古賀毅の講義サポート2023-2024

総合的な学習の時間の

理論と実践

Théorie et pratique des périodes d’études integrées

千葉工業大学工学部・創造工学部・情報科学部・社会システム科学部 教職課程
前期後半(土曜89限)+夏期集中(81日・2日) 津田沼キャンパス 6号館 614教室/631教室

この科目は理論編と実践編により構成されます。
実践編の担当は、古賀のほか、引原有輝、三村尚央、木島愛、小林学、福嶋尚子の各先生です。

 


次回は・・・
2-
中等教育・青年期の教育課題からみた総合的な学習(探究)の時間

私たちの直接的な関心の対象は中等教育secondary education)にあります。生徒の発達段階でいえば青年期adolescence)にあたります。もっとも現代では青年期がどんどん長くなる傾向にありますので、青年期の前半というくらいにしておきましょう。エリートを対象とする下構型(つらら型)の構造を長く引っ張ったために、中等段階ではなおも発達段階に即した教育の研究というのが十分ではありませんし、教育課題というものの現代化も果たせていないように思います。すなわち、自己を客観的・相対的に捉える眼をもてるようになり、自身の関心や適性に自覚的になり、おとなとしてどのように生きていくのかという進路設計もそろそろ意識するという時期ですから、教科の学びもなんらかのかたちでそれらに接続されてしかるべきです。総合的な学習(探究)の時間は、教科単体では種々の制約から十分ではない、そうした機能を果たすことが期待されます。

興味・関心を軸にした教育といえば、新教育思想が思い出されます。今回も新教育的な発想の延長線上ということでかまいませんけれど、小学生ではなく中高生、児童期ではなく青年期ということを強く意識したいものです。小学生であれば「体験」を通じてテーマと体感的に出会わせるだけでよいかもしれないが、中高生では知的内面化というのをぜひ果たしたいところ。また、中高生の直感的な興味・関心ではなくて、知的な要素と広く出会わせたうえで広がった関心をベースにしたいものです。趣味はおもしろいからやるが、学校の学びはタスクだから仕方なくやる、というばかりでは困るので(青年期というのはそういう処理が各自の中でおこなわれやすい段階)、学びの意味や楽しさを実感として味わってもらう必要があるわけです。未知のこととの出会いは、視野や世界の広がりにつながります。既知のことをつなげる思考は、自身の視野や価値観に深みをもたらします。なかなかそのように明確な成果を上げることはできないのでしょうが、学校教育全体の意義を再発見させる手立てとしても、総合を有効に活用したいですね。

当科目では、総合的な学習(探究)の時間における学習テーマ立案という点を重視しています。教科と異なり、こちら側の裁量がかなりありますので、細かな指示がないぶんかえって「どうすればいいのか」と見通しを立てられずに悩むことになりがちです。また、教科教育には長い経験と蓄積があって、広く共有されているのに対し、総合は歴史が浅く、同床異夢の状態がつづいたこともあって、何が相場なのかということもわからないという人が多いのではないでしょうか。教師側がぐらぐらしていては生徒はとまどうばかりですので、「総合的な学び」のコンセプトと方向を、いまのうちにしっかりともっておきましょう。思うに、それらは単数形でなくてよい。いろいろな可能性があったほうがよいし、たとえば1学期と2学期とでそれを替えてもおもしろいです。生徒にはいろいろなタイプがあり、関心も多様ですから、こちらが立てた企画や内容にうまく乗らないケースもしばしばあるだろうと思います。ただ、どれかが当たればよい、というくらいに私は考えています。それこそ入試とかかわりのない領域ですので、ごちごちの成果主義を離れて企画できるのではないでしょうか。総合的な学習(探究)の時間を通じて、学びの意味を確認するべきなのは、生徒はもちろんですが、私たちの側なのだといってよいだろうと思います。

 

 

Review 6/3

生徒時代の総合の印象は薄く、時間割に入ってはいたが、何をやっていたのかはあまり思い出せない。しかし総合は知を深める学習で、さまざまな科目から考えるため、応用のように感じられた。

総合的な学習の時間の役割を聞いて、自分が受けていたものとのギャップに驚いた。
総合的な学習の時間は中学校・高校で経験してきたが、その中身は文化祭に向けての話し合いや体育祭の活動など、今回の授業内容を聞いたあとだと、時間をまったくもって適切に使っていなかったことに気づくことができた。

総合的な学習の時間の性格をいままであいまいに認識していたが、今回の授業ではっきりした。

総合的な学習の時間が新設された際、学習指導要領で明確に述べられていなかったというのが意外だった。新設当初から総合が明確に説明されていれば、文科省のねらっていた知育は成功したのだろうか。
・・・> 「たられば」話なので、どうだかわかりませんけれども、私はやっぱり不成功だったと思います。中等教育が宿命的に帯びる、つらら体質+教科担任制(+受験めあてへの傾斜) という部分は、多少の「説明」くらいでは揺るがなかったことでしょう。今回、総合の学習指導要領の改訂2回目にしてどうにか軌道修正しかけているのは、政府と経済界が本気を出したから。当初は教育界内部の動きにとどまっていましたからね。

私は工業高校出身で、課題研究に取り組みましたが、週1LHR(ロング・ホームルーム)という時間がありました。あれは総合的な学習の時間になるのでしょうか。
・・・> 違います。LHR(小・中学校は「学級活動の時間」)は特別活動のサブカテゴリです。普通科にもあります。『教育原理』、p.88-89の教育課程表で「学級活動」「ホームルーム活動」とあるところに属します。総合との位置関係をもう一度整理しておいてください。


中学校学習指導要領(平成10年告示) 1章総則
右ページの「第4」に総合に関する記述があるが、これだけである この次のページに、あと4行あるだけ!

 

大きなテーマを多様な教科・科目から考えるのはわくわくするし、自身がそのようなつながりを強調した授業を受けたときに、つながった教科・科目に対する興味を強く抱いたことを思い出した。後半の発表のところで他教科や同じ教科の人の意見をいろいろ聞けて、刺激になります。
教科の枠を越えて社会問題や情報社会について探究を深めるというのは、とても知的好奇心をくすぐるものがあり、楽しみです。

公共と、自分自身が学んでいる分野や数学を取り入れる授業を考えるのは難しかったが、考えてみるととてもおもしろい内容だと感じました。
自分の専門分野を生かして公共の授業につなげるという作業をして、教師になるうえでの実践に近づいてきたなと感じました。

今回、公民と数学、情報を関連づける試みをしたが、現在の教育は総合的な学習を中心としてつながっていることをあらためて理解した。数学だけにとらわれず視野を広くもつことが重要だと思った。
公共の内容の中にも、理系に寄った分野もあるので、理系の人も興味が湧くような、つながりのある総合をつくれるようにしていきたい。

総合の計画で、専門の教科の学びにつなげられる学習が問われていくと思った。

総合的な学習の時間を有意義にするために、教科のつながりを考えたり、大テーマを設定したりすることで、単体で学ぶよりも深い学習になると思った。

 
(左)スイス フリブールのケーブルカー 上の駅にいる車に水を注入し、その重みで下降させ、下にいる車をつるべ式に引っ張り上げるという
かなり原始的な構造で動かしている 「つるべ」を見たことがない最近の生徒には、その説明も必要かもしれない(物理の基礎の基礎)
(右)愛知高速交通の「リニモ」 車輪がなく、浮上して走る?ため騒音がほとんどない リニアモーター浮上式の実用では国内初の事例

 

公共×○○を考えるのはとても難しかった。自分の専門外から専門分野につなげるのは大変だということを実感した。
自分の得意分野、専門分野で、総合的な学習の時間につなげることは難しい。メインの教科にフィードバックできるように設定したい。

今回学んだことは、教職科目の分野だけでなく、大学で学ぶ学問を活かすものでもある。楽しいものであると考えた。

教科・科目の発展には他分野の知識の前提があるというのが当たり前だと気づいた。戦争という「歴史」に触れる内容でも、核や兵器の製造には化学も物理も生物の知識も必須だし、もっといえばすべての根本には数学があると思った。
・・・> 科学と軍事というのは抱合関係、相互依存関係にあって、互いを「高めて」きました。「たたかひ(戦い)は創造の父、文明の母である」(陸軍省新聞班「国防の本義と其強化の提唱」、1934年)という通称「陸軍パンフレット」の巻頭言が象徴的です。理系の人は、まじめな人ほどそのあたりに楽観的になりがちで、自分が善意で研究・開発しているのだから世の幸福のために使われるのだろうと、なぜか信じてしまうようですが、技術を「使う」のは自分以外の誰かであり、だからこそ開発することに意味がある。でもそうなると、軍事技術に真っ先に投入されます。文系・理系のコース分離がおこなわれがちな高校23年生あたりに、そのようなテーマの総合を設定したら有意義でしょうね。どこか採用してくれないでしょうか。

メカニズム的なことなどは他教科と組み合わせて学ぶことで、最も深い学びになると理解した。また順序を工夫すると印象が変化するので、教え方や順序もよく考えて、組み立ててみようと思う。

教科と教科の結びつきがあるかないかで、生徒のモチベーションが変化すると思う。教科を別々に考えるだけでなく、この知識がここにつながるのか!という気づきを感じてもらえる授業ができるように、考えていきたい。

公共の教科書のコピーを見て、理科と関わっているところが多く、おもしろかった。今度公共の教科書を読んでみようと思った。
公共の教科書を初めて見て、情報や理科などいろいろな教科の内容を含んでいるのが意外だった。生活に関わるもののほうが興味をより惹きやすいと思うので、教科横断的な授業はチャンスでもあると思った。

公共の教科書に載っている「宇宙船地球号」の考え方は、題材の内容を見ると、ボールディングよりフラーの名前で紹介したほうがよいと思った。
・・・> こんど編集会議でいっておきます! 宇宙船地球号という表現と概念は、ご指摘のように、B.フラーによって提起されました。それをすかさず経済学者K.ボールディングが引用して、経済学の分析枠組として用いました。こちらが有名になって影響力をもったのと、社会科・公民科の関係者はそれを直接参照することが多いので、ボールディングの名が出てしまうのですね。フラーにしてもボールディングにしても、もう半世紀も前の人ですが、総合的な学習ということでいえば非常に有益な題材なので、教材化を考えてみたらいかがでしょうか。

教科を横断する学びについて、自分でいざ構成を考えると難しく、とくに今回の4つのテーマだと数学に結びつけるものは思いつかなかった。教科の学習も、もっといろいろな視点から見つめるべきだと思った。

機械や情報系の範囲を扱うときには数学や情報とつなげやすく、生命や環境は理科とつなげやすいと、発表を聞いて思った。教科のつながりというのは、考えてみると意外と太いなと思う。総合的な学習の時間は、振り返ると全然機能していなかったことがよくわかる。

情報はAISNS、メディア・リテラシーなどとつなげやすく、先に公共を学べば、授業内容を理解しやすくなり、進めやすくなると考える。数学がどのようにつながるのかをまだ考えられていないので、考えていきたい。
・・・> 数学は得意ではないのですけれど、数学教員の育成という仕事に10年ほど携わってみて、あらためて思ったことがあります。数学くらい他のいろいろな分野と結合して、有益なはたらきをする学問はないのにもかかわらず、数学の先生は数学の枠に閉じて思考しがちで、その「先」のことを見通すのに慣れていない、ということです。理学部出身でない数学教員には、そのセンスが求められるのではないかと思う。

総合的な学習の時間は、いろいろな先生と共同でおこなうことで、内容が複雑に絡んだものになり、おもしろい授業になりそうだと思った。他大学で音楽の先生をめざしている友達がいるが、工業とどのようにつなげることができるか考えてみたい。
・・・> 音響メーカーとか関係しそうで、おもしろそうです。音楽というのは、器楽も声楽も本来はアナログなものだったはずなのに、昨今はほぼデジタルな世界になってしまいましたね。

 
1889年、革命100周年記念として開かれた万博の出し物として造られたエッフェル塔は、「理性と科学の結晶」
数学・物理学・工学の粋を結集して、人知により天までとどきそうな構造物を生み出した
設計者ギュスターヴ・エッフェルは、建築設計のみならず気象学や航空工学の分野でも先駆的な足跡を残している

 

自分が受けた授業を再現する、というのはNGだが、受けたことのない授業はできない、ということもあり、矛盾していそうでしていない点におもしろみを感じた。

教科を越えて連携した授業というのは、生徒の理解が深まってよいが、現在の教育現場にそんな余裕があるのかなと思った。
・・・> 余裕はあまりなさそうですが、若い世代に期待するのは、別の授業で述べた教育DXを含め、現場のしごとや活動内容を再編成し、新たな可能性を開いていくことです。惰性や因習を突破できるのは知的な学びだと思うけれど、どうでしょうか。そうした教師の姿勢や構えは、間違いなく生徒に伝わり、社会に還元されると思う。

大テーマを扱った場合、他教科との協力なしでやっていくのは難しいというか、古賀先生がいっていた、教科授業に他教科の内容を少し取り込むというものの発展のように感じた。

総合的な学習の時間において多面的な視点を扱うには、それぞれの学問の基盤となる知識が必要で、それが土台として固まっていないと難しいのではないか。
・・・> おっしゃることももっともなのですが、もう一つ、別の方向から考えてみましょう。まずは個別分野の知(disciplinary knowledges)をかなり入れて固め、そのうえで学際的な思考(interdisciplinary thinking)にもっていく、というのが、王道であり定石でもあります。ただ一方で、個別分野(中・高でいえば教科や科目)の知を入れるということ自体に難渋する生徒が多いのも確かです。抽象的・概念的で使い道のよくわからない知識を連発されると、学習意欲がそがれ、テキトーにやっておけばいい、というふうにもなりがち。そこで発想を入れ替えて、その先の個別分野の学びに対する着火剤として、半端な状態なのを承知でinterdisciplinaryなものを突っ込んでみる、というのが、総合的な学習の時間の一つの意義です。「土台が固まっていなかったのでうまく思考がつながらなかった」のであれば、それを教師が適切に支援して原因をさぐり、生徒と共有できれば、うまくいくよりも有益な学びになるのではないでしょうか。

理科と社会、数学、情報・・・ と絡めるだけでこれだけの意見が出るのだから、あらゆる教科と、超学際的な視点をもつ機会を設けられる総合的な学習の時間を有用なものにできなければ、とてももったいないと感じました(分野が多すぎるとよくない?)。以前のロシア・ウクライナの話もですが、古賀先生の「ちょこっと社会」話めちゃめちゃ好きです。
・・・> カッコ内にある、分野が多すぎるとということですが、「あまりよくない」と考えています。たしかに理想は超学際的で、何もかもごちゃまぜにしてしまうこと。最高におもしろそうです。ただ、教師も生徒も思考キャパというのは有限ですし、柔軟に思考できる部分も個人差があります。一つ上でいっているような、個別分野の知をあちこちかき集めてそれなりに深め、そのうえで学際的な思考をできる人は、そうめったにいません。それをできてしまう人は、それが理想だと思うあまりに、すべての教師や生徒にそれを適用しようと張り切ってしまいます。「いや、あなたとは頭の構造や興味の持ち方が違うので、そういわれましても」となってしまいそうです。私自身は、ご承知のように雑学派・雑読派ですし、disciplinaryな枠に縛られて何が楽しいのかねと思う人なのですが(フランス語の形容詞disciplinaireには「学問分野の」のほかに「教条的」「よくも悪くも規則にのっとった」という意味があって、しばしば悪口に使われます)、教育実践の場であまり欲張らないほうがいいと、そこは抑制的に考えています。2教科タイアップのクロス・カリキュラムができれば上々、それも結構大変なので、1教科プラス他教科の要素という1.5教科モデルというのを考える次第です。なお旧ソ連の界隈はtransdisciplinaryなネタの宝庫ですので、それぞれの関心ある部分からアクセスしていただければ。

教科横断的に考えることで、多角的に世の中を見ることができるのを実感できた。この感覚を生徒にも味わってほしいと思った。

 

 


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