1 左岸縦断歩きに挑戦!

 

 



左岸(地図左側)のオステルリッツ駅 対岸側にリヨン駅がある





花の都パリを含むフランス全土に非常事態宣言l’État d’urgence décrété par le Président de la République)が発令されて3ヵ月。1113日の痛ましい同時多発テロ事件以降初めてパリを訪れました。見るかぎりは私がよく知っている普通の、普通どおりのパリ。でも警戒とか厳戒のぴりぴりした感じはよく伝わってきます。在パリの知人にお見舞いを伝えると、「いろいろなことがありすぎました。そして、問題はまだ何も解決していません」と沈痛。中国人や日本人の観光客は見るからに激減していますし、前日はルーヴル美術館に行ったのですが正午前なのに1秒も並ばずに入館できました。やっぱりパリは避けられています。パリは特別に危なくてどこなら安全だということもないし、何といってもこの町は私にとって特別な「記憶の場」(lieu de mémoire)ですので、この季節に14年連続、予定どおりにやってきたわけです。

2016220日(土)の朝9時半ころ、セーヌ川左岸に面したSNCF(フランス国鉄)のオステルリッツ駅Gare d’Austerlitz)に来ました。ここが今回のスタート地点。空模様は朝からよろしくなく、傘を差さないと風邪を引いてしまいそうなくらい。せっかくの町歩きなのに残念で、中止しようかと思いかけたのですが、たぶん長くは降りつづかないだろうと予想して予定どおりの出発としました。SNCFのターミナル駅はパリ市内に6つあり、オステルリッツはその中でも最も地味かもしれません。私にとっては、実質的にパリ・デビューだったときにここから列車に乗ってオルレアンを訪ねた思い出深い場所です。まずは駅構内を観察することにして、ブリオッシュ・ドレ(Brioche Dorée フランス全土に展開するファストフード的なパン・サンドイッチ屋さん)で朝食セットを購入。クロワッサンとカフェ・クレムで€4.20です。長距離列車を待つ人たちが腰を下ろしているベンチの一隅をお借りしてさっそくいただくと、構内に居住?しているハトやスズメがパンくずをねらって次々に寄ってきました。手のひらにのっけて差し出すと、まったく怖がらずに「手乗り」してついばみます。かわいいねえ。

かつてリュクサンブール公園で昼食どきにそんなことをよくしました。フランスではパン類の外食いが普通ですし、レストランでもテラス席で食事することが多いので、うまい具合に?ハトと人間とが共存しているのです。




メトロ5号線が駅舎を「串刺し」にする!


トゥールーズまでの長距離便のほか、ロワール川流域の
トゥール、オルレアンなどへの中距離便が発着

 

 


オステルリッツというのはいわゆる戦勝地名で、180512月に現在のチェコでおこなわれたアウステルリッツの三帝会戦Bataille des Trois Empéreurs d’Austerliz)にちなみます。地上に皇帝はひとりだけというのがキリスト教世界の約束事だったはずなのに、近代国民国家の時代に入りかかって、何人もの皇帝が出現していました。フランスのナポレオン1世、神聖ローマ帝国のフランツ2世、そしてロシア帝国のアレクサンドル1世が直接参陣して激突、ナポレオンのフランスが2帝国軍を撃破して、大陸内の主導権を確保しました。歴史的にみれば、ナポレオンが戦後処理においてドイツ地域の秩序再編を敢行し、まさに地上にひとりの皇帝を擁していた神聖ローマ帝国を解体に追い込んだ結果が重要ではないかと思います。これからはいよいよ国民国家の時代である、ほんわかした普遍帝国など要らんということだったわけですが、欧州統合の挑戦と混迷、さらには非国家的アクターの出現(今般のテロを主導・煽動した自称イスラム国などまさにそうです)といった現状を思うに、もしかするとまた時代の変わり目に立っているのかなと考えたりもします。

オステルリッツ駅が地味な印象を受ける原因は、ここに新幹線TGVが入らないことにもあります(TGVが入らないターミナルは他にサン・ラザール駅)。オーベルニュ、中央高地、フランス南西部方面への長距離列車が発着するとはいえ、多少遠回りでもTGVを軸に乗り継ぐほうが早いという箇所が多くなりましたし、LCCの登場いらい大手航空会社も値引きに努めていますので、物好きでなければ延々列車に乗りつづけるというメリットが薄れました。それでも、日本では絶滅危惧種化している夜行列車の設定はまだあります。たとえば南西部の主要都市トゥールーズを2230分に発車する夜行特急(Intercités de nuit3750列車だと、オステルリッツ着は翌朝の652分。1泊を浮かせて朝から首都で用事をという人には最適の時間帯です。スペインのマドリードを1325分に発車して、南仏のナルボンヌでの乗り換えをはさめばこの便につながるのですが、さすがに17時間もかけてパリをめざす乗客はほとんどないことでしょう。現状、マドリードからバルセロナを経てフランス最南部のペルピニャンまで高規格の高速新線が開通しており、ペルピニャン〜アヴィニョン間が建設中ですが、当面その間は在来線経由になるにしてもTGVのほうがかなり速いです。このTGVはリヨン駅に発着します。オステルリッツはひきつづき地味な役回りを負うことになるのでしょう。



英語のほかスペイン語の案内があるのがオステルリッツならでは
英・スペイン語だとGare de(〜の駅)ごと固有名詞になっているんですね


オステルリッツ駅前からシャルル・ド・ゴール橋越しにリヨン駅(時計台の建物)を望む




そのリヨン駅(Gare de Lyon)へは徒歩連絡になります。セーヌ川に架かるシャルル・ド・ゴール橋(Pont Charles-de-Gaulle)は1996年に架橋された新しい橋。そこを渡る300mほどの移動になります。リヨン駅はその名が示すとおり商都リヨンやマルセイユとを結ぶ大幹線のターミナルなので規模が大きく、いつでもにぎわっています。まあ私はスポットが当たりにくいオステルリッツをひいきすることにして、今回はこれだけの行数を費やしました(笑)。

オステルリッツ駅にやってくる鉄道にはSNCFのほか、RER(高速郊外鉄道網 SNCFとパリ交通公団RATPが共同運行する高規格の地下鉄)C線と、RATPのメトロ5号線および10号線があります。RER-C10号線は地下、5号線はこの付近で地上を走り、ターミナル裏手のタクシー乗り場を渡り越して駅本屋に突っ込むような位置にホームが設けられています。右岸側から5号線に乗ると、急カーブと急勾配で突然セーヌ川「上空」に躍り出て、そのままオステルリッツ駅に突っ込むので、花やしきのコースターみたいで楽しい。RER-C線はこのままセーヌ左岸に寄り添いながら進み、左岸の要諦サン・ミッシェル・ノートルダム、エッフェル塔最寄りのシャン・ド・マルス・トゥール・エッフェルと走って、ヴェルサイユ方面に向かいます。もともとオステルリッツ駅に入る路線はパリとオルレアンとを結ぶ私鉄として敷かれたもので、世界恐慌後に国有化されました。この私鉄はさらなる都心乗り入れを図り、いまC線が使用している地下線を建設して、ルーヴルの対岸にあるオルセー(Orsay)に新たなターミナルを設けました。が、のちに中・長距離便は再びオステルリッツに集約され、オルセーは単なる地下鉄の中間駅になってしまいます。地上に建てられたターミナル駅舎を再利用して造られたのが現在のオルセー美術館(Musée d’Orsay)です。入ってみると、随所に鉄道駅だったときの名残が見られます。いやそれよりも、セーヌの対岸から外観を眺めるほうがわかりやすいですね。


 
リヨン駅に比べると駅前の飲食店も地味(笑)
(右)朝食セットのタイトルがTGV、コライユ(旧来の急行だが現在は廃止)、1等車・・・ とある

 


さあいよいよオステルリッツ駅をあとにして、町歩きに出かけましょう。今回は左岸といってもセーヌ川からかなり離れたゾーンを歩きます。幸い雨も上がりかけのようです。駅正面から真南に進む大きな道路はロピタル通り(Boulevard de l’Hôpital)。その名の由来となったピティエ-サルペチエール大学病院(Hôpital de la Pitié-Salpêtière)はオステルリッツ駅の南側にかなり広い敷地を有しています。さっそく上り勾配。他の5つのターミナルと比べても駅前らしいにぎわいというのがほとんど感じられません。やっぱ地味やね〜。国鉄駅を串刺しにしたメトロ5号線はしばらく地上を走り、この道路と並走。このまま直進すると大きな円形広場であるイタリア広場(Place d’Italie)に出ます。このところ毎度足を運ぶ13区の中華街の近くですが、今回は途中で右に折れるサン・マルセル通り(Boulevard Saint- Marcel)に入りましょう。ここは私にとっても非常になじみ深い地区で、生活感あふれる住宅街の一角です。常宿からリヨン駅またはモンパルナス駅に向かう際に利用する路線バス91系統はここを通ります。そう、今回は91系統の進路をだいたいなぞるようにして西に向かう予定です。


聖マルセルは5世紀前半のパリ司教

あらためてじっくり観察しながら歩くと、食品スーパーやクリーニング店などのほか、住民が気軽に利用するような飲食店などもぽつぽつ。それと、少し前までダメダメすぎた地図案内とかバス停の表示が一新され、その点で非常に優れたロンドンの水準に近づいてきているのに気づきました。おそらく立候補している2024年の夏季五輪招致のために、ホスピタリティとかユーティリティの向上に(いまさら)努めているのでしょう。何にせよいいことです。


 
バス停名にもなっているジャンヌ・ダルク像

 


長いことこの界隈を歩いているのに由来がいまもよくわからないのが、サン・マルセル通りの途中にあるジャンヌ・ダルク像。右手に軍旗を握った凛々しい立像です。ジャンヌ・ダルクは私自身の学問的な脱皮のきっかけをつくってくれた人物で、ゆえに一時期はその足跡を追いかけたりもしたのだけど、基本的にはパリとのかかわりはさほどありません。奇蹟の少女などと呼ばれているものの、実際の軍事的勝利といえばオルレアン解放戦くらいで、あとはシャルル7世をランスに連れて行って即位の実を与えたという功績。パリ奪回をめざした戦いは失敗に終わり、彼女も負傷しました。物語全体が神がかっていて真相がよくわかりませんが、これで「化けの皮がはがれた」と思った人たちも多かったのではないかな。パリ市内でここの他にジャンヌ像が見られるのは、ルーヴル近くのリヴォリ通りと、ノートルダム大聖堂の伽藍内。リヴォリのほうは騎馬像、ノートルダムはここと同じ立像です。個人的にはノートルダムの白い立像がいちばん好きだな。

雨降りの土曜の午前とあってか、歩行者もあまりなく、自動車もさほど行き交ってはいません。お、雨がやみました。折り傘をたたんで収納し、両手フリーで散策することができます。



レ・ゴブラン交差点からカルチェ・ラタン方向を見る 奥のドームはパンテオン

 

アラゴ通り

 


ジャンヌ像から3ブロックほど歩くとレ・ゴブランLes Gobelins)の交差点に出ます。ゴブラン通り(Avenue des Gobelins)とここで直交し、いま歩いてきたサン・マルセル通りはこの西でアラゴ通りBoulevard Arago)とポール・ロワイヤル通りBoulevard de Port-Royal)に分かれます。レ・ゴブランは常宿から徒歩5分くらいなので完全に「地元」。交差点角のカフェは毎度利用しています。ゴブランといえば17世紀初めのアンリ4世時代に造られた国立ゴブラン織製作所(Manufacture nationale des Gobelins)。おそらくは中国に由来する絹織物の技術を取り入れ、重商主義の文脈に沿って国家がその生産を後押ししたものです。ゴブラン通りを南に進むとイタリア広場で先ほどのロピタル通りなどと交わります。このところ、この13区界隈をちょくちょく探険するようになっていますが、微妙なアップダウンなどもあってなかなかおもしろい地区だと思うようになりました。


アラゴ通りからパスカル通りを望む ポール・ロワイヤル通りの鉄橋を
アンダークロスした先の右手がわが常宿レスペランス


基本的にはポール・ロワイヤル通りに沿って進むつもりですが、ここはいったんアラゴ通りに入ります。こちらのほうが道幅というか歩道の幅が広く、ゆったりとた並木道。レ・ゴブランの次のバス停がパスカルで、パスカル通りRue Pascal)と直交する地点を意味します。欧州では歴史上の人名を道路に冠するのが普通ですが、それにしてもパスカルとはVIP級の偉人じゃんね。どっぷりキリスト教に傾注した思想家としては最後の世代で、かつ自然科学が哲学から離陸する直前のさまざまな業績で知られます。
« L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant.» (Pensées)
「人間は1本の葦にすぎない。それは自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である」(「パンセ」)


 
グラシエール通り付近


法令による規制で「マンション」は市の中心部(これより側)には皆無
こういうゆとりある建物を見ると、周辺住宅地に来たなという感じがします

 


パスカル通りの命名は彼が一時期この近くに住んでいたことによります。私の常宿はこの通り沿い(ていうかいま歩いているところのすぐ近く)にあります。アラゴというのは物理学者フランソワ・アラゴ、この北を並行するクロード・ベルナール通り(Rue Claude Bernard)は高名な医学・生理学者の名に由来しており、この一帯は全体に理系のにおいがぷんぷんする。帰国したらすぐに理科の授業づくりの指導にあたることでもあり、こちらもネタをどんどん収集しよう。理科の先生をめざす向きは、欧州に来て自然科学の勃興の歴史を体感するといいですよ。生徒がみんな理系であるわけでも、理科好きであるわけでもないのだから、ただサイエンスを伝えればいいというものではないのです。

このままアラゴ通りを直進するとRER-B線の駅があるダンフェール-ロシュロー(Denfert- Rochereau)に達し、道路名を変えてモンパルナス墓地の南辺を進むことになります。ダンフェール-ロシュローといえばなぜかRATPが運行するオルリー行きの空港バス(Orlybus)のパリ側の起点になっているところ。シャルル・ド・ゴール空港行きのロワッシーバス(Roissybus)がオペラ座から出るのに比べても、何とも中途半端なところから出ますね。ライバルであるエールフランスのバス(路線バスの改良型を使用するRATPに対しこちらは車体がデラックス)のほうも、ド・ゴール行きは凱旋門またはモンパルナス駅、オルリー行きはアンヴァリッドとこれまた中途半端な起点で、いまだに趣旨がわかりません(汗)。エールフランスのモンパルナス線は、先ほどのサン・マルセル通り、ロピタル通りを走ってリヨン駅に停車してから空港に向かいます。



アラゴ通りとグラシエール通りの交差点


ヴァル・ド・グラース前

 

 


アラゴ通りからさらに南に分岐するレオン・モーリス・ノルドマン通り(Rue Léon- Maurice- Nordmann)にちょっとだけ寄り道。パン屋さんとか新聞屋さんなどが並ぶ商店街でした。道路名の由来をいちいち記しているときりがないものの、人名らしきものだとつい興味を惹かれます。ノルドマンというのは第二次大戦中のレジスタンスに参加し、ドイツ軍に銃殺された人とのこと。


そのあとグラシエール通り(Rue de la Glacière)に入って北に向かいます。1ブロック進むとアラゴ通りとの交差点。19世紀半ばのオスマン(ナポレオン3世の側近でパリの近代化に尽力したセーヌ県知事)による市街地再編事業の一環として整備された広い道を、一気に渡ります。グラシエールというのは氷室(ひむろ)とか氷屋さんのことで、このへんにそれらしきものがあったらしい。しばしば利用する路線バス21系統が通る道でもあります。これに乗るとホテルの200mくらい手前で降りて歩かなければならないので面倒なのだけど、本命の27系統がなかなか来ないときには代用として使えます。いずれもルーヴル付近からサン・ミッシェル、リュクサンブールを経てカルチェ・ラタンに入り込む路線で、メトロが走らないような地区をうまく結んでいます。なおグラシエール通りはこの先でベルトレ通り(Rue Berthollet)と名を変えます。18世紀後半、化学という分野の確立に貢献した学者の名に由来します。彼の弟子であるゲ・リュサック(Gay- Lussac)の名もこの近くの道路名に冠されていて、キュリー研究所やパストゥール研究所に向かうときに通ります。科学史好きの人は、やっぱりパリ左岸に来なきゃ。

 

 

*「歩いてよう」の表現は、五百沢智也先生の名著『歩いて見よう東京』(岩波ジュニア新書、1994年、新版2004年)へのオマージュを込めて採用しています
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=122125円くらいでした

PART2へつづく

 

この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。