古賀毅の講義サポート2023-2024

Études integrées et interdisciplinaires: connaitre le monde de manière transversale

総合学際科目:知の越境・架橋と近未来への想像力

千葉工業大学工学部機械工学科、先端材料工学科、電気電子工学科、先進工学部生命科学科2
後期 火曜34限(11:00-13:00) 新習志野キャンパス 8号館 8208教室

 

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次回は・・・
12- 「あったらいいな」の構想力

近ごろの大学生が、やたらに現状肯定的すぎることには「おや」と思うのですが、経済的および物質的な部分で、まあまあ困っていないということが前提にあるのでしょう。どうにも貧しくて大変だとか、何かを学び取らなければ振り落とされるといった切迫感、危機感があると、現状を変更して前に進もうとする動きに自分も加わろうとするものです。また、ユーザー化が過ぎるというのもきっと要因なのだろうと考えます。これも消費社会のひとつの傾向なのですが、業者の側から次々と送り込まれる商品(たぶん「便利」よりも「快」なんでしょうね)をユーザーとしてユーズすることに追われて、そこで息切れしてしまう。それで満足なのかどうかを考える余力もなくなってしまう。そんなところでしょうか。その一方で、○○がなかった10年前には戻りたくない(○○にはスマホでもなんでも、好きなものを入れてください)、なんて思うのだから、世の中やシステムが更新されて進化していくこと自体には賛成というか、むしろ歓迎している感じもします。そうした捉え方がまずまず妥当なのだすれば、(1)まあまあ困っていないようだが実際には困っていそうな部分を発見すること、(2)ユーザー目線を抜け出すこと によって、自分たち自身が新しい何かのつくり手になっていくことができる、ということになります。当科目では、既知のこと、経験上よく知っていることと、各自の専門分野、そして未知のテーマなどをつなげて(架橋して)、いろいろアタマをめぐらせてきましたが、(1)(2)につながるようなヒントは、あったでしょうか?

コロナ禍の日々はそろそろ記憶の端のほうに追いやられていることろでしょうか。いろいろな制限がかかり、不自由しましたね。不自由で不便で不満がつのるといった「不」の状況だと、こんなことができたらいいな、という願望が出てきます。状況が長引くと、どうにか工夫して、完全ではないにしても、そのままでいるよりはマシになるような何かをつくり出そうとします。成り行きにまかせてブーブーいっていただけの人もあるでしょうし、そもそも当時みなさんは高校生だったでしょうから主体的に何かをできる立場でもなかったかもしれませんが、少しだけ想像力をはたらかせてみてください。当科目で何度も取り上げた、社会的に不利な立場にいる方々のことを思い浮かべても結構です。「いま」の生活がそのままつづくことはありません。みなさんも親元を離れて独居するかもしれませんし、首都圏や日本を離れて生活することになるかもしれません。ユーザー目線に縛られると、誰かが自分の暮らしをよりよくしてくれないかな、という願望をもちつづけるだけになります。気楽に考えられるうちに、あれこれ想像をめぐらせてみてはどうでしょう。

今回は、生活や生産活動、あるいは趣味や娯楽の分野でもかまいませんが、「あったらいいな」と思うものを、できるだけたくさん想像して、ふわっとした部分を文字化して他者にわかるところまでもっていく、という作業をしてみることにします。幼稚園児や小学校低学年児童ならばたいていやる妄想です。成長するのにつれて、なんだかそうした妄想が子どもっぽく思われるのか、「どうせ無理だし」みたいに入口で引き返すことが多くなります。しかし、低学年児童と大学2年生では、知識や経験の厚みがまるで違います。せっかく得た知識や経験を踏まえて、そして児童期の子どもにはない構想力を駆使して(10歳くらいまでの子どもは、可視的でないもの、直接体験したもの以外を組み合わせて思考する能力をもたないとされます)、大学生ならではの妄想もとい構想をしてみましょう。知識や経験の厚みといいましたが、とはいっても大学生個々人のそれには限界があります。だからこそ他者との交流によって他者の経験やアイデアをも取り込み、歴史や外国の事例を学んで、可能性や発展性を考えていくことが重要になっていきます。順調にいけばいよいよ津田沼キャンパスでの本格的な専門の学びに進む段階ですから、なるべくたくさんのアイデアやアイデアもどきを携えて、そのステップに進みたいですね。

 

REVIEW 11/28

125日のレビューは少し遅れて更新します。しばらくお待ちください。

 

授業を受けて、戦争・軍事と工学は、私が思っていたよりも親密であるということがわかった。私がよい技術だと思っているものも、どこかの国ではそれが人の命を奪うようなことに使われているかもしれないと考えると、胸が痛くなった。新しい技術がすべてよいものとはいえないことがわかった。

私たちが普段使っている技術が軍事に転用されること、また逆に軍事技術が民事に転用されている例というのが、思った以上に多かったので驚いた。(類例複数)

生活をよりよくするために開発された技術が軍事技術に利用され、たくさんの人々に被害が出てしまうのは悲しいと思ったが、その反面で、もとは軍事技術であったものが生産技術に利用され、生活が便利になっているものもあるのだとわかった。今回のテーマは私の学部の分野と重なるところも多く、技術の軍事利用の可能性についてこれからも考えていきたいと思いました。

今回の授業を通して、私の専門分野が戦争で用いられる軍事技術に簡単に変わってしまうことを知った。本来は生活を便利にしたり豊かにしたりするための技術であっても、それが人を殺す技術に簡単に応用できるということは、これから心得ていく必要があると思った。(類例多数)
私たちが学んでいる技術や知識には、戦争・軍事との接点が多く存在していることがわかった。これから先、技術者として軍事利用の可能性があることを十分に理解、認識するべきであると感じた。(類例多数)

スピン・オン、スピン・オフの意味や、軍事の歴史、考え方などについて深く理解することができた。中でも、開発したものが軍事利用される可能性を認識することは、理系にとってはとても重要なことであると思った。以前の私は、このように軍事などに利用されるということをあまり知らなかったが、今後はより深く考えていきたいと考えた。

スピン・オン、スピン・オフについて学び、国の発展や生活の向上のためにつくったものが軍事利用されることが多々あると知った。つまり私たちが大学で学んでいる電子工学も、将来それらに利用される可能性もあるということだ。ただ、これはほとんどの理系分野にもいえることなので、人を守るための工学を学んでいるのだと考えて、勉強しようと思う。

工学と軍事は密接に関係しているということを学んだため、軍事転用という言葉に嫌悪感を少しおぼえた。少し調べただけでスピン・オンの例がいくつか出てきたため、軍事利用された技術はとても身近なものだと理解できた。

戦争って悪いこと、国のえらい人たちの私利私欲だと思っていたが、スピン・オン、スピン・オフというものがあるのを知って、そこだけはメリットなんだと思った。理系の学問と戦争などを関連づけて、理系サイドとして今回のテーマを考えるのはよい機会だった。
戦争にかかわらない時代に生まれ育ったため、軍事技術の生産技術への転用やその逆の事象を知り、戦争がもたらしたものは絶望だけでなく今現在の生活技術の発展にもつながっているのだとあらためて理解した。生活技術と軍事技術は紙一重だと思った。普段利用している技術でも、利用方法を変えるだけで簡単に人を殺す技術へと変化してしまう。その技術を理解し、どう利用するのかが大事なのだと思った。

よくも悪くも、いま私が学んでいることが軍事や戦争に使われる可能性があるということを念頭に置いて、学んでいくべきだと思った。また、いま使われているインターネットや物をつくる技術は、戦争がもとになっているものがほとんどで、逆に戦争のおかげで技術が発達するというのは、少し難しい気持ちになった。私自身、戦争自体には反対だが、技術者になるとすると、軍事に力を貸してしまうこともあり、結果的に加担するといっても過言ではない。そのことをしっかりと胸に刻んでおくことが大切だと思う。

 
(左)初の有人飛行を達成したライト兄弟のフライヤー号 (右)アメリカ・ソ連の宇宙船がドッキングしたところ いずれもワシントンD.C. 航空宇宙博物館蔵

 

民事技術と軍事技術は地続きで、扱い方によっては生活を便利にするが、扱い方によっては人を殺してしまうことがある、両刃の剣であることを学んだ。私たち自身も専門分野に入りびたりになり、自分たちの技術が悪用されることに気づかなくなってしまいがちであることもわかった。

電気・電子を専門としている。昨今では、電気は日常生活に欠かせないもので、たとえば省エネ化が進む社会では省エネ化が軍事技術へと転用されることがあると考えて、技術や知識の発展と倫理への理解、熟考していくことが重要であると思った。

私が専門としている生命科学は、生物兵器とかかわりが深く、いま急速に発展している遺伝子操作技術は新しい生物兵器の開発にも関与する可能性があると思う。新型コロナウィルスも新生物兵器だといわれることもあり、本当に生物兵器だったとすると非人道的なものになる。国際法があったとしてもそうした国が出てくる可能性があるため、さらに強制力のあるものが必要だと思った。

アインシュタインも原子力を開発して軍事転用され、泣いたという話が有名なので、万一にも何かしらを開発した際に人を傷つけることがないかを第一に考えたい。

科学技術の発展は国益の追求となる。国家単位ではスピン・オンによる科学技術の軍事利用を制限できるが、国家の枠に入らない組織ではその制限が通用しなくなり、簡単に破壊力のある兵器をつくることができるようになってしまうので、全体での制限も必要なのではないか。

国どうしの争いだけでなく、テロなどの見えない敵との争いがあるということを学びました。戦争によって国家を規制する国際法ができたが、機能していないのではないかと、ロシアを見て思いました。
・・・> 国際法というのは、何よりも「戦争で世界がめちゃくちゃにならないように」という共通利益に根ざすところが大きかったと思います。ただ、国家より上位の存在というのは近代世界には存在しないので、どこかの国家が暴走するとか、もっともらしいエクスキューズを言い立てて戦争を仕掛けたりするような場合には、実効力のある歯止めというのがなかなか見つかりません。それでも第二次世界大戦後は、「大国」がタバになって合意すれば国家の暴走は最小限に抑え込めるというコンセンサスみたいなものがあったのです。ただ、21世紀に入って、2つの面でそのコンセンサスが失われ、安全保障の見直しということを考えざるをえない局面になってきました。その一つは、授業でも取り上げたように、国家ではないなんらかの主体が戦争を惹き起こすケース。いま一つは、ほかならぬ「大国」自身がお約束破りをするケースです。ロシアがそうですね。

科学技術は軍事と密接にかかわっていて、正と負の両面を持ち合わせているということがあらためてわかった。最近、車のCMで無人運転の紹介をよく見るが、軍事技術を転用したものだと思うと怖く感じてしまう。

生産技術と軍事技術がこんなにも密接していたということにとても驚きました。またさまざまな大学のキャンパスがかつて軍事基地であったことにもとてもびっくりしました。私の戦争のイメージは、爆弾とか、戦闘機や銃で撃ち合っているようなものでしたが、いまはインターネットを攻撃するなど変化しているんだなと思いました。軍事の問題は一生なくならないと思うので難しいなと思いました。

自動車などに限らず民事技術のいろいろな部分は軍事転用が可能である。千葉工大で学ぶことは今回のテーマに直結しやすく、一歩間違えば人を殺すような武器になってしまうから、使い方などをしっかり考えてつくりたいと思った。
・・・> 後半がちょっと甘いかな。技術をつくり出した本人が、いくら「使い方などをしっかり考え」たとしても、技術はその人の手を離れて独り歩きします(そういう宿命をもっています)。それを受け取った別の人がどのように考え、利用するのかは、もうオリジナルの作者の手の届くことではありません。技術の本質を知るというのも、工学系の学びとしては重要で、ぜひいろいろな人と議論してみてください。

軍事や戦争のことについて議論すると、実際に経験していないため机上の空論になってしまうが、GPSなどのスピン・オフという技術的な面からアプローチすることで、現実味を感じることができた。
ボーイング社など、戦争にかかわってきたところが現代でもスピン・オフして活躍していることで、より軍事と民事は近い関係にあるのを実感しました。

インターネットが軍事技術からの援用となっていることに、最初は気づかなかったが、授業を受けてなるほどなと思った。私の専門分野と軍事兵器や用途との関連性を考えることで、自分がものをつくるとなった場合に、どのようになるのかを予想し想像することが重要になるということを学んだ。

私が子どものころは、ガンダムとかが本当に実現して使われるのかと思ったりしていましたが、いま考えるとコスパが悪いなと思いますね。
・・・> 人型のロボット(モビルスーツ)が、昔の武士か騎士のように果し合いをするというのが当初のガンダムのプロットだったのですけれど、未来においてそんなわけないじゃんという批判を恐れてか、白兵戦にならざるをえない技術的要因みたいなことを(おそらく後づけで)いろいろ説明していますね。実際には、バンダイというおもちゃ屋さんがメインのスポンサーだったため、人型のプラモデルが売れないと困るという昭和的な前提があったわけです。実際の軍事の場面において、アムロ君みたいな職人芸的なパイロットの存在が2023年現在でもかなり相対化されつつあるのだとすると、「ニュータイプ」の使い道も違ったところになるのでしょう。

もし戦争が一度も起きなかった場合、スピン・オフでつくられたものというのはできるのでしょうか?
・・・> 今後の、未来のという想定でしょうか? 戦争が一度も起きない未来ということ自体が(残念ですが)想定しがたいのではないでしょうか。戦争ではなく、人殺しや物理的破壊を伴わない争い(たとえば経済競争)であっても、争いが創造の源になるということは普通のことなので、スピン・オフの可能性はなくならないと思う。

理系学生サイドで考えるべきこと、というテーマは難しかった。技術の進歩によって生まれてくる新たな問題点や危惧すべき事柄について、全体的に考えられるようにしたいと思う。

日ごろ軍事と工学との関係について考えることがなかったので、こういう考え方もできるのかと思った。千葉工大の歴史は興味深かったので、自分でも少し調べてみようと思った。

生産技術の発達によって軍事技術が発達し、逆に軍事技術の発達によって生産技術が発達するというのが、もどかしく感じられました。豊かにするための技術を、不幸にするために使われるのかもしれないと思うと、悲しくなりました。

軍事技術は国家がいちばんお金をかけている部分でもあるので、副産物が発生しやすいと考えていたが、実戦化の容易さもあるのだとわかった。
軍事目的で技術開発するときには、民事目的の場合よりも思い切って実戦に移すことができるため急速に技術が発展することがわかった。民間向けの技術として開発したものが応用され、軍事技術として利用されてしまったとき、開発した人の気持ちはとても複雑なものだと思う。軍事・民事にかかわらず便利な技術であればあるほどさまざまなものに応用できてしまうため、境目なく両方に利用できてしまうのだと思った。技術を開発する前に、それがどのように使われるかというのを想像できていないと、悲しい結果になってしまうのだと思った。

 
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォ 1990年代のボスニア紛争では都市そのものが凄惨な戦場となった
(左)紛争で実際に使用された移動式大砲 展示している現代史博物館の建物自体が損壊の跡をそのまま残している
(右)紛争中に大量に発射されたライフルの薬莢が、ボールペンなどのおみやげに「転用」されている
サラエヴォは1914年にオーストリア皇太子暗殺事件の現場となった都市でもある(第一次世界大戦のひきがねとなった)

 

戦争をなくすことが一番だが、それができないでやっているのならば、それはもう知りません。破壊力の強い兵器や爆弾をつくって町や都市を壊していくのは、どんなメリットがあってやっているのか知りたいくらい。私が兵器をつくるとしたら、銃や爆弾というよりかは毒ガスをつくってみたい。そう考えるのは、毒ガスによって死因をさまざまなものに変えられて、多少興味があるから。

人道的な殺傷というのは存在しないと思う。殺すことに人道的という言葉は当てはまらないからである。
対人地雷によって手や足を奪うということも十分非人道的なことだと私は思いました。
・・・> 対人地雷は「非人道的」な兵器の典型とされています。殺すよりも殺さず傷つけるほうが残酷で、「非人道的」だということですね。でも、そもそも「人道的な兵器」なるものがあるのかどうか。

技術を民事に使うことでいまの生活は豊かになっているが、その一方で、平和な生活ができなくなったときに軍事技術が発達していなければ自衛することができないと思うので、軍事への技術の利用はよくないという考えは、違うと感じた。

戦争や軍事のための技術を使うことは倫理的に間違っているという考えが当たり前の時代だが、少し時代や環境が違うだけで、利用が当然となり、またいま学習している分野が直接的に関係してしまうという怖さを知った。
・・・> ちょっと認識が違うように思います。以前は軍事利用が当たり前だったが現在は「倫理的に間違っている」という考え方が当たり前だ、というふうに捉えているのであれば、そうではありません。むしろ後の時代になるほど、民事技術の軍事利用とか、軍民の境目をなくした技術開発が当たり前になり、しかも全体的な規模が大きくなってきています。

軍事技術と聞くと少し身構えてしまうが、実態を知ると、民事と軍事の境界はなかった。民事技術が発展すると軍事力も強化され、より多くの人間の倫理が試される時代になってきている。それに対して、技術者は多くの利益を求めるために外国に誘われることや、軍事転用に踏み切ることもあるだろう。私は、技術は誰かを幸せにするものだと考えていたため、軍事転用したくはないが、国防など自国の未来の被害を防ぐ技術というものもあり、どの技術も悪意をもって使用するのは悲しい。より高度な技術が開発されつづけているため、個人でも悪用すれば大きな被害を生み出し、利用できる人間の範囲も拡大する。とても危険だと思った。

自分が研究したものを軍事利用してほしくはないが、軍事技術からアイデアを取るなど、本質的には民事と軍事は同じだと思うので、やっていきたい。本学で研究されていることのすべては軍事利用できる。その可能性自体を認識していなければならないと思う。

今回学んだことは、よかれと思ってつくったもの、考えたことが、すべて思ったとおりになるわけではなく、人を助けたいと思ってつくったものが人の命を奪うものとして使われることもあるということだ。これはダイナマイトなどの有名な事例から知ってはいたが、私が機械や工学系を学んでいくうえで、もっとしっかり考えるべきだと思った。いまは技術も発達して、インターネットなどでも悪用という言葉が身近になっている。そういったことも踏まえて、これから自分の目的だけに囚われるのでなく、裏のことも考えることが重要だと思った。

今回は、当たり前だと考えていたことの重要さを感じた。将来どのような仕事をすることになるかわからないが、どんな仕事をするときでも戦争の悲惨さや失うものを忘れてしまわないようにしていきたい。

技術そのものを軍事として利用することが悪いというよりは、技術を何かに使うというのではなくどういう考えをもってどのように扱っていくか、いってしまえば使う側の問題であると思う。研究者や技術者などに必要最低限の倫理観や戦争のことを教えていくことが大切なんだと思いました。またそれらを悪用する人たちに荷担しないこと、思って考えて行動することも必要だと思いました。

技術者として必要なのは、新しい技術を常に探し、応用していくことである。軍事転用されないようにと考えるのは技術者のすべきことではないと思う。開発した技術に無責任であってよいということではなく、利用される先の制限は、法律やその人の倫理観に任せるということである。技術の転用を防ぐことはできない。それを他の方法で制限しなければ、新しい技術を生み出していくことは不可能であると思う。

研究をしていくうえで外部からの支援が必要になるケースが多く、求められる科学技術も多様化してきている。倫理的な問題を考慮し、善・悪に囚われないアプローチ方法を模索できるような技術者が必要とされているのだと、今回の授業を通して考えました。

 

 

 


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