9月5日は終日のウィーン市内めぐりを予定しています。1ヵ所に3泊4日といえばかなり余裕のある日程のように思えますが、初日の空港到着が15時10分、帰国便が13時30分ですので実質的には真ん中の2日間を有効に使うしかありません。でも、そこはいつもの古賀流で、これぞという名所・スポットを詰め込むのは避けて、できれば町の日常に近いところの雰囲気を味わってみたい。6日はブラチスラヴァに行くことにしているので、ウィーンの「本体」はきょう1日ということですね。
ホテル・ヴィエナの朝食
まずは朝食。7時半ころ降りていくと、レセプション横にわりと広めの朝食サロンがあり、先客が数組いました。グーテン・モーゲン(英語の“Morning”と同じように“Morgen”だけ口にすることが多いですね)。内容は、まあどこでも似たようなものか。ここ最近のホテル朝食では、昨冬のベルリンとプラハ、今春のリジュボーア(リスボン)がよかったなあ。ホテルのサイトには「皇帝みたいな朝食」(Breakfast like an Emperor)と書いてありますが、この手の誇大広告は端から真に受けてはいけません。ていうか、ハプスブルク家の皇帝と同じような朝食を出されても困ります。
72時間有効のチケットをもっているので、トラムやバスを含めて市内交通は万全です。もとよりリンク内部だけであれば、昨日試したようにさほどの広さでもないため、徒歩でもかなりカバーできそうです。きょうはプラーターシュテルン駅前からトラムに乗って市内をめざそう。
プラーターシュテルン駅付近 広めの道路とオフィスビル
ホテルのあるプラーターシュテルン付近は「郊外」と呼ぶには都心に近すぎますけど、景観は郊外そのものです。自動車の通行量はけっこう多い。道幅が広いのですが、そのうち歩道部分をずいぶん広く取ってあるのがすばらしく、そこにカフェなどの仮設席が設けられています。昨夜、都心から戻ってくる時間には暗くなっていましたが、そのあたりがさながらビアガーデンのようになっていて、老若男女がビールを片手にわいわいと愉しんでいました。
朝のプラーターシュテルン駅前からトラム0系統に乗車
Sバーンの駅前にはトラムの電停があります。いくつかの系統が乗り入れているようで、ループ線をまわって屋根のある駅前の車寄せ的なスペースに入り込んでくるように設計されているのがエライ。トラムの長所といえば、環境にやさしいことの他に、階段の上り下りが少なく駅間も短くて高齢社会にもやさしいことにあります。文字どおりの「駅前」に入ってくるなら乗り換えも非常に便利になります。駅前とは名ばかりでえらく遠い電停やバス停まで歩かされるターミナルって少なくないですもんね(池袋とか)。
乗り込んだのは0(ゼロ)系統。まずはミッテ駅まで乗ってみます。欧州ではおなじみの3両連接車で、車内にも自動券売機があります。トラムはいつ乗ってもいいですよね。昨年来、ドイツのベルリン、チェコのプラハ、フランスのル・アーヴル、ポルトガルのリジュボーアでお世話になっています。ウィーンのトラムは、リンクを周回する路線を軸に、そこから郊外へけっこう路線網が充実していて、通勤の足として機能している模様。都心を少し外れたゆとりある道路を走り出す雰囲気とか、これから市街地に突っ込んでいくあたりが、何となく広島電鉄を思い出させます。電車はまもなくドナウ運河を鉄橋で越えて、都心のオフィス街の狭い道路に入り込みました。マルクス広場(Marxergasse)電停で下車。ミッテ駅の乗り換えは次なのだけど、目の前にミッテ駅の巨大な駅ビル(の裏口)が見えています。Wien Mitte The Mallと独英ちゃんぽんの表示があり、駅ビルはショッピングモールを兼ねているらしい。観察したかぎりでは最近になってできたビルだと予想します。十分に清潔感と品があります。モールの途中にシティ・エアポート・トレイン(CAT)のチケット売り場兼乗り場がありました。前述したように、私は空港からSバーンのありがちな通勤車両に乗っかってプラーターシュテルンに直行しましたが、「よそゆき」派なら3倍ちかい料金を払ってCATに乗るんでしょうね。ロンドン・ヒースロー空港でいうところのアンダーグラウンド1号線(普通の地下鉄)とヒースロー・エクスプレス(高価な専用特急)の関係みたいなものか。私も東京側では付加料金を支払ってスカイライナーを利用するので、CATに含むところはありません。ミッテ駅はこの首都の実質的なターミナル駅なので、パディントン駅から都心まで地下鉄に乗り換えるなら結局同じじゃんというヒースロー・エクスプレスよりは使い勝手がいいように思います。ここで切符を買えば同時にチェックインしてトランクなどの機内預け入れ荷物をもたずに空港に行けるというメリットもあります。箱崎のTCATみたいなものですね(ただ箱崎もそうなんですけど、同時テロ以降は北米便へのチェックアウトができなくなったため、このしくみもかなりトーンダウンしました)。
ミッテ駅のショッピングモールとCATの窓口
駅ビルを通り抜けて反対側(南側)の、正面玄関のほうに出てきました。Sバーンはこの付近で地下化されていて、線路は見えません。駅ビルの向かい側にはおなじみのホテル・ヒルトンがありました。いま見たら€170くらいからあるのでいうほど高級ではないけれど、場所からしても上級ビジネスマンあたりが使うのかな。0階に普通のケバブ屋さんのスタンドがあるのが妙にアンバランスでおもしろい。駅前ですので、手軽なファストフードを用意しているということなのでしょう。
駅のすぐ西側がウィーン川(Wien Fluß)。川とはいうものの実質的に「お堀」のようなもので澱んでいます。この川を渡ったところがウィーン市立公園(Stadtpark)。町のど真ん中、ビジネス街に面して造られた英国式庭園ですので、まあ日比谷公園みたいなものでしょうか。平日の午前9時台なので人はまばら。でも晩夏ないし初秋の晴天に恵まれて、しかもさほどに暑くはなく、格好の散策日和ではあります。地元の人らしき人は大半が高齢者で、ベンチに座ってぼーっとしています。かと思えば、スーツ姿のビジネスマンふうの人がスマホを手にさくさく歩いています。こちらは公園をショートカット路に使っているのでしょう。日本人を含めて観光客とおぼしき人たちも何組か見かけました。お、フランツ・シューベルト先生の像があるぞ。シューベルトといえば「歌曲の王」だから「魔王」あたりを取り上げるべきでしょうけど、脳内に流れてくるメロディは
♪ね〜むれ〜、ね〜むれ〜 というやつ(シューベルトの子守唄)で、どんより眠たくなってきそう(笑)。幼稚園児だったころ毎日聴かされていたような。公園の真ん中には、バイオリンを弾く「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス2世の像が置かれていて、こちらは別格の扱いです。観光客がかわるがわる記念写真を撮っています。そういえば、音楽史にけっこう興味があった子どものころに読んだ本には、「父のヨハン・シュトラウス1世は<ワルツの父>と呼ばれます。代表曲は<ラデツキー行進曲>」とか何とか書いてあり、「父」なのにワルツじゃないんだと突っ込んだ記憶があるな。息子の像のついでに思い出して悪いけど、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートで上演されるラデツキー行進曲はいいよねえ。指揮者のタクトに合わせて観客が手拍子をするやつ、一度やってみたーい。
市立公園とシューベルト像
ヨハン・シュトラウス2世像
市立公園があるのはリンクの東側の外辺。この付近のリンクにはパークリンク(Parkring)、シューベルトリンク(Schubertring)という固有名詞が付されています。リンクは英語のリングなので「輪っか」という意味。前述のように市街地の外周道路で、両側にグリーンベルトを配した美しいルートです。パークリンクの付近はビジネス街らしく、歩行者はあまり見られませんでした。公演に面したヴァイブルクガッセ(Weiburggasse)電停でトラムをつかまえ、時計回りに乗ってみました。前日下車したオーパーを通り過ぎ、ブルクリンク(Burgring)で下車。王宮前庭の入口にあたります。さあ、王宮を見学しましょう。
(左)リンクを行くトラム (右)モーツァルト像とお花のト音記号
とはいえ、前日も少し歩いてわかったように、王宮の敷地はやたらに広く、エントランスまでかなり歩きます。まずは新王宮(Neue Burg)の東側にあるブルク公園(Burggarten)に入り込み、横(縦?)に長い王宮の建物をぐるりと回り込んで、ミヒャエル広場まで歩きます。ブルク公園には神童モーツアルトの像が置かれていました。どこへ行っても音楽の都だなここは。
さすがに市内随一の観光スポットだけあって、王宮周辺にはツーリストがあふれていて、歩道からこぼれ落ちて車道をも歩いています。そこを観光馬車がゆったりと走ったりするものだから、なかなかに混乱しております。お馬さんが束になっているわけなので独特の臭気も漂いますな。ありがちなお土産屋さん、各種コンサートや音楽イベントのポスター、小旗に先導された団体さんと、これぞ一級観光地という景観がつづきます。いい季節なのに日本人観光客をあまり見かけないのはなぜなんでしょうね。
ヨーゼフ2世像
王宮前
町なかの宮殿ということもあって、広々としたエントランスに車寄せという感じはなく、入口はどことも窮屈です。すぐチケット売り場に通り、€11.50の入館料を払ってチケットを購入。郊外のシェーンブルン宮殿とセットの券(シシィ・チケット)なら€25.50なのだけど、あちらは外観だけ見てスルーするつもりでいます。というのは、王様の宮殿というからには庶民の日常とは無縁のコテコテした寝室、豪華なシャンデリアに照らされたダイニング、それぞれが特級品という調度品、あとは食器とか衣服なんかを展示しているに違いなく、これは何々に由来しますとオーディオガイドで聞かされたところですぐに腹いっぱいになることはわかっているからです(ヴェルサイユなんかそうですね)。ここで見てしまえば、たぶんもういいや。さて、この王宮内は写真撮影禁止でしたので、内部の様子は文字でご報告するしかありませんけど、おおむね事前の予想どおりでした(笑)。お皿、カップ、フォークなどの食器コレクションが充実しているのはすごいな〜と思いましたけどね。VOC(オランダ東インド会社)マークの入った伊万里焼の大皿なんかがどーんと飾られていました。
宮殿の本体にあたる部分にはシシィ博物館(Sisimuseum)の名がつけられています。シシィというのは激動の時代を生きた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベト(Elisabeth von Österreich-Ungarn 1837〜98年)の愛称。この人に関する物語や評伝はたくさん出ており、宝塚歌劇の演目にもなるなど、「ハプスブルク家のヒロイン」としてきわめて有名ではあります。歴史的にどうなんだろうというのは別の話でしょう。もともとはバイエルンの中級貴族の娘でしたが、見初められて宮殿に上がり、フランツ・ヨーゼフの妃になります。まあ一言でいえば贅沢三昧、放縦でわがままなセレブということですかね。自己主張が強く贅沢だということは、よくいえば個性的で美について探求的で、かつ宮廷文化を洗練させた人ということになり、後世の観光客にとってはこの上ないヒロインということになりそうです。実際には、彼女が生きた19世紀の名門ハプスブルク家は崩壊への途上にありました。前世紀にマリア・テレジアが末娘マリ・アントワネットをフランスに嫁がせたことは冒頭で述べましたが、この「外交革命」の成果もフランス革命で途絶します。マリは断頭台の露と消え、オーストリアはフランスとの戦争に突入。その後、ナポレオンがフランス軍の最前線に立つと形勢は圧倒的に不利となり、守勢を余儀なくされました。オーストリア帝国は多様な民族・言語を抱き込んだ国家だったので、欧州の歴史がフランス革命によって国民国家(Nationalstat)という新章に突入したことは迷惑以外の何ものでもありませんでした。以降は、国内の矛盾や葛藤を抑え込みながら、帝国と皇帝一族の生き残りを図ります。
(左)フォルクス庭園 (右)マリア・テレジア像
そもそもオーストリア帝国なる国家はなし崩し的に成立したといってよい存在です。国家主権という近代秩序を生み出したウェストファリア条約(1648年)ののち、古代の権威に由来する普遍帝国、神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich)は実質的にその意義と機能を失い、新たな「皇帝」となったナポレオンによってドイツ西部が離脱したことを受けて公式に消滅しました(1806年)。旧帝国内の主権は帝国ではなく領邦にあったので、17世紀以降の実態としては数十の独立国家が並存していたようなものです。ただ、このうち皇帝を世襲していたハプスブルク家の所領は1つの主権国家を形成しました。幕藩体制の江戸時代にあって徳川将軍の直轄領(天領)だけが国家化したようなものだと考えればわかりやすいでしょうか。これがオーストリア帝国と呼ばれるものになりました。もう1つの普遍帝国であったオスマン帝国と争って東欧に領土を広げ、18世紀にはロシア、プロイセンとともにポーランド王国を分割解体してその一部を加えましたので、かなり広域化していました。神聖ローマ帝国は実質的になくなっていたものの、東にシフトしたようなかたちでオーストリア帝国は大きくなっていたのです。
ナポレオンの失脚(1815年)後、オーストリアの首相メッテルニヒがウィーン体制を主導して、帝国の保全を最優先した欧州秩序を確立しようとしたことはよく知られています。メッテルニヒの政治・外交の腕はかなりのもので、ウィーン体制はおおむね1830年代まで継続されましたが、フランス七月革命(1830年)、同二月革命(1848年)などを受けてもはや限界を呈することとなり、ついにはオーストリアでも革命が起きて(1848年3月)メッテルニヒは長期政権の座から追われました。受験生にとって「世界史」がややこしくなり意味不明になるのはこのあたりですかね。歴史が1本の線ではなく複数の文脈が混線するように語られますので。それがおもしろいんだけどなあ。エリーザベトの夫であるフランツ・ヨーゼフが即位したのは1848年12月。つまり斜陽化を余儀なくされた帝国の君主として登極したのでした。欧州の伝統的権威と秩序を守ろうとしたウィーン体制が瓦解したのは、本質的には産業革命の進展に伴って、人々の生活や意識、社会構造が大きく変わったことに起因します。私たちがよく知る「いま」の世界にぐんと近づいた時期だったわけで、そんなときに衣食住において贅沢三昧であれば民衆の心は離反するに違いありません。シシィことエリーザベト皇后は1898年に凶刃に襲われて落命しました。フランツ・ヨーゼフ2世は60年以上皇帝の座にあり、1914年には後継者フランツ・フェルディナントがサラエヴォで暗殺されたのを機にセルビアに宣戦、その背後にいたロシア帝国とロシアの盟邦であるフランス、英国との全面戦争に突入します(第一次世界大戦)。ドイツ帝国と組んだ同盟側が苦戦する中で皇帝は崩御し(1916年)、その2年後に最後の皇帝カール1世が退位して、名門ハプスブルク家はついに13世紀以来の君主位をすべて失いました。中欧の大帝国だったオーストリア・ハンガリーは解体されていくつもの「国民国家」が生まれましたが、その多くが経済的混乱と民族的葛藤からファシズムの台頭を招き、第二次大戦後は大部分がソ連を首領とする社会主義圏に属して歩みはじめることになります。小さな国民国家になったオーストリア共和国は、ここで育ったヒトラーのドイツ第三帝国に併合されたものの、戦後は分離し、永世中立国となりました。
リンク西側を走るトラム 新型車両の内部には液晶式のパネル
やっぱりというか宮殿見学は豪奢な品々で腹いっぱいになり、シェーンブルンとの共通券を買わなくてよかった(帰国後に聞いた話では、どちらか見るならシェーンブルンのほうがよかったという意見もあったけど、ま、似たようなもんでしょ)。それでもたっぷり1時間以上かけて見学して、表に出てきました。前庭にあたるフォルクス庭園(Volksgarten)に進めば、朝よりも日差しが強まっています。高齢夫婦や子連れの若夫婦なんかが散歩していました。リンクをはさんだ反対側(リンクの外側)はマリア・テレジア広場(Maria-Theresien Platz)で、威風堂々たる女王の像が高い位置に置かれていました。この広場の界隈はミュージアムクォーター(Museumsquartier 「博物館地区」)と称されていて、3つほどの大規模ミュージアムがならぶ上野みたいなゾーンになっています。コンサートの客引き兄さんはこの広場にも複数出ています。いやはや。
まだ11時半を過ぎたところなので昼食には早く、宮殿内でずいぶん歩数を使ったのですぐに町歩きするのも疲れそうだというので、トラムに乗ってリンクをぐるっと一周することにしました。われながらナイスアイデア。ウィーンのトラム路線網におけるリンクは、東京の首都高でいえば環状線にあたる部分なので、各系統はそれぞれ放射状にその外側へとそれていきます。電停に掲げられた系統図でしっかり見ておかなければ(変なところに行ったら、それはそれでおもしろいけどね)。よし、1系統なら間違いない。欧州の各地で見るタイプの新型車両で、走行音がほとんどなく、地面を滑るように走ります。フォルクス庭園の反対側には白亜の国会議事堂(Parliament)、さらには寺院みたいな市庁舎(Rathuaus)が見えました。見えました、といっていますが、テキトーに写真を撮って、事後に地図を見てそれだと知っただけのことで、その時点では何だかわかっていません(汗)。
トラム車内から見た国会議事堂 奥に見える尖塔はネオゴシック様式の市庁舎
リンクの全長は4kmほどなのでトラムに乗っていれば30分かそこらで一周できます。1系統は途中で東にそれるので、昨日Uバーンを降り立ったドナウ運河沿いのシュヴェーデンプラッツで下車。ここは市内北部からの各系統が集まってくる拠点駅のようで、ひっきりなしに電車が往来しています。昨日も確認したように、歩道にはレストランなどのテラス席が出ていますし、インビスも数店舗あります。ビール専門のインビスもあって、惹かれるものの、もうちょっとだけがまんしようね。ウィーンのインビスの特徴は、やたらにアジアン・フード関係が多いこと。焼きそば(たぶんタイ風)やケバブなど、この電停付近だけでも3つくらいありました。もちろんヴルスト(ソーセージ)屋さんもあります。ウィーンの事前のイメージって「音楽の都」以外にさほどもっていなかったのだけれど、欧州の近代と現代があんがい集約的に重なっている世界かもしれないと思いはじめました。ドイツと違って中東系の人がさほど目立たない代わりに、アフリカ系の住民はけっこう多く見かけます。私、ドイツ語はまったく話せないのですが、体質的にはドイツ語圏に合うような気が(勝手に)しています。フランスは苦手だなあ(いっちゃった!)。
シュヴェーデンプラッツ電停前の焼きそば屋さん
オーパー電停とギャラリー
シュヴェーデンプラッツで2系統をつかまえて、さらに時計回りで進みました。中学生らしき集団がわんさか乗り、私の席の前後を埋めつくします。きゃっきゃ叫んで公共精神を欠くのはどことも同じ。幸い?ヤンキーみたいな兄ちゃんはいないようなので、日本語で「っせーよ」といって強い視線を送ったら、「やべ、静かにしなきゃ」とかいった感じで誰かが周囲に呼びかけ、たちまち静かになりました。よしよし。別に、専門にしている市民性教育を実践しているわけではありません。さきほど乗車した市立公園横を通り抜け、ぐるりとリンク南辺に回り込んで、オペラ座前のオーパーで下車しました。すぐ前にリンクシュトラーセン・ガレリーアン(Ringstrassen Galerien)というギャラリー、というかショッピングセンターがありました。各種ブティック、小物屋さん、お土産屋さんなどが入っていますが食指の動くものはなく、地下の食品スーパーをのぞくにとどめました。夕方だったら酒類か何かを買っていくところだけど、いまそうしたらリュックが重たくなってしまいます。きれいに掃除されたお手洗い(無料)だけ借りておきました。
13時近くになったので、そろそろ何か食べようかな。食品市場として知られるナッシュマルクト(Naschmarkt)に行けば、軽食みたいなものもけっこうありそうだと踏みました。オペラ座から南(リンクの外)へ2ブロック進んだところがカールスプラッツ(Karlsplatz)という公園、というか広場。ここはトラムの各系統や路線バスのターミナルになっているようです。トラムは運転台が片側にしかついていない車両が多いため、終点付近ではループ線が必要になります。広場があればそこをぐるりと回ればよいのだけど、市街地ではそういうわけにもいかないため、1ブロックを取り巻くように一方通行の線路を配して方向転換させる工夫が採られているようです。なかなかおもしろい(例によって「鉄道の配線」などというタモリ倶楽部的なところに食いついている・・・)。
(左)カールスプラッツ電停 (右)ウィーン地方線
ナッシュマルクトはさらにその南西側。おや、アイボリーに青色を配した流線型のトラムが走っているぞ。これは話に聞いたバーデン鉄道のウィーン地方線(Winer Lokalbahn)ですね。南郊の温泉保養地バーデンに向かう路線です。もう1日滞在するならこれに乗ってバーデンに行ってみたかったなー。かつて(昭和30年代あたりまで)は日本でも都市部から近郊の観光地などへ向かう路面電車とか軽便鉄道がけっこうみられました。道路上に併用軌道を敷設するなら用地にかかる費用が発生しないため建設が安上がりだということだったわけですけど、その後のモータリゼーションの中でほぼ全滅しました。いま世界的なトラム復興の動きがあり、欧州各都市はとくに熱心に取り組んでいますが、それでもかつてのような「路線網」といえるほどの都市はあまりありません。ウィーンが今日まで立派な「網」を維持しつづけ、かつ別会社による郊外線までもっているというのはすごい。
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