Sarajevo: une ville
autrefois connue sous le nom de « poudrière »
PART3 |
サラエヴォとかボスニア・ヘルツェゴヴィナと聞いて、紛争や五輪を話題にすることはしばしばありますが、じゃあどんな見どころとかスポットがあるの? 有名な建物は? と問われても、なかなか思いつきません。世界には200かそれ以上の主権国家があり、大半は「国名くらいは知っている」「国名すら知らない」というものでしょう。元来スポット的な関心が薄いこともありますけれども、私にしてからがサラエヴォについてのそういう知識はありません。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ全土に広げるならば、南部モスタル(Mostar)のスターリ橋(Stari Most)くらいかな。それも、紛争がらみで「あの美しい橋が壊された」「戦後に再建された」という報道で知ったという程度の、浅い知識です。なおモスタルが所在するのはヘルツェゴヴィナ地域です。歴史的に別々の地域だったボスニアとヘルツェゴヴィナは、19世紀後半にハプスブルクの統治下に入ったときに一体的な呼称となり、以後の運命をともにしていくことになりました。現在2つの内包国家があるよというので、「ああボスニアとヘルツェゴヴィナですね」と早合点する人がいるのではないかと思う。実際には、ボスニアもヘルツェゴヴィナも、それぞれの真ん中に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国の国境が走っています。
2月22日(土)もいいお天気。朝食後もゆっくりして、10時ちょっと前に出動します。何を見たいというスポットもないし(笑)。横浜港に停泊中のクルーズ船はいよいよひどい状況になっているようで、未知の病の「上陸」を極度に恐れる政府や当局そして社会の側が、不運にも感染してしまった人を害毒扱いして引き受けないという、なんだか人間社会の非常にだめな部分を見せられているような気がします。四半世紀前にこの世の地獄であった都市の一隅で、ネットを介して日本のニュースを見ているのですが、世の中が学習しないとか進歩しないというよりは、本質は変わらないとしても新たなかたちで現れる問題に対してはイチから考えなおさなければ対応できない、ということなのだろうなと思う。歴史を学んで何の役に立つのかと、歴史ギライの生徒・学生は判で押したようにいうが、歴史くらい役に立つ学びはありません。人は歴史に学ばないものだ、というのが、私が歴史から学んだ最大の教訓。 その歴史の教科書には、バルカン半島を称して「欧州の火薬庫」(the Powder Keg of Europe)という暗喩が記されています。何かの拍子に着火すれば大爆発してしまうという状況を揶揄しているのですね。高校生だった私が歴史の本で学んだのは、それが第一次世界大戦のきっかけになってしまったという(1980年代から遡上して)約70年前のことだということであり、ユーゴスラヴィアという国家はそういうスリリングな民族状況に立脚しつつも、多様な民族が共存しつづけている、というある種の安心感でした。火薬庫にまた火がつき、燃え上がるさまを実際に見るとは想像もしませんでした。きょう最初に足を運ぶのは、1914年のサラエヴォ事件の現場となった、旧市街のラテン橋(Latinska Ćuprija)です。到着した日にもこのあたりを少し歩いていますので、景観そのものは初めてではありません。現場にサラエヴォ博物館1878-1918 (Muzej Sarajevo 1878–1918)という小さなミュージアムが建っています。入館料は4兌換マルク。ここが10時オープンなので、それに合わせて出てきた次第です。 博物館の固有名詞に含まれる1878年は、何度か触れたように、この地域の統治権がオーストリア・ハンガリー(ハプスブルク)帝国に移管された年です。オスマン帝国がその勢力をどんどん後退させていたころであり、同じタイミングでオスマン支配下に長くあったセルビアが完全に離脱し、独立した王国になっています。セルビア王国自体は、イスラームの支配から解放してくれたドイツやオーストリア・ハンガリーに好意的だったはずですが、20世紀に入って2度のバルカン戦争が起こり、オスマン帝国が欧州からほぼ完全に撤退したことが引き金となって、「バルカン半島のかなりの部分はセルビアの土地だ」と考える、ある種のナショナリズム妄想ないし幻想を生み出します。これが大セルビア主義(Велика Србија)というやつで、にもかかわらず正教を信仰し言語も共通するセルビア人が多く住んでいたボスニア・ヘルツェゴヴィナをハプスブルクが接収する(1908年)という展開に、そんなバカなことがあるかと猛反発する人たちが現れました。1914年6月28日午前、いま私がいるこの場所で、ハプスブルクの皇位継承者フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand von Habsburg- Lothringen)とその妻ゾフィー・ホテク(Sophie Chotek)を狙撃して殺した犯人らは、そうした大セルビア主義の思想に突き動かされた活動家集団に属していました。 フランツ・フェルディナントは、その時点で60年以上も在位していた皇帝フランツ・ヨーゼフ2世(お芝居で有名なエリーザベトの旦那さん)の後継者に指名されていましたが、息子でも弟でもなく、弟の息子すなわち甥という微妙な立場でした。しかもボヘミアの一般人(大名の奥さんの侍女、といったところ)であったゾフィー・ホテクと熱愛の末に結婚し、皇帝の要件であった皇族同士の結婚を拒否したことから、「子どもが生まれても継承権は無しね」という条件つきで次期皇帝に指名されたにすぎません。新たな支配地となったサラエヴォでの軍事演習を視察するよう皇帝に命じられ、気乗りしないフランツ・フェルディナントを、ゾフィーは励まし、「私もついていくわ。サラエヴォに行けばオーストリア領内でのように、私が一歩下がってお仕えしなくてもよさそうだし、気分転換にもなりそうよ」と、同行を決めたのです。実は、暗殺の準備は幾重にも仕掛けられていましたが、「本番」は未遂に終わりました。市庁舎に向かう途中の車列をねらった爆弾テロは、ここより数百メートル下流側で発生しましたがフランツ・フェルディナントを仕留めることができませんでした。夫妻の乗った車は急いで現場を離れ、市庁舎広場にたどり着きます。市庁舎というのは、私が初日にタクシーを降りた地点ですね。私がよくわからないのは、明らかに彼をねらったテロが発生したにもかかわらず、そのあと再び同じ道を引き返したことです。現場責任者が爆弾で負傷し、ルート変更の指示を出せなかったともいわれますけれど、不用意もいいところでしょう。午前11時ころ、夫妻は狙撃され、時を置かずに落命しました。 事の経緯でわかるように、サラエヴォ事件そのものは、セルビア民族が一堂に会するような国家をつくりたいという大セルビア主義と、以前からの多民族帝国の発想を変えないハプスブルク帝国との闘争というかトラブルに発します。ただ、大セルビア主義やテロの背後にセルビア王国政府があり、オスマン帝国の後退に乗じてバルカン半島への進出を図るロシア帝国がそれを後援しているという疑念が、ハプスブルクの側には根深くありました。おそらく疑念ではなくてリアルな状況であったろうと思います。皇帝の跡継ぎを殺されたオーストリア・ハンガリー帝国政府は釈明と謝罪をセルビア政府に求め、セルビア側は「本件には関係ない」と弁明します。7月23日の最後通牒は、二度とこのようなことを起こさぬようセルビア政府の責任で取り締まりなさい、それを果たせるようにオーストリア・ハンガリー帝国もテロ犯の刑事手続きに関与させなさい、などというように、主権国家の主権を明らかに侵犯する内容でした。一部の受諾を拒否したセルビアに対し、オーストリア・ハンガリー帝国は7月25日に宣戦を布告。ここまでは依然としてバルカン方面のローカルな動きだったのだけれど、1880年代からつづく欧州列強の勢力均衡プラス拡張という危うい状況に、この導火線がつながっていて、足かけ5年に及ぶ第一次世界大戦を呼び込んでしまうことになったのです。火薬庫と呼ばれはじめたのはもっと前ですが、本当に火薬庫だったのだと、当時の人々は思ったことでしょう。2020年は、当時と比べてもはるかに世界が「つながって」いますからね。ローカルな問題、どこぞの外国の知らない勢力どうしのもめごと、などと関心すらもてない場合とか人が大半だろうと思います。ならばせめて、世界のつながり方とか導火線のしくみなど、構造の見方を教えたい。私が「社会科の先生」になったのは1994年のことです。個別の知識の先に何があるのかという強い問題意識は、私がその職に就いた時期にバルカン半島で起こっていた事態と、大いに関係があります。 サラエヴォ博物館は、1室のみの限られたスペースでしたが、展示のテーマを「事件」の一点に集約し、展示物を絞り込んでいて、なかなかよい施設だと思いました。つい、あれもこれもと盛り込んでしまいたくなりますよね。自治体が運営する場合などとくに。なお、いま私が立っている「サラエヴォ」はボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦のサイドですけれど、スルプスカ共和国の側では夫妻を狙撃した者たちを英雄視する動きがあり、モニュメントや銅像まであるとのことで、歴史を共有するのも大変だなと思います。伊藤博文を暗殺した安重根(안중근)の評価が日韓でまったく逆になるというのはよく知られる例ですが、「同じ国」の内部でそれが起こると、ねえ。そうなっているからこそ「同じ国」ではないという運用になっている、ということでしょうか。 そのあとしばらく旧市街を歩きます。土曜のお昼が近づいて、町なかを歩く人の数が増え、にぎやかになってきました。旧市街は道幅が狭くて見通しがあまりよくないので、自動車に気をつけながらの歩行になります。前後のアップダウンもおもしろいので、少しだけ登ってみました。いまは平穏で落ち着いた町並なのだけど、物乞いのおばあさん、傷痍兵、そしてビッグイシュー的な雑誌を立ち売りする人があちこちの角にいて、なかなか苦しいところではあります。
11時半ころ、トラム(路面電車)に試乗することにして、セビリ前の電停へ。細長い旧市街をぐるりとループする系統があるのみなので、別にどこから乗車してもよいのですが、セビリ前は一種の拠点駅になっていて、小さな小屋にチケット売り場があります。それ以外の電停から乗車する場合には、指定された売店で買うか、運転士から現金で切符を購入するようで、欧州のバスやトラムはだいたいそのようなしくみ。ただ、サラエヴォの電車で英語が通じるかどうか心許なく、運賃のルールなどもよくわかりませんので、外売りの小屋で買うことにしました。係の中年女性がひとりいて、往復を頼むとワンウェイ(片道)が3兌換マルクだといいます。「地球の歩き方」情報だと1.6マルクのようなのでずいぶん数字が違いますが、英語がほとんど通じないおばさんは、ただ「スリー・スリー(3兌換マルクを2枚)」と繰り返す。ぼったくられたとしてもさほどの額ではないので、いいか。チケットを2枚手にして、すぐにやってきた連節車(2両の連結部分に台車がある構造の列車)に乗り込みました。ドアのそばに年代物の刻印機があり、そこにチケットを通します。2016年以降、ラトヴィア、エストニア、クロアチア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、リトアニアと、旧社会主義圏のトラムないしトロリーバスを利用していて、かなり現代化しているラトヴィア、エストニア、ハンガリーはともかく、他は昭和感ありあり、社会主義時代の遺産のような車両やシステムで、かえって興味を惹きます。ここサラエヴォのトラムは、それらと比べてもとびきりに古い、というか、一般論でいえば「なっていない」。初心者には難しいかもしれません。帰国後に日本大使館のサイトを見たら、トラムは「安価で便利ではあるが、安全面から利用を差し控えることをおすすめします」とのことでした。そこに駐在している外交官がいうのならば、たぶんそうなのでしょう(汗)。 旧市街を走るトラム サラエヴォの町はミリャツカ川に沿って東西に長いと申しました。トラムの路線もその東西方向にひたすら直線的に伸びています。前日に訪れた鉄道のサラエヴォ本駅に寄り道する短い支線があるのみで、あとは直線を往来するということらしい。路線図や系統案内が明示されているわけでもなく、サイトを探してもあまりよい情報がないので、まあ乗ってみよう。車両もかなり古そうで、すーっと走るというよりは、床下がガタガタ鳴るような感じです。新市街に入り、歴史博物館やスイスホテルなども面している東西方向のメイン・ストリートを駆け抜けます。この道路はかなりの頻度で呼称が変わるらしく、チトー通りという名を紹介したところですが、その西ではzmaja od bosne(ボスニアのドラゴンという意味らしい)、さらにはメセ・セリモヴィチャ通り(Bulevar Meše Selimovića)となっています。が、これら東西幹線の最もよく知られる呼称はスナイパー通り(Sniper Alley)といいます。紛争当時、建物という建物の陰に狙撃手が潜んでいて、人影と見るや発砲したという、もうめちゃくちゃな事態だったのだと。立派なビルは目立つため標的にされたようで、歴史博物館に掲出されていた当時の写真には、外観がぼろぼろに崩されたビルの様子が映っていました。第一次世界大戦なんてはるか大昔の話だけど、スナイパーの件はつい最近ですしね・・・。道行く30代以上のおとなは、みんなその時代を生き抜いたのだろうし、おそらく誰か身近な人が犠牲になっているのでしょう。 トラムの路線は思いのほか長く、市街地から5kmくらい離れた郊外の町イリジャ(Ilidža)が終点。おそらくはサラエヴォとは別の自治体だろうと思われます。サラエヴォのトラムには前後があり、「前」にだけ運転台がついている構造のため、終端部ではラケット状のループが必要になります。東端は旧市街そのものを反時計の一方通行でぐるりと回りますが、ここ西端のイリジャはプラットフォームそのものがかなり大きめのループの中に造られていました。ずいぶんゆとりのある構造で、降車ゾーンと乗車ゾーンが明確に分離されています。イチゲンの観光客が来るようなところではなさそうなので、駅前を2ブロックくらいぐるりと歩いて、東行きのトラムに乗りました。駅前には大きなショッピング・センターがあり、たぶんスーパーマーケット的な意味合いが強いのだと思いますし、各方面への路線バスが発着し、かなりの人が利用している様子だったので、東京でいえば私鉄沿線の駅で、ここで買い物し、バスに乗って自宅に帰るというような位置づけなのかもしれません。若い年代の男女が集まってわいわいしているところや、タバコの立ち売りの様子などが見られました。
SCCショッピング・センター
バシュチャルシヤにはいよいよ人があふれてきました。宿に戻るには早すぎるので、「裏山」というべきミリャツカ川左岸側の急斜面を登り、なんでもないような住宅街を一回りしてみます。坂の町に暮らす人たちは日々足腰を鍛えられそうですね。スルプスカ共和国側に行ければよいのでしょうが、意外に距離があり徒歩では難しそうですので他日を期します。こちらボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦側の景観は、やっぱりモスクの尖塔が主役の座を占めています。男性はちょっとわかりにくい感じですがムスリマ(イスラームの女性)は頭を覆うスカーフですぐにわかります。いわゆる「西欧」の各都市ではムスリム・ムスリマの人口がかなり増えており、たとえばフランスの宗教人口は、首位のカトリックが8割くらいなのに対し、イスラームが1割前後と第2位。いろいろな経緯と事情から、わが東京でもイスラームの人たちと日常をともにする機会が増えてきました。フランスやドイツでは「マイノリティであるイスラームだが、共生に向けて取り組もう」といった前提であるのに対し、ボスニア、少なくとも滞在中の首都サラエヴォは、マイノリティではなくムスリムこそがマジョリティです。欧州大陸の一角にそのような場所があるというのは、知識としてはわかっていたつもりですけれども、実際に「絵」として見ると、深く考えるところがあります。
17時半ころ再び外に出ます。コーランの朗誦が複数の箇所から聞こえてくるのがなんともいい感じに染みます。きょうも旧市街を一回りして、セビリの南側、路地っぽい裏通りにあったお店に入って見ました。店名はVišegrad。料理の写真を掲出した看板にTraditional Bosnian food & brandiesとありました。観光客向けかなと思ったものの、店内にいるのはやはり地元の初老グループで、どうもこの旧市街というのは本来的な意味での旧市街であるはずが、紛争でめちゃくちゃに破壊され、トゥーリスティックな仕様で再建してみたものの住民の生活の場であるという前提は変わっていない、ということなのでしょう。 おっちゃんたちは店のおかみさんを交えて、ほぼ余白のないおしゃべりをつづけています。途中でさらに1人がやってきて合流。ダイナマイト・キッド似のスキンヘッドの兄さんがいて、店主なのか息子なのかよくわかりませんが、客席に座ってスマホをいじくっています。この兄さんがやってきて私の応対をしてくれました。料理はどれも14兌換マルクでお手ごろ。添えられた英語を読むと、基本的にはひき肉を何かに詰めて煮込むという料理のようです。英語でBosnian PlateとあったBosanski sahanなる品を指定し、生ビールも頼みました。ビールは昨夜とは味わいの違うラガー。料理は小ぶりのロールキャベツが7個、トマトの酸味が利いたソースで煮込まれて供されました。やはりサワークリームが添えられています。運ばれてくるとき陶器の円錐形のカバーがちょこんと載せられていました。一昨夜の料理と似たようなものになってしまいましたが、素朴でおいしいですよ。3夜の食事とも、パンが自動的に添えられていて、インドのナンにも似た厚くてむっちりとした独特の味わい。濃い味の肉料理によく合います。お店には上のフロアもあるようですがこの時間は0階だけで運用している様子で、4卓のみの狭い店内はすぐ満席となり、どのテーブルもわいわいとにぎやかです。ご近所さんが夜な夜なつどう大衆酒場のような雰囲気、というかそういう感じの声量と声調ですね。 2月23日(日)はやや雲のかかった晴れ。運転手がいっていたように、雪なんかが降っていたら歩きづらかったはずで、滞在のあいだ穏やかな陽気がつづいて何よりでした。10時ころチェックアウトすることにして、8時から1時間ちょっと、旧市街とその周辺の散策に充てます。どの都市を訪れても、朝の市街地はけだるく、生ぬるいような雰囲気があって、その中をジョギング、ウォーキングする人がぱらぱらという感じですね。バシュチャルシヤの小径には、コーヒーポットやアクセサリーなどの銅細工などを売る土産物店が並んでいて、早いところは開店の準備をはじめているところでした。着いたときから非常に気になっているのは、たいていの土産物店の店頭に、ライフルの薬莢を用いたボールペンやキーホルダーがたくさん売られていることです。意味と事情は痛いほどわかるが、これは悪趣味っていわないだろうか。「子どもが触ってはいけません」と書いてあるところもあります。子どもが触ってよくないような品は、おそらくおとなにとってもよいものではありません。 11時前にホテルをチェックアウト。キャリーバッグを転がしてセビリ前の広場に出ます。カフェ(こんどは室内)で1時間ばかり過ごして、空港バスに乗りましょう。ただ、バスの乗り場というのがいまいちわかりません。カフェの主人にチケットを見せて訊ねても、「空港行きのバスなんてあるかな?」と頼りない答え。ネット予約の際に、デジタル地図で乗り場を確認してくださいという指示があるのですが、その地図というのが大ざっぱでいい加減なもので、グーグルマップを使用してだいたいセビリあたり(前日にトラムに乗った電停付近)と示すだけで、詳細がわかりません。荷物を引いてそのあたりに立っていれば、予約客だと気づいてくれるだろうという予想は外れ、空港バスらしい車体がかなりのスピードで通過していってしまいました。あとから考えると、この200mくらい東にバスの駐車場みたいなところがあるのを前々日だか前日に見ているので、あそこが「バシュチャルシヤ」の停留所だったのかな? 一国の首都にしては公共交通、それも空港アクセスという大事な部分がかなり怪しくて残念ですが、この国はまだこれからです。グローバル化とデジタル化の波は、こういう時代ですから伝播速度がかなりのものであり、よい意味でも逆の意味でも、そういう波に呑まれていくに違いありません。旅行先としておすすめでしょうかと訊ねられれば、上級者でなければ積極的には勧めないというお答えになります。もちろん、それは2020年の話。私が子どものころの東京だってかなりガタガタでしたし、つい20年くらい前だって、インバウンドなどという言葉すらなかったし、イチゲンの外国人が上陸してもルールや作法にずいぶん苦労する都市でした。20年くらい前のサラエヴォがどういう状況だったかを思い出せば、本当に、これからです。ポテンシャルと希望があるばかりです。 まあ仕方ないので、電停のそばにタクシー・プールがあったのを幸い、駐車休憩していた運転手に声をかけ、空港まで運んでもらうことにしました。若い男性の運転手はムスリムのようで、「エアポート?」「ユーロ・キャッシュ?」などと必要最小限の英語しか話しませんが、コース取りもよくて、20分くらいで空港ターミナルに車を横づけしました。たしか30兌換マルクくらいだったと記憶します。着いたときよりかなり安く、しかも「国境」に接することなくひたすらボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の領内を走ってきました(前日のトラムとほぼ同じルート)。ただ、初日に「国境」の尾根を走ったのは忘れられない経験でもあり、そういう偶然こそが旅行の楽しみでもあります。 欧州連合(EU)の加盟国は現在27ヵ国。最新の加盟は2013年のクロアチアです。クロアチアの加盟をその時点で承認したというのは、民主化や経済再建を順調に進めることができれば「欧州の仲間」になれるよ、という旧ユーゴスラヴィア諸国へのメッセージでもあるのでしょう。2020年2月の訪問時点での加盟候補国(candidates for membership of EU)は、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアの5ヵ国。このうち北マケドニア、モンテネグロ、セルビアが旧ユーゴスラヴィア連邦構成国です。この旅行後の2022年に、モルドヴァ、ウクライナ、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナが加盟候補国になりました。「多様性の中の統合」(United in diversity)という欧州統合の理念に強く共感し、その発展を願っている私ではありますが、こうして固有名詞を並べてみたときに、この先は簡単にはいかないだろうなという懸念がどうしても先立ちます。欧州って、何なのだろう。いつものルーティンでは8月にまた欧州に来るだろうから、そのとき宿題の一部を考えることにして、だとすればセルビアに行ってみるのが最適かな。と、このときはまだ考えていました。パンデミックと種々の混乱のせいで、3年以上も国内に閉じ込められるとは予想外でしたが、妙なことになる直前に希望の都サラエヴォを歩くことができたのは何かのお導きでしょうし、長い時間をかけて宿題の答えを考えなさいという思し召しだったのだろうと、いまは思います。
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