何をするか具体的な予定はなく、例によってぶらぶら町歩きすればいいかなと思っています。前述の仏文ガイドブックの地図を見ると、ブラチスラヴァの市街地はさほど広くありません。半日あれば余裕で舞われてしまうことでしょう。オソブニー桟橋からドナウ川の左岸に上がると、どうやら市街地の一隅のようです。これならツイン・シティ・ライナーが「都心(City Center)から都心へ」とうたっていたのも誇大広告ではないですね。帰路は鉄道にするつもりですが、中央駅は中心部から1kmくらい北に離れていて、船のほうが便利といえるかもしれません。

船から降りた人たちが何となく同じ方向へぞろぞろ歩いていきます。国立ギャラリーなどの文化施設が川沿いにあります。その向こう側に、フヴィエズドスラヴォヴォ広場(Hviezdoslavovo nám)という細長の公園がありました。ガイドツアーの集合場所になっているらしく、何組かがガイドさんの説明を聞いています。ウィーンからわずか1時間ちょっとですが、固有名詞がスラヴ語系統に変わって、原語のつづりもカタカナ転写も非常に難しくなりました。見た目の印象でいえば、チェコ語よりも文字に付するアクセント記号は少ない模様。午前11時前ですが、観光客相手のレストランやお土産屋さんは早くも営業していて、呼び込みに励んでいます。

 旧市街
  フラヴネー広場


旧市庁舎(Stará radnica)に面したフラヴネー広場Hlavné nám)に出ました。さしあたりここが旧市街のセンターらしい。お寿司屋さんがあるのがおもしろいね。一国の首都とはいえ、規模でいえばドイツやフランスの地方都市としてもBランク程度ですから、ゆったり、のんびりが感じられます。もう1つ、直感的に思ったのは、やけに観光色が強いなということ。船を降りてここまで来る数百メートルのあいだにあったのは、日光とか鎌倉みたいに町そのものが観光地ですよということを示すようなお店ばかりでした。たしかに観光客ふうの人がたくさんあるいています。スラヴ系の言語は聴き分けられないけれど、英語やフランス語やドイツ語を話しているグループがけっこう目立ちます。よく見ると、レストランやお土産屋さんの店頭には、どことも英語を掲出してある。ツイン・シティ・ライナーの乗り場でも感じたことだけど、明らかに私のような「ウィーンからの日帰り客」を呼び込もうという町を挙げての取り組みをしているわけですね。言語がネックになってはいけないから、英語でのコミュニケーションを心がけているのでしょう。

フラヴネー広場の北側に、ミハルスカー通り(Michalska)があります。石畳の道の両側に古びた建物。レストランやお土産屋さんやギャラリー。ありがちな観光地に紛れ込んでしまったなという気がしなくはありません。まだ昼食には早いながら、掲出されているメニューを見ると、どこともグラーシュ(Goulash)やハルシュキ(halšky)などを中心に、あとはシュニッツェルなども見えます。グラーシュというのはわれわれがいうところのビーフシチューみたいなもので、元はハンガリー料理らしく、昨冬のプラハでいただきました。ハルシュキはニョッキみたいな団子にチーズをかけたこのあたりの郷土料理。あまり気が進まないので、実際のランチどきになったら考えよう。ハンガリー料理が普及しているのも当然で、ハンガリーはスロヴァキアの真南(ドナウ川の対岸)に位置します。ブダペストまではここから150kmくらい。近いだけでなく、先のガイドブックの序文にあったように、スロヴァキアは長くハンガリーの支配下にありました。独立した民族国家になったのは1993年が最初なのです。

 
 ミハルスカー通りとミハエル門


日本の高校などで教えられている「世界史」では、どうしても西欧中心になりがちで中東欧の記述が薄いため(そのことを批判する人も多いですが、社会科教育の意味からして無理なきことと私は考えています)、ハンガリーといっても歴史的な位置づけがよくわかりません。ハンガリー王国は中世後期にはじまり、ドナウ川流域を統べる大きな王国でしたが、1526年、バルカン半島を制圧したオスマン帝国のスレイマン1世との戦いに敗れて、国王ラヨシュ2世が戦死しました。オスマンの傀儡がいったんは立てられますが、ハンガリーの支配層はこの急場をラヨシュ2世の義兄(王妃の兄)であったオーストリア大公フェルディナントを推戴してしのごうとしました。フェルディナントは、ルターの宗教改革への抑圧で知られる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてカルロス1世 フランス語読みのシャルル・カンでも知られる)の実弟で、のちに兄から皇帝位を継承しました。このとき以来、ハプスブルク家の当主が神聖ローマ皇帝、オーストリア大公、ハンガリー国王、ボヘミア国王を兼ねるという体制になり、スロヴァキアはハンガリーともどもハプスブルク家の領地に編入されます。とはいえ、王様は同じでも国は別ですので、「ハンガリーがスロヴァキアを支配している」という情勢は変わりません。いまのチェコ共和国にあたるボヘミア王国はオーストリア系の領域ですので、同じハプスブルクとはいっても、チェコとスロヴァキアでは異なる勢力圏に長く属していたことになりますね。第一世界大戦の敗戦でハプスブルク帝国が解体されると、初めてチェコスロヴァキアという国家が形成され、国民統合が図られますが、そうした経緯によりスロヴァキア側の不満が当初から強くありました。この民族意識はやがてヒトラーに利用されることになります。ナチス・ドイツはボヘミア地域のうちドイツ人の多いズデーデンの併合を画策し、英仏の宥和政策を呼び込んでこれを成功させます。その流れで1939年にスロヴァキアはチェコから切り離され、ドイツの同盟国として「独立」することになりました。しかし、この事実が戦後はあだになってしまいました。ナチスと結んで国家を分断した責任を問われるかたちで再びチェコとの統合を強いられ、ビロード離婚までチェコスロヴァキアという国の一部でありつづけるのです。世界史の教科書で、ナチスによるチェコスロヴァキアの「解体」という部分を初めて読んだ際には、「1つの国を解体するなんてナチスはひどい」と思ったのだけれど、「1つの国」というのの実態に目を向けていなかったのですね(ナチスがひどくないというわけでは、もちろんない)。

スロヴァキアは2004年に欧州連合(EU)加盟国となり、2009年にはユーロを導入しました。チェコもEU加盟国ですがいまもユーロを導入していません。経済規模ではチェコよりはるかに小さな国ですが、欧州という大義に乗ることで独立国としてのアイデンティティを保とうとしているかのようです。そういえば、ギリシア危機に際しては、自分たちよりも大きな国が勝手にインチキをして財政破綻した尻拭いをなぜさせられるのかと、スロヴァキアの人たちが怒ったという話が伝わってきました。それでも、進んでEUの一員であろうとする姿勢には変わりありません。これが「小国」の生きる道でもあります。EU参入、ユーロ導入のおかげで私などもふらっとここへやってこられたわけです。ウィーンとの距離の近さと、それにもかかわらずここが「旧東側の小国の古都」であるというギャップが、ここを観光地として盛り上げようという方針の前提になったことは間違いありません。

ミハルスカー通りは登り坂になっていて、その途中に町を見張る鐘楼を兼ねたミハエル門Michalská brána)がありました。中世の都市は城壁に囲まれていて、外界との境目にこのような「門」が置かれるのが普通でした。その名残。なるほど、ミハエル門を出てみると、幅広の道路に自動車がびゅんびゅん行きかっているし、もう石畳はなく普通のアスファルト。かつての市域(旧市街)を観光地区にしてしまって実際の都市機能は外側の新市街でということなんでしょうね。

 
ミハエル門(写真左奥)を背に、新市街のオブコドナー通りへ


こちらのほうに関しては仏文のガイドブックにも「地球の歩き方」にもほとんど記事がありません。新市街に行ってもおもしろくないでしょということかもしれないけど、案外そんなこともないよ。ミハエル門を出たところに変形五叉路があり、あまり広くないオブコドナー通りへとトラムの車両が入り込んでいきます。どうやらこの通りが目抜きみたいだぞと踏んで、足を向けました。3階建て以上の建物がほとんどないので、北関東あたりの小都市を歩いているみたいな気分になります。さっそく大きな書店があったので入ってみました。知識人?ではあるのですが、言語を理解できなければ本屋さんを訪れる意味は半減してしまいます。ただ、この首都の書店に置かれている本は何語で書かれているのかという1点に関心がありました。むろんスロヴァキア語が中心ではありましょう。でも、20年前までチェコ語を国語とするチェコスロヴァキアだったわけですし(チェコ語とスロヴァキア語は字面やスペルなどに相違があるものの会話ではほとんど互換性があるといわれます)、ドイツ語やハンガリー語のエリアにもきわめて近い。社会主義時代にはきっとロシア語も学習されていたはずです。予想以上にすっきりして整った店内には、スロヴァキア語を中心に、ドイツ語や英語の書籍もけっこう置かれていました。ハンガリー語というのはぱっと見てわからないのだけど、あったかもしれません(ハンガリー語は印欧語族でなくアジア系の言語で、日本語の遠い親戚にあたります)。ふと見ると、レジのそばにブラチスラヴァ観光コーナーみたいなのがあり、主要各言語版の公式ガイドブックが並べられていました。英語、ドイツ語、フランス語・・・、あ、日本語版もある!

これはすばらしい。『ブラチスラヴァ 絵入りガイド』を€6.70で購入しました。オールカラー全52ページのこの本は、この首都の歴史、文化、見どころなどを豊富な写真とともに伝えています。当事者の書いたガイドブックは愛郷心ばかりが突出して見どころがブレてしまうこともあるけれど、そんなこともなくて、何より日本語の記述がしっかりしているのがすばらしい。オリジナルの翻訳のようですけれど、日本語のできる現地人ではなく日本の方が訳されているようで、それだけ読んでも完結した読み物になっているのです。海外で見かける日本語表記って、たいていは直訳ふうのぐずぐずのものが多いですからね。私は、これまでの、そしてこれ以降のところで、ブラチスラヴァの歴史や現状についていろいろ語るわけですけれど、この本を読んで学んだところにかなり負っていることを明記しておきます。

 

PART 6へつづく

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。