|
4- マニアックな運河クルーズ <2> |
||
|
|||
|
まあここまでは、いっては何だがどこにでもあるような水路を舟で往復しただけですが、ぐんと幅の狭いサン・マルタン運河(Canal Saint Martin)に入り、いよいよカノラマならではの景観になります。舟に乗り込んだ場所を過ぎ、運河にさしかかってすぐに小停止。目の前(下流側)が鉄柵で仕切られています。これから終点まで、4ヵ所もの閘門(こうもん)を通り抜けて高低差25mを下るのです。その最初がここ、ジョレス閘門(Écuses Jaurès)。いただいた日本語パンフには「水門」と訳されていますが、これだと私たちの語感とずれますので、訳しなおしましょう。 さて閘門といえばパナマ運河がいちばん有名だけど、隅田川と荒川を結ぶ水路(小名木川〜旧中川)のいちばん荒川寄りにある荒川ロックゲート(2005年完成)も同じ原理です。私とても水路好きなので一度ためしてみようと思いつつ、遺憾ながら未体験。荒川のほうは、下町のいわゆるゼロメートル地帯の地盤沈下が進んでしまい、隅田川と荒川の水位差が大きくなってしまったことから造られました。小名木川そのものが小閘門をいくつも有していて、かつてはサン・マルタンと同じような機能を託された運河だったのです。近年、震災などで陸地がやられた際の水運の有効性が再評価されています。 閘門の原理そのものはいたってシンプル。水路を塞ぐゲートを2基つくり、その間のスペースを閘室(こうしつ)とします。下りの場合、舟が閘室内に進入すると後方のゲートを閉め、閘室内の水を抜いて水位を下げます。次の進路と水位がそろったところで前方のゲートを開放し、舟を先に進めるのです。このジョレス閘門は二重閘門になっていて、前後の水位差がとても大きいため、閘室を2つ連続して設置してあります(つまりゲートが3基あるということね)。まず第1閘室の水位を下げ、同時に第2閘室に注水してそちらは水位を上げて、両方の高さをそろえます。そうして舟を第2閘室に進めて閉じ込め、そこの水位を下げて下流側の水路と同じレベルにします。3基目のゲートを開ければ完了。話にはよく聞くけれど、実際に水上で体験するのは初めてで、わくわく。舟の最前部には幼児・児童数名がいてきゃっきゃと騒いでいますが(あまりしつけができていないようだと市民性教育するぞ 笑)、君たちにはまだ、この地味なおもしろさがわからんだろうな(大笑)。おとなたちもけっこう興奮していて、両岸や橋の上にも見物の人がかなりあります。真後ろに座っている初老の数名グループはどうやらドイツ人らしい。日本人観光客もかなりパリ好きだけど、ここまで来るのはリピーターだけでしょうね(もっとも昨今はパリに来る観光客自体がめっきり減った印象。中国人の増加と反比例している感があります)。 |
||
|
船着場へ来るときに下車したメトロのジョレス駅付近の真下を、トンネルで抜けます。レンガ積みのアーチ状トンネルで、ヨーロピアン・クラシックな感じ。トンネルを抜けるとやや広めの水路になります。どうやら固有名詞は不確定らしくパンフにはCE BASSIN(この池)とあります(笑)。「この貯水池は釣り人達で賑わいます。(ここでは、8種のロルク運河から来る魚を釣る事ができます)」。いまのところ釣り人は見えませんが、上りのカノラマとここで行き違いました。何となく下り舟を選択したのだけど、閘門は上りのほうがおもしろかったかもしれません。連体修飾語「8種の」の位置はそこだと誤読されるよね。外語への訳出って、思うほど簡単な作業ではありません。パンフはつづけて「この地域は約100本の8〜10Mの高さの柱が立っている上を運河は流れています。(地下はここやノートルダムの様にしっかり詰まっています。この地域の運河は杭の上に置かれています)」と興味深いことを教えてくれる。ノートルダム寺院の地下がしっかり詰まっているという予備知識はなく、「ここ」もそうだとすれば文意がおかしくなるのだけど、本来の水位よりかなり高いところまで河床をかさ上げして水運を維持している、という趣旨なのだろうな。水が流れるままにすればセーヌ川へ向かってかなり急流になってしまい、水深が確保できず、舟運など不可能になってしまうでしょうから。19世紀を通じて、古典古代からずっと「都市」でありつづけるパリを近代的なものに造り替える大掛かりな工事が方々でおこなわれました。この運河もその一環として造られたのでしょう。水路というのは何より可視的(visible)な存在ですから、人々が「近代」や国家権力の姿をそこに投影するのは容易だったと思う。 |
||
|
しばらく進むと死の閘門(Écluses des Morts)。ここも二重閘門です。いきなり物騒な固有名詞になっているのは、日本語パンフによれば「メロヴィング朝(4〜5世紀)の大墓地からその名を取っています。(略)この近くの丘の上にはパリ市民に恐怖と残酷心とを与えた60人を一度に色々な高さ絞殺する事の出来る高さ25Mのモンファコンの絞首台がありました。1つ目の位置は小悪人、2つ目の高さは極悪人と区別されていました。13-18世紀の間には20人の大蔵大臣がモンファコンで彼らのキャリアに終止符を打ちました。絞首台は1789年の革命で解体されました」ということです。この説明だと「墓地」というより恐怖の絞首台に由来して命名されたように読めるのだけど、どうなんでしょうか。大蔵大臣だけが首をねらわれたわけでもないでしょうが、前近代のキリスト教世界では、徴税とか財務に携わる役人はとにかく嫌われましたからね。権力のバランスがどこかで崩れたりすると、ターゲットにされて処刑されたのかもしれません。封建時代の暗黒さを象徴する絞首台をフランス革命で解体し、もっと簡単に?大量の被告を処刑できる断頭台(ギロチン)を開発したのだから、人間の社会とは恐ろしいものでござんす。 とはいえ、水面から見るかぎり周囲に死のにおいはなく(当然か!)、水路に沿って並木道もしつらえられているのでさわやか。お天気のよい午後ですので散歩する市民が目立ちます。 |
||
死の閘門〜レコレ閘門間は広めの水路をゆく |
|||
|
サン・マルタン運河はその先で左に大きく折れます。進行右手、水路の西岸側にはヴィルマン公園(Jardin Villemin)というさほど大きくない公園があり、たまたま昨2010年2月にふらっと散歩しました。ナチスと結んだヴィシー政府がユダヤ人の子どもたちを隔離した悲劇を忘れまい、という趣旨の碑が印象的でした。その向こう側にはフランス国鉄(SNCF)の6大ターミナルの1つ、パリ東駅(Paris- Gare de l’Est)があります。ロレーヌ、アルザス、ドイツ中部方面への長距離便が出るところで、あす3日(土)にはそこからTGVに乗ってシャンパーニュのランスに行く予定。パリ市内を南北に貫く幹線道路は、左岸のリュクサンブール公園付近から、サン・ミッシェル〜シャトレ〜ストラスブール・サン-ドニのインド人街を通り抜けて東駅に突き当たります。バスやタクシーで何度も通ったあたりだけど、水面から見上げるとずいぶん違った眺めですね。 水路が左折してすぐレコレ閘門(Écluses des Récollets)。4ヵ所の閘門で最も静かでいい雰囲気の中だと感じられました。閘室の水を抜いて両岸がみるみる高くなっていくのは想像以上に豪快で、静かな雰囲気と少しだけミスマッチ? レコレ水門の東側、水路に面して北ホテル(Hôtel du Nord)があります。映画はまったく知らないので訳知りでいうのをご寛恕いただきますが、マルセル・カルネ監督の同名作品(1938年)で有名になったところ(だとか)。同乗しているお客がガイドの案内を聞いて「わ〜お」みたいな反応だったので、やっぱり大きな見どころなのでしょう。映画はおろか、美術、クラシック音楽、舞台芸術、ファッション、サッカーにもほとんど関心がないのに、よくこれだけパリを愛好していられますね私。 レコレ閘門も二重閘門ですが、その下流側のゲートを越えるとすぐ小さな橋があります。グランジュ・オ・ベル回転橋(Pont tournant de la Grange aux Belles)。ちょうど閘室のゲートが開放されるタイミングで渡り口に遮断機が下り、橋げたは左岸側の端を軸にして90度回転。さきほど通ったクリメ可動橋が橋げたが上下にスライドする方式だったのに対し、こちらはコンパス式でおもしろい。歩行者はその上に架かる人道橋をいつでも渡れるようになっています。パンフによればこの回転橋は1884〜85年のものらしい。サン・マルタン運河は、19世紀にはともかく現在は産業用の価値はほとんどなく、環境資源ないし観光資源になっていますから、1日に2往復のカノラマが通り抜ける折の交通ストップなど痛くもかゆくもないでしょうね。隅田川の唯一の可動橋、勝鬨(かちどき)橋の開閉を復活させようという話がたまに出ますが(「こち亀」にもその話がありました)、大東京のど真ん中では、さすがに無理だわね。 |
||
|
つづいてデュー通り回転橋(Pont tournant de la Rue Dieu)。グランジュと原理は同じで、こちらは下り舟から見れば右・手前(西岸・上流)側に90度回転します。 ほどなくタンプル閘門(Écluses du Temple)。今回のコースで最後の閘門です。地理的には、右岸の要衝レピュブリック広場(Place de la République)のすぐ近く。レピュブリック(共和国)は、この2月にふと思い立って散歩してみたところですし、もう10年も前にパリに留学中の友人がこのへんに住んでいて訪ねたことがあったのだけど、これまた水面から見るとまったく違う印象です。隅田川だってまあそうだわねえ。 日本語パンフはトンプルと、フランス語のカタカナ転記のルールを外しているのですが、発音を素直に聞いたらそっちが近い。世界史の教科書に出てくるテンプル騎士団に由来する命名。「1128年の改善運動の間に設立されましたロードル デゥ トンプリエ(聖堂騎士団)パリ小修道院長よりその名を取っています。聖堂騎士団が報酬として受けたヨーロッパの異なった国の数多い領地の内(彼の任務は巡礼者を防止する事)高さ8Mのたくましい塔に見張られていたパリの領地(マレ地区全体)が一番豪華でした。フィリップ ル ベルは並外れてたくましい聖堂騎士団を解散させました」。え、なになに??(笑) フランス語(原文)のパンフをもらわなかったのはかえっておもしろい。改善というのはréformeかな? そうだとすれば「宗教改革」のニュアンスに近いのだけど。「異なった国」はたぶんde différents paysで「さまざまな国」か。「巡礼者を防止する」というのはどう考えてもおかしく、protéger(英語のprotect)で「保護する」が正解でしょう。テンプル騎士団はそもそも初期の十字軍が占領したエルサレムへの巡礼者を支援する目的で結成されたものでした。フィリップ・ル・ベル(Philippe le Bel)は14世紀はじめの「美麗王」フィリップ4世。アヴィニョン捕囚やらボニファティウス8世やら出てくると、元・世界史受験の人は悪夢がよみがえることでしょう(笑)。 まあ正直に申せば、閘門も4つ目となると少々飽きてきました。2つの閘室を抜けるのに1ヵ所あたり15〜20分くらいかかります。100本もの杭を打って高みを維持したあたりから何キロも進まぬあいだに舟底を20mくらい下げるのだから、時間はかかりますやね。地名を対照させるためグーグルマップをごらんになっている方もいるでしょうが、現状ではここから先が不正確です。水路が見えていてよいのはタンプル通り(Rue du Temple タンプル閘門のそば)より北側だけであり、そこから南側は全長1,854mにおよぶトンネル(Voûte)。メトロ5号線がその下を走るリシャール・ルノワール通り(Boulevard Richard Renoir)はこのトンネルの屋根を中央分離帯(グリーンベルト)にするようになっているのです。暗渠化されたというのではなくて、最初からこのような姿で建造されたものらしい。ロンドンの地下鉄(Tube)を思わせる半円状のトンネルで、天井のところどころに明かり取りの丸窓が開けられています。いまは上下の便が行き違わないようダイヤを設定してあるのでしょうが、便数が多かった時代はより慎重な操船が必要だったろうね。 |
||
|
|||
トンネル開口部(バスチーユ広場直下) |
|||
|
トンネルを抜けると、やっぱり青空。バスチーユ広場(Place de la Bastille)の真下にあたります。いうまでもなく、絶対王政のころこの付近に政治犯を収容する監獄があり、1789年7月14日にパリの民衆がそこを襲撃したことをきっかけに、フランス革命――というか西欧世界の新時代がはじまったのでした。この広場には何度も行きましたし、水路をまたぐ橋のようになったガラス張りのバスチーユ駅(メトロ1号線)も利用したことがあるので、地上側の景観はよく知っています。バスチーユ広場に立つモニュメントは大革命とは無関係で、七月革命の通称「栄光の3日間」(Trois Glorieuses)の犠牲者を悼むもの。ここには、大革命関係の遺物はなぜかまったくありません。 バスチーユからセーヌ川まではなお600mくらいあります。舟はそのまま直進し、セーヌ川と「皮1枚」は大げさだけど水門と道路で隔てられた箇所まで進みました。で、ラ・ヴィレットでしたように、窮屈そうに舳先を1回転させ、バスチーユに戻ります。この付近は舟溜まりになっていますが、アルセナル観光港(Port de Plaisance Paris-Arsenal)と称して観光向けに開発されたところのようです。カノラマのほかセーヌ川の遊覧船にもここを母港にしているものがあります。サッカーファンの人はすぐお気づきのように、アルセナルは英語のアーセナルで武器庫のこと。このへんにかつて武器庫があったらしいけど、観光港にはちょっと似つかわしくない名ではありますね。 これで全行程を終了。割引運賃€12でたっぷり2時間半も楽しめました。 おつかれさま! |
||
この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。