古賀毅の講義サポート2024-2025

Études integrées et interdisciplinaires: connaitre le monde de manière transversale

総合学際科目:知の越境・架橋と近未来への想像力

千葉工業大学工学部機械工学科、先端材料工学科、電気電子工学科、先進工学部生命科学科2
後期 火曜34限(11:00-13:00) 新習志野キャンパス 7号館 7103教室

 

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次回は・・・
11-
便利と不便、快と不快、食料と食糧

今回のテーマは消費consumption)です。工学部的な発想でいえば、どちらかというと生産(production)のほうに注目することが多いと思いますが、生産と消費は、対義語のようであって、そうでもないという、ちょっと不思議な関係にあります。普通は、商品を生産するから消費するのだろうと思う(消費というのは「お金で購入する」ことだと、ひとまず考えてください)。生産して、商品がそこにあるから、購入するというシンプルな流れです。何を生産するかというと、人々のニーズがありそうな商品を、ということになります。しかし実際には、ニーズがないのならばニーズをつくり出してしまえ!というのが現代社会。ニーズというのは直訳すれば必要ということですから、「ニーズがない」というのは不要だということにほかなりません。不要なものを買わせる、というのは、ちょっと無理があるように思えませんか? それが成立してしまうのは消費社会(société de consommation)です。なぜ急にフランス語を記したのかというと、消費社会という用語を広めたのがフランスの哲学者ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(原題Société de Consommation)であったからです。

ボードリヤールの論は、なかなか難しくて、2段階くらい翻訳しないと現実の社会の分析として大学生に示すことができないと思うので、私としてはそのエッセンスだけいただいて、もう少し大学生の生活の現場に近いところで議論してみたいと思います。いま私たちの生活は消費に満ちています。衣食住、趣味・娯楽、ありとあらゆるものを消費(お金で購入)しています。自分で農作物や工芸品をつくるということは、ほとんどなくなりました。また、食材を買ってきて自宅で料理するという行為も、出来合いの料理そのものを買って持ち帰るという行為に置き換えられることがしばしばあります。一人暮らしの大学生など、そういうことが多いかもしれません。外食というのもそうですよね。お金を払って、調理やサービスを購入しています。誰かさんとデートするというときに、昭和のカップルであれば、河原に横並びに座っていつまでも語らう、なんてこともあったのでしょうが(ほんとかな?w)、いまはカフェなりレストランなり映画なりテーマパークなりの、やっぱり消費になり、なんなら消費が最大化するかもしれません。時間や空間を消費(お金で購入)するということなのでしょう。二十四時間四六時中、おやようからお休みまで、ゆりかごから墓場まで、この世はことごとく消費で成り立っています。冷静になって考えてみましょう。そんなに「必要」なものばかり、なのでしょうか?

ともかく、ほとんどすべての人が、むやみに消費する時代を迎えています。「きょう起きてから1円も使っていないよ」というのはたぶんウソで、スマホを充電していたのならばそれも消費です。大学で授業を受けていても、そこには対価が発生していますよね。「いい生活したいよね」という場合の「いい生活」というのは、「たくさん消費して満足したい」という意味ではないでしょうか? 人生の質的な充実みたいな意味よりも先に、モノやサービスのいいやつを入手したいという欲があるのではないか。どこかのおとなのように、まったくけしからん、無駄遣いばかりしやがって、もっと大切にお金は使いなさい、などと説教を垂れるつもりはありません。そうではなくて、あらためて工学部的な発想に立ち返り、いまの時代に「モノを売る」とはどういうことか、「売れるモノ」とは何かというふうに考えてみようということです。消費という概念や事象を嚙ませると、思いがけず、いろいろなヒントをつかむことができます。理系のみなさんにこそ、考えてもらいたいテーマですね。

 

REVIEW 11/19

業務多事につき123日分のレビューの更新についてめどが立っていません。全体に更新が遅くなると思いますがご容赦ください。申し訳ありません。

 

出生に関することについて、いままであまり気にしたことがなかった。今回、不妊治療や倫理的な面と合わせて考えてみて、技術的にできることが増えても、それらを可とするのかは慎重に議論する必要があると感じた。

技術の進歩が多くの人を豊かにすると考えて、それがよいことだと思い込んできたが、文系・理系の壁を越えて、一つ一つのことの理論とそれがもたらす影響、社会の動向まで見据えることが重要だと感じた。

妊娠などについて深く考えたことがなかったのですが、今回の授業で、年齢が上がるにつれて妊娠できる可能性がかなり低くなることを再確認し、不妊治療による経済的負担や治療の長期化による精神的苦痛が大きな問題として存在することを学びました。この先の人生にかかわる問題であるため、楽観的に考えるのではなく、こういったことになりうる可能性が少なくないことを覚えておくことが大事だと感じました。

生命にかかわる話は重く、人の考えがよくあらわれる話題なので、授業等で扱うのは難しいが、一度はこのような授業を受けるべきだと思った。レビューや感想で、気軽に「仮に私が当事者だったら○○」と書くのは、少し危ないことだとわかった。

普通に生活している中では考えないようなことを、今回は真剣に考えた。考えれば考えるほど結論が出なくなる内容だと思った。私自身が少数者の側になったときに、そのことについてどう判断すればよいか、いまはまだ判断できないし、年を取るとともにできるようになるかもわからない。科学・医療技術の発達をめざす側として、前回と同じように、多数派の幸福に目が行きがちだけど、少数者にも目を向けていく必要があると思った。

妊娠や不妊などの話はデリケートな内容であり、触れるのを避けようとするようなことが多いが、どの人間も対象となり、関係する可能性がある。またそのような人たちとかかわる可能性もある。この内容について知り、問題点や状況を把握しておくことは重要だと思う。人それぞれ思うことは違うと思うが、多くの意見を知っておくことで、安易な軽い気持ちの発言をすることなく、該当者とよい状態で接することが大事だと思った。自分が該当したときも、相手の立場を考えることができるようになることも、大切であると思った。

今後向き合っていくことになる大事な話であった。これからこのようなことを考えながら生活していくことが大事だと考える。自分の身に起きたときにもじっくりと考えていきたい。(類例多数)
今回の内容は、他人事ではなく近い将来に自分自身にも起こるかもしれない問題であり、受け止めないといけないと感じた。恵まれなかった人々の内情を考えると、これらの技術をやってよいのか、よくないのかの判断が難しく、世の中が悩む問題なのだと再認識した。

生命倫理という一つの単語の中に、さまざまな社会問題があると思った。科学技術が進歩したからこそ起きる問題や、デメリットもあるのだとしっかり理解し、技術者倫理として自分の心に刻んでおきたい。

技術が進歩する中で新たな選択肢が増えていくことは希望をもたらすが、それが誰にとっても幸せをもたらすとは限らない。それを選ぶことで困難や痛みを抱える人々がいることを忘れてはいけないと思った。生に対する価値観や倫理観を再度見直すことが必要だと思った。

授業を通して、技術の進歩に伴って、倫理観についても忘れてはいけないとあらためて思った。何年も前と比べると、技術的にできることが増え、発展してきたが、それが非人道的になってしまうことがあるとすれば、失敗であるだろうと思った。
・・・> 失敗・成功の二分法は、ひとまずはそれでいいかもしれませんが、長期的に考えるときにはもう少し慎重に考えるほうがいいかもしれません。失敗を機により大きな成功になる、あるいはその逆、みたいなことは、みなさんの専門分野ではしょっちゅう起きることだと思う。

正解のない、生命倫理に関することを学んで、どのようなことをしてよいのか、よくないのかを考えることはとても難しいということがわかった。医療技術、科学技術が発達したことによって、問題を解決しただけでなく、別の問題が発生しているということを学んだ、(類例複数)

とても身近に感じられる内容だった。将来子どもが欲しいかどうかではなく、できなかった場合にはどのような方法をとるのか、また諦めるのかなども思考する必要があると理解した。私は生命科学科のため、デザイナー・ベイビーや人間のクローン作製などの生命倫理の分野に関しては、あらためて考えさせられた。動物、細胞の実験は失敗の多い分野のため、確実と言い切れないものだという点も問題だと思った。これからの技術の発展は、しっかりと確認していきたい。


子育て地蔵尊(新宿区) 江戸中期から庶民に信仰されてきた、町のお地蔵さん
衛生・栄養環境が悪く医療も未発達だった時代には、子どもが無事に育つこと自体が尊かった

 

あと数年後には自分にも関係する可能性があると考えると、今回の内容はとても考えさせられるものだった。神にまかせるべきだという意見は、たしかにそちらのほうが人間らしくてよいと思った。

クローンやデザイナー・ベイビーのように、人をつくり出したり設計したりするのは、人の領分ではなく、それこそ神の領分だと思うので、技術的に可能だとしてもやってはいけないと思う。
デザイナー・ベイビーとクローンは、やはりやってはいけないと思う。自然の原理からかけ離れていると思うからだ。妊娠に関して人が介入するべきではないと考えてしまう。しかし、今回の授業で、代理出産に関してはどうしても子どもが欲しいという人にとっては仕方ないのでは、と思うようになった。
自然や生命は、人為的な干渉をするべきではないと考えます。「優勝劣敗」は自然の法則です。人類が自然・生命に過干渉することは、選ばれる者にとっては、健康に成長できるかどうか問題だと思います。

代理出産やデザイナー・ベイビー、ヒトのクローンなどいろいろあることにびっくりしたが、あまりよくないような考えが多くて、私はやめてほしいと思った。

できる、できないはおいておいて、デザイナー・ベイビーやヒトのクローンは倫理的な問題である。ゆえに、正解や間違いはないが、そういう問題こそ自分がどう考えるのかを明確にするのは大切だと思う。

代理出産やデザイナー・ベイビー、ヒトのクローンには、それぞれ問題があるが、正しい目的、安全性、尊厳などの基準を満たせば、おこなってもよいと思った。これらの先端技術は、今後応用され、革新的な技術に発展する可能性もあると思った。
デザイナー・ベイビーやヒトのクローンは、顔がいいとかアスリート並みに足が速いといった遺伝を選べるようになった場合、遺伝子の格差が生まれてしまうが、家系として目が悪い、病気になりやすいなどの遺伝子をなくすためにおこなうのであれば、問題ないのではないかと思った。
・・・> 授業では詳しいしくみを扱っていなかったのですが、デザイナーはともかく、クローンに関する知識・認識が不十分、というか基本的にわかっておられないようです。分野違いとはいえ、社会常識として(もっといえば、やっぱり理系なのだから)クローンとは何であるのかということくらいは知っておきたい、

ヒトのクローンなどは悪用される危険があると感じた。やはりそのクローンが犯罪や戦争のための兵器として利用される可能性があるため、実現するのはまだ難しいと思った。

人々の倫理感について考えさせられた。基本的には本人たちの同意があれば個人の自由だと思うが、クローン技術など、第三者にまで危害が及ぶ可能性があるものは禁止すべきだと思う。
・・・> 「基本的には」「本人たちがよければ」というのは、下手をすると「私は当事者でないので考えません。そちらでご勝手に」というふうに受け取られるかもしれません。この種のテーマでは避けるべき姿勢かなと思う。倫理と書いていますが、おそらく「あえて」ではないですよね。リンリカンというときに用いる漢字は通常、倫理です。倫理に関するセンス(感)ではなく見方(観)なのです。感として捉えていると、ふわっとしたものになり、人まかせになりがちでもあるので注意。


原爆の子の像(広島市 平和記念公園)

 

不妊治療は、現代の医療技術が生み出したものであると同時に、不妊や身体的な制約、あるいは性的マイノリティなどのさまざまな事情で子どもをもつことが難しい人たちに、新しい希望を提供するものであることがわかった。同時に、倫理的・法的・社会的な課題がまだ多く存在し、慎重な議論と対策が求められるテーマであることがわかりました。

不妊治療などの話は、自分に関係ないからと、なるべく避け、ニュースなどで流れていてもあまり取り込まないようにしていた。今回の授業では、不妊治療の具体的な内容や費用、妊娠の確率などを取り上げながら説明されていて、授業を受ける前よりも関心をもつことができた。他人事のように話を聞き流すのではなく、将来のことを見据えて、なるべくすべての物事に耳を傾けるようにしたい。

不妊治療は、いまの日本にはとても重要な問題だと思います。少子化やそれによる労働力など、これからの日本ではしっかりと考えていかなくてはならないことだと思いました。

最近、テレビのニュースで、中国の人口が激減していて、人口を増やそうとしているというのを見ました。人口を増やすということは、子どもをつくるという意味になるのだと思いますが、このばあい、社会のためなのか自分の意思を貫くのかといった選択になると思います。これについてどう思いますか?
・・・> ご存じと思いますが、中国は人口爆発に対応するため数十年にわたって「一人っ子政策」を採ってきました。世代を経てどうなるのかは単純な算数で想像できるように、極端な少子高齢化が進んでいます。勤労世代の人口が減少すると、生産力・生産量も減退しますし、社会の活力、ひいては国力が低減しますよね。そこで、いまさら反転というか、子どもを産めるならば産みましょうという方向に転換するのではないかといわれています。ただ、一人っ子政策が開始されたころと現在では、中国(人)の状況がまるで違います。少子化の一因として、ライフスタイルや人生観の現代化というのが挙げられます。所得水準が高くなり、働いて稼いで家族を食わせて子どもを育てる以外にも、自己実現や消費活動、趣味・文化・余暇など、いろいろなことを重視するようになると、子どもをつくりすぎないほうがいいなということになりがちです。したがって、途上国よりも先進国のほうが少子高齢化になりやすいのですね。政策的・人為的な誘導によって少子化が実行されていくうちに、中国が経済発展を遂げ、総人口の2割くらいの人は先進国型のライフスタイルや人生観をもつようになっています。いまさら子どもを産んで国に貢献しようという発想にはなりにくいかもしれません。社会のために子を産め、というのはあんまりだ、ひどいと思うのは、まともな感覚です。でも、国家そのものの発展を優先するような時代や社会にあっては、産めよ殖やせよというのは当然の論理・倫理となり、それに反する態度や言動のほうが抑圧されます。日本でも敗戦まではそうした傾向がありました。大学生のみなさんには、自分自身の将来の問題としてどのように考えるのかという問いをさしあげるのと同時に、社会の一員として、何が「まともな感覚」なのか、少数意見をどう扱うのかといった点にも常に目配りしてほしいと伝えたいです。

高学歴化と晩婚化によって少子化が進んでいるので、私が少子化を止める政策をつくるとしたら、受精したカップルに手厚い保証金を渡すようなことをしたいと思った。
・・・> ちょっと、おっかないですね。私が政治家になったら、という仮定の話なので揚げ足を取るのも無粋なのだけど、このようなデリケートな話題に関しては、国語表現を誤らないようにしないと、「あなたはそんな人なんですね」という誤解を自身が招くリスクがあります。(1) 1つ上の中国情勢に関する私のコメントをお読みください。個々人の意思やライフプランより、「子どもを減らしてはいけない」という国家や社会の都合を優先させるということに、本当に躊躇はないですか? (2)保証金なのか補償金なのかよくわかりませんが(原文は「保障金」となっていましたが、そんな概念はありません)、その財源は国民の税金であるはずです。私は(まったく/もうこれ以上)子どもを産みませんが産んでくれた人は社会に貢献しているので私の分もよろしく、という趣旨になるのでしょうか? 合意とれそう? (3)ちょっとしたことだけれど「受精したカップル」というのはおかしい。まあ、日常的にこの種のことを誰かと話したりしないとは思うので、不慣れなだけでしょう。受精するのは精子と卵子であり、カップルがおこなうのは性交か、不妊治療・生殖補助医療の受診です。

実際に、今現在で不妊治療によって生まれたという人は多いと思う。この技術をブラックボックス化しないことが最も大切なことだと思う。

不妊などは、この場にいる人の誰かしらは経験することであり、繊細なものだと思う。いままであまり興味がなかったが、一つの問題に対して多様な価値観があり、自分の意見も出してみることで、深く考えることができた。

不妊治療という言葉は知っていたが、いままであまり重く考えていなかった。今回の授業を終えて、選ばれてしまった人たちはどれほどの苦痛を強いられているのか、また以前の私のような考えをもっている人が大勢いることを知った。これからは少しでも、選ばれてしまった人たちのために、この問題を他の人に語っていくことで向き合えるようにしたい。

アメリカも高学歴の人が多いと思うが、日本、韓国、中国、ヨーロッパのような少子化があまりいわれていないのはなぜかなと思った。
・・・> アメリカもこのところ同様に少子高齢化が進んでいます。いままで大きな問題と認識されていなかったのは、移民の人口流入がつづいていたこと、アジア系・アフリカ系の人たちに多産傾向があることなどが、いわゆる高学歴層や高所得層での少子化をカバーしていたのですね。死亡率の低下(つまり高齢者の増加)や移民の制限などもあって、このところ人口増加率が低下し、白人では人口減がはじまっています。


水天宮(東京都中央区)
安産祈願で非常に有名な神社で、連日多くの妊婦さんと家族が参拝に訪れる

 

大学生になって、さらに成長していくこれからの自分にとても役立つ話でした。妊娠や不妊はわりと身近なことであって人ごとでもないと恐ろしく感じ、気楽に考えず生活していこうと考えています。
いま20歳で、23歳の年齢で社会人になり、早ければいまから5年以内に子どもができる可能性がある。いままでは非現実的なことだと思っていたけれど、授業を通して現実的なものだと思えた。いま自分が生まれているのは奇跡に近いものだと思った。不妊治療が少しずつ普及しているかもしれないけれど、それでも子どもを望んで産むことができない人もいるので、両親に感謝しなければいけないと思った。いまの治療法があるのも過去があってのことであり、現在があって未来があるので、いまの時点で最善の治療法を選ぶしかないと思う。

不妊治療の具体的なところを理解していなかった。今回、男性側・女性側に多くの精神的ダメージを負わせる可能性があること、治療をしても妊娠できないこともあるということを知り、生まれてくること自体が奇跡的なことであり、あまり人為的に介入してはいけないことだなと思った。

今回の授業は、社会に出たら教わる機会のないような内容でした。もし自分がその立場だったらと考えると、どうしていいのか正直わかりません。将来設計としては、子どもは欲しいですし、もし不妊だったときには最大の問題点だと考えた衝突を防ぐとともに、相手が苦に感じないようなサポートができるおとなになりたいです。

不妊になった場合、男性が女性に責任を押しつけがちだという話を聞いたことがあるが、不妊の原因はそれぞれに同じくらいの確率であると知り、根拠のない確信は怖いなと思った。

不妊治療についてあらためて考えてみたが、女性の視点に立ってみたときにいろいろつらいことがつきまとうのだなと思った。私は男性なので理解するにはかなり時間がかかると思う。また治療も高額であるという点で、生活の面にも影響が出る可能性があるのが、厳しいと思った。

子どもが欲しいという気持ちから不妊治療に着手する。それがうまくいかないと代理出産。もっと社会に広がって、やりやすい世界になってほしいと思った。女性が30歳を超えると子どもができづらくなるという話を聞いた。私の人生を考えるきっかけとなった。大学院に行くべきか、子供が欲しいかどうか。私や彼女の気持ちと相談するべきだと感じた。

将来、結婚しても子どもは欲しくないという考えだったが、今回の授業で不妊治療のことを聞いて、もし自分が普通に子どもをつくることができる体質であった場合、不妊治療をしている人にとってはその考えが嫌味のように聞こえるかもしれない、子宮の移植をしてほしいなどと思われるのかな、などと考えさせられた。

代理出産などで、親や親族をたどることができないと、遺伝病など血統をたどれば想定できるリスクを想定できないことになる。そのデメリットはいままで考えたことがなく、新たな視点だった。

私は、不妊治療や代理出産に賛成である。人生において子どもの有無をとても大事に思う人が多いと思うため、科学の力を用いても出産するというのはよいことだと思った。

人が生まれてくる前の問題点についていろいろと知ることができた。精神的なダメージを受けながら不妊治療を受けている人たちがいるという現状があるので、私は日本でも代理出産の制度をつくるべきだと思いました。代理出産を実施するうえでの問題もいくつかありますが、代理出産する側、してもらう側の合意があればよいと思います。
・・・> 今回は代理出産・代理母の問題は見出しに掲げる程度で本編での解説をしませんでした。ちょっとポイントがずれているところがあるのと、代理出産に関して絶対に押さえておかなければならない点がありますので、簡単に指摘します。不妊治療が精神的につらいので代理出産を、というレビューになっているのですが、文脈として、なくはないが、おそらくそこではないのだろうと思う。人として生まれたからには、自身とパートナーとのあいだに子どもを得て、自分が産むというプロセスが普通だと考え、できるかぎりそれでやりたいという心情があります。代理出産が可能だったとしても別の精神的ダメージが予想されます。また、不妊の傾向や種類についても検討が必要。受精までは行くが着床しないということであれば、代理母の「健常な子宮」を借りれば出産確率は高くなるでしょうが、精子・卵子のいずれかもしくは両方にそもそも問題があって受精そのものが困難であれば、着床可能な胎盤があったとしても妊娠は無理です。たとえば父親の精子が不全だったとして、ドナーが提供した他者の精子を使って受精卵を作製し、それを代理母の子宮に着床させたとなると、遺伝上の父・母、法的な父・母という要素に加えて、心情的な問題も出てきますので、混乱が予想されます。そんなレアケース、と思うかもしれませんが、もともと「少数者」の話ですからね。そして、「代理出産する側」との合意があれば、と書いておられますが、もともと妊娠・出産(分娩)自体に相当な危険があります。こんにちでは医療技術の発達で出産時に母親が死亡するケースはかなり少なくなっていますが、つい数世代前まではめずらしくなく、ゆえに「母子ともに無事です」というのが赤ちゃんの誕生を知らせる際の定型文になっていたのでした。代理母がビジネス化しかけているとされるアメリカで、代理母に応募するのが黒人女性や低所得のシングル女性になりがちだという点、白人と黒人とで産褥死のリスクが数倍違っているということも、無視できない要素だと思います。

受精(自然に起こる、精子と卵子の結合)と、授精(人工的な手段でおこなわれる精子と卵子の結合)の違いについて理解を深めることができた。
・・・> 「手へん」の授を使う用語があると初めて知った人もいるのではないかと思います。この指摘は、やや正確さを欠いていますのでもう少し説明しますね。レビューでは、人工的に精子と卵子を結合させれば授精であると認識しているようですが、そうではありません。精子だけでなく卵子も女性の体内から取り出して、父母の体の外側で(イメージとしてはお皿の上で)医師によって結合させる場合には、体外精と表現します。日本語だとジュセイという同じ読みになるので非常にわかりにくいですが、英語にすると受精はfertilization、授精はinseminationで、まったく別の概念。授精のinは「中に入れる」という感じの接頭辞で、semin- は種(生命のもと)というラテン語由来の要素ですから、人為的に精子を送り込む、というのが直接の意味になります。したがって、授精したところで受精するとはかぎらないということがわかります。人工精は、男性から取り出した精子を女性の体内に送り込む工程を指します。ですから「精待ち」ということになるわけです。

授業の最初のほうで聞いた、少子高齢化の原因にいまの高学歴化が関係しているという話がとても印象に残った。直接的な関係はなくとも、現在大学まで行く人が多く、そのために結婚が遅くなり子どもを産みづらくなってしまうと聞いて、関心をもったのと同時に、興味深かった。まったく関係がなさそうなことでも、つながっているということがとても興味深いと感じた。

少子高齢化に伴う若者世帯への負荷を、「一人っ子どうしが結婚すると、2人で4人の親を養う計算になる」と表現されたのがわかりやすく、結婚・出産のあり方について考えるきっかけになった。

少子高齢化に伴って子育て支援の必要性が高まってきている。今回の授業を受けて、不妊治療に対する対策を考えるべきだと思った。高学歴化が晩婚化を招き、そして不妊であると気づくのが遅くなることで、不妊治療の成功確率も低くなってしまう。早めに結婚すれば必ずしも子どもができるというわけではないが、不妊治療も早めに受けることができるので、早めに結婚したほうがいいと思う。

授業を通して、あらためて日本では少子高齢化を止めることは難しいのではないかと思った。現在、高校から大学へ進学する割合は50%以上である。4年制大学に進んだ場合、安定した収入を得られるようになるのは20代後半と考えられる。この段階で、女性が子どもをつくりやすい健康状態のピークを過ぎてしまう。このようなことを考えると、いまの若者は結婚を考えることは少なくなり、安定した収入を稼げるようになるころには自分自身の趣味へと回していると考える。少子高齢化をやわらげるには、女性への国からのサポートが重要だと考える。

不妊治療をしたとしても3040代になると授かる確率は1割程度とかなり低くなっている。なるべく20代で産んだほうがいいだろうと考えるが、経済的理由や、高学歴化・晩婚化など、難しい問題となっている。
・・・> 「経済的理由」を前にもってくると、若干センスを疑われるかもしれません。レビュー主は男性ですが、自分が女性だったらと置き換えて想像することができるでしょうか。自己決定とか自身の生き方の問題にかかわることであり、ゆえに「難しい問題」なのです。

不妊は、将来的に自分もなるかもしれないと考えると、他人事ではないと思う。世の中の高学歴化が進み、結婚する年齢が高くなったことで、子どもをつくろうとする時期が遅くなっていることも、不妊の人が多くなることにかかわっていると思う。不妊治療は、子どもをもちたい夫婦にとって必要な技術であるし、もっとやっていくべきだと思うが、保険適用外なのが少し引っかかる。日本は少子高齢化であるし、これから2030年後の働き手を移民やAIにしたくないのであれば、不妊治療を保険適用とし、子どもをもちたいと考えている人を後押しできる政策をおこなうべきだと思った。

不妊治療などに関しては、親から聞くか、ドラマで見るくらいしかないため、当事者的な考えではないのですが、精神的なストレスが大きいのだろうと思いました。先生がいっていたように、治療中に病院に行けば周囲に授かった夫婦もいるし、女性の側への身体的ダメージが大きいということもストレスにつながると思いました。


ニューヨーク マンハッタン  

 

これから自分に生まれてくる子どもに障害があるかどうか調べられるとしても、知りたくないと思ってしまった。知って、産みたくないとか考えたくないし、しかし、もし障害をもって生まれてきたら、そのときのことを後悔してしまうことになるのかなと思って、難しいなと思った。

出生前診断では、侵襲型の検査で女性への身体的ダメージがあるものもあると聞いて、慎重に判断しなければならないものだと知りました。もっとこれらについての知識を身につけたいと、授業を聞いて思いました。

出生前診断には賛否もあるが、賛成の立場である。どちらを選んでもその人の幸せのためなら仕方ないことだと感じた。

出生前診断をどうするかということについて、私はやりたいと思ったが、実際にどんなことをするのかと聞いたときに、女性に対して身体的・精神的なダメージがあり、私自身で決められることではないと実感した。

亡き妹は出生前診断で病気が見つかり、産後に調べると、それは別の病気であった。そのときの私はまだ幼く、詳しくはよくわからなかったが、当時の両親の気持ちは計り知れないものだと思う。私も将来、主産ということに向き合うことになるかもしれないので、考えていこうと思う。

少し前に、障がいをもつ男女が、子どもが欲しいと思って妊娠、出産して話題になっていたことがありました。結果としては、そのお子さんには障がいが遺伝子、親となった2人も育児を全うできていない状態になりました。個人的には子どもを出産することは権利ですが親になれば育児は義務になると考えています。この問題は簡単に白黒つけられるものではないと感じました。
・・・> もっともに聞こえそうですが、悪しき優生思想と背中合わせだという自覚を。ご指摘の話題では、当事者カップルに対するバッシングがひどく、また別の問題を惹き起こしましたし、その過程で明らかに優生思想のヒートアップが起こりました。レビュー主のように「個人的には」というエクスキューズを立てて発言する人が目立ちますが、個人的な考えであろうと、SNSやコメント欄に記載すればオープンなものになり、他の人や人たちになんらかの影響をもたらします。「障害者の子育てはどうあるか」というような一般論を論じる場であれば大いに議論すればよい。しかし、当事者に向けて関係者でも親戚でもなんでもない人たちが正義感や倫理観をふりかざして批判や攻撃を浴びせるというのは大問題です。レビュー主にその種の悪意があるといっているわけではなくて、そうした「場面分け」をもう少しおこなっていくようにしましょうね、ということ。

障がいや遺伝病の有無、人種などを、生きるべきか死ぬべきかを考える基準にするのは間違っている。生きとし生けるものはすべて美しいと考える。


パリ リュクサンブール公園

 

今回の授業で示されたような立場に私がならないとはまだいえないので、自分自身の問題ではないと他人事のように扱うことはできないなと思った。少数側の人たちも、望んでそちら側に行くことは少ないと思うので、理解し、許容することが大切だと思った。

子どもは授かりものだというが、授かったものに対して、能力や容姿の違いはあるため、それらとどう向き合っていくのかとても考えさせられた。
・・・> まあ、ですけど、親が「つくった」部分はそれとして、出生後(成長後)に後天的に獲得していく要素が大きく、それこそ親の意思や願望ではどうにもならなくなります。自分たちだって、親の設計・企画どおりに人生を歩み、日々を送るつもりはないですよね。だからおもしろいし、意義深いのだと思う。なんていうのは、教育(いろいろなコンディションで生まれてきた子どもたちにはたらきかけて、なんらかのものにする作用)の専門家だから?

調べてみると、人間の死因の中でも人工妊娠中絶が高い割合を占めていることがわかった。われわれは、中絶が殺人をしているという意識が足りていないと思う。また中絶手術をする医師についての映画があり、そこで医師は大きな精神的ストレスを受けていたため、中絶をなくせるような社会ができるとよいと考える。
・・・> 先日、アメリカ合衆国大統領選挙が実施されました。両候補とも、人工妊娠中絶の可否やあり方を重要公約のひとつに掲げていたのですが、気づいたでしょうか。アメリカでは上下両院議員の選挙などでも、ほぼすべての機会において、政治家をめざす立場の人はこの問題への賛否や見解を問われます。世界的に見ても異常なほど、人工妊娠中絶をテーマに立てたがる国民だといえます。賛成派・反対派の議論をよく見てみてください。論点が完全にずれています。これは、問題を日本国内に移したとしても同じことになります。レビュー主は「中絶=殺人」であり「なくせるような社会」が理想だといっていますが、リプロダクティブ・ライツ(生殖の権利)という近年の観点からすると容認できない意見になることでしょう。あなたの意見が間違っていてだめだといっているわけではなく、まったく別の視点から、正反対の結論を支持する声が相当にあるということを知って、そのうえで自分の考えを深めてほしいということです。残念ながら、世の中には望まない妊娠というのもかなりあります。犯罪の被害によって妊娠させられた女性に「中絶するな」というのは、セカンド・レイプ以上の拷問のように思います。

私は、科学技術の発展によって救われてきた人と、それでも救われない人がいて、少数派である後者の側の人の立場になって考えることが、社会全体をよくすることにつながると考えている。そのため、第三者の立場から当事者に対して意見するのではなく、助けを求められたら協力することが大事なのだと考えた。

今回は言葉選びが難しい単元だった。誰かにってプラスのことがあっても、それが万人には通じずマイナスと受け取る人もいるということをあらためて感じた。

出生にかかわるさまざまな方法、倫理的な問題に触れることができて興味深かった。ゲノム解析などという方法もあるが、成功例が少なく、失敗した際に何かしらの異常をもって生まれてくる子どもにどう向き合っていくのかが非常に大事だと感じた。

答えが一概に出ない、簡単に出せない問題について考えてみることは、とても難しいと思った。過激で行きすぎた答えを出してしまいかねないとしても、考えなければならないからだ。また優生思想は、Xやコメント欄などはすでにそういう言葉であふれていると感じるので、幼いころからネットに触れていると、そういう思想に染まりかねないと思った。
SNSを見ていると、過激な優生思想の人がたまにいるし、意外にもそれに賛同する人がいて、驚いたことがある。

今回はいつもより踏み込んだ内容が多く、考えていておもしろかった。優れた人間でもないような人が、普通の人間よりも下の人間だからと排除すればいいと考えてしまう優生思想の人たちは、残念な人間だと感じた。

SNS(とくに旧ツイッター)を見ていると、ほぼ毎日デマとみられる投稿がある。それだけであれば問題はないのだが、そういった投稿にはたいてい数百万ものインプレッションがついてしまう。こうした状況は、少数派の主張が抑え込まれる要因となるため、一つの視点から流されず、複数から見て物事の正否を判断する必要がある。しかし悪意をもって少数派への偏見、差別をおこなっている投稿者がいるのは明確であり、インターネットという環境に性善説を求めるのは難しいところがある。
・・・> 有毒なデマを流布する側も、実は少数者です。SNSの機構やそこに内包されているAIが倫理的な価値判断までできるわけではないので、量的なアルゴリズムを優先する設定にしてあれば(それだけではないのは承知していますが)、どうしても拡散され、無責任に広がって共有されます。もう一つ問うべきは、「インターネットという環境」という広い世界ではなく、そこに根ざして商売する業者の問題。イーロン・マスクがツイッターを買収してXにしたあとで、倫理的な部分よりも収益性に傾斜する仕様に変更し、それに反対する社員・技術者がかなり退社しました。インプレゾンビが出現し、ご指摘のように日々界隈を荒らしているのも、その結果といえます。ますくも、彼が支持するトランプ次期大統領も、思い込みや願望による主張が強く、それに反する考えを切り捨てるような傾向が目立ちます。これから、どうなるんでしょうね。

優生思想について、認められてよいはずはありません。あってはいけない。でも、これがきれいごとに聞こえてしまうこともあるんです。友達に「しょうがい児」の方がいるのですが、毎日つらいといっていました。妹が死んでくれればいいのにと相談されたこともあります。私は、何が正しいのかわからなくなりました。こういうことを考えはじめると、障碍をもった人は生まれてこないほうがいいのではと考えてしまいます。私もそうですが、障碍をもってうまれた人の多くは「生まれなきゃよかった」と、どこかのタイミングで思ったことがあるはずです。いまは前向きに生きていますが、もし私と同じような人が生まれてくるのなら、つらい思いをする前に死なせてあげたいと思ってしまいます(中絶などの話です)。わがままで身勝手なのはわかりますが、こう考えてしまうことすらつらいんです。みんなが幸せになる社会は「障碍のない世界」だと考えてしまいます。きれいごとでもいいから信じて、すてきな社会をつくりたい。

今回の授業で「生まれ方」ということについて深く考えました。人が生まれるというのは簡単なことではなく、妊娠できない人というのも世の中にはたくさんいます。そのため不妊治療という手段があるが、経済的リスクや心理的負担などの問題もあります。また生まれる前の子どもになんらかの操作を加えるという問題では、生命倫理の規準だとよくないが、遺伝している病気を止めるとか、人間の進化を考えるといった点であれば必要なことだと考えます。しかし生まれた子どもには社会からの心理的負担のリスクもあります。人の命は平等で尊いものであるため、代理出産やデザイナー・ベイビーなどとして組まれた子どもひとりの人間であり、価値観を押しつけず、それを受け止めることが重要であると考えます。今回とくに思ったのは、女性のリスクが多すぎるということでした。産むのにもリスクがあり、妊娠できる体なのかもわからず、何より若いときから「生理」というかたちで身体的・精神的な苦痛をずっと受けており、この先も大変になるのだと感じました。

人の親になるということは、交際や結婚など恋愛の延長線上にあると単純に考えるのがおかしいと思った。出産や子育てというと、聞こえや見栄えはよいが、そこにいたるまでがどれほど困難で、それを継続することがどれほど大変なのか、私を含めた若者たちが理解できているとはとても思えない。これらの問題でいちばん大切なものは覚悟だと思う。自分たちの子どもを死ぬまで愛し、立派なおとなに育てあげることや、どんな個性や疾患をもって生まれてきても大切にすることができるのかなど、先の見えないゴールをいくつも抱えるということを最初からわかったうえで臨む必要がある。人の親になることがどれほど大変なのかを、授業を通して深く考えることができた。

代理出産、デザイナー・ベイビー、ヒトのクローンなど、生まれる子どもをいじるようなことはよくないと思う人もいて、私もいいことではないと思ってはいたけど、ヒトの生命の誕生は尊いものであるため、そのまま生まれてくることが一番ではあるが、もう少しいろいろなことを認めてあげてもいいのかなと思った。

命の尊さを守るのに一定の線引きは必要であると考えるが、生み出された技術もまた誰かが必要としたものだと思うので、よい・悪いを決めるには、まだ知らないことが多くあるのだと思った。

今回の授業を通して、生命に関する問題を倫理的観点から見て、学んだことがある。今回の問題は倫理的な問題の一部に過ぎず、線引きは個人多文化の違いによっても異なると思った。科学の進歩が倫理の議論や考えを追い越すことがあった場合、倫理的な判断は常に慎重におこなうべきだと思う。

 

 


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