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3 トランプ・タワー 国連本部
ハーレム タイムズ・スクエア(+ブルックリン橋)


 五番街

 サックス・フィフス・アヴェニュー

 

 
ファスト・ファッションも大展開(本籍地は日本とスウェーデン)


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丁目のトランプ・タワーを後にして、いま来た道(五番街)を南へと引き返します。地図を見て目標を定めたら○番街○丁目という数字だけを覚えておけば難なく動けるのがマンハッタンのいいところで、だいぶ心得てきました。いまはひとまず42丁目まで南下します。途中にサックス・フィフス・アヴェニュー(Saks Fifth Avenue)という高級デパートがありました。デパートとかショッピング・センターのようなところは大好きなので、見るだけ見ておきましょう。このごろはドイツはもちろんフランスのデパートまでもカジュアル、庶民派路線に転換しつつある中で、ここはハイグレードを保っていて立派。そのぶん出店しているテナント任せということでもあるのですが、場としての演出ができればいいような気がする。もとより私が買うようなものはなく、簡単に上り下りして退散しました。


少なからぬ日本人(の若者)が抱いたニューヨークへのあこがれを、私はなぜだか一瞬ももったことがなく、そんなんだから50になるまで世界の中心たるこの町に来られなかったのでしょう。来てみればすぐ、なんですけどね。大学生だった1991年、最も元気だったころのフジテレビが深夜帯に冒険的なプログラムをたくさんやっていて、寮の隣室の東大生S君とよく観ていました。いま思えば酒も飲まずによく夜中を過ごせたものだなあ。その中に「バナナチップス・ラヴ」という連続ドラマがあり、高城剛が脚本・監督、松雪泰子の主演デビュー作でした。全編ニューヨーク・ロケというぜいたくな構成で、現地の様子や若者の風俗なども存分に描かれていたな。S君は海外志向が強く、非常に関心をもってこの作品を観ていたと思うのですが、当方はどうも弾みませんでした。私がせっせと外に出るようになったのは、S君とともに初めての海外旅行をしてから約10年後のことです。学生よ外に出でよと呼びかけている私自身にしてからが、ずいぶん遅いデビューだったなとあらためて思い出します。


 
42丁目のグランド・セントラル駅前 なつかしいタクシー・ボーイのボックスがある!

 
グランド・セントラル駅の1階コンコース


 
「ダイニング・コンコース」という名の巨大フードコート

 


フードコート階にもホームへのアプローチがある

 


42
丁目を左折して東のほうに進みます。ホテルなどはありますが基本的にオフィス街のようで、派手なお店はほとんどありません。2ブロック進むと、鉄道のグランド・セントラル駅Grand Central Station)。いまは長距離列車の運行はなく、ニューヨーク州内を走るメトロ・ノース鉄道(Metro North Railroad)のハブ・ステーションになっていますが、通勤用とは思えぬ豪華、豪奢さで、駅舎自体が歴史的建造物として世界に知られています。約1世紀前に、ライバルであるペン・ステーションへの対抗から、このデラックス駅舎を建てたのだそうです。


私淑していた故種村直樹さんの著書『アメリカ大陸乗り歩き』(中央書院、1995年)を少し引用しましょう。

良き時代の鉄道をしのばせる駅舎は、街区に埋もれているものの天井が見上げるほど高く、柱や壁のつくりも重厚で圧倒されそうである。(略)グランドセントラル駅の中央広間(コンコースと書くと片仮名ばかりになるうえ、この駅は上野同様、中央広間という表現のほうがふさわしい)から地階の地下鉄入口へ階段を下る。(略)地下鉄乗り場への通路には、ゲームコーナーやダンキンドーナツの店などが並び、庶民的な地下街になっている。(pp.15, 21)。

種村さんはニューヨークの地下鉄乗り歩きを本命にしていて、その途上でこの駅を訪れていますが、おともの若者が治安の悪さを懸念してびびりかけている場面も描かれています。ジュリアーニの登場直後で、いまとはずいぶん状況が違っていたのでしょう。この本の冒頭では「これまでにアジア、ヨーロッパ二十数か国の鉄道に乗り、シベリア鉄道の旅も体験したが、アメリカ大陸は、カナダへ足をしるしただけだった」(p.7)と述べておられます。戦時下の空襲や食糧難の記憶が強く、そのことへのこだわりを57歳までぬぐえなかった、と。フリーになってからの著作はおそらくほとんど読んでいるはずの私でも、この本はいまになってようやく読み返した程度で、内容に親しみをもてないままでした。『ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行』(徳間書店、1996年)のほうは擦り切れるほど読み返して、その後の欧州旅行にも生かしているわけなので、海外ネタを敬遠したのではなく、アメリカへの関心の低さゆえだったと思う。当方には戦時体験があるわけでもなく、なぜなのかは自分でもわかりません。ちなみに私にとって合衆国は36ヵ国目。これだけあちこちに行っていて36って、逆にすごいよね。

「中央広間」の重厚感もすごいが、階下に降りると巨大なフードコートになっていました。ワシントン・ユニオン駅のコートも立派でしたがスケールが違います。長距離列車が発着しないこととは矛盾しないのかな? この翌日の夕方にここに立ち寄って、タイ料理っぽい中華料理をテイクアウト(米語ではto go)して部屋飲みのアテにしました。ちなみに、種村さんも触れておられますが、英国式ではrailwayと表現する「鉄道」は米語ではrailroadです。


 


きょう最後の見どころは、イースト川沿いに建つ国際連合本部United Nations Headquarters)。こうなってくると、明らかに「公民の先生」としての題材探しをしているのがわかります。グランド・セントラル駅から4ブロック先、一番街に面して、公民の教科書にもしばしば登場する国連本部の建物が見えてきました。予想以上に薄っぺらく、まな板のような形状に見えます。土曜だからなのか、出入りはなくひっそりとしていました。

国際連合について、いまさらくどくどと解説することはありません。どんなに国際オンチの人でもその存在はよく知っていることでしょう。ただ「国連というものがある」以上の知識がない人は案外多く、公民の授業が国内にばかり時間をかけてしまうせいではないかと自省を込めて考えます。


国際連合欧州本部(旧国際連盟本部) スイス ジュネーヴ
2005
年にここを訪れてから「本部」まで15年近くかかってしまった・・・


国連本部の西側一帯は静かな住宅街ですが、各国の領事館なども多いため、民族料理店なども点在していました。そのうち足を運ぶ機会があるかもしれません。


 
地下鉄1号線125丁目駅
線路はブロードウェイ上を通っており、この付近だけ谷間地形のため高架橋になっている
ガードをくぐる道路は125th Street

 メトロカード

 


 
ウェスト・ハーレム地区


聖ヨゼフ教会(カトリック)


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11日(日)もマンハッタン縦走のつづき。前日とは逆に、地下鉄で北の125丁目まで一挙に進み、そこから徒歩で南下して、10日の経路につなげようと考えています。ワシントンでの3日間と前日の町歩きで両足の親指付近にマメができています。さほど重症ではないけれど、慎重に歩かないとイカレてしまう。これまで欧州各地でしていたのと同じような行動、ペースなのに足が傷んだのはどうしてなのだろう。体重が増えたわけでもなく、加齢のせいかな。

1号線の125丁目駅(125th Street)はハドソン川にほど近い高架上にありました。ニューヨークの地下鉄はパリと同じ均一運賃制で、どこまで乗っても$2.75です。いまは11駅、30分近く乗ってきたので適正価格のようにも思いますが都心部相互だとかなり割高に感じます。福岡市内の実家の最寄り駅から都心の天神まで十数分で260円だから似たようなものか。パリは1回乗車均一€1.9020198月現在の相場で 225円)、ロンドンはゾーン制で都心部相互だとなんと1回乗車£4.90!(同 632円 ただしIC式のオイスター・カードだと£2.40) ニューヨーク地下鉄はメトロカード(MetroCard Suicaのような厚みはなくテレカや図書カードくらいの薄さ)を$1で購入して偶数の利用回数分をチャージする方式です。しかもタッチではなくスワイプ(細い溝をこする)なので、まあところ変われば対応せねばならないけど、覚えることたくさん(笑)。

暑い! 


マンハッタンの真ん中にはセントラル・パークという広大な空間があり、道路や地下鉄はそこを避けて通っていますので、東京都心における皇居のように、交通の空白地帯が生じます。パークは南北4kmですのでここだけでも難所で、よってきょうはパークの少しだけ北に位置するハーレムHarlem)地区から歩きはじめることにしました。生かじりの知識でなんとなくやばそうな地区だろうとは思うのですが、このところはかなりツーリスティックになっているとも聞きますので、たぶん問題はないでしょう。日曜の午前ですしね。



 
 
ハーレム地区


ハーレムは20世紀前半に、南部などでの差別から逃れよりよい職を得るために大移動したアフリカ系アメリカ人の集住する地区となり、しばしば治安が問題になりました。なお混同している人が少なくないのですが、オスマン帝国の後宮(大奥)のほうはharemですのでそもそも別の単語です。「ハーレムに行くよ」といってみて、「いいねえ(艶)」という反応があったらharem、「やばくね?」とあったらHarlemのことを想定していることになる。

マンハッタン周辺を最初に開拓(侵略)した欧州人はオランダ人でした。ハーレムの地名も本国の都市名(Haarlem)に由来。WBCのせいで権威が失われてしまった野球の国際大会、ハーレム・ベースボール・ウィークというのはオランダのハーレム(ハールレム)での開催です。入植したオランダ人はこの地をニーウアムステルダム(Nieuw Amsterdam)と名づけますが、経済覇権をめぐるイングランドとの戦いに敗れたオランダは同植民地を譲渡、英国王チャールズ2世の弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)にちなんでニューヨークと改称されることになります。

そういえばかなり初めのほう(私が中学生くらい?)の「こち亀」で、両津巡査長がニューヨークに研修?に行くことになり、ハーレムが黒人だらけの物騒な地区として描かれていた記憶があります。1980年代の実相がたぶんそうだったのと、外野からの視線にも差別意識がかなり含まれていたのだと思う。



リバーサイド・パーク付近のハドソン川(下流方向を望む)


125丁目駅付近の高架線を走る地下鉄1号線


さきほど下車した125丁目駅のガードをくぐって、ハーレムの反対側にやってきます。ハドソン川Hudson River)左岸に沿ってリバーサイド・パーク(Riverside Park)が展開しており、ここらでハドソン川を眺めておこうと思ったのです。前述のように、マンハッタンはハドソン川とイースト川(実は海峡)にはさまれた巨大な中洲です。舗装道路も鉄道もないころは河川などの内陸水路こそが輸送の動脈であり、ハドソン川も大いに機能しました。とくに合衆国独立後の1825年に、この川の上流と五大湖のひとつエリー湖が長大な運河で結ばれたことで、五大湖周辺の開発が進み、ニューヨークは北米内陸部と欧州方面とを結ぶ水運の結節点としての重みを増しました。


正午が近づいていますが、川べりにはランニングする人、サイクリングする人がぱらぱらと見えるくらいで、非常に静寂です。対岸はニュージャージー州。この前後には橋やトンネルがないので、目の前に見えるけれどもかなり「遠いところ」であるようです。



 
(左)大学正門 (右)ライオンはコロンビア大学のシンボル

 


コロンビア大学


地下鉄駅付近に戻り、1号線の線路がその地下を貫通しているブロードウェイを南に歩くことにします。すぐに文教地区とわかるゾーンになりました。渋い茶褐色の壁色が貫禄を見せています。まずティーチャーズ・カレッジ(Teacher’s College)の看板が見えました。コロンビア大学系属の教育学の大学院大学。つづいて116丁目付近にコロンビア大学Columbia University)の本部キャンパスがあります。付近はモーニングサイド・ハイツ(Morningside Heights)と呼ぶ小高い地形になっており、コロ大のキャンパスが全体に広がっています。いわゆるアイビー・リーグをなす超名門大学ですね。


敷地内に入ってみると、卒業式などがおこなわれることでも知られる中央広場の芝生が緑あざやかで美しい。ホールや図書館などの建物に独特の風格があるのはもちろんですが、全体に余裕があり空間として広々しています。本業が大学教員のため、このごろは行く先々の都市で大学の建物やその風情に関心が向くようになりました。若いころは留学など寸分も考えなかったのだけど、いま思えばもったいなかったな。社会とか世界を見る眼が相当に鍛えられただろうと思います(国内で修行したおかげで得た何かを犠牲にした可能性もある)。ま、いずれにしても反実仮想(I wish I had 過去分詞)の話です。


 
 


このあとセントラル・パークをめざすのですが、公園自体は学生街が途切れる110丁目が北縁です。私はアッパー・ウェスト・サイドUpper West Side)と呼ぶ、パークとハドソン川にはさまれた地区をもう少し見ることにして、ひきつづきブロードウェイを南下。ここは上品な住宅街(アパート街)で、ブロードウェイ沿いにはいわゆる商店街がつづいています。生活のにおいがするね。めざす左折ポイントは96丁目なので実は大学から2km近く歩いたのではないかな。アメリカというと大型スーパーに車で乗りつけてどーん、というようなイメージもありますが、小型店舗が並ぶ普通の商店街もちゃんと生きているんですね。この日もやっぱり暑くて、ペットボトルがすぐに空になります。キヨスクで新たに1本求めると$1ジャスト。ここまでで最安でした。都心部のキヨスクだと$1.5、セントラル・パーク内の移動販売車では$2が標準のようです。お水に関しては欧州とさほど相場の違いはありません。ただ、炭酸のない普通の水はbottled waterっていうんですね。ワシントンで購入した際にstill waterと頼んだら変な顔をされ、「ああ、ボトルド・ウォーターですね」といいなおされました。スティル・ウォーターなる表現も欧州を歩くうちに心得たもので、語彙は現地で増やすということが多くなりました。ただstillは「静かな」という意味で「炭酸がやかましくない」ということだと思うけど、sparklingだってボトルに詰めればbottledなんじゃないの?


 

 
ジャックリーン池は思った以上にでかい!

 




予定どおり96丁目を左折、東に向かって進み、セントラル・パークCentral Park)の西側に出ました。前述したとおり北縁が110丁目、南縁は59丁目で、南北方向に4kmの巨大な長方形です。西欧の都市にもしばしばみられる都市内緑地で、都市住民にとっての「酸素供給源」なんていわれることもあります。初めてここを訪れてみて、意外だったことがいくつか。(1)ビル群を借景にした広大な芝生の絵ばかり見ていたのだけど、それは最南部の限られたエリアだった。内部は山あり谷あり、池あり林ありでバラエティに富んでいます。(2)自転車専用道が園内全域を一周しており、相当な数の自転車がぐるぐる。(3)ベンチがたくさん。日陰もたくさん。(4)そして、ニューヨーク自体への関心が薄かったため関連情報を仕入れようとしなかったのかもしれないが、自然豊かなセントラル・パークって「人工天然」なんですね。19世紀半ばに市当局が用地を囲い込み、アイルランド系などの住民を追い出して造成したものだそうです。

ハドソン河畔から2時間くらい歩きっぱなしだったので、公園に入ったところで小休止。96丁目付近から入園しましたので、タテ方向でいえば全長の4分の3ほどを南に向かって歩くことになります。結構な距離です。すぐにジャックリーン池(Jacqueline Kennedy Onassis Reservoir)と呼ぶ大きな池。JFKの奥さん、ジャックリーン・ケネディ・オナシス(オナシスは再婚したギリシアの海運王の姓)がこの周囲をランニングしていたから、というずいぶん属人的なネーミングです。水面に映る町並がまた都会的でクール!


人工であろうと、真夏の大都会にあってこれだけ酸素と日陰をもたらしてくれる緑地はありがたく、足取りもゆっくりになります。ジャックリーン池の南側に進むと、人の数が数倍に増えました。市民はお気に入りの場所とかそれぞれもっているんでしょうかね。私もこのごろはお花見のときにしか「公園」に行かなくなっていて、ゆとりを忘れつつあるような気がします。


で、ようやく「ビル群を借景にした広大な芝生」に出ました。ここはシープ・メドウ(Sheep Meadow 「羊の牧草地」)と呼ぶ区画で、かつて本当に羊が放牧されていたそうです。たぶん323度くらいあると思うので、日光浴なんてしたら干上がってしまうように思うのだけど、数百人の老若男女が出てごろんと転がっています。パークには、もちろん市民だけでなく私のような外国人もたくさんいて、遊歩道を進むと多種多様な言語が耳に入ってきます。


 

 



タイムズ・スクエアに戻ってきた


たいていのヴィジターであれば、都心方面から北に進んで、セントラル・パークの南入口から入園するのだろうと思いますが、私は逆に裏口入園?して表門までやってきました。公園内だけで3kmくらいは歩いたはずで、リフレッシュしたのか疲労したのかは不明。これでもまだまだ見残しているブロックが多いので、次に訪れる機会があれば半日まるまるパークとか、そんな感じでもいいかもしれません。

パークの表門にあたる南西のコーナーは、コランバス・サークル(Columbus Circle)に面しています。Circleというのは円形交差点のことで、英国ではCircusといいます。コランバスは日本語で訛ってコロンブスと呼んでいる船乗りのこと。ここが59丁目ですのでかなり南に来ました。さきほどまでウェストサイドで通行していたブロードウェイが南南東に向きを変え、ここで八番街(パークの西縁をなぞる道路)と斜めクロスします。私もブロードウェイに入って進みましょう。しばらくビジネス街ですが、54丁目あたりから左右に大小の劇場の看板が現れます。いわゆる「ブロードウェイ」にさしかかっているわけです。歩行者の数がけた違いに多いブロックに入ってきました。ブロードウェイが七番街と斜めに交差する47丁目以南がタイムズ・スクエア。1日半かけて戻ってきました(けさ地下鉄に乗ったのはここからだったのですが)。

 


 

 




これで今回のマンハッタン縦走は予定した範囲を完了。見るべきものはだいたいみたのですが、あす朝にはニューアーク・リバティ国際空港から帰国便に乗らなければならず、滞在中マンハッタン島を一歩も出ないというのもおもしろくないし、マンハッタンを外側から見るという絵もほしい。そこで、ニューヨークといって出てくる絵としてもう1つメジャーな、ブルックリン橋Brooklyn Bridge)を見上げる構図を見に行こう。ガイドブックにはとくにそのことは記されていないようですが、地図を見ると地下鉄2号線でブルックリン側(ロードアイランド島西端)のクラーク・ストリート駅(Clark Street)で降りれば歩いていけそうです。タイムズ・スクエアから2号線に乗り、前日歩きはじめのあたり、ウォール街付近からイースト川の地下を通って、ブルックリンへ。クラーク・ストリート駅は海底トンネル直後ということもあって相当深いらしく、ホームから改札口へはエレベータでかなり上昇しました。住宅街の中を15分くらい歩くと、視界が開けて、吊り橋のダイナミックな姿が! ブルックリン橋は全長1825m1883年に開通しました。秋元康はこのあたりのイースト川を思い浮かべながら「川の流れのように」を作詞したらしい。大都会のいい景色を見ながら変なやつのことを思い出してしまったところで、今回のツアーは本当に完了。バイバイNY



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